「孫の面倒よろしくね」
12月30日の朝8時。玄関のチャイムと一緒に聞こえてきた息子・洋平の言葉に、私は持っていたコーヒーカップを落としそうになった。
「え、今なんて言った?」
ドアを開けると、そこには大きなスーツケースを転がす息子夫婦の姿。その後ろから3人の孫たちが飛び込んでくる。
「ばあちゃん!」
「ばあちゃんち、お腹空いた!」
8歳のシ太、6歳のみさ、4歳のケントが一斉に私の足にしがみつく。嫁の菜緒は満面の笑顔で子供たちの荷物を玄関に運び込んでいく。
「1週間お願いします。着替えとか全部入ってますから」
「ちょっと待ってよ。私、明日から仕事があるの。施設の年末年始シフトに入ってるのよ」
必死に説明しようとする私を、洋平はまるで聞いていないかのように遮った。
「ハワイ行ってくるから。菜緒と2人でゆっくりしたくて。じゃ、よろしく」
「え、ハワイ?」
「あ、言ってなかったっけ? まあいいじゃん。母さん。子供たち、ばあちゃんと遊べて喜んでるし」
「ちょっと待ちなさい。洋平、話はまだ——」
しかし私が言い返そうとした時には、もう2人は車に乗り込んでいた。車は私の声を無視するように走り去っていく。
呆然と立ち尽くす私の後ろから、ケントの声が聞こえた。
「おばあちゃん、お腹空いた」
25年間、介護職員として働いてきた。やっと少し楽になれると思っていた矢先の出来事。年末年始の施設のシフトだって、人手不足で私が入らないと回らない状況なのに。
孫たちに朝食を作りながら、私の脳裏に過去の記憶が蘇ってくる。
洋平が大学に進学した時、私は必死に働いて学費を捻出した。4年間で700万円。夫が病気で働けなくなってからは、介護の仕事を掛け持ちして朝5時から夜10時まで働き詰めの日々。それでも息子の未来のためと思えば、どんなに大変でも苦にならなかった。
結婚する時には、貯金を崩してマイホームの頭金300万円を援助した。あの時の洋平の言葉を今でも覚えている。
「いつも助けてくれてありがとう。母さん、本当に感謝してる。これからは僕が母さんを支えるから」
涙を流して喜んだあの日から、もう15年。あの約束はどこへ消えてしまったのだろう。
「ばあちゃん、これ嫌い」
みさの声で現実に引き戻された。せっかく作った卵焼きを、ぐちゃぐちゃにして遊んでいる。
そういえば、最近はいつ会いに来てくれたかしら。スマートフォンのカレンダーを確認すると、最後に息子家族が来たのは3ヶ月前。それも車の車検代を借りに来ただけで、30分で帰って行った。
月1回会う約束も、「仕事が忙しくて」「子供の習い事があって」といつもキャンセル。今年の母の日は忘れられ、私の誕生日も「あ、忘れてた。今度何か送るね」のラインだけ。もちろん何も届いていない。
「体力仕事なんだから、孫の世話くらい余裕だろ」
先月、学校行事への参加を頼んだ時の洋平の言葉が胸に突き刺さる。静かに、しかし確実に、私の中で何かが音を立てて崩れていった。
朝食が終わるか終わらないかのうちに、孫たちの要求が次々と始まる。
「ばあちゃん、もうお腹空いた」
「おやつつまんない」
「ゲームセンター行きたい」
「新しいゲーム買って。友達みんな持ってるもん」
8歳のシ太はNintendo Switchを指差しながら最新のソフトを狙ってくる。6歳のみさはリビングのソファーで飛び跳ねながら「つまんない、つまんない」を連呼。4歳のケントは私の足にしがみついて離れない。
「シ太君、ゲームは持ってきたのがあるでしょう」
「あた、新しいの欲しい。ママはばあちゃんに買ってもらえって言ってたもん」
孫の相手をしながら冷蔵庫を開けて、私は愕然とした。3人分の食事を用意するには、到底足りない。年末の買い物は、1人分しかしていなかったのだ。
「ちょっと待っててね。買い物に行ってくるから」
「やだ。一緒に行く。おもちゃ屋さん寄って、アイス買って」
3人を連れてのスーパーは地獄だった。ケントはカートから這い出ようとし、みさは好きなお菓子を買ってはカゴに入れ、シ太は「これも買って」と高額な商品ばかりを要求する。
レジで会計を済ませると、金額は1万5000円を超えていた。年末価格で普段の倍以上。私の介護食の日が吹き飛んだ。
家に帰ってお昼ご飯の準備をしていると、洋平からLINEが来た。期待を込めて開くと、そこには青い海と白い砂浜の写真。「ハワイ最高!」の絵文字と共に、豪華なホテルのプールサイドで乾杯している洋平と菜緒の写真が送られてくる。
私はすぐにメッセージを送った。
「子供たちの食費は? それからケント君の薬は? アレルギーのこと、ちゃんと説明して」
既読はついたが、返信はない。5分待っても10分待っても。
「お金のことはどうするの?」
既読無視のまま、追加でメッセージが来た。今度は菜緒から。
「子供たちよろしく」
ウインクしている女の子のスタンプが、私の怒りに火を注ぐ。
「菜緒さん、せめて子供たちの世話代は——」
これも既読無視。
夕方になってまた通知が来る。今度は何かと思えば、Instagramの投稿通知。菜緒のアカウントだ。
「ハワイNOW。子育てから解放されて、ハワイで年末年始!」
コメント欄には友人たちからの「いいな」「子供は?」という質問。菜緒の返信を見て、私は息を飲んだ。
「実家に預けてきた。義母が喜んで引き受けてくれたから。たまには息抜きしないとね」
私は喜んで引き受けてなんていない。再び怒りで手が震えた。
しかし今日は大晦日。気持ちを切り替えて過ごそうと、私は心を立て直す。
昨夜、私は必死におせち料理の準備をした。1人暮らし用に用意していた材料で、どうにか3人分を作ろうと。でも子供たちは一口食べては「まずい」「これ嫌い」と残していく。
そんな時、ケントが急に泣き出した。
「ばあちゃん、なんか気持ち悪い」
額に手を当てると熱い。体温計で測ると、38. 5度。
「大変。病院に行きましょう」
年末年始でも開いている救急病院を探し、タクシーを呼んだ。シ太とみさも一緒に連れて行かざるを得ない。
病院での診察結果は軽い風邪とのこと。薬をもらって会計。
「ケント君の保険は?」
しまった。保険証を預かっていなかった。結局全額自費負担で1万5000円。薬も含めると2万円近くかかった。
病院の玄関で、洋平に電話をかける。
「もしもし。ケント君が熱を出して」
「え、今ちょっと待って」
背後から聞こえる賑やかな音楽と笑い声。
「悪いけど、今ディナータイムの最中なんだ。後にしてくれる?」
「でもケント君が——」
「母さんがいるんだから大丈夫でしょう。ばあちゃん頑張って」
ガチャ。電話は一方的に切られた。
「ばあちゃんなんだから大丈夫」
何を言っているのだろう。病院の椅子に座りながら、私は涙を拭うことができなかった。タクシー代、診察代、薬代。今日だけで4万円以上が消えていった。
家に帰ると、リビングは散乱と化していた。お菓子の包み、ジュースのこぼれた跡、散らばるおもちゃ。
「ばあちゃん、お腹空いた」
「テレビつまんない」
「いつパパとママ帰ってくるの?」
私はすでにいっぱいいっぱいだった。25年間介護の現場で培った忍耐力も、もう限界に近づいている。
元日の朝を迎えたというのに、私の心は晴れなかった。ケントの熱は下がったものの、まだ本調子ではない。それでも子供たちは元気いっぱいで、朝から「お年玉、お年玉」の合唱。
「ごめんね。お年玉はパパとママからもらってね」
そう言うと、シ太が不満な顔をした。
「え、ママはばあちゃんからもらえるって言ってたよ」
「そうなの? でもばあちゃん、準備してないのよ」
するとみさがぽつりとつぶやく。
「ママたちはいいな。海外旅行」
その言葉に、私は胸を締め付けられた。子供たちだって、本当は両親と一緒に新年を迎えたかったはずだ。
「みさちゃんもハワイ行きたかった」
「うん。でもママが、子供は連れていけないって」
シ太が横から口を挟む。
「違うよ。ばあちゃんは貧乏だから連れて行けないって言ってた」
「え? どういうこと? シ太君、それ誰が言ったの?」
「ママだよ。ばあちゃんは介護の仕事しかしてないからお金ないんだって。だから私たちだけでハワイ行くって」
みさも頷く。
「そうそう。それでママが言ってた。ばあちゃんは便利だって」
「便利?」
「うん。ただで子供預かってくれるから便利って。みんなで笑ってた」
ケントまで小さな声で付け加える。
「ばあちゃん、いつでも言うこと聞くからって」
子供たちに悪気はない。ただ親の言葉をそのまま繰り返しているだけだ。でも、その無邪気な言葉の一つ一つが、私の心に深く突き刺さる。
昨日見た菜緒のInstagramを思い出し、改めてスマートフォンで確認した。やはり間違いない。
「実家に預けてきた。義母が喜んで引き受けてくれたから」
でも、もっとひどい投稿がないか。過去に遡って確認してみることにした。
すると、クリスマスの投稿を見つけた。
「来年の正月は夫婦だけで海外。もう決めてる」
その投稿は12月初旬。つまり、1ヶ月も前から計画していて、私には一言の相談もなかったということだ。
コメント欄に、さらに衝撃的なやり取りがあった。
友人:「菜緒、義母に丸投げ?」
菜緒:「手洗い。孫に会いたがってるし」
友人:「前に相談した?」
菜緒:「してない(笑)当日言えば断れないでしょ?」
「当日言えば断れない」
さらに洋平のTwitterも見つけた。鍵付きアカウントだったが、プロフィール欄を見て愕然とした。
「42歳。実家は無料託児所として活用中。母親は元気な労働者」
シ太が私の様子を心配そうに見ている。
「ばあちゃん、大丈夫?」
「え、大丈夫よ」
私は優しく微笑んだ。でも心の中では、激しい怒りが渦巻いている。
「シ太君、パパとママはばあちゃんのこと、他に何か言ってた?」
「うん。この前ママが電話で友達と話してた」シ太は言った。「ばあちゃんはまだ働いてる。他にできることないんでしょうねって。それでお金もなさそうだから、孫の世話させとけば生きがいになるでしょって」
みさも思い出したように言う。
「パパは、ばあちゃんの貯金なんてないだろって言ってた」
私は静かに立ち上がり、寝室へ向かった。金庫から通帳を取り出す。
定期預金1500万円、普通預金800万円、退職積み立て金700万円。合計3000万円。
これは夫が亡くなった時の生命保険金と、必死に働いて貯めた老後資金だった。洋平には一度も話したことのないお金。あえて質素な生活をして、老いに備えていた。
「貯金もない。介護しかできない。便利な無料託児所労働者」
通帳を見つめながら、冷たい笑みが浮かぶ。ゆっくりと通帳をバッグにしまった。
結構です。とことん便利になってあげましょう。ただし——ただではありませんけどね。
私はスマートフォンを取り出し、検索を始める。高級料亭、個室。東京高級ホテル、スイート。子供向け工場体験施設。そして最後にもう一つ検索した。
高級老人ホーム、都内、入居即日可。
表示された金額を見て、私は確信した。この3000万円があれば、誰にも頼らず、誰の「便利な存在」にもならず、自分の意志を持って生きていける。
「シ太君、みさちゃん、ケント君。ばあちゃんと一緒に、最高のお正月を過ごしましょう。パパとママがハワイで使ってるお金なんて、比べ物にならないくらい豪華にね」
子供たちの目が輝く。
「本当? やった!」
「約束して。パパとママが帰ってきたら、全部報告するのよ。どこに行って、何を食べて、いくらかかったか。全部正直に話してね」
「うん。約束する」
私の復讐が、今まさに始まろうとしている。便利な存在として、とことん便利に。ただし、その代償は想像を絶するものになるでしょう。
元日の午後、私は孫たち3人を連れて都内の高級料亭へ向かった。
「ばあちゃん、ここどこ?」
「素敵なレストランよ。みんなでお正月のご馳走を食べましょう」
個室に案内されると、子供たちの目が輝いた。床の間には生け花が飾られ、窓からは美しい日本庭園が見える。
「すごい! お城みたい!」
運ばれてきた子供向けコースを見て、私も驚いた。エビの姿焼き、ローストビーフ、イクラ、カズノコ。豪華な食材が並ぶ。
「お子様コース、お一人様8000円でございます」
私自身も15000円の特別コースを注文。合計39000円。
「すみません。領収書をいただけますか?」
「かしこまりました。お名前は?」
「塚本珠子でお願いします」
孫の名前入りで領収書を大切に財布にしまった。これが第1弾。
次は銀座の高級デパートへ。
「お年玉の代わりに、好きなものを買ってあげる。3万円までなら何でもいいわよ」
「3万円!」
シ太は最新ゲームソフト。みさは大きなぬいぐるみ。ケントは電車のおもちゃセット。レジでの合計は8万7650円。
「領収書をお願いします。塚本で」
1月2日、テーマパークへ。入園料、ファストパス、食事、お土産で6万5000円。
1月3日、高級ホテルのランチバイキングへ。ケーキが100個もある。
大人6500円、子供4500円、3人で合計2万円。
1月4日、品川の水族館。イワシのショーを特別席で観賞。入場料から食事まで3万8000円。
「ばあちゃん、ママとパパよりばあちゃんといる方が楽しい」
ケントの無邪気な一言に、少し複雑な気持ちになる。
1月5日、高級ホテルのスイートルームを日帰りで借りた。プール、ルームサービス、エステまで、日帰り利用料と全て込みで15万円。
「領収書お願いします」
フロントスタッフは驚いた表情を見せた。
1月6日、最終日は六本木の高級鉄板焼きレストランへ。
「ばあちゃん、毎日すごいところばっかり。パパとママ、きっとびっくりするよ」
「え、びっくりするでしょうね」
目の前で調理される黒毛和牛のステーキ。ディナーコース4万2000円。
私はこの1週間で集めた領収書を確認した。
1月1日 12万6650円
1月2日 6万5000円
1月3日 2万円
1月4日 3万8000円
1月5日 15万円
1月6日 4万2000円
その他、食料品代 4万5200円
総合計——48万6850円。
息子夫婦のハワイ旅行より、確実に高くついたはずだ。
「ばあちゃん、この1週間すごく楽しかった」
みさが私に抱きついてくる。
「今までで一番楽しいお正月だった」
シ太も頷いた。
「ママとパパに全部話すね。ばあちゃんがすごくお金使ってくれたこと、全部」
ケントも付け加える。
「ばあちゃん、お金持ちだったんだね」
「そうよ。貧乏なんかじゃないの。ただ見せていなかっただけ。明日、パパとママが帰ってくるわね。しっかり報告してちょうだい」
子供たちは元気よく頷いた。
その夜、私はもう一つの準備を始める。高級老人ホームへの入居申し込み書。
もう、都合よく使われない。自分のことは、自分で決める。
明日、息子夫婦が帰ってきた時の顔が楽しみで仕方ない。きっとハワイの日焼けも一瞬で青ざめることだろう。
1月7日、午後3時。玄関のチャイムが鳴り、息子夫婦が帰ってきた。
「ただいま~。疲れた~」
日焼けした洋平が大きなスーツケースを転がしながら入ってくる。菜緒もブランドの免税品をたくさん抱えて、満足げな表情だ。
「パパ! ママ!」
子供たちが玄関に駆け寄る。しかし、いつもと違ってすぐに私の元へ戻ってきた。
「ばあちゃん、パパとママに話していい?」
シ太が興奮気味に聞いてくる。
「もちろんよ。全部話してあげなさい」
私は優しく微笑んだ。
「ねえねえ、パパ! ばあちゃんとね、すごいところ行ったんだよ!」
みさが真っ先に口を開いた。
「料亭っていうところで、ご馳走がいっぱいだったの」
「はあ? 料亭?」
洋平の顔から笑顔が消えた。
「そう! 個室でね、お庭も見えて、すごく高級だった!」
「それだけじゃないよ。テーマパークも行ったし、水族館も、ホテルのプールも!」
「ちょっと待て。何の話だ?」
洋平が私を見る。私はにこやかな顔を崩さず、ソファーに座ったままだ。
「あ、それとね!」
ケントが自慢げに新しいおもちゃを見せる。
「これ、ばあちゃんが買ってくれたの。3万円もするんだって!」
「3万円?」
菜緒が声をあげた。
「私もこれ!」
みさが大きなぬいぐるみを抱えて見せる。
「僕は新しいゲーム!」
シ太も戦利品を並べ始めた。
「ねえ、パパ。ばあちゃんの方がハワイより豪華だったよ。ホテルのスイートルームでね、プール一人占めして、ルームサービスでステーキ食べて、エステしてもらったの。パパたちのハワイの写真見たけど、ばあちゃんとの方が100倍楽しかった!」
洋平の顔が、みるみる青ざめていく。
「母さん……一体何をしたんだ?」
「何って? 孫たちと楽しい時間を過ごしただけよ」
「はい。これなんだ?」
「これは領収書よ。1週間分の」
洋平が震える手で封筒を開けると、中から領収書の束がどさっと出てきた。
「ちょ、これ全部で……」
洋平が電卓を取り出して計算を始める。手が震えているのがはっきりと分かる。
「48万6850円。孫の預かり代と養育費です。当然でしょう?」
「なんでこんなに使ったんだよ!」
「あら、ハワイはいくらでした?」
「それとこれとは……」
菜緒が言いかけるが、私が遮った。
「1週間、3人の子供を預けて、食費も渡さず、病院も持ち出し。それで海外旅行ですもの。これくらい、当然じゃないかしら」
「でも、普通こんなに……」
「普通? 私のことを『無料の託児所』って言ってましたよね、菜緒さん」
「え……」
「『便利な存在』『どうせ暇』『生きがい』でしょ? 全部あなたがSNSに書いていたことよ」
「見たんですか?」
「子供たちが教えてくれたのよ。『ばあちゃんは貧乏だから介護しかできない』って、あなたたちが言っていたことも」
洋平が慌てて言い訳を始める。
「それはその……冗談で!」
「じゃあ、この請求も冗談だと思ってくださる?」
私は通帳を開いて、残高のページを見せる。
「3000万円……」
「嘘だろう……」
「お母さん、こんなお金……」
「『貯金もない』って言ってたそうね、洋平。これはお父さんの生命保険金と、私が25年間必死に働いて貯めた老後資金よ」
「じゃあ、なんでいつもあんな質素な……」
「無駄遣いする必要がなかっただけよ。でも、今回は別。『便利な存在』として、最高に便利に使ってあげたわ」
「それともう一つ、お知らせがあるの」
私はバッグの中から、高級老人ホームのパンフレットと入居許可証を取り出した。
「4月から、ここに入居します。老人ホーム『グランドシティレジデンス青山』。入居金300万円、年間費用450万円の高級老人ホームよ」
菜緒が計算を始める。
「ちょっと待って。それじゃあ……」
「そう。300万円の入居金と、450万円×6年で2700万円。合計3000万円。ぴったり6年分の計算になるわ」
「相続は……」
洋平が青ざめてつぶやく。
「相続? あら、『便利な無料託児所』に相続なんてあると思っていたの? 今後、一切の援助はしません。お金も労力も時間も、全て私自身のために使います」
「母さん、考え直して!」
「考え直す? 何を? あなたたちこそ、よく考えなさい。人を『便利な存在』扱いした報いよ」
シ太が私の袖を引っ張る。
「ばあちゃんのお家、なくなっちゃうの?」
「ばあちゃんはお引っ越しするの。今度遊びに来てね。でも、事前に予約してちょうだい。私も暇じゃなくなるから」
みさが私に駆け寄ってきた。
「ばあちゃん、また高級なところ連れてって!」
「みさちゃん、今度はパパとママに連れて行ってもらいなさい。ばあちゃんと同じくらいお金を使ってもらえるといいわね」
洋平と菜緒は顔を見合わせた。
ケントが無邪気に言う。
「ママ、ばあちゃんすごいお金持ちだったんだよ。貧乏じゃなかった!」
「あの、母さん。本当にホームに?」
「え? もう契約も済ませたわ。あなたたちには関係のないことだけど」
「あ、そうそう。施設のシフトの代わりを頼まれていたから、私はこれで失礼するわ」
「え? まだ仕事を?」
「当然でしょう? 68歳でもまだ働けるわ。介護しかできないけれど、それが私の誇りですから」
玄関に向かいながら、振り返った。
「48万6850円。早めに振り込んでくださいね。預かり代ですから」
「本気で請求するんですか?」
「あら、ハワイ旅行のお金はあっても、子供の養育費はないの?」
洋平と菜緒は、何も言い返せない。
「それじゃあ、シ太君、みさちゃん、ケント君。また会いましょう。今度はパパとママと一緒に、ホームに来てね」
「うん! ばあちゃん大好き!」
3人が私に抱きついてきた。
「この1週間、最高だった!」
シ太の言葉に、洋平と菜緒は完全に打ちのめされた表情を浮かべた。
私は玄関を出て、振り返ることなく歩き始める。背後から洋平の声が聞こえた。
「母さん、待って! 話し合いを!」
でも、私は立ち止まらなかった。
「便利な存在は、今日で卒業です。これからは誰のためでもなく、自分のために生きていく」
3000万円で買った本当の自由。それが私からの最高の仕返しだった。
3ヶ月後、4月。私は仕事を退職し、無事に高級老人ホームへ入居できた。グランドシティレジデンス青山の、広々とした個室。大きな窓から差し込む春の日差し。ベランダには、私が育てている花が美しく咲いている。
朝食はレストランでのビュッフェ。和食、洋食、中華から、好きなものを選べる。
「おはようございます、珠子さん」
同じフロアの友人になった伊藤さんが、声をかけてくれた。
「今日の陶芸教室、楽しみですね」
「ええ。先週作った花瓶が、どう焼き上がったかドキドキしています」
ここでの生活は、想像以上に充実していた。月曜日は陶芸教室、火曜日は水彩画、水曜日はヨガ、木曜日は料理教室、金曜日は映画鑑賞会。週末は、気の合う仲間とお出かけすることもある。先週はみんなで歌舞伎を見に行った。来週は、日帰り温泉旅行の予定だ。
「珠子さん、本当に生き生きしているわね。ここに来て正解だったでしょう?」
「ええ、本当に。毎日が楽しくて仕方ありません」
これは社交辞令ではなく、心からの言葉だった。誰かの都合に振り回されることもなく、自分のペースで、自分のやりたいことをする。68歳にして、初めて手に入れた本当の自由。
午後2時。面会の時間。
「母さん」
洋平の声が聞こえた。月に一度、必ず孫たちを連れて会いに来るようになった。
「ばあちゃん!」
シ太、みさ、ケントが駆け寄ってくる。
「みんな、元気だった?」
「うん! 今日はね、ばあちゃんに会えるから、朝から楽しみだったの」
みさが私の手を握る。
洋平と菜緒は、少し離れたところに立っていた。3ヶ月前とは違い、2人の表情は、どこか謙虚なものに変わっている。
「お母さん、お元気そうで何よりです。ここでの生活はいかがですか?」
菜緒が丁寧に頭を下げる。
「とても充実していますよ。心配いりません」
「母さん。あの時は、本当にすみませんでした。今更ですけどね」
私は微笑んだ。
「でも、こうして孫の顔を見に来てくれるのは嬉しいわ」
「あの……50万円ですが、分割ですが振り込ませていただいてます」
「ありがとう。きちんと清算できてよかったわ」
「お母さん、私たち、本当に反省しています。SNSの投稿も、全部削除しました。あんなひどいことを……」
「過ぎたことよ。ただ、学んでくれたならそれでいいの」
私は孫たちに向き直る。
「さあ、ホームの中を案内してあげる。プールもあるし、図書室もあるのよ」
「わあ、すごい!」
子供たちと一緒に施設内を歩きながら、洋平が小声で言った。
「母さん、本当にごめん。『便利な存在』だなんて。母さんは、俺たちにとって掛け替えのない存在だったのに」
「気づいてくれたなら、それでいいのよ」
「でも、もう実家もないし……」
「洋平、私はここで幸せよ。あなたたちも、自分の家族を大切にしなさい。ただし、お互いを尊重することを忘れないで」
「お母さんから学んだこと、子供たちにもちゃんと伝えます。人を大切にすること、感謝すること」
「それが分かってくれたなら、あの50万円も無駄じゃなかったわね」
私たちはホームのカフェテラスでお茶をした。孫たちが楽しそうにケーキを食べている姿を見ながら、私は深い満足感を覚えた。
夕方、家族が帰った後、私は自室のソファーに座り、この3ヶ月を振り返る。あの正月の出来事は、確かに衝撃的だった。でも、あれがなければ、私は今も「便利な存在」として生きていただろう。
スマートフォンが鳴った。介護施設の同僚からのメッセージだ。
「珠子さん、今度の職員研修で講師をお願いできませんか? テーマは『高齢者の尊厳と自立』です」
私は微笑んだ。まだまだ、私にできることがある。
私は立ち上がり、ベランダに出た。春の夜風が、心地よく頬を撫でる。
「お父さん、見ていますか? 私、やっと自由になれました」
清夫に語りかける。きっと天国で微笑んでいることだろう。
翌朝、ホームの掲示板に新しいお知らせが貼られていた。
「来月、塚本珠子さんによる講演会を開催します。テーマ『68歳からの新しい人生』」
すでに多くの入居者から参加希望が寄せられていた。
私の経験が誰かの勇気になるなら。誰かの第一歩を後押しできるなら。それが、私にできる新しい貢献なのかもしれない。
「さあ、今日も素敵な一日にしましょう」
私は鏡に向かって微笑んだ。髪を整え、お気に入りの服を着て、レストランへ向かう。今日の陶芸教室では、孫たちのための湯呑みを作る予定だ。次に会いに来てくれた時に、プレゼントするために。
でも、それは義務ではない。私が心から望んでいること。
理不尽に耐える必要はない。我慢は美徳ではない。あなたの人生は、あなたのもの。今日が、あなたの新しい第一歩になりますように。
全国の同じような立場にいる方々へ——勇気を出して、一歩踏み出してください。きっと、新しい世界が待っているはずです。


