夫が家に帰ってくるなり、リビングにいる私と娘のミクに向かって罵声を浴びせた。
「おい、秋、今日で離婚だ。すぐ荷物をまとめてさっさと出ていけ。ミク、お前もだぞ。目障りだから俺の視界から消えろ」
バンと勢いよくテーブルに離婚届を叩きつける。すでに彼の欄は記入済みだった。
私はゆっくりとスマートフォンから顔を上げ、わざと聞こえるようにため息をついた。それが気に食わなかったのか、夫は額に青筋を浮かべる。
「おい、なんだその態度は。お前のような専業主婦が俺に逆らっていいと思っているのか。早く荷物をまとめろ」
トゲトゲしい声が鼓膜に突き刺さる。もともと彼は私と娘を見下し、辛く当たってくる人間だった。だから未練など全くなかった。だが、私も娘もここから出ていくつもりはなかった。
何も知らずに私たちを追い出そうとする夫を見て、呆れと不快感が混ざったため息が漏れた。私はスマートフォンをテーブルに置き、横目で娘を見る。すると向こうも同じことを考えていたのか、視線がバチっと合う。そしてほぼ同時に、二人でプッと吹き出した。
「何を言っているの? 出ていくのはあなたの方よ」
「パパ、何も知らないの?」
笑い続ける私たちを見て、夫は口をあんぐりと開ける。先ほどまでの迫力ある表情は一変して、間抜けなものになっていた。しかしすぐにまくし立てる。
「は? お前ら一体何を言ってるんだ? この家は俺の親父のものだぞ。いずれ俺が相続するんだから俺の家と変わりない。出ていくのはお前たちの方じゃないか」
挙句の果てには「何も分かっていないまぬけども目」と言いながら得意げに鼻を鳴らす始末。そっくりそのまま彼に返したい言葉だ。
私は一枚の紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
「何だこれは?」
夫は眉をひそめ、不審そうにそれを覗き込む。顔色がみるみる悪くなっていく。
「これは…戸籍謄本よ。見たら分かるでしょ?」
「そういうことが聞きたいんじゃない!」
夫が噛みついてくる。焦る彼を見るのが可笑しくて、私はあえて淡々と言葉を続けた。
「あなたが言った通り、私は義父と養子縁組をしていたのよ。そして、この家を相続するのは私。あなたじゃない」
「は? どういうことなんだよ!」
夫の声がさらに大きくなる。彼がここまで信じようとしないのには理由があった。義父との間に強い絆があると信じていたからだ。
岐阜は男手一つで夫を育ててきた。仕事をしながら慣れない育児に奮闘するのは骨が折れただろう。そんな義父を尊敬している夫は、ことあるごとに私と義父を比べていた。
「親父は働きながら俺を育ててくれた。専業主婦のお前よりもずっとずっと大変だったんだぞ」
その言葉が頭の中で再生され、同時に当時抱いた苛立ちも蘇ってきた。両手に力がこもる。いけない。今感情的になってどうする。冷静に夫を追い詰めなければ。
混乱して頭が真っ白になっているのか、夫は私の様子に気づくことなく続ける。
「親父がお前なんかに家を相続させるものか。くだらない嘘をつくのはやめろ。それに、どうしてこんなに都合よく準備ができているんだ?」
夫が離婚を突きつけてきたのは今回が初めてだ。それなのに、なぜ養子縁組や相続の話が水面下で進められていたのか。私が行動を進めていたことを全く匂わせなかったからこそ、驚きも大きいのだろう。
自分よりも感情を荒らげている人間を見ると自然と落ち着いてくる。その言葉は本当だった。今の夫を見ていると、心がすーっと凪いでいくのを感じる。
私は彼が知りたがっていることを説明するため、ゆっくりと口を開いた。
「これを見てちょうだい」
私はある書類をテーブルに置いた。夫はそれと、テーブルの上ですっかり存在感を失っていた離婚届を見比べる。私が今出した書類も離婚届だった。私の記入済みのものだ。
夫は間違い探しでもするかのように二枚の紙を交互に見比べる。さっきまで余裕綽々だった彼はどこへやら。すっかり覇気を失っていた。
「あなたに今日言われるよりずっと前から、私は離婚を考えていたの。だから一人で役所に行って離婚届をもらって、記入を済ませていたっていうことよ」
「なんでだよ」
夫の間抜けな声に、私は小さく笑い声をもらした。自分は離婚を突きつけてさっさと出ていけと息巻いていたくせに、私が前々から離婚を考えていたと知ると動揺するなんて、笑える話だ。
夫は視線をうろうろと彷徨わせる。私が離婚を心に決めた理由を考えているのだろう。記憶を掘り返してみても、彼には思い当たる節がないようだった。
「パパ、本当に身に覚えがないわけ?」
娘が呆れ返ったように深いため息をもらすと、夫はギロリと鋭く目を細めた。これまで何度となく娘に向けられてきたものだ。威圧して反抗心を奪い、言うことを聞かせるために。
だが、離婚を決めた今、もう怖がることはない。
娘は夫を睨み返すと、声高々に言い放った。
「パパ、浮気していたんでしょ? それで、愛人との間に子供ができたんだよね」
「なんで知ってる…」
夫が泣くようなか細い声で漏らした。途中で慌てて言葉を切ったのは、それ以上言うと浮気を認めたことになると思ったからだろう。
そう。私が離婚するつもりなのは、夫が浮気をしているからだ。
「で、どうなの? さっさと浮気したって認めたらどう?」
娘が畳みかける。夫は何を言ったらいいのか分からず、餌を求める金魚のように口をパクパクさせていた。
しかし、やがて彼は顔を上げ、引きつった唇の端を持ち上げて言った。
「何を言っているんだ? 俺が浮気なんてするわけないだろうが」
先ほどまでの焦りはどこへやら、私たちに出ていけと言っていた時の余裕を取り戻している。娘も私も面食らってしまった。
「じゃあ、俺が浮気したっていう証拠を出してみろよ。ほら、証拠はどこだよ。出せるわけないよな。だってそんなものないんだからな」
なるほど、彼が余裕たっぷりなのには根拠がある。単身赴任先の家に私たちを呼んだことが何度かあったが、そこには浮気の痕跡が全くなかったのだ。
「確かに、あなたの単身赴任中の家からは浮気の証拠は見つからなかったわね」
「当たり前だろ。浮気なんてしていないんだから」
夫は勝ち誇ったように娘を凝視する。
「証拠がないのは、私たちが行ったところだけでしょう。あなた、単身赴任先にいくつも家を借りていたんでしょ」
夫の顔色が一瞬で変わる。
「私たちを招いた家は、浮気などしていないと見せつけるためのカモフラージュ用。浮気に使っている家は別にあるのよ」
用意周到で大掛かりな工作だった。それほどまでに懸命に隠してきた浮気だというのに、結局こうしてバレるなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「最初に気づいたのは私じゃなくてミクだったのよ」
私は頭の中にある引き出しから、その時の記憶を引っ張り出した。
あの日、娘は言うべきか迷って目を伏せていた。しばらくして、口から重々しく言葉が飛び出した。
「ねえ、もしかしたらパパは浮気しているかもしれない」
娘の発言を受け、私は夫を尾行することにした。仕事帰りであろうスーツ姿の彼が向かっていたのは、私たちが招かれた単身用の家とは別の家だった。
ずっと前から彼に見下されて愛情が冷めていたとはいえ、この目で見てしまうとやはり困惑してしまった。足が縫い止められてしまったかのように、数分ほどはその場から動けなくなったのをよく覚えている。
「そうだ。証拠を集めなくては」
ふと浮かんだ考えで我に帰り、私は愛人や隠し後の写真を撮影した。だから、夫が先ほどしつこく言っていた証拠は揃っている。
「ほら、証拠を見せて欲しかったのよね。よく見るといいわよ」
私は現像しておいた写真をずらりとテーブルの上に並べた。夫は顔をそらし、それらが視界に入らないようにする。
娘が夫の浮気に気づいたきっかけは、夫があまりにも私たち二人に冷たいからだった。私たちは愛されていないのだろうか。そんな疑念を抱くようになった矢先、娘はとある映像作品を目にした。その中に、浮気を隠すためにカモフラージュ用の家を用意するというまさに現在の夫と同じことをしている場面があったのだ。
「人先の家には必要最低限のものしか置いていなかったし、ゴミ箱の中にも全然物が入っていなかった。とにかく生活感がなくて新居みたいに綺麗だったから変だなって思ってたんだよね」
その違和感と、映像に出てきた「カモフラージュ用」という言葉。そこから娘は夫が私たちを罠にかけるために別の家を借りたことにたどり着いたというわけだった。
「まさか趣味がこんな形で役立つなんてね」
娘は将来女優になりたいという夢を持っており、演技の参考にするために様々な映像作品を見ていたのだ。最初は義務感で見ていたそれが、いつしか趣味となり、進んで昔の映画なども借りてくるようになった。
夫は目を見開き、口を薄く開いてポカンとしていた。彼は娘とほとんど関わってこなかったため、娘がそんなことを知っているとは夢にも思わなかっただろう。同時に、彼に全く父親としての自覚がないことも露見した。
その場を沈黙が包む。外の音がやけに大きく聞こえた。
最初に口を開いたのは夫だった。
「ああ、そうだよ。俺は浮気してたよ。はい、はい、すみませんでした。そら、これで満足か」
なんとも不快な言葉に、私と娘の顔が一層曇る。夫は口では謝罪の言葉を発しているが、表情には罪悪感といったものは一切滲んでおらず、開き直っていた。
「でもなあ、浮気されるのはお前にも原因があったんじゃないか」
夫はまっすぐに私を指さした。怒りが再び沸騰し、両手の拳に力が入って震え始める。
夫はゲスい笑みを浮かべながら、愛人のことについて語り出した。
「名前は霊下と言って、大企業で活躍するエリートなんだ。稼ぎもいいから、お前らと離れても生活は安泰だわ。というか、金食い虫のお前らを養うっていう義務から解放されて清々するよ。やっぱり秋みたいな専業主婦よりも、霊下みたいに働きながらも子育てをしてくれる女の方がいいに決まってるじゃねえかよ。ああ、これでようやくお前らから離れて本格的に霊下と暮らせるわ」
身勝手な主張をマシンガンのごとく並べ立てる夫に、私も娘も呆れてしまった。
そもそも、娘が生まれた後に専業主婦になって欲しいと私に頼んできたのは彼の方だというのに。だから私は家事や育児など自分にできることで家庭を支えてきた。その仕打ちがこれか。
「寄生中」「ニート極つぶし」。これまで私が夫からぶつけられてきた言葉だ。彼の中には元より私への愛情など小指の爪の先ほどもない。都合よく飯使いにでもするために結婚したのだろうとうすうす感づいていた。
だが、娘のことを下げるのであれば話は別だ。よくもまあ、自分の娘にそんなことが言えたものだ。私は胸の中で改めて怒りの炎を大きくし、復讐の決意を固めた。
「で、浮気の話が本当だったからなんだって言うんだ」
「なんだって言うんだって。何? パパが全面的に悪いんだから。それを認めて出ていけばいいのに」
「いや、出ていくのはお前らだって」
どうやら彼は、私が義父と養子縁組をしたことや、私がこの家を相続することを信じていないらしい。書類まで見せたというのに。
「どうせさっき見せてきた養子縁組の書類はお前が偽造したやつなんだろう。相続の話も嘘に決まっている。くだらないことばっかり言っていないで、さっさと荷物をまとめろ」
夫がバンとテーブルを叩いて威圧し、玄関扉の方を指差したその時、ピンポンとチャイムの音が鳴り響いた。
夫は一瞬目を丸くしたが、直後にうんざりしたような表情になった。話の腰を折られたと思っていることが丸分かりだ。チャイムを無視して再度出ていけと言おうとしたが、それを遮るかのように何度も鳴り続ける。
深いため息をついてから、ようやく立ち上がって玄関に向かう夫の背中を見送って、私はこっそり笑をもらした。この来客によって、彼がもう余裕ぶっていられなくなるであろうことが分かっていたからだ。
夫は扉を開くなり「なんで…」とひどく動揺したような声をあげた。それを聞いて、私は娘と顔を合わせ小さく頷く。私たちは扉の向こうにいるのが誰だか知っていた。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
夫の情けない声をよそに、靴を脱いでリビングまで向かってくる足音。私は立ち上がり、廊下とこの部屋を隔てる扉の前に立ち、その人物を出迎えた。
「ありがとうございます、お父さん」
そう、やってきたのは義父だったのである。夫は義父の後ろから「よお」と声をかけるが、何もないはずの廊下でつまずいたり、壁に肩をぶつけたりと挙動不審になっていた。
「なんで親父がここにいるんだよ」
切羽詰まった声で問いかける夫に、私はテーブルの上に置きっぱなしとなっていたスマートフォンを手で示した。夫は恐る恐るそれに手を伸ばし、伏せてあった画面を上に向ける。するとそこには、義父の通話画面が表示されていた。時間にしておよそ一時間ほど。つまり、夫が単身赴任先から帰ってきて離婚を突きつけてきた頃から始まっていることになる。
それを確認した瞬間、「まさか」と夫が震える声でそれだけをこぼした。
そう、そのまさかだ。これまでの会話は義父に筒抜けとなっていたのである。
「いや、違うんだよ。親父。あの、ごまかしのために夫は何やらもごもごと口ごもっているが、うまい言い訳が思いつかなかったのだろう。義父はそんな彼に目もくれず、私に対して深々と頭を下げた。
「秋さん、友鍋が迷惑をかけてしまい、大変申し訳ない」
「そんなお父さんが謝ることじゃないですよ。顔をあげてください」
「そうだよ、親父。こんなやつに頭なんか下げるなよ」
私たちの会話に割って入ってきた夫を、義父がギロリと睨みつける。夫の方が少しだけ身長が高いのだが、義父が威圧感を放っているため、夫が縮み上がってしまい、すっかり逆転していた。
義父はそんな夫に向き直ると淡々と言い放った。
「とになり、先ほど秋さんが言っていた養子縁組の話も相続の件も全て真実だ。お前にこの家を継がせるわけにはいかない」
夫は顎が外れるのではないかと思うくらい口を大きく開けて固まった。義父が淡々と説明を始める。
「俺の前では真面目で優しい人間だが、秋さんやミクちゃんに向ける目が冷たいような気がしたんだ。それで怪しむようになった。そして、家族をないがしろにして浮気をしていることを知り、確信に変わった」
「違うよ、親父。俺は家族をないしにしてなんか」
「その場を取り繕うためだけの言葉を、誰が信じると言うんだ。そういったお前の日頃の言動から、俺は本心に気がついていたというのに」
「いいか、と成り。お前が何を言おうと、俺と秋さんが養子縁組をしたことは覆らないし、お前に相続をさせないという意思も揺らがないんだよ」
その言葉を受け、夫はがっくりと電源の切れたロボットのように項垂れた。
「何を黙ってんだ。全部お前が原因だろう。秋さんとミクちゃんの気持ちを考えると、本当に情けないよ」
義父の表情からは、私や娘のことを思ってくれているのがひしひしと伝わってきて、こんな状況にも関わらず嬉しくなってしまう。
夫はパッと顔をあげた。実の親から説教を受け、さすがに改心したのだろうか。そんな淡い期待は、次の瞬間粉々に打ち砕かれる。
「んだよ。そいつらの肩を持ち上がって。こんなことになるんだったら、親孝行なんかしなければよかったよ」
なんと夫は、浮気を認めた時と同じように開き直ったのだ。嫌悪感を顔中に撒き散らし、苛立ちを体に表現するかのように貧乏ゆすりをしている。
私や娘はもちろん、義父も呆れて言葉が出ない。三人同時に眉をひそめたような表情になって顔を見合わせた。
「俺が親をしていたのは全部演技だったんだよ。遺産が欲しかったからな。まんまと騙されてくれて、うまくいくかと思っていたのにな」
次に彼は大ぶりな仕草でこちらを向くと、ニタニタと気持ちの悪い笑顔で煽ってくる。
「ていうか秋、俺と離婚してどうするんだよ。専業主婦のお前に子供が育てられるわけないだろうが。今まで俺の収入を頼りにしていたくせに。いいんだぞ。俺が金を出してやっても」
彼は盛大な勘違いをしている。私はひるむことなく、彼のことをまっすぐに見据えた。
「勘違いをしているパパに見せたいものがあるの」
そう言うなり娘が小箱を持ってきてテーブルに並べた。戸籍謄本、離婚届、浮気の証拠写真、そして娘がよく見ている映画やドラマのDVDなど。
夫は娘が何を言いたいのか分かっておらず、眉をひそめるばかりだ。
「ママは脚本家として大人気なんだよ」
「は?」
そう、私はライターとして成功しており、ありがたいことに仕事をいくつもらっている。そのため実は夫よりも収入が上なのだ。彼の稼ぎに頼っているわけでは全くない。
何も知らない夫は、金目当てのエリートの愛人を作ったようだが、実際は私の方が稼ぎがいいのである。夫の顔はこれまで見た中で一番と言っても過言ではないくらい歪んでいた。
「残念ながらお金には全く困っていない。だから、私があなたにお金を出してあげてもいいのよ」
つい先ほど夫が私に対して言ってきたこと。それを返され、彼は顔どころか耳まで真っ赤になっていた。
「お前の施しなんか受けるわけないだろ。今後一切お前には頼らないからな」
「別に最初は金目当てだったけど、今は本気で霊下を愛しているからな。お前よりあいつの方がいいに決まってるだろ。自分が選ばれると思わない方がいいぞ」
義父が夫を責めようと声を荒げたが、私はそんな彼に向かって手で止めるようなポーズを取った。そして一歩前に出て、淡々と言葉を投げかける。
「そんなことを言っていいの? 今すぐ謝罪しないと、後悔するわよ」
しかし夫は聞く耳を持たず、はたけるように鼻を鳴らすばかり。
「後悔なんかしねえよ」
そう言ったかと思えば、彼は私が用意していた離婚届にサインして、あっという間に家から出て行ってしまった。
その背中をあんぐりと見つめていた義父が我に帰ると、私たちに再び頭を下げてくれた。
「本当にすまない。あいつには必ず心からの謝罪をさせる」
「大丈夫ですよ、お父さん。すでに手は打ってありますから」
困ったような顔をする義父に、私はニッと微笑んだ。私は全て知っているのだ。夫がいかに愚ろかなのかということ。そして、夫が勝手に転落していくということも。
それから数ヶ月後、私のスマートフォンが振動し、着信を知らせてくる。画面に表示されているのは元夫の名前だ。「やはりな」と私は笑みをこぼした。きっと電話を取ったら、予想通りの言葉が聞こえてくることだろう。
「もしもし。頼むよ。助けてくれ」
頭の中に思い浮かべていたのと一言一句違わない文章。それが面白くて、私は微笑み混じりの笑い声を漏らしてしまったが、切羽詰まっている元夫にはそれが聞こえていないようだ。
元夫は私からの言葉を待たず、現在自分が置かれている状況についてペラペラと説明してくる。あれに騙されていたんだと。実は愛人も金目当てで元夫に近づいていたのである。そのために身分を偽っていたため、本当はエリートでも何でもなかった。特集を予想って金のために近づいた元夫。エリートのふりをしていた愛人。ある意味似た者同士かもしれない。
真実を知った元夫は愛人に詰め寄ろうとしたが、時すでに遅く、彼の貯蓄を奪って姿を消していた。
ちなみに、私はこのことを浮気調査の段階で気がついていた。愛人の素性について調べていると、複数の男性と関係を持って詐欺行為をしていることが発覚したのだ。
ペラペラと話を終えたところで、ようやく私がクスクスと笑っているのが耳に入ったのだろう。元夫は電話が壊れるんじゃないかと思うくらい激昂した。
「何がおかしい。さては、お前元から知っていたんだな!」
鼓膜に突き刺さるノイズ混じりの怒鳴り声だが、全く迫力などは感じない。彼と私はもう赤の他人。今後関わることなどないのだから。
「頼むよ。貯金も底をついているから、生活費すら出せないんだ。金を貸してくれ」
怒ったかと思えば懇願してきたり、なかなかに情緒不安定である。泣く寸前のような震えた声でそう言ってきたが、私は容赦しない。
「何を言っているの? 今後一切お前には頼らないのよね」
そうつっぱねると、元夫は返す言葉もなくなってしまったようだ。「ごめん。許してほしい」と拝むように繰り返しているが、聞き入れるつもりはなかった。
最後の忠告を無視するからこうなるのよ。自業自得としか言いようがないわ。
直後、元夫は完全に沈黙してしまう。私は何も言わず、そのまま電話を切ったのだった。
その後、元夫はボロボロになり、見事予想通り転落していくこととなる。一度だけ街中で着古したスウェットをまとい、髭も髪も伸び切った彼を見かけたが、当然声をかけることはしなかった。
一方、私や娘は幸せに生活している。成長した娘は夢を叶えて女優になり、ドラマ出演を果たしたのだ。その作品は私が手掛けた脚本だ。まさか親子で一緒に仕事ができるなんてと、涙ぐみながら喜んだのをよく覚えている。
義父も良好な関係を築いており、仕事や近況について報告すると、自分のことのように喜んでくれた。こんなに優しい人が味方になってくれて、こちらとしては感謝しかない。
娘、そして義父という家族を大切にしながら、これからも生きていこうと固く心の中で誓ったのだった。



