その高級寿司屋に、赤いドレスを着た女の声が響き渡った。金の大ぶりピアスを揺らして笑うその声には、店内の空気を凍らせる棘があった。
「完巻きですってねえ。この店で。貧乏人は消えろ。そんなものを頼むと店の格が落ちるのよ。」
竹内しずは、置かれた箸を握ったまま動かなかった。そして、突然、透明な酒が弧を描いた。冷たい液体が肩から胸元へ伝い、髪の先から雫が落ちた。店から音が消えた。
しずは差し出された布巾で頬をひと拭きし、初めて相手の顔を正面から見た。
「では、音社との10億の契約、どうぞご勝手に。」
その言葉の意味を、島田あけみはまだ何ひとつ理解していない。会計を伝票の上に置き、濡れたまま引き戸を開けた。父が通った場所を、そんな場所にしたくなかった。
その日の夕方、まだ酒の雫は彼女の肩を濡らしていなかった。竹内しずは自宅で、父が最後まで胸ポケットに差していた古い万年筆のキャップを外した。月に一度、第三金曜日の夜だけ、しずは誰にも告げずにあの寿司屋へ行く。父が元気だった頃、二人でカウンターに並んだ店だ。その夜だけは、子供を実家の母に預けることにしている。
玄関で靴を履いていると、秘書の桑原から電話が入った。
「先方からの返事は月曜になるそうです。」
「ありがとう。月曜で大丈夫。」
「今日は例の店ですね。ええ、行くわ。それだけのやり取りで、一週間分の針が少し緩んだ。」
店は変わらない。断食のペンダントが落とす光。磨かれた檜のカウンター。活魚ケースの氷。大将が手を止めずに、奥から二番目の席へ目で促す。
「お待ちしておりました。今日は白身がようございます。」
「ではそれをいただくわ。」
「お酒はいつもの一杯でよろしいですか?」
「ええ、それだけにしておくわ。」
「締めはいつものでよろしいですか?」
「ええ、最後にお願いします。」
父は生前、この店の締めによく完巻きを頼んだ。「うまいものの終わりは地味なものがいい」というのが口癖だった。その言葉を思い出すたび、肩の力が抜けていく。
八時を回った頃、引き戸が鳴った。赤いドレスの女が、連れの二人を従えて入ってくる。大将が手を止めて向き直った。
「島田様。いらっしゃいませ。」
その苗字には覚えがあった。子供の通う学校のPTA会長で、朝の旗当番の割り振りも遠足の付き添いの順番も、あの人のところで決まる。しずは少し離れて待ち、決まったことだけを受け取って帰る側だった。
「そこ、いつものところ開けてちょうだい。」カウンターの奥を指さした指の動きが、店の隅まで届く。
「申し訳ございません。今夜は先にお約束を頂いておりまして。」
あけみの視線がしずに移った。紙袋から靴まで、上から下へ。
「へえ。随分前からね。」
一呼吸置いて、あけみはまたしずへ目を向ける。
「あなた、どこかで見た顔ね。うちの学校の…えっと、名前は出てこなかった。」
しずは湯呑みを置き、小さく頭を下げた。「どうも。」
あけみたちはテーブル席に通されたが、声は落ちなかった。連れの一人が身を乗り出して話しかける。
「奥様、いつもここなんですか?」
「主人の会社の接待は大体ね。去年の忘年会もここを貸し切ったの。大将には無理も聞いてもらってるから。今日だって、予約入れたらすぐに奥のテーブルを抑えてくれたのよ。」
「白崎物産さんって、こういうお店を使えるんですね。」
「接待もここで全部できちゃうのよ。」
あけみが帰るたび、声は一段ずつ上がっていく。「白崎物産」という社名が二度、三度と混じった。しずは箸を進める。手元の皿には何も変わったことがない。それでも、店の空気は先ほどまでとは違う温度になっていた。
あけみは運ばれた料理に箸をつけないまま、店員を呼びつけた。
「遅いわね。頼んでからどれだけ立ってると思ってるの?」
店員が下がると、今度はグラスへ目を落とす。
「氷、もう溶けてるじゃない。変えて。」
隣のテーブルの客が座り直す音にまで顔を向け、注文を三度変えた。他の客が二組、予定より早く会計を済ませた。大将の手は止まらない。
やがてあけみが席を立ち、しずの背後を通ってお手洗いへ向かう。戻りに足が止まった。カウンターへ半歩踏み込み、首だけを伸ばして皿を覗き込む。
「ねえ、大将、こっちにも同じもの出して。この方が食べてるの、何?」
大将は答えず、次の一貫を握る。あけみの口の端が下がったのが、活魚ケースのガラスに映って見えた。テーブルへ戻る途中、あけみが連れの二人に何かを言うと、三人分の笑い声が背中から落ちてきた。乾いた笑い声だった。
しずは箸を止めない。皿が下げられると、しずは大将へ目をやった。
「では、締めをお願いします。」
「完巻き、承りました。」
背後で息を吸う音がした。
「完巻き?」
声は店の隅々まで届く大きさだった。島田あけみは、しずの背中越しにカウンターを覗き込み、連れの二人を振り返って笑う。
「ねえ、聞いた? この店で完の巻き物ですってねえ。大将、これいくら?」
大将は答えず、次の一貫を握る。連れの二人の笑い声が続いた。
しずは箸を置き、切り分けられた六つの巻き物のうち一つを口に運んだ。いつもの味。父が並んでいた夜と変わらない。あけみはもういいわと吐き捨て、しずの方へ一歩詰めた。両手が腰の高さで止まる。
「私の席を奪っておいて、完巻き。ふざけないで。」
しずはただ、次の一切れへ箸を動かした。
「貧乏人は消えろ。こんなものを頼む客がいるだけで、店の格が落ちるのよ。」
店員がカウンターの内側から一歩前へ出る。
「お客様、少々お控えいただけますか?」
「あなたたちに関係ないでしょう。」
店員の手が止まる。
あけみはテーブルへ戻り、自分のグラスを持って引き返してきた。グラスを持つ腕が肩の高さまで上がる。
「聞こえてる? 消えてって言ってるの。」
透明な酒が弧を描いた。冷たいものが肩から胸元へ落ち、髪の先から雫が垂れる。檜のカウンターに小さな水溜まりができ、皿の縁を伝った。店から音が消えた。他の客の箸が止まり、静まり返った店に活魚ケースの氷が崩れる音が届いた。
大将が布巾を差し出した。しずはそれを受け取って頬をひと拭きし、濡れた前髪を指で払った。
「竹内様、せめてお着替えでも…」
「いいえ、いつも通りで。」
財布から会計分を出し、濡れた指先で紙幣を揃えて伝票の上に置く。それから初めて、あけみの顔を正面から見た。
「では、音社との10億の契約、どうぞご勝手に。」
あけみの眉が寄った。
「何の話?」
「10億。あなたがどうぞご勝手に。」
あけみは笑いで塗り替えにかかる。
「どうぞ勝手に。せいぜい頑張ってちょうだい。」
しずは名乗らなかった。濡れたドレスのまま立ち上がり、大将にだけ短く頭を下げた。
「ごちそうさまでした。」
「お気をつけて。」
引き戸を開けると、夜の風が肩の冷たさをはっきり際立たせた。その一言が何を意味するのか、あけみはまだ何ひとつ分かっていない。
翌朝、白峰商事の社長室を告げるチャイムが廊下に鳴る前に、竹内しずはすでに机の前に座っていた。机の上に、昨夜のドレスを入れた紙袋がある。袋の口は折り返していない。形を崩さないまま残しておく。その判断は、すでに店を出た時点で決まっていた。
やがてノックが一つなり、桑原のり子が入ってきた。
「袋のまま保管して、検品に出してもらえる。」
「何があったのですか?」
「昨夜、白崎物産さんの社長夫人に、人前で酒をかけられたの。」
桑原は紙袋の口に手を添え、持ち上げないまま確かめた。
「承知しました。報告書は追って書面で参ります。店の映像は大将に連絡を入れて、保全をお願いしてよろしいですか?」
「ええ、お願い。白崎の取引資料も揃えてもらえる? 数字と情報を見てから動きたいから。」
桑原が資料を広げた。白崎物産株式会社。年間取引高十億二千万円。白崎商事からの受注が先方の売上のおよそ四割。取引基本契約は五年前の締結で、第三条、第二条項、第十二条に解除の定めがある。
「第十二条で契約の解除を申し入れるわ。目を瞑ったままにはできないから。本日の午後二時、先方の本社へ伺う。」
桑原は書類の角を揃える手を止めた。
「社長、感情で決めてはいませんか? あなたらしくないです。」
「感情なら、昨夜のうちに言葉にしているわ。」
しずは父の万年筆を胸ポケットから抜き、申し入れ書の日付欄に書き入れた。
「取引先の社長夫人が、うちの代表に人前で酒をかけた。謝罪もない。何もしなければ、会社がそれを黙って受け入れたことになる。それは違うでしょ。」
「先方にはどのように…」
「事実だけを申し上げるわ。何があったか、誰が何をしたか、起きた順番にそのまま伝える。評価はこちらでは加えない。」
「承知しました。」桑原が一度だけ頷き、資料を手に立ち上がった。それ以上は言わなかった。
午後二時、白崎物産の本社。カー張りのソファーと壁一面の取引先一覧。白崎物産の社長、島田哲也が出迎えて頭を下げた。
「いつもお世話になっております。社長ご自身がお越しになるとは、大変恐縮でございます。」
しずは一枚の書面を出し、テーブルの上を滑らせた。話を途中で止めない。
「取引基本契約第十二条に基づき、契約解除を申し入れに参りました。会社として正式な手続きに入ります。」
哲也の手が止まった。同席していた部長に目配せをして下がらせ、扉が閉まるのを待ってから書面に目を落とす。
「解除ですか? 何か手違いがございましたでしょうか? 品質や納期のことでしたら、すぐに担当を呼んで確認いたします。」
「納期の話でも品質の話でもないです。原因はあなたの奥さんです。そこから申し上げます。」
哲也の顔から少しずつ色が引いていった。
「何をしたんですか?」
「昨夜、店で暴言を浴びせられ、グラスの酒をかけられました。」
社長室が静かになった。哲也は膝の上で両手を組み直し、それから一度目を閉じた。立ち上がりかけた腰を下ろす。
「申し訳ございません。妻には私から釘を刺します。今夜にでもお詫びに伺わせます。ですから、契約の方はどうかご覧いただけないでしょうか?」
「契約は戻せません。奥様の罪と、会社と会社の契約は別の話です。謝罪が必要なら、それはそれで受け取ります。だが、契約はここで申し入れた通りです。」
哲也はなお言葉を探した。書面に落としていた目を上げ、また下げる。膝の上の指が組み直され、息が一度だけ深く落ちてから数字を口にした。
「うちの売上の四割です。十億が抜けたら、来期どころか来月の資金繰りから狂います。第二ラインは音社からの受注だけで回っているんです。」
「存じています。その数字を分かった上で、今日、私が直接伺いました。」
胸ポケットから万年筆を取り出し、キャップを外す。申し入れ書の署名欄に名前を書き入れる。ペン先が紙をこする音が、静かな部屋に響いた。
「二週間後の取締役会で、当社として正式に決済します。今日の申し入れはその予告です。」
「二週間、いただけるということでしょうか。」
「手続きの日程です。猶予ではありません。方針は変わりません。」
書面を受け取る哲也の指先が、わずかに震えていた。
「妻のあれは、その口が悪いだけで、悪気があったわけでは…」
「悪気があってもなくても、起きたことは変わりません。会社としてそれを基準に判断しています。」
しずは立ち上がり、椅子を引いて頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。」
エレベーターへ向かう廊下は長い。背後の社長室の扉の向こうから、誰かを呼ぶ哲也の声が壁を伝ってきた。しずは振り返らない。
二日後の昼過ぎ、白峰商事の一階ロビーに、赤いバッグを下げた島田あけみが現れる。受付が桑原に取り継ぐ。
「島田様がお見えです。お約束は伺っておりませんが、お通しせずロビーでお待ちいただいています。」
あけみはソファーに深く座ったまま、足を組み換えた。頭は下がらなかった。
「約束なんていらないでしょ。主人から聞いたから、直接話した方が早いと思って来てあげたのよ。」
しずがエレベーターで降りてきて、ソファーの前に座ったまま手を前へ組んだ。ロビーには社員が何人もいた。誰も通り過ぎず、視線だけが集まっていく。
「主人から聞いたけど、大人げないんじゃない? たかがお酒がかかったぐらいで十億でしょ。常識で釣り合ってないでしょ。」
あけみはソファーの背に持たれ、顎を動かさなかった。
「それにあの店、私が長く使ってあげてるお店なのよ。あなたの方こそ、少し出入りを控えたらどう?」
しずは座らなかった。あけみの非難が一通り終わるのを、立ったまま受ける。それから一枚の書面を取り出した。
「お酒がかかったドレスの検品報告です。染み抜きはできないそうです。」
あけみは受け取りもせず、鼻で笑った。
「弁償すればいいんでしょ。いくら? 言いなさいよ。今ここで払ってあげるから。」
「金額はこちらから正式にお伝えします。」
「正式にね。」
あけみはバッグを持ち直して立ち上がった。
「言っとくけど、うちの主人、あなたのところがなくても平気だから。」
自動ドアが開き、あけみの背中が外へ消えた。社員たちが黙って見送る。桑原が小さく息を吐き、「社長」と言いかけてやめた。謝りに来たのではない。まだ自分が上だと確かめに来ただけだ。
社長室に戻ると、桑原が茶を入れた。湯呑みを茶托に置く音が、静かな部屋に一つだけ鳴る。
「書類の話ではなかったですね。社長は昔から名乗りませんね。先代がお倒れになった時もそうでした。」
しずは湯呑みを両手で包んだ。
「あの頃は名乗っても何にもならなかっただけなの。二十八歳でこの椅子に座って、最初の三ヶ月で四十六社を回ったわ。社長室に通されない会社もあったわね。」
「覚えております。ロビーで一時間お待ちになって、結局お会いできなかった日も。」
「先代の娘さんと呼ばれるうちはまだ良くて、そのうち面と向かって言われるようになったの。『女の子に何が分かるんですか』と。」
しずの呼吸が少し遅くなる。
「頭を下げて、数字を置いて、また下げて。工場の食堂の隅で、売店のおにぎりを食べながら、次の会社の資料を読んでいた頃よ。」
「あの三ヶ月、社長は一度も愚痴をおっしゃいませんでした。」
「言う相手がいなかったから。」
「そうでしたね。」桑原が湯呑みに手を添えた。「あの頃の社長は、随分お痩せになって…」
しずは胸ポケットの膨らみに指を当てた。
「父の万年筆だけは、いつも持っていたわ。これで署名すると、父がまだ見ている気がして。」
指がポケットの布の上で止まる。
「父は名前を売るのが下手な人だったわ。遠出もしない。通っていたのは月に一度のあの店だけ。私も同じ席に行くの。名乗らなくても席を開けておいてくれる。誰の娘でも、どこの社長でもなく、ただの客として座っていられる。その一時間のために、ええ、残りの日を働いているようなものよ。」
桑原が湯呑みの淵で指を止めた。
「完巻きも、先代の…」
「ええ、父の締めはいつもあれだったわ。『うまいものの終わりは地味なものがいい』。あの人らしい理屈よね。」
しずは笑い、それから湯呑みを置いた。
「看板を振り回さなくても仕事は回る。そうしたいだけ。」
桑原がゆっくりと頷いた。
二週間後の水曜日、白峰商事の取締役会。議案は一つ、白崎物産株式会社との取引基本契約の解除である。しずはあの夜の出来事を事実として報告し、第十二条第二項の適用を図った。信任関係を一方的に害する行為があった場合の解除条項である。
「適用の可否を、本日ご判断いただきます。」
取締役の一人が資料から顔を上げた。
「先方の代表本人の行為ではありません。」
しずは一度頷いた。
「代表本人ではなくても、社長夫人が取引先の代表に対して行った行為です。信任関係を害する行為として第十二条を適用します。申し入れの日から方針は変わっていません。」
監査役が契約書の条文と検品報告書を一枚ずつ確かめた。
「条文の適用に問題はありません。」
挙手は前回一致となり、議事録に日付が入り、判が押された。しずの手が紙の上を静かに動き、一度だけ止まった。
その日の午後、社長室に内容証明郵便が二通、別々の差出人で用意された。一通目の宛先は、白崎物産株式会社代表取締役 島田哲也。基本契約第十二条第二項による解除の通知と、第三条の更新拒絶。翌月一日以降の新規発注を中止し、既発注分については納入を受け、支払いまで最後まで履行する旨も明記した。
しずは父の万年筆で署名した。桑原が判を押す。
「切るなら、すでに発注していた分は納品を受けて、支払いまで済ませるわ。」
「二通目は、社長ご本人のお名前で。」
「ええ、私個人よ。会社の封筒とは別。」
二通目の宛先は、島田あけみ個人。差出人は竹内しず個人。請求の内訳は三つ。破損したドレスの購入価格四十八万円。不要と判定した洗浄の検品料一万二千円。慰謝料三十万円。合計七十九万二千円。支払い期限は到達から二週間後。添付されたのは、色素が繊維の奥まで回ったことを示す検品報告書。店のカウンター上部の映像を保全した記録。大将とやり取りした通話のメモだった。通知の末尾には、酒を浴びせた行為が刑法上の暴行に当たり得ること。被害届の提出も選択肢にあることが一行だけ書き添えられている。
「添付は三点、揃っています。」
しずは書類を二つ、会社と個人の名義でそれぞれ机の上に並べた。並べた後、手を引いた。
三日後、白崎物産の営業部長と担当役員が白峰商事に訪れ、続いて哲也本人が来た。会議室のテーブルに詫び状と、あけみの署名のある謝罪文が並ぶ。
「妻には言い聞かせました。今後一切、音社には近づけません。時短の話も進めます。ですから、契約だけは…」
「時短なら、奥様と契約はもう別です。」
哲也はなお食い下がった。
「せめて半年の猶予をただけませんか? 今すぐ止まれば、第二ラインの人間が…」
「猶予ではありません。申し入れの日から、手続きの日程でした。二週間はお待ちした時間ではなく、準備をする時間です。」
哲也が言葉を探している間に、しずはPCの画面を開いた端末をテーブルの上で回して向けた。白崎物産のコードが、取引先の一覧から消えている。
「この画面は戻せないのですか?」
「今夜九時に、システム上の処理は終わりました。戻す手続きはございません。今月ご購入いただく分は、最後まで責任を持ってお引き取りし、お支払いします。」
哲也は席を立った。廊下で一度振り返り、何か言いかけて、そのまま頭を下げた。
「お気をつけて。」
解除の効果は書面の外にも現れた。共同で進めていた新規案件は着手前に座り、白峰商事が関与していた一部の金型は返却の手続きが切られ、一覧表にされた。白崎物産の担当者が二日で引き取りに来て、段ボールに包まれた金型が裏口から運び出されていく。先方の担当者からの電話は、その日のうちに十本を超えた。
「回答は書面で。電話は全部記録を残してもらえる。」
週の終わりには、白崎物産の第二ラインから白峰商事へ向かうはずだった納品トラックが、高速に乗る前に引き返した。荷は先方の倉庫へ戻され、伝票には赤い字で処理の日付が入る。
それから十日ほど経った夜、しずの携帯が鳴った。画面に表示された番号を見て、受話器を取る前に一度だけ深く息をする。
「夜分に申し訳ございません。妙な話がございまして、お耳に入れた方がよろしいかと思いまして。」
「聞かせてください。」
「島田様の奥様から、竹内様を出入り禁止にしてくれと。うちがお断りしましたら、今度は怒鳴り込んで、この店を辞めさせると。同じことを、うちの取引先の卸にもおっしゃっているようで…」
しずは手元のメモ帳を開いた。
「連絡のあった日付を教えてもらえますか?」
「今週の火曜の夕方です。二度ほどお電話が…」
「ありがとうございます。お店にはご迷惑をおかけしません。席はこれまで通り開けておきますので。」
店長の声に詫びる調子はなく、いつもと同じ落ち着きがある。しずは電話を切ってから、メモした日時に線を引き、代理人の名刺の欄に日付を書き添えた。
同じ頃、業界の懇親会と社長夫人たちの茶話会には、別の噂が溢れていた。「白峰商事の女社長が寿司屋で因縁をつけられ、契約を盾に白崎物産の社長を脅して金を要求している」。匿名の投稿が同じ趣旨で四度繰り返され、うちの一つには店の実名が書かれていた。噂は取引先の懇親会を通じて、白峰商事の営業部にも回ってきた。
「社長、先日の懇親会でこういう話が出ていたようで…」
「そのまま見せて。」
「先生に回しても良いですか?」
「全部残しておいて。日時の証明をつけて。」
しずは自分では反論しなかった。
「反論はなさらないのですね。」
「言い返すと、相手の話になるわ。噂は、目が潜んでいくわ。」
「代理人の先生ということですね。」
「ええ。投稿の画面と日時は全部抑えてもらって、開示の申し立てもお願いして。」
翌週、代理人が東京地方裁判所に発信者情報開示命令を申し立てた。投稿を載せた事業者から、接続業者へ、契約者の名前まで遡る手続きに入る。電話については、大将の陳述書を業務を妨げる働きかけとして、開示申し立てとは別に残した。
白崎物産のメインバンクが動いたのは、同じ時期のことである。十億の利益が消えた事実を、融資先が異変として把握し、説明を求めてきた。面談の日は月末に決まり、哲也はその準備のために白峰商事へ連絡を寄越した。
「銀行様から書面のご依頼が届いております。」
「事実だけ書いて、評価は書かないで。」
「一枚でよろしいですか?」
「一枚で足りるわ。理由と経緯と届いた日。それで十分なはずよ。」
しずが用意した書面は一枚だった。解除の理由、経緯、通知の到達日。書面を置いてから、しずは桑原に言った。
「十億が消えた。銀行が動き始めたわ。」
桑原は何も言わず、書面の端を揃えてから頷いた。
三週間の間に、白崎の数字が動く。売り上げの四割を占めていた白峰商事との取引は消え、銀行は融資枠を三億円縮小する通知を出している。第二ラインは稼働を止め、油の匂いだけが残った工場に、部品の入ったままの段ボールが並ぶ。社内の掲示板には希望退職の募集要綱が貼られ、「四十名、月末」という数字が輪転機の印刷で張り出されていた。同業二社が翌月から条件の見直しを申し入れ、支払いサイトが短くなる。
同じ頃、しずの手元には別の紙が届いていた。代理人同士で取り交わした和解の趣旨と通帳の写しである。七十九万二千円。振込人の欄に、島田あけみの名前が並んでいた。しずは通帳の写しを指で押さえ、桑原に見せた。
「これであの夜の分は終わりよ。」
「社長、このお金は?」
「使わないわ。」
しずは首を振った。
「全額、社員食堂の改修に回して。うちの人間が座って食べる場所に使うわ。」
「承知しました。椅子から変えてよろしいですか?」
「椅子から変えて。座るところからよ。業者への見積もりは今週中に取ります。」
「お願い。昼に腰を落ち着けて食べられる椅子があれば、それで十分よ。うちの人間が毎日使う場所だから。」
刑事の筋も、通知書に書いた通りに進んだ。しずは暴行の被害届を提出し、受理番号を手元に残した。店の映像と二人の陳述書がそのまま資料になり、あけみは二度任意で取り調べを受ける。二度目には代理人の弁護士が付き、供述の内容は映像と食い違わないところまで削られた。示談の申し入れは代理人を通して届いたが、しずは応じなかった。
ある日の午後、白峰商事の受付から連絡が入る。哲也が私物を詰めた紙袋を下げて立っていた。妻のあけみも後ろにいる。会議室に通すと、彼は座る前に頭を下げ、長く上げなかった。紙袋の持ち手を両手で握り直す。
「本日はお詫びに上がりました。竹内社長に直接お詫び申し上げたくて。」
「どうぞ、おかけください。」
哲也は促されてようやく椅子に座ったが、背は伸びたままだった。
「妻のことです。あの夜、あの場でしたことは、私も後から聞いて、言葉がありませんでした。妻からもお詫びさせてください。」
あけみが小さく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。」
「お気持ちは受け取りました。契約のことは、もうお願いできないと分かっています。ただし、それとは別に、一度だけ直接伺いたかった。」
「契約は別です。申し入れの日から、方針は一度も変わっていません。」
哲也は膝の上で持ち手を握り直し、何度か口を開いて、その度に閉じた。あけみが夫の背中に言葉を重ねたところで、哲也の声が会議室に響いた。
「お前が謝るんだ。」
あけみの肩が止まり、一歩下がる。
「あなた、何で謝ってるの? この人が勝手に…」
「お前が謝るんだ。」
「十億よ。たかがお酒で十億なんて、そんなのおかしいでしょ。」
「あけみ、やめろ。」
「だって、本当のことでしょ? 竹内さんだってそう思ってるんじゃないの?」
しずは声を張らずに言った。
「『たかが』と思える方だけが、かけられるんです。」
間を置いて、続けた。
「私はあの席に、月に一度だけ座っていました。あなたはその席を私から取り上げようとして、グラスの酒をかけて、連れの前で笑いました。それがあの夜に起きたことです。」
あけみは言い返そうとして、口を開けたまま立っていた。
「竹内社長、本当に申し訳ございませんでした。妻がしたことは、会社がどうなろうと、取り返しのつかないことでした。」
哲也はもう一度、深く頭を下げた。
「それは分かっています。お気をつけて、お帰りください。」
哲也の指にあった大ぶりの宝石はもうない。哲也が紙袋を持ち直し、もう一度頭を下げて扉へ向かった。あけみはその背中を追うでもなく、しばらく壁の一点を見ていた。哲也が扉のところで「あけみ」と呼ぶと、遅れてついていく。二人の足音が廊下で遠ざかった。
壁には白峰商事の取引先一覧がかかっている。白崎物産の名は、先月の更新でそこから消えていた。数日後、業界の懇親会の名簿から、島田夫妻の名前が抜け落ちた。社長夫人たちの茶話会からも、あけみの姿は消える。あの寿司屋の予約帳、大将の貸切りの欄に長く書かれてきた社名にも、大将の手で線が引かれた。
白崎物産は主力の第二ラインを閉じ、残った受注は同業の会社へ譲渡された。かつての正面玄関には、譲渡先の社名を記した新しい看板が掛かり、来客用駐車場の白線だけが以前のまま残っている。哲也は辞任し、かつて自社が仕事を回していた資材業者に再就職した。作業着姿で早朝の通用口をくぐる哲也を、得意先回りの途中だった桑原が一度だけ見かけた。声はかけない。島田の自宅は秋のうちに売りに出され、年が開ける頃には更地になっていた。門柱に掛かっていた表札は、更地になる前の週に外されている。
学校のPTA会長は二学期の途中で交代した。新しい割り振り表が配られ、旗当番の並びからあけみの名前が抜けている。
数ヶ月後、開示で判明した契約者名は、島田あけみだった。同じ趣旨の投稿も、彼女である。しずは名誉毀損で訴えた。示談の内容は四点。投稿の削除、書面での謝罪、同種の投稿を今後しない誓約、解決金五十万円。あけみが署名した示談書の写しと、五十万円の振り込みの記録が代理人から届いた。画面上の投稿は消えた。記録は代理人の手元に残っている。
同じ頃、あけみには暴行の罰金の略式命令が出された。罰金三十万円の納付は、あけみが区役所の窓口で自分の手で払った。順番待ちの椅子に座る後ろ姿に、金の大ぶりピアスも赤いドレスもない。
あの高級寿司屋の暖簾は、今年も同じ色のまま冬を迎える。島田の名の下にあった常連の印は、店帳から消えたままになっている。
月が変わった、金曜日。しずはいつもの時間に引き戸を開けた。奥から二番目の席には、湯呑みが伏せて置かれている。大将が「お待ちしておりました」と手を止めずに言い、今日の酒を出してきた。
「お変わりありませんか?」
「相変わらずです。」
「それが一番でございます。」
しずはお酒を一杯だけ開け、箸を戻したところで大将の手が一瞬止まる。締めをいつものものにするかの確認で、しずは短く頷いた。切り分けられた六つの巻き物が、カウンターの上に静かに置かれた。いつもの皿と、いつもの味だった。契約の話は出なかった。父の万年筆は、今日も鞄の中で出番がない。
外は少し冷えていた。帰り道、しずは乾いた頬の感触を確かめながら、ゆっくり歩いた。



