深夜二時、玄関の鍵を開けた瞬間、部屋の中に妙な気配を感じた。連日の残業で疲れ切った体に、一瞬でアドレナリンが走る。まさか、空き巣か?泥棒か?頭の中を悪い想像が駆け巡った。
玄関に立てかけてあった傘を手に取り、慎重に一歩ずつ進む。音を立てないように、息を殺して。気配は浴室から感じた。覚悟を決めて扉を勢いよく開けると、そこには全裸の女がいた。
「おい!誰だ!不法侵入だぞ!警察呼ぶぞ!」
慌てて前を隠しながら、その女が振り返る。見覚えのある顔。幼馴染みの、みこだった。
「え、みこ…?なんでここに…」
「閉めてよ!見ないで!」
慌てて扉を閉め、リビングへ逃げ込んだ。心臓がバクバク言っている。なんで幼馴染みが全裸で俺の風呂場にいるんだ?どうやって入った?警察を呼ぶと言った俺に、みこは平然と言い放った。
「しばらくここにいさせて。」
結局、俺は彼女を追い出せなかった。母からの電話で事態は飲み込めた。みこが仕事の都合でこっちに来ることになり、母が勝手に鍵を渡していたらしい。俺は一方的に事情を説明され、彼女との同居生活を受け入れることになった。
最初は気まずかった。だが、みこは昔と変わらず、いや、それ以上に綺麗になっていた。一緒に過ごす時間が増えるにつれ、彼女の存在は俺の中でどんどん大きくなっていく。朝食に並ぶ手作りの和食。仕事から帰れば、温かいご飯が待っている。一緒にキッチンに立って料理をする時間。彼女の笑い声が、静かだった俺の部屋に響くようになった。
不器用な俺は、素直になれなかった。素直になる代わりに、感情を言葉に出す代わりに、彼女を深く傷つける言葉を選んでしまった。
それは、みこが酔って帰ってきた夜のこと。いつもより饒舌だった彼女は、急に感情的になって俺に食ってかかった。
「啓介ってさ、幼馴染みだから何でも知ってるつもり?どんだけ傲慢なの?人のこと分かるとか神様なの?」
わけも分からず怒鳴られた翌日、みこは何事もなかったかのように振る舞っていた。俺たちの関係は、ぎこちないながらも続いていく。そして、ある日。帰り道で、みこが見知らぬ男と親しげに歩いているところを見かけた。胸の奥を冷たい風が通り抜けていく。彼氏なのか?そんな思いが頭をよぎり、気になって仕方なかった。
数日後、ついに俺は口にしてしまった。
「彼氏の電話か?」
みこの瞳が揺れる。震えていた。
「うん、違うよ。」
「そうか。」
胸の奥で何かが弾けた。だが、次の瞬間、みこは衝撃の事実を口にした。
「でも、結婚しようとは言われてる。」
その言葉で、頭の芯が一気に冷えた。感情が動かなくなる。
「彼氏でもない奴と結婚すんの?彼氏じゃないんだろ?そんな奴から結婚しようなんて言われて、なんで笑ってられるんだよ!」
「別に私は彼と結婚するつもりは…」
「だったら、思わせぶりなことしないで、きっぱり断ればいいだろ!」
「そんなに簡単じゃないのよ!」
鋭く彼女の声が響いた。
「何も知らないくせに、正論ばかり並べないで。その正論がどれだけ人を傷つけるか分かってる?啓介は私に何がしてくれるの?」
今なら分かる。あの時のみこは、普通じゃなかった。何かに怯えていた。それなのに、俺は冷静さを失っていた。
「付き合ってもいない人間と結婚なんて言うからだろ!」
その一言で、みこの目の光が消えた。彼女は視線をそらし、黙ったままリビングを出ていった。次の日から、俺たちの間には会話がなかった。顔を合わせないように、みこは朝早く家を出ていく。朝も夜もご飯の用意はされている。それでも、俺たちの間に言葉はなかった。
そんな日々が数日続いた週末、インターホンが鳴った。モニターで確認すると、見知らぬ男性が立っている。いや、どこかで見たことがある。背後から短い悲鳴が上がった。
「嘘…」
振り返ると、瞳を震わせて立ち尽くすみこがいた。
「知り合いか?」
「知り合いっていうか…」
久しぶりに聞いたこの声に、感情はなかった。その時、ようやく思い出した。あの日、みこと一緒に居酒屋に入っていった男だ。インターホンは一定の間隔で鳴り続けている。苛立ちが募っていく。
「知り合いなら、出てやれよ。」
「…あの人が、結婚する予定の人。」
その瞬間、俺の表情が凍りついた。
「デートの約束でもしてたんだな。俺のことは気にしないで、出かけてくればいい。料理だって最近はできるようになったし、みこがいなくても大丈夫だよ。」
その言葉に、みこの表情がすっと落ちた。微笑んではいるけど、まるで仮面のようだった。今にも崩れてしまいそうだった。彼女はスマホを取り出し、通話を始めた。
「分かった。あと十五分で降りるから、待ってて。」
そう言って、みこはリビングを出ていった。玄関の音がして、彼女が家を出たことを知る。俺は深くため息をついた。うまくいかないな。みことの生活は本当に楽しかったのに。何がどうしてこうなったんだ。俺は気分を変えようと、外に出かける準備を始めた。その時、テーブルの上でスマホが震え始める。母からだった。
「もしもし?ああ、啓介。みこちゃんいる?」
「いや、出かけたけど。」
「そうなの?彼女に電話しても繋がらなくて。何時頃帰るか聞いてない?」
「さあ、デートなもんでね。もしかしたら帰ってこないかも。」
「え?みこちゃん、お付き合いしてる人がいるの?」
思いのほか食いついてくる母。
「ああ、彼氏じゃないって言ってたけど。」
「啓介、すぐにみこちゃんを探して!」
突然、母の声のトーンが落ちた。冷たくすら感じる。
「え、どういうこと?」
「いいから行きなさい!」
母の声に押され、俺は慌てて準備を始める。母は話し続けた。
「あんたね、休みだからっていつまでもパジャマでいるんじゃないわよ。…みこちゃんが自分で話すって、どうしても譲らなかったのよ。前の職場の後輩にしつこく言い寄られてたらしいの。写真もあるから送っておくわね。」
すぐに届いた写真を確認した瞬間、間違いなくそこに写っていたのは、あの男だった。ようやく気づいた。みこのあの震える瞳の意味を。不安と後悔が胸の奥で渦巻いていた。俺は手当たり次第に探しながら、みこに短いメッセージを送った。返信が来たのはそれから二時間が経った頃だった。
『県内で人気のタワー。』
そこは電車で一時間はかかる場所だった。俺は駅へ向かって全力で走る。その後もみこからのメッセージが続く。何かに気づいたのか、彼女は自分の移動を細かく知らせてくれるようになった。ようやく追いついたのは夕方近く。人気レストランの店内で、みこと男の姿を見つけた。近づくと、男の声が聞こえてきた。
「みこさんが逃げるから大変だったんですよ。俺の気を引きたい気持ちも分かりますが、県外に引っ越して男と一緒に住んでるってどういうつもりですか?」
みこは男をじっと見つめていた。感情の見えない冷たい瞳で。
「まあ、いいでしょ。みこさんは俺と結婚することになってるんですし、今のうちに少しぐらい遊んでおくのも悪くないですよね。」
よくもまあ、あれだけ一方的に喋れるもんだ。俺は静かにテーブルへ近づき、みこに声をかけた。
「みこ、行こうか。」
はっと顔を上げたみこは、バッグを手にしてすっと立ち上がった。
「そうね。」
そのまま俺たちは店を出たが、すぐに騒ぎが起こる。ガシャーン、というガラスが割れたような音と、店内から上がる悲鳴。直後、男がスタッフに抑えられながら店の外に飛び出してきた。
「おい!お前、人の彼女を勝手に連れて行くとか頭おかしいんじゃないのか!」
その目は正気じゃない。狂気の色が明らかだった。
「俺はみこさんとずっと一緒に働いてきたんだ!彼女を幸せにできるのは俺しかいない!」
俺はそっとみこの手を離す。スタッフが彼女の隣に立つのを確認し、一歩男へ近づいた。
「残念だったな。俺はな、みこが鼻水垂らして歩いてても平気なくらいちっちゃい頃からずっと一緒にいるんだよ。」
「鼻水…!」
みこの大きな声が聞こえるが、気にせず続ける。
「さっきの会話は聞いてたけどさ。お前、一方的に話してただけだよな。」
その瞬間、男の目の色が変わった。
「うるさい!お前さえ邪魔しなければ、俺とみこさんは結婚できたんだ!お馴染みか何か知らないけど、なんでお前なんかと一緒に暮らしてんだよ!」
怒りが理性を完全に上回っている。叫びながらスタッフを振りほどき、男はこちらに向かって突進してくる。本当に危険を感じた時、世界がスローモーションになるっていうのは嘘じゃなかった。そして、視界がふっと遮られた。
「え?」
思わず声が出る。俺の前に立っていたのは、みこだった。彼女は振り向かない。ただ背中が小さく震えていた。
「山中さん、私はあなたとは付き合えない。結婚なんて、絶対にできない。」
震える背中とは裏腹に、その言葉はまっすぐで力強かった。冷静さを失った男さえも動きを止めてしまうほどだった。
「私には、好きな人がいます。だから、あなたとの未来はありません。」
男の視線がみこにロックオンされる。危ない。そう思った次の瞬間、俺はとっさにみこを抱き寄せ、体で庇った。そして気づけば、男は警察に取り押さえられていた。警察の介入で騒ぎはようやく収束した。通報してくれた店長に頭を下げる。
「今度は好きな人とゆっくり食事に来てよ。」
「はい。」
ほんのり頬を染めて、みこはようやくにっこり笑った。その笑顔を見て、俺まで嬉しくなっていた。帰り道、みこはゆっくりと話してくれた。
「私を振ると、周りの人間がどうなるか分からないからな、って。そうやって脅されてたの。山中さんは執拗で引っ込みがつかなくて。そういう人ほど、一度火がつくと止まらないの。さっきみたいにね。」
そう言って、少しだけ瞳を震わせながら、みこは苦笑いを浮かべた。俺は自分の無理解と過ちを素直に謝った。
「知らなかったんだから、仕方ないよ。私も忘れたくて、ここに来たんだし。でも、もう会社に報告するつもり。」
そう言って笑う彼女に、迷いはもうなかった。
「これから俺が守るから、そばにいてくれますか?」
「はい。」
ふふっとこぼれた笑い声は、やがて静かなっていく。俺は細く震える彼女の肩を抱きしめ続けた。家に帰ると、俺はこう言った。
「いいよ。今日は俺が作る。ハンバーグ作るから待ってな。」
一時間後、ハンバーグはなぜか味のしないそぼろ丼になっていた。それでも、みこは最後の一粒まで綺麗に食べてくれた。
「ごちそうさまでした。美味しかった。」
「もっと練習しないとな。…あのさ、これからも料理教えてくれる?」
俺の言葉に、みこはぱちくりと瞬きをして俺を見つめる。
「そうね。別々に暮らしても、時々教えに来てあげる。」
みこは今、家を探している。いつまでもここでお世話になるわけにはいかない、と。その言葉を聞いて、俺は気づいてしまったんだ。自分の気持ちに。
「ずっとここにいたらいいよ。」
「え?」
「せっかく部屋も作ったんだし、ずっとここにいればいいじゃん。」
「でも、私がここにいたら、啓介彼女作れないでしょ。」
その瞬間、俺はみこを抱きしめていた。
「俺のこと、ずっと好きだったみたい。」
「あ、何その言い方。」
くすくすと笑う声が心に響く。
「好きです。」
「私も、ずっとずっと前から好きよ。なんなら、鼻水垂らして歩いてた時からかな。」
潤んだ声で思いを告げるみこ。俺は彼女を強く、そっと抱きしめ直した。時間はかかったし、遠回りもした。でも、積み重ねた日々の分だけ、俺は彼女を大切にできる。そんな確信しかなかった。



