2000万円という言葉がリビングに響いた瞬間、完成したばかりの新築の家の空気が凍りついた。私は耳を疑った。この家を建てるために頭金として差し出したのは、私の人生そのものとも言える2000万円だ。長年コツコツと貯めてきた退職金の大部分を注ぎ込んだのだ。
「ユナ、言い方があるだろう。」
「でも父さん、僕たちも自立した大人なんだ。いつまでも金を出してやったっていう態度でいられると、正直息が詰まるんだよね。」
息子の翔平までもが、申し訳なさそうな顔を演じながら私を突き放した。その背後では、ユナの両親がまるで自分たちの金でこの家を手に入れたかのように優雅にお茶を啜っている。私は静かに口を閉ざした。怒りで震える拳を膝の上で握りしめ、ただ黙って彼らの傲慢な笑顔を見つめていた。反論など今は必要ない。彼らが私を金ずるとして使い捨てようと決めたその瞬間、彼らの運命はすでに決まったのだから。
新築祝いの席は、もはや祝いの場ではなかった。それは私という邪魔者を追い出すための残酷な儀式の始まりだった。
「お義父さん、もう帰る準備できてますよね。荷物はあっちの隅にまとめておきましたから。」
玄関の隅には、私のわずかな着替えと身の回り品がゴミ袋のように乱雑に積み上げられていた。2000万円という頭金を差し出し、同居前提で建てたこの家に、私の居場所は最初から用意されていなかったのだ。私は何も言わずに立ち上がった。心の中で静かに、そして深く、ある決意を固めながら。さあ、地獄へようこそ。あなたたちが踏みにじったのは、ただの老後の蓄えではない。私という人間の、最後にして最大の尊厳だったのだから。
私は震える手で鞄を掴み、彼らに背を向けた。その背中越しに聞こえるユナの高笑いが、復讐の炎をさらに激しく燃え上がらせた。
私の名前は佐藤健一。62歳。長年、中堅の製造会社で実直に働いてきた。3年前、最愛の妻である美代を病気で失い、それからは古い一軒家で一人暮らしを続けてきた。男手一つというわけではないが、一人息子の翔平を育てるために夫婦二人で必死に共働きをして貯めてきたのが、あの2000万円だった。
「親父、これから先、一人で広い家に住んでるのも寂しいだろう。もしよかったら、俺たちと一緒に住まないか?」
1年前、そう提案された時、私の胸は期待と喜びで震えた。翔平は数年前にユナと結婚したが、狭いマンションでの生活は手狭だと言っていた。孫の顔を見る機会も増えるだろう。老後の寂しさが解消される。そう信じて疑わなかった。
「新築を建てるには、今の俺たちの蓄えじゃ少し足りないんだ。親父が援助してくれるなら、親父の専用ルームも作った広い家にできるんだけど。」
翔平の言葉に、私は二つ返事で頷いた。美代が生きていたら、きっと同じことを言っただろう。「子供の幸せのために使うのが一番いいお金の使い方よ」と。私は亡き妻と二人でコツコツ貯めた貯金と退職金の大部分を合わせた2000万円を、息子の口座に振り込んだ。それは私にとって単なる金銭ではない。何十年という年月の労働、我慢、そして家族の思い出が詰まった、重みのある2000万円だった。
家が建つまでの間、私は何度も打ち合わせに呼ばれると思っていた。だが、ユナは「お義父さんはセンスがいいから、基本はお任せで大丈夫ですよね。その代わり、最高のお部屋を用意しますから」と笑顔で言うだけだった。結局、私は一度も設計図を詳細に見せてもらうことはなかった。
完成したという知らせを受け、私は長年住み慣れた家を売却し、身の回りの荷物をまとめて新居へと向かった。新しい生活への期待に胸を膨らませて。しかし、新居の玄関を開けた瞬間、私は言葉を失った。玄関には見慣れない派手な靴が並んでいたのだ。
「あら、健一さん、いらっしゃい。」
リビングから出てきたのは、息子の嫁の両親、ユナの父の周一さんと母の節子さんだった。彼らはすでに自分の家であるかのようにくつろぎ、テーブルの上には豪華な出前の寿司が並んでいた。
「どういうことだ? 翔平、どうしてここにいるんだ?」
私の問いに、翔平は目を合わせようとせず、気まずそうに頭を掻いた。代わりに答えたのはユナだった。
「お義父さん、状況を察してくださいよ。私の両親も、ちょうど今のマンションの更新時期で老後の不安があったんです。だから、この家で一緒に住むことに決めたんです。」
「一緒に住む? 私と君の両親と翔平たちで?」
「いいえ、違いますよ。部屋数には限りがありますから。お義父さんの部屋として予定していた場所には、私の両親が入ることになったんです。ほら、お義父さんはまだお元気ですし、どこか近くのアパートでも借りて一人で暮らせるでしょう。」
あまりの言い草に、私は目眩がした。2000万円を出したのは私だ。同居前提に老後の安心を買ったつもりだった。
「何を言っているんだ? 私は2000万円も出したんだぞ。この家は、私と一緒に住むための…」
私が言いかけると、それまで黙ってお茶を飲んでいたユナの母、節子さんがふん、と鼻で笑った。
「健一さん、さっきから2000万円、2000万円って、そんな御祝儀でいつまで恩着せがましいつもり? この家、土地代も合わせれば8000万円近くするんですよ。たったの2000万ごときで義父面されるなんて、こっちが恥ずかしくなっちゃうわ。」
私は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。一生懸命働いて、爪に火を灯すような思いで貯めたお金が、この人たちにとっては「ごとき」される御祝儀なのか。
「親父、ごめんな。ユナの両親は家事とかも手伝ってくれるって言うし、今の僕たちにはその方が助かるんだ。あ、これ、今月分のアパート代の足しにでもしてくれよ。」
翔平が差し出してきたのは、わずか数万円の入った封筒だった。私の沈黙を納得したと取ったのか、ユナはさらに追い打ちをかけるような言葉を投げつけた。
「さあ、せっかくのお祝いの席に暗い顔した人がいると空気が悪くなるわ。お義父さんの荷物、あそこにまとめておきましたから、早めに失礼してもらえるかしら。あ、靴はちゃんと揃えて外に出してくださいね。新築の玄関が汚れると嫌ですから。」
私は何も言い返すことができなかった。怒りを通り越し、深い悲しみと、自分自身の甘さへの後悔が波のように押し寄せてきた。最愛の息子とその家族を信じきっていた自分があまりにも愚かだった。私は黙って玄関の隅に積まれた自分の荷物を見つめた。そこには、妻の遺影も乱雑に袋に入れられて放り出されていた。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて切れた。悲しみは一瞬で消え去り、代わりに冷徹な冷静さが私の心を支配した。
「分かった。今日はこれで失礼する。」
私は静かにそう告げると、自分の荷物を手に取った。背後で「やっと分かってくれた」と安堵する翔平の声と、「お義父さん、次はアポを取ってから来てくださいね」というユナの嘲笑が聞こえる。だが、私は一度も振り返らなかった。彼らは自分たちが今、どれほど恐ろしい綱渡りをしているのか全く気づいていない。私が黙って引き下がったのは屈服したからではない。彼らには言葉で抗議するよりも、もっとふさわしい終わりを用意すべきだと確信したからだ。
私は車に荷物を積み込み、運転席に座った。助手席に置いた鞄の中には、弁護士から受け取ったばかりのある特殊な書類が入っている。この家を建てる際、念のため、と作成しておいた、私にしか使えない権利の証明書だ。
「さあ、せいぜい今のうちに贅沢を味わっておくといい。」
私は独り言をつぶやき、エンジンをかけた。車のバックミラーに映る新築の家は、夕日に照らされて美しく輝いていた。だが、その輝きが消える日はそう遠くない。
新居を追い出された私は、ひとまず駅近くのビジネスホテルに身を寄せた。狭いシングルルームのベッドに腰を下ろすと、先ほどまでの出来事がまるで悪い夢だったかのように思い出される。窓の外には、高級な町の夜景が広がっていた。その中の一つに、私が2000万円を投じて立てたあの家があるのだ。今頃、夫婦とユナの両親は私の金で買った豪華な寿司を囲み、私の悪口でも言いながら笑い合っているのだろう。そう思うと、腹の底からどろりとした怒りが込み上げてきた。だが、私はただ感情に任せて暴れるような男ではない。長年、製造現場で管理職を務めてきた。トラブルが起きた時こそ冷静に状況を分析し、最も効果的な一手を打つ。それが私の流儀だ。
翌朝、ホテルの部屋で今後の身の振り方を考えていると、私のスマートフォンが鳴った。画面には翔平の文字が表示されている。一瞬、謝罪の電話かと思ったが、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「もしもし。父さん、昨日はごめんね。ちょっとバタバタしちゃって、言い忘れてたことがあったんだけど。」
息子の声には申し訳なさなど微塵も感じられなかった。それどころか、どこか急かしているような苛立ちさえ混じっている。
「なんだ、言い忘れたことって。」
「あのさ、父さんが使ってた古い家の売却代金のことなんだけど、不動産会社から連絡あっただろう。契約、もう済んだんだよね。そのお金、どうするつもりなのかなと思って。」
私は耳を疑った。家を建てるための2000万円とは別に、私が一人で住んでいた古い家の売却代金にまで、彼らは目をつけているのか。
「あの金は、私のこれからの生活費だ。アパートを借りる初期費用や、当面の食費に使う。」
私が静かに答えると、電話の向こうから聞き覚えのある鋭い声が割り込んできた。ユナだ。
「ちょっと、お義父さん、なんかってなこと言ってるんですか? そのお金もこの家のローンの繰り上げ返済に回すって約束だったじゃないですか。」
「約束? そんな約束をした覚えはない。私は2000万円を出す代わりに、この家で最後まで面倒を見てもらうという話だったはずだ。その約束を破ったのは、君たちの方だろう。」
私の言葉に、ユナは鼻で笑い、さらに語気を強めた。
「ああ、何を被害者ぶってるんですか? 2000万円なんて、今の住宅ローンからすれば些末な金ですよ。そんな金額で一生面倒を見ろなんて、図々しいにもほどがあります。大体、お義父さんみたいな地味で人気のない人がリビングにいたら、私たちの新しい生活が台無しなんです。」
「分かってます。ユナ、言いすぎだよ。でも父さん、僕たちの生活が大変なんだ。子供の教育資金だって貯めなきゃいけないし、ユナの両親も色々物入りみたいで。古い家の売却代金、500万くらいにはなるんでしょう。それくらい、息子夫婦のために差し出しても罰は当たらないと思うけどな。」
翔平の言葉は、私の心をナイフで切り裂くよりも深く傷つけた。自分が育てた息子が、これほどまでに恩知らずで欲にまみれた人間になっていたとは。教育資金という言葉を盾に、親の老後資金を奪おうとする姿に、情けなさが込み上げる。私は怒りを通り越して、ある種の諦観すら覚えていた。ここまで徹底して金ずるとしか見ていないのであれば、もう情をかける必要などどこにもない。
「お義父さん、黙ってないで何か言ったらどうなんですか? もしかしてボケちゃいました? 自分の立場、分かってます? あなたはもう私たちの家族じゃないんです。ただのお金を出す人。それ以外の価値なんてないんですよ。分かったら、さっさと手続きしてお金を振り込んでくださいね。あ、もし拒否するなら、もう二度と孫の顔は見せないから。」
ユナの冷酷な言葉が受話器越しに突き刺さる。孫を人質に取るようなやり方に、私は奥歯を噛みしめた。沈黙を守る私に対し、彼女はさらに畳みかける。
「いい? 2000万ごときで偉そうにできる時代は終わったの。これからは私たちのルールに従ってもらうから。」
私は深く、静かに息を吐いた。そして、一言だけ落ち着いた声で返した。
「分かった。君たちの考えは、実に理解できたよ。お金の件も含めて、こちらで適切に対処させてもらう。」
「ふん。最初からそう言えばいいのよ。じゃあ、期待してるからね。」
電話は一方的に切れた。ツー、という電子音が静かなホテルの部屋に虚しく響く。私はスマートフォンをテーブルに置き、手元にある鞄を開けた。中から取り出したのは、一枚の風格のある書類だ。それは、亡き妻の実家から引き継いだ土地の権利に関する書類だった。実は、息子夫婦が建てたあの家が立つ土地のほんの一部。しかし、その家が建築的に機能するためには決して欠かせない急所とも言える部分の権利を、私は個人的に所有したままにしていたのだ。
家を建てる際、翔平には「手続きは全部やっておくから」と言いくるめられていたが、私は長年の経験から、重要な書類だけは自分の目で確認し、専門家に相談して手続きを保留にしていた。彼らが私を裏切るなど、当時は微塵も思っていなかったが、亡き妻の面影でもある土地の一部を安易に手放したくない。ただそれだけの思いだった。だが、その執着が今や最強の武器になろうとしていた。
翔平、ユナ。君たちが「ごとき」と切り捨てたものが、どれほどの重みを持っていたのか、その身を持って知ることになるだろう。私は再び口を閉ざし、手帳を開いた。そこには、馴染みの弁護士の連絡先が記されている。窓の外の空は、いつの間にか厚い雲に覆われ始めていた。嵐の予感。しかし、その嵐を巻き起こすのは私だ。彼らの傲慢な笑い声が絶望の悲鳴に変わるまで、あと僅か。私は受話器を取り、弁護士事務所の番号をダイヤルした。震える指先は、恐怖からではない。これから始まる正義の執行に対する興奮からだった。
3日後、私は残していたわずかな荷物を引き取るため、再びあの新築の家を訪れた。本当は二度と敷居をまたぎたくなかったが、亡き妻の思い出が詰まったアルバムや、長年愛用してきた遺品だけはどうしても取り戻したかった。インターホンを押すと、しばらくしてユナの母、節子さんが顔を出した。彼女は私を見るなり、露骨に嫌な顔をして鼻の頭で覆った。
「あら、また来たの? しつこいわね。荷物ならもう外に出しておこうと思ってたところよ。家の中に、古い家の誇りやカビを持ち込まれると困るのよ。新築なんだから。」
「すみません。すぐに終わりますから。」
私は静かに頭を下げ、玄関を潜った。リビングに入ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。私が2000万円を出して作った広々としたリビングには、新しい最高級の革張りソファが置かれ、その上では息子の翔平とユナ、そしてユナの父の周一さんが、昼間から高いワインを開けて笑い合っていた。
「お、親父か。遅かったじゃないか。古い方の家の売却手続き、進んでるんだろうな。早くしないと、このソファのローンの支払いも始まっちゃうんだよ。」
翔平は酔っているのか、顔を赤くして、私のことなどまるで見えていないかのような口ぶりだった。私が買ったはずの家に、私の居場所はなく、私の金で買った家具に、見知らぬ他人がふんぞり返っている。
「翔平、そのソファはどういうことだ? 私の老後資金から出すと言っていた2000万円は、あくまで家の建築費用だったはずだ。こんな贅沢品を買う余裕があるなら、なぜ私を追い出す必要があるんだ?」
私が絞り出すように言うと、ユナがソファから立ち上がり、カツカツとヒールを鳴らして近づいてきた。
「お義父さん、勘違いしないで。その2000万円なんて、この家を建てるための入場券みたいなものよ。あなたがここに住むための権利金じゃないの。分かってる? 2000万ごときで一生ここに世話になると思ったら大間違い。あなたはもう、賞味期限切れの粗大ゴミなのよ。」
「粗大ゴミ?」
「そうよ。それもただのゴミじゃない。維持費だけかかるお荷物のゴミ。翔平さんも言ってたわよね。お義父さんがいると、家の格が下がるって。せっかくのデザイナーズ住宅に、作業着姿の似合う老人がうろうろしてたら、近所の奥様方に合わせる顔がないわ。」
ユナの言葉に、彼女の父の周一さんも同調して声を上げた。
「健一さん、男なら引き際が肝心だよ。君みたいな学歴も教養もない現場上がりの人間が、我々のような上品な家族の中に混ざろうなんて、最初から無理があったんだ。君にふさわしいのは、誇りっぽいアパートの一室だよ。そこなら、誰にも気がねなくその汚い作業着で過ごせるだろう。」
周一さんは、かつて大手企業の役員だったことを鼻にかけている。町工場で働いてきた私を、最初から見下していたのだ。
「お義父さん、聞こえなかった? 早く荷物を持って消えてちょうだい。あ、その汚い靴下で歩かないでね。床が汚れるから、後で念入りに消毒しなきゃいけないんだから。本当に手間がかかるわ。」
ユナはそう言うと、私の足元に一冊のアルバムを放り投げた。それは妻の結婚写真や翔平の成長記録が詰まった、世界に一冊しかない大切なアルバムだった。表紙が床に当たり、角が少し潰れてしまう。
「あっ!」
私は思わず声を上げ、膝をついてアルバムを拾い上げた。その姿を見て、節子さんが高笑いをした。
「おほほほ、見て。まるで地面に這いつくばる虫みたいだわ。お似合いよ、健一さん。そうやって一生、這いつくばって生きていけばいいのよ。」
翔平はその光景を見ても、助けようともせず、ただワインを口に運んでいた。自分の父親が目の前でここまで侮辱されているというのに、むしろ面倒なものを見るような冷ややかな視線を私に向けていた。
「父さん、早く行ってくれよ。ユナたちが機嫌を損ねると、僕の立場も悪くなるんだ。もう親子の縁を切ったつもりでいてくれ。金さえ振り込んでくれれば、それでいいからさ。」
私は震える手でアルバムを抱きしめた。怒りを超え、深い絶望が私の全身を支配した。この二十数年、私は一体何のために働いてきたのだろうか。この息子を育てるために、どれほどの汗を流し、どれほどの我慢を重ねてきたのか。全てが無意味だった。全てが…。
私は何も言い返さなかった。言い返す言葉が見つからなかったのではない。この連中にどんな言葉を投げかけても無駄だと悟ったからだ。彼らは人間ではない。人の心を失った、欲の塊だ。私は静かに立ち上がり、アルバムを鞄にしまった。頭の中は、先ほどまでの怒りで煮えくり返っていたはずなのに、今は不思議なほど冷静だった。まるで機械のように冷たく正確な思考が、私を支配していた。
「分かった。荷物はこれで全部だ。もう二度と、ここには来ない。」
「ええ、そうしてちょうだい。あ、お金の振り込みだけは忘れないでね。忘れたら、本当に孫には一生合わせないから。」
ユナの勝ち誇ったような声を背に、私は玄関へと向かった。周一さんと節子さんの嘲笑うようなひそひそ話が聞こえる。翔平の無関心な沈黙が背中に刺さる。玄関の扉を閉める直前、私は一度だけ振り返った。ピカピカに磨かれた大理石の玄関。その奥に広がる、私が夢見た理想の家族の形、その残骸。私は心の中で静かに呟いた。「2000万ごときか。その言葉、後で絶対に後悔させてやる。」
私は家を出ると、まっすぐに自分の車へと歩いた。車に乗り込み、エンジンをかける。ダッシュボードに置かれたスマートフォンを手に取り、先ほど届いていたメールを確認した。それは弁護士からの連絡だった。
「土地の権利関係の調査が完了しました。佐藤様のご指摘通り、あの土地の重要な一部は依然として佐藤様の個人名義であり、共有名義としても登記されていません。法的な対抗手段の準備が整いました。」
私はハンドルを強く握りしめた。ユナたちが「入場料」と呼んだ2000万円。だが、彼らは知らない。その入場料が、実は「次元爆弾」のスイッチでもあったということを。私はアクセルを踏み込み、その場を去った。ミラーに映るあの家は夕闇に飲み込まれ、不気味な影のように見えた。明日から、私の本当の戦いが始まる。彼らが手に入れたと思った幸せを、一つずつ丁寧に、そして残酷に奪い取っていく戦いが。私はもう、あの優しい父親ではない。奪われた尊厳を取り戻すための、冷徹な執行人だ。
新築の家を追い出されてから1週間、私は駅前の築40年の古いアパートに身を寄せていた。六畳一間の畳はすり切れ、壁は薄く、隣の部屋のテレビの音が筒抜けになって聞こえてくる。2000万円という頭金を出し、最新の設備が整った家で余生を過ごすはずだった私が、今では冷たい水道水で顔を洗い、コンビニの割引弁当を啜る生活を送っている。
「情けないな、美代。」
壁に立てかけた妻の遺影に語りかけるが、返事はない。ただ、写真の中の妻はいつもの優しい笑顔で私を見守ってくれている。その笑顔を見ていると、情けなさと同時に、息子をあんな風に育ててしまった自分への怒りが再燃する。そんな時だった。アパートの錆びついたチャイムが、不快な音を立てて鳴り響いた。ドアを開けると、そこには信じられないことに翔平とユナが立っていた。
「うわ、何この臭い。カビ臭くて倒れそう。」
「お義父さん、よくこんなゴミ溜めみたいな場所に住めますね。やっぱり身の程に合った場所がお似合いってことかしら。」
ユナは玄関の敷居すらまたごうとせず、外から罵声を浴びせてくる。翔平も、父親の落ちぶれた姿を見ても同情するどころか、苛立ちを隠そうともしない。
「父さん、わざわざこんなところまで来たのはさ、金の件を催促しに来たんだよ。古い家の売却代金、500万円。まだ振り込まれてないじゃないか。言ったはずだ。あれは、僕たちの新生活のための金だって。」
「あれは、私のこれからの生活費だ。このアパートの更新料や日々の食費、それに万が一の時の医療費。私には、もうあの金しかないんだ。」
私が静かに、しかし断固とした口調で断ると、ユナがヒステリックに叫んだ。
「生活費? 笑わせないでよ。そんなの、そこら辺で警備員のバイトでもすれば稼げるでしょう。体だけは丈夫なんだから。それより、私たちの新生活の方が大事なの。新築の庭をイングリッシュガーデンにする見積もりが予想より高くなっちゃって、あなたの退職金だけじゃ足りないのよ。」
「庭? 私の生活費を削って、庭を作るというのか。」
「そうよ。お義父さんが住むはずだった部屋も、今は私の趣味のシアタールームに改装してるんだから。家具も全部新調したし、お義父さんのせいで予算がカツカツなの。2000万ごときで恩着せがましく居座ろうとした罰よ。」
あまりの身勝手さに、私は言葉を失い沈黙した。私の沈黙を諦めと勘違いしたのか、翔平が一歩前に出て、私に一枚の書類を突きつけてきた。
「父さん、これにサインしてくれ。古い家の売却代金の受け取り人を、僕の名義に変更する承諾書だ。これさえ書いてくれれば、もう二度とここには来ない。父さんの好きなように生きてくれればいいから。」
「これを書かなければ、どうなるんだ?」
私が問うと、ユナが邪悪な笑みを浮かべてスマートフォンの画面を私に見せた。そこには、私の唯一の孫である幼稚園に通う健太の写真が映っていた。
「分かってますよね。これを書かないなら、健太には二度と合わせない。それだけじゃない。健太にはこう教えておくわ。『おじいちゃんはお金が大好きで、健太よりも自分のお金の方が大事な、悪い人なんだよ。だから、もう死んじゃったと思っていいよ』ってね。」
「貴様、子供にそんな嘘を…」
私の怒りが頂点に達し、肩が震えた。孫の健太は、私を「じじ」と呼んで慕ってくれていた。その純粋な心を、自分の欲のために利用し、壊そうとするこの女が、どうしても許せなかった。
「ああ、怖い怖い。暴力を振るうつもり? 翔平さん、見て、お義父さん、本性を現したわよ。やっぱりこんな人、私たちの家に入れなくて正解だったわ。さあ、さっさとサインして。それとも、健太に一生恨まれたまま、孤独死したいの?」
ユナの罵倒は止まらない。
「翔平も、父さん、いい加減にしてくれよ。みんなが幸せになるための選択なんだからさ。」
まるで私一人が悪者であるかのように言い放つ。私はペンを握る右手に力を込めた。目の前の書類。これを書けば、私は文字通り全てを失う。住む場所、家族、思い出、そして未来の生活。彼らは私を徹底的に追い込み、最後の一滴まで絞り取ろうとしている。私は深く頭を下げ、顔を隠した。その時、私の目から一筋の涙が畳に落ちた。それは悲しみの涙ではない。自分の中に残っていた息子への僅かな親心が、完全に死んだ葬式の涙だった。
「分かった。サインすればいいんだな。」
「そうそう。最初からそう言えばいいのよ。さあ、早く。」
ユナが急かす。私は震える手で書類に名前を書き込んだ。翔平とユナはその書類をひったくるように奪い取ると、勝ち誇ったような声を上げた。
「よし、これでガーデニングの契約ができるわ。」
「お父さん、ありがとう。じゃあね、これでもう本当に赤の他人だから。アパートの家賃が払えなくなっても、うちに泣きついてこないでよ。警察呼ぶから。」
二人は高笑いしながら、狭いアパートの廊下を去っていった。ドタドタという足音が遠ざかり、再び静寂が部屋を支配する。私は立ち上がり、窓から二人の後ろ姿を見下ろした。高級車に乗り込み、どこかへと走り去っていく息子夫婦。彼らは今、人生の絶頂にいると感じているだろう。邪魔な老人を追い出し、その金を奪い、自分たちの理想の城を手に入れたのだから。しかし、彼らは一つだけ大きな計算違いをしていた。私がサインしたあの書類。あれは、私が用意していた罠の第一段階に過ぎない。彼らが私の金を奪えば奪うほど、彼らが法的に背負う負債は取り返しのつかない規模にまで膨れ上がっていく。私は部屋に戻り、鞄の中からもう一つの、本当の意味で決定的な書類を取り出した。それは、彼らが住んでいる土地に関する、驚くべき真実が記されたものだ。
翔平、ユナ。君たちが奪ったのは500万円ではない。自分たちの未来そのものだ。私の声は、もはや震えていなかった。冷たく、鋭く、研ぎ澄まされた刃のような響きを持っていた。追い込まれたネズミが猫を噛む。いや、追い込まれたのは私ではない。私という安全装置を自ら外してしまった、彼らの方なのだ。窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。これから始まるのは、情け容赦ない逆転の幕開けだ。
アパートの窓を叩く雨音が、静まり返った部屋に虚しく響いている。私は机の上に広げた一枚の古い地図と、数枚の法的な書類を見つめていた。そこへ、一人の女性が訪ねてきた。扉を開けると、そこに立っていたのは義妹、つまり亡き妻の妹である玲子だった。彼女は実家の不動産業を継ぎ、宅地建物取引士として辣腕を振っている。私とは美代の葬儀以来疎遠になっていたが、今回の件で真っ先に連絡を取った相手だった。
「ああ、玲子、悪いね。こんなところまで来てもらって。」
「いいえ、水臭いこと言わないで。美代姉さんが生きていたら、今の翔平君の姿を見てどれほど悲しむか。それにしても、2000万円も出させておいて、実の親を追い出すなんて、人として絶対に許されることじゃないわ。」
玲子は狭い部屋に上がり込むと、私が広げていた書類を鋭い目で見つめた。
「それで義兄さん、例の秘密の話だけど、本当にあのままにしておいたのね。」
「ああ。家を建てる前から、何度も土地の権利を移転してくれと頼まれたが、私は最後まで首を縦に振らなかった。美代の思い出が詰まった土地だ。何があっても、私の名義を守りたかったんだ。」
ここで、私には隠していた秘密があった。私はただの製造会社の社員として定年を迎えたが、実は若かりし頃、ある特許技術の開発に携わっていた。その特許は、私が死ぬまで毎年、私個人の口座に奨励金が入り続けている。私が20年以上、質素な生活を送りながらも2000万円という頭金をポンと出せたのは、退職金だけが理由ではない。本当の私は、息子夫婦が想像もできないほどの資産を、別の口座に蓄えていたのだ。
「義兄さん、この図面を見て。翔平君たちが建てた新築の家。実は敷地の南側のわずか三つほどの土地、ここが今も義兄さんの完全な個人名義のままになっているわ。それも、ただの土地じゃない。行動に出るための唯一の通路にあたる部分よ。」
玲子が指差したのは、家の玄関から道路へと続く細長いスペースだった。家を建てる際、ハウスメーカーの担当者は「親子の名義だから、後で一括にまとめればいい」と安易に考えていた。しかし、私はその手続きを巧みに引き延ばし、最終的に私の単独所有のまま登記を完了させていた。つまり、法的に見れば、彼らの家は他人の土地を通らなければ外に出られない、いわゆる袋小路状態にある。
「そして、もう一つ、私が用意していた罠がある。これを見てくれ。」
私は鞄の中から、翔平とユナが署名した一通の書面を取り出した。それは、2000万円を渡す際に、私が念のために無理やり書かせた「負担付き贈与契約書」というものだ。これは「同居・介護を含めた扶養を条件として現金を贈与する。条件が履行されない場合、贈与は無効となり、全額を即時に返還しなければならない」という内容が記されていた。
「義兄さん、これを書かせていたの?」
「ああ。ユナの父親が元役員だと聞いていたから、金銭的な要求が来る可能性は予見していた。まさか自分の息子がここまで加担するとは思いたくなかったがな。」
玲子は目を見開き、感嘆したように息を吐いた。
「これがあれば、2000万円の返還請求は確実に通るわ。それに加えて、あの通路部分の土地。義兄さんが通行禁止を言い渡せば、彼らは自分の家に帰ることも、車を出すこともできなくなる。建築基準法上の接道義務にも違反することになるから、下手をすればあの家は違法建築物として扱われる可能性すらあるわ。」
「それだけじゃない。さっき、彼らが無理やり書かせた古い家の売却代金の承諾書。あれも、脅迫に近い形で欠かされたものだ。玲子、君の力でこれを法的に無効化できるか?」
「もちろんよ。録音データはあるの?」
私はポケットから小型のICレコーダーを取り出した。そこには、先ほどのアパートでのやり取りが、ユナの罵声から翔平の冷酷な言葉まで、全て鮮明に記録されていた。
「完璧だわ。義兄さん、準備は整ったわね。彼らは今、自分たちが手に入れた城で贅沢な暮らしをしているけれど、それは砂の上に立てられた楼閣に過ぎない。いつ始める?」
私は窓の外の雨を見つめ、静かに答えた。
「今、すぐだ。まずは内容証明郵便を送ってくれ。2000万円の全額返還請求。そして、私が所有する土地の通行使用料として、月額10万円の請求。さらに、不当に奪われた古い家の売却代金の返還。全て一括でだ。」
「月額10万円? それは相場よりかなり高いわね。」
「いいんだ。彼らは私を『粗大ゴミ』呼ばわりし、『2000万ごとき』と言った。ならば、その『ごとき』を払えないほどに追い詰めるのが、私の礼儀というものだ。」
私の声には、もはや迷いはなかった。息子への愛情は、あの雨の降る畳の上で完全に枯れ果てた。今あるのは、亡き妻の名誉と私自身の尊厳を守るための、冷徹なまでの執行心だけだ。
「分かったわ。私の知り合いの腕利き弁護士にも声をかけるわ。明日には、彼らのポストに地獄からの招待状が届くように手配する。」
玲子は力強く頷き、部屋を後にした。翌日、新築の家ではユナの両親を招いた豪華なパーティーが開かれる予定だという。私の金で買った高級食材と、私の金で揃えたリビングで、彼らは勝利の美酒に酔いしれるつもりなのだろう。だが、彼らがそのワイングラスを口にする前に、一通の封筒が届く。それは、彼らの完璧な人生が音を立てて崩れ去る、終焉の合図だ。私は一人、暗い部屋で美代の遺影を見つめていた。
「美代、もう少しだけ待っていてくれ。全てを終わらせて、君の元へ行くから。」
その夜、私は久しぶりに深く静かな眠りに着いた。これから始まる想像を絶する復讐劇の幕開けを夢に見ることもなく。一方、その頃。ライトアップされた豪華な新築の家では、ユナの「あのお義父さん、今頃泣きながらカップラーメンでも食べてるのかしら」という高笑いが、夜の住宅街に響き渡っていた。彼女はまだ知らない。その笑顔が、明日の朝には恐怖に歪むことになるということを。
雲一つない朝だった。佐藤家の新築物件では、昨日までの雨が嘘のような爽やかな風が吹き抜け、最新式のアイランドキッチンからは高級なコーヒー豆の香りが漂っていた。
「ああ、やっぱり高いコーヒーは違うわね。あの人気のない義父がいなくなるだけで、こんなに空気が美味しくなるなんて。」
ユナはシルクのパジャマ姿で優雅にカップを口に運んでいた。そこには、彼女の両親である周一と節子が、これまた優雅に朝食を楽しんでいる。
「全くだ。あの男、最後はアパートで震えながらサインしていたな。身の程を知るというのは、ああいうことだよ。翔平、お前もこれで清々しただろう。」
周一の問いかけに、スーツに着替えたばかりの翔平が、どこか落ち着かない様子で頷いた。
「ああ、そうだけど。でもさ、親父のあの最後の顔、なんだか妙に落ち着いてたのが気になるんだよね。もっと泣き喚くかと思ったのに。」
「ふん。単なるボケの始まりだろう。それより翔平さん、昼中にあの500万円を私の口座に移しておいてね。庭の工事の着手金を払わなきゃいけないんだから。」
ユナがそう言った時、インターホンが鳴った。郵便局の書留配達だった。
「またお祝いかしら。」
ユナは浮かれた足取りで玄関へ向かった。しかし、戻ってきた彼女の顔からは、先ほどまでの余裕が消え失せていた。その手に握られていたのは、赤い帯のついた内容証明郵便の封筒だった。
「なんだそれは? 誰からだ?」
周一が軽い調子で尋ね、封筒をひったくるように奪い取って中身を確認した。次の瞬間、周一の顔が土色に変わった。
「な、なんだこれは。『負担付き贈与の契約解除に基づく、贈与金2000万円の全額返還請求』…『それに、この土地の通行料、月額10万円』…だと?」
「え、何言ってるのよ父さん。そんなの冗談に決まってるじゃない。」
ユナが横から書面を覗き込む。そこには、弁護士の印鑑と共に、法的な事実が理路整然と並べられていた。健一が援助した2000万円は「同居」を条件としたものであり、その条件を一方的に破棄した息子夫婦には返還義務があること。そして、玄関から道路に至るまでの通路部分3メートルが、依然として健一の所有物であり、強制執行の瞬間から無断立ち入りを禁止するという内容だった。
「通路の使用料が月50万? 嘘でしょう。あんな狭い隙間が。ふ、ふざけるな。こんな法外な要求が通るはずがない。健一の野郎、ついに狂ったか。」
周一は怒鳴り散らしたが、その手は小刻みに震えていた。元役員である彼は、法的な書類が持つ重みを誰よりも知っている。その時、翔平のスマートフォンが鳴り響いた。画面には、銀行ローン担当の文字。
「はい、佐藤です。…え? 担保物件の調査? …はい。…え? 所有権に瑕疵がある? 融資の継続が難しくなる可能性があるって、どういうことですか?」
翔平の叫び声が、リビングに響く。この家を建てる際、翔平は土地全体を担保に入れて住宅ローンを組んでいた。しかし、玄関先の重要な通路部分が健一の名義のまま切り離されていることが発覚し、銀行側が「担保価値が著しく低い」と判断し始めたのだ。
「そんな! それじゃあ、残りの5000万円のローンを一括返済しろって言われるのか?」
翔平の顔から血の気が引いていく。そこへ、追い打ちをかけるようにユナがヒステリックに叫んだ。
「お義父さんに電話よ! すぐに電話して、このふざけた手紙を撤回させなさい!」
翔平は震える指で私の番号をリダイヤルした。スピーカーホンにされた通話口から、呼び出し音が響く。三回、四回。そして、私が電話に出た。
「もしもし。」
私の声は、驚くほど冷静で、そして低かった。
「父さん、何なんだよ、この手紙は! いたずらにしても度が過ぎるぞ! 通行料50万なんて、頭がおかしくなったのか!」
翔平の罵倒に対し、私はしばらく沈黙を守った。その数十秒の静寂が、彼らの不安をさらに煽っていく。
「父さん、聞いてるのか? 何とか言えよ!」
「翔平。その手紙に書いてあることが、私の全ての意思だ。これからは、私の代理人である弁護士を通して話してくれ。」
「お義父さん、調子に乗らないでくれる!」
ユナが横からスマートフォンを奪い取って叫ぶ。
「2000万ごときで私たちに嫌がらせして楽しい? あなたがそんなことしたって、一円も払わないから! 裁判だって何だってすればいいじゃない。この底辺のゴミ老人が! さっさと土地の名義を翔平さんに変えなさいよ!」
彼女の罵声を、私は黙って聞いていた。心はもう、一ミリも揺れなかった。ただ、彼女たちが喚けば喚くほど、録音データに証拠が積み重なっていくだけだ。
「ユナ、もういい。君たちの言い分は、よく分かった。ただ、一つだけ言っておく。」
私は静かに口を開いた。
「今日から、その通路に柵を立てる工事を始める。許可なく私の土地に足を踏み入れた場合は、不法侵入として即座に警察へ通報する。君たちが外に出るには、隣の家の塀を乗り越えるか、二階の窓から飛び降りるしかないだろうな。…ああ、柵の工事は、もう始まっている。」
「わあ、柵? それと、銀行から連絡があっただろう。土地に瑕疵があれば、ローンは実行されない。君たちは数千万の借金を抱えたまま、道のない家に閉じ込められることになる。どうだ? その城での生活を、存分に楽しんでくれ。」
私はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。リビングには静寂が訪れた。いや、それは嵐の前の静けさだった。
「お父さん、どうしよう。あのじじ、本気だわ。本気で私たちを潰すつもりよ。」
ユナの顔が恐怖に歪む。節子はオロオロと部屋を歩き回り、周一は真っ白になった頭を抱えてソファに沈み込んだ。
「ば、バカな。あんな大人しかった健一が、こんな…こんな真似を…。」
彼らが「ごとき」と笑った2000万円と、たった3メートルの土地。それが、彼らの首を絞める最強の鎖へと変わった瞬間だった。しかし、これはまだ問題が表面化したに過ぎない。私が用意した本当の地獄は、まだこれからなのだ。窓の外では、工事車両の重いエンジン音が近づいてきていた。私が依頼した柵の設置業者が到着したのだ。
「おい、翔平、窓の外を見ろ。」
周一の声に、翔平が窓に駆け寄る。そこには、自分たちの唯一の出入り口である玄関アプローチに、無慈悲な鉄柵を打ち込もうとする作業員たちの姿があった。
「やめろ! 何をしてるんだ!」
翔平が飛び出して行こうとしたが、玄関の扉を開けた瞬間、作業員の一人が冷たく言い放った。
「おっと、そこからは佐藤健一さんの私有地です。一歩でも踏み出せば、警察を呼びますよ。あ、工事の邪魔をすれば、威力業務妨害になりますから、ご注意を。」
家の中から一歩も出られない。外からも誰も入れない。豪華な新築住宅は、一瞬にして出口のない牢獄へと変貌したのだ。ユナの悲鳴が、室内に虚しく響き渡った。
新築の城は、一瞬にして静かな牢獄へと姿を変えた。玄関アプローチを遮断するように打ち込まれた頑丈な鉄柵と、そこに張り巡らされた無機質なフェンス。それは、ユナたちが「ゴミ」と吐き捨てた一人の老人が、法という名の鎧を纏って突きつけた最後通牒だった。
「ふざけるな! どこだ、どこでもいいから出て来いと言っているんだ!」
リビングの窓を乱暴に開け放ち、ユナの父、周一が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。しかし、フェンスの向こう側に立つ作業員たちは、耳に栓でもしているかのように無表情で作業を続けるだけだった。
「お父さん、警察よ! 警察を呼んで、不法侵入で告訴だわ!」
ユナが震える手でスマートフォンを握りしめ、110番通報をしようとしたその時だった。住宅街の細い路地に、一台の黒塗りの高級セダンが静かに滑り込んできた。作業員たちが一斉に手を止め、深く頭を下げる。車から降りてきたのは、仕立てのいいスリーピースのスーツを着こなした、白髪混じりの初老の男性だった。その立ち振る舞いには、一目で只者ではないと思わせる、圧倒的な品格が漂っている。
「誰だ? あいつは。健一が雇ったチンピラか。」
周一が今にも飛び出しそうな様子で呟く。ユナは窓から身を乗り出し、その男性に向かってありったけの罵声を込めて叫んだ。
「ちょっと、あなた! あの老いぼれの差し金ね! くだらない嫌がらせはやめなさいよ! こんなことして、後でどれだけの損害賠償を請求されるか、分かってるの? この底辺老人の手先が!」
男性はゆっくりと眼鏡をかけ直し、ユナの方を見上げた。その目は冷徹で、まるで道端に落ちている石ころを見るような、徹底した無関心に満ちていた。
「損害賠償ですか? それは興味深い言葉だ。…佐藤翔平さんはいらっしゃいますか?」
男性の声は、騒がしい現場に驚くほどよく通った。翔平がおずおずと周一の背後から顔を出す。
「僕ですが…あなたは?」
「私は、佐藤健一さんの代理人を務めております、高木と申します。健一さんがかつて勤務していた会社の顧問も兼ねております。」
「弁護士…?」
翔平の顔が引きつった。高木という名前は、周一も心当たりがあったのか、急に顔色を変えた。国内でも有数の大手企業を相手に、数々の訴訟を勝ち取ってきた伝説的な弁護士の名だったからだ。
「健一さんからは、今回の件、全てを任されておりましてね。まずは、こちらの書類をご確認いただきたい。先ほどの内容証明に付け加える、重要な追加事項です。」
高木弁護士は、フェンスの隙間から一通の書類を差し出した。翔平が震える手でそれを受け取る。そこには、驚愕の事実が記されていた。
「これ…何だよ。『不当利得返還請求に加え、詐欺による財産取得に対する刑事告訴の検討』…。」
「ええ。健一さんが差し出した2000万円。そして、無理やり書かせたという500万円の譲渡。これらは、あなた方が最初から健一を扶養する意思がないにも関わらず、そのふりをして金銭を騙し取った『詐欺罪』に該当する可能性がある。健一さんの手元には、その証拠となる録音データが膨大に残されていましてね。」
高木弁護士の言葉に、ユナがヒステリックに叫び返す。
「詐欺? 何言ってるのよ! あの金は、親が子供に勝手にあげたものでしょう! もらったものをどう使おうと、私たちの勝手じゃない!」
「いいえ、ユナさん。それは大きな間違いだ。」
高木弁護士は冷たく言い放った。
「健一さんが交わした『負担付き贈与契約』は、法的に非常に強力なものです。条件が守られない場合、その贈与は遡って無効となる。つまり、あなた方が今使っている2000万円は、一円のこらず健一さんの所有物に戻る。それを勝手に消費することは、業務上横領、あるいは窃盗に近い行為と見なされるのですよ。」
ユナの言葉が止まった。高木弁護士はさらに続ける。
「さらに、この土地の問題です。健一さんは、この土地の持ち主として、接道部分の通行を一切許可しない権利がある。現在工事中のフェンスは、完全に健一さんの私有地内に収まっている。あなた方がこのフェンスを破壊したり、乗り越えたりすれば、その瞬間に器物損壊及び住居侵入罪で現行犯逮捕となります。」
「女! それじゃあ、私たちはどうやって生活すればいいんだ? 仕事にも行けない、買い物にも行けないじゃないか!」
翔平が絶望的な声を上げる。高木弁護士は、ふっと口元を上げた。
「それは、あなた方が考えるべきことです。健一さんを『粗大ゴミ』呼ばわりし、『2000万ごとき』と笑った時、あなた方は自らその助けを拒絶したのですから。」
周一が窓枠を叩いて怒鳴った。
「ふざけるな! 健一を呼べ! 直接話せば、あいつもこんな無茶は…」
「健一さんは、現在、静かな場所で療養中です。あなた方との直接の接触は、精神的苦痛が大きすぎるため、医師の診断書に基づき、一切禁じております。さて、ここからが本題です。」
高木弁護士は鞄から、もう一枚別の書類を取り出した。それは、これまでの淡々とした警告とは一線を画す、真の意味で破滅を告げる内容だった。
「健一さんは、長年、会社にある特許を預けておられた。その契約が更新されるタイミングで、彼は膨大なロイヤリティを受け取ることになったのです。その額、数億円。」
翔平とユナの口が、ポカンと開いた。周一と節子も、信じられないという表情で固まっている。
「健一さんは、その資金を使い、この隣接する土地一体を、全て買い上げました。つまり、あなた方の家を取り囲む土地は、今や全て健一さんの持ち物です。これから、何が起こるか分かりますか?」
高木弁護士の目は、獲物を追い詰めた猛禽類のように鋭く光った。
「健一さんは、この家を完全に孤立させる計画です。ガス、水道、電気の引き込み管。これらは、全て新たに健一さんが所有することになった土地の下を通っている。管理権者として、老朽化の点検を理由に供給の一時停止を要請する準備も進めております。」
「うそ…!」
ユナが悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。電気も水も通らない新築。外に出ることもできず、助けを呼ぶこともできない、豪華な廃墟。
「そ、そんな父さんが、あの父さんが、そこまでするはずがない…。」
翔平が虚空を睨み、ブツブツと呟く。しかし、現実は容赦なく彼らを打ちのめしていく。
「健一さんは、おっしゃっていましたよ。『2000万ごときで、人生が変わることもある。それを教えてくれたのは、翔平、お前たちだ』とな。」
高木弁護士はそう言い残すと、優雅に一礼し、再び黒塗りのセダンに乗り込んだ。エンジン音が遠ざかり、再び静寂が訪れる。だが、その静寂は、先ほどまでの絶望をさらに深めるものだった。リビングの豪華なシャンデリアが、一瞬、チカチカと点滅したように見えた。
「ねえ、今の何? …電気、消えないわよね? 消えるわけないわよね?」
ユナの震える声が、広いリビングに反響する。しかし、誰もそれに答えることはできなかった。彼らが信じていた幸せな未来が、足元から崩れ落ちていく音が聞こえる。それは、彼らが最も軽蔑していた「誠実さ」という名の楔が、彼らの人生を押し潰し始めた合図だった。
新築の城の中は、異様な熱気に包まれていた。エアコンは効いているはずなのに、住人たちの背中には嫌な汗がじっとりと張り付いている。玄関の外に張り巡らされた無機質なフェンスは、ただの鉄柵ではない。それは、彼らの傲慢が作り上げた因果応報という名の檻だった。
「どういうことよ? これ、どういうことなのよ!」
ユナがリビングの中を、まるで檻に閉じ込められた獣のように行ったり来たりしている。手元のスマートフォンは、先ほどから何度も私の番号を呼び出しているが、繋がることはない。私は全ての着信を拒否し、ただ静寂を貫いている。この沈黙こそが、今の彼らにとって何よりの恐怖であることを、私は確信していた。
「翔平、あなた、何とか言いなさいよ! あなたの父親でしょう! あんな大人しい、地味で不器用なじじいが、こんな恐ろしいこと考えるわけないじゃない! 誰かにそそのかされてるに決まってるわ!」
ユナの罵倒に、ソファに力なく座り込んでいた翔平が、弱々しく顔を上げた。
「そそのかされてる…違うよ、ユナ。父さんは、ずっとこうなることを分かってたんだ。僕たちが裏切ることも、2000万円を『ごとき』と笑うことも。あの人は、工場の管理職だったんだ。トラブルが起きる前に手を打つ。それが、父さんのやり方だったんだよ。」
「うるさい! 負け犬みたいなこと言わないで! お父さん、あなたからも何とか言ってくださいよ! 元役員なんでしょう? こんな不当な嫌がらせ、法律でパパッと解決できるはずじゃない!」
ユナに詰め寄られた周一は、半狂乱で何度も額の汗を拭った。先ほどまで保っていたエリートの風格はどこへやら。その表情には、隠しきれない焦りが浮かんでいる。
「そ、それが、そう簡単にはいかんのだ。あの高木という弁護士、私も現役時代に名前を聞いたことがある。一度狙った獲物は逃さない、冷徹な男だ。あいつが動いているということは、法的な隙は一切ないということだ。…それより翔平君、さっきの銀行からの電話、もう一度詳しく教えてくれ。」
翔平は震える手でメモ帳を指差した。
「融資の実行条件である担保物件の完全性が、損なわれたと言われました。玄関先の土地が第三者、つまり父さんの名義のままで、しかも通行拒否の通知が出ている以上、この物件の資産価値はゼロに近いと。このままでは、住宅ローンの全額一括返済を求めざるを得ないと…。」
「一括返済? 5000万円を、今すぐ返せってこと!?」
ユナの悲鳴が、リビングに響き渡った。彼女たちが私の2000万円を「御祝儀」と呼び、自分たちの理想を詰め込んだこの家。その実態は、借金という名の砂の上に立っていたのだ。
「そんなの無理よ! 私のブランドバッグだって、このソファだって、全部ローンなのよ! 500万円の売却代金だって、もう庭の業者に半分払っちゃったし! 翔平、何とかしてよ! お義父さんに、土下座でも何でもして、許してもらいなさいよ!」
「できるわけないだろう! 昨日の今ごろ、あんなにひどいことを言っておいて! 『粗大ゴミ』とか『無視』とか言ったのは、君じゃないか!」
「なんですって! あなただって、『親子の縁を切った』って言ったじゃない! どっちもどっちよ!」
ついに夫婦の間で、責任の押し付け合いが始まった。昨日まで「共通の敵」を叩くことで結ばれていた絆は、金という現実的な問題の前に、あっけなく崩れ去っていく。その時、家の外で「ピンポーン」と間の抜けたインターホンの音が鳴った。宅配便の配達員だった。
「お荷物です。…あれ? 何ですかこれ? 入れないんですけど。」
フェンスの向こう側で、配達員が困惑した声を上げている。ユナが窓から身を乗り出し、必死に叫んだ。
「ちょっと! そのフェンス、無理やり乗り越えて入ってきてよ! 大事な荷物なのよ!」
「ええ…無理ですよ。これ、トゲトゲがついてるし。それに『私有地につき立ち入り禁止』って看板が出てますよ。警察呼ばれたら嫌なんで、持ち帰りますね。」
「待ちなさいよ! 逃げるの!? この役立たず!」
ユナの罵声を背に、配達員は足早に去っていった。それは、彼らが社会から完全に切り離されたことを象徴する出来事だった。
「ねえ、水が出ないわ…。」
キッチンへ向かった節子が、かすれた声で言った。蛇口をいくらひねっても、そこから出てくるのは虚しい空気の音だけだった。
「電気も、心なしか暗くなってない?」
リビングの照明が、まるで寿命を迎えたかのように弱々しく点滅している。高木弁護士の予告通り、インフラの供給が制限され始めたのだ。最新のオール電化住宅。それは、電気が止まれば料理も作れず、風呂にも入れず、トイレすら流せない、巨大な箱に過ぎない。
「嘘よ、嘘よ! こんなの悪夢だわ!」
ユナは床に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。その豪華なネイルが、私がこだわって選んだ木材のフローリングを虚しく掻きむしる。
「周一さん、私たち、どうなるの? 老後の資金、全部この家に注ぎ込んじゃったのよ。マンションも引き払っちゃったし、行くところなんてないわよ!」
節子が夫の肩を揺さぶるが、周一はただ一点を見つめたまま、ブツブツと独り言を繰り返している。
「2000万ごとき…2000万ごとき…。まさか、あの男が、そんな特許料を持っていたなんて…。そんなもの、聞いていない…。聞いていれば、もっと違う対応を…。」
彼らの後悔は、私への謝罪ではない。もっとうまく立ち回って、もっと金を絞り取ればよかったという、見苦しい強欲の残滓だ。その浅ましさが、私をさらに冷徹にさせた。私は今、アパートの窓から遠くに見えるあの新築の家の屋根を眺めている。手元には、もう一通の書類。それは、彼らがまだ気づいていない、この土地に関する最大の真実への鍵だ。
さあ、焦ればいい。喚けばいい。君たちが踏みにじった私の人生の重さを、その身を持って味わうがいい。私は静かにスマートフォンの電源を切った。彼らの元には、さらなる絶望を運ぶ、意外な人物が現れる。それは、ユナが最も恐れ、そして最も見下していた人物だった。
部屋の中に夕闇が迫っていた。しかし、私の心はかつてないほど晴れやかだった。復讐という名の劇は、いよいよ中盤の山場を迎えようとしていた。
新築の家の中は、夕闇と共に急速にその輝きを失っていった。電気が止まり、リビングの豪華なシャンデリアは冷たいガラスの塊と化している。ユナはスマートフォンのライトを頼りに、キッチンで絶叫していた。
「ちょっと、なんで水が出ないのよ! トイレも流れないじゃない! 最悪、本当に最悪だわ!」
ユナの怒声が響く中、翔平は暗闇の中で頭を抱えて座り込んでいた。彼のスマートフォンには、先ほどから銀行やローン会社からの督促メールが次々と届いている。それらは全て、この家という城が「負の資産」であったことを告げる死刑宣告だった。そこへ、玄関のチャイムではなく、フェンスを叩く硬い音が響いた。コンコンと、規則正しく、しかし威圧的な音だ。
「誰よ? またあの弁護士?」
ユナが窓を開け、ライトを外に向ける。そこには、先ほどの高木弁護士とは別の、キチッとしたスーツ姿の男性が立っていた。その顔を見た瞬間、翔平が息を飲んだ。
「田、田中支店長…。」
それは、翔平が住宅ローンの融資を受けた銀行の支店長、田中氏だった。普段は雲の上の存在で、平社員の翔平が直接言葉を交わすことなどありえない人物だ。ユナは相手が誰かも分からず、いつもの調子で噛みついた。
「何よ、あんた? こんな時間にフェンスを叩くなんて、失礼でしょう! 警察呼ぶわよ!」
「言うな! やめろ! この方は…!」
翔平が静止するのを無視し、田中支店長は冷静な声で告げた。
「佐藤翔平さん、緊急でお伝えしなければならないことがあり、直接伺いました。あなたが提出したローンの申請書類に、重大な虚偽、あるいは隠蔽があった疑いが出ています。」
「虚偽? 何のことですか? そんなはずは…。」
「この家の敷地、その中心を通る通路部分が、第三者の名義であること。そして、その名義人である佐藤健一さんから、土地の使用許可が取り消されたこと。これらは、融資の前提条件を根本から覆す事態です。それだけではありません。あなたが提出した自己資金証明の2000万円。これについても、税務当局から重大な指摘が入っております。」
田中支店長の言葉に、背後で聞いていたユナの父、周一が顔色を変えて身を乗り出した。
「税務当局? どういうことだ? あれは単なる親からの援助だろう!」
「いいえ。佐藤健一さんの代理人から提出された資料によれば、あの2000万円は『負担付き贈与』であり、その条件が履行されなかったため、契約は遡って解除されています。つまり、その2000万円は贈与ではなく、現在では不当に占有している他人の資産となっている。これを自己資金として申告してローンを組んだ行為は、銀行に対する詐欺行為に該当する可能性があるのです。」
「さ、詐欺…。」
翔平の足が、ガクガクと震え始める。田中支店長は、さらに追い打ちをかけるように手元の書類をライトで照らした。
「加えて、健一さんから提出された、もう一枚の書類。これこそが、あなた方が見落としていた最大の真実です。この土地の売買契約、及び建物の建築確認申請。これら全てに、健一さんはある特約を盛り込んでいました。『この家は、健一さんが全額を支払った土地と、彼の信用によって成り立っている。もし彼に対する背信行為があった場合、土地の所有権は即座に健一さんに復帰し、建物は無権限の工作物として処分、つまり解体撤去されることに同意する』という一筆です。翔平さん、あなた、契約書の端っこに小さく記載されていたこの情報に、気づいていましたか?」
翔平は記憶の底を必死に探った。家を建てる際、浮かれていた彼は「父さんが全部手続きしてくれるなら安心だ」と、内容も確認せずに山のような書類に判を押し続けていたのだ。私が長年の経験から用意していた、最悪の事態に備えた保険。それが今、鋭い牙となって息子の首元に突きつけられた。
「うう、嘘よ! 書いた覚えがない! せっかく建てたこの家を、壊すっていうの!?」
ユナが狂ったように叫ぶ。田中支店長は、憐れみの混じった目で彼女を見た。
「健一さんは、すでにこの家の解体費用の見積もりも済ませておられます。銀行としても、担保価値がなくなった以上、ローンの全額一括返済を求めざるを得ません。期限は、来週の月曜日までです。」
「来週!? 5000万円を、あと数日で払えっていうのか!?」
周一が絶叫する。田中支店長は、表情を変えない。
「払えないのであれば、法的手段に移行します。この家は差し押さえの対象となり、更地に戻されるでしょう。健一さんは、あなた方に一円の利益も残さないつもりです。」
店長が去った後、リビングには耐え難い沈黙が流れた。窓の外では、工事現場の作業員たちがフェンスの周りにさらに高い目隠しの板を張り始めている。それは、彼らの見苦しい争いと絶望を、世間から遮断するかのような光景だった。
「翔平、あんた、何てことをしてくれたのよ!」
ユナが翔平の胸ぐらを掴んでわめく。
「私の人生、どうしてくれるのよ! こんなはずじゃなかった! 豪華な家で、素敵な家具に囲まれて、みんなに自慢して…、それが全部、あのじじいの手のひらの上だったなんて!」
「僕だって、知らなかったんだよ! 父さんが、そんな…あんな大人しかった父さんが、こんな罠を仕掛けてるなんて!」
「罠じゃないわよ! あなたが間抜けだからでしょう! 『2000万ごときで偉そうにするな』なんて、私が言った時に止めてくれればよかったじゃない!」
「君だって、ノリノリで言ってたじゃないか! 『ゴミ』だとか『虫』だとか!」
暗闇の中、夫婦の罵り合いはさらに見苦しさを増していく。しかし、彼らが気づいていない真実が、まだもう一つあった。彼らが「ごとき」と切り捨てた2000万円。それは、私が亡き妻・美代と翔平に残してやろうと誓い合った、愛の証でもあったのだ。その愛を踏みにじった報いが、どれほど残酷な結末を招くのか。
私はアパートのベランダから、月明かりに照らされた新築の屋根を見つめていた。手元には、弁護士から届いたばかりのメッセージが表示されている。
「第一段階、完了しました。彼らは今、完全に孤立しています。次は、ユナさんのご両親について、例の件を進めてよろしいでしょうか?」
私は、一言だけ返信した。
「全て、計画通りに。」
敵の顔面は、まだ終わらない。これから彼らは、金だけでなく、これまで築き上げてきた偽りのプライドさえも粉々に砕かれることになる。真実が見えた時、人は救われるのではない。救いのない絶望に、ただ立ち尽くすだけなのだ。
真っ暗なリビングに、スマートフォンの青白い光だけが数点、漂っている。電気も水も止まり、最新式のシステムキッチンは、ただの冷たい鉄の塊と化していた。ユナは床に座り込み、狂ったように画面をスクロールしている。
「嘘よ、嘘に決まってるわ。お父さん、何とか言ってよ! あの高木っていう弁護士、SNSで私たちのこと晒してるんじゃないでしょうね!」
ユナの父、周一は暗闇の中で、ぐったりとソファに沈み込んでいた。かつて大手企業の役員だったというプライドは、今は見る影もない。彼のスマートフォンにも、かつての同僚や部下たちから、信じられないようなメッセージが次々と届いていた。
「周一さん、どうしたの? さっきから顔色が真っ青よ。」
妻の節子が怯えた声で尋ねるが、周一はガタガタと膝を震わせるばかりだ。その時、またしてもフェンスを叩く大きな音が響いた。今度は、先ほどの銀行員とは違う。もっと荒々しく、怒気を含んだ叩き方だった。
「おい、佐藤! 開けろ! 佐藤周一! そこにいるのは分かってるんだぞ!」
窓の外から聞こえてくる怒声に、周一は「ひっ」と短い悲鳴を上げて、テーブルの下に隠れようとした。ユナが不審に思い、窓の隙間から外を覗き込む。そこには、スーツを乱れさせた数人の男たちが、懐中電灯で家を照らしながら立っていた。
「誰よ、あの人たち。お父さんの知り合い?」
「見るな! 窓を開けるな!」
周一が静止するのも聞かず、ユナは「不法侵入よ!」と喚きながら窓を開けて怒鳴った。
「ちょっと! 夜中に騒いで、何なのよ! 私たちのプライバシーを侵害する気!? 警察呼ぶわよ!」
すると、男たちの一人が光をユナの顔に当て、冷酷な笑みを浮かべた。
「だと笑わせるな。俺たちは、佐藤周一が役員時代に手をつけた裏金の件で来たんだよ! 退職金で全額返すって約束を信じて待ってたんだが、どうやらこの豪華な新築に、全部使い込んだらしいな。」
「え…。」
ユナの手から、スマートフォンが滑り落ちた。翔平も、信じられないという表情で周一を凝視する。
「お義父さん、裏金って、どういうことですか? あなた、円満退職して、十分な蓄えがあるんじゃなかったんですか?」
周一は顔を覆い、すすり泣くような声で白状し始めた。
「すまん…。実は、投資に失敗して、会社の金に手をつけてしまったんだ。解雇だけは勘弁してもらう代わりに、退職金と貯金で補填すると約束した。だが、それでは生活費が足りなくて…。ユナに、健一さんから2000万円を引き出させ、土地や家を手に入れさせたのは…、私なんだ…。」
「お父さん、あなたが、私を…。」
ユナの声が震える。彼女が私に対して「2000万ごとき」と言い放った、あの傲慢な態度の裏には、実の父親による泥棒にも等しい身勝手な計画があったのだ。
「なんだよ、それ! じゃあ、ユナの実家も一円も持ってなかったのか! この家具も、あの車も、全部親父の金と借金で買ったものなのかよ!」
翔平が周一の胸ぐらを掴んでわめく。暗闇の中、自分たちが信じていた輝かしい家族の絆が、単なる「金銭目当ての共犯関係」でしかなかったことが露呈していく。
「ふざけるな! 結局、俺の親父を追い出したのは、お前らが金を独り占めしたかったからじゃないか! なのに、お前ら自身も一文無しだったなんて、間抜けすぎるだろう!」
「あなたこそ、何よ! 『お義父さんを説得して、もっと金を引き出せる』って言ったのは、あなたでしょう! 結局、みんな、あのじいさんの金が目当てだったんじゃない!」
ユナと翔平、そして周一と節子。四人の醜い争いが、真っ暗な家の中で激しくぶつかり合う。もはや、そこには親子も夫婦もなかった。残ったのは、剥き出しの自己利益と、それが満たされない焦りによる憎悪だけだ。外の男たちは、さらにフェンスを激しく揺さぶり始めた。
「おい! 逃げられると思うなよ! 明日の朝一番で、強制執行の手続きに入るからな! この家にある動産は、全部差し押さえるぞ!」
「いやあ! 私のバッグは! 私の宝石は!」
ユナが絶叫し、クローゼットへと駆け出す。しかし、電気の通らない部屋では足元が見えず、彼女は私がこだわって選んだ階段の手すりに激しく腰を打ち付け、のたうち回った。
「痛い、痛いわよ! 誰か、救急車を! 誰か、助けて!」
だが、誰も動こうとはしない。窓の外でフェンスを叩き続ける男たちに怯え、周一はテーブルの下で縮こまり、節子はただ「どうして、どうしてこんなことに…」と呪文のように繰り返している。混乱の極み。彼らが成功者の証として手に入れたはずの新築住宅は、今やそれぞれの嘘と罪とが吹き溜まった、ゴミ溜めのようになっていた。
私はアパートの一室で、高木弁護士から送られてくる現地の状況報告を聞いていた。ユナたちの阿鼻叫喚が、ボイスレコーダー越しに聞こえてくる。
「健一さん、どうされますか? 周一さんの件は、警察に情報を流せば、すぐにでも逮捕されるでしょう。ユナさんの資産隠しも、全て把握しています。」
高木弁護士の冷静な問いに、私は窓の外を見つめたまま答えた。
「まだだ。まだ、彼らには見えていないものがある。…自分たちが、本当は何を失ったのか、ということだよ。」
私はかつて、美代が大切にしていた小さな庭の家の模型を手に取った。質素だったが、笑い声が耐えなかったあの家。彼らが「ごとき」と嘲笑った2000万円の本当の価値は、通帳の数字ではなく、そこに込められた30年の歳月だった。それを理解させるまで、私の復讐は終わらない。
「高木さん。明日の朝、あの場所へ向かいます。彼らに、最後のプレゼントを。」
私は電話を切ると、机の上に置かれた一通の封筒を手に取った。そこには、この物語を完結させる、最大の事実が記されている。夜が明ければ、彼らは知ることになる。自分たちが住んでいた場所が、どれほど冷酷で慈悲のない鏡であったかを。
朝靄が立ち込める中、私は一台のタクシーで、あの新築住宅へと向かっていた。隣には高木弁護士、そしてもう一人、白髪を綺麗に整えた初老の紳士が座っている。この紳士こそ、私が長年務め上げた会社の創業者であり、現在は会長を務めている王光氏だ。彼は私の特許技術を高く評価し、家族のように目をかけてくれていた人物でもある。
「健一君、いよいよだね。君が守り抜いた誇りと、美代さんへの思い。それを踏みにじった者たちに、現実を教えてあげようじゃないか。」
「はい、会長。お忙しい中をお付き合いいただき、ありがとうございます。」
タクシーが現場に到着すると、そこには異様な光景が広がっていた。昨日設置された高い目隠しフェンスの周りには、周一の裏金問題を聞きつけた債権者や、状況を察した近隣住民が、遠巻きに様子を伺っている。豪邸だったはずの建物は、電気が止まってカーテンも締め切られ、まるで巨大な墓標のように沈黙していた。私がフェンスの鍵を開け、敷地内に入ると、玄関の扉が勢いよく開いた。中から飛び出してきたのは、髪を振り乱し、昨夜の豪華な部屋着が汚れにまみれたユナだった。
「お義父さん! お義父さん、お願い、助けて! 水が出ないの! 電気もつかないの! 喧太が怖がって、泣き止まないのよ!」
ユナは私の足元にすがりつこうとしたが、高木弁護士がそれを静かに制した。その背後から、憔悴し切った翔平と、震える周一、節子の夫婦が生気のない顔をして出てくる。
「父さん、ごめん。僕が悪かった。2000万円なんて、御祝儀だなんて思ってない。あれは、父さんが一生懸命貯めてくれた、大切なお金だって。今なら分かるんだ。だから、このフェンスをどけてくれ。銀行に電話して、差し押さえを止めてくれ。」
翔平の声は、恐怖で裏返っていた。私は、すがりつく息子を冷たい目で見つめ、一歩も動かなかった。
「翔平。君は今、『2000万円の大切さが分かった』と言ったな。だが、それは間違いだ。君が今感じているのは、お金の重みではなく、お金がなくなったことへの恐怖に過ぎない。」
「そんなことない! 本当に反省してるんだ! ユナの両親だって、すぐにこの家から出て行ってもらうから!」
「健一さん、私からも謝る! 私が悪かった! 裏金の件も、君の土地を奪おうとしたことも、全て私の身勝手だ! この通りだ!」
周一が地面に額を擦りつける。だが、その芝居じみた謝罪の中に、真実の謝罪の欠片も感じられなかった。彼らは、今自分たちの首が締まっているから喚いているだけだ。私の尊厳を踏みにじり、妻の形見を泥で塗固めたことへの痛みなど、一かけらも持ち合わせていない。私はゆっくりと鞄の中から、一通のラミネート加工された書類を取り出した。それこそが、この家を建てる際に、私が翔平にサインさせた、あの一枚の書類の正体だった。
「翔平、ユナ。君たちはこの家が自分のものだと、思い込んでいたようだな。だが、これがその勘違いの結着点だ。」
私はその書類を、彼らに突きつけた。そこには「不動産信託契約及び譲渡担保契約書」という文字が並んでいた。
「な、何を? これ…。」
ユナが書類を奪い取り、震える手で読み進める。高木弁護士が補足するように、淡々とした声で説明を始めた。
「この書類は、健一さんが差し出した2000万円の援助の際、返済が滞った場合、あるいは贈与の条件である扶養義務が履行されなかった場合、建物の所有権は即座に健一に移転し、なおかつ土地の利用権も消滅するという契約です。そして、最大の特徴はここです。」
弁護士が書類の一箇所を指した。
「この契約は、銀行の担保権よりも優先されるよう、事前に権利保全の手続きがなされています。つまり、翔平さんが銀行から借りた5000万円。その担保となっていたこの家は、契約違反が確定した機能の時点で、すでに法的に健一さんの所有物に変更されているのです。」
「え…。」
翔平の顔から、全ての表情が消えた。
「つまり、銀行が差し押さえようとしているのは、もう君たちの家ではない。私の家だ。銀行に対する債務だけが君たちに残され、資産としての家は、すでに私の手元にあるんだよ。」
「そんな…、それじゃあ、僕たちは…。」
「そうだ。君たちは、今、私の家を不法に占拠している部害者だ。銀行のローン5000万円は、家と担保を失った状態で、無担保の借金として君たち個人に重くのしかかる。一方で、この土地も、この建物も、全て私の自由になる。」
私はさらに一歩踏み出し、ユナの目を見つめた。
「ユナ。君は言ったね。『2000万ごときで偉そうにするな』と。だが、君たちが今絶望している、その5000万円の借金。それを返すために、君はこれから何十年、何百年の時間を費やすつもりかな? ああ、ユナ。」
ユナは声も出せず、口をパクパクとさせている。隣で聞いていた王光会長が、重厚な声で言葉を添えた。
「健一君、この土地一体は、私の会社が次の開発プロジェクトのために買い取らせてもらうことに決まったよ。もちろん、不法占拠者が立ち退いた後の、更地としてね。」
その言葉は、彼らの最後の希望を完全に打ち砕いた。更地にされるということは、この最新式でこだわり抜いた新築住宅を、残骸もなく取り壊すということだ。自分たちの欲望の塊だった城が、ゴミとして処理される。
「壊すの? …私たちが選んだキッチンも、あのソファも、全部壊すっていうの!?」
「そうだ。私にとっては、君たちの強欲な気配が染みついたこの場所は、不浄でしかない。美代の思いでは、私の心の中にあればいい。この見苦しい建物は、もう必要ないんだ。」
私は静かに、しかし断固とした口調で宣言した。
「今から一時間以内に、全ての身の回り品を持って出ていけ。一分でも過ぎれば、警察を呼んで強制排除させる。もちろん、私の金で買った家具や家電、ブランド品を持っていくことは許さない。それは、全て私の資産だ。」
「そんな…、裸一貫で放り出すっていうの!?」
節子が叫ぶが、私は無視した。
「ああ、言い忘れていたが、翔平。君の会社には、王光会長から君の所業についての報告が行っている。親を騙して金を引き出し、住む場所を奪った人間を、信用を大義とするあの会社が雇い続けるとは思えないがね。」
翔平は、その場に崩れ落ちた。仕事も、家も、財産も、全てを失った。残されたのは、一生かかっても返しきれない巨額の借金と、互いを憎み合うだけの見苦しい家族関係だけだ。
「さあ、時間が惜しい。早く荷物をまとめるんだ。」
私が時計を見た、その瞬間、ユナが逆上した。
「ふざけないでよ! こんなの、間違ってるわ! 詐欺よ! お義父さんが、私たちを嵌めたのよ! お父さん、お母さん、何とかしてよ!」
ユナは両親にすがったが、周一と節子は、すでに自分たちの身を守るために玄関から逃げ出そうとしていた。
「私たちには、関係ないわ! ユナ、あんたたちが勝手にやったことでしょう! 健一さんを追い出したのは、あんたたち夫婦よ!」
節子が叫び、周一は黙って目をそらした。家族の崩壊。それは、あまりにもあっけなく、無惨なものだった。私は彼らの醜い争いを背に、静かに家の外へと歩き出した。
鞄の中にある、たった一枚の書類。それが、これほどまでに残酷で、しかし正しい結末を連れてくるとは。彼らには、想像もできなかっただろう。最大の事実は、彼らが手に入れたと思った全てが、最初から私の慈悲の上に成り立っていたという点だった。その慈悲を捨てた時、彼らに残るものは、何一つなかったのだ。朝日が昇り、新築の壁を虚しく照らしている。逆転の劇は、いよいよクライマックスへと向かう。
約束の一時間が経過した。乾いた空気の中に、一台また一台と、物々しい大型車両が新築の家の前に停車する。それは引っ越し業者ではなく、重機を積んだトレーラーと、作業着に身を包んだ屈強な男たちを載せたトラックだった。
「時間だ。出て行ってもらおうか。」
私の冷徹な声が、薄暗い玄関ホールに響く。ユナは高級ブランドのバッグと宝石箱を必死に抱え、狂ったような目をして私を睨みつけた。
「いやよ! 誰が、出ていくもんですか! ここは、私の家よ! 私が選んだ壁紙! 私が選んだキッチン! 全部、私のものなのよ! 触るんじゃないわよ! このドブネズミ!」
彼女の狂騒は、もはや恐怖を打ち消すための空虚な叫びに過ぎなかった。傍らでは、翔平が魂の抜けたような顔で、玄関の上がり框に腰掛けている。その背後で、ユナの両親は自分たちの身の回り品だけを小さな鞄に詰め、娘を見捨てて逃げ出すタイミングを測っていた。その時、フェンスの入り口に、制服を着た二人の男が現れた。高木弁護士が呼び寄せていた、地元警察署の生活安全課の人間だ。
「佐藤翔平さん、及びユナさんですね。所有者である佐藤健一さんから、不法占拠による退去要請が出ています。速やかに立ち退かない場合は、強制的に排除することになります。また、ユナさんの父親、周一さん。あなたには、前職での業務上横領の疑いで、同行を求めたいという連絡が来ています。」
「な、なに…!?」
周一の顔色が、土色から一気に真っ白に変わった。警察の登場に、現場の空気は一変した。これが、私が高木弁護士を通じて進めていた、正義の執行の真髄の姿だ。彼らが隠蔽してきた罪科が、白日のもとに晒された瞬間だった。
「お父さん、嘘でしょう? 横領なんて、そんなの、嘘よね!」
ユナが叫ぶが、周一は警察官の姿を見るなり、崩れ落ちるように膝をついた。プライドも、虚栄も、全てが剥がれ落ちた老いた男の姿が、そこにあった。
「さあ、ユナ。そのバッグを置きなさい。」
私が静かに命じると、ユナはさらに強くバッグを抱きしめた。
「いやよ! これだって、一つ100万円以上するのよ! これさえあれば、私はまだやり直せるわ!」
「いいえ。それはできない。そのバッグも、その宝石も、元をたどれば、私が援助した2000万円から捻り出されたものだ。『負担付き贈与』の契約解除に伴い、その資金で購入された全ての物品は、返還義務の対象となる。高木さん。」
高木弁護士が、一通の目録を提示した。
「裁判所からの保全処分が決定しています。この家にある、資産価値のある動産は、全て差し押さえの対象です。あなたが手に持っているものも、全てです。」
「ふざけないでよ! 何なのよ、あんたたちは! 2000万ごときで、人の人生をめちゃくちゃにして、楽しいの!? この悪魔! 呪ってやるわ!」
ユナが私に向かって突進しようとしたが、警察官がそれを制した。彼女の叫び声が近所に響き渡り、遠巻きに見ていた住民たちが、軽蔑の目差しを向けている。かつて彼女が自慢の城として見せびらかしたこの場所で、彼女は今、最も見苦しい姿を晒していた。私は彼女の罵詈雑言を黙って聞き流した。怒りも、悲しみも、もう湧いてこない。ただ、目の前のゴミを片付ける清掃員のような、淡々とした心境だった。
「翔平。最後にもう一度だけ聞く。君は、自分のしたことが、どれほどのことか、本当に理解しているか?」
私の問いに、翔平は顔を上げず、ただ震える声で答えた。
「父さん…、ごめん。僕は、ユナに気に入られたくて、楽をしたくて…。父さんの気持ちも、母さんと二人で築いてきた思いも、踏みにじった。…死んで、お詫びするしかないのかな。」
「死んでお詫び? …甘えるな。君に残されたのは、死ぬよりも辛い、返済という現実だ。銀行への無担保ローンに、1000万円。そして、私への返還金に、2000万円。利息を含めれば、一億円近い負債が、君一人にのしかかる。仕事も失い、社会的信用も失った君が、それをどうやって返していくのか。一生をかけて、その苦しみの中で生きていくがいい。それが、君が選んだ道の果てだ。」
「いち…、一億…。そんなの、無理だよ、父さん…。」
翔平は、子供のように泣きじゃくった。だが、その涙に同情するものは、一人もいない。ユナは警察官に抱えられながら、なおも私を汚い言葉でののしり続けていたが、やがて力尽きたのか、玄関先にへたり込んだ。
「さて。皆さん、退去が完了したとみなします。」
私は、同行していた作業員たちに合図を送った。すると、待機していた重機が、轟音を立ててエンジンを始動させた。
「え…? 何言って…? 何をするの…?」
ユナが、呆然とした表情で重機を見上げる。衝撃の逆転劇は、ここからが本番だった。
「私が言っただろう。この家は、更地に戻すと。これから、解体作業を開始する。」
「正気!? まだ建てて数ヶ月よ! 5000万円もかかった家を、壊すっていうの!?」
「ああ。5000万だろうが、一億だろうが、私にとっては、君たちの強欲が詰まった、不快なゴミの山に過ぎない。美代が愛したこの土地を浄化するために必要な儀式だ。」
作業員の一人が、大きなバールを玄関の壁に突き立てた。ベリベリという、耳を劈くような破壊音が響き渡る。最新式の断熱材が剥き出しになり、ユナがこだわったという大理石のタイルが、粉々になって砕け散った。
「あああっ! 私の家が! 私の人生が!」
ユナの悲鳴が、重機の爆音に掻き消されていく。目の前で、自分たちの欲望の象徴が壊されていく光景は、彼らにとってどんな拷問よりも残酷な罰となった。私はその光景を、ただ黙って見つめていた。砕け散る壁、崩れ落ちる天井。それは、私が美代と一緒に夢見た未来が、偽物によって汚された過去を清算する音だった。
「健一君、これで良かったんだね。」
王光会長が、私の肩を優しく叩いた。
「はい。これで、ようやく本当の終わりが始まります。」
私は、家から吐き出された翔平が警察車両に載せられ、あるいは路肩に迷うように歩き出す姿を、冷たい風の中で見送った。だが、この破壊の先には、彼らが想像もできない、もう一つの結末が用意されていた。復讐の頂点を極めた私が、最後に選んだ道とは…。
重機の轟音が、閑静な住宅街に鳴り響く。巨大な金属の爪が、ユナがこだわったという南欧風のテラスを無慈悲に引き裂き、粉砕していく。乾いた木材が折れる音、ガラスが砕け散る音、そして彼女たちの悲鳴が崩れ去る音が、私の耳には最高の交響楽として響いていた。
「やめて、やめてよ! 私のキッチンが! 私のリビングが!」
ユナはフェンスの外で、地面に這いつくばって絶叫していた。かつては私を「地面を這う虫のようだ」と嘲笑った彼女が、今、泥にまみれて同じ姿を晒している。その隣では、翔平が呆然と、粉々になっていく自分の城を見つめていた。
「父さん、お願いだ。もうやめてくれ。そこまでしなくても、いいじゃないか。壊すくらいなら、誰かに売れば…。」
翔平が震える声で私に縋る。私は、彼の手を冷たく振り払った。
「売る? 誰にだ? 瑕疵のある土地に立つ、強欲な前所有者のために作られた家を、誰が買うと言うんだ。翔平、お前はまだ分かっていないようだな。この家が壊されるのは、ただの物理的な破壊ではない。お前たちが私から奪い、踏みにじった、信頼の葬式なんだよ。」
私はポケットから一枚の紙を取り出し、彼らの前に放り投げた。それは銀行からの正式な一括返済請求書と、高木弁護士が作成した損害賠償請求の最終通知だった。
「え…、一億…。一億1000万…。」
翔平がその数字を読み上げ、言葉を失う。
「住宅ローンの残り5000万円。私への返還金、2000万円。これまでの土地の使用料と、損害賠償。そして、この家の解体費用さえも、契約に基づき、翔平たちの負債となるのだ。」
「そんなの、返せるわけないじゃない! 私たちの人生、どうなるのよ! 借金まみれで、仕事もなくて、これからどうやって生きていけっていうのよ!」
ユナが立ち上がり、私に向かって牙を剥いた。その顔は、もはやかつての美しさを失い、見苦しい醜悪に歪み切っている。
「どうやって生きるかだと? ふん。それは、私が追い出された時に、君が言った言葉をそのまま返そう。『警備員のバイトでも、皿洗いでもすればいい。体だけは丈夫なんだろう』。私を『粗大ゴミ』と呼び、『汚いアパートがお似合いだ』と言ったのは、君たちだ。これからは、君たちがその『お似合いの場所』で、一生をかけて私の金を返していくんだ。」
彼らは絶句した。そこへ、警察の車両がもう一台到着した。中から出てきた捜査員が、ユナの父、周一の腕に無情な手錠をかけた。
「佐藤周一さん。業務上横領及び特別背任の疑いで、逮捕します。」
「ああ…、ああ…。」
周一は、抵抗する気力もなく、ずるずると引きずられていく。節子はその場に泣き崩れ、「私たちは何も知らなかったのよ! 全部、ユナがやったことなのよ!」と、実の娘に罪を擦り付け始めた。
「お母さん、何言ってるのよ! お父さんの裏金の穴埋めに、お義父さんの金が必要だって言ったのは、お母さんじゃない!」
「うるさい! 親に向かって、何てことを言うの! あんたがしっかりして、あのじじいを手なずけておけば、こんなことにはならなかったのよ!」
崩れゆく家を背景に、今度は親子の罵り合いが始まった。見苦しい。あまりにも見苦しい光景だ。だが、これこそが、彼らが築き上げてきた家庭の本当の姿だったのだ。私はその様子を静かに見つめながら、最後に用意していた究極の事実を告げることにした。
「ユナ、翔平。君たちは、『2000万ごとき』と笑ったな。だが、知っているか? 私が王光会長から受け取ることになっていた特許料、そしてこの土地一体の開発で手に入る売却益。その総額は、10億円を超える。」
二人の動きが、ピタリと止まった。
「10億…。」
「ああ。私は、この家が完成した時、実は君たちにサプライズを用意していたんだ。美代と約束していたんだよ。『翔平たちが誠実に生きて、私たちを家族として迎えてくれるなら、この資産を全て彼らに譲ろう』とな。この家を建てる際に私が差し出した2000万円は、君たちの心を試すための、ほんの小さな資金の試金石に過ぎなかったんだよ。」
静寂が訪れた。重機の音さえも、今の彼らの耳には届いていないようだった。
「もし君たちが、私を追い出さず、たった一杯の温かいお茶と、家族としての居場所を差し出してくれていたら。今頃君たちは、この世の贅沢を全て手に入れ、一生遊んで暮らせるはずだったんだ。だが、君たちは自らその権利をドブに捨てた。『2000万円』という御祝儀を惜しんで、10億円という未来を殺したんだ。」
翔平は、自分が手放したものの巨大さに、ただ呆然と立ち尽くしている。ユナは、あまりのショックに言葉も出ず、白目を向いて卒倒しそうになっていた。『2000万ごとき』か。その『ごとき』で価値を語れなかった者に、真の価値を語る資格はない。
「さあ、解体が終わる前に、私の土地から出て行ってくれ。不法占拠者の顔を見るのは、もう御免だ。」
私は高木弁護士に合図を送った。警察官たちが、力づくで彼らを敷地の外へと押し出していく。
「待って! お義父さん、嘘よね!? 10億なんて、嘘でしょう!? 冗談はやめてよ! 謝るから! 今までのこと、全部謝るから!」
ユナの悲鳴が、遠ざかっていく。翔平は一言も発することなく、まるで魂の抜けた人形のように、警察車両に押し込まれていった。彼らが消えた後、目の前にはかつての白亜の豪邸だった瓦礫の山が横たわっていた。高級なシステムキッチンも、ブランド物のソファも、全てが産業廃棄物として処理されていく。豪華な装飾も、最新の設備も、それを愛でる者の心が腐っていれば、ただのゴミでしかないのだ。
「健一君、終わったね。」
王光会長が、私の傍らに立った。
「はい。全て終わりました。…美代、待たせたな。」
私は空を見上げた。そこには、亡き妻の優しい笑顔が浮かんでいるような気がした。復讐は終わった。彼らには、これから1億円の借金と社会的抹殺という、死よりも辛い地獄の日々が待っている。一方で、私には誰にも邪魔されない自由と、美代の思い出を守り抜いた誇りが残った。逆転の劇は、これ以上ないスカッとする形で幕を閉じたのだ。私は一度も振り返ることなく、瓦礫の山となったあの場所を後にした。
あの決着から、一年が経ちました。かつて豪華な新築住宅が立っていたあの場所は、今、小さな、しかし手入れの行き届いた美しい公園へと姿を変えています。近所の子供たちが元気に走り回り、お年寄りたちがベンチで穏やかに日向ぼっこをする。その一角には、私の亡き妻の名前を冠した「美代メモリアルガーデン」という小さな花壇があり、四季折々の花が咲き誇っています。私は今、その公園が見渡せる丘の上の静かなマンションで暮らしています。王光会長の計らいで、会社の技術顧問として週に数日だけ働きながら、残りの時間は趣味の木工やボランティア活動に精を出す毎日です。
あの日、全てを失った息子夫婦とユナの両親がどうなったか。風の噂で、断片的な情報が私の元に届いています。息子の翔平は、勤めていた会社を懲戒解雇されました。親を騙し、私有地を不法に占拠しようとしたという話は業界内に瞬く間に広まり、再就職は絶望的となりました。今、彼は日雇いの肉体労働を掛け持ちしながら、私への返還金と銀行への膨大な負債を返すためだけに生きているそうです。かつての清潔感のある姿は見る影もなく、疲れ果てた顔で町の片隅を歩く彼の姿を、玲子が一度見かけたと言っていました。
「義兄さん、翔平君、公園のベンチで一人で泣いていたわ。自分が何を失ったのか、ようやく骨身に染みて分かったんじゃないかしら。」
玲子の言葉に、私はただ静かに頷くだけでした。ユナは、翔平の借金が発覚した直後に彼を見捨てて、離婚届を叩きつけたそうです。「こんなはずじゃなかった。私はお姫様みたいに暮らすはずだったのに」と叫んで家を飛び出した彼女でしたが、現実は甘くありませんでした。彼女自身の浪費癖で作ったカードローン、そして私に対する損害賠償。実家の父親も横領で逮捕され、母親も行方知れずとなった。今、彼女を助けるものは誰もいません。今は、バスエのスナックで働きながら、かつて自分が見下していた安アパートで、化粧も落ちた顔のまま眠る日々を送っていると聞きました。彼らが『2000万ごとき』と踏みにじった私の信頼。その代償は、彼らのこれからの長い人生、全てをかけても決して払い切ることはできないでしょう。因果応報。それ以外の言葉が見つからない、あまりにも無残な末路でした。
一方で、私の心には、復讐を遂げた達成感よりも、もっと深い、海のような平穏が訪れています。10億円という莫大な資産の大部分は、王光会長の助言を得て、恵まれない子供たちのための教育基金として寄付しました。私のような学歴のない人間でも、誠実に働けば道が開ける。そんなチャンスを、次世代の子供たちに残してやりたいと思ったからです。そして、孫の健太について。彼は今、私の義理の妹である玲子の家で、元気に暮らしています。ユナさんが親権を放棄したため、私が後見人となり、信頼できる玲子に養育を託したのです。
健太には、あの日何が起きたのか、本当のことは伝えていません。ただ、「お父さんとお母さんは、遠いところで一生懸命働いているんだよ」とだけ。いつか彼が大人になった時、もし真実を知る日が来ても、彼が誠実な人間として育っていれば、きっと私の選択を理解してくれる。私はそう信じています。週末、私は久しぶりに美代の墓参りに行きました。水を上げ、花を備え、手を合わせると、風に乗って美代の声が聞こえてきたような気がしました。
「健一さん、お疲れ様。よく頑張ったわね。」
私は墓前で静かに報告しました。
「美代。あの2000万円、君と一緒に貯めたあのお金は、形を変えて、たくさんの子供たちの笑顔になったよ。翔平のことは残念だったけれど、健太は私たちが守っていく。だから、安心してみていてくれ。」
墓地を後にする私の足取りは、驚くほど軽やかでした。金で買える幸せは一瞬ですが、誠実に生きて築き上げた誇りは、一生消えることはありません。彼らが失ったのは、豪華な家でも、ブランド品でもない。人を信じ、人に信じられるという、人間として最も大切な、お金では決して買えない財産だったのです。私は丘の上の公園に立ち寄り、健太が友達と笑いながら走り回る姿を、遠くから見守りました。彼が植えたひまわりが、空に向かってまっすぐに伸びています。
『2000万ごときで、偉そうにするな。』あの日、そう言われた時、私の人生は一度終わったのかもしれません。しかし、その絶望があったからこそ、私は本当に大切なものに気づくことができました。私の本当の人生は、あの日から新しく始まったのです。夕暮れ時、沈みゆく太陽が公園を黄金色に染め上げています。私はもう二度と、振り返ることなく、新しい明日へと歩き出しました。隣にはもう美代はいませんが、私の胸の中には、彼女との30年の思い出が、10億円よりもずっと輝かしい宝物として、永遠に刻まれているのですから。


