義父の葬儀の夜、妻を失ったばかりの俺は、酒の勢いもあって35歳の息子を怒鳴りつけた。「大学も出ていない、嫁もいない、家も持っていない。普通の大人のやることとは思えない」。その場にいた親族全員の前で、息子は何も言い返さなかった。下を向いたまま、膝の上で手を握りしめているだけだった。それが俺には腹立たしかった。だが、その直後、俺の甥が突然口を開いた。「おじさんが言う普通って、毎日俺を殺してるって…

義父の葬儀の夜、妻を失ったばかりの俺は、酒の勢いもあって35歳の息子を怒鳴りつけた。「大学も出ていない、嫁もいない、家も持っていない。普通の大人のやることとは思えない」。その場にいた親族全員の前で、息子は何も言い返さなかった。下を向いたまま、膝の上で手を握りしめているだけだった。それが俺には腹立たしかった。だが、その直後、俺の甥が突然口を開いた。「おじさんが言う普通って、毎日俺を殺してるって...

65歳の長谷川竜一は、最上中の葬儀場に一人で立っていた。妻が死んでから10日が経っていた。雲か出血で倒れ、30時間も持たなかった。葬儀の準備も役所の手続きも、すべて自分一人でこなした。息子の大樹は、電話を折り返すのに6時間もかかった。

その夜、初七日の集まりの後、親族は最上隣の小料理屋に場所を移した。兄の克己が上座を占め、その息子で35歳の柴田直人が隣に座っていた。オーダーメイドのスーツにネクタイピン、きっちりと整えた髪。営業部長の肩書きを持ち、去年新型のアルファードを買った話を、克己が何かにつけて持ち出す。

竜一の正面には、息子の大樹が座っていた。スーツもネクタイもない。シミのついた黒いジャージを着て、前髪が伸びすぎて目にかかったままだ。派遣の入力業務をしていると妻から聞いたが、それ以外のことは何も知らない。大樹はほとんど喋らず、煮物を箸でつついているだけだった。

とっくりが2本目になった頃、克己が声を大きくした。た人の会社の売上目標達成の話、アルファードの燃費の話、孫が幼稚園に上がる話。そのたびに、せ子が頷き、た人が謙遜し、7子が「まだまだです」と言いながら満足そうに笑う。

竜一の中で何かが限界を超えた。

「大学も出ていない。嫁もいない。家も持っていない。35にもなって何をやってきたんだ」

自分が立ち上がっていることに気づいたのは、テーブルに手をついた後だった。とっくりが一本倒れた。

「た人を見ろ。同じ年だぞ。あいつはちゃんと家庭を持って車を持って仕事で結果を出している。それが普通の大人のやることだ。お前は一体何なんだ?」

大樹は下を向いたままだった。顔の角度のせいで前髪が完全に視界を覆う。膝の上で手が握られていくのが見えた。指先が白くなり、赤くなり、爪が手のひらに食い込んでいた。

その時、た人が椅子を引いた。立ち上がる音が静かな座敷に響いた。竜一はた人の顔を見た。誇らしげな顔でも、謙遜している顔でもなかった。頬がこけ、目の下に深い隈があった。口元がわずかに引きつっていた。

「おじさんは、普通って毎日俺を殺してるって知ってますか?」

克己が何か言いかけたが、た人が片手を向けて制した。竜一はた人を見た。た人はテーブルの中央にアルファードの鍵を静かに置いた。

「この車、俺の金で買ったんじゃないです。家もそうです。あの家は妻の父親が頭金を出した。俺の名義じゃない。向こうの資産です」

た人の声は静かだったが、確実に震えていた。

「俺がやってる営業部長っていう肩書きも、岐阜の会社の取引先を回るための飾りみたいなもんです。売上目標が達成できるのは、向こうが寝回しするからです。俺の実力じゃない。おじさんが父さんに話してるあの数字、全部向こうが作ったものです」

克己の顔が青ざめていく。た人は話し続けた。

「結婚して7年です。最初の1年は良かった。でも義父は最初から俺を、自分の会社と娘を守るための道具として見てた。それに気づいた頃には、もう全部の資産が向こうの名義になってた。毎朝7時に家を出て、帰るのは夜の11時か12時です。向こうの家族の顔色を伺いながら仕事して、週に1回は義父と2人で飯を食って『君はまだまだだね』って言われながら黙って聞いてる。子供のことも学校のことも、全部向こうが決める。俺に決定権はない」

た人が初めて笑った。しかし、その笑いは竜一が今まで見てきた笑いとは全く別のものだった。目が笑っていなかった。

「おじさんが言う普通の生活って、今の日本でどういうことか知ってますか? 今年の春、帝国データバンクの調査で、東京の金労世帯の実質所得が10年前より13%下がったって出てた。物価は上がってる。保育料も高熱費も食費も全部上がってる。俺の手取りは10年前と学面は変わってないけど、実際には下がってるのと同じです。その状況で家を持って車を持って子供を育てて、親戚に顔向けできる家族の体裁を保つには、誰かに頼るしかない。自力でやろうとしたら体が持たない」

た人の声が初めてかれた。

「俺、去年の検診で2影があるって言われました。今のところ惑星じゃないって話でしたけど、先生には『このストレスレベルが続いたら、いずれ何かが壊れる』って言われた。それでも止められなかった。止めたら全部崩れる」

7子がひっそりと息を飲む音がした。竜一は7子を見た。7子の目が少し緩んでいたが、すぐに視線を伏せた。

克己が低い声で言った。「直、もういい。ここで言う話じゃない」

た人は父親を見た。その目が今夜見た中で一番静かな目をしていた。

「父さんは知ってたんですか? 俺の状況」

克己は答えなかった。た人は少し待って、天井を見上げた。

「知ってて、何も言わなかったんですね」

そう言った瞬間、た人の体が前に傾いた。テーブルに両手をついた。その手がガタガタと震えている。口の端に薄く赤いものが滲んだ。最初、誰もそれが何か分からなかった。た人がテーブルに崩れ落ちた。白いテーブルクロスの上に顔が沈み、同時に口から一筋、鮮やかな赤が流れた。

せ子が悲鳴を上げた。克己が椅子を蹴倒して立ち上がった。7子が「なっちん」と叫んだ。座敷の中が一瞬で変わった。誰も動けなかった。動いたのは大樹だった。

竜一が気づいた時には、大樹はすでにた人の隣にいた。椅子をどかして、た人の体をテーブルから引き離すように支えた。その動作に迷いがなかった。大樹はた人の顔を上向きにし、気道を確保するような角度にした。た人はまだ意識があったが、目の焦点が合っていなかった。

大樹は自分が来ていた黒いジャージを脱ぎ、それを畳んでた人の口元に当てた。同時にポケットから電話を取り出した。

「なお、意識あるか? 痛いのどこだ? 腹か? 答えなくていい。頷くだけでいい」

た人がわずかに顎を引いた。大樹は電話に状況を伝えた。「35歳男性、意識あり、腹部の痛みあり」。住所を告げる時だけ、7子に視線を向けた。7子がすぐに答えた。

竜一はその間、ずっと立ったままだった。手にしていた缶コーヒーが、いつの間にかなくなっていた。

通話を切った大樹が、克己に言った。

「救急車来ます。店の人に表で待つよう頼んでください」

克己はしばらく大樹を見ていた。息子に指示されているのに、内容を処理するのに時間がかかっているようだった。大樹は繰り返さなかった。克己が動くまで待った。克己が座敷を出ると、せ子がそのあとを追った。

座敷に残ったのは、竜一、大樹、た人、7子の4人になった。大樹はた人の体を横向きにして床に下ろした。た人の背中に手を当てて、ゆっくりとさすった。声はかけなかった。ただ手を動かし続けた。7子がその隣にしゃがんだ。

「ごめん」と7子はだけ言った。それ以上、言葉が続かなかった。

竜一は息子の背中を見ていた。ジャージを脱いでシャツ1枚になった大樹の腕は細かった。しかし、その腕には今夜初めて見る何かが宿っていた。迷いのない確かさだった。

遠くで救急車のサイレンが聞こえ始めた。近づくにつれ、竜一はさっき自分が言った言葉を一つ一つ思い出した。大学も出ていない。嫁もいない。家も持っていない。その言葉が、今もこの座敷の空気の中に漂っているような気がした。

救急隊員が入ってきた時、大樹は自分から横に退いた。説明を求められると、手短にしかし必要なことだけを正確に答えた。出血の量、意識の状態、疼痛の部位。隊員がた人に話しかけると、大樹は静かに立ち上がり、邪魔にならない場所に下がった。た人がストレッチャーで運び出される時、た人の目が一瞬、大樹の方を向いた。何かを言おうとしている目だった。しかし声が出なかった。大樹はただ頷いた。それだけだった。

病院の待合室は、夜の10時を過ぎても人が絶えなかった。蛍光灯の白い光が、どの場所も平坦に照らしていた。どこに目をやっても影がなくて、それがかえって疲れた。

竜一は長椅子に腰を下ろした。隣に大樹が座っていた。シャツ1枚のままだった。雨に濡れて、肩のあたりがまだ乾いていなかった。克己とせ子は一つ前の長椅子に並んで座っていた。7子は受付の方で書類のやり取りをしていた。

しばらくして、克己が立ち上がって処置室の方へ歩いていった。せ子が竜一の方を向いた。

「り一さん。今夜、直がああいうことを言いましたけど、あの子は昔から大げさなところがあって、本当のことも言いますけど、半分は気が立ってたせいであんまり真に受けないでください」

竜一は何も言わなかった。この女は今、何をしているのか。息子が処置室の中で何が起きているかわからない夜に、親族への寝回しをしている。それがせ子という女の体に染みついたやり方なのだろう。悪意ではなく、習慣だった。それがかえって、何か深いところを着いた。

診察の結果、た人は急世出血で、内視鏡で止血処置をした。今夜は入院になる。命に別条はないと言われた。7子が続けた。「先生から話がありまして、慢性的なストレスと過労が原因だと。胃壁がかなり荒れていたそうで、今すぐ仕事と生活環境を変えないと、次はもっと重くなる可能性があると」

その言葉が廊下に落ち、誰も何も言わなかった。

竜一は立ち上がり、大樹に外に出ようと言った。病院の裏手には、屋根の一部が張り出した小さな空間があった。雨はほとんど当たらなかった。竜一は缶コーヒーを一口飲んだ。しばらく、2人とも何も言わなかった。

大樹が先に口を開いた。「直さん、助かってよかった」独り言のような静かな声だった。竜一は何も言わなかった。大樹は続けた。「あの人、ずっとしんどかったんだと思う。今夜の顔見てたら」

そう言ってから、大樹はジャケットを着ていた方の手をポケットに入れ、くしゃくしゃに折りたたまれた紙を取り出した。手が少し震えていた。A4の白い紙が3枚。細かい字が印刷されている。金融機関の書類の体裁をしていた。

「3年前のことです。お袋が亡くなる前の年です」

大樹は地面を見たまま言った。声が低かった。

「3年前、一度だけ家を買おうとしました。当時付き合ってた人がいて、その人と将来の話をしてた。2人で住む場所があればちゃんとした形にできると思って。でも俺の収入だと住宅ローンの審査が通らなかった。それでその人の知り合いが紹介してくれた投資の話があって、少し増やせば頭金に足りるって。消費者金融とノンバンク、2箇所から借りて合わせて600万円を投資に回した」

竜一は息を止めた。大樹の声は変わらず低く続いた。

「半年後に、その投資案件が詐欺だったことが分かった。運営会社が消えて、金は全部なくなった。それだけじゃなくて、その頃には家の頭金の名目で彼女と一緒に物件の仮契約もしてた。手付金が出た。それも借金になった。彼女はそれが分かった時に消えた。連絡が取れなくなって、口座に残ってた俺の貯金も一緒に」

大樹が初めて顔をあげた。目が乾いていた。泣いているわけではなかった。それよりも、もっと枯れた後のような目だった。

「今の借金が元本だけで2000万円を超えてます。利息を入れるともう少し多い。今、3つ仕事を駆け持ちして、全部返済に回してます」

竜一は、派遣の入力業務という話を妻から聞いていた。しかしそれが1つではなく3つだとは聞いていなかった。いや、聞こうとしていなかったのだと、今になって思った。

大樹は紙を丁寧に元の折り目に沿って畳み、ポケットに戻した。

「母さんには言えなかった。言ったら体に触ると思って。父さんにも言うつもりはなかった。でも、今夜の直さんのことがあって、何か言わないといけない気がして」

大樹はまた地面を見ていた。肩が一度だけ上下した。

「普通の男になれなくて、すみません」

その言葉が竜一の胸に入ってきた瞬間、竜一は自分の喉が詰まるのを感じた。違うと言いたかった。今夜のお前を見ていたと言いたかった。ただ人の隣に一番最初に駆けつけたのはお前だったと言いたかった。しかし言葉が出なかった。長年言葉を出し続けることばかりしてきた男の口が、今夜初めて、言うべき言葉の前で動かなかった。

大樹は続けた。「3つの仕事を駆け持ちしながら、毎月の返済を続けてます。食費は削れるだけ削って、家賃は安いところに移りました。今の部屋は6畳一間で、駅から20分歩きます。洗濯機は壊れたまま放置してます。コインランドリーに行く時間が惜しいから、手洗いしてます」

竜一は黙って聞いた。大樹の声が少し変わった。

「ここまで話せたのは今夜が初めてだった。3年間、誰にも言ったことがなかった。言ったところで何にもならないと思ってたから。でも言ったら、なんか少し軽くなった」

大樹がようやく竜一の方を向いた。目がうるんでいた。

「お父さん。俺、死ぬつもりはないです。逃げるつもりもない。全部返して、それで何も残らなくても、それでいいと思ってます。ただ、返し終わるまでは倒れるわけにいかないから、それだけで毎日やってます」

竜一は右手を上げた。何をするつもりか、自分でも分からなかった。その手が大樹の頭に触れた。最後に触れたのがいつか、わからないくらい昔のことだった。大樹が小学校の低学年の頃、頭を撫でた記憶がある。それ以降は触れていなかった。大樹が体をこわばらせた。それから、ゆっくりと力が抜けた。竜一の手が息子の頭の上にあった。白髪の混じった、少し剛毛の髪だった。手のひらにその重さが伝わってきた。

竜一は声を出せなかった。何も言えなかった。言葉も励ましも、全てが今この瞬間には小さすぎて、何を言っても足りない気がした。だから何も言わなかった。ただ手だけをそこに置いた。大樹は下を向いていた。肩がゆっくりと上下し始めた。音は出ていなかった。呼吸が乱れているだけだった。それでも竜一には、息子が今どういう状態にあるかが手のひら越しに分かった。35年間、この子に何を言い続けてきたか。その問いが今夜初めて、竜一の胸の中に収まった。答えを出せる問いではなかった。しかし収まったということだけは確かだった。

やがて、竜一は手を下ろした。大樹が顔をあげた。目が赤かった。

「中に戻るか」と竜一は言った。大樹が頷いた。

翌朝、た人の容体は安定していた。意識は戻っていたが、絶対安静と言い渡されていた。病院の玄関の外で、大樹が自動販売機で買った缶コーヒーを黙って差し出した。2人とも昨夜からここに泊まり込んでいた。克己とせ子は深夜3時頃に帰った。7子は病棟のソファで夜を明かしたらしく、目の下を赤くしたまま廊下を歩いていた。

7子が外に出てきて言った。

「昨夜、直さんが言ったこと、全部本当のことです。私も気づいていました。でも止められなかった。私が止めようとすると父が黙らせた。私の言葉より父の判断が優先される家だったから、それに慣れてしまっていた。直さんが倒れて初めて怖くなりました。このまま続いたら次は死ぬかもしれないと思って、それで今朝、父に電話しました。父は今から来ると言いました」

その言葉を聞いた瞬間、竜一の背筋に何かが走った。7子の父親、黒沢吉尾が来る。黒沢は68歳で薬局チェーンの経営者だった。小柄で太り気味の体に仕立ての良いスーツを着ていた。目が細くて、表情が読みにくかった。

黒沢は病院に着くと、挨拶もそこそこに直接病室へ向かった。十分ほどして、7子が廊下を走るようにして戻ってきた。

「竜一さん、来てください」

病室に入ると、た人がベッドの上に起き上がっていた。顔が青かった。黒沢はベッドの横に立っていた。白いサイドテーブルの上には、書類が置かれていた。竜一はそれを見た。A4の紙が数枚、クリップで止められていた。「離婚届」という文字が見えた。

黒沢がた人に向かって静かに言った。「サインするだけでいい。手続きは全部こちらでやる。家は引き払ってもらう。車も返してくれ。子供の親権はうちが持つ。慰謝料は請求しない。それだけだ」

言葉は完結だった。まるで取引の条件を読み上げるような口調だった。感情がなかった。それが逆に重かった。た人の手がシーツの上で動いた。拳を作りかけて開いた。また作りかけて開いた。昨夜、座敷でアルファードの鍵を握りしめていた手と同じ動きをしていた。

黒沢が書類を差し出した。ボールペンが1本、書類の上に置かれた。た人がゆっくりと手を伸ばした。

竜一が一歩前に出た。気がついたら動いていた。思考より先に体が動いていた。黒沢の腕を掴んだ。書類を持っていた黒沢の手首を、竜一の指が掴んだ。力が入った。工事現場で長年鍛えた手だった。

「入院してる人間に書類を突きつけるのか」

黒沢は手首を引こうとしたが、竜一の手は離れなかった。

「身内の方ですよね。ご親族がこういうことをされると困ります。これは当事者間の話です。あなたには関係のないことです」

竜一は手首を離した。しかし、知り解かなかった。黒沢の正面に立ったまま動かなかった。黒沢は竜一を見上げた。小柄な黒沢から見ると、竜一の体格は圧があったはずだった。それでも黒沢は笑った。薄い笑いだった。

「パートのお仕事をされているんでしたっけ? ホームセンターの資材売り場でしたかね。息子さんもご苦労されてると聞きました。でもね、その立場の方がうちの家庭のことに口を出すのは筋が違うんじゃないですか。うちはうちできちんとやっていく。あなた方には関係のないことです」

言葉が一つ一つ丁寧だった。怒鳴ったわけでも侮辱的な言葉を使ったわけでもない。それなのに、その言葉の配置が相手を確実に「部外者」に置くように設計されていた。竜一の中で何か冷たくて重いものが動き始めた。大樹が後ろから静かに竜一の袖を引いた。首を横に振った。ここで何を言ってもこの人には届かない、とその目が言っていた。竜一は息を吸い、ゆっくりと一歩引いた。

た人がボールペンを取った。竜一はそれ止めなかった。止める権利が自分にあるかどうかが分からなかった。た人がサインした。書類をめくって、必要な箇所に順番にペンを走らせた。手が震えていたが、止まらなかった。書き終えてペンを置いた。黒沢が書類を取り上げ、確認するように1枚ずつめくり、クリップで止め直した。

「手続きは追って連絡する。退院したら荷物を取りに来てくれ。それだけだ」

黒沢が病室を出た。廊下に出る前に一度振り返って竜一を見た。何かを言うかと思ったが、何も言わなかった。ただ見て、それから扉を出た。

病室に残ったのは竜一、大樹、た人、7子の4人だった。た人がベッドに倒れ込んだ。天井を見たまま言った。

「おじさん、昨夜は言いすぎました。みんなの前で」

竜一は何も言えなかった。た人は続けた。「でも嘘はなかった。全部本当のことだった」

竜一は「うん」と言った。声が出たのが自分でも少し意外だった。た人がわずかに首を動かして竜一の方を見た。

「おじさんが怒るのも分かる。俺だって、大樹の立場なら怒鳴りたくなるような親がいたら怒鳴るかもしれない。でも、大樹は昨夜一番最初に俺のそばに来た。それだけは覚えてる」

病室の中が静かになった。た人が言った。

「謝る相手が違う。俺じゃなくて、大樹に行ってやってください」

竜一は「そうだな」と言った。それだけだった。しばらくして、た人が眠り始めた。竜一は病室を出た。大樹がついてきた。廊下で竜一は言った。

「黒沢のことを止められなかった」

大樹は何も言わなかった。竜一は続けた。「止めるべきだったかもしれない。でも止め方が分からなかった」

大樹がゆっくりと壁から背を離した。「父さんが止めようとしたの、見てました。腕を掴んでたの。それで十分だと思います」

その言葉が竜一の胸のどこかに当たった。「十分」という言葉。昨夜自分が大樹に向かって言い続けてきた言葉は、何が「足りないか」という言葉ばかりだった。35年間、何が足りないかを言い続けてきた。その息子が言ったのは、「それで十分だ」という言葉だった。

2ヶ月が経った。8月の東京は今年も容赦がなかった。アスファルトが熱を吸い込んで、夕方になっても地面から湯気のようなものが立ち上がった。長谷川竜一はホームセンターの資材売り場で、その日も働いていた。石膏ボードの束を台車から棚に移していた。1枚が12キロある。それを1日に何度繰り返しても、体はまだ動いた。65歳の体がまだこういう仕事に使えた。それが今の竜一に確かなことの一つだった。

2ヶ月前の6月の夜から、いくつかのことが変わり、いくつかのことは変わらなかった。た人は退院してから1週間、克己とせ子の家に身を寄せた。その後、自分で部屋を探した。江戸川区の古いアパートに1人で入った。家賃が5万2000円の6畳と3畳の2間だった。黒沢の家から持ち出せたのは衣類と数冊の本、小さなデスクランプだけだった。竜一は一度だけその部屋を訪ねた。エレベーターのない4階建ての3階。廊下の塗装が剥がれていた。ドアを開けると畳の匂いがした。家具はほとんどなかった。た人は麦茶を出してくれた。グラスが1つしかなくて、自分はペットボトルから直接飲んだ。た人は新しい仕事を探し始めていた。前の会社には戻れなかった。黒沢の影響が及ぶ範囲が広かった。それでも、た人は別の業界で自分の力で数字を作れる仕事を探していた。簡単ではないと自身も言っていた。でも「今はそれでいいと思ってる」と、た人は言った。竜一はその言葉を帰りの電車の中でずっと考えた。「今はそれでいいと思ってる」。そういう言葉を、自分は息子に一度でも言ってやったことがあったか。答えは出なかった。

この2ヶ月で、大樹に会ったのは3回だった。1回目はた人が退院した翌日。大樹が竜一の家に来て、一緒に夕飯を食べた。竜一が作ったのはインスタントの味噌汁と冷凍の餃子を焼いたものだった。妻が死んでから、料理というものをほとんどしなくなっていた。大樹は文句を言わずに食べた。その夜、大樹は仕事の話を少しした。3つの仕事を駆け持ちしているが、そのうち1つが今月末で契約が切れると言った。更新の見込みは薄い。そうなると月の返済額が若干厳しくなる。でも「何とかなる」とも言った。竜一は何と言えばいいか分からなかった。金の話を持ち出すことも考えた。しかし自分のパートの収入では焼け石に水にもならなかった。結局「また来い」と言った。大樹は頷いた。それだけだった。

2回目は7月の半ば。大樹が近くを通ったついでに寄るという電話があって、竜一は仕事帰りにコンビニの前で落ち合った。2人でベンチに座って缶ビールを1本ずつ飲んだ。話らしい話はしなかった。大樹が近所で見つけた安いうどん屋の話をした。竜一が職場の後輩の話をした。それだけだった。

3回目は先週だった。大樹が来た時、顔色が悪かった。竜一が何も聞かないでいると、大樹の方から言った。「先週、仕事中に少し気分が悪くなった。座っていたら治った。大丈夫だと思う」。竜一は「そうか」とだけ言った。本当は別のことを言いたかった。「無理をするな」とか「体を壊すな」とか。しかしそれを言う前に大樹の顔を見た。無理をしていると分かっていて、それでもやめられない理由をこの子は3年前から一人で抱えていた。今さら「無理をするな」と言ったところで何の意味もないことは分かっていた。だから竜一は「飯は食えているか」とだけ聞いた。大樹は「まあ」と言った。「まあ」の中身が何なのかは聞かなかった。その翌日、竜一はいつもより早く仕事に出た。ホームセンターの帰りに大樹の部屋の近くのコンビニに寄った。おにぎりと感じると栄養補助食品のゼリーをいくつか買い、袋に詰めてポストに入れた。それだけのことだった。大樹からは翌朝、「ありがとう」という短いメッセージが来た。竜一は返信しなかった。する必要がないと思った。

その日の夕方、仕事を終えて外に出たところで、竜一の電話が鳴った。知らない番号だったが、市街局番から都内だと分かった。

「もしもし」

しばらく間があって、「長谷川大樹さんのお父様でしょうか」という声が来た。女の声だった。落ち着いていたが早口だった。

「私、大樹さんが務めておられる会社のものですが、今日長谷川さんが職場で倒れられまして、救急搬送されました。今、都立の病院に」

竜一は何も言えなかった。名前を聞き、繰り返させた。それをコートのポケットに入っていたレシートの裏に書いた。ペンが滑って、最初の一文字が読めなくなった。もう一度書いた。電話を切って駅に向かった。走ろうとして、足がうまく動かなかった。早足で歩いた。改札を通りながら、竜一は2ヶ月前の夜を思い出した。大樹が倒れた夜、座敷の中で誰も動けなかった瞬間、一番最初に動いたのが大樹だった。今夜は自分が動かなければならなかった。

病院に着いたのは電話から1時間後だった。救急外来の受付で名前を告げ、待合いに案内された。2ヶ月前と同じ種類の椅子に座った。同じ消毒液の匂いがした。同じ白い光が天井から降りてきた。しかし今夜は隣に誰もいなかった。竜一は一人だった。

30分ほどして、処置室の扉が開いた。看護師が言った。「意識はあります。心筋梗塞の疑いがあったんですが、検査の結果、今のところ梗塞は確認されていません。ただ、心電図に不脈の初見があります。過労と栄養不足が重なっているようで、今夜は入院していただきます」

竜一は聞いた。「危ないのか」

看護師は少し間を置いた。「今夜は安定しています。ただ、この状態が続いていたら、次はもっと重くなっていた可能性があります」

竜一は「そうか」と言った。それだけだった。入院手続きの書類を、竜一は一つ一つ確認して必要な場所に記入した。字が少し震えた。

大樹が病室に移されたと告げられ、竜一は廊下を歩いてエレベーターに乗り、3階の病室の前に来た。扉をノックすると、「どうぞ」という声がした。大樹の声だった。扉を開けると、大樹はベッドの上に半身を起こしていた。点滴の管が腕から伸びていた。顔色が悪かった。目の下がこの2ヶ月で一番暗く見えた。竜一を見て、大樹は少し表情を動かした。

「来てくれたんですか?」

竜一は病室に入り、ベッドの横の丸椅子を引いて座った。「心配かけてすみません」と大樹は言った。竜一は何も言わなかった。しばらく2人とも黙っていた。大樹が窓の外を見た。

「仕事、どうなるかな」大樹は言った。独り言のような声だった。「明日連絡しないといけない。今月の返済が来週、間に合うかどうか」

竜一は言った。「それは後で考えろ。今夜は寝ろ」

大樹が竜一を見た。少し間を置いて、「はい」と言った。その返事が子供の頃の返事に似ていた。竜一はそう思ったが、口には出さなかった。大樹が目を閉じた。すぐには眠れなかった。まぶたの動きでまだ起きているのが分かった。しかし目を閉じたまま動かなかった。竜一は椅子に座ったまま息子の横顔を見ていた。35歳の顔だった。自分が35歳の頃、何をしていたかを思い出した。現場監督の見習いで、毎日泥だらけで帰ってきた。大樹はまだ小学校に上がったばかりで、よく走り回っていた。妻が夕飯を作るたび、玄関を開けるとただ酔ってきた。あの頃のことを「普通」だと思っていた。普通ではなかったのかもしれないと、今になって思う。あれは運だった。タイミングだった。自分の力だけで作ったものではなかった。それを当然のことのように思って、息子にも同じことを求め続けた。

大樹の呼吸が少し深くなった。眠り始めているのかもしれなかった。竜一は大樹の手を見た。シーツの上に力が抜けた状態で置かれていた。指先に古いペンダコがあった。入力業務を長年やってきた指だった。爪が短く切られていた。竜一はその手に触れようとして、やめた。眠り始めているところを起こしたくなかった。だから触れなかった。ただ、その手の近くに自分の手を置いた。触れない距離に、ただ置いた。

病室の中が静かだった。窓の外のビルの明かりがいくつか消えた。竜一はこれからのことを考えた。考えても答えの出ないことばかりだった。大樹の借金は残っている。2000万円を超えるその数字は、今夜も明日も消えない。大樹が3つの仕事を駆け持ちして食費を削って6畳一間に暮らして、それでも完済には何年もかかる。その間に体がどうなるか、今夜の出来事が一つの答えを出していた。た人は江戸川区の古いアパートで新しい仕事を探している。離婚した後の生活を一から組み直している。子供には会えていない。竜一自身はパートの収入でどうにか生活している。妻が残した貯金が少しある。それを崩せば何かできるかもしれない。しかし何ができるのか、竜一にはまだ分からなかった。何もかもが宙に浮いていた。しかし今夜、竜一にできることはこの椅子に座っていることだけだった。それは2ヶ月前の病院の廊下と同じだった。違うのは、今夜は大樹が眠っているこの部屋の中に自分がいることだった。

大樹の呼吸がさらに深くなった。眠れているようだった。竜一はゆっくりと息を吐いた。自分の手を見た。関節のゴツゴツした、静脈の浮いた65年分の手だった。指を曲げた。関節は鳴らなかった。2ヶ月前の夜から、あの音が出なくなっていた。意識してやめているわけではなかった。ただ出なくなった。それが何を意味するのか、竜一には分からなかった。ただ、出なくなったという事実だけがあった。

妻が死んで2ヶ月と少しが経った。あの夜の食事があって、た人が倒れて、大樹の話を聞いて、黒沢が病室に来て、それから今夜ここにいる。全部が繋がっているようでいて、繋がりの意味が何なのか竜一にはまだ分からなかった。ただ、妻の葬儀場で一人で立っていた6月の夜より、今夜の方が自分がどこにいるのかを知っている気がした。それだけのことかもしれなかった。でも今夜は、それだけのことで十分だった。

借金はある。仕事は不安定だ。体は壊れかけている。た人はまだ立て直しの途中にいる。何も解決していない。何も変わっていない。明日もそれは変わらない。それでも大樹は今夜、ここで眠っている。竜一は息子の手の近くに置いた自分の手を見た。触れない距離のままで、そこにあった。病室の灯りが天井から静かに降っていた。窓の外の夜が、さらに深くなっていった。

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