ある日、私は階段から足を踏み外して病院に運ばれた。幸い軽い打撲で済んだものの、その夜、娘の花と孫のサラが心配そうな顔で家にやってきた。
「おばあちゃんがこのまま一人暮らしをするのは心配よ。どうせだったら私たちと一緒に同居したらどう?」
二人の優しさが心に染みた。夫が亡くなって以来、どこか寂しい感情を抱いていたこともあり、私は思わず泣けてきたのだ。
「本当にいいの?」
私は二人の気持ちに甘えて同居することにした。
しかしそれから間もなく、秋夫がタワマンに乗り込んできたのだ。
エントランスで管理人に止められるも、「あいつらの家族だ」と言い張り、強引に突破してきたらしい。そして土足のまま玄関を蹴るように開け、私の制止も聞かずにずけずけと部屋へ上がり込んできた。
「うわあ、やっぱタワマンは空気が違うな」
秋夫はキョロキョロと室内を見渡し、リビングへ入り込む。まるで観光客のように壁や家具に興味津々な様子で手を触れ始めた。
「ここ最高っすね。俺、角部屋もらいますね」
秋夫は何事もなかったかのように平然と言い放つ。
「何を言っているの?今すぐ出ていきなさい。そういう家族ごっこはもう終わったの」
秋夫の目が険しくなる。
「はあ。何様のつもり?」
私は深く息を吐いて冷静に言い返した。
「教えてあげる。裁判所から接近禁止命令が出てるの。もうここに来ること自体が違法なのよ」
この男をこのままにしておいてはいけない。そう思った私は、秋夫と対峙する覚悟を決めた。
私は岸本しずえ、74歳。一人娘の花が独立して以来、会社員をしていた三つ年上の夫と二人で暮らしてきた。夫は家族思いの優しい人で、忙しい仕事の傍ら、休日になると娘を連れて出かけるのが好きだった。
夫は趣味で写真を撮っており、出先で景色や娘の写真を撮ることを楽しみにしていた。数年前、夫が定年退職を迎えたのを機に、夫婦でゆっくり全国旅行に行くことになった。夫婦で全国を回り、写真を撮るのが夫の長年の夢だったのだ。
しかし出発まで一週間となった日、夫が突然倒れた。入浴中の出来事で、なかなか風呂から上がってこない夫を心配して様子を見に行くと、そこに夫が倒れていたのだ。
慌てて声をかけても夫の反応はなかった。鼻に手を当ててみると、呼吸も止まっている。私はパニックになりながらも119番通報し、オペレーターの指示に従って蘇生を試みた。それでも夫はなかなか息を吹き返さない。もうダメかと思ったその時、救急隊が到着し、AEDによる蘇生が始まった。そのおかげで夫の心臓は再び動き出したのだが、意識は戻らない。
そのまま救急病院へと搬送された夫は、医師たちの懸命な処置によって一命を取り止めた。しかし、体に麻痺が残ってしまい、その日から夫の介護が始まったのだ。
楽しみにしていた旅行にも行けなくなり、夫は元気をなくしてしまっていたが、それでも「いつか叶う」と励ましながら私は懸命に夫を支えた。
しかし運命は残酷である。夫はその後、心臓にも疾患が見つかり、昨年この世を旅立った。
一人暮らしとなった私には虚しさだけが残った。家の中には夫との思い出がたくさん詰まっている。その一つ一つに触れる度、涙が溢れてくるのだ。
それでも娘の花が孫のサラを連れて頻繁に訪ねてきてくれることが私の心の支えとなり、なんとか笑顔でいられた。
花は24歳の時に学生時代に交際していた秋夫と結婚し、サラを出産した。当時から秋夫はどこか傲慢で、私たち夫婦に対しても上から目線が鼻についた。そのため、妊娠したとはいえ秋夫と結婚することに賛成できなかったのだが、生まれてくる子供のことを思えば受け入れるしかなかった。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫っすよ。俺はやる時はやる男なんで。子供が生まれるまでには仕事も見つけるって約束してくれてるし、彼を信じてあげてほしい」
花にそう言われると信じるしかない。秋夫は一見頼りがいがあるように見えたのだが、言葉の端々に自己中心的な性格が見え、花に対しても威圧的な言動を見せていた。花にしてみれば頼りがいがあると思ったようだが、私の中では警告音が鳴り響いていたのである。
花が結婚した直後、私の心配は的中することとなった。秋夫は子育てに無関心で定職にもつかず、毎日遊び歩いていたのだ。生活の全てを花が支えることとなり、仕事と育児の狭間で花は日に日に疲弊していった。
たまらず私と夫は秋夫を呼び出した。
「花と結婚したというのに、どうして仕事もせずに遊び歩いてるの?」
「そんなこと、お母さんたちには関係ないでしょう」
「子供も生まれてるのよ。父親として自覚を持ちなさい」
「俺は子供なんて欲しくなかったし、結婚してやっただけでもありがたいと思ってほしい」
秋夫は悪びれることもなく、態度を改める気もなさそうだ。花が仕事に行っている間は私がサラの面倒を見ていたのだが、秋夫は感謝することなく当然のように振る舞う。正月といえど秋夫が挨拶に来ることもない。
「あんな人ならいない方がましよ」
何のために結婚したのかと悩む花を見ているのが辛くなるほどだった。
「離婚を考えてもいいんじゃない?」
「だけどサラのことを考えると、父親がいないことでサラが辛い目に会うのは嫌よ」
この頃には花の中に秋夫への愛情など亡くなっていたようだ。それでもサラのことを考えて離婚に踏み切れないでいた。
サラが小学生に上がる頃、ついに秋夫は家に帰ってこなくなった。花は顔を見せるたびに眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている。そんな花にサラも気を使っているのか、話しかけることも躊躇していた。秋夫の存在が親子の関係まで壊してしまうのではないか。私の中に大きな不安が生まれていた。
「もう離婚してもいいんじゃない?このままじゃサラのためにもならないわ」
「それはそう思うんだけど、秋夫が離婚に応じてくれないのよ」
花が秋夫との離婚を考えたのは一度や二度ではない。しかし、秋夫が離婚に応じることはない。電話もすぐに切ってしまうし、LINEだって既読にもならない。家にも帰ってこないくせに、離婚はしないと花との話し合いすら無視しているようだ。
それでも生活を改めることのない秋夫に、私と夫は我慢の限界を迎えていた。
「家にも帰らないで。秋夫はどこにいるの?」
「それがきっと愛人がいるんだと思う」
「それは本当なの?」
「確信はないけど、秋夫は結婚した当初から浮気が絶えなかったから、きっと今も別の女性と一緒なんだと思うわ」
その話を聞いた私は怒りが収まらなかった。可愛い娘と孫をないがしろにしている秋夫が許せない。
「分かったわ。秋夫の浮気の証拠を押さえましょう」
私は探偵を雇い、秋夫の身辺調査に乗り出した。秋夫の浮気の証拠があれば、一方的に離婚をすることもできる。花とサラの今後を考えると、ただ座っているだけの夫など必要ない。そう思ったのだ。
調査を依頼して二週間後、探偵から連絡が入る。その調査結果を見た私は、想像以上の現実に怒りを抑えられなかった。秋夫は愛人を作っているだけでなく、その愛人との間に子供をもうけ、一緒に暮らしていたのだ。
「秋夫と離婚しなさい。この証拠があれば、裁判所も離婚を認めてくれるわ」
「まさか隠し子までいたなんて」
花は大きなショックを受けたようだが、秋夫との離婚を決意してくれた。それから数日後、離婚裁判を起こしたのだ。
裁判では秋夫は最後まで抵抗を見せていたのだが、秋夫の悪質性が認められ、全面的に花の主張が認められた。その結果、離婚が成立し、サラの親権も花が取得することになったのである。花は肩の荷が下りたのか、表情も明るくなり、サラを支えるため仕事にも力を入れた。サラは学校が終わると私の家に帰ってきて、花の帰りを待った。
二人にとって決して楽な選択ではなかったのかもしれないが、秋夫との離婚が決定してからというもの、花には笑顔が戻り、サラも嬉しそうに笑っていることが増えた。サラはよく話すようになり、花との関係も良くなっている。その様子が見られるだけでも私は安心していた。
サラは逆境に負けることなく、素直で優しい女性へと成長してくれた。夫の介護が始まっても、勉強の合間に手伝ってくれて、時に夫に本を読んでくれたり、体をさすってくれたりと、サラの存在が夫にとっても生きる気力につながっているようだ。
「サラ、いつもありがとう」
「お礼なんて。おじいちゃんには長生きしてほしいもの」
一時期はどうなることかと心配した私だが、サラの屈託のない笑顔に私までもが癒されていた。
その後サラは高校、大学と順調に進学をし、やがて全国的にも名の知れた大手企業に就職を果たした。私は花と相談し、サラに特別なプレゼントを用意することにしたのだ。
大学の卒業祝いを兼ねて近くにある高級レストランを予約した私は、ウェイターに頼んでサプライズを用意してもらった。食事が進みデザートを食べた頃、店内の照明が暗転し、同時にウェイターがトレーを持って歩み寄る。
「こちら、奥様が特別にご用意されたものでございます」
目の前に差し出された皿を見て、サラは目を輝かせている。
「開けてみて」
私の声に頷きながら、サラは緊張した様子で蓋を開けた。すると中からダイヤのネックレスが姿を表したのだ。
「おばあちゃん、ありがとう」
感激したのか、サラは涙を浮かべる。
「これまでサラには苦労ばかりかけてきたから、おばあちゃんがご褒美だって。そのダイヤのように、サラに素敵な未来が訪れるって願ってるわ」
「ありがとう」
その日は三世代で夜遅くまで語り明かした。
四月になり、サラは真新しいスーツに身を包み仕事へと出かけていく。その後ろ姿を、私は花と一緒に感慨深げに見つめた。
「これで一安心ね」
「ええ、それもこれもお母さんのおかげよ」
この時は私も花も、このまま平穏な日々が続くと思っていた。しかしその頃から、サラの周りで不審な出来事が起こるようになったのだ。
ある日、サラが深刻そうな顔で相談にやってきた。
「最近、誰かにつけられているようなの」
「え、誰に?」
「それが分からないの。仕事が終わると会社の前で待ち伏せしてるし、気持ち悪くて」
サラの顔は恐怖に震えていた。
「それで、どんな人なの?」
「それが私の名前を知ってて、『お父さんだ』って叫んでるのよ」
サラの話を聞いて私は息を飲んだ。まさか秋夫が接触しようとしているのか?そうだとするならば、一体何の目的でサラに近づこうとしているのか。何にしてもこのまま放置するわけにはいかない。私はすぐに警察に相談することを決めた。
その日のうちに最寄りの警察署を訪れると、警察官は「典型的なストーカーですね」と言い、すぐに調査に乗り出してくれた。しかし数日後、私たちに知らされた事実は衝撃的なものだった。
「ストーカーしていたのは川田明夫という人物です。心当たりはありますか?」
「秋夫?ご存知なんですね。娘の元夫です。サラにとっては父親です」
離婚が成立してからというもの、一度も連絡を取ることのなかった秋夫がサラに付きまとっているという事実に、私は恐怖を感じた。秋夫は何を考えているのか。まさか今更になってサラの父親だと主張するつもりなのだろうか。
「娘と秋夫の離婚は何年も前に成立しています。サラが生まれた時からずっと育ててきたのは娘です。今後サラに近づかないようにする方法はありませんか?」
「それでしたら、接近禁止命令を出しましょう。もし秋夫がまた近づくようなら、すぐに110番通報してください」
サラはその場で被害届を出し、数日後、秋夫にはサラと花に近づかないよう接近禁止命令が出された。それでも秋夫の接触はなくならなかったようで、サラは周りの同僚たちの協力も得ながら秋夫を避けるようにしていたそうだ。
そんな中、私は階段から足を踏み外してしまい、転倒してしまった。偶然帰宅していた花のおかげですぐに救急車で運ばれた私は、軽い打撲程度の怪我で済んだのだが、もしも頭を打っていたらと考えると怖くなる。気づけば私も74歳。気持ちは若いつもりでも体は弱ってきているようだ。考えてみれば、ここのところよくつまずくことがある。少し動いただけでも疲れやすく、座って過ごすことも増えているのだ。年齢には抗えないのかと、どこか寂しくもなる。
その日の夜、花が表情を変えて家にやってきた。
「お母さん、階段から落ちたって、大丈夫なの?」
「ちょっと足をくじいたくらいよ。心配いらないわ」
「よかった。でも、最近物忘れも増えているし、これから先また転ばないとも限らないわ」
「ちゃんと気をつけるから大丈夫よ」
花は心配のあまり目に涙を浮かべている。
「本当に大丈夫だから、心配かけてごめんね」
「おばあちゃんがこの先一人暮らしを続けるのは心配よ。どうせだったら私たちと一緒に同居したらどう?」
「そうね。それがいいわ」
そう言ってくれたのはサラも同じだった。しかし親子とはいえ、同居するとなると色々気も使わせる。せっかく仲良くやってこれたのに、その関係性に傷がつくことも避けたい。そう思った私はその提案を断った。
「気を使うことなんてないわ。おばあちゃんが安心して暮らせることの方が大事よ」
「そうよ。家族なのに遠慮なんてしないで。これまでたくさん支えてきてくれたお母さんだもの。これからは私たちに支えさせて」
花とサラの優しさが心に染みた。夫が亡くなって以来、どこか寂しい感情を抱いていたこともあり、私は思わず泣けてきたのだ。
「本当にいいの?」
「いいに決まってるわ。おばあちゃんが一緒にいてくれたら、私たちも安心だもの」
私は二人の気持ちに甘えて同居することにした。
数ヶ月後、夫と暮らした家を処分して花とサラの暮らすタワマンに引っ越した私は、せめてもの恩返しにと家事を担うことにした。久しぶりに家族で食べる食事の温かさに胸が熱くなる。休日には三人で旅行にも出かけ、平穏な日々が過ぎていった。
しかしそれから間もなく、秋夫がタワマンに乗り込んできたのだ。エントランスで管理人に止められるも、「あいつらの家族だ」と言い張り、強引に突破してきたらしい。そして土足のまま玄関を蹴るように開け、私の制止も聞かずにずけずけと部屋へ上がり込んできた。
「うわあ、やっぱタワマンは空気が違うな」
秋夫はキョロキョロと室内を見渡し、リビングへ入り込む。まるで観光客のように壁や家具に興味津々な様子で手を触れ始めた。
「へえ、ソファー新品すね。テレビもでかいし」
リモコンを勝手に手に取り、スイッチを入れたかと思えば、ふっと振り返って不敵に言った。
「ここ最高っすね。俺、角部屋もらいますね」
秋夫は何事もなかったかのように平然と言い放つ。
「どういうつもり?」
「俺の家に帰ってきただけっすよ」
秋夫は不敵な笑みを浮かべている。
「今すぐ出ていきなさい」
「はあ。なんで出ていかないといけないんだ」
「そういう家族ごっこはもう終わったの」
秋夫の目が険しくなった。
「あのさ、何様のつもり?何勘違いしてんすか?」
私は深く息を吐いて冷静に言い返した。
「じゃあ教えてあげる。裁判所から接近禁止命令が出てるの。もうここに来ること自体が違法なのよ」
この男をこのままにしておいてはいけない。そう思った私は、花とサラに帰宅時間を遅らせるようにメッセージを送り、秋夫と対峙する覚悟を決めた。
「離婚は裁判所が認めたのよ。あなたは家事も育児も放棄して仕事もしない。しかも愛人と同棲して隠し子まで作ってたじゃない。それが理由で離婚が成立したのよ」
私の声も届いていないのか、秋夫は「離婚に応じた覚えはない」と言わんばかりにしている。
「それがどうしたって言うんだよ。離婚なんて所詮書類上のことだ。俺がサラの父親であることに変わりはない。つまり俺にはここに住む権利があるってことだ」
秋夫は無茶苦茶な屁理屈を持ち出し、私の言うことに聞く耳を持たない。
「あなたに父親を名乗る資格なんてないわ」
玄関に立つ秋夫に、私は強い口調で言い放った。
「資格ならあるさ。サラとは血が繋がってるんだぞ。それ以上に強い絆なんてこの世にあるか?」
その言葉に胸の奥がざわつく。血の繋がりだけで家族を名乗る。都合のいい時だけ父親の顔を出す男に、私は深い嫌悪を覚えた。
「血の繋がりなんて関係ない。サラがどれだけあなたの裏切りに傷ついたか分かってる?あなたは父親としても夫としても責任から逃げたのよ」
「俺は責任なんか放棄してねえ。そもそもお前の娘と結婚したのも、先々の生活に困らなさそうだったからだ。こっちは夢見て結婚したってのに、あいつは節約だの何だのってやたらうるせえしよ」
私は息を飲んだ。まさか浮気したことまで花のせいだと?
「俺が家を出たのは、あいつが男を立てるってことを全く知らなかったからだ。俺の浮気はあいつが原因だよ」
どこまでも自分勝手な秋夫に、嫌悪感すら湧いてくる。
「サラはあの大手企業で働いてるんだ。これで俺の生活も安泰だな」
「何勝手なことを言ってるの?サラの人生をあなたにめちゃくちゃにはさせない」
どうやら秋夫は、サラが大手企業に就職したことを知り、付きまとっていたようだ。しかし接近禁止命令が出された今、サラの父親を名乗る資格もない。
「あなたは自分の身勝手のために、サラに付きまとっていたのね」
「父親が娘に会って何が悪い?接近禁止命令だ?そんなもの権利の侵害でしかない」
「サラにこれ以上手を出させないわ。もちろん花にとっても、あなたは父親でも夫でもない赤の他人よ」
私の言葉に逆上したのか、秋夫はその場で暴れ出した。目につく家具を次々に投げ倒していく。私は恐怖で手が震えたが、必死に足を踏ん張った。
「警察を呼ぶわよ」
「呼べるものなら呼んでみろよ。花とサラがどうなっても知らねえぞ」
秋夫は明らかに私を脅してきた。そこに花が帰ってきた。
「花、いい加減にして。それ以上暴れたら容赦しないわよ」
「お、花。ご主人様が帰ってきてやったんだ。喜べ」
秋夫は花の腕に掴みかかった。
「やめて。あなたはもう私の夫じゃない」
「何を言ってるんだ。俺たちはあんなに愛し合った仲じゃないか」
秋夫の厚かましい笑みが私の怒りを増幅させる。
「それ以上花に手を出したら、傷害で訴えるわ」
「好きにしろよ。夫婦の問題には警察も民事不介入だ」
秋夫は強気な態度を緩めなかった。そこへ管理人が駆け込んでくる。
「警察に通報しました。すぐに来てくれるそうです」
その声を聞いた秋夫は、悔しそうに顔を歪めた。
「くそ。覚えてろよ」
秋夫は人を突き飛ばし、「覚えていろ」と言い残して逃走したのだ。
正式に離婚が成立し、接近禁止命令まで出しているというのに、秋夫は一切を無視して身勝手な行動を起こす。その事実が私たち家族を不安に落とし入れた。しかしその後は、秋夫の姿を見るたびに管理人が警察へ通報してくれたおかげで、特に何も起こらずに過ごせたのだ。サラの通勤時には警備会社の護衛をつけて万全の措置を取った。手出しができなくなった秋夫は、そのまま諦めるだろうと思っていたのだが、予想外に秋夫は諦めが悪かったようだ。
一ヶ月ほど経ったある日、タワマンの前で高齢者集団による抗議デモが発生した。
「収入差別反対。子供に会わせろ。傲慢な一家を追放しろ」
その中心にいたのは、秋夫の両親だったのだ。私はデモ集団の前に立ち、秋夫の両親と対峙した。
「あんただね。秋夫から嫁と子供を奪った悪」
「何をおっしゃってるんですか?花と秋夫の離婚は裁判所が認めたことです」
「全部聞いているんだ。あんたは秋夫が低収入なことを理由に無理やり離婚させて、子供とも合わせないようにしてるんだ」
どうやら秋夫が嘘の情報を与えているようだ。親バカとはよく言ったものである。秋夫は秋夫の言い分を鵜呑みにして、近所の人たちを引き連れてデモを起こしたのだ。
私は哀れみながら秋夫の両親を見つめた。
「あなたの息子は、私の可愛い娘と孫をないがしろにし、愛人に隠し子まで作って勝手に家を出ていったのよ。非常識なのはどっち?」
私は秋夫の不貞の証拠を突きつけた。その途端、秋夫の両親の顔は青ざめたのだが、強気な態度は崩れなかった。
「それがどうしたっていうのよ。結婚したんだから、夫に尽くすのが嫁の役目よ」
「その通りだ。隠し子くらい許せ」
「そうよ。夫は立派に少子化対策に貢献しているわ」
カエルの子はカエルとはよく言ったものである。秋夫の両親はどういう神経をしているのだろうか。めちゃくちゃな屁理屈で必死に息子を擁護し始めた。
「それ、本気で言ってるんですか?とても私より年上の方とは思えない発言ですね」
「結婚は絶対的な契約なのよ。一方的に離婚なんて認められるはずがないわ」
「でも裁判所は認めてくれました。警察も秋夫に接近禁止命令を出しています」
私と秋夫の両親とのやり取りを、デモ参加者たちは黙って聞いていたのだが、次第に秋夫の両親の言い分がおかしいことに気づいたようだ。
「あの、今の話じゃ、悪いのはあなたの息子さんですよね」
「何を言ってるんだ。秋夫は何も悪くない」
「結婚が絶対的な契約だというなら、その上で浮気して隠し子まで作った夫が先に契約を破ったことになる」
「そ、それは……」
デモ参加者の正論に、秋夫の両親も言葉をつまらせる。
「だけど秋夫は悪くないわ」
「どんな父親だろうと、子供に会う権利はあるわ」
「だからってストーカーするのは違います。それにサラが生まれた時から、秋夫は子育てにも無関心で、家にも帰ってきていません」
「帰りたくない家にした、あんたの娘が悪いんだろう」
「あの人は仕事もせず収入もありませんでした。経済的にも精神的にも娘と孫を追い詰め、父親としての役割も夫としての役割も果たさず、権利だけ主張するのはどうかと思いますが」
私の話に、デモ参加者から賛同の声が上がった。そして私の話が正しいと判断したデモ参加者たちは、一人、また一人とデモから離脱していき、最終的には全員が離れたのだ。
「まだ続けますか?」
すっかり孤立した秋夫の両親は顔を見合わせ、その場で土下座を始めた。
「すまなかった。この通りだから、息子を許してやってくれ」
「秋夫はあんたたちに捨てられたら、行くところもないのよ。お願いだから受け入れてやって」
秋夫の両親は涙ながらに訴えてきた。周辺を歩く人がこちらをチラチラと見ながら、何事かと好奇の目を向ける。娘と孫を傷つけた男を許せるわけがないでしょう。
私はスマホを取り出し、秋夫の両親の姿を撮影した。
「あなたたちの息子がしていることを、きちんと知ってもらいます」
私はその場で、秋夫の行いをまとめた記録をSNSに投稿した。そこには、秋夫が花やサラを無断で撮影し、モザイクもかけずに誹謗中傷している動画が投稿されていたのだ。男の因縁や学歴詐称、買玉入社など根も葉もない事実を書き並べ、花とサラの名誉まで傷つけている。こんなことをされて、許すつもりはありません。
「これ以上あの子たちに付きまとうなら、目が覚めるまで訴えますから」
私がそう言い放つと、秋夫の両親は肩を落としてその場を去っていった。
しかし事態はこれだけで収まらなかったようだ。翌日のニュースで、秋夫の両親がタワマン前で座り込んだ様子が報道された。私との一連のやり取りが取り上げられ、秋夫の身勝手な行動に便乗した両親の恥が世間にさらされる。すると全国から「迷惑な老害だ」と非難が殺到したようだ。それと同時に、通行人が衝撃映像としてデモの様子をSNSにあげた。秋夫の両親や秋夫本人の素顔がSNSにさらされ、コメント欄には「女の敵」「社会のゴミ」だと辛辣な言葉が並んだ。秋夫の両親は世間から完全に孤立し、外出もままならなくなったらしい。
事態を重く受け止めた警察も捜査に乗り出し、秋夫の両親が許可なくデモを起こしていたことが判明した。その結果、秋夫の両親は道路交通法違反の罪で逮捕されることとなったのである。それと同時に、秋夫にも逮捕状が出された。秋夫は接近禁止命令を無視して花やサラに嫌がらせ行為を行っていたとして、迷惑防止条例違反が課せられたのだ。
秋夫の逮捕を受け、元愛人も週刊誌に告発を出した。愛人は秋夫の自己中心的で傲慢な態度にずっと不満だったらしい。子供が生まれても秋夫は養育費すら拒否し、働くように促しても聞く耳を持たなかったのだとか。さらに秋夫は、妻である花と愛人がいるにも関わらず、他にも浮気をしていたようだ。秋夫に愛想を尽かした愛人は家の鍵を交換し、秋夫を家から追い出した。
秋夫がサラに付きまとうようになったのは、どうやら愛人に愛想を尽かされ、生活に困窮していたためだったようだ。秋夫は遊ぶ金欲しさに借金を繰り返し、返済に困っていた。愛人の家を追い出された秋夫は実家の両親を頼るが、高齢の二人の年金だけではとても返せる額でもない。それでも毎日のように取り立ての電話は鳴り止まず、「全ては私のせいだ」とデモに踏み切ったらしい。逆恨みにも程がある。
警察から釈放された秋夫の両親の前には、借金取りが待っていた。どうやら秋夫は危ないところからも借金をしていたらしい。警察署から出た秋夫の周りに真っ黒な車が何台も止まり、秋夫を取り囲んだ。異様な空気を察したのか、秋夫の両親は秋夫を見限り、その場から逃げていったようだ。残された秋夫も逃走を図ったようだが、屈強な男たちの前では抵抗も虚しく、呆気なく捕まったようだ。今頃どこかで強制労働でもさせられているのだろう。そのことを知った私たちは、ようやく安心して暮らせると、ほっと胸を撫で下ろした。
その後、私はタワマンで花とサラと一緒に平和な日々を送っている。
ある日、花が嬉しい報告をしてくれた。
「私、昇進が決まったの」
花は長年の功績が認められ、勤めていた会社の役員へと昇進が決まったようだ。
「おめでとう。これまで必死に頑張ってきたんだもの。当然のことね」
「これもお母さんが支えてくれたおかげよ。本当にありがとう」
いくつになっても娘はやはり娘だ。花の成功を私も心から喜んだ。
時を同じくして、サラからも嬉しい報告が舞い込んだ。
「結婚を考えている人がいるの」
「それは喜ばしいことね。サラならきっと素敵なお嫁さんになるわ」
数日後、サラが婚約者を連れて帰ってきた。サラの婚約者は同じ職場で働く上司らしく、物腰の柔らかい紳士だった。サラに話しかける口調も優しく、愛されていることが分かる。
「サラのことをよろしくお願いいたします」
「はい。サラさんを幸せにします」
それから半年後、サラの結婚式が行われた。サラは幸せ満ち溢れる笑顔で神父の前に座っている。その姿を見て私は満足げに微笑みながら、これから先の余生が平和に過ごせることを願っているのである。



