山の向こうから朝日が差し込みかける。空気は冷たく澄んでいた。俺は山田浩、45歳。総合診療医として今日からこの清峰総合病院に赴任する。大学病院で20年近く現場を歩き、海外の論文に目を通し、AI画像診断の勉強を続けてきた。医者は一生学び続けるものだというのが俺の信念だった。地方でも最先端の医療を届けたい。その思いだけで、この病院への赴任を決めた。
エレベーターの扉が開くと、白い姿の女性が小走りに出てきた。胸のネームプレートに「水野彩佳」とある。彼女は俺を見て一瞬立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。救急外来の水野です。今日から山田先生がいらっしゃると伺っていました。」
「山田です。よろしくお願いします。」
「先生、副院長が大会議室で先生をご紹介されるそうです。8時半に来てほしいと。」
彼女は軽く会釈をして去っていった。その背中を見送りながら、俺は救急外来のフロアへ足を向けた。機材は決して新しくはないが、手入れは行き届いている。現場を守っている人間の丁寧さがここに出ている。隅に置かれた画像診断用のモニターには「AI解析ソフト試験導入検討中」と、大森という名前で几帳面なメモ書きが貼ってあった。この病院にも学び続けようとしている人間がいる。俺は少し胸が温かくなるのを感じた。
8時半、大会議室には20人ほどの医師と看護師が集まっていた。壁には歴代院長の肖像が並び、正面には病院の理念が書かれている。「患者に寄り添い、障害を学ぶ」とあった。会議室の奥から、活発な男が入ってきた。金縁の眼鏡をかけた白い胸元には「副院長 柊木義夫」とある。彼は俺の姿を認めると、睨むような目でこちらを見た。
「皆さん、おはよう。今日から当院に赴任される山田浩先生を紹介します。大学病院で長く務められたいわゆる『中央』のご出身です。」
「中央」という言葉に、わずかに皮肉が混じっているのが分かった。俺は前へ出て一礼した。
「山田浩です。地方でも最先端の医療を届けたいと考えてこちらへ参りました。まだ何も分からない人間ですので、皆さんに教えていただきながらやっていきたいと思っています。」
一部の若い医師が興味深そうに俺を見ていた。逆にベテランらは柊木の顔色を伺うように黙っている。病院の空気がはっきりと二分されているのが感じ取れた。挨拶が終わると、柊木が俺を院長室へ呼んだ。革張りのソファ、大きな机、壁一面の書棚。最新版のガイドラインは1冊も見当たらない。
「山田先生、うちはね、田舎の病院だが地域の信頼は厚い。父の代から築いてきた病院だ。あまり大学病院のやり方を持ち込まれても困る。」
「もちろんです。ただ患者さんのために有効なものは、少しずつでも取り入れていければと考えています。」
「うちにはうちのやり方がある。診断は経験だ。機械やAIに頼るのは若い医者の悪い癖だよ。」
穏やかな言い方だったが、言葉の端々にトゲがあった。俺は黙って頷いた。初日から言い返す気はない。ただ、この人が長年この病院を動かしてきた意味も感じ取っておく必要があった。午後、俺は総合診療外来で数人の患者を見てから、救急外来の方へ足を運んだ。水野が処置室から顔を出し、少し驚いた顔をした。
「先生、こちらに来られていいんですか?」
「見学のつもりです。邪魔にならない場所にいますから。」
その時、救急搬送のブザーが鳴った。インターンホン越しに救急隊員の声が響く。
「23歳男性、突然の意識障害。家族が発見して通報。バイタル低下傾向。搬送まで5分。」
すぐに救急スタッフが動き出した。ストレッチャーが運び込まれると、青年は顔面蒼白で、呼びかけにわずかにしか反応しない。名前は岩瀬翔太、大学院生。これといった既往歴はないという。若い医師が対応にあたり、柊木も呼ばれて姿を現した。柊木は青年の瞳孔を確認し、聴診器を当て、CT画像をざっと眺めると、腕を組んで頷いた。
「脳梗塞だな。若年性の奇栓症。血栓溶解療法の適用を検討しよう。」
俺は少し離れた場所から画像を見ていた。確かにCTでは梗塞を疑わせる初見のようにも見える。だが、若年で既往歴なし。そして意識障害の出方が、俺の中で引っかかった。若い頃、大学病院で似た症例を見たことがある。自己免疫性脳炎。極めて稀だが、初期には脳梗塞と紛らわしい像を呈することがある。俺は思わず一歩前へ出た。
「副院長、少しよろしいですか? MRIで確認させていただけないでしょうか? この年齢でこの経過だと、他の可能性も検討する価値があると思います。」
柊木の眉がはっきりと動いた。周囲の空気が一瞬で凍る。
「山田先生、今日いらっしゃったばかりですよね。私の診断に異論があると?」
「異論ではありません。念のため、もう一段だけ検査を加えたいという話です。」
「必要ない。時間を無駄にする余裕はないんだ。血栓溶解を進める。」
そう言い切ると、柊木は背を向けた。水野が俺の方を見た。言葉にならない目だった。俺は青年の顔をじっと見た。まだ23だ。これから何にでもなれる年齢だった。放射線科の方へ視線を送ると、白髪の医師がこちらを見ていた。ネームプレートに「大森」とある。彼は俺の方へわずかに頷いた。何かを察したような静かな頷きだった。
柊木が救急処置室を出ていった後、フロアには重い沈黙が残った。若い医師は指示を待つように俺と水野を交互に見ている。俺はストレッチャーの脇に立ち、岩瀬翔太の顔をもう一度見た。呼吸は浅く、まぶたがわずかに痙攣している。若い頃大学病院の救命センターで見た症例が頭の中に鮮やかに蘇った。あの時も初期のCTは梗塞に似ていた。決め手はMRIのフレア像だった。水野が小声で近づいてきた。
「先生、本当に自己免疫性脳炎の疑いがあるんですか?」
「断言はできません。ただ、この年齢と経過なら鑑別診断に入れておくべき病気です。血栓溶解を先に入れて、もし脳炎だったら出血のリスクだけが残ります。」
「副院長は絶対に許可を出しません。」
「分かっています。だから私が責任を取ります。MRIを回してください。」
水野の目が揺れた。それでも彼女は静かに頷いた。
「大森さんに連絡します。」
数分後、大森が処置室に現れた。40年この病院にいると聞いていた。
「山田先生、MRI今すぐ回せます。造影も準備しました。」
「助かります。副院長には私から話します。」
「話は後でいい。まず患者さんです。」
短い言葉だったが、腹の座った声だった。俺は頭を下げ、ストレッチャーを押した。廊下を進む間、俺は自分の判断を何度も反芻していた。間違っていたらこの青年の命を縮めることになる。だが間違っていなかったら彼の未来を守る。撮影が始まった。機械音が響く中、大森はモニターの前に座り、無言で画像を眺めていた。やがてフレア像が映し出された。
「先生、これは……」
「自己免疫性脳炎です。ほぼ間違いない。」
大森が振り返って俺を見た。その目に静かな驚きが混じっていた。その時、MRI室のドアが乱暴に開いた。柊木が顔を真っ赤にして立っていた。眼鏡の奥で目が釣り上がっている。
「山田先生、私の指示を聞かなかったそうだね。」
「はい。責任は私が取ります。まず画像を見てください。」
「聞いてないぞ。誰の許可でMRIを回したんだ。ここは君の大学病院じゃない。」
俺はモニターを指した。柊木は目もくれず俺を睨みつけている。その時、大森が静かに立ち上がった。
「副院長、40年この病院で画像を見てきた私が申し上げます。これは梗塞ではありません。全てが自己免疫性脳炎に合致します。」
大森の声は低く、緩みがなかった。柊木の視線が初めてモニターに向いた。一瞬、その表情が固まった。だがすぐに元の険しさに戻る。
「大森さん、あなたは技師だ。診断は医師がする。」
「もちろんです。私は画像の話をしているだけです。山田先生、あなたは初日からこの病院の秩序を壊しに来たのか?」
「秩序を壊すつもりはありません。ただ、血栓溶解を入れていたらこの患者さんは脳出血を起こしていた可能性が高いんです。それだけは避けなければいけなかったんです。」
柊木は口を開きかけ、閉じた。自分の診断が誤っていた可能性を認めるわけにはいかない。だが目の前の画像は動かしがたい事実として存在している。水野が処置室から駆け込んできた。
「副院長、山田先生、岩瀬さんの意識レベルがさらに低下しています。痙攣も出始めました。」
俺は即座に動いた。
「ステロイドパルスと免疫グロブリンの投与を始めます。副院長、指示を出させてください。」
柊木は何も言わなかった。唇を噛み、視線を床に落としている。沈黙は承諾と同じだった。俺は水野に向かって指示を出した。
「造影剤の準備を。ICUに連絡してベッドを一室開けてください。」
「はい、すぐに。」
彼女の動きに迷いはなかった。治療が始まって6時間が過ぎた。窓の外はすっかり暗くなっている。翔太の状態は落ち着き、バイタルも安定してきた。まだ意識は戻らないが、山を一つ越えたのは確かだった。俺はナースステーションの椅子に腰を下ろし、カルテを書き続けていた。水野がコーヒーを一杯静かに置いてくれた。
「先生、少し休んでください。」
「ありがとう。水野さんこそ夜勤明けだったでしょう。もう帰らないと。」
「今日は帰れません。最後まで見届けたいので。」
彼女は自分の椅子に座り、モニターを見つめた。その横顔に疲れよりも誇りが滲んでいた。
「先生、今日正直に言います。私はずっと怖かったんです。副院長の診断がおかしいと思っても口に出せなかったんです。何度も患者さんに申し訳ないと思いながら、動けずにいました。」
「あなたが動けなかったのはあなたのせいじゃない。組織というのはそういうものです。」
「でも先生は動きました。初日なのに。」
「動けたんじゃない。動くしかなかったんです。目の前に23歳の患者さんがいた。それだけです。」
水野は少し笑って目を伏せた。その目に涙が薄く滲んでいるのが分かった。大森が入口から顔を覗かせた。手には一枚のプリントアウトを持っている。
「山田先生、髄液検査の外注に出しておきました。結果が出れば確定診断がつきます。」
「助かります。大森さん、今日は本当にありがとうございました。」
「礼はいりません。私はただ画像を読んだだけです。先生、落ち着いたら少しお話ししたいことがあります。この病院の古い話です。」
「古い話ですか?」
「創設者が残したものがあるんです。副院長も院長ももう忘れているかもしれない。でも先生には知っておいてほしい。」
この言葉に俺は顔を上げた。40年この病院を見てきた男の目だ。そこには単なる義理ではない、何か重いものが宿っていた。
「分かりました。落ち着いたら必ず伺います。」
大森は静かに頷き去っていった。深夜のICUにモニターの規則的な音だけが響いている。翔太の胸がゆっくりと上下していた。明日、柊木は必ず動く。病院の名誉を守るために、今日の出来事をなかったことにしようとするだろう。だがこの画像もこのカルテも消すことはできない。俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。「患者に寄り添い、障害を学ぶ」。あの額の文字が浮かんだ。この病院の理念はまだ死んでいない。少なくともこの夜、大森と水野の中には生きていた。窓の外で風が木の枝を揺らす音がした。戦いはまだ始まったばかりだった。
翌朝、俺はICUに直行した。髄液の経過から自己免疫性脳炎の診断がほぼ確定していた。痙攣は完全に収まっていた。だが油断できる段階ではない。ナースステーションで申し送りを受けていると、水野が硬い表情で近づいてきた。
「先生、岩瀬さんの様子がおかしいんです。血圧が急に下がって、呼吸も苦しそうです。」
俺はすぐにベッドサイドへ走った。モニターの数字は確かに悪い方向へ触れている。顔色が悪く、息が浅い。脳炎とは違う別の異変だった。
「腕や体に発疹は出ていませんか?」
「はい。赤い斑のようなものが……」
「薬剤が体に合わなかった。急なアレルギー反応かもしれない。放っておけば命に関わる。」
俺は指示を飛ばした。
「すぐに処置を。呼吸を助ける準備もお願いします。」
処置に追われる中、大森が慌てた様子で入ってきた。レントゲンのフィルムを手にしている。
「先生、肺に水が溜まり始めています。これは早い。心臓にも負担がかかっているかもしれません。すぐに調べます。」
大森は無言で機材を運び入れた。彼の動きに迷いは一切なかった。モニターに映し出された心臓の動きは、明らかに弱っていた。脳炎の治療がきっかけで心臓まで巻き込む稀な事態が起きていた。大学病院でも滅多に出会わない症例だった。
「応援を呼んでください。心臓と肺を機械で助ける準備もします。」
「うちにもその機材はあります。でも扱える人が限られていて…… 私が呼びます。若手に一人、扱える者がいます。」
その時、ICUの扉が開いた。柊木が青ざめた顔で立っていた。昨日とは違う、追い詰められた男の顔だった。
「山田先生、岩瀬さんの家族が来ています。説明をどうするつもりだ?」
「事実をそのままお伝えします。稀な合併症が起きている。全力で対応します、と。」
「病院の責任問題になったらどうする?」
「今はその話をしている時間はありません。副院長、指示系統は私が取ります。あなたは家族への対応をお願いします。」
柊木は口を開きかけ、閉じた。昨日までなら絶対に俺の言葉を飲み込んだりはしなかった男だ。だが今朝の彼には、昨日のような強さはなかった。無言で頷き、部屋を出ていった。その日の深夜、翔太はECMOの導入により、なんとか峠を越えた。心機能は少しずつ回復し、脳炎の治療も継続できる目途が立った。ICUの椅子に腰を下ろした俺のところへ、大森が静かに歩み寄ってきた。
「先生、今夜少しだけ時間をいただけますか?」
「例の古い話ですね。」
「はい。今しかないと思います。」
俺は水野に患者のことを頼み、大森について地下へ降りた。古いエレベーターが軋みながら下がる。地下2階の廊下は薄暗く、蛍光灯が半分ほどしかついていなかった。突き当たりに木製の重い扉があった。「資料保管室」と札が貼られている。大森が鍵を取り出し扉を開けた。埃と古い紙の匂いが漂った。奥の棚に、革張りの分厚い日記帳と束ねられた診療記録があった。
「これが初代院長、柊木弥一郎先生の日記です。副院長のおじい様に当たる方です。」
俺は日記を開いた。几帳面な満年齢の字がページいっぱいに並んでいる。「一人の患者を見る時、私は生涯の学徒であり続ける。診断に奢った瞬間、医師は医師でなくなる」。そんな文言が繰り返し綴られていた。
「40年前、私が働き始めた時、弥一郎先生はもうお歳でしたが、毎晩この部屋で新しい論文を読んでおられました。診断に迷えば、若い技師にも頭を下げて意見を求める方でした。」
「今の病院の理念はこの方の言葉ですか?」
「はい。『患者に寄り添い、障害を学ぶ』。あの額の言葉は弥一郎先生ご自身が書かれたものです。」
俺は日記のページをゆっくりとめくった。最後のページに、震える字で一文が残されていた。「息子よ、孫よ。この病院を継ぐな。この理念を継げ。」俺は言葉を失った。大森が静かに言った。
「院長先生、つまり今の院長はこの日記を読んでおられます。ただ、副院長には渡していないと聞きました。」
「なぜ今、私にこれを?」
「先生が来られてから、この病院に久しぶりに弥一郎先生の匂いがしたんです。私がいなくなれば、この理念は本当に消えてしまう。」
大森の目には涙が滲んでいた。40年この部屋の鍵を守り続けてきた男の涙だった。俺は日記を胸に抱き、頭を下げた。
「大森さん、これは私が院長にお渡しします。院長が読むべきものです。」
「ええ、先生から渡してください。」
3日後、俺は院長室にいた。柊木康三は70歳とは思えない背筋で椅子に座っていた。机の上には大森から預かった日記が置かれている。院長はゆっくりとその表紙を撫でた。
「山田先生、父の日記をこうしてもう一度手に取る日が来るとは思いませんでした。」
「院長、勝手なことをして申し訳ありません。」
「いえ、謝るのは私の方です。」
院長は日記を開き、しばらく黙ってページを見つめた。やがて深い息をついた。
「私は息子に病院を継がせることばかり考えて、父の理念を継がせることを忘れていました。義夫が学ぶのをやめてしまったのを見て見ぬふりをした。私の罪です。」
「院長……」
「岩瀬さんのこと、聞きました。先生がいなければあの青年は死んでいた。義夫の死んだも同然のミスを、私はもう隠すつもりはありません。」
院長の声は静かだったが、覚悟が滲んでいた。その日の午後、院長は全職員を集め、副院長・柊木義夫の職務を一部解き、自らも経営から退くことを発表した。新しい診療体制の構築を、俺に一任するという言葉も添えられた。挨拶の後、柊木義夫が俺のところへ歩み寄ってきた。昨日までの傲慢さは消えていた。ただ疲れた中年の男がそこに立っていた。
「山田先生、私はもう一度勉強し直します。日記を読ませてください。」
「もちろんです。副院長、私も一緒に読ませてください。私も知らないことばかりです。」
柊木は小さく頷き、目を伏せた。その肩がわずかに震えていた。
数週間後、翔太は一般病棟へ移った。リハビリの合間、彼はベッドの上で俺を呼び止めた。
「山田先生、私、医者になろうと思っているんです。先生みたいな、患者を最後まで諦めない医者に。」
「厳しい道ですよ。それでもやる気ですか?」
「はい。命をもらいましたから。」
俺は何も言えず、ただ彼の肩に手を置いた。若い青年の目に、確かな光があった。その夜、俺は一人で資料室へ降りた。弥一郎の日記をそっと元の場所へ戻す。廊下の窓から月の光が差し込んでいた。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。俺は白い襟を正し、階段を登った。また誰かが俺を待っている。



