廊下で制服を着た若い女性が、汗だくでモップをかけているのを見た瞬間、俺は足を止めた。この本社には専門の清掃業者が入っているはずだ。なのに、なぜ社員らしき彼女が掃除をしているのか。
「どうした?君はここの社員だよね。なぜ掃除を?」
「高卒は入室禁止。無能は掃除でもしてろって言われてます。入社した時からずっと、私は掃除担当なんです」
「それって誰に言われたんだ?」
「総務部の平川部長です」
俺は海外赴任から10年ぶりに本社へ戻ってきたばかりの白石誓也。35歳。この会社の会長は、俺の祖父だ。そして俺は今、社長秘書として本社に配属されたばかりだった。
俺は彼女に名乗り、すぐに休憩室で休むように伝えた。そして会長である祖父に電話を入れる。
「今から社員の三上さんがそちらへ行きます。役員全員を集めてください。理由は後で」
俺の過去を少し話そう。俺は外資系企業に勤める両親のもとに生まれたが、両親は忙しく、幼い頃から母方の祖父母に育てられた。父は俺が中学2年の時に急病で亡くなった。母はショックで体調を崩し、以後ずっと寝込むことが増えた。
高校進学の時、俺は祖父母に「進学をやめて働く」と申し出た。しかし祖父は言った。「お金のことは心配しなくていい。優秀な誓也だ。ここだけは出ておけ。塾はやめていいが、英会話だけは続けてほしい」
俺は高校に進学し、ファミレスでアルバイトを始めた。祖父母の家で暮らしながら、祖父の会社の手伝いもした。祖父は医療機器の部品を作る会社を経営しており、工場が忙しくなると、俺はそちらを手伝うようになった。大学には進学せず、高校卒業後、祖父の会社に高卒で入社した。
祖父はその頃、海外進出を考えており、俺は英語が得意だったことから、25歳でアメリカの工場へ派遣された。現地ではネイティブの英語を覚え、書類作成や工場の管理をしながら、先輩と一緒に働いた。5年、10年と月日はあっという間に過ぎ、祖父は会長となり、新しい社長に仕事を引き継いでいた。
そして俺は35歳で本社に帰ってきて、会長である祖父から社長秘書を依頼された。最初に祖父の会長室へ挨拶に行き、その後、初めて会う社長に挨拶をした。そして総務部でしばらく働きながら本社の様子を学ぶことになった。
総務部に着くと、平川部長がいた。俺は自己紹介をした。
「平川部長、初めまして。海外から帰国した白石誓也と申します」
「白石か、海外お疲れ。ところで君はどこの大学の出身だ?」
「いえ、私は高卒ですが」
「高卒か。また無能が一人入ってきたな。俺は東大出身だ。10年海外にいたと聞いているが、高卒は高卒だな。まず全員に挨拶して、こちらの資料をまとめてくれ」
いきなりの無能扱い。かなりの学歴主義だなと感じた。俺は分厚い書類を預かり、同僚たちに挨拶をした。かつてはもっとアットホームだった総務部も、今は静かで息苦しい雰囲気になっていた。
翌日、資料を仕上げて平川部長に提出すると、社長室へ持って行くよう命じられた。俺はその用事を済ませ、総務部へ戻る途中で、先ほどの女性──三上りえさんと廊下で再会した。彼女は2年間、ずっと掃除だけをさせられていたのだ。
その後、総務部に戻ると、平川部長がまた絡んできた。
「おい白石、何をゆっくり座っている?高卒はオフィス内のモップ掛けと窓拭きでもしてろ」
「平川部長、お断りします。そもそも掃除は清掃業者がしてくださっているんじゃないですか?」
「何だと?部長の俺に口答えする気か?」
「ああ、先ほど廊下で三上さんとお会いしました。なぜ三上さんが廊下の清掃を?高卒だからですか?この総務部には僕の他にも高卒社員がいるじゃないですか。ちょっと高卒の方、手を挙げてください」
俺が大きめの声で言うと、昔の同僚と他2名が手を挙げた。
「平川部長、この3名と俺で、三上さんと一緒に廊下の掃除をしましょうか。高卒は無能だから掃除だけでいいんでしょうかね?」
「おい、白石。落ち着け。廊下の清掃はあの女性だけでいいんだ」
「ちょっと待ってください。三上さんは総務部ですよ。それもなぜオフィスへの入室が禁止なのですか?三上さんのデスクはどこですか?」
平川部長は突然、黙り込んだ。俺はすぐに祖父である会長へ電話をかけた。
「会長、総務部で大変なことが起こっています。すぐに役員全員を集めてください」
俺は高卒の同僚たちを連れて会長室へ向かった。そこには社長、専務、常務がすでに集まっていた。俺は社長に尋ねた。
「社長、一人の若い総務部の女性社員が2年間も廊下の掃除をしていたらしいのですが、社長や専務、常務は見かけたことがないのですか?」
役員たちは黙って俯いた。会長が怒り出した。
「なんだと?それは一体どういうことなんだ?おい、お前ら、ソファーから立って白石たちに席を譲れ」
社長たちは席を立ち、直立不動になった。俺は会長に平川部長のハラスメントについて全てを報告し、三上さんを休憩室から呼びに行った。
「三上さん、大丈夫ですか?もしよかったら会長室まで来てもらえませんか?」
三上さんは黙って頷いた。会長室で彼女を紹介すると、会長は深く頭を下げた。
「三上りえさん。わしが気づかずに申し訳なかった。すぐに平川を呼んで処分させる。どうぞゆっくり座ってください」
平川部長は青ざめた顔で会長室にやってきた。会長は問い詰めた。
「平川君、この三上さんに何をしてきたんだ?それになぜ社長たちもそれを黙認してきたんだ?誓也君はこんな社長の秘書を続けられるか?」
「会長、僕は無理です」
「では誓也、今からお前を社長として任命する。今までの役員や平川の処分はお前が決めなさい。今までの社長、専務、常務。こいつは俺の大切な孫だ。それに平川君、この会社は学歴主義ではない。高卒だからという理由で掃除をしないといけないなら、わしも高卒だ。今からわしが掃除しようかね」
平川部長はガタガタ震え、土下座して謝罪した。会長は言った。
「おいおい、謝る相手を間違っているのではないか。そして社長たちもだ。三上さんに謝罪しなさい」
社長、専務、常務、平川部長は、一人ずつ三上さんに謝罪した。三上さんは目に涙を浮かべていた。
会長が俺に指示を出す。
「おい誓也。三上さんのデスクをすぐに総務に用意するように、この4人に指示をしてくれ」
俺は突然社長になってしまった。まず高卒の同僚たちを一度席に戻らせ、平川たちに倉庫へ行くように指示し、三上さんのノートパソコンと事務用品を買いに行かせた。
その後、俺は祖父と今後の人事について相談した。
「じいちゃん、社長たちにはアメリカの工場へ行ってもらうのはどうだろう。向こうも人手が足りないようだったんだ」
「そうか。誓也がそう決めるならそれでいい。平川はどうするかね」
「平川さんには総務部で平社員として一からやり直してもらおうと思う。僕も高卒だからという理由で雑用ばかりを命じられていたんだ」
「なるほどなあ。じゃあ、そのようにしてくれ」
そんな話をしている時、三上さんが俺に話しかけてきた。
「白石さん、この度は本当にありがとうございます」
「三上さん、よく我慢していたな。大変だったと思う。これからは総務部で頑張ってくださいね」
三上さんはニコッと微笑んでくれた。
その後、俺はアメリカで一緒に働いていた先輩を専務に昇格させた。そして総務部の新しい部長には、昔から一緒に働いてきた同僚を任せることにした。彼は真面目で人を見下さず、清掃業者にもいつもお礼を言う誠実な人間だった。
総務部に戻ると、三上さんのデスクが用意されていた。平川たちは汗だくでパソコンの設定をしていた。俺は平川に彼のデスクを片付けるよう指示し、自分の席に移動させた。
三上さんを総務部へ案内すると、彼女は自分のデスクを見て目を輝かせた。
「これが私のデスクなんですね。嬉しいです」
同僚たちが大きな拍手で三上さんを迎えた。平川だけは俯いて座っていた。
人事が確定し、元社長たちは明後日、アメリカの工場へ旅立つことになった。そして三上さんが平川に言った。
「平川さん、こちらから頼まれました資料です。英語ですが、東大卒の平川さんにお願いしますね」
少し睨みながらそう言う三上さんを見て、俺はすっきりして少し笑ってしまった。
その1ヶ月後、平川は我慢できなくなったのか、自主退職した。それからしばらくして、俺は夜遅くコンビニに寄ったのだが、そこで平川が一生懸命モップ掛けをしていたので、すぐに別のコンビニへ行くことにした。50歳の平川には最終職場が見つからなかったのだろう。
一方、俺は専務になった先輩の娘さんを紹介され、結婚を前提に付き合っている。とても綺麗で上品な女性だ。母の体調も少し良くなり、祖母と一緒に台所に立っている。
俺は祖父が築いたこの会社を精一杯守っていくことを改めて誓うのだった。



