スーパーでの買い物帰り、ベビーカーで寝ている娘を連れた私の前に、元ヤン風のママ友が立ちはだかった。「のんびり買い物なんて随分余裕ね。うちの子に舐めた態度取った落とし前つけてもらいに来たわよ」。そして、彼女の後ろから「やんちゃな主人」らしき男が現れた。私は「本物の怖さ」を知っている身として、ただただ呆れるしかなかった。でも、その時私はまだ知らなかった。この日から事態が思わぬ方向へ動いていくこと…

スーパーでの買い物帰り、ベビーカーで寝ている娘を連れた私の前に、元ヤン風のママ友が立ちはだかった。「のんびり買い物なんて随分余裕ね。うちの子に舐めた態度取った落とし前つけてもらいに来たわよ」。そして、彼女の後ろから「やんちゃな主人」らしき男が現れた。私は「本物の怖さ」を知っている身として、ただただ呆れるしかなかった。でも、その時私はまだ知らなかった。この日から事態が思わぬ方向へ動いていくこと...

マンションの中庭で娘を遊ばせていると、突然リク君が娘の髪の毛をわし掴みにして引っ張り、結んでいたゴムを勝手にほどいてぐしゃぐしゃにしてしまった。娘は大声で泣き出した。慌てて駆け寄り「何してるの?やめなさい」と娘をかばうと、彼は私を押しのけてさらに娘に手を出そうとする。

周りにいた親子に助けを求めると何人かが集まってくれたが、リク君の姿を見るなり「うわあ」とドン引きしている。彼の悪い噂はすでに幼稚園で知れ渡っていた。その間にもリク君はニヤニヤしながら娘を捕まえようとしてくる。私は「嫌がってるでしょう。いい加減にしなさい」と彼を叱った。

すると、りこさんが腕組みしながら遅れて登場した。「ちょっと人の息子を怒鳴りつけるなんてどういうことなの?」と怒りながら近づいてくる。周りの人たちはビクビクして後ろに下がったが、私は一歩前に出て起こったことを淡々と説明した。集まってくれていたママ友たちも怯えながらも証人になってくれた。

しかしりこさんは「どうせうちの息子の見た目が怖いとかそんな理由で意地悪言ってるんじゃないの?」と話をすり替えようとする。私は「見た目のことなんて一言も言ってません。娘が泣くほどしつこく髪の毛を引っ張られて、ゴムを引きちぎられて。これが証拠です。子供のすることですけど、まずはごめんなさいを言うべきだと思います」と反論した。

りこさんは「はあ。地味で芋臭いくせに随分口が達しね。怖いもの知らずって嫌ね。誰に向かって口聞いてるの?」と不機嫌な顔で睨んできた。私は「誰も何も悪いことをしたのに謝らない。リク君のお母さんに対してですけど」と構わず答えた。一緒にいた他のママさんたちがギョッとしたのが伝わってきた。

私はこれまでずっと波風を立てないよう、目立たないように生きてきた。しかし、静かにしているからといって何をされても無抵抗なわけじゃない。私は特殊な環境で育ち、ご近所さんから「不良息子の妹」と陰口を叩かれ、それを乗り越えてきた過去がある。穏やかな生活のためには、表面上の人付き合いに逃げるより、一人でしっかり生活できる強さが必要だったのだ。

私にはちょっと特殊な兄がいる。兄はいわゆるヤクザで、親分と呼ばれる偉い人から小さな組を任されていて、組長という立場だ。私はそちらの世界に全く関わりがないので詳しくはわからないが、兄は数人の部下から組長と呼ばれているらしい。兄とは5歳離れていて、とにかく私にはとても優しかった。親には反抗的で、友達ともよく喧嘩して、母が学校に呼び出されたりしていたけど、私にだけは本を読んでくれたり、ゲームを教えてくれたり、からかってくる男子を撃退してくれたりと、頼もしいヒーローそのものだった。

「兄ちゃんはとっても優しいのに、どうしてすぐ喧嘩しちゃうの」と子供の頃に聞いたことがある。すると兄は「心配すんな。お前は絶対守るから。俺が怒るのにはちゃんと理由があるんだ」と答えた。その時は意味がわからなかったが、後になって思えば、兄の怒りは当時、浮気と借金で母に迷惑をかけていた父に向けられていたのだとわかる。間違った行動をしていたのは父の方なのに、子供ゆえにそれを正す力を持たないことに、兄は強いストレスを抱えていたのだと思う。

兄は私が中学生になると同時に家を出て行き、大学受験を控えた頃に私だけに連絡があった。結構な金額を渡されて「学費や一人暮らしの足にしてくれ。父親にだけは絶対に知られるな」と言われたのだ。それからも兄は年に一度のペースで連絡をくれて、お年玉や卒業祝い、就職祝いと様々な理由をつけてお小遣いをくれた。「就職できたからもう大丈夫だよ」と言っても「お金はいくらあっても困らないだろ。いいから取っとけ」と言って譲らなかった。物心ついた時から、とにかく妹思いの不器用な兄だった。

兄がどんな危ないことに手を出してきたのかは知らない。母は兄が小さな詐欺まがいのことや夜のお店を経営しているんじゃないかとあれこれ心配していたけど、いずれも想像の範囲を出なかった。事実がどうあれ、そういった団体に属していること自体が世間から見て良く思われないのは明白だ。だから兄も家族に迷惑をかけるから縁を切ると言って家を出ていったのだろう。両親は知らないが、私と兄は年に一回はメールのやり取りを続けている。結婚した時と娘を出産した時には偽名でお祝いが届いた。

私は公務員の夫と結婚して3年が経ち、いやいや期の娘に振り回されながらも楽しい毎日を過ごしている。夫には結婚前に兄のことを打ち明けた。夫は「何の欠点も事情もなく完璧に清廉な人間なんていない。君がお兄さんのことを嫌っているならともかく、そうでないなら僕も拒まないよ」と言ってくれた。「他の人にどう思われても家族にとっては掛け替えのない人だもんね」と。

そんな平穏な日常だったのに、この日を境にりこさん親子との揉め事が始まってしまった。りこさんもリク君も、一見大人しそうな私と娘を屈服させようと甘く見たのだろう。それが反論されてしまって、引っ込みがつかなくなったのだと思う。

「身のほど知りなさい。うちのやんちゃな主人が黙ってないわよ」とりこさんが脅してきた。やんちゃな主人。私の脳内では様々なイメージが浮かんでくる。私は本物を知っている。本物は「やんちゃ」なんて言葉を使わない。だって私は本物の兄を持つ妹だからだ。私はグレたこともなければ喧嘩一つしたこともないが、本物の兄と年に一度は会っているし、その兄弟分にも挨拶してもらったことがある。一人は小指が見当たらなかったけど、それは兄ではなく前の親分の時に詰めさせられたと聞いている。本物とはそんな世界だ。

もし私一人が絡まれている場面だったら、こんな虚勢を張る人は無視していたと思う。でも今回は話が違う。娘に意地悪をして泣かせたのだから、一言「ごめんなさい」くらい欲しい。なければ娘は「泣き寝入り」という体験をすることになってしまう。結果としてそうなったとしても、最初から逃げるのは違うと思った私は、きっちり言い分を伝えたのだ。

「ご主人が今何の関係があるのかわかりません。息子さんの行動と、それに対するお母さんの話しか最初からしてません。ご主人がいないと会話ができないなら、呼んでくださってもいいですよ」と私が言うと、りこさんの顔色が変わったのが分かった。大抵の人はここで怖がって謝るか、り子さんの前から姿を消すのだろう。

りこさんは「ああ、そう、そうなの。分かったわ。じゃあ主人に連絡するから。忙しいからいつになるかわからないけど絶対呼ぶから楽しみにしてなさいよ」と言い放ち、リク君に謝らせることなく、息子を引きずるようにして去っていった。

「何なんだ、その三下の悪役が去り際に言うみたいな捨て台詞は」と思わずにはいられなかった。

「いやあ、奥さん強いね」と管理人さんが感心した声を上げた。他の人たちも「こんなにはっきり物を言う人だとは思わなかった。びっくりした」と言ってくる。私は決して気を張りたかったわけではなかったし、結局のところ泣き寝入りになってしまったことは残念だったが、「お母さんが頑張って戦ってくれたんだから、娘ちゃんも嬉しかったと思うよ」と言われて気が楽になった。

夜になり、夫に今日起こった出来事について話すと、夫は心配そうに「ただの脅しと思いたいけど、もし厄介なご主人が押しかけてきたら絶対にドアを開けないで。出かける時も人が多い場所にして」と言った。困ったような顔を見せる夫を見ているうちに、私は「やっぱりりこさんに言い返したのはまずかったかな」と思い始めてしまった。

私一人なら「やんちゃなご主人」なんて怖くないし、お目にかかりたいくらいだ。だって私は本物を知っているからね。でも、娘がいる時に何かされたら確かに怖い。そう話すと、夫は「いや、娘ちゃんを守るために君は毅然とした態度を取ったんでしょ。だったら間違ってるとは思わないよ。ただ、話が通じない相手っているからね。りこさんって人は相当変わっているようだし、どうしたもんかな」と少し考え込んでいた。

娘を守りたいし、私のことも傷つけたくない様子の夫は思案に暮れている。優しい人だから困らせたくない。どうしよう。私はずっと波風を立てないよう目立たないように気をつけて生きてきた。絡んできたのはり子さんの方で、これは正当防衛のはずだ。だけど、話の通じない相手に突きまとわれた時、どうしたらいいか。

私は久しぶりに自分から兄に電話をかけた。

「お兄ちゃん、助けて」

兄に相談したのは、話の通じない相手に絡まれて困っている時にどう対処したらいいかについてだった。むしろ兄がいる世界の人たちは絡む側だと思うが、ならばその対処法も知っているのではないかと思ったのだ。

「お前から電話してくるなんて珍しいな。どうした?何かあったのか?」と兄はすぐにトラブルがあったことを察したようだった。私は「実は、ちょっと相談というかアドバイスが欲しくて電話したんだ」と切り出し、「今住んでるマンションにちょっと元ヤン風のママさんがいてね。トラブルのきっかけは些細なことで、子供同士ならよくあることなんだ。でも相手の母親が絶対に謝ろうとしない上、暴言を吐いて攻撃的な態度を取ってくる。私の方も引かずに反論してしまったのが良くなかったかもしれないが、相手が『やんちゃな主人が黙ってないぞ。今度連れてくるからな』と脅してきたんだ」とありのままを説明した。

すると兄は笑って「やんちゃな主人ってなんだ?面白そうじゃねえか」と言った。「多分大したことない相手だと思うし、全然怖くも何ともないんだけどさ、娘がいる時に来られたらちょっとな。私、どういう対応をすればよかったのかな」と続けると、兄は「お前も大概肝が座ってていいな。まあ、そうなったのも俺のせいか」と笑った。

「強くなったのはお兄ちゃんのおかげだけど。今回の件は相手が一方的に悪いと思う。でも子供の安全のためにはもっと温和なやり方もあったのかなって反省してるんだ。まともに会話ができない相手だし、どうしたらいいと思う」と伝えると、電話の向こうでしばしの静寂があり、そして深く息を吹き出すような音がした。兄がタバコを吸ったのだろう。

「俺にとって、お前とお前の家族の幸せを守ることだけが唯一の罪滅ぼしだ。お前たちに危害を加えるような連中はぶっ飛ばすのもやぶさかじゃねえが、それじゃあ平和な解決とは言えねえわな」と兄は言った。

「できれば関係者の皆さんが迷惑しない程度の方法が知りたいです。お兄様、ちょっと驚かせてそうお願いします」と私がお願いすると、兄が大きな声で笑った。「大事な妹のためだ。任せとけ」と。

余談だが、兄は竜二というヤクザっぽい名前だ。本当は私の名前と対になるような名前にするはずだったが、あまりにも可愛すぎるので兄弟分たちには内緒にしているそうだ。

週末、警戒していた出来事が起こった。りこさんからの突撃だ。夫が会社員なら週末の休みに現れるだろうと思って心の準備はしていたが、まさかスーパーで買い出しをした帰り道に呼び止められるとは思っていなかった。娘はベビーカーに乗って寝ている。荷物は買い物した後だから動きが取れない。そんな状態を見計らって待っていたようだ。夫は家にいるのだが、前日は帰宅が遅く、ゆっくり寝かせてあげようと黙って出かけてきたのがまずかった。

「のんびり買い物なんて随分余裕ね。うちの子に舐めた態度取った落とし前つけてもらいに来たわよ」と興奮気味に話すり子さん。私の姿を見るなり小走りで寄ってきた。すると、りこさんの後ろから、「おお、あんたがうちの嫁と息子に説教してきたおばさんか」と声をかけてきた男がいた。りこさんの旦那だろう。

見て分かるほどやつれた感じで、体格はひょろっとして青白い顔。年齢に合わない金色のピアスが耳についている。眉がない。いわゆる「やんちゃな主人」というやつか。私は思わず拍子抜けしてしまった。いや、私が物を知りすぎているだけで、普通の人はりこさん夫婦の雰囲気でも怖いのかもしれない。しかし、旦那さんを見ても私が全く怖がらないので、またしてもりこさんが苛立ち始めた。

「いつまでも甘く見てると後悔するわよ。うちの主人を怒らせたら、怖い事務所に連れて行かれていろんな質問されちゃうかもね」

「はあ」

人は見た目で判断してはいけないというが、本物の怖い事務所にはこんな人いないと思う。末端の構成員だったとしてもだ。旦那さんのような人たちがいる界隈と本物のヤクザとは全く住む世界が違う。虎の威を借る狐になったつもりだろうが、その虎はりこさんたちが思っているよりもはるかに怖いということを知らないのだろう。

「とりあえず息子に謝罪してもらおうかしら。ちょっと髪の毛引っ張ったくらいでピーピー泣くような子が悪いのよ。それなのに説教なんておかしいのよ。男は好きな子に意地悪したくなるんだよ。それくらい大目に見てやれや」と旦那さんが続ける。どうやら道徳も常識も彼らにはないらしい。いい加減切れそうになった時、聞き覚えのある声がした。

「おお、お前ら。うちのお嬢に何の用だ?」

「え?」

190センチはあろう大男が私の背後から低い声ですごんでいる。兄だ。週末に襲撃されそうな気がすると言うと、家の近くを見張ってやるとわざわざ駆けつけてくれたのだ。なお、妹思いのヤクザなお兄ちゃんと聞いてイケメンを想像した人もいるかもしれないが、残念ながら私の兄はゴリラ系マッチョの髭男だ。昔はもう少しイケメン風だったのだが、色々と揉まれて強くなったのだろう。

兄がりこさんの旦那さんに一歩近づくと、分かりやすく旦那さんが引いた。

「ちょっと何ビビってんのよ」とり子さんが怒っても、「いやいや、怒ればダメだろ。お前、聞いてねえぞ」と小声で揉めている。

「『やんちゃな主人が黙ってない』って聞いたんでね、是非話を聞かせてもらおうか」と兄が低い声で言うと、旦那さんは「あ、そ、そんなこと言ってないっすよ」と慌てた。

「私が言ったのよ。しっかりしてよ。この女に身のほど知らせるんでしょ」とりこさんが言うと、「相手を見て喧嘩売ってこいよ。頭悪いな、お前は」と旦那さんに返された。「なんですって?」とりこさんは怒り出した。

絵に描いたような雑魚ムーブにため息をつくと、兄がこっそりウインクしてきた。ゴリラマッチョのウインクだ。兄は「『お嬢に身のほど知らせたい』って。その話、詳しく聞かせてもらおうか」と話を続けた。りこさんは「あわ、私じゃないわ。主人が相手になるわよ」とパニック状態だ。

「いやー、ならねえよ。お前は黙ってろ」と兄が本気の低音で旦那さんに命令すると、旦那さんは声もなく直立不動になった。りこさんは顔面蒼白だ。「やんちゃ」と「ヤクザ」の違いがそろそろ分かってきた頃合いだろうか。

「おい、坊主。隠れてないで出てこい」と兄が言うと、物陰に隠れていたリク君が半泣きで出てきた。隠れていたことに全く気づかなかった私は驚いた。

「男なら母ちゃんのピンチに隠れるんじゃねえ。ちゃんと謝れたら許してやる。坊主が嫌がることをするのは感心しねえ。髪の毛引っ張ったりな。わかるか?」

リク君は鼻水をすすりながら頷いた。

「じゃあ、寝ちまってるガキんちょと、そのお母さんに『ごめんなさい』ができるか?」

りこさんが文句を言おうとしたが、兄の目を見た瞬間慌てて口を閉じた。ヤクザの人たちとか、警察関係の人たちというのは独特の目力があると思うのは私だけだろうか。

「ごめんなさい」

リク君はまだ5歳で、分からないことや間違うことがあって当たり前だ。ちゃんと謝ることができればそれで十分だと私は思う。

「謝ってくれてありがとう。娘ちゃん寝ちゃってるから、後でちゃんと伝えておくね」と私が心から喜んだのが伝わったのか、彼も恥ずかしそうに笑ってくれた。

「なんでうちの子が謝らなきゃいけないの?」と、居た堪れないり子さんがまだブツブツ言っている。

「子供が勇気を出してくれたのに、大人がそれでどうするんだ?おい、そっちの旦那」と、すっかり存在を忘れられていたり子さんの旦那さんに兄が声をかけた。「ここらで事務所だの何だの口に出すなら、それなりに覚悟しとけ。必ず俺たちの耳に入るからな」

「ああ。はあい。それはもう大丈夫です」

まだ諦めきれないらしいりこさんにも兄が言った。「こちらのお嬢は赤の他人ではあるが、昔世話になった関係でな、こっちから自主的に護衛させてもらってるんですわ。今後もお嬢とその家族に妙なちょっかいを出すようなら、次は兄弟分も大勢連れてくることになるから、そのつもりでな。さあ、行きましょうか」

ちょっとわざとらしく言う兄に苦笑しつつ、私たちはその場を離れた。

「なんで『お嬢』とか『他人』なんて言ったの?妹だって言っても良かったんだよ」と私が言うと、兄は「せっかくここまで頑張ってきたんだろ。お前が努力して手に入れた日常だ。俺はちょっと離れた場所からそれを応援してるよ」と答えた。血の繋がりを否定するのは寂しかったが、私のためにそこまで考えてくれている兄の気持ちが嬉しかった。親にも兄との交流のことは話していない。二人だけの秘密だったが、それでもずっと心の支えだったのだ。それはきっとこれからも変わらないだろう。

「またね、お兄ちゃん」

それからしばらくの間、りこさん一家を見かけることはなかった。あえて調べることもしなかったが、公園で子供を遊ばせている時に他のママ友から聞いた話によると、幼稚園をしばらく休んだ後に親子で現れて、り子さんの実家に身を寄せることになったので引っ越しの手続きをしに来たらしい。随分急な話なので、まさか兄の脅しが効きすぎたのかと不安になったが、真相は旦那さんが仕事中に事故を起こしてしまったことが原因だという。命に別状はなかったものの、破損した荷物や配達が大幅に遅れた荷物に対する弁償を会社が全額は負担してくれなかったらしく、頭に来て転職を決めたばかりなのに弁償からは逃れられず、経済的ピンチに陥ってしまったそうだ。りこさんたちが住んでいたのは賃貸の部屋だったのだが、家賃を節約するためにも一時的に実家へ帰ることにしたのだろう。

なんだか気の毒な気もするが、それについては自分と関係がない話なので、あまり考えないことにした。

一つだけ言いたいことがあるとすれば、兄と会った後、どうやらり子さんが一部の人に何かを暴露したようで、「ささんっていいとこのお嬢様なんですって」と何人かから羨ましそうなことを聞かれてしまったのだ。どういう解釈をしたのか、一般の人には「お嬢様」と伝わったようだ。まあ、あえて訂正する必要もないだろう。

「そして、SPさんまでついてたって噂だよ」「え、私は執事がいるって聞いたけど」

人の噂のいい加減さを知って笑うしかなかった。SPはまだ分かるが、あんなゴリラマッチョの執事がいるものか。

「なんだ、俺が出ていかなくてもあいつら引っ越す運命だったのか」と兄は笑っていたが、兄からのプレッシャーも影響しての決断だったと私は思う。「お兄ちゃんのおかげで私は安心したし、娘も守れたんだよ」と伝えると、兄は嬉しそうにしつつ「まあ、俺みたいなもんの出番はもうない方がいいわな」と言って、またタバコを吸った。

世の中のあり方が時代と共に変わっていく中で、兄たちも一般的な店舗経営や清掃会社など、社会貢献をしながら生計を立てていくようになってきたと聞いている。いつか堂々と娘に会って、叔父であると名乗ってもらえる日が来たらいいなと、密かに願っている。

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