成田空港の出発ゲートで、夫の正幸が私に向かって冷たく言い放った。「お前は家族じゃないんだよ。」
その言葉とともに、私のパスポートは彼の手に奪われ、私は一人、空港に取り残された。私はスーパーのレジ打ち、神田宮子。38歳。夫の正幸と義父母のために、ハワイ旅行の費用200万円を全て負担した。準備も全て私がやった。なのに、彼らは私を置いて行ったのだ。
結婚して数年、私はずっと我慢してきた。正幸の暴言も、義母の嫌味も、家族になれるならと耐えてきた。両親を早くに亡くした私にとって、家族は何よりも欲しいものだった。でも、それは叶わない夢だったと、あの日知った。
絶望の底で、私はパイロットである兄の元を訪れた。兄は私の話を聞くと、表情を一変させた。「全部終わらせよう。」その言葉に、私は復讐を決意した。
彼らは今頃、ハワイで浮かれている。私を置いて行って、私のお金で遊んでいる。私は兄と共に、彼らの逃げ道を次々と塞いでいった。そして、その結果、彼らは地獄を見ることになる。
この物語は、私が自分の人生を取り戻すまでの記録だ。
あの日、私は成田空港のラウンジで、彼らが楽しそうに料理を取る姿を眺めていた。出発前から、私は彼らのお荷物係だった。ビールを持ってこい、あれを取れ、これを持て。それでも私は、これが家族の形なのだと自分に言い聞かせていた。
搭乗アナウンスが流れ、彼らが保安検査場へ向かう。私も当然のように後を追った。すると、正幸が振り返り、にやりと笑った。「何ついてきてるんだよ。」
私は耳を疑った。「ハワイに一緒に行くんじゃないの?」
「お前のチケットなんて、最初から発券してないよ」と正幸は悪びれもせず言った。義母も追い打ちをかける。「あらあら、本気で一緒に行くつもりだったの?家のことはどうするの?大掃除が残ってるでしょ。あなたはお留守番よ。」
心が凍りつく思いだった。私が払った200万円。私がいなければこの旅行は成立しなかったのに。彼らにとって、私は最初から家族ではなく、ただの金づるだったのだ。
私は床に崩れ落ちた。周りの乗客の好奇の視線が刺さる。彼らは私を残し、楽しそうにゲートの向こうへ消えていった。手元に残されたのは、兄から借りたキャリーケースだけ。その重みが、私の惨めさをさらに際立たせていた。
どうやって帰ったか、よく覚えていない。ただ、冷たい風と、誰もいないアパートの静けさだけが記憶に残っている。ソファーに丸まり、私は涙を流した。これまでの我慢が、すべて無駄だったのだ。
すると、スマホが震えた。正幸から写真が送られてきた。ビジネスクラスの機内食、ハワイの空港での自撮り、オープンカーに乗る義母。最後にメッセージが添えられている。「みや子の金で遊ぶのは最高。お前も来ればよかったのに。掃除終わったか?」
涙が止まった。代わりに、胸の奥から冷たい怒りが湧き上がってきた。もう、我慢するのは終わりだ。
私は兄に連絡した。兄は私の話を聞き終えると、静かに言った。「任せろ。」
まず、クレジットカードを止めた。私の名義のカードだ。彼らが不正に使っている以上、止めるのは当然だ。次に、ホテルに電話した。予約者が私なのに、私が同行していないこと。カードが不正利用されている可能性があることを伝えた。ホテルはキャンセル扱いにすると言ってくれた。
そして、外務省にパスポートの不正所持を届け出た。正幸は私のパスポートを勝手に持ち出していたのだ。すぐに領事館に情報が共有された。
航空会社にも連絡を入れた。兄の伝手で、彼らの予約に不正利用の疑いがあるとフラグを立ててもらった。
準備は整った。後は、彼らが罠にかかるのを待つだけだ。
スマホに通知が来た。カード利用不可のお知らせ。彼らが高級ステーキ店で12万円もの食事をしようとしたようだ。次々と、利用拒否の履歴が赤い文字で並んでいく。彼らがパニックになっている様子が目に浮かぶようだった。
ホテルから電話があった。彼らが部屋に入れず、フロントで暴れているという。警察を呼んだとのことだった。私は冷静に言った。「一切の慈悲は不要です。」
しばらくして、正幸から電話がかかってきた。「おい、みや子!どうなってんだ!カードが使えないぞ!」
「私のカードだからよ。それに、あなたは私を家族じゃないって言ったでしょ。他人のお金を使うなんて、図々しいわ。」
正幸は怒鳴る。「帰ったらただじゃ済まさないぞ!離婚だ!」
「望むところよ。帰ってきたら、すぐに離婚届に判を押してあげる。どうやって日本に帰ってくるつもり?飛行機代もないんでしょ?」
電話の向こうが静まり返った。その後、義母の金切り声が聞こえてきた。「慰謝料を請求するわよ!」
「どうぞご自由に。でも、その前に自分たちの心配をした方がいいわよ。」
兄が代わりに電話口で言った。「おい、正幸。俺だ。よくも俺の妹をこんな目に合わせてくれたな。」
「ち、違うんです!誤解で… 」
「誤解?一方的に置き去りにして、カードを不正利用するのが誤解か?それは犯罪だ。すでに外務省と警察には通報済みだ。」
「け、警察!?」
「終わらせたのは自分だ。自業自得だ。もう電話をかけてくるなよ。」
電話を切り、私は深く息を吐いた。彼らは今頃、ハワイの路上で震えているだろう。金もなく、宿もなく、帰る手段もない。地獄のような数日間を過ごしているはずだ。それは、私が味わった絶望の何倍もの苦しみに違いない。
2日後、兄から連絡があった。彼らが領事館に助けを求めたらしい。パスポートの不正所持が発覚し、さんざん追求されたようだ。国費での帰国となり、帰国後は旅費の返済がのしかかる。しかも、監視付きの帰国便で、エコノミーの最後尾の席しか空いていなかったらしい。
彼らが帰国する日、私は空港警察に被害届を提出していた。そして、弁護士を連れて、到着ロビーで待っていた。
彼らが姿を現した時、私は息を呑んだ。あまりにも無残な姿だった。髪はボサボサで、服は薄汚れ、やつれきっている。ホテルから放り出され、すべてを失った廃人のようだった。
正幸が私を見つけ、ほっとしたように駆け寄ろうとした。「みや子!迎えに来てくれたのか!」
その瞬間、警察官が彼らを囲んだ。「神田正幸さんですね。旅券法違反及び窃盗の容疑でお話を聞かせてもらえますか。」
正幸の顔が真っ青になった。「ふざけんな!俺たちは夫婦だろ!家族だろ!」
「家族?」私は鼻で笑った。「家族じゃないと言ったのは、あなたたちでしょ。私はただ、犯罪者を通報しただけよ。」
私は弁護士から預かった封筒を差し出した。「離婚協議申し入れ書と損害賠償請求書よ。私のお金を使った分、きっちり払ってもらうから。」
「家ももうないから。あなたの荷物は全部処分したわ。鍵も変えたから、もう入れないわよ。」
正幸が絶望した顔で叫ぶ。「俺の家だぞ!」
「私の名義のアパートよ。家賃を払っているのも私。実家にでも戻れば?」
彼らが警官に連行されていく。義父は「わしは知らん!」と叫び、義母は泣き喚いた。私は彼らの背中に冷たく言い放った。「二度と私の前に現れないで。」
彼らの姿が消えるまで、私はじっと見つめていた。これで、終わったのだ。
あれから3ヶ月。私は桜が咲き始めた春の日、弁護士事務所にいた。兄と一緒に、最終報告を聞いていた。
正幸は旅券法違反と窃盗で起訴され、有罪判決を受けた。執行猶予はついたが、前科がついた。会社は当然のように解雇された。義父母は近所に噂が広まり、夜逃げ同然で引っ越していった。
そして、金銭的な問題。彼らは国費で帰国したため、その返済がのしかかる。私への慰謝料とカードの不正利用分は数百万円に上るが、無職の正幸と年金暮らしの義父母に払えるはずもなく、自己破産の手続きを進めているそうだ。しかし、不法行為による賠償責任は、破産しても消えない。彼らは一生かけて、私への罪を償い続けることになる。
もう十分だ。私は報告書を閉じた。
「最後にこちらをお願いします。」弁護士が差し出したのは、離婚届だった。正幸の署名はすでにあった。私はペンを手に取り、自分の名前を書いた。思えば、この名字を書くのはこれが最後だ。
書き終えた瞬間、肩の荷が下りたような不思議な解放感に包まれた。
「お疲れ様、よく頑張ったな。」兄が私の肩を叩く。
「うん。ありがとう。今、すごくすっきりした気分。」
「なら、祝いに行くか。美味しいものでも食べに行こう。俺のおごりで、最高に高いステーキを食おうぜ。」
私たちは笑い合い、事務所を後にした。外は温かい春の風が吹き抜け、桜の花びらが舞っていた。
季節は巡り、初夏。私はスーパーのレジに立っていた。この店で働くのも今日で最後だ。来月からは、都内の会社で正社員として働くことになっている。職業訓練校で資格を取ったのだ。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ。」
笑顔でお客さんを見送る。かつては、何気ないこの光景に胸を締め付けられていた。家族連れを見ると、惨めな気持ちになっていた。でも、今は違う。素直に、幸せそうでいいなと思える。
休憩時間、スマホを見ると兄からメッセージが届いていた。「来週のハワイ旅行の準備はできてるか?パスポート忘れるなよ。」
思わず笑みがこぼれた。そう、来週からハワイに行くのだ。今度は兄と一緒に。悲しい記憶を、楽しい記憶で上書きするために。誰の顔色も伺わず、自分の行きたい場所へ行き、自分の食べたいものを食べる。想像するだけでワクワクする。
エプロンを外し、私はロッカーを見つめた。このスーパーは、私がどん底から這い上がるための、大切な足場だった。
売場に戻ると、また列ができていた。私は深呼吸をして、もう一度だけレジに向かった。
「お次の方どうぞ。」
私の声が、店内に明るく響き渡る。自動ドアの向こうには、どこまでも広がる青空。その空は、太平洋を越えて、あの島へと繋がっている。そして、私の輝かしい未来へと続いている。
私はもう、誰の付属物でもない。自分の足で立ち、自分の人生を歩いていく。あの空港で置き去りにされた私は、もうここにはいないのだ。



