雪の降る田舎町で、私は看板をふと見上げて足を止めた。ベビーカステラの屋台の前に立つ女性。背中には双子を負って。3年前に死んだはずの妻が、そこにいた。私は震える声で「はずき」と呼びかけたが、彼女は見知らぬ人のように冷たく言った。「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です。」そして、子供たちの鼻の先にあるあのほくろを見た瞬間、心臓が止まる思いだった。あの子たちは、私の子供だ。真実を知らなけれ…

雪の降る田舎町で、私は看板をふと見上げて足を止めた。ベビーカステラの屋台の前に立つ女性。背中には双子を負って。3年前に死んだはずの妻が、そこにいた。私は震える声で「はずき」と呼びかけたが、彼女は見知らぬ人のように冷たく言った。「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です。」そして、子供たちの鼻の先にあるあのほくろを見た瞬間、心臓が止まる思いだった。あの子たちは、私の子供だ。真実を知らなけれ...

雪が激しく舞う田舎町の商店街で、私は死んだはずの妻の声を聞いた。心臓が止まるかと思った。3年前に事故で亡くなったと聞かされた妻、桜井はずきが、古びたダウンジャケットにエプロン姿でベビーカステラを焼いていたのだ。背中には一人の子供を負い、前にはもう一人を抱っこ紐で抱いている。双子のように見えた。

私は震える声で呼びかけた。

「はずき……俺だよ。順だ。」

女性は顔を上げたが、その目には何の感情もなかった。見知らぬ人を見るような、冷たい目だった。

「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です。」

その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。死んだはずの妻が生きている。なのに、なぜ俺を覚えていないのか。私の視線は子供たちの目元に留まった。その目元は、どこかでよく見たものだった。私自身の目元とそっくりだったのだ。そして、子供たちの鼻の先には小さなほくろがあった。私にも全く同じ位置にあるほくろだ。藤堂家に代々伝わる遺伝だった。

「あの……ベビーカステラ、いかがですか?」

女性が恐る恐る口を開いた。私は必死に気を取り直し、500円分を買ってその場を離れた。ベビーカステラの袋から漂う甘い香りが、恋愛時代にはずきと一緒に食べたあの味を思い出させた。

「私、子供の頃すごく貧乏だったんです。ベビーカステラが一番美味しいおやつでした。だから今でも大好きなんです。」

はずきがはにかみながら言った言葉が蘇る。

車に戻り、私はしばらくぼんやりと座っていた。3年前のことだ。はずきが事故で死んだとだけ聞かされた。しかし、遺体がどこにあるのか、葬儀はどこで行われたのか、何も知ることができなかった。ふと、おかしいという思いが頭をよぎった。

私は財布から古い名刺を取り出した。私立探偵の名刺だった。震える手で携帯電話を握りしめた。真実を知らなければ。あの日、一体何があったのか。

その夜、私は眠れなかった。頭の中には、ベビーカステラを焼く女性の姿と、私を認識できなかったあの目が浮かび続けた。

私は所斎で古いアルバムを取り出した。はずきの明るい笑顔が目に飛び込んでくる。5年前の春、私は父の会社で専務に昇進したばかりだった。31歳という若さで役員になったのだから、周囲の期待は大きかった。しかし、当の本人は毎日が戦争のようだった。

そんなある夜、11時を過ぎた頃、私は静かなオフィスで一人書類を検討していた。その時、控えめなノックの音が聞こえた。

「失礼します。もしよろしければ、コーヒーはいかがですか?」

顔を上げると、見慣れない若い女性が立っていた。きちんとしたスーツ姿で、手にはコーヒーを持っている。

「本日入社いたしました、新入社員の桜井はずきと申します。」

はずきはそっと微笑みながらコーヒーを差し出した。それが最初の出会いだった。

最初はぎこちなかったが、はずきは違った。残業していると必ずコーヒーを持ってきてくれた。疲れているように見えると、静かにお菓子を机の上に置いていった。いつしか私はその笑顔を待つようになっていた。書類の話をしていたのが、いつしか趣味の話、家族の話へと広がっていった。

そしてある春の日、私ははずきに声をかけた。

「桜井さん、週末は時間ある? 一緒にどこか出かけないか。」

はずきの頬がほんのり赤くなり、こくりと頷いた。

初めてのデートは川沿いの公園だった。二人で自転車を並べてこぎ、夕暮れの空を一緒に眺めた。その日、私は小さな熊のぬいぐるみをプレゼントした。

「なんとなく、はずきさんに似ていたから。」

「私がクマに似てるんですか?」

はずきはケラケラと笑った。私も釣られて笑った。はずきはそのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら言った。

「ありがとうございます。本当にすごく可愛いです。」

付き合ってちょうど1年になる日、私は公園のベンチではずきの前に膝まずいた。

「僕と結婚してくれないか?」

はずきの目に涙が浮かんだ。返事の代わりに頷きながら、私を抱きしめた。

結婚式はとても温かいものだった。両親は二人ともはずきを心よく迎え入れてくれた。新婚生活は夢のようだった。はずきは毎朝早く起きてお弁当を二つ作った。週末には商店街でデートをした。べビーカステラを買って、二人で分け合って食べた。私はこの人と一生こうして生きていきたいと思った。

しかし、幸せは長くは続かなかった。結婚して半年ほど経った頃、義母の稽古子が突然倒れた。子宮がんという診断だった。病院の廊下で私は座り込んだ。はずきがそんな私の手を固く握ってくれた。その時、一人の介護士が入ってきた。綾部花代という女性だった。花代は40代半ばだったが、見た目はそれよりずっと若く見えた。口がうまく、エコのことを海外まで上手く話した。しかし、はずきは奇妙な感覚を覚えた。花代は人の前では優しいが、一人になると冷たく計算高いような目をする時があったからだ。

「あなた、あの介護士さん、なんだか変じゃない?」

はずきは言ったが、私は気に留めなかった。

ところが義母の容態が急激に悪化し、ある日の明け方亡くなってしまった。医師も首をかしげていた。そして49日が終わった直後、父の安造会長が衝撃的な発表をした。

「花代さんと再婚することにした。」

私は思わず立ち上がった。

「父さん、母さんの49日が開けたばかりじゃないですか。」

「花代さんは君の母親を献身的に介護してくれた。その恩に報いたいんだ。」

しかし父の決心はすでに固まっていた。こうして花代は新しい奥様となった。

最初の家族での食事の席で、花代の本性が現れた。

「はずきさん、これからは私があなたの小母さんよ。」

花代は笑いながら言ったが、目は全く笑っていなかった。そしてはずきの作った料理をちらりと見ると、鼻で笑った。

「元々何もない家の出の人は家事が上手だって聞いてたけど、あなたは違うみたいね。」

「小母さん、今何とおっしゃいましたか?」

私が冷たく言うと、は花代は手をひらひらさせた。

「あらあら。まあそういうことよ。冗談よ、冗談。そんなにカリカリしないで。」

笑ってごまかしたが、その目は依然として冷たかった。はずきはご飯を一口も喉に通すことができず、ただ俯いていた。まさに針のむろだった。

その時から花代の陰謀が始まった。花代には古くからの共犯者がいた。会社の財務担当の木村達夫だった。二人は密かに会社の金を横領し始めた。安造会長の薬にこっそりと体力を奪う薬物も混ぜた。会長は次第にぼんやりとし、判断力が鈍っていった。

「あの嫁が邪魔ね。会長のそばにいてあれこれ嗅ぎ回っているじゃない。」

「ご心配なく。人をつけてありますから。」

はずきはそんなことも知らずに日常を送っていた。夜眠れない時は、クマのぬいぐるみを取り出して抱きしめた。恋愛時代に私がプレゼントしてくれたあのぬいぐるみだ。

しかし、その日の午後のことだった。はずきは会長の指示で内部監査資料を整理していた。書類の山を一枚一枚めくっていると、不審な点に気づいた。会社の法人カードの利用明細に、出所不明の金額が計上されていたのだ。一定額が正体不明の口座に送金されている。三千万円、五千万円、時には一億円にもなった。総額をざっと計算すると、十億円をはるかに超えていた。はずきは震える手で関連書類をさらに探した。契約書の束が出てきたが、取引先の名前は聞いたこともないものばかりだった。ペーパーカンパニーだった。偽の契約書だったのだ。はずきは契約書の一番下の署名欄を見た。藤堂安造の名前が書かれていた。しかし、何かがおかしかった。会長が直筆で署名した書類と比べてみると、明らかに違っていた。会長のサインは最後の払いが上に跳ね上がる癖があったが、この書類のサインは払いが下に下がっていた。偽造されていたのだ。

はずきは手が震えた。誰かが安造会長の署名を偽造して会社の金を横領している。はずきは素早くUSBを取り出し、関連ファイルをコピーし始めた。しかし、はずきは知らなかった。天井の隅に取り付けられた監視カメラがその姿を全て撮影していることを。コピーを終えたはずきは、知り合いの筆跡鑑定の専門家に連絡した。大学の先輩で、元警察官で鑑定士の資格を持つ人がいた。数日後、返事が来た。

「はずき君が送ってくれた書類見たよ。これ偽造の確率100%だ。これは犯罪だ。警察に通報すべきだよ。」

その夜のことだった。残業を終えて帰ろうとすると、会長室の方の廊下で人の気配がした。時刻は夜11時を過ぎていた。はずきは足音を殺し、廊下の角に隠れた。会長室のドアが少し開いていて、中から声が漏れてくる。

「今月の流出額は十億円です。順調に進んでいます。」木村の声だった。

「よくやったわ。でも問題が一つあるの。」花代の声だった。

「嫁のことよ。最近書類を嗅ぎ回っているのがどうも気になるわ。」

「ああ、それは私も報告を受けています。監査資料を整理しながら何か嗅ぎつけたようです。」

「だからね、あの子は確実に始末しないと。このままでは計画が全て台無しになるわ。」

はずきの心臓は止まるかと思った。手で口を抑えた。足がガクガク震えた。

「どうなさいますか?」

「方法は考えてあるわ。まずは証拠を集めて、あの子が横領したように見せかけるのよ。濡れ衣を着せるということですね。そうよ。そして追い出してやるわ。」

はずきは震える手でポケットから携帯電話を取り出し、録音ボタンを押した。心臓が張り裂けそうだったが、ぐっとこらえて録音を続けた。どれくらい経っただろうか。会長室のドアが開く音がした。はずきは慌てて身をひるがえし、反対側の階段を駆け下りた。

家に帰ったはずきを、私が待っていた。

「どうしたんだ? 顔色が悪いぞ。」

「ううん。何でもない。残業で疲れただけ。」

はずきは必死に笑顔を作った。言いたかった。あなたの義母が会社の金を横領していると。私に濡れ衣を着せて追い出そうとしていると。しかし、証拠が不十分だった。下手に話せば、誤解を招くだけかもしれない。

その夜、はずきはベッドに横になり、熊のぬいぐるみを取り出した。恋愛時代に私がプレゼントしてくれたあのぬいぐるみだ。ぬいぐるみを胸にぎゅっと抱きしめながら考えた。

「私たちの家庭を守らないと。私が守らないと。」

はずきは決心した。もっと証拠を集めることにした。

しかし、その頃木村は花代に電話をかけていた。

「奥様、ご報告があります。今夜、はずきが会長室の前にいました。監視カメラに映っています。」

「なんですって?」

「廊下に隠れて、携帯電話で何か録音していました。それと数日前、会長室のパソコンからUSBに何かをコピーしているのも映っています。」

「この女、もう終わりにしないと。手遅れになる前に。」

翌朝、花代は木村を自分のオフィスに緊急に呼び出した。ドアに鍵をかけ、ブラインドまで下ろした。

「嫁に全部被せるのよ。私たちがやったこと全部。」

「奥様、それが可能でしょうか?」

「可能にするのよ。あの小娘に裏金口座を作って、署名も偽造して。あなたにできないことはないでしょう。」

その日から捏造が始まった。はずき名義で秘密の口座が開設された。印鑑を複製し、署名を偽造した。さらにはホテルの監視カメラの映像まで合成し、はずきが正体不明の男性と会っているかのように見せかけた。数日後、会社の社内ネットワークに匿名の書き込みがあった。会長特別秘書、桜井はずきが横領しているという内容だった。会社は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

はずきは何も知らずに出勤し、冷たい視線にさらされた。その時、秘書室から連絡があった。

「桜井はずきさん、緊急役員会にご出席ください。」

役員会議室のドアを開けると、役員たちが全員揃っていた。正面には義母の花代が座っている。そして大型スクリーンに、何かが映し出されていた。はずき名義の裏口座。偽造された署名が書かれた書類。ホテルで男性と会っている合成写真。

「これは一体何ですか?」はずきの声が震えた。

「あなたがやったことでしょう。会社の金を横領して、男とまで会っていたなんて。」

「その口座は私のものではありません。あの写真も合成です。これは偽造です。私はやっていません。」

はずきは必死に訴えたが、誰も信じてくれなかった。その時、会議室のドアが開いた。私が入ってきた。はずきは夫を見るなり駆け寄った。

「あなた、私はやってないわ。これは全部濡れ衣よ。」

私は無言でスクリーンを見つめていた。顔が強ばっている。

「本当に君がやっていないのか?」

「当たり前でしょう。私がどうしてこんなことをするの?」

はずきの目から涙が溢れた。私は妻を見つめていたが、やがて顔を背けた。証拠があまりにも明白に見えたのだ。花代が割って入った。

「ほら、証拠はこれだけはっきりしているのよ。もういいでしょう。認めなさい。」

「待ってください。私にも証拠があります。USBに全部入れてあります。」

はずきは鞄からUSBを取り出し、会議室のパソコンに差し込んだ。しかし、ファイルを開いたはずきの顔が真っ白になった。カラだった。

「何これ?」はずきが震える手でフォルダーを開いても、何もなかった。

誰かがUSBをすり替えたのだ。

「何があるって、何もないじゃない。」花代がせせら笑った。

はずきは会議室を飛び出した。幸い元のファイルは家のパソコンに残っていた。はずきは震える手で全ての証拠をメモリーカードにコピーした。録音ファイル、裏金の資料、偽造署名の比較まで全部だ。

「これをどこに隠そう。」

はずきの目に熊のぬいぐるみが映った。私が恋愛時代にプレゼントしてくれたあのぬいぐるみだ。はずきは熊のぬいぐるみの縫い目をほどき、綿の間にメモリーカードを深く押し込んだ。そして針で丁寧に縫い合わせた。

「これが最後の希望よ。」

その様子を木村の手下がこっそりと見ていた。

その後、噂はさらにひどくなった。横領に不倫まではずきは会社で完全に孤立した。廊下で私とすれ違ったが、私は顔を背けて通りすぎていった。あの日以来、私ははずきを信じたかった。しかし、証拠があまりにも明白だった。花代が書斎に入ってきた。

「はずきの荷物の整理をしなさい。あの女は最初から金目当てで近づいたのよ。」

「小母さん、もうやめてください。」

「証拠が目の前にあるのに、まだわからないの? 離婚しなさい。それが一番よ。」

私は何も言えずにうなだれた。

翌日、はずきは会長室に呼び出された。私が立っていた。顔には何の表情もなかった。

「離婚します。」

はずきは自分の耳を疑った。

「なんですって? あなた? 私は本当にやってないの? 信じて。お願い。」

はずきが私の腕を掴んだ。私はその手を振り払い、冷たい背を向けた。はずきはその場に座り込み、ほとほとと泣いた。喉が張り裂けるほど泣いたが、誰も振り返らなかった。信じていた夫にまで背を向けられた瞬間だった。

3日という時間はあっという間に過ぎた。はずきは荷物をまとめることができなかった。まとめたくなかった。これが夢であってほしいと願っていたからだ。最終日の夜、はずきはガランとしたリビングに一人で座っていた。私は何日も家に帰ってきていなかった。花代はあからさまにあざ笑った。

「荷物はまとめたの? 明日の朝までに出て行かなかったら、警備員に引きずり出させるからね。」

夜11時を過ぎた頃、はずきは決心した。ここでこのままやられるわけにはいかない。まずは父のところへ行こう。はずきは小さな鞄一つだけをまとめた。着替え、財布、そして熊のぬいぐるみ。それが全てだった。玄関を出ようとした時、体がふらついた。吐き気がして目まいがする。下腹部が重く圧迫されるような感じもした。

「ストレスがひどいからね。早くお父さんのところへ行かないと。」

はずきはそう思った。

家を出ると、冷たい風が頬を打った。はずきは震える手で携帯電話を取り出し、父に電話をかけた。

「お父さん。私、家に帰る。」

「どういうことだ? 一体何があったんだ?」

「詳しいことは着いてから話すわ。今から出るから。」

「分かった。気をつけて来い。」

電話を切り、はずきはタクシーを拾った。父の家は東京郊外の小さな町にあった。一時間半ほどかかる距離だった。

その頃、木村は花代に電話をかけていた。

「奥様、はずきがたった。今家を出ました。タクシーに乗ってどこかへ向かっています。」

「何? こんな夜中にどこへ?」

「おそらく父親の家へ向かっているものと思われます。」

「USBはすり替えたけど、原本がどこかにあるはずよ。あの子がバックアップを取っていないはずがない。今すぐ追いなさい。何を持っているにせよ、全部奪うのよ。」

木村は部下2人を急いで向かわせた。黒い乗用車が、はずきの乗ったタクシーの後を追った。

日付が変わり、タクシーが父の家の近くに到着した。はずきはタクシーを降り、路地を歩いた。父の家までは5分ほどの距離だった。その時だった。暗闇の中から男2人が現れた。

「誰ですか?」

「鞄をよこせ。静かにしろ。」

男が手を伸ばした。はずきは鞄と熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。この中に証拠が入っている。絶対に奪われるわけにはいかなかった。

「嫌です。」

はずきは身をひるがえして走り出した。心臓が狂ったようになっていた。路地を走り、階段をかけ上がった。しかし、足を滑らせてしまった。

「きゃっ。」

はずきの短い悲鳴と共に、体が階段の下へと転がり落ちていった。頭を強く打ちつけた。目の前が真っ白になる。鞄は少し離れたところに落ちたが、熊のぬいぐるみだけは胸にしっかりと抱かれていた。男たちが駆け寄り、倒れたはずきを見下ろした。

「おい、息はしてるぞ。鞄を拾え。」

一人の男が落ちた鞄を拾った。開けてみると、着替えと財布だけだった。

「なんだ、大したものは入ってないな。」

「いいから行こう。死んだみたいだし。」

その時、遠くから怒鳴り声が聞こえた。

「そこにいるのは誰だ!」

父の正一が走ってくるのが見えた。男たちは驚いて逃げ出した。正一は階段の下に倒れている娘にかけ寄った。頭から血が流れている。

「はずき! はずき! しっかりしろ!」

正一は娘を揺さぶった。はずきがかすかに目を開けた。

「お父……さん……。」

正一は娘を抱き上げ、車へと走った。娘を追ってきた男たちのことを考えると、大きな病院には行けなかった。田舎の人里離れた場所に、小さな診療所が一つあった。正一はそこへ車を走らせた。

診療所で、衝撃的な診断が下された。

「保護者の方。この患者さんは妊娠されています。3ヶ月です。……双子ですな。」

「なんだって。娘が妊娠?」

正一は目を丸くした。

「胎児は幸い無事ですが、頭の怪我が深刻です。脳震盪の症状があります。」

数日後、はずきが目を覚ました。しかし、その目はどこかおかしかった。

「ここはどこですか? 私は誰ですか?」

「はずき、何を言っているんだ? 私だ。父さんだぞ。」

「お父さん……私、何も思い出せないんです。何も。」

医師が言った。

「極度のトラウマによる記憶喪失です。脳が自ら苦痛な記憶を遮断したのでしょう。時間がかかるかもしれません。もしかしたら……」

正一は廊下に出て座り込んだ。娘は自分が誰なのかも、結婚していたことも、妊娠していることも、全て忘れてしまった。しばらく悩んだ末、正一は決心した。娘に新しい人生を与えることにした。病室に戻り、娘の手を握った。

「お前の名前はみ子だ。鈴木み子。私はお前の父親だ。交通事故に遭って頭を怪我したんだ。だから記憶がないんだよ。」

はずき、いや、み子になった女性はこくりと頷いた。何も覚えていないのだから、父の言葉を信じるしかなかった。

正一は娘を連れて、知り合いのいない田舎町へと引っ越した。古びた家を借りて、二人で暮らし始めた。数週間が経つと、み子の腹が膨らんできた。

「お父さん、私どうしたのかしら? 気分がすごく悪いの。」

正一はもう隠し通せないと思った。

「み子、お前は妊娠しているんだ。事故の時、病院で分かったんだ。双子だ。」

「双子……。じゃあ、子供のお父さんは?」

「覚えていないだろう。あいつは事故で亡くなったんだ。」

正一は嘘をついた。み子は首を振った。目に涙が浮かんでいる。正一は娘をぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫だ。父さんが全部助けてやるから。」

6ヶ月後、み子は双子の男の子を産んだ。7ヶ月での早産だった。未熟児だったが、幸い健康だった。しかし、一人の子が呼吸困難を起こした。先天性の疾患という診断だった。一生管理が必要で、薬代もかなりかかるだろう。み子は2人の子供を見つめながら決心した。

「私が何でもします。この子たちを守らないと。」

その頃東京では、花代が木村と電話で話していた。

「それで、何を奪ってきたの?」

「鞄には着替えしかありませんでした。そして、階段から落ちて死んだの? おそらく。」

「死亡診断書を作って、綺麗に始末しましょう。」

花代は偽造した死亡診断書を持って、私の元を訪れた。

「順さん、はずきさんが事故で亡くなったわ。」

「なんだって……」

私は一晩泣いた。

「はずき、すまない。僕が信じていれば……」

一方田舎町で、み子は荷物を整理していて熊のぬいぐるみを見つけた。

「これは何かしら。なんだか懐かしい感じがする。」

父の正一が慌ててぬいぐるみを取り上げた。

「ああ、それはお前が好きだったぬいぐるみだ。父さんが預かっておく。」

熊のぬいぐるみの中のメモリーカードには全ての真実が詰まっていた。しかし、それを知るものは今や誰もいなかった。

それから3年の月日が流れた。み子は田舎町でベビーカステラの商売をしながら双子を育てた。父の正一は体がますます弱り、車椅子生活になった。大変だったが、それでも4人家族は互いに支え合って生きていった。そして、ある冬の日、雪の降る商店街で私と再会したのだ。

私はあの日以来、眠れない夜を過ごしていた。死んだはずの妻が生きていた。それも双子を育てながら。商店街から帰った翌日、私は私立探偵に連絡した。

「あの商店街でベビーカステラを売っている女性を調べてください。名前は鈴木み子と名乗っているそうです。」

1週間後、調査報告書が届いた。私は震える手で封筒を開けた。書類の最初のページに写真が貼ってあった。ベビーカステラの屋台の前で双子を抱いて笑う女性。間違いなくはずきだった。報告書の内容はこうだった。

「鈴木み子 32歳。3年前にこの町へ転入。ベビーカステラの屋台を経営。双子の男児を養育中。父・桜井正一と共に居住。夫や子供の父親に関する情報は確認できず。」

私は探偵に電話をかけた。

「遺伝子鑑定は可能でしょうか? あの子たちが私の子供なのか確認したい。」

「現時点では困難です。子供たちへの接触は不可能ですし、法的な手続きなしには鑑定はできません。」

電話を切り、私は窓の外を見つめた。自分の目で見たんだ。間違いない。子供たちの目元と鼻の先のほくろは自分とそっくりだった。鑑定結果がなくても確信があった。

その日から、私は毎日その町を訪れた。午前4時、私は車の中で目を覚ました。街の外れに車を止め、夜を明かしたのだ。遠くの小さな家から明かりが灯った。み子が起きたのだ。窓の向こうにみ子の姿が見えた。大きなボールに小麦粉を入れ、生地をこね始めている。早朝からベビーカステラの生地を準備しているのだ。昼12時、み子が家を出た。車椅子に父親を乗せ、ゆっくりと歩いている。病院へ行く道だった。み子が車椅子を押しながら急な坂を登るのが見えた。力尽きたのか途中で立ち止まって息を整えている。私は駆け寄って助けてやりたかった。しかし、できなかった。み子は自分のことを知らないのだから。夜10時、み子が再び顔を出した。今度は子供を一人背負っている。薬局へ向かった。

「先天性の薬をください。いつものお願いします。」

「お子さん、大変そうですね。」

「ええ、最近寒くなったせいか、咳がひどくて。」

み子が心配そうな顔で子供の背中をさすった。私は薬局の外からその様子を見守っていた。涙が出た。

数日後のことだった。み子が家の裏でガスボンベを運んでいた。重いボンベを持ち上げようとして足を滑らせた。

「ドーン。」

み子が転んだ。ガスボンベが転がっていく。私は反射的に車のドアを開けた。駆け寄ろうとして、止まった。行けなかった。み子がゆっくりと立ち上がった。膝をすりむいたのか、顔をしかめている。しかし、何も言わずに再びボンベを持ち上げた。その姿を見て、私は拳を固く握りしめた。

「俺が、俺が信じなかったから。」

3年前のあの日が蘇った。はずきが泣きながら懇願した。

「私はやってないわ。信じて。」

しかし、自分は証拠だけを見て背を向けた。

「俺が信じていれば、こんなことにはならなかったのに。」

その夜、私は車の中からみ子の家を見つめていた。小さな窓から明かりが漏れている。その時、歌声が聞こえてきた。

「ねんねころりよ、おころりよ。坊やは良い子だ。ねんねしな。」

み子が子守唄を歌っていた。優しく温かい声だった。私は息を止めた。その声は新婚の頃、はずきが歌ってくれると約束した子守唄だった。

「いつか私たちの赤ちゃんが生まれたら、毎日子守唄を歌ってあげるわ。」

はずきが笑いながら言った言葉が蘇った。その時はただ笑って聞き流していた。しかし、本当に子供が生まれ、はずきは一人でその子たちを育てていたのだ。

私はもう耐えられなかった。車のエンジンをかけ、その場を去った。涙が止まらなかった。真実を知らなければならなかった。3年前のあの夜、一体何があったのか。なぜはずきは記憶を失ったのか。なぜ別の名前で生きているのか。そして何より、あの双子が本当に自分の子供なのか。

私は決心した。今度は逃げない。必ず真実を明らかにする。

私は秘書から、はずきの父である正一の連絡先を手渡された。電話をかけるべきか、直接訪ねるべきか。悩んだ末、私は直接訪ねることにした。み子の家の前に車を止めた。み子は商売に出ている時間だった。家には正一が一人でいるはずだ。私は深呼吸をして、チャイムを押した。

しばらくしてドアが開いた。車椅子に座った老人が顔を上げた。顔がひどくやつれている。

「どなたかな?」

「こんにちは。お父さん。私です。順です。」

正一の目が大きく見開かれた。顔が強ばる。

「なぜお前がここに?」

「お父さん、どうか真実を教えてください。はずきが、私の妻が生きていることは知っています。」

正一の顔に怒りが浮かんだ。

「妻だと? 今更妻だと? お前があの子に何をしたか分かっているのか?」

「申し訳ありませんでした。私が間違っていました。だからこうして伺ったんです。」

私は頭を下げた。正一は冷たく言った。

「帰ってくれ。娘はやっと笑えるようになったんだ。お前のせいでまた壊すわけにはいかない。」

「お父さん、はずきは何も覚えていません。自分が誰なのかも、結婚したことも、子供の父親が誰なのかも。」

「その方がむしろ幸いだ。帰ってくれ。」

正一がドアを閉めようとした。私は必死に言った。

「お願いします。3年前のあの夜、何があったのか知りたいんです。」

「はずきに何があったかだと?」

正一が叫んだ。しかし、突然顔をしかめ、胸を押さえ激しく咳込み始める。手で口を抑えたが、手のひらに血がついていた。吐血だった。私は慌てて正一を支えた。正一の体がぐったりと崩れる。私は正一を抱き上げ、車へと走った。救急車を待つ時間はなかった。自ら車を運転し、救急病院へと向かった。

救急治療室で検査が行われた。1時間ほど経った頃、医師が出てきた。

「保護者の方ですか?」

「はい、そうです。」

「肺癌の末期です。すでに転移が進んでいます。もう時間は残されていません。」

私の頭の中が真っ白になった。

「あとどれくらい?」

「長くても数日です。」

その時、み子が救急治療室に駆け込んできた。双子を両手に連れている。

「お父さん! お父さん!」

み子が病室に駆け込んだ。私は遠くから見守っていた。

「お父さん、しっかりして! お父さん!」

み子が正一の手を握って泣いた。正一が苦しそうに目を開けた。

「み子……泣くな。」

「お父さん、どうしてこんなになるまで……どうして病院に行かなかったの?」

「父さんには、話さなければならないことがある。」

正一は周りを見回した。私がドアの前に立っているのが見えた。正一は手招きで私を呼んだ。

「あの人を中に入れてくれ。」

み子は疑い深そうな目で私を見つめた。私はゆっくりと病室の中に入った。正一が苦しそうに口を開いた。

「み子……いや、はずき。」

「ええ? お父さん、何を言ってるの? はずきって誰?」

「お前の本当の名前だ。お前は桜井はずきだ。」

み子の目が大きく見開かれた。何を言っているのか理解できないという表情だった。正一は私を見つめた。

「お前に話さなければならない。3年前のあの夜のことだ。」

正一はゆっくりと話し始めた。声が細く震えていた。

「あの夜、はずきから電話があったんだ。家に帰ると。私が迎えに行った。だが……」

正一は目を閉じた。

「誰かに追われていた。男2人がはずきを追ってきたんだ。階段から転がり落ちた。頭をひどく打って、血をたくさん流した。急いで病院に連れて行ったんだが……」

正一の目に涙が浮かんだ。

「そこではずきが妊娠していると分かった。3ヶ月だった。双子だった。」

み子は呆然と正一を見つめていた。これが何の話なのか理解できなかった。

「7ヶ月で子供が生まれた。未熟児だった。1人は酸素吸入をつけなければならなかった。はずきが目覚めた時、何も覚えていなかった。自分の名前も、結婚したことも、妊娠したことも。脳が自ら記憶を消してしまったんだ。医者は極度のトラウマのせいだと言っていた。」

私の目から涙がこぼれ落ちた。

「だから新しい名前をつけてやったんだ。み子と。交通事故にあったと伝えた。記憶を失った方がむしろ幸せだと思ったんだ。あの苦しみを忘れた方が。」

正一が咳をした。血の混じった咳だった。

「お父さん!」み子が慌てて正一を支えた。

「はずき……父さん、すまない。真実を隠していて。」

「お父さん、何を言ってるの? 私はみ子よ。鈴木み子。」

「違う。お前は桜井はずきだ。そして、あの男は……」

正一は私を指さした。

「お前の夫だ。双子の父親だ。」

み子の顔が真っ白になった。私を見つめる。私は何も言えず、俯いた。み子は父の手を固く握った。

「お父さんは何を言っているんだろう。意識が朦朧として、勘違いしているのかしら。」

死を目前にした人は時々おかしなことを言うと聞いたことがある。今、父もそうなのだろう。み子は必死に考えた。正一が私の手を握った。

「わしが死んだら、哀れなはずきはどうなるんだ。鬼母さん、双子たちはどうするんだ? 父親が誰かも知らずに。」

正一の目から涙がこぼれ落ちた。

「頼む。わしの子たちを守ってやってくれ。はずきと双子たちを守ってやってくれ。」

「お約束します。必ず守ります。」

私が正一の手を固く握った。正一がかすかに笑った。そして、み子を見つめた。

「はずき。父さん、すまない。もっとよくしてやれなくて。愛してるよ。娘よ。」

「お父さん! 目を閉じないで! お父さん!」

み子が正一の手を揺さぶった。しかし、正一の目はゆっくりと閉じられていった。ピーッという心電図モニターの直線音が病室に響いた。

「お父さん!」

み子の絶叫が病室に響き渡った。

葬儀は静かに行われた。私が全ての費用を負担した。み子はそれが申し訳なかった。

「あの、ありがとうございます。必ずお返しします。父の知人の方ですよね? ここまでしていただいて。」

み子はまだ私が誰なのか分かっていなかった。正一が言った言葉を信じていなかった。いや、信じることができなかった。私はただ頷いた。

「ええ、昔少しご縁がありました。どうぞ。」

ゆっくりと私は正体を明かさなかった。今話したところで、み子が受け入れられるはずがなかった。ゆっくりと少しずつ近づいていかなければならなかった。葬儀場を出て、私は空を見上げた。

「お父さん、約束は守ります。必ず。」

今こそ真実を明らかにしなければならなかった。3年前、はずきを追ってきた男たち。その背後にいるのは誰か。私はオフィスに座り、しばらく考え込んだ。正一の最後の言葉が頭の中を駆け巡り続けていた。私は探偵に電話した。

「先日調査していただいたものです。追加でお願いしたいことがあります。3年前のことです。妻が誰かに追われて階段から転落したそうです。あの夜、何があったのか調べてください。病院の記録、監視カメラ、何でもいい。男たちが誰の指示で動いたのか突き止めなければなりません。」

2週間が経った。探偵から連絡があった。分厚い書類の封筒を差し出された。

「会長、ご報告があります。簡単ではありませんでしたが、見つけました。」

私は震える手で書類を開いた。最初に出てきたのは病院の記録だった。3年前のあの夜、はずきが運び込まれた田舎の診療所の記録だ。頭部外傷、脳震盪、妊娠3ヶ月。全て記録されていた。次は監視カメラの映像の切り抜きだった。事件現場近くのコンビニで確保したものだった。黒い服を着た男2人がはずきを追いかける姿が鮮明に映っていた。

「この男たちの身元は、2人とも前科者です。暴行、脅迫の前歴があります。」

そして探偵が別の書類を取り出した。

「この2人は当時、木村達夫名義の法人カードで現金を引き出した記録があります。」

私の目が大きくなった。

「木村だと?」

「はい。さらにあります。社内職員の証言です。匿名の情報ですが、当時、綾部花代様と木村理事が裏金を増成していたとのことです。数十億円規模です。はずきさんがそのことに気づいたと。だから濡れ衣を着せて追い出したと。」

私の手が震えた。予想はしていたが、いざ証拠を目の当たりにすると怒りが込み上げてきた。

「まだあります。会長、身内のお母様、藤堂稽古子様の死亡の件も調べてみました。当時の病院記録を入手しましたが、死亡直前の血中薬物濃度が非常に高かったのです。処方量の3倍を超えていました。」

私の顔が強ばった。

「どういうことですか?」

「薬物の過剰投与の疑いです。自然死ではない可能性があるということです。当時の介護士は、綾部花代さんでした。」

最後に探偵がまた別の書類を取り出した。

「藤堂安造会長の健康診断記録です。ここ3年間の血液検査の結果ですが、微量の毒物が継続的に検出されています。」

「父にまで……。」

「はい。徐々に健康を蝕む種類の薬物です。誰かが意図的に投与しているものと思われます。」

私は呆然と座っていた。頭の中が真っ白になった。綾部花代。あの女が母を殺し、父を病にさせ、妻を追い出し、自分に嘘をついていたのだ。

「ありがとうございます。この資料、大切に使わせていただきます。」

私は書類を手にオフィスを出た。しかし、私は知らなかった。書斎の壁時計の裏に隠された盗聴器が、赤い光を点滅させながら全ての会話を録音していること。花代は録音ファイルを木村に聞かせた。

「このままじゃ、私たちみんな終わりよ。」

「方法があります。あの女と子供たちを捕まえるんです。人質に。そうすれば順がいくら証拠を持っていても、妻と子供が我々の手にいれば口を開くことはできません。同時に役員会を招集します。解任案を上程するんです。すでに役員数名は買収済みです。」

花代は冷たく笑った。

「いいわね。明日の夜、実行して。綺麗にね。」

その夜のことだった。み子は双子を寝かしつけ、台所で皿洗いをしていた。父が亡くなってから、家がひどく静かになった。その時だった。

「ドーン。」

玄関のドアが壊れる音がした。み子は驚いて振り返った。黒い服を着た男2人が家の中に押し入ってきた。顔をマスクで覆っている。

「誰!?」

み子が叫んだ。男たちは答えずに近づいてくる。

「静かにしろ。静かにしていれば、命だけは助けてやる。」

一人の男が子供たちの部屋の方へ向かった。み子の目が大きく見開かれた。

「だめ! 私の子供たちに触らないで!」

み子が男の前に立ちはだかった。男がみ子を突き飛ばす。み子は床に倒れた。

その瞬間だった。み子の頭の中で何かがひらめいた。3年前のあの夜、暗闇の中で追いかけてきた男たち。階段から転がり落ちた瞬間、頭を打った時に感じた痛み。鞄をよこせ、あの声。重なって聞こえた。み子の目の前に場面がフラッシュバックした。会社の廊下。会長室の前で聞き耳を立てた夜。冷たい目をした女の声。

「あの子は確実に始末しないと。」

「綾部花代。」

み子の口から名前が漏れた。木村。数千個のパズルのピースが一気に組み合わさっていくようだった。川沿いの公園でもらった熊のぬいぐるみ。結婚式の日の夫の笑顔。義母の冷たいまなざし。役員会での屈辱。涙で過ごした夜々。よし、私。

「私は、桜井はずき。」

その瞬間、子供たちの部屋から鳴き声が上がった。男が子供を抱き上げて出てこようとしていた。

「だめ! 私の子供たちから手を離して!」

はずきは飛びかかった。男に襲いかかろうとしたその時だった。

「はずき!」

順だった。不安な気持ちに駆られ、はずきの家に駆けつけたのだ。私は鉄パイプを持った男に飛びかかり、もみ合いになった。

「はずき、子供たちを連れて逃げろ!」

男が鉄パイプを振り回した。私は避けようとしたが、肩に当たってしまった。ぐっ、といううめき声を漏らした。しかし、歯を食いしばり、男の足を蹴り上げた。その時、サイレンの音が聞こえた。近所の住民が通報したのだ。男たちは警察に捕まった。

「誰の指示だ?」

「綾部花代です。あの女に金で雇われました。」

警察が男たちを連行していった。私は肩を押さえ、壁にもたれかかっていた。血が流れ出ている。はずきが近づいてきた。声が震えている。

「順さん。」

私が顔を上げた。はずきのまなざしが変わっていた。もう、見知らぬ人を見る目ではなかった。

「記憶が戻りました。」

はずきの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「さっき、男たちが子供たちを奪おうとした時、頭の中で何かが弾けるようだったの。階段、暗い階段、誰かに突き落とされた。あの瞬間が……」

はずきは震える手で自分の頭に触れた。はずき、私が近づいた。

「すまない。本当にすまない。はずき、僕が間違っていた。僕が君を信じなかったから。」

私の声が途切れた。はずきは首を振った。涙がぽたぽたと落ちる。

「あなたも騙されたでしょう。私が死んだと思って。」

はずき。二人の手が重なる。3年ぶりの再会だった。

しばらくして、はずきが突然目を大きく見開いた。

「思い出した。」

はずきは私の手を離し、振り返った。

「ちょっと待ってて。」

はずきは急いで棚の上に手を伸ばした。ほこりをかぶった熊のぬいぐるみを取り出した。私が最初にプレゼントしてくれたあのぬいぐるみだった。

「このぬいぐるみ。あなたが最初にくれたもの。私たちの始まりだったわね。」

はずきの手が震えていた。慎重にぬいぐるみの背中の部分の糸をほどく。綿が出てきた。その間から、小さなメモリーカードが出てきた。

「ここに全部あるの。あの人たちの不正の証拠、全部。3年前の最後の夜、全部ここに入れました。録音ファイルも、書類も、筆跡鑑定の結果も。」

はずきはカードを固く握りしめた。その時、私の携帯電話が鳴った。

「社長、大変です。今、緊急役員会が招集されました。議題は社長の解任だそうです。一時間以内に始まるとのことです。」

私の顔が強ばった。

「行かなければ。」

「肩がそんな状態でどうするの?」

「今行かなければ、全て終わる。会社も真実も。」

私は歯を食いしばって立ち上がった。肩から血が滲んでいる。

「私も行くわ。」

はずきはメモリーカードを固く握った。

「これがないとダメでしょう。一緒に行くわ。」

私ははずきを見つめた。そして頷いた。

「子供たちは隣のおばさんに預けるわ。ちょっと待ってて。」

はずきは急いで子供たちを隣人に預け、戻ってきた。二人は車に乗り込んだ。私が片手でハンドルを握る。怪我をした肩がずきずきと痛んだが、気にしている余裕はなかった。

「ごめんなさい。3年も気づかなくて。」

「僕こそすまない。君を信じられなくて。」

「もう、過ぎたことよ。今はあいつらを終わらせることが先。」

はずきのまなざしは硬かった。もはや3年前に追われていた女性ではなかった。

会社ビルに到着した。エレベーターを降りると、大会議室のドアが見えた。私がドアを開けて入る。肩には血の滲んだ包帯が応急処置的に巻かれていた。役員たちが全員揃っていた。花代が正面に座っている。

「あら、順さん、その格好。どうしたの?」

花代がせせら笑った。私は答えずに席についた。

「では、役員会を始めましょう。本日の議題は……」

花代が立ち上がろうとした瞬間、会議室のドアが再び開いた。安造会長が入ってきた。

「あなた、どうしてここに?」

花代の顔が強ばった。

「今回の役員会は、私も参加する。」

安造会長が冷たく言った。車椅子ではなく、自分の足で歩いて入ってきた。そして、安造会長が私を見つめた。

「本当の議題は、別にあるのではないか。」

私は頷き、立ち上がった。手にはメモリーカードが握られている。そして、その隣にははずきが立っていた。3年ぶりにこの会議室に再び立ったのだ。花代の顔が真っ白になった。

「あ、あなた……」

「お久しぶりです。小母様。」

はずきは微笑んだ。会議室が凍りついた。花代は、はずきを見て顔が青ざめた。記憶を取り戻したことを悟ったのだ。

「あ、あなた、記憶がなかったはずじゃ……」

「取り戻しました。小母様が送ってくださった方々のおかげで。」

はずきの声は落ち着いていたが、まなざしは鋭かった。私が一歩前に出た。手に持ったメモリーカードを掲げる。

「父さん、役員の皆さん。この中に、3年間隠されてきた真実が。」

「それが何だって言うのよ!」

花代が叫んだ。私は答えずに、会議室のパソコンにメモリーカードを差し込んだ。大型スクリーンに映像が映し出された。3年前、会長室で録音された音声ファイルだった。花代と木村の声が会議室に響き渡る。

「今月の流出額は十億円です。順調に進んでいます。」

「よくやったわ。でも、嫁が邪魔ね。あの子、確実に対処しないと。」

役員たちの顔が強ばった。ひそひそと話す声が聞こえる。

「そして、これです。」

私は次のファイルを開いた。裏金口座の明細、偽造された書類、会長の署名鑑定結果が次々と画面に映し出された。

「これらの書類は全て偽造されたものです。会長の署名を真似て、会社の金を横領した証拠です。」

花代の顔が歪んだ。

「でっち上げよ! 全部、嘘っぱち!」

「でっち上げですか?」

はずきが一歩前に出た。

「3年前、私は偶然証拠を見つけました。内部監査資料を整理していて。そして、花代様と木村理事が話しているのを聞いたんです。『嫁を確実に対処しろ』という言葉まで。」

「黙りなさい!」

花代が立ち上がった。

「全部、あなたが仕組んだことでしょう。あの口座だってあなたのものだったじゃない。私が嫁の横領現場を押さえたのよ。」

「そうですか。では、なぜ私を追ってきた者たちが、綾部花代に指示されたと自白したのでしょうか? 今夜、私の家に侵入した男たちは今、警察署にいます。」

花代の口がぱくぱくと動いた。安造会長がゆっくりと立ち上がった。顔が青白い。

「お前が……やったことなのか?」

花代は唇を震わせた。答えられない。

「私の最初の妻も、お前がやったのか。」

沈黙が流れた。花代の目が揺れた。私がまた別の書類を取り出した。

「父さん、母の死亡当時の病院記録です。血中薬物濃度が処方量の3倍でした。当時の介護士は、花代さんです。」

会議室がざわめいた。役員たちが花代を見るまなざしが変わった。

「そして、これもです。父さんのここ3年間の血液検査の結果です。微量の毒物が継続的に検出されていました。誰かが父さんにも薬を飲ませていたんです。」

安造会長の顔が強ばった。3年間、自分がなぜあんなに無気力で判断力が鈍っていたのか、今ようやく理解できた。

「花代。」

安造会長の声が震えた。

「どうして、お前が。」

花代も弁解できなかった。役員たちが一人また一人と席を立ち、花代から離れていく。

「解任の採決は、賛成多数で可決します。」

一人の役員が言った。他の役員たちも頷いた。その時、会議室のドアが開いた。警察官たちが入ってきた。

「綾部花代さん、木村達夫さん。殺人、殺人未遂、業務上横領の容疑で緊急逮捕します。」

警察官が手錠を取り出した。花代が後ずさる。

「そんな、私はこの家の奥様なのよ! 何か権利があります! 弁護士を選任することもできます!」

警察官が花代の手首に手錠をかけた。花代は暴れたが、無駄だった。

「藤堂順! 桜井はずき! あんたたち、ただじゃおかないから覚えてなさい!」

花代は叫びながら連行されていった。木村も一緒に逮捕された。会議室に静寂が流れた。はずきは私の隣に立ち、その光景を見守っていた。3年ぶりだった。不当に追い出され、記憶を失い、一人で子供たちを育て、耐えてきた。今ようやく、その全てが終わったのだ。涙がこぼれ落ちた。私がはずきの手を固く握った。

「終わったよ。もう、全部終わった。」

しばらくして、裁判が開かれた。法廷は人々で埋め尽くされていた。検察官が論告を始めた。

「被告人、綾部花代は、藤堂稽古子夫人を薬物過剰投与により殺害し、桜井はずきさんに濡れ衣を着せて殺害しようとし、さらに会社資金十億円以上を横領しました。」

花代は被告人席に座っていた。顔がやつれている。

「被告人は、全ての容疑を認めますか?」

「いいえ! 全部嘘です! あの女が全部仕組んだんです! 私がどうしてそんなことをしますか?」

花代が叫んだ。裁判長がはずきを証言台に呼んだ。はずきはゆっくりと席に立った。3年前のあの夜から今日まで、全ての出来事を証言した。法廷は静まり返った。検察官が録音ファイルを再生した。花代と木村の会話が法廷に響き渡る。

「あの子、確実に対処しないと。」

「濡れ衣を着せるということですね。」

「そうよ。順があの女をかばう姿なんて見たくないわ。」

花代の顔が歪んだ。もはや否定することはできなかった。

裁判は三回の公判を経て、判決を迎えた。

「被告人、綾部花代。殺人、殺人未遂、業務上横領等の罪により、無期懲役を言い渡す。被告人、木村達夫は、懲役15年を言い渡す。」

花代が立ち上がった。

「不公平だわ! あいつらが全部仕組んだのよ! 覚えてなさい!」

花代は暴れながら叫んだ。法廷係員が花代を引きずり出していった。私は無言でその姿を見守っていた。はずきが私の手を握った。

「終わったわね。」

「ああ、本当に終わったんだ。」

裁判が終わり、数日後のことだった。はずきは病院を訪れた。安造会長が入院していた。長年の薬物投与で、体がひどく弱っていたのだ。病室のドアを開けると、安造会長がベッドに横になっていた。以前よりずっとやつれている。

「お父様。」

「はずきさん。」

安造会長が苦しそうに首を巡らせた。目に涙が浮かんでいる。

「すまなかった。私があまりにも愚かだった。あの女に騙されて、君がそんなに苦しんでいるとも知らずに。」

安造会長の声が震えた。

「稽古子も、あの女のせいで。」

はずきが安造会長の手を握った。

「お父様、私も誤解していました。お父様がわざと知らないふりをしているのだと。」

「違う。私は本当に知らなかったんだ。あの女があんな人間だとは。」

安造会長がはずきの手を固く握った。

「許してくれ。この老いぼれを。許してくれ。」

はずきの目から涙がこぼれ落ちた。

「いいえ。お父様も被害者じゃないですか。」

「ありがとう。はずきさん。」

安造会長がかすかに笑った。

「孫たちに会いたいな。連れてきてくれるかい?」

「はい。お義父様、明日連れてきます。」

翌日、はずきは約束通り双子を連れて病院を訪れた。

「おじいちゃん、こんにちは!」

子供たちが病室に駆け込んできた。安造会長の顔に明るい笑顔が浮かんだ。

「おお、お前たちが来たか。」

安造会長は震える手で子供たちを抱きしめた。目に涙が浮かんでいる。

「こんなに可愛い子たちが、3年も知らなかったとは。」

「おじいちゃん、泣いてるの?」

一人の子が首をかしげた。安造会長は涙をぬぐって笑った。

「いやいや、おじいちゃんは嬉しくて泣いているんだよ。」

はずきはその様子を見守り、心が温かくなった。3年間の闇が開け、ようやく家族が一つになるような気がした。

数日後、はずきは裁判所へ行った。解明申請書を提出したのだ。鈴木み子から、桜井はずきへ。3年間、他人の名前で生きてきた彼女が、ようやく自分の名前を取り戻す瞬間だった。

「桜井はずきさん。解明申請が承認されました。」

裁判所の職員が書類を手渡した。はずきはその書類をしばらく見つめていた。涙がこぼれ落ちた。

桜井はずき。私の本当の名前。私が隣ではずきの手を握った。

「取り戻したんだね、君の名前。」

「うん。これで、本当の私で生きられる。」

同じ日、双子の戸籍も整理された。父親の欄に、藤堂という名前が記載された。子供たちも正式に父親を持つことになったのだ。

1週間後、はずきと私は正一の墓を訪れた。後も一緒だった。子供たちの手には菊の花が握られていた。

「おじいちゃん、こんにちは。」

子供たちが墓の前に花を置いた。はずきは膝まずき、手を合わせた。

「お父さん、もう全部終わったよ。あの人たち、みんな捕まったから。お父さんが守ってくれたから、ここまで来られた。ありがとう、お父さん。そして、ごめんなさい。ちゃんと親孝行できなくて。」

私も手を合わせた。

「お父さん、約束は守ります。はずきと子供たちは、私が必ず守ります。」

風が吹いた。まるで正一が答えているかのようだった。

はずきは父の名前で財団を設立することにした。桜井正一財団。一人親家庭や虐待被害者を支援する財団だった。

「お父さんは生涯苦労して生きてきたから、そういう人たちを助けたいの。」

「いい考えだ。僕も協力するよ。」

春が来た。私たちは疾患を持つ息子のために、特別な家を建てることにした。無垢材と自然素材で作った住宅だった。

「この木が呼吸器にいいらしい。家はここにしよう。」

私が設計図を広げながら言った。はずきが隣で一緒に覗き込む。

「窓は大きくして、換気が良くなるようにしましょう。」

「そうだな。庭も広く作って、子供たちが走り回れるようにしよう。」

3年前は離婚届の前で背を向け合った仲だったのに、今は一緒に未来を描いていた。子供部屋は特別に設計した。疾患を持つ息子の部屋には空気清浄システムを取り付け、アレルギーフリーの素材で仕上げた。

「私たちの子供たちが、ここで健康に育ってほしいわ。」

はずきは設計図を見つめながら言った。私がはずきの肩を抱き寄せた。

「そうなるさ。僕たちが守ってあげるから。」

夏になった。双子が幼稚園に入園した。初めて父親と手をつないで登園する日だった。

「お父さん、幼稚園って面白い?」

「ああ、すごく面白いぞ。友達もたくさん作ってな。」

私が子供の手を固く握り、幼稚園の門の前まで送っていった。はずきも隣で一緒に歩いた。

「行ってらっしゃい。二人とも。」

「うん!」

子供たちが手を振りながら教室に入っていった。はずきと私はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。

窓の外から、初雪が舞い始めた。リビングの本棚には、古びた熊のぬいぐるみが置かれていた。全ての真実を抱えていた、私たちの始まりであり希望であったあのぬいぐるみが。3年前、雪の降る商店街から始まった物語。その雪は今、新しい始まりを祝福しているかのようだった。

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