父の葬儀が終わってから、まだ三日も経っていない夜中の二時過ぎのことでした。私は棺の隣に敷いた布団の中でうとうとしていましたが、コツ、と小さな音がしました。最初は何かが畳に落ちたのだと思いました。しかし、音はもう一度、コツ、とはっきり聞こえました。
音のする方を見ると、部屋の中央に黒塗りの木の棺が置かれています。その中には、三日前に死んだ父が入っていました。息を止めていると、三度目の音がした瞬間、弟のレンも飛び起きました。
「兄さん、今の聞いた?」
私は答えられませんでした。二人とも棺を見つめていると、コツコツコツ、今度は三回。一定の間隔で、まるで誰かが爪の先で内側から木を叩いているような音でした。
母は仏壇の前で固まり、祖母は口元を押さえて何かを呟いています。そして、部屋の隅に座っていた見知らぬ老人だけが、まったく動きませんでした。古びた茶色の装い、痩せた体、顔色は悪く、髪は肩まで伸びている。いつからそこにいたのか、私は覚えていません。
老人は棺を見たまま、低い声で言いました。
「数えている」
「何をですか?」
老人はゆっくり顔を上げました。その目は妙に暗かった。
「この家に、男があと何人いるのかを」
背中に冷たい汗が流れました。
「誰が数えてるんです?」
老人は答えず、棺の方を見たまま小さく笑いました。そして立ち上がると、廊下の暗がりへ消えていきました。慌てて追いかけましたが、廊下には誰もいません。玄関の鍵も閉まったまま、外へ出た形跡もありませんでした。
その夜、私はほとんど眠れませんでした。
翌朝、母は何事もなかったように朝食を作っていました。レンも昨夜のことを口にしません。私も同じでした。あんな馬鹿げた話をして、家族に笑われるのが怖かったのです。
朝八時を過ぎた頃、祖母が突然私の腕を掴みました。
「昨日の人、誰だと思ってるんだい?」
祖母は私の顔を見ずに、震える声で言いました。
「正信さんだよ」
「誰それ?」
祖母はそこで初めて私を見ました。顔から血の気が引いていました。
「三十年前に死んだ、父さんの兄こだよ」
私は笑おうとしました。冗談だと思ったからです。しかし、祖母は笑いませんでした。そして、私の耳元でこう言いました。
「あの人は、とっくに死んでる」
その瞬間、仏間の奥からコツ、また音がしました。振り向くより先に、もう一度コツ。そして三度目、コツ。
私はその時、まだ知りませんでした。父の死は始まりに過ぎなかったことを。そして四十九日後、弟のレンが死んだ夜、あの音が初めて「二」と数えることになるのを。
父が亡くなったのは六月の終わりでした。梅雨が明けきらない山合いの町で、朝から細い雨が降っていました。父は八十一歳で、大きな病気をしていたわけではありません。前の日まで普通に食事をし、夕方には縁側に座って庭を眺めながら酒を飲んでいた。「年を取ると、庭ばかり見てるようになるな」と笑っていたのを覚えています。だから、突然亡くなったと聞かされた時も、最初は老衰か心臓発作か、その程度だろうと思っていました。
父の葬儀は古い実家で行いました。私たち最上家はこの地域ではそれなりに古い家で、山の斜面に立つ大きな木造です。仏間の隣には先祖代々の写真が並ぶ小さな部屋があります。子供の頃はその家が好きでしたが、大人になってからはほとんど戻らなくなりました。理由は、父と私の性格が合わなかったからです。
父は昔から土地に執着していました。特に家から少し離れた場所にある小高い丘だけは、誰にも売ろうとしなかった。そこは昔から「バサン」と呼ばれていました。正式な地名ではなく、村の人たちがそう呼んでいただけです。父はその場所について何も話したがりませんでした。十年ほど前、近くに工場を建てる計画が持ち上がった時も、父は珍しく強く反対しました。「そこだけは触るな」とだけ言っていました。
ところが、父が亡くなる半年前、私はその土地を売ることにしました。銀行から借りていた金を返すためです。買い手は資材会社で、丘を削って平らにし、倉庫を建てる計画だと言っていました。私は父なら反対するだろうと思いました。でも、もう父はいません。そして、家を守るために必要な金だと自分に言い聞かせました。
葬儀の三日目、親戚が帰り始めた頃、私は一人の老人に声をかけられました。
「最上さんのところの息子さんだね」
振り返ると、見覚えのない老人でした。七十歳くらいでしょうか。杖をつき、濃い色の帽子をかぶっていました。
「ええ、父の葬儀なんです」
「あの丘、売るのかい?」
胸の奥が少しだけざわつきました。
「その予定です」
老人は黙って私の顔を見ました。それから、まるで独り言のように呟きました。
「また掘り返すのか」
「え?」
老人はそれ以上何も言わず、「昔からあそこは触っちゃいけない場所だったんだよ」とだけ言いました。私は少し苛立ちました。葬式の最中にそんな余計なことを聞きたくなかった。
「今はもう、そんな時代じゃないですよ」
そう言うと、老人は苦笑しました。
「時代は関係ないよ」
そして、立ち去る前に一度だけ振り返りました。
「墓は、掘り返されたことを忘れないからな」
その言葉が、なぜか耳に残りました。
その日の夕方、私は母にその土地を売ったことを話しました。母はしばらく何も言いませんでした。やがて茶碗を置いて、小さく首を振りました。
「やめなさい」
「何を?」
「あそこを売るのを。もう契約したよ」
母の顔色が変わりました。
「あの場所だけはダメだよ」
「なんで?」
母は答えません。私は笑ってごまかしました。
「父さんも、あそこだけは大げさに考えてたからな」
すると、母がぽつりと言いました。
「大げさじゃないよ」
その声だけは妙に震えていました。そして、母は私から目をそらして言いました。
「あの丘の下には、まだ返していないものがある」
「返してないもの?」
母は黙りました。何度聞き返しても、それ以上は話そうとしませんでした。
その夜、私は一人で仏間の前に座っていました。父の遺影の前には、まだ新しい線香が立っています。煙がまっすぐ上に伸びていました。その時でした。仏壇の横に置かれた父の古い鍵が、誰にも触られていないのに、かたん、と揺れました。そして、そのすぐ後、暗い家のどこかでコツ、またあの音がしました。今度は棺の中ではありません。音は家の外、あの丘の方向から聞こえました。コツ。
雨はいつの間にか止んでいました。その静かな夜に、もう一度コツ。まるで誰かが土の下からこちらへ合図を送っているようでした。
父の四十九日を迎えるまで、あと三十六日。私はできるだけ普段通りの生活を送ろうとしていました。仕事にも戻りました。業者との打ち合わせも続けました。母だけが以前とは別人のようになっていて、夜になると早くから仏間の明かりも消そうとしません。そして、あの丘の話をすると、必ず口を閉ざしました。
ある晩、弟のレンが私の部屋に来ました。
「兄さん、最近、夜中に変な音を聞かない?」
「どんな音?」
レンは答える前に、廊下の方を見ました。
「叩く音」
「どこから?」
「最初は窓だと思った。でも違う。仏間から聞こえる」
冗談だと言おうとしましたが、レンの顔を見ると笑えませんでした。
「何回?」
「いつも二回」
胸の奥が冷たくなるのを感じました。その夜、二人で仏間を見に行きました。父の遺影、位牌、線香立て、何も変わっていません。ただ、父の写真だけが少し傾いていました。直そうと手を伸ばした時、コツ。二人とも動きを止めました。音は仏壇の奥からでした。コツ、今度はさっきより近い。
懐中電灯を手に取り、仏壇の横へ回ると、そこには古い引き戸がありました。子供の頃から、ほとんど開けたことのない戸です。レンが小声で言いました。
「開ける?」
私は返事をしませんでした。なぜか開けてはいけない気がしたのです。その時、戸の向こうから変な音が聞こえました。ずる、と何かを引きずるような音。レンの顔から血の気が引きました。
「兄さん、中に誰かいる?」
私はゆっくりと戸に手をかけ、開けました。中は暗い物置きでした。古い布団、壊れた道具、木箱、そして奥の壁にかけられた一枚の写真。写真には、父と見知らぬ若い男が映っていました。二人は並んで立っています。若い男は妙に痩せていました。そして、その顔を見た瞬間、私は言葉を失いました。昨夜、庭にいた老人とは違います。けれど、目だけが同じでした。黒く、深く、こちらを見ている目。
写真を手に取りました。
「この人、誰?」
その時、背後から母の声がしました。
「触らないで」
振り返ると、母は廊下に立っていました。顔面は真っ青です。
「それをどこで見つけたの?」
「ここにあった」
母は写真を見るなり震え始め、私たちの手から奪い取ると胸に抱えました。
「これは、処分しなきゃいけない」
「母さん、誰なんだ?」
母は答えません。
「父さんの親戚?」
母は首を横に振りました。
「じゃあ、誰なんだよ」
しばらく沈黙した後、母は小さな声で言いました。
「正信さん」
その名前を聞いた瞬間、家のどこかでまた音がしました。コツ。母が息を飲みます。そしてコツ。三人とも黙り込みました。母は写真を抱えたまま、震える声で言いました。
「この名前をもう、口にしないで」
「どうして?」
母は私を見ました。その目には怯えだけではありませんでした。まるで三十年前の何かを見ているような目でした。
「正信さんは、もうこの世にいないから」
その夜、私は初めて気づきました。あの話、父が売りたがらなかった理由、母が怯える理由、そしてあの男が現れた理由、全てがどこかで繋がっている。
本当に怖かったのは、その翌朝でした。工事を始めるため業者が現地を下見したところ、土の中から古い陶器の破片が見つかったのです。そして、その破片のすぐ横に、人間のものと思われる一本の白い骨が埋まっていました。
骨が見つかった翌朝、業者たちは誰も近づこうとしませんでした。地面には崩れた古い陶器の破片、その横に白く変色した骨。問題は、その骨が一つではなかったことです。作業員が慎重に周囲の土を払うと、さらに小さな骨がいくつも出てきました。
現場監督が小さく言いました。
「これ、警察に連絡した方がいいんじゃないですか?」
頷きましたが、その時、丘の上から妙な音がしました。コツ。私たちは一斉に顔を上げました。誰も動いていません。風もありません。それでもコツ、音は土の中から聞こえました。作業員の一人が後ずさりしました。
「今の、聞きました」
またなりました。コツコツ。今度は二回。まるで誰かが地面の下からこちらへ知らせるように叩いている。
その瞬間、丘の反対側から声が聞こえました。振り返ると、昨日の老人が立っていました。帽子を目深にかぶり、杖をついています。
「ここは昔から墓地だったんですか?」
老人の手が震えました。
「墓地というより、な。ある家の最後の場所だった」
「最後の場所?」
「その家には、もう誰もいない」
「どういう意味です?」
老人は丘の奥を指さしました。そこには雑草に埋もれた古い石が立っていました。
「昔ここに一つの墓があった。一族の墓だ。だが、最上の家が掘り返した」
「さっきの家、か」
老人は頷きました。
「三十年前だ」
その瞬間、母の顔を思い出しました。あの写真の若い男、正信という名前、そして何も話したがらない母。
「その時、何があったんですか?」
老人は長い沈黙の後、言いました。
「金が出た」
「金?」
「古い金貨だ。埋葬された人間のそばに置かれていたものらしい。それを取った後、墓を全部壊した」
「誰が?」
老人は私を見て、はっきりと言いました。
「お前の祖父と、お前の父親だ」
頭の中が真っ白になりました。父は生前、こんな話を一度もしたことがありません。
「反対した男が一人いた。正信だ」
「知っているのか?」
私は答えられませんでした。その時、背後でまた音がしました。コツ。振り返ると、土の中に埋まっていた骨のそばから、一滴の水が滲み出ていました。雨は降っていないのに、黒い土の表面がゆっくり濡れていく。そして、その水からかすかに生臭い匂いが立ち上りました。まるで、長い間閉じ込められていた古い井戸の底のような匂いでした。
老人が青ざめました。
「まだいる」
「何がです?」
老人は私を見ないまま言いました。
「正信だ」
その瞬間、土の中から今までとは違う音がしました。コツ、コツ、コツ、三回。そして、どこからともなく低い声が聞こえました。
「一人」
作業員が悲鳴をあげました。私は動けませんでした。土の中から聞こえたその声は、確かに人の声でした。老人が震える声で言いました。
「お前も、もう帰れ」
「どうして?」
老人は私を見ました。その目には怒りと恐怖が入り混じっていました。
「次に数えられるのは、お前だ」
父の葬儀から二週間ほど経った頃でした。あの丘で骨が見つかってから工事は一旦中止になり、警察も来ましたが、何十年も土の中に埋まっていたものだったため、すぐに事件として扱われることはありませんでした。「古い墓でしょう」とだけ言われました。それでも、私はあの老人の言葉が頭から離れませんでした。次に数えられるのは、お前だ。
私は母に何度も聞きました。
「正信って、誰なんだ?」
母は何も答えません。ただ、仏壇の前に座る時間だけが増えていきました。夜になると線香を一本、朝になるとまた一本。以前はそんなことをしなかった母が、まるで誰かに謝るように手を合わせていました。
ある夜、私は寝室へ向かう途中、仏間の前で足を止めました。母が誰かと話していたからです。小さな声でした。
「ごめんなさい」
襖の隙間から中を覗くと、母は一人で座っています。けれど、向かい側に誰かがいるような姿勢でした。
「もう、あの子には何もさせないで。高壱は何も知らないんです」
返事はありません。母はしばらく黙っていました。そして、まるで誰かに何かを約束するように深く頭を下げました。私は襖を開けました。
「母さん」
母が振り返りました。顔が真っ青です。
「誰と話してた?」
「誰とも」
「嘘だろう?」
母は答えません。私は仏間に入って周囲を見渡しました。誰もいません。ただ、畳の上に一枚の写真が落ちていました。先日見つけた、若い父と正信の写真です。写真を拾うと、裏側に何か書いてあることに気づきました。古い墨の文字でした。日付。そしてその下に数字が三つ。一、二、三。
「これ、何?」
母は写真を見ると、膝から崩れ落ちました。
「触らないで」
「母さん、これ何なんだよ」
母は答えません。その時でした。コツ、仏壇の奥から音がしました。反射的に振り返ると、コツ、母が両手で耳を塞ぎます。
「やめて」
コツ、三回目の音がした瞬間、仏壇のローソクの火が一斉に細くなりました。部屋の温度が急に下がり、吐く息が白く見えます。そのまま仏壇の前へ近づくと、父の位牌の横に置かれていた小さな木箱が目に入りました。鍵はかかっていません。蓋を開けると、中には古びた金貨が何枚も入っていました。そして、その下に小さな紙切れがあります。紙にはこう書かれていました。
「墓を戻せ」
紙を握りしめると、背後から母の声がしました。振り返ると、母は泣いていました。
「それを見たなら、もう隠せないね」
「正信は、何をされたんだ」
母は答えようとして、何度も口を開きました。しかし、声が出ません。やがて、ぽつりと言いました。
「三十年前、あの丘には最上の墓じゃない墓があった。正信さんの家の墓だよ。代々がずっと守ってきた墓だった。でも、その家にはもう子供がいなかった。つまり、最後の墓だった」
その瞬間、家の外から犬の遠吠えが聞こえました。一匹ではありません。遠くの家、その向こう、また別の家。夜の村全体から、犬の声が次々に響きました。母は顔を上げました。
「また始まった」
「何が?」
母は答えません。ただ写真を見つめながら、震える声で言いました。
「今夜から、数字を気にしなさい」
「数字?」
母は頷きました。そして、私の耳元で囁きました。
「一人目は、お父さんだった」
その瞬間、仏壇の奥からはっきりと声がしました。低く、乾いた男の声で。
「二人目は、まだだ」
振り返っても誰もいません。けれど、畳の上には濡れた足跡がありました。仏壇から玄関へ。玄関から私の部屋へ。そこで足跡は途切れていました。
その夜から、私は眠れなくなりました。自分の部屋へ続いていたあの濡れた足跡。朝になれば乾いて消えているだろうと思っていましたが、翌朝になっても畳の上には薄く黒い跡が残っていました。玄関から仏間を通り、私の部屋まで。まるで誰かが夜中に入ってきて、私のところまで歩いてきたような跡でした。
雑巾で拭きましたが、一度では消えませんでした。二度、三度と拭いて、ようやく跡が見えなくなりました。その時です。廊下の向こうから母の声がしました。
「高壱、今夜、家を出ないで」
「どうして?」
母はしばらく黙ってから言いました。
「今日は、お父さんが亡くなってから二十一日目だから」
その意味が分かりませんでしたが、その日の昼過ぎ、レンから電話がかかってきました。
「兄さん、今夜ちょっと帰るわ」
「どうした?」
「仕事が早く終わった。母さんにも言ってある」
一瞬、嫌な予感がしました。
「今日は、帰ってくるな」
「なんで?」
自分でも理由を説明できませんでした。レンは笑いました。
「兄さん、葬式以来変だよ。正信っていう人のことばっかり気にしてるし」
無言になりました。
「その名前、どこで聞いた?」
「母さんからだよ。三十年前に死んだ親戚なんだろ?」
「そうだ。でも、」
レンの声が少し低くなりました。
「俺、写真の人を見たことがある気がする」
「どこで?」
「葬式の日。父さんの葬式の日、仏間の外に立ってた老人、いたろ。俺、あの人を見て、昔どこかで会った気がしたんだ」
その瞬間、電話の向こうでレンが黙りました。
「でも、おかしいんだよ」
「何が?」
「その人、俺が子供の頃に見た写真の中にいた」
「どの写真?」
「父さんが若かった頃の写真」
それ以上、レンは何も言いませんでした。電話が突然切れたからです。すぐに掛け直しました。呼び出し音がなります。一回、二回、三回、四回目でようやく出ました。でも、声はしませんでした。
「レン?」
しばらく無言が続いた後、電話の向こうからコツ、小さな音が聞こえました。手から携帯が滑りそうになりました。
「レン!」
もう一度、コツ。そして三回、コツ。その後、レンの声ではない声が聞こえました。
「一人」
息を飲みました。電話を切ろうとした瞬間、
「兄さん」
レンの声でした。
「兄さん、今、後ろに誰かいる」
ゆっくり振り返りました。誰もいません。窓、机、ベッド、全部いつも通りです。
「何言ってるんだよ」
「違う」
レンの声は震えていました。
「俺の後ろにも、今誰かいる」
凍りつきました。
「レン、どこにいる?」
「車の中」
「鍵をかけろ」
「もうかけてる」
その瞬間、電話の向こうで車の窓を叩く音がしました。コツ。レンが息を飲みます。コツ。
「兄さん」
コツ。三度目。
「動くな」
レンが小さく呟きました。
「外に誰かいる」
次の瞬間、電話の向こうから短い悲鳴が聞こえました。
「兄さん!」
そこで通話が切れました。
家を飛び出し、車を走らせてレンがいるはずの場所へ向かいました。途中、母から電話がかかってきました。
「行かないで!」
「レンが危ない」
「違う!」
母の叫び声が車内に響きました。
「今日はまだ、二十一日目なの!」
「だから何なんだよ!」
母は泣きながら言いました。
「あの子を連れてきたら、数えるのが早くなる!」
その言葉を聞いた瞬間、初めて私は理解しました。父が死んだ。そして正信という男が現れた。さらにあの音が鳴った。これは偶然ではない。誰かが、私たちの家の男たちを順番に選んでいる。
その夜、レンの車は道端に止まっていました。エンジンはかかったまま、ドアも開いていましたが、レンの姿はありませんでした。運転席のシートには、濡れた手形が一つだけ残っていました。その手形の横に、指で書いたような数字がありました。「二」。そして、車の後部座席から、コツ、聞き慣れた音がもう一度だけなりました。
弟のレンが消えた翌朝、警察が来て現場を確認しました。車は路肩に止まったまま、鍵も財布も残っていました。車内には争った形跡がほとんどありません。ただ、後部座席の足元だけが濡れていました。その水は泥水のように茶色く濁っていました。警察官は「山の水でも入ったんでしょう」と淡々と言いました。私は何も言えませんでした。後部座席に残っていた「二」という数字を見たからです。指で書かれたような細い線は、何度拭いても消えませんでした。
その日の午後、母が私を仏間へ呼びました。
「もう、全部話すよ」
母は父の位牌の前に座っていました。顔はひどく疲れています。
「レンのことも、正信さんのことも」
私は母の向かいに座りました。しばらく沈黙が続いた後、母が口を開きました。
「三十年前、この家は今ほど大きくなかった。父さんもまだ四十代だった。あの丘は元々、最上の土地じゃなかった。昔からあそこには古い墓があったんだよ。そこに眠っていたのは、一つの家の人たちでした。その家にはもう子供がいなかった。長い年月をかけて一人ずつ亡くなり、最後に残った墓だけが丘の上にあった。その人たちは、誰にも迷惑をかけずに暮らしていた。でも、父さんとおじいちゃんはあの土地を欲しがった。理由は単純だった。土地として価値があったから」
母は続けました。
「そして、ある日、父さんが知り合いの老人に、墓の下に古い財物が眠っていると言われた。二人はそれを信じた。最初はほんの少し掘るだけのつもりだった。でも、土の中から古い陶器が出た。その中には古い金貨と何枚かの金が入っていた。それから二人は止まらなくなった。石を動かし、土を掘り返し、骨を拾って別の場所へ捨てた。中には川へ流されたものもあったという。全部、金のためだった」
父の遺影を見ました。あの父が、そんなことを。信じられませんでした。
「でも、一人だけ反対した人がいた。正信さんだよ。父さんの従兄。当時まだ二十代だった男。正信は二人を止めようとした。『これは人の墓だ。死んだ人間のものを奪うな』と、何度も言ったらしい。父さんは聞かなかった。祖父も聞かなかった。やがて二人は正信と口論するようになった。そして、ある夜、三人が丘で激しく争った。母はその後のことを詳しくは見ていなかった。けれど、翌朝、正信が丘の裏にある浅い川で死んでいるのが見つかった。警察には、足を滑らせて川に落ちたって話した」
母の声が震えました。
「でも、あの川は大人なら胸にも届かないくらい浅い」
「本当のことを知っていたのは、父さんとおじいちゃん、そして私」
「母さんは見たの?」
母は首を振りました。
「見てはいない。でも、父さんが帰ってきた時の顔を見た。それで分かったの」
「正信さんは、殺されたんだよ」
私は立ち上がりました。その瞬間、仏壇の奥からかすかな音がしました。コツ。母が目を閉じます。コツ。二人とも動きません。そして三度目の音、コツ。
母が震える声で言いました。
「これだけじゃない。正信さんの遺体を見つけた後、父さんたちはあの人を寺に預けた。住職に事情を話したわけではない。ただ、正信の死を自分たちの罪としてではなく、強い怨念を持った死者として扱った。そして、供養と封じの儀式を頼んだ。それから三十年間、何も起きなかった」
「じゃあ、なぜ今なんだ?」
母は答えません。代わりに私の顔をまっすぐ見ました。
「あの丘を掘ったのは、誰?」
黙りました。私です。父が死んだから。金が必要だったから。もう誰も止める人はいないと思ったから。母は目を伏せました。
「封じていたものを、あなたが開けたんだよ」
その瞬間、仏間の外からコツ、今度は一回だけ。でも、その音は遠くありませんでした。私の背後、耳のすぐ近くで、確かになったのです。
母の言葉が頭から離れませんでした。封じていたものを、あなたが開けた。その意味をまだ完全には理解できていませんでした。ただ一つだけはっきりしていることがありました。弟のレンは今どこかにいる。そして、あの「二」という数字は、レンを指している。
警察は捜索を続けていましたが、手がかりは何もありませんでした。翌日の夕方、家の前に一台の軽トラックが止まりました。降りてきたのは、昨日現場にいた作業員の一人でした。彼は私を見るなり帽子を取って頭を下げました。
「最上さん、昨日のことなんですが。これ、丘の穴の近くに落ちてました」
彼が差し出したのは、古びた布切れでした。濃い茶色に変色しています。受け取ろうとすると、彼が手を引きました。
「いや、直接触らない方がいいと思います」
「どうして?」
彼は顔を曇らせました。
「昨日これを拾った奴が、急に具合が悪くなったんです。胸を押さえて、ずっと何かを数えてました。一、二、三、って」
背中が冷たくなりました。
「その人は?」
「昨日の夜から、病院にいます」
彼はそれだけ言って帰って行きました。布切れを見つめると、端に小さな刺繍がありました。古い家紋のような模様です。母に見せると、母は一目見ただけで顔をこわばらせました。
「これ、知ってるの?」
母は答えません。布を私の手から奪い取り、すぐに仏壇の下へ隠しました。
「母さん、もうこの家から離れなさい」
「何?」
「今すぐ、ホテルでもいい。ここに止まったらダメだ」
「レンを置いていけって言うのか」
母は目を伏せました。その時、玄関の方から足音が聞こえました。誰かが歩いて入ってきます。ゆっくり、一歩、また一歩。振り返ると、廊下の先に、あの男が立っていました。三十年前に死んだという、正信。見覚えのある古びた服、痩せた体、濡れたように黒い髪。そして、こちらを見つめる目。
母の体が震えました。
「正信さん」
男は答えません。ただ私を見ると、少しだけ首を傾げました。
「高壱」
その声は、昨日聞いたものと同じでした。
「レンをどこへ連れて行った?」
一歩前に出ました。男は微笑みました。
「連れて行ってはいない」
「じゃあ、どこにいる?」
「順番を待っている」
その言葉を聞いた瞬間、母が叫びました。
「お願いです!もうやめてください!」
正信は母を見ました。
「お前も、覚えているだろう」
母は何も言えません。正信はゆっくり歩き、仏壇の前まで来ると、父の位牌を見上げました。
「武夫は、最後まで何も返そうとしなかった」
「父さんが、何をした?」
「自分に聞けばいい」
「死んだ人間に聞けるわけないだろう」
正信は私を見ました。
「そうだな」
一瞬だけ、その顔から表情が消えました。そして、低い声で言いました。
「だから、私はお前たちに聞かせている」
仏壇のローソクの火がふっと細くなりました。空気が冷たくなります。正信は私の耳元に顔を近づけました。
「墓の下に、まだ残っている。返されていないものが」
「全部返せば、レンは戻るのか?」
正信は答えません。ただ、私の右肩を見つめています。
「お前の父は、一つ返さなかった」
「何を?」
男は私の肩越しに、暗い廊下を見ました。そこには誰もいません。それなのに、正信は誰かが立っているように頭を下げました。
「人だ」
「人?」
「墓を掘った夜、止めに来た男が一人いた」
母が泣き声を漏らしました。ゆっくり母を見ると、母は目を閉じていました。
「その人も、父さんたちが殺したの?」
母は答えません。代わりに正信が言いました。
「違う」
「では、誰です?」
正信はしばらく黙っていました。そして言いました。
「それを知った時、お前はもっと早く理解するだろう。なぜ、音がそこで聞こえるのかを」
その瞬間、コツ。反射的に胸を抑えました。音は外からではありません。私の体の中から聞こえたのです。コツ、もう一度。正信は初めて満足そうに笑いました。
「二人目は、終わった」
凍りつきました。
「レンは?」
正信は答えません。ただ仏壇の横を通り過ぎ、暗い廊下へ歩いていきました。追いかけましたが、廊下の先には誰もいません。玄関の戸は閉まっています。外にも足跡はありませんでした。ただ、仏壇の前に戻ると、父の位牌の隣に見覚えのない古い写真が一枚置かれていました。そこには三十年前の父と祖父、そして正信の後ろに立つ、もう一人の男が映っていました。その男の顔を見た瞬間、母が小さく悲鳴をあげました。
「この人は、知られてはいけなかったのに」
写真の裏には、一行だけ書かれていました。
「三人目は、もう決まっている」
写真の裏に書かれていたその一文を見てから、私はしばらく動けませんでした。母は写真を見たまま、唇を震わせています。
「母さん、この人は誰なんだ?」
返事がありません。写真を裏返すと、三十年前の父と祖父、その後ろに立つ見知らぬ男。男は正信よりもさらに若く、こちらを見ていました。そして、その足元には小さな子供が映っていました。目を細めました。
「この子」
母が慌てて写真を奪い取りました。
「見ないで」
「母さん、誰なんだよ」
「もう忘れて」
「忘れられるわけないだろう」
声を荒げた瞬間、仏間の照明が一度だけ明滅しました。母が息を飲みます。その直後、家の奥からコツ、一回。振り向きました。コツ、二回。母が両手で胸元を押さえました。
「やめて」
そして三回目、コツ。音が鳴った直後、母の体が大きく揺れました。
「母さん!」
母は返事をしません。顔をあげたまま、まっすぐ天井を見ています。肩を掴んだ瞬間、母が突然私の腕を強く握りました。
「三人目は、もう来てる」
その言葉を聞いた直後、玄関の引き戸がガラッと開きました。誰も触れていないのに、冷たい風が家の中へ流れ込みます。そして、玄関の土間に濡れた足跡が一つ、また一つ、ゆっくり家の中へ向かって伸びてきました。息を止めました。足跡は廊下を進み、仏間へ向かっています。そこで突然止まりました。しかし、誰もいない。母が震える声で言いました。
「来ないで」
足跡は、まるで誰かが立っている場所を示すように、仏壇の前で途切れていました。そして、コツ、音が鳴りました。今度は床ではありません。壁の向こうです。コツ。その音は少しずつ近づいてきました。壁、襖、仏壇。そして、私の胸。反射的に胸を抑えると、心臓が一度大きく跳ねました。その直後、コツ、今度は明らかに胸の内側から聞こえました。
「兄さん」
弟の声でした。凍りつきました。
「レン?」
返事はありません。もう一度。
「レン!」
すると、胸の奥からコツ、返事のように音がしました。母が泣き出しました。
「違う」
「何が違うんだ?」
「それは、レンじゃない」
「じゃあ、誰なんだ?」
母は私の腕を掴みました。
「もうやめて。もう誰も連れて行かないで」
その時でした。玄関の外から、低い男の声が聞こえました。
「三人目だ」
振り返ると、門の向こうにあの老人が立っていました。正信です。暗い中に立ち、こちらを見ています。
「正信!」
玄関へ駆け寄りましたが、扉を開けた瞬間、誰もいませんでした。地面には濡れた足跡だけが残っています。その足跡は門の外へ続いていました。追いかけようとした時、背後から母の叫び声がしました。
「高壱!」
振り返ると、母が仏壇の前に倒れ込んでいました。駆け戻ると、母は胸を押さえ、苦しそうに息をしています。
「母さん、大丈夫か?」
母は震える手で私の服を掴みました。
「三人目は、あなたじゃない。最初から、順番が違うの」
「どういうことだ?」
母は息を切らしながら続けました。
「お父さんが一人目、レンが二人目。そして、三人目は……」
母の視線が、私の背後へ向きました。ゆっくり振り返ると、そこには誰もいない廊下。ただ、床に新しい足跡がありました。小さい。大人のものではありません。子供の足跡でした。それは仏間から、私の部屋へ向かっています。動けませんでした。母がかすれた声で言いました。
「あの子を、呼び戻して」
「あの子って、誰だよ」
「あなたの、息子」
その瞬間、気づきました。息子のユウトは、今私たちの家から遠く離れた叔父の家に預けている。それなのに、私の部屋の前には子供の濡れた足跡が続いていました。そして、最後の一歩だけが、ベッドの下で止まっていました。コツ、ベッドの下から小さな音が一つ。息を止めました。そこから、子供の声が聞こえたのです。
「父さん」
ベッドの下から聞こえた声を聞いた瞬間、動けなくなりました。確かにユウトの声でした。でも、ユウトは今この家にはいません。数日前、弟を守るために息子を叔父の家へ預けていたはずでした。膝をつき、ベッドの下を覗きました。暗い。何もありません。ただ、奥の方に小さな泥の跡が見えました。子供の足跡です。一つ、二つ、三つ。手を伸ばそうとした時、母が私の腕を強く掴みました。
「触らないで!」
「でも、今ユウトが」
「あれは、ユウトじゃない!」
母の声は、これまで聞いたことがないほど大きかった。振り返ると、母は泣いていました。
「じゃあ、誰なんだよ」
母は答えません。その代わり、仏間の方から電話の着信音が鳴りました。母の携帯です。震える手で電話を取ります。
「はい」
次の瞬間、母の顔から血の気が引きました。
「どうした?」
母は私を見ません。
「ユウトが……」
「ユウトが何だよ?」
「おじさんの家から、いなくなったって」
頭の中が真っ白になりました。
「いつ?」
「さっき」
「さっきって、何時だよ」
母は答えられません。携帯を奪い取り、叔父に電話しました。何度鳴らしても出ません。もう一度、さらにもう一度、やっと電話が繋がりました。でも、叔父の声は震えていました。
「高壱……」
「ユウトは?どこにいる?」
沈黙。
「起きた時には、もういなかった。玄関は閉まってた。窓は全部鍵がかかってた」
「じゃあ、どうやって出た?」
叔父は答えません。代わりに、電話の向こうから変な音が聞こえました。コツ。固まりました。
「おじさん、今の何?」
返事の代わりに、コツ。今度は二回。そして、低い声が聞こえました。
「四十九日まで、あと何日だ?」
電話が切れました。すぐに母を見ました。
「知ってたんだな」
母は黙っています。
「父さんが死んで、レンが消えて、あの男が現れて、全部知ってたんだろう」
母はしばらく俯いていました。やがて、ゆっくり口を開きました。
「お父さんが亡くなる前に、私は一度だけ聞いたの。正信さんの声を」
「夢じゃない。夜中、仏壇の前で聞いた」
母は震える声で続けました。
「お父さんに『返せ』って言ってた。墓から持ち出したものを、全部」
仏壇を見ると、父の遺影の横に古い木箱が置かれていました。母が近づき、震える手で蓋を開けました。中には古い金貨、そして小さな布包み。包みを開けると、中から出てきたのは黒ずんだ骨と、小さな紙切れでした。紙には古い文字で「返さない限り、血は止まらない」と書かれていました。
「これを、父さんが持ってたのか」
母は頷きました。
「でも、本当に怖いのはそれじゃない」
母は布包みの底から、一枚の古い写真を取り出しました。そこには三十年前の父と祖父、正信、そしてもう一人の男。写真を見て息を止めました。その男は私の父ではありません。それどころか、最上の家の人間でもありません。
「この人が、正信さんを殺した人だよ」
「誰なんだ?」
母は目を伏せました。
「この村に昔いた、土地の仲介人。あの墓に金が埋まっていると、父さんたちに教えた人」
言葉を失いました。つまり、あの土地を掘ったこと、金を奪ったこと、正信が死んだこと、全部が偶然ではなかった。誰かが欲を煽り、最上の家がそれに乗った。そして、正信の死を隠すために三十年間、全てを封じ込めた。
その時、家の外から子供の鳴き声がしました。
「父さん」
玄関へ走りました。扉を開けても、誰もいない。庭にもいない。ただ、濡れた小さな足跡が門の外へ続いていました。その後を追おうとすると、母が叫びました。
「行っちゃダメ!」
振り返ると、母の顔は青ざめていました。
「もう、遅い」
「何が?」
母は震える指で仏壇を指しました。そこには、さっきまでなかったものがありました。古い木札。その表面に、黒い文字が浮かんでいます。一文字ずつ、ゆっくりと。一、二、そして三。最後の文字が書かれた瞬間、仏間の奥からコツ、音がしました。今度は一回だけ。母は泣きながら呟きました。
「三人目は、もうこの家の中にいる」
振り返りました。暗い廊下の先。誰もいないはずの場所に、小さな子供の影が立っていました。その影はゆっくり顔を上げました。そして、私に向かって笑いました。
その夜、私は初めて父の死から続いていた出来事が偶然ではないと確信しました。仏間の奥に立っていた子供の影は、息子のユウトの姿をしていました。けれど、あれはユウトではない。一歩近づくと、その影の足元から黒い水がじわりと畳へ広がりました。冷たい。まるで長い間土の中に閉じ込められていた水のような、生臭い匂いがします。影は顔を上げました。そして、子供の声ではなく、あの乾いた男の声で言いました。
「三」
母が悲鳴をあげました。
「逃げて!」
動けませんでした。影の顔が、少しずつ崩れていったからです。頬が落ち、目の奥が暗く沈み、口元だけが異様に大きく開いていく。子供の姿が、ゆっくり別のものへ変わっていきました。
その時、玄関が激しく叩かれました。
「高壱!開けろ!」
叔父の声でした。我に帰り、玄関へ走って扉を開けると、叔父が息を切らして立っていました。顔色が悪く、手には古い木箱を抱えています。
「ユウトは?」
叔父は首を振りました。
「まだ、見つかっていない。だが、その前にこれを見ろ」
叔父は仏間に入り、木箱を床に置きました。母の顔がこわばります。
「それを、どこで?」
「物置の奥だ。三十年間、誰にも開けられていなかった」
蓋を開けると、中には古びた布と数枚の写真、それから一通の手紙が入っていました。手紙を広げると、そこには父の字で短く書かれていました。
「正信が死んだ夜、見ていたものは四人」
「四人?」
叔父が答えました。
「一人目はお前の祖父、二人目はお前の父親。そして三人目が、あの土地を教えた仲介人だ」
「じゃあ、四人目は?」
叔父はしばらく黙っていました。そして、ゆっくり自分の胸を指しました。
「私だ」
母が顔を上げました。
「やめて!」
「もう隠せない」
叔父の声が震えました。
「正信さんは川で死んだんじゃない。丘の上で、祖父とお前の父親に抑えつけられた。正信さんは最後まで抵抗していた。『墓を返せ、骨を返せ』と、何度も叫んでいた。そして、その時だ。正信さんは祖父の指輪を握りしめたまま、死んだ」
母が両手で顔を覆いました。
「この遺体を川へ運んだのは、あなたたちだったのか?」
叔父は答えません。ただ、小さく頷きました。
「事故に見せるためだ」
その瞬間、コツ、全員が固まりました。音は仏壇からではありません。床の下からでした。もう一度、コツ、今度は叔父の足元です。叔父がゆっくり視線を落とすと、畳の隙間から黒い水が滲み出ています。その水の中に、白いものが見えました。骨です。後ずさりしました。母が震える声で呟きます。
「まだ、残っていたんだ」
黒い水の中から、白い指が一本、ゆっくりと畳の上へ出てきました。一本、そして二本、三本。まるで土の下から誰かが這い上がろうとしている。叔父が後ろへ下がりました。
「正信さん……」
その声に、暗闇の奥から返事がありました。
「やっと、思い出したか」
振り返ると、廊下の先にあの老人が立っていました。いや、もう老人には見えませんでした。顔の皮膚が土のように崩れ、濡れた髪が頬に張り付き、首元には川底の泥のような黒い跡が残っています。その目だけが、昔の正信のままでした。
「三十年、待った」
叔父が震えながら言いました。
「俺たちは、もう全部返す。墓も、金も、土地も」
正信は首を横に振りました。
「金では足りない」
一歩、こちらへ近づきます。
「土地でも、足りない」
もう一歩。
「墓を戻しても、骨を戻しても、足りない」
息を飲みました。正信は私の胸を指しました。
「お前たちが奪ったものは、命だ」
その瞬間、私の胸の奥でコツ、一回。そしてコツ、二回。正信が笑いました。
「三人目は、まだ終わっていない」
胸を押さえました。怖かったのはその声ではありません。その音が、もう自分の体の中から聞こえていることでした。内側から聞こえるはずのない音が、確かになっています。コツコツ。心臓の鼓動とは違う。もっと乾いていて、規則正しい。誰かが私の胸骨の内側を、爪で叩いているようでした。正信はそんな私をじっと見つめていました。
「聞こえるだろう?お前の中で、数えている音が」
叔父が震える声で訪ねます。
「一体、何を数えてるんだ?」
正信は叔父を見ました。
「お前たちが、捨てたものだ」
叔父の顔が歪みます。
「骨も、金も、土地も、全部返す。だから、これ以上は」
「まだ分からないのか?」
正信が一歩近づきました。
「私の家には、墓しか残っていなかった。最後に残った墓まで、お前たちは掘り返した」
母が泣きながら言いました。
「私たちは、知らなかったんです。そんなに恐ろしいことになるなんて」
正信は母を見つめました。
「知らなかった」
その声だけで、部屋の空気が凍りました。
「お前は、知っていた」
母は何も言えません。
「父親が何をしたのか、祖父が何をしたのか、正信がどうやって死んだのか。全部知っていた」
母の肩が震えました。
「はい」
その瞬間、母は膝から崩れました。
「私は止められなかった。あの時、止められなかったんです」
母を見つめました。ずっと、母だけは何も知らないと思っていた。でも、違った。母は三十年間、父と祖父の罪を抱えたまま生きていたのです。
「じゃあ、なぜ今まで黙ってたんだ?」
母は涙を流しながら答えました。
「怖かったの。あの寺で封じてもらってから、何も起きなかったから。だから、誰も口にしなければ、終わったんだと思いたかった」
その言葉に、正信が低く笑いました。
「終わった?」
その瞬間、仏壇のローソクが一斉に消えました。暗闇の中で、正信の声だけが響きました。
「私は三十年間、終わらせてもらえなかった」
懐中電灯をつけると、光が正信の顔を照らします。皮膚の一部が崩れ、頬には土がこびりついている。けれど、その目だけは異様なほど生きていました。
「だから、お前たちにも分かってもらう。墓を失う痛みを」
正信の手が、ゆっくり私の胸へ伸びました。指先が触れる直前、コツ、私の胸の中で音が鳴りました。正信は満足そうに目を細めます。
「三人目」
後ずさりしました。
「俺が、三人目なのか?」
「違う」
「じゃあ、誰?」
正信は廊下の奥を見ました。
「お前たちが、まだ返していないものだ」
その言葉を聞いた瞬間、叔父の顔色が変わりました。
「まさか」
「何を思い出した?」
叔父は答えません。正信が代わりに言いました。
「もう一人、いた。あの夜、墓を掘り返した時、私を止めようとしていた男だ」
叔父が首を振ります。
「そんな人は、いなかった」
「嘘だ」
正信の声が一段低くなりました。
「いた。お前が見ていた」
叔父の唇が震えます。
「違う」
「思い出せ」
「違う!」
叔父が叫んだ瞬間、床下から大きな音が響きました。ドン。家全体が揺れました。仏壇の位牌が倒れ、窓ガラスが震えます。そして、床の隙間から黒い水が一気に吹き出しました。母が悲鳴をあげます。後ずさると、水の中から何かが見えました。白い、細い人間の腕。その腕が畳の上を這い、叔父の足首を掴みました。
「話せ」
叔父が叫びましたが、手は離れません。むしろ、ゆっくり締まっていく。
「高壱!」
母が叫びます。叔父の腕を掴み、二人で引っ張りました。しかし、下から引く力は異常に強かった。叔父の足が、畳の中へ少しずつ沈んでいきます。
「助けてくれ!」
必死で引きながら、叔父が泣きながら言いました。
「もう言う!全部言うから!」
「何を?」
叔父は苦しそうに息を吐きながら言いました。
「正信を殺したのは、父さんとお前の父親だけじゃない」
凍りつきました。
「じゃあ、誰だ?」
叔父は私を見ることができず、床へ視線を落としました。
「俺も、手を貸した」
その瞬間、床下から別の音がしました。コツ、コツ、コツ。そして、暗闇の向こうから正信の声が響きました。
「やっと、四人目が思い出した」
叔父の後ろ、誰もいないはずの廊下に、濡れた人影が立っていました。正信ではありません。もっと小さい、子供ほどの高さです。その影はゆっくり顔を上げました。そして、私を見て笑いました。その口が動きます。
「父さん」
ユウトの声でした。
「父さん」
その声を聞いた瞬間、息を止めました。廊下の暗がりに立っているのは、確かにユウトの姿でした。小さな肩、濡れた髪、白いシャツ。けれど、顔だけは見えません。影の奥で、何かがこちらを見つめています。
「ユウト?」
一歩近づくと、その子供の影は一歩後ろへ下がりました。母が泣きながら叫びます。
「近づいちゃダメ!」
「母さん、あれはユウトだろう」
「違う!」
母は首を激しく振りました。
「ユウトは、今ここにはいない」
叔父が床に倒れたまま、苦しそうに口を開きました。
「正信は、人の姿を借りる。自分に似た姿じゃない。相手が一番会いたい人の姿を使う」
その言葉を聞いた瞬間、廊下の影を見ました。影はゆっくり顔を上げました。そこにあったのは、ユウトの顔ではありませんでした。濡れた皮膚、深く落ち込んだ目、そして川底の泥にまみれた男の顔。正信の顔でした。
「やっと分かったか、高壱」
後ずさりしました。
「ユウトを、どこへやった?」
正信は答えません。
「返せ!」
叫ぶと、正信は静かに首を傾げました。
「返せ?」
その言葉と同時に、仏間の壁に何かがぶつかりました。ドン。母が悲鳴をあげます。
「その言葉は、三十年前にも聞いた。私も『返せ』と言った。墓を返せ。骨を返せ。土地を返せ。だが、お前の祖父も、父親も、笑っていた」
叔父が震えながら言いました。
「正信さん、もう十分だ」
「十分?」
正信の顔が歪みました。
「お前たちは、三十年生きた。それが、十分なのか?」
叔父は何も答えられません。私は正信を見つめました。
「俺の父が悪かった。祖父も悪かった。俺も何も知らずに土地を掘った。それは認める。でも、ユウトには関係ない」
正信の目が細くなりました。
「関係ない?」
一歩、正信が近づきます。
「お前の家が欲しがった墓には、子供も眠っていた」
息を飲みました。
「子供?」
正信は答えました。
「私の家は、最後には誰も残らなかった。子供も、老人も、みんな死んだ。最後に残ったのが、あの墓だった」
母が小さく泣きました。
「だから、あの子も」
正信は母を見ました。
「お前も、知っていたな」
母は顔を伏せました。
「はい」
「なら、なぜ止めなかった?」
「怖かったんです」
「怖かった」
正信が笑いました。
「お前たちが怖かったのは、私じゃない。自分たちの罪が明るみに出ることを、恐れたんだ」
その瞬間、私の胸の中でコツ、一回。コツ、二回。胸を押さえると、正信はその音を聞いて微笑みました。
「三つ目の音だ」
「何が三つ目だ?」
「お前の中にあるものだ」
正信が指を伸ばしました。
「この家の罪は、血の中に残る」
その手を払いのけました。
「なら、俺で終わらせる」
正信の動きが止まりました。
「何?」
息を整えました。
「俺を、連れて行け」
母が叫びました。
「高壱!」
「母さん、黙って」
私は正信だけを見ました。
「祖父の罪も、父の罪も、俺が引き受ける。俺が丘を掘った。封じを破った。その責任も、俺にある」
正信はしばらく何も言いませんでした。やがて、その顔からわずかな怒りが消えました。
「本気か?」
「本気だ」
「お前が死んでも、ユウトが戻ってくるとは限らない」
その言葉で、胸が締めつけられました。
「どうすればいい?」
正信は丘の方へ顔を向けました。
「返せ」
「何を?」
「まだ返していないものを」
母が震えながら言いました。
「金です」
母は仏壇の下から、古い赤い布包みを取り出しました。中には、三十年前に父たちが持ち帰った古い金貨が入っていました。
「これだけは、父さんが最後まで手放さなかった」
包みを受け取りました。ずしりと重い。金貨の重さより、三十年分の罪の重さのように感じました。正信は言いました。
「それだけじゃない」
「まだある。どこに?」
正信は私たちの足元を指しました。
「畳の下」
そこからかすかな水音が聞こえました。そして、次の瞬間、コツ、床の下からまた一つ。コツ、二つ目。そして三つ目、コツ。
私は思いました。あの音は、誰かを数えているのではない。返されたものを、数えているのかもしれない。
その時、正信が初めて、私の名前を昔の家族と同じような声で呼びました。
「高壱」
顔を上げました。
「今夜、丘で、ユウトを返す」
正信の姿は、ゆっくり暗闇の中へ溶けていきました。最後に残ったのは、濡れた足跡だけでした。その足跡は玄関へ向かわず、まっすぐ仏間の床下へ消えていました。
夜の丘は、昼間とはまるで別の場所でした。風は止まっているのに、草だけが同じ方向へ揺れている。赤い布包みを胸に抱え、母と叔父を残し、一人で丘へ向かいました。ユウトを取り戻すために。あの土地に足を踏み入れた瞬間、鼻の奥にあの冷たい線香の匂いが広がりました。工事のために掘り返された穴の底には黒い水が溜まり、その中央に古い小さな墓石が半分埋まっています。その前に立ち、布包みを開きました。
「正信さん、返します」
何も起こりません。金貨を一枚ずつ土の上に置きました。
「祖父が奪ったものです。父が隠したものです。そして、俺がまたこの場所を掘り返しました」
その時、背後から声がしました。
「それだけか」
振り返ると、正信が立っていました。昼間の老人の姿ではありません。濡れた着物の隙間から黒ずんだ骨が見え、顔の皮膚は所々崩れている。それでも、その目だけは三十年前の人間の目でした。
「まだ、返していない」
「何を返せばいい?」
正信は穴の底を指しました。
「骨だ」
「全部、見つける」
「見つけるだけでは、足りない」
正信が一歩近づきます。
「正しい場所に、戻せ」
その瞬間、穴の奥から子供の鳴き声が聞こえました。
「父さん」
「ユウト!」
穴の中へ入ろうとすると、正信が手を挙げました。
「まだだ」
「息子を返せ」
「お前は、一つまだ返していない」
息を止めました。正信の指が私の胸を指します。
「命だ」
その言葉と同時に、胸の奥でコツ。目を閉じました。
「俺を、連れていけばいい」
正信は黙って私を見ています。
「祖父の罪も、父の罪も、俺が背負う。あの土地をまた掘ったのも、俺だ。ユウトだけは、返せ」
母が丘の下から走ってきました。
「高壱、やめなさい!」
振り返りませんでした。
「母さん、もう十分だよ」
「あなたまで死んだら、本当に最後の一人になる」
「だからだよ」
静かに答えました。
「ユウトだけは、残さなきゃいけない」
正信が近づきます。
「お前が死ねば、あの子を生かす。約束するか?」
「約束する」
ゆっくり目を閉じました。そして、ナイフを地面へ置きました。逃げない、抵抗しない、助けも呼ばない。ただ、頭を下げました。
「お願いします」
正信の手が、私の首に触れました。冷たいというより、何十年も水の底に沈んでいた石のようでした。次の瞬間、体が中へ持ち上がりました。母の叫び声が聞こえます。
「高壱!」
苦しくて、声が出ません。それでも最後に、一つだけ言いました。
「ユウトを、返して」
正信の顔が目の前にありました。その崩れた口が、ゆっくり動きます。
「これで、五十年近く待ったものが終わる」
その意味は理解できませんでした。そして、首に力が加わった瞬間、コツ、胸の奥で最後の音が鳴りました。目を閉じました。
その直後、丘の下で別の声がしました。
「父さん!」
ユウトでした。目を開けると、穴の向こうに小さな体が立っています。叔父が、抱きかかえたユウトを連れて、必死に丘を登ってきていました。正信はユウトを見ると、しばらく黙っていました。そして、私の体をゆっくり地面へ下ろしました。
「この子には、お前たちの罪を背負わせない」
息を荒くしながら、ユウトを見ました。
「逃げろ」
ユウトが泣きながら、私へ手を伸ばします。その瞬間、正信の姿が大きく揺らぎました。
「だが、約束を忘れるな。墓を戻せ」
次の瞬間、正信の体は黒い水のように崩れ、穴の底へ吸い込まれました。風が一気に吹きました。草が大きく揺れ、丘中の線香の匂いが消えていきます。そして、暗闇の中で最後に聞こえたのは、コツ、一度だけの静かな音でした。
その場で倒れました。意識が遠くなる直前、ユウトの鳴き声だけが聞こえていました。
翌朝、病院のベッドで目を覚ましました。最初に見えたのは白い天井でした。次に聞こえたのは、ユウトの鳴き声でした。
「父さん」
ゆっくり目を開けると、ベッドの横にユウトが立っていました。その後ろで、母が泣いています。
「ユウト」
声を出した瞬間、喉が焼けるように痛みました。母が私の手を握りました。
「生きてるよ」
しばらく、その言葉の意味が分かりませんでした。丘で、私は確かに正信の手に首を掴まれた。死ぬと思った。でも、気がついた時、私は丘の麓で倒れていたそうです。叔父がユウトを連れて駆けつけた時には、私の体はまだ温かかった。正信の姿は、もうどこにもありませんでした。
その日から、私たちは約束したことを始めました。丘をこれ以上掘ることはしない。工事の契約は全て破棄した。祖父と父が持ち帰ったものも、一つずつ調べて元の場所へ戻すことにしました。数日後、古い墓を調査すると、土の中から骨が次々に見つかりました。小さなものも、大人のものもありました。それらを丁寧に拾い集め、新しい墓に収めました。さらに、丘の一角には小さな祠が立てられました。僧侶に供養をしてもらい、毎年花と線香を備えることになりました。
その夜、私は初めて深く眠ることができました。父の死から続いていた、あの音も聞こえませんでした。コツ、と。
それから一年、二年、三年。何も起きませんでした。母も少しずつ元気を取り戻し、ユウトも成長していきました。私たちはあの家を離れました。古い実家には誰も住まなくなりましたが、丘の祠だけは残しました。
それから二十年が過ぎました。母も亡くなり、私はもう五十代になっていました。ユウトは都会で働き、家庭を持っていました。あの家のことを話すことは、ほとんどなくなっていました。ある日、ユウトから電話がありました。
「父さん、久しぶりにあの村へ行こうと思う」
一瞬、言葉を失いました。
「何しに?」
「墓参りだよ」
すぐに反対しました。
「行かなくていい」
「どうして?」
答えられませんでした。昔のことを、今更全部話す気にはなれなかったからです。結局、ユウトは一人で村へ帰りました。
その日の夕方、私は自宅でテレビを見ていました。時計は午後十一時を少し過ぎていました。突然、部屋が静かになりました。時計の音さえ聞こえません。空調の音も、外を走る車の音も、全て消えたようでした。立ち上がった時、コツ、凍りつきました。あの音でした。二十年ぶりに。コツ、二度目。胸を押さえました。そして三度目、コツ。
時計を見ると、午前零時。その瞬間、携帯電話が鳴りました。ユウトからでした。
「もしもし」
返事がありません。
「ユウト?」
しばらく沈黙した後、電話の向こうから小さな声が聞こえました。
「父さん、今、祠にいる」
立ち上がりました。
「すぐ、帰れ」
ユウトは答えません。代わりに、かすかな音が聞こえました。コツ。目を閉じました。
「ユウト、そこから離れろ」
すると、電話の向こうでユウトが小さく言いました。
「父さん、変なんだ」
「何が?」
「祠の前に、知らない男が立ってる」
体から血の気が引きました。
「どんな男だ?」
長い沈黙。やがて、ユウトが答えました。
「古い服を着てる。ずぶ濡れで」
もう一度、聞きました。
「顔は?」
電話の向こうで、ユウトが息を飲みました。そして、震える声で言いました。
「俺の顔をしてる」
通話が切れました。その場に立ち尽くしました。すると、背後から音がしました。コツ。ゆっくり振り返りました。誰もいません。ただ、部屋の隅に置いていた古い写真が一枚、床に落ちていました。写真には、私とユウト、そしてその後ろに広がる暗い丘。写真を拾い上げると、裏には以前はなかった文字がありました。一行だけ。
「返したから、終わったと思ったか」
息を止めました。そして、最後にコツ、四回目の音が鳴りました。今度は私の胸の中からではありません。写真の向こう側からでした。



