掃除のおじさんと呼ばれて半年、私は毎朝モップを引きながら、この病院の本当の姿を見ていた。白衣の教授は患者の顔も見ずに「データが足りん」と怒鳴り散らすし、優秀な学生は清掃員を邪魔者扱いする。それでも私は黙って床を拭き続けた。恩師の遺言があるからだ。そして昨日——ロビーで患者が突然倒れた。白衣の連中は「手続き」だと言って立ち尽くすだけだった。私は青い作業着のまま膝をつき、呼吸も脈もない男性の胸骨…

掃除のおじさんと呼ばれて半年、私は毎朝モップを引きながら、この病院の本当の姿を見ていた。白衣の教授は患者の顔も見ずに「データが足りん」と怒鳴り散らすし、優秀な学生は清掃員を邪魔者扱いする。それでも私は黙って床を拭き続けた。恩師の遺言があるからだ。そして昨日——ロビーで患者が突然倒れた。白衣の連中は「手続き」だと言って立ち尽くすだけだった。私は青い作業着のまま膝をつき、呼吸も脈もない男性の胸骨...

廊下にモップを引く音だけが響いていた。俺は青い作業着の袖をまくり、床の汚れをゆっくりと拭き取っていく。海外では「奇跡の手腕」などと呼ばれたこともあるが、この病院では違う。ここではただの清掃員のおじさんだ。

胸ポケットには一通の手紙がある。恩師・宮田純一郎先生が亡くなる前に書き残した最後の言葉。そのために俺は世界中の肩書きを捨て、二十年ぶりにこの大学病院へ戻ってきた。

廊下の角を曲がると外来の待合室が見える。まだ患者はいない。椅子の隙間に溜まった埃を丁寧に吐き出していく。清掃員に顔はいらない。顔がないからこそ見えるものがある。診察室のドアが開き、看護師がカルテを抱えて走っていく。

その後ろから太田教授が現れた。

「昨日の論文ではダメだ。データが足りん。強引に修正しなさい」

「はい、申し訳ありません」

「謝る暇があれば手を動かせ。実績を出せんやつは教室にはいらん」

太田教授は俺の横をすり抜けていった。モップを持つ俺のことなど視界にも入っていない。俺はその背中を静かに見送る。

朝八時を過ぎると病院は一気に動き出す。外来の受付前には順番を待つ患者が並び、白衣の学生たちが続々と実習に向かっていく。

「あっ、佐藤さん、おはようございます!」

振り向くと医学部一年生の浅田みさが教科書を胸に抱えて立っていた。

「おはようさん。今日も朝から実習か?」

「はい。今日は循環器の見学なんです。緊張しちゃって」

「大丈夫だよ。ちゃんと患者さんの顔を見てあげればそれで十分だ」

「ありがとうございます」

みさは少し照れくさそうに笑う。この子は不思議な子だ。清掃員の俺に初めて会った日から自然に挨拶をしてくれる。その後ろからもう一人の一年生が歩いてきた。山田。成績優秀と噂の男だ。彼は俺のモップを見て露骨に眉をひそめた。

「おい、そこ通るから。掃除は俺たちが通り終わってからにしてくれよ」

「ああ、失礼した。すぐに寄せるよ」

「毎朝毎朝、廊下の真ん中で掃除されると邪魔なんだよ。もう少し考えて動いてくれ」

みさが困ったような顔で山田を見た。

「山田くん、そんな言い方しなくても」

「事実だろ。俺たちは患者を見に行くんだ。掃除のおじさんとは違う」

みさは申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません、佐藤さん。あの、悪い人じゃないんですけど……」

「気にしなくていい。学生さんには学生さんの仕事があるからな。行ってきなさい」

みさを追いかけていく背中を見送りながら、俺はモップを壁際に寄せた。医師と清掃員。同じ廊下を歩いていても、その間には目に見えない壁がある。山田の言葉は乱暴だったが、あれがこの病院の空気そのものなのだと思った。

昼過ぎ、俺は五階の内科病棟でゴミの回収をしていた。病室から痩せた老婦人の声が漏れてくる。

「先生、私、家に帰れるんでしょうか?」

「検査の数値が安定しないとちょっと難しいですね。また来週見ましょう」

義務的な返事。それだけを残して白衣は次の病室へと消えていった。俺はドアの前でゴミ袋を握ったまま動けなかった。恩師ならここで足を止めただろう。座って手を握って話を聞いただろう。俺はそっと病室に入り、ベッドサイドの小さなゴミ箱を取り替えた。

「あら、いつもすみませんね」

「いえ。今日は少し温かいですね。窓の外を桜のつぼみが膨らんできましたよ」

「そう。桜、見られるかしらね」

「見られますよ、きっと」

短い会話。それだけで老婦人の目に少し光が戻った気がした。俺は静かに一礼し、部屋を出た。医師でなくてもできることはある。だが医師にしかできないことも確かにあるのだ。

夜十時、病院の廊下は静まり返っていた。作業を終え、俺は着替えを済ませる。胸ポケットから恩師の手紙をそっと取り出した。宮田先生の顔が浮かんだ。最後に見えたあの日、先生は痩せ細った手で俺の手を握り、こう言ったのだ。

「ひとし君、頼みがある。もう一度あの大学を見てきてくれないか。医師の腕は磨かれておる。だが、心は——心はどうだろうな」

「先生、私に何ができますか?」

「肩書きを捨てて、ただの一人の人間としてあの病院に立ってみてくれ。医師を育てる前に人を育てる大学であってほしい。それだけがわしの最後の願いだ」

俺は手紙を丁寧に折り直し、内ポケットに戻した。更衣室の窓から病院の裏庭が見える。街灯に照らされた古い桜の木。二十年、俺が学生だった頃と何も変わっていない。だが中身は変わった。太田教授の冷たい声。山田の露骨な視線。病室に置き去りにされた老婦人の言葉。それでもみさのような学生もいた。まだ小さな明かりかもしれないが、確かに灯っている光。

それから清掃員として働き始めて半年が過ぎた。病院の空気は季節が変わっても大きくは変わらない。むしろ半年見続けたからこそ見えてきたものが多かった。

午前中の医局には若い医師たちが集まり、パソコンの画面を睨みつけている。話題はいつも似ていた。

「論文の締め切り、学会発表の順番。あれは論文になるな」

「なりますね。ただ患者のフォローがまだ」

「そんなのは後回しでいいよ。まずデータをまとめよう」

俺はゴミ箱を変えながらその会話を耳に入れる。恩師が繰り返し口にしていた言葉を思い出す。

「患者は論文の材料じゃない。人間だぞ」

その一言が今の医局には届いていない気がした。

一方で救われる光景にも出会っていた。小児科の待合室で、五歳くらいの男の子が泣きじゃくっていた。駐車が怖いのだろう。そこにしゃがみ込んだのはまだ若い研修医だった。

「痛かったら、俺の手を握れよ。強く握れば握るほど痛くなくなる魔法だから」

「本当?」

「本当だよ。俺、そういうの得意なんだ」

男の子は頷いて、細い指で研修医の手を握った。俺はその光景を少しの間だけ見つめた。まだこの病院には確かに光がある。消えかけているだけで、消えてはいないのだ。

その日の夕方、実習場から一人の学生が肩を落として出てくるのが見えた。朝田みさだった。いつもの明るさがまるでない。教科書を胸に抱えたまま俯いて、壁際のベンチに座り込んでしまった。俺はモップを壁に立てかけ、少し離れたところでゴミ箱の中身を整えるふりをした。

しばらくして彼女の肩が小刻みに震え始めた。涙が膝の上にぽつりぽつりと落ちていく。

「あさださん。よかったら、そこの自販機でお茶でも飲むかい? 今日はやけに廊下が乾燥しててな」

「佐藤さん……」

顔をあげたみさの目は赤く腫れていた。俺は少しだけ距離を置いて腰を下ろした。

「今日、実習で患者さんの採血失敗しちゃったんです。二回も。おばあちゃんの腕、青くなっちゃって。先生には『そんな手つきで医者になれると思ってるのか』って、みんなの前で言われて」

「そうか」

「私、ずっと医者になりたかったんです。子供の頃からずっと。でも今日思っちゃったんです。私には無理なのかもしれないって」

みさは膝の上で拳を握った。

「あさださん、俺はただの掃除屋だ。医学のことはよくわからんがな。この半年、いろんな医者を見てきたよ。腕のいい医者も、頭のいい医者もたくさんいた」

「はい」

「でもな、患者さんが本当に覚えているのは腕じゃないんだ。自分の手を握ってくれたかどうか。最後まで諦めずにいてくれたかどうか。そういうことなんだよ」

みさは静かに聞いていた。

「病院で一番大切なのは、失敗しないことじゃない。患者さんを最後まで見捨てないことだ。今日、あんたが泣いているのは、そのおばあちゃんの腕のことをまだちゃんと覚えてるからだろう。それは恥じゃない。医者になる資格がある証拠だよ」

みさはこらえていたものを吐き出すように泣いた。肩を大きく震わせて泣いていいと言った。泣ける医者は、患者の涙も見える医者になる。そう言うと、みさは何度も頷いた。

「ありがとうございます」

俺は立ち上がり、モップを持ち直した。廊下の角に白衣の影が一つ立っているのが見えた。山田だった。彼はそのまま反対側の廊下へ歩き去っていった。

その週の週末、俺は都心のホテルの一室にいた。日本医学教育機構の担当者との定期報告の日だった。上等なスーツに着替えた俺は、久しぶりに鏡の中の自分を医師・佐藤の顔で見た。

「佐藤先生、半年本当にお疲れ様でした。それで、率直なご報告を伺ってもよろしいでしょうか?」

「結論から申し上げます。あの大学の学生たちは、まだ十分に育つ余地があります」

「悪いのは学生ではない、と」

「変わらなければならないのは教育する側です。教授たちが論文と実績ばかりを追い、患者を数字で見ている。学生はそれを真似ているだけです。若い芽を摘んでも意味がない」

担当者はペンを止め、真剣な顔で頷いた。

「あの子たちが萎縮している原因は上にあるんです。教育する側の心が変われば、あの大学はまだ間に合います」

「先生、あと少し続けていただけますか? あなたの目でもう少しだけ」

「もちろんです。恩師との約束がまだ終わってませんから」

その頃、大学病院では——太田教授が医局の窓辺で静かに考え込んでいた。彼の頭の中には、ある清掃員の姿があった。

数日前、太田教授が急ぎで研究室へ向かう途中、階段で書類の束を落としてしまった。散らばった論文のコピーを黙って拾い集めてくれたのが、あの青い作業着の男だった。男は書類を差し出しながら、一枚の英文の論文にちらりと目を落とし、ぽつりと言った。

「先生、こちらの論文。術後感染のリスクファクターの解析、大変興味深いですね。ただ、対象群の年齢構成に少し偏りがあるかもしれません。私のような素人の見当違いでしたらお許しください」

そう言って男は一礼して去っていった。太田教授はその場に立ち尽くした。男が英文論文を一目で読み、しかも指摘した点は、まさに他の教授から指摘されていた急所だった。偶然で片付けられる話ではなかった。あの男は、一体何者なのだ。

「まさかな……」

口の中で呟いた言葉は誰にも聞かれず、夕方の医局に溶けて消えた。

ある日の午後だった。大学病院のロビーはいつもの通り、会計を待つ患者と実習を終えた学生たちで賑わっていた。俺はロビーの隅で来客用ソファの背もたれを丁寧に拭いていた。

異変は突然だった。受付前の長椅子に座っていた中年の男性が、不意に前のめりに崩れ落ちたのだ。持っていた書類が床に散らばり、男性の顔はみるみるうちに紫色に変わり、口の端から泡のようなものが漏れ始めた。近くにいた女性が短い悲鳴をあげた。

たまたま近くを歩いていた学生たちが駆け寄る。その中にはみさと山田の姿もあった。

「大丈夫ですか? 聞こえますか?」

「呼吸してない。脈が——脈が触れない」

騒ぎを聞きつけて、太田教授と数人の医局員が二階から階段を駆け下りてきた。だが彼らはロビーの手前で足を止めた。

「まず救急に連絡だ。担当医は誰だ? 外来のカルテを確認しろ」

「教授、この場でAEDを勝手に使用して、家族から訴えられたらどうするんですか? 手続きを踏め」

俺は雑巾を静かに床に置いた。それからモップを壁に立てかけ、ロビーの中央へ歩み出た。青い作業着のまま床に膝をつく。

「胸骨圧迫。俺が引き継ぐ。そこの君、AEDを持ってきてくれ。急ぐんだ。君は救急外来に連絡を。『新患者、成人男性、応援を頼む』と伝えてくれ。そこの君は気道確保の準備をしてくれ」

低く沈んだ声だった。学生たちの動きが一瞬で止まった。それから弾かれたように動き出す。みさが真っ先にAEDへ走った。山田は震える手で携帯を握った。俺の両手は迷いなく男性の胸骨を押した。深く、速く、一定のリズムで押し込んでいく。汗が額から落ちるが、腕はぶれない。

近くにいた誰かが呟いた。

「掃除のおじさん……」

太田教授は階段の途中で足を止めていた。俺の背中を見ていた。その圧迫の深さ、リズム、肘の角度、声のかけ方。全てが教科書通りの、それでいて教科書を超えた本物だった。

AEDが到着し、俺はパッドを迷わず貼った。

「離れて。通電が来る」

ショックが入る。男性の体がわずかに跳ねた。一分、二分、三分——男性の指先がかすかに動いた。

「脈、戻りました!」

みさの声が震えていた。救急のストレッチャーが到着した頃には、男性の唇には血色が戻り始めていた。俺は作業着の袖で額の汗を拭い、ゆっくりと立ち上がった。

太田教授は階段の手すりを掴んだまま、青ざめた顔でこちらを見つめていた。唇がわずかに動いた。

「あの動き、あの声……まさか」

「教授、どうしました?」

「間違いない。あれは佐藤ひとし先生だ。世界で『奇跡の手腕』と呼ばれている」

震える声だった。言葉にした瞬間、太田教授の目に涙が滲んだ。昔、宮田純一郎の講義で聞いた男の名前。海の向こうで数々の命を救い、日本には帰ってこないと言われていた男。その男が、青い作業着を着てモップを引いていたのだ。

その日の夕方、病院の空気は明らかに変わっていた。清掃員の正体は世界的名医の佐藤らしい。その噂は瞬く間に広がっていた。すれ違う看護師が俺を見て小さくお辞儀をする。若い医局員が廊下の端に寄って道を開ける。俺は困った。これでは掃除がしにくい。

翌朝の朝、大学の講義に学生たちが集められた。壇場に立ったのは太田教授だった。彼はマイクを握る前に、深く一礼した。学生たちがざわめいた。太田教授が頭を下げるところなど、誰も見たことがなかったからだ。

「諸君に詫びなければならないことがある。私は数十年、論文と実績を追いかけるあまり、諸君に患者ではなく数字を見ろと教えてきた。それが我が師、宮田純一郎先生の意思に背く行いだったと、ようやく気づかされた」

講堂の後ろの扉のそばで、俺は青い作業着のまま静かに立っていた。

「今日からこの大学は変わる。患者を第一に考える医師を育てる大学へ。私はこの命の残りをかけて変えていく。諸君にもどうか力を貸してほしい」

拍手はゆっくりと、しかし確かに広がっていった。最前列でみさが涙を拭いながら大きく頷いていた。その隣で山田がまっすぐに壇上を見つめていた。

講話が終わった後、みさが俺の元へ駆け寄ってきた。

「佐藤先生、私、先生のように患者さんの心まで救える医師になります」

俺はゆっくりと頷いた。

「あさださん、あんたはもうその道の上にいるよ。半年前、廊下で泣いていた日からずっと」

みさは涙を拭った。

数日後、俺は作業着をロッカーにきちんと畳んでおき、私服に着替えた。胸ポケットには宮田先生の手紙。折り目はもうすっかり柔らかくなっている。誰にも告げずに通用口から病院を出た。

振り返ると、真夏の空の下、大学病院の建物が静かに立っていた。窓の一つ一つに患者がいて、医師がいて、学生がいる。

——先生、約束は果たしました。

胸の中で呟いた。返事はなかった。ただ風が俺の頬を撫でていった。

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