夫が愛人を連れて帰ってきて、彼女を「新しい妻だ」と紹介したのは、昨晩のことだ。
「昇進して部長になった。彼女とここに住むことにしたから、お前はリリを連れて出ていけ」
ハルトは何の躊躇もなく、記入済みの離婚届をテーブルに叩きつけた。私はそれを見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
「ここから出ていくのは、あなたの方じゃない?」
「なんだと?」
「だって、あなたの給料じゃ、このタワーマンションを維持していくことなんて、とてもできないわ」
私はテーブルの上に、探偵が収集した報告書と、印刷したドライブレコーダーの映像記録、そして南とのメッセージアプリの全履歴を広げた。
「部長になって浮かれているところ申し訳ないけど、これ、かなりまずいよね」
ハルトの顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
私は12年前、夫のハルトと出会った。私は病院で働く医師で、ハルトは市役所に勤める公務員だった。彼は毎年の健康診断を私の病院で受けていて、体調が悪い時もいつも私のところに来ていた。
ある日、風邪を引いたらしいと診察に来たハルトが、高齢の両親のために健康法を教えてほしいと頼んできた。プライベートで両親の様子を見に行くことを約束すると、彼はそのお礼にと食事に誘ってくれるようになった。
それから、体調のことだけでなく、仕事のこと、プライベートの話をするようになり、私たちはいつしか付き合うようになった。ハルトは公務員らしく真面目で、細やかなところにも気が使える誠実な人だった。交際から2年が経った頃、私は彼の子供を妊娠し、そのまま結婚することになった。
義両親も私たちの結婚を心から喜んでくれた。娘のリリも生まれ、家族3人の穏やかな日常が流れていた。
しかし、結婚から2年が経つ頃から、ハルトの様子がおかしくなっていった。
私と顔を合わせないように夜遅くに帰ってくるようになり、朝も早々に出かけてしまう。休日も1人で出かけることが増え、家族の時間が大幅に減っていった。
「最近、あなたおかしいわ。どうして私を避けてるの?」
「別に、何もないよ」
「嘘。何かあるなら、ちゃんと言ってほしいの」
ハルトはしばらく考えた後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「職場で、嫁が医者だって言ったら、逆玉だって言われたんだ。子供も生まれて、本当なら俺が家族を支える立場なのに、嫁の収入で楽な生活ができていいなって……なんか情けなくなったんだ」
同僚の悪気のない一言で、現実を見せられたという。ハルトは公務員として安定した収入があったが、私の年収には到底及ばず、それ以来、男としての自信も一家の大黒柱としての誇りも失くしてしまったようだった。
「人の価値は年収だけじゃないわ。私はそれだけでいいの」
そう何度話しても、ハルトは納得できないようだった。今思えば、男としてのプライドが許さなかったのかもしれない。家庭内での貢献意欲が低いと自分を卑下するようになっていった。
それでも、リリが幼稚園に上がる頃までは、私が夜勤に入る時や休日で呼び出された時などは、リリの面倒を見てくれ、できる限り家事も手伝ってくれていた。
しかし、リリが幼稚園に上がった頃から、ハルトは一層態度を硬化させていった。
「リリを俺に押し付けるな」
ある日、出勤しようとする私に、ハルトはそう怒鳴った。
「押し付けるだなんて。父親なんだから、面倒を見るのは当然でしょ」
「子育ては仕事だろう」
ハルトは男の意地を保ちたかったのかもしれない。しかし、子育ては2人で行うものだ。それからというもの、ハルトは家事の一切を私に丸投げするようになり、リリの面倒さえも見なくなった。
ある日、仕事から帰ると、リリの鳴き声が聞こえてきた。慌てて部屋に向かうと、リリが泣いているそばで、ハルトはソファーに横になりテレビを見ていた。
「リリが泣いているのに、どうして放っておくの?」
「勝手に泣いてるのになんで俺が相手しなくちゃいけないんだ」
「何を拗ねてるのか知らないけど、子供のことくらいちゃんとやってよ」
「お前がやればいいだろう。有能なジョイさんは、なんだってできるんだろう」
ハルトは嫌味な笑みを浮かべながら、私を貶した。この頃、ハルトは確実と言われていた昇進を逃し、荒れていたせいもあるが、だとしても娘を蔑ろにすることは許せなかった。何を言っても、私の言葉はハルトに届かない。収入の差が、これほどまでに夫婦の溝を深くするものか。私は溝を埋める手立てはないものかと、毎日のように頭を悩ませた。
しかし、一度できたハルトとの溝は埋まることがなかった。リリが小学校に上がり、私が夜勤の日は近くに住んでいた祖父母の家に帰るようになると、ハルトは一層私に冷たく当たるようになった。夫婦の会話らしい会話もなくなり、家庭内別居のような生活に、私はいつしかハルトとの離婚を考えるようになった。
しかし、リリはまだ小学生で、父親がいなくなることをどう思うだろうか。学校の友達に嫌がらせを受けるのではないかと思うと、なかなか離婚も切り出せなかった。
そんな状況が一変したのは、リリが小学3年生になった頃だった。
ハルトは身だしなみを気にするようになり、毎日つけていくネクタイも「どっちがいいか」とリリに問いかけるようになった。妙に機嫌よく仕事に出かけるハルトに不審感を抱き、何かいいことでもあったのかと問いかけると、「別に何もないさ。俺も少しは変わらないとなって思ってるんだよ」と言う。ハルトはそれまでの行動を反省し、今後は改めると約束してくれたのだ。
しかし、ハルトが変化したのは、家族のためではなかった。
「パパと2人の時は、何してるの?」
ある日、リリにそう問いかけると、「パパは出かけてるよ」と答えた。
「出かけてるって……コンビニとかじゃないの?」
「違うよ。ママがいない時は、どこかに出かけて、帰ってくるのはいつも遅いみたい」
ハルトは私が夜勤に出かける時、「リリのことは心配するな」と笑顔で見送るくせに、私がいないことをいいことに、リリを置いて1人で出歩いていたのだ。
まさか、浮気しているのではないか。私の中に疑念が浮かび上がった。急に服装や身だしなみに気を使うようになったことも、納得がいく。浮気を私に悟られないよう、笑顔を振りまいていたと考えると、無性に腹が立ってきた。
それからというもの、私は家の至るところに隠しカメラを設置して、私がいない時のハルトの様子を見ることにした。ハルトは私が夜勤で家を開けるたび、どこかに出かけ、帰ってくるのは深夜になってからで、妙に機嫌がいい。酔っている様子もなく、単に飲みに行っているわけでもなさそうだ。休日には「友人との約束がある」と言っては出かけるようになり、スマホを手放さず、私に隠れて誰かと電話する様子も見られた。
ある日、ハルトのスーツをクリーニングに出すためポケットの中を確認していると、スーツに女性の髪の毛が付着していることに気づいた。私のものでも、リリのものでもない。明るい茶髪の長い髪だ。嫌悪感が湧き起こる。夜の外出と言い、彼の様子の変化を考えると、たどり着く結論は浮気以外に見当たらなかった。
数日後、浮かない顔をしている私を心配した同僚が話しかけてきた。ハルトの行動の変化を相談すると、同僚は「浮気に間違いない」と断言した。しかし、ハルトの浮気を許せない気持ちはあるものの、確定した時に彼のことを許せる自信がない。両親の離婚をリリがどんな風に受け止めるのだろうか。義両親は悲しむのではないか。
そんな私を見て、同僚は「周りのことを考えて、自分が我慢する道を選ぶべきじゃない」と話した。
「私自身が笑顔で過ごしていないと、誰も幸せにできない」
そう言われて、はっと気づかされた。リリから父親を奪うことになったとしても、その分、私が彼女を幸せにしてやれる。義両親とも、ハルトとの縁が切れたとしても、繋がりを持ち続けることはできる。
覚悟を決めた私は、ハルトが寝しなを確認し、彼のスマホを覗いてみることにした。彼のスマホのロックは指紋認証になっており、一度寝たら何をしても起きないハルトの指を使うことは容易にできた。メッセージアプリを開いてみると、トークには「森田南」という女性の名前が見つかった。プロフィールには「花のJD」と書かれている。どうやら大学生らしい。
メッセージを開いてみると、何やら親密なやり取りがされていた。2人でキスをしている写真や、裸で抱き合っている動画が複数保存され、ハルトが浮気していることが確定した。
私は何ひとつ心などしていなかった。単に若い女性と不貞を働き、それを隠すために私に愛想を振る舞っていただけだったのだ。お腹の底から怒りが込み上げ、そのまま寝ているハルトに向かって手を振り下ろした。
しかし、その直後、私の中に冷静な自分が戻ってきた。離婚するのであれば、ハルトのことも相手の女性のことも、徹底的に追い詰めて、きちんと反省させてやろう。この場でハルトを追求しても、巧妙に隠して関係を続けるだけ。そうであれば、確実に浮気の証拠を掴み、言い逃れができないようにする方がいい。
ハルトが再び寝たのを確認した私は、彼のメッセージアプリを私のスマホと同期できないかと試みた。しかし、同期するためには彼のパソコンのメールアドレスが必要なようだ。パスワードはさすがに分からず、私はハルトと南のやり取りを自身のスマホでスクショすることにした。
その日から、私は毎晩ハルトが寝ている間に、トーク履歴を確認し保存するようになった。メッセージの内容は腹立たしいものばかりだ。ハルトと南は朝一から夜寝るまでスマホでやり取りを続け、気持ち悪いほどの愛の言葉を囁き合っている。ハルトは南と再婚することを視野に入れているようで、「早く嫁と別れたい」とも書いていた。さらに、リリに対する悪口も書き込まれていた。
「リリは顔も性格も母親そっくりで、気持ち悪い」
可愛い我が子のことまでけなし、愛人の気を引こうとしているハルトに、私は嫌悪感が湧いた。
数日後、私はハルトに「休診が入ったから遅くなる」と嘘のメッセージを送り、そのまま離婚専門の弁護士の元を訪れた。ハルトとの離婚を有利に進めるためには、不貞行為の確固たる証拠収集が必要だとアドバイスを受け、私はすぐさま準備に取りかかった。ハルトと南のメッセージのスクショは、私が無断で撮ったもので、証拠として扱われない可能性があるという。
そこで私は、弁護士に紹介してもらった探偵事務所を訪れ、2人の素行調査を依頼した。
調査結果を待っている間、自宅でハルトと顔を合わせる時は、浮気に気づいていることを悟られないように、無理やり笑顔を作った。
「そんなに笑って、どうしたんだ?」
「あなたの顔が面白いからよ」
「なんだよそれ。失礼だな」
ハルトは私の機嫌がいいと知り、安心して南と会うことだろう。
ある日、平日だというのに夜に「学生時代の友人と食事に行く」という。
「明日の仕事は大丈夫なの?」
「遅くならないように気をつけるよ」
私は笑顔で送り出した。翌日、仕事が休みだった私は、ハルトが出かけたのを確認し、車に搭載されているドライブレコーダーのSDカードを回収した。記録されている映像を確認すると、ハルトは南を乗せ、ホテルへと向かったのだ。車内では南は終始ハルトにべったりとくっつき、時折キスまでしている。吐き気がしそうな映像を見ていると、別の日の映像では、ハルトと南が車内で愛し合う様子まで記録されていた。
普段は電車通勤しているハルトだが、時々車で出かけていく。その日は昼休みに南の大学まで出向き、彼女を乗せて人目につかない駐車場に行くようだ。そこで行為を重ね、何食わぬ顔で仕事に戻っていた。
それに加え、録音されていた音声では、ハルトが「出世が確実だ」と南に自慢し、「邪魔な私とリリをタワマンから追い出す計画」が語られていた。タワマンに住めているのは私の稼ぎがあるからで、ハルトの給与ではとてもやっていけない。契約金でさえも私が全額出しているというのに、どうして自分のもののように振る舞えるのか。私は怒りが収まらなかった。
1ヶ月後、市役所ではハルトの部長昇進が正式に決まった。ハルトは「今日はサプライズがあるから、楽しみにしていてくれ」と、素敵な笑顔を浮かべながら出かけていった。私は決戦に向け、最終準備を進めた。証拠は十分揃っている。あとは、リリの気持ちを確認するだけだ。
その日、学校から帰ったリリに、私はハルトとの離婚を告げた。すると、彼女は「ママがいればそれでいい」と言ってくれた。生まれてから、ハルトが父親らしいことをしてくれたことはない。リリにとって、ただいるだけの父親など不要だと言い放ったのだ。
その夜、ハルトは南を連れて帰ってきた。
堂々と愛人を連れて帰ってくるとは、いい度胸をしているものだ。私は泰然と2人を見つめた。
「その方は、見てわかるだろう。俺の新しい妻だ」
ハルトは何の遠慮もなく、堂々と南のことを妻だと紹介した。それで一気にわかってしまったではないか。
「つまり、私と離婚するっていうことね。それ以外、何があるっていうの?」
「お前はもう用済みだ。これからは、若い南と優雅に暮らすことにしたんだ」
ハルトは記入済みの離婚届けを突きつけてきた。
「ここから出ていくのは、あなたの方なんじゃない?」
「なんだと?」
「だって、あなたの給料じゃ、このタワーマンションを維持していくことなんて、とてもできないわ」
私はテーブルの上に、探偵が収集した報告書と共に、印刷したドライブレコーダーの映像記録と、南とのメッセージアプリの全履歴を広げた。
「部長になって浮かれているところ申し訳ないけど、これ、かなりまずいよね。だって、こんなものが」
「なんだって、こんなものが……」
ハルトは私が浮気を疑っているとは、夢にも思わなかったのだろう。悲鳴にうろたえ、手を小刻みに震わせている。
「あなたの浮気、ずっと前から気づいてたわ。離婚するから、慰謝料と養育費はちゃんと払ってね。もちろん、彼女にも慰謝料を請求するから」
「慰謝料って何だよ。こんなものが、何の証拠になるって言うんだ」
「すでに弁護士にも相談してある。あなたがいくら言い逃れしても、法的にはちゃんと認められた証拠になるわ」
ハルトは激しく動揺を見せているが、「慰謝料には応じない」と反発を繰り返した。
「別にいいけど、証拠はあなたの職場にも、両親にも、彼女の親にもメールするわ。せっかく部長になったのに、すぐに処分が下るわね」
私はスマホに手を伸ばした。すでに送信用のメッセージは作成してある。ボタンを押せば、各所に一斉に送られるようになっているのだ。
「やめろ!」
ハルトは必死になって私からスマホを奪おうとしてきた。しかし、ハルトの手に弾かれたスマホは、リリの方へ飛んでいった。
「パパにそれを渡してくれ。そうしたら、リリちゃんはずっとパパと一緒に暮らしてもいいんだぞ」
ハルトはリリをなだめて、スマホを渡すように言い寄った。
「パパなんて、大嫌い」
リリは躊躇なく、送信ボタンを押したのである。
その瞬間、ハルトは私の足元に膝まづき、土下座を始めた。
「頼む。あれはご破算だったと、追加メールを送ってくれ」
「どうして? 全て事実じゃないの? 否定する理由はないわ」
「そんな……頼むよ。慰謝料はちゃんと支払う。約束するから」
必死に頼み込むハルトの姿を、南は呆れたように見つめていた。
「こんなおばさんに頼む必要なんてないわよ。私のママは、現役の市長なんだから。不倫くらい、揉み消してもらえるわ。おばさんがいくら騒いだって、ママが一言言えば、ハルトさんだって処分されることはないわ」
南は自身の母親が現役の市長であることを明かし、勝ち誇っていた。
「そうだ。お前と離婚した後で、南と再婚するんだ。何も問題ない」
南の言葉を聞き、ハルトは強気を取り戻したらしい。
「それはどうかしら」
「なんだと?」
「彼女のお母さん、森田英子だけど、もうすぐ2期目の出馬だよね。娘のスキャンダルは、大きな障壁なんじゃないの? 森田市長は2期目の選挙に向けて、イメージを綺麗にしている最中だ。今は、どんな小さなスキャンダルも避けて通りたいところだろう。自分の部下が大学生の娘と不倫関係を持っている事実は、選挙に大きく影響するんじゃない?」
「ママは、そんな弱くないわ」
「お子様には分からないみたいね。けど、大人の世界にはルールがあって、市長がそのルールを破ることを、世間は許さないのよ。ちなみに言っておくと、私の父は大手新聞社の記者なの。選挙前の大事な時期に、学校のネタだって、喜んでいたわ」
「だから、それがどうしたっていうのよ。ママにかかれば、そんな記事なんてすぐに消せるわ」
状況を理解していないのか、南は強気な態度を崩さなかった。しかし、その横でハルトは頭を抱えている。
「マジか……終わった……」
「ちょっと、何落ち込んでるのよ。大丈夫だって。私がママに頼んであげるから」
南はよほど世間知らずのようだ。こんな大事な時期に娘の不倫問題がマスコミに漏れたら、お母さんの再選は厳しくなる。
南はその場で、母親に電話をかけ始めた。市長の権限で新聞社に圧力をかけてもらおうと思っているのだろう。しかし、それが叶うことはない。
「あ、ママ? あのさ、デマを書く最低な新聞があるんだけど……」
南が話を切り出した途端、電話の向こうから「あんた、いい加減にしなさい!」と英子の怒鳴り声が聞こえてきた。
「え、何? どうしたの?」
南はわけが分からないと戸惑っている。実は、一斉送信したメールの宛て先には、森田英子も含まれていたのだ。
英子に「すぐに家に帰って来い」と言われ、南は顔を青くしながら帰って行った。
「後のことは、弁護士を通して連絡するわ。慰謝料の準備、よろしくね」
私は崩れ落ちるハルトを尻目に、家を後にした。
自宅に帰った南は、その日のうちに母親から勘当を言い渡されたそうだ。南のことだ。身勝手な理論を持ち出し、母親の逆鱗に触れてしまったのだろう。ハルトは公務員の品位を著しく損ねる行為であると断罪され、懲戒免職処分が下されたそうだ。当然のことながら、退職金も全額不支給となった。
母親に見放された南は、その後の学費が払えず、大学を中退することになったようだ。
その後、私はハルトと南に対し、慰謝料を請求する裁判を起こした。その結果、タワーマンションの所有が私にあることが認められ、ハルトには家からの退去と多額の支払いが命じられたのである。南に請求した慰謝料については、母親である英子が、2人の不倫を記事にしないことを条件に、上乗せして支払ってきた。英子も、自身の選挙に必死なのだろう。
ハルトはその後、タワーマンションを出て、安いアパートに引っ越していった。南に貢ぎまくっていた彼は、貯金もほとんどなく、私への慰謝料は愚か、養育費さえまともに払えない。困り果てたハルトは義両親に泣きついたようだが、玄関からも入れてもらえなかったらしい。義両親は私を裏切ったハルトに激怒し、勘当を言い渡したのだとか。ハルトは介護事業所に再就職したようだが、収入は公務員時代と比べると格段に低く、その上、投機癖が激しく、借金ばかりが増える一方だったようだ。
3ヶ月後、南が私の自宅に乗り込んできた。
「あんたのせいで、ママからも勘当されて、貧乏生活になっちゃったじゃない。責任取れ!」
南は、母親の部下で将来有望な公務員であれば、一生遊んで暮らせるとでも思っていたのだろう。相手が既婚者でも、若いなら簡単に奪えると高をくくっていたようだが、世の中は、ほど甘くはない。
「自業自得でしょ。これ以上騒ぐなら、警察を呼ぶわよ」
「うるさい! あんたも病院にいられなくしてやるから!」
「好きにしてくれていいけど、そんなことをしたら、一生お母さんに許してもらえなくなるわね」
南は自分の状況がまだ分かっていないらしい。自分の行動が母親の立場を悪くしていることにも気づかず、身勝手に騒ぎまくった。止むを得ず、タワーマンションの警備員に来てもらい、家から追い出してもらった。その後、南はハルトの元からも去り、姿を消したらしい。風の噂では、夜の繁華街でアルバイトをしているそうだ。
南に捨てられたハルトは、仕事中に腰を悪くしてしまい、満足に働けなくなったのだとか。その後は、日雇いのアルバイトをしながら、借金取りに追われる日々を送っているらしい。
私はリリと2人で、新しい日常を送っている。義両親とは今でも交流を続け、私が夜勤の時は、実家の両親と義両親が交互にリリの面倒を見てくれている。リリはハルトがいなくなってから、どこかすっきりしたようで、以前よりよく笑うようになった。「将来は、医者になるか弁護士になるか」と悩んでいるが、私とハルトを見ていて、「女でも1人で生きていける強さを身につけよう」と考えているらしい。頼もしい娘の姿を見ていると、私も励まされる。
これからも、娘と2人で逞しく生きていこう。そう心に誓いながら、今日も患者さんたちのために、私は奮闘するのである。



