「おめでとう。この度、あんたの首が決定した」
引退した前社長の代わりにやってきた新社長は、そう言って私に向かって嫌味たらしく拍手をした。
「俺の娘が近日中に帰国し、この会社に入社することになってるんだ。社長の娘だ。それ相応のポストを用意してやらんことには、さすがに格好がつかないだろう」
初めて会った時から私を「年寄り」呼ばわりしていた新社長。しかし、ここまで露骨に私を追い出すための行動に出て、首を突きつけられるとは思ってもみなかった。
「世の中、引き際ってもんがあるんだ。この会社にとって、俺の娘の方が有益なのは明白だろ」
何の疑いもなくそんなことを口にする新社長に、怒りというよりも、呆れのようなものが私の胸を支配した。
「分かりました。それでは私はこの会社を退職いたします」
「おお、やっと分かってくれたか。ああ、清掃員でならまた雇ってやってもいいから、その時は遠慮せず連絡してきなさい」
私は静かな口調で告げ、最後まで嘲笑の言葉を吐いてくる社長を背に、会社を立ち去った。
――ところが、退職したその翌日。
「一体どういうことなんだ? お前、何者だ?」
私の元に、慌てふためいて連絡を寄越した新社長。己の欲に忠実に来た彼は、思わぬ形で罰を受けることになったのだった。
私の名前は小野悟。アパレルブランドを展開している会社で、デザイナーをしている。私は昔から服を作るのが好きで、この業界で長く経験を積み、今まで様々な会社を渡り歩いてきた。
現在勤めている会社は、規模こそそこまで大きくない。だがここ数年の業績は安定していて、2年ほど前からは本格的に他店舗展開への計画が持ち上がり、新店舗オープンへ向けての準備も着々と進んでいる。
そんな中、残念なことに、私をこの会社へと誘ってくれた現社長が、持病の悪化に伴い社長職を辞任することになった。どうやらこの会社は同業他社へと譲渡されるようである。
「俺、社長の大らかでのんびりしたところ、本当に好きだったんですよ。仕方ないとはいえ、本当残念です」
社長の辞任を聞かされて落ち込む部下の肩を、私は軽く叩いた。
「そうだね。私も社長の信念と人柄が好きでこの会社に来たから、気持ちは分かるよ」
「せめて、今度来るっていう新社長が、現社長の考え方をついでくれる人だといいですね」
部下のそんな言葉に私も大きく頷く。だが、世の中そんなにうまくいかないというのが世の常なのか。上層部からやってきた新社長は、就任挨拶の場で早くも私たち社員を不安にさせる言動を取るのだった。
「えー、今回の譲渡を受けて、こちらの会社の新社長を任せられた高田です」
前社長は丸く柔らかい空気をまとう人だったのだが、この高田社長は真逆で、その貫禄のある体から滲み出すのは、周囲を威圧するような存在感と傲慢さだ。ちなみに、さすがアパレル業界の人間だけあって着ているものはれているのであるが、どうにも服の持つ上品な雰囲気を、着ている本人が台無しにしている。そんなちぐはぐさも、私を始め社員たちには不安要素として映っていた。
しかし、肝心の彼だけはそれを把握していない様子で、じろじろとこちらを睨めつけてくる。
「言っておくが、前社長がこの会社の譲渡先に困っていたところを、俺がわざわざ引き受けてやったんだぞ。お前らが今この会社でノウキに働いていられるのも、俺のおかげだ。お前ら全員、俺に感謝しろ」
よりにもよって就任挨拶でとんでもないことを言ってくる高田社長に、社員たちは立ちまち困惑したように顔を見合わせている。だが、そんな社員たちの戸惑いに高田社長はふんと鼻を鳴らして、小ばかにしたように口元を吊り上げた。
「どうやらここの社員たちは、前社長とよく似た性質の人間ばかりが集まっているようだな。どいつもこいつも平和ボケした顔しやがって。いいか? 俺が来たからには、給料分しっかり働いてもらうからな」
そして吐き捨てられたその言葉に社員たちが呆気に取られている隙に、高田社長はさっさと社長室へ引っ込んでいった。
「ちょっと、何ですかあれ? 『平和ボケしてる』とか、もう私、あんな社長の下で働くの不安しかないですよ」
散々だった就任挨拶を終えてデザイナー室の部下たちが、口々にそんなことを訴える。どうやら社員の大半が、あの新社長に対して嫌悪感を抱いた様子で、デザイナー室以外にもフロアで固まり、ひそひそと何事かこぼしている社員たちの姿が見えた。
入社初日からこの不穏さ。私は思わずため息をつきそうになる。
正直、私も内心は彼らと同じ気持ちではあったが、それでも納期は待ってくれないし、何より前社長の下で進めていた新店舗へ向けての準備も大詰めを迎えている。せめてデザイナー室の最年長である自分はしっかりしようと、私は気合いを入れて笑顔を浮かべ、ハキハキと口を開いた。
「さあ、皆さん、仕事をしましょう。新店舗用のデザインが上がった人は、私の方まで提出してくださいね」
高卒でこの業界に飛び込んでから叩き上げでキャリアを積んできた私の声は、年齢の割には腹が据わって通る方だと思う。証拠に、私の一声をきっかけにして、それまで頼りなさそうな佇まいだった部下たちが見る見るうちに、凛としたデザイナー然とした様子へと変化し、テキパキと手元を動かし始めた。
私もそうだが、彼らも服作りが好きなのである。その真剣な横顔を見つめ、負けていられないと私も目の前の仕事へ真摯に取り組むのだった。
――だが、それから数日後。デザイナー室の視察として、高田社長がフロアに姿を表した。
彼はおざなりに周囲を眺めると、やがて変な生き物でも見たという風に首を止めて、私のことをじろりと睨みつけてくる。
「おい、一人だけ年行ってる。そこのじいさん」
その呼びかけに、当てはまる人間はこの場に一人しかいない。
「私のことでしょうか?」
首をかしげて手元の作業を止めた私を、高田社長は馬鹿にしたように見下ろしてきた。
「そう。そこのあんた。というか、この場にじじいなんて一人しかいないだろうがな。あんた、本当にデザイナーなのか? ここの清掃員とかじゃなくて」
完全にこちらを見下しているその物言いに不快感を覚えながらも、私はあくまで冷静に答える。
「ええ、小野と申します。前社長に声をかけていただき、デザイナーとして5年ほどこちらで務めております」
だが私のそんな返答に、相手はますます調子に乗った。
「はっ、本気か? こんなじいさんがデザイナーとか名乗ってていいのか?」
驚いたような高田社長の声に、部下たちが不快に眉を寄せる。しかし、そんな雰囲気など微塵も感じ取っていないのか、彼は構わず私へと絡んできた。
「なあ、自分たちが着る服をデザインしてるのが、こんなじいさんだって知ったら、客も嫌がるってもんだろう。服が急に臭くなるじゃないか」
うちのアパレルのターゲット層は主に30代から40代の、仕事や財布事情的にも少し余裕が出てきたミドル世代である。確かに私の年齢では、その層にばっちりと合っているとは言い難いかもしれないが、それにしても、仮にも社長がお客様を「客」と呼び捨てにしていると知られた方が、よほど嫌がられると思うのだが。
しかし、さすがにそう言い返すわけにもいかずに私が黙っていると、高田社長はやがて興味を失くしたようにして肩をすくめ、つまらなそうにその場を去っていった。
「何ですか、あの言いよう。小野さんに向かって『じいさん』だなんて、失礼にも程があるわ。『デザイナーを名乗っていいのか』って、人に文句をつける前に、アパレル会社の社長なのに微妙にダサい着こなししかできない。自分のことをどうにかしろっての。服がかわいそうだろう」
周囲にいた部下たちが、私より先に怒りを露わにする。私はそれに「まあまあ」と苦笑した。
「私たちが気にすべきは、お客様のことですよ。日々忙しく過ごされるお客様、一人一人にそっと寄り添える服作りを」
それがこの会社の信念だった。より消費させる商品ではなく、お客様のクローゼットや記憶にいつまでも残していただけるような商品作りを目指すという前社長のその考えに惹かれて、私はここへの入社を決めたのである。
高田社長のことは気がかりであるが、私たちデザイナーが真摯に仕事をしていれば、それはお客様にも不思議と伝わるもの。どうにかこれ以上の混乱が生まれませんようにと、私は胸のうちでそう願うのだった。
――だが、そんな願いも虚しく、高田社長の言動は日に日にひどくなっていくばかりだった。それもこの頃は、社員たちを「仕事が遅い」だの「レベルが低い」だのと、朝から晩まで馬鹿にしてくるものだから、そんな彼にうんざりして自ら会社を去る者も、ちらほら出てきているらしい。
しかしその一方で、社長である高田に媚びを売り、自分だけ取り入って特をしようとする者も現れ、明るく風通しの良かった社内の雰囲気も、このところは悪化の一途を辿っている。
幸いデザイナー室にはまだ退職者は出ていない。高田社長の言動に傷つけられた若手などには、私や他の社員が積極的に声をかけ、時には代わって、それ以上負担がいかないように気を回しているのも、そうこうしているのだと思う。だが、それでも私たちがしているのは応急処置に過ぎず、これは誰かが辞めるのも時間の問題かもしれないと、私は危惧していた。
――そんなある日、私は高田社長の秘書に社長室へ呼び出された。
何の用だろうかと警戒しながら私が入室すると、高田社長はまるで落ちたハエでも見るかのような顔をしてこちらを見やり、口を開く。
「俺には娘がいるんだが、その子は今、海外でファッションの勉強をしてるんだ。親の俺が言うのもなんだが、才能のある子でね。あちらのコンペでもデザイナーとして早くも認められているという話で」
「それは素晴らしいですね」
話の趣旨が分からないながらも、私はそう相槌を打った。その話が本当なら、そのお嬢さんとやらは、父親のセンスを幸いにも受け継がなかったようである。だが無難に返した私に、高田社長はにやりと笑って続けた。
「そう。本当に素晴らしい娘なんだ。でな、この話には続きがあるんだが」
そう言っていかにも意味ありげに一旦言葉を切った彼は、困惑する私の視線を存分に受けて、やがて楽しくてたまらないといった風に頬を歪ませる。
「おめでとう。この度、あんたの首が決定した」
パチパチと乾いた音が社長室に響いた。高田社長が含み笑いながら私に向けて拍手をしているのである。
「はあ…?」
切り出された話の趣旨が、こちらを追い出すためのものであるとようやく気づいた私は、とっさに言葉に詰まってしまう。だが二の句が告げない私を面白そうに眺めて、高田社長はじっとりと厭らしく笑った。
「実はな、俺の娘が近日中に帰国し、この会社にデザイナーとして入社することになってるんだ。社長の娘だ。それ相応のポストを用意してやらんことには、さすがに格がつかないだろう」
「娘自身も優秀であることには違いないんだが」などと、親バカ丸出しで頬を緩める高田社長。そして彼はまたその顔を嫌味で彩って、口を開く。
「ってことで、あんたは首だ。そもそも今のこの時代に、あんたみたいなじいさんの枯れた感性なんか通用しないんだよ。はっ!」
とさもおかしそうに、高田社長が高笑いをした。
「しかもこの会社のターゲット層はミドル世代だ。誰がどう見ても、デザイナーと客層と釣り合わないだろ。何の宣伝だよ」
顎を跳ね上げて、彼は私に見下げ果てた眼差しを向ける。
「あんたも年の割には元気な方だよ。けどな、世の中、引き際ってもんがあるんだ。周りはあんたに遠慮して言わないだけだ。それに将来性を考えても、この会社にとって娘の方が有益なのは明白だろ」
社長室の外まで響くような大声で、高田社長はそんなことを言う。
確かに、感性は年齢と共に変化していくものだ。それに若い人間には、その年齢にしか描けないデザインというものもある。それはその通りなのだが、高田社長はきっと、そこまでのことはこれっぽっちも考えてもいないのだろうと、私は思った。彼の言動や佇まいから見えるのは、ただ邪魔なベテランを排除し、自身の娘を重用したいという己の欲だけ。
けれど、沈黙を続ける私をどう捉えたのか、高田社長は嘲笑を存分に含んだ視線でこちらを睨むと、ため息混じりに言葉をこぼす。
「あんた、確か5年前にここに来たって言ってたよな。前社長に誘われたとか。はっ、前社長も何考えてたんだかね。よりにもよって、こんな年寄り引っ張ってくるなんてな」
そう言って彼は大げさに肩をすくめた。そして今度は、明らかな嘲笑を口元に浮かべる。
「案外、その時には前社長もすでに朦朧としてたのかもな。はっ、ありうるな。じじいを入社させたところで、さらにじじいになってくだけだってのに。それも分からないなんて、朦朧としてる証拠だろう。はっ、前社長も飛んだ土産をしてくれたもんだよな」
相変わらずの大声でわめく。
「何が『お客様に寄り添える服作り』だよ。なんぼ消費してなんぼの世の中だろう。記憶に残ろうが、売れない服を作ったって意味なんかないっての。バカじゃねえのか」
しまいには、前社長の大事にしていた信念までも馬鹿にし出す彼に、私は心の底から嫌気が差してしまった。こちらのことはひとまず置いておいても、それにつけても前社長のことまで悪く言う彼に、怒りというよりも呆れのようなものが、私の胸を支配する。
――この下で働くのは、ここまでかもしれない。
そう思った私は、静かに口を開いた。
「分かりました。それでは私は、この会社を退職いたします」
そう言って頭を下げた私に、高田社長は喜色満面で頷く。
「おお、そうか。やっと分かってくれたか。じゃあ、後腐れなくってことで。ああ、清掃員でならまた雇ってやってもいいから、その時は遠慮せず連絡してきなさい」
最後まで浅ましい嫌味を散りばめて、高田社長は用は済んだとばかりに、さっさと私を社長室から追い出したのだった。
「小野さん、高田社長とは何の話だったんですか?」
フロアへ戻ると、社長室に呼び出されていた私を心配して、部下たちが寄ってくる。そんな優しい彼らに事実を伝えることは心苦しかったが、このまま隠していてもいつかは分かることだ。
「私は今月付けで、この会社を退職することになりました。後任は高田社長の娘さんだそうです。ファッションを学ぶために海外留学されている、優秀な方らしいので」
「何ですかそれ? なんでそんなことになってるんですか?」
「そうですよ。娘だか何だか知らないけど、小野さんを辞めさせてまで雇うような人材なんて、そうそういませんよ。というか、それ高田社長のただの身内びいきじゃないですか?」
私が皆まで言いきる前に、ショックを受けた様子の部下たちが、そんな声をあげた。さらに彼らは真っすぐな目をして、まくし立てる。
「俺、小野さんがここを辞めるんなら、一緒に辞めます」
「私も、小野さんを辞めさせるだなんて。あの社長、本当にバカなんじゃないですか? そんなバカ社長の下では働けません」
我も我もと騒ぎが止まらない部下たちを、私は一旦なだめにかかる。
「ひとまず、落ち着いてください」
フロアに響いた私の声に、彼らも瞬間的に口をつぐんだ。
「一緒になって怒っていただいて、皆さんのお気持ちはありがたく感じています。ですが、どうか衝動を起こさず、自分自身がどうしたいのか、よく考えてくださいね。他でもない、自分のことですから」
静かに柔らかくそう諭すと、彼らは立ちまち神妙な顔つきで肩を落とす。
「すみません…」
「謝らないでください。あなたたちの気持ちは、私もとても嬉しく思っています。さて、とにかく今は、自分たちの仕事をしましょう」
私は笑顔でそう締めくくることにした。以降、私の言葉を部下たちは各々、ちゃんと考えているようであった。
その間にも私は仕事の引き継ぎ作業を進め、日々を忙しく過ごすうちにあっという間に時間は経ち、そしてとうとう退職日当日を迎える。
辞職以降、フロアに近づこうともしていなかった高田社長は、その日珍しくデザイナー室へと顔を出していた。そしてその横には、見慣れない女性が立っている。ただ、顔が高田社長とよく似ているので、きっとこの女性が件の「素晴らしい娘」なのだろう。
「今日は俺の娘を紹介する。来月からこのデザイナー室への配属となる娘も、日本で早く働きたいからと急遽帰国をしてくれた。我が娘ながら、その熱意には感服する。みんなも見習うように」
もはや聞き慣れた感もある、その紹介の後、彼の娘が一歩前に出た。
「どうぞよろしく。つまらない自己紹介より、早速私の仕事ぶりを見ていただいた方が早いかと思って、今日は私のポートフォリオを持参しました」
娘は、高田社長とそっくりのその顔を自信満々に輝かせて、こちらに自身のポートフォリオを渡してくる。だがそれを見た私たちは、一様に困惑してしまうのだった。
――なんというか、全てにおいて稚拙なのだ。とても海外留学までして勉強したとは思えない出来で、これならまだ専門学校に通う学生の方がよほどいいデザインを描く。確か「海外の賞でも認められている」というような話だったのに。一体、これはどういうことだと、私が首をひねる中、高田社長とその娘だけはやたら鼻高々な佇まいで、ニコニコと笑い合っている。
「ほら、お前の才能にみんな黙ってしまったぞ」
「まあ、パパったら褒めすぎ。でも私も時々、自分の才能が怖くなるのよね」
この恐ろしいほどの前向きな会話に、みんなはぎょっとしたようにして目を見張った。なんともまあ、ある意味怖いもの知らずの親子だ。きっとセンスも性格も顔も、この娘は父親から正しくそのまま受け継いでしまっているのだろう。
返す言葉もないほどに白け切っているデザイナー室の面々には全く気づかない様子で、やがて娘はふと私の方を見やった。
「あ、あなたが…ええと、ここで最年長の小野さんね。今日で退職するんですってね。あとは私に任せて、安心して穏やかな老後を過ごしてね」
ずっと父親から、あることないこと聞いているのだろう。けれど私はもう何も言わず、ただ「よろしくお願いします」と頭を下げて、そのまま会社を去ったのであった。
――だが、事が動いたのはその翌日だった。
私のスマートフォンに、高田社長からしつこく着信があり、仕方なくそれに応じると開口一番、彼は待ってましたとばかりにこちらへ怒鳴り散らす。
「おい! 絶対お前が何か言ったんだろう!」
怒り心頭でまくし立てる高田社長から、苦労して聞き出した内容によれば、どうやら今朝方、何とデザイナー室の全員が示し合わせたようにして退職届を出したのだという。それを聞いて、私は思わず苦笑してしまった。「彼らがよく考えた結果です」と、いたずら小僧のような顔で笑う姿を容易に想像できたからだ。
実は、デザイナー室の部下たちは、「小野さんと仕事がしたいから」と、あの会社にいた人間が大半だった。そして私から一度は釘を刺されたものの、やはり私がいないのであれば、この会社にいる意味もないという考えに至ったらしい。それもそのことを退職理由として高田社長に述べたようで、それを受けて、彼は私にこんな電話をかけてきたというわけである。
「一体どういうことなんだ? お前、何者だ?」
「何者」も何も、私は特に堂々と名乗れるほどの人間ではないけれど、過去、実はデザイナーとして世界的な賞を受賞したことがある。それからはフリーのデザイナーとして様々な会社と仕事をしてきたのだが、そのこともあって、若いデザイナーたちは何かと私を慕ってくれているようだった。
ちなみに、会社では上がってくる全てのデザインに目を通し、時にはデザイナーたちに指導もしており、さらには製品化するデザインの最終チェックは全て私に任されていた。つまり、あの会社で現在扱っている商品のデザインは、基本的に私が責任を持ってチェックしたものだけで構成されているのである。結果、既製品であっても一定のデザインレベルを維持していることもあり、そのクオリティの高さがターゲット層のお客様にも受け、これまで会社の業績は安定していたのだった。
だが、これらのことを説明したところで、高田社長はきっと聞く耳を持たないのだろう。そして、どう答えようもなく沈黙している私に、案の定、彼はまた電話口で大声をあげる。
「いいから、あいつらを呼び戻せ! お前の言うことなら聞くんだろう。なら、責任持ってお前が説得しろよ!」
暴虐無道とはまさにこのこと。自分から私を辞めさせておいて、高田社長は随分と勝手なことを言ってきた。
そして、さすがに我慢の限界を超えた私は、その言葉にきっぱりと切り返す。
「私は、あなたに首にされた人間です。それを今更『ああしろ、こうしろ』などと、虫が良すぎる話ですね。それに、後のことはあなたの娘さんにお任せしてありますので、どうぞご自分たちでなんとかしてください」
電話の向こう側ではまだ何事か騒いでいる気配がしたが、もう私はそれに構わず、一方的に電話を切ったのだった。
――その後、あの会社の業績は一気に悪化した。なぜなら、優秀なデザイナーたちが揃って辞めたことで、実質会社に残ったデザイナーは高田社長の娘一人となり、彼女のデザインしたものをそのまま商品化したものの、どれも売れ行きの方は散々だったからである。また新しくデザイナーを雇うにも、私を無理やり辞めさせたという噂が業界に広まり、「期待のバカ社長」として高田社長がやり玉に挙げられたため、応募してきても誰も集まらない状態らしい。
ちなみに、会社がそんな状況なので、大詰めを迎えていた新規出店も一旦全て取りやめになり、やがて他店舗展開の計画そのものが完全に頓挫したようだった。
そんな中、私のスマートフォンにはまたしても高田社長から着信があった。しぶしぶ応答すれば、この間のように怒鳴り散らされはしなかったものの、やはり存在感は隠しきれない口調で、彼から会社へ戻ってこいと訴えられる。
「娘も頑張っているが、まだ若く経験も浅い。あんたがいれば、娘のサポートができるだろう。給料なら前の2倍は出す。どうせあんたもう辞めて、暇なんだろ? 戻ってこいよ」
こういう状況になってさえ、何が何でも自分を上の立場に置きたいのが、見え見えの態度。私は呆れて、ため息しか漏れなかった。
だが、このままでは向こうもどんどんしつこくなるのだろうと思い、私はごく冷静に事実を伝える。
「実は、私この度、新たなアパレルブランドを立ち上げることとなりまして、そちらの会社を辞めたデザイナーたちと一緒に、新会社も作りました。ですので、あなたの誘いには乗れません」
「はあっ?」
電話口で高田社長が素っ頓狂な声をあげた。どうやらこちらのことは初耳だったらしい。それなりに業界では話題になっていたのだが、もしかして高田社長は、アパレル業界について今一つ情報に疎いまま、ここまでやってきたのかもしれない。
そういえば、彼の娘も私の顔を見てもピンと来ていなかった様子だった。あの年代でファッションを学ぶ人間であれば、「小野さんのことを知ってて当然なのに」と、部下たちは眉を寄せていたのだが、どうやらあの親子は、自分たちのことだけにしか興味を持っていなかったようである。
その視界の狭さ、強かさに、今度こそ呆れ果てた私は、それきり電話を切って、彼の番号を着信拒否にしたのだった。
その後、あの会社は転げ落ちるように負債を抱えて、倒産の憂き目にあった。当然ながら高田社長はその責任を取らされ、社長を辞任。また彼は、上の会社にも戻ることを許されず、そのまま娘と二人、どこへなりとも姿を消してしまったということだった。
一方、おかげ様で、デザイナーたちと一緒に立ち上げた新会社は、世間にも好評を得ている。また、この度、他店舗展開も視野に入れての計画が持ち上がっていた。それも、新店舗の候補地として挙がったのは、なんと以前あの会社が自社店舗の候補地としていた場所と同じだったのである。
実は私は新しく会社を作る前、今は自宅で療養を続けている前社長の元を訪ねている。そしてこれまでの顛末と、元部下たちと新しくブランドを立ち上げるということを、かいつまんで話していた。
「せっかくあなたに声をかけていただいた会社だったのに、こういう結果になってしまい、申し訳ありません」
深く頭を下げた私に、けれど前社長は穏やかに笑ってくれた。
「いいんだ。君たちの会社という場所がなくなろうと、私の信念は、君たちがちゃんと引き継いでくれる。それだけで、私はとても幸せだよ」
温かく背中を押してくれるようなその言葉に、私は心から感謝した。
それからは新会社の社員一同となって、新店舗オープンへ向けて多忙な日々を送っている。もうすぐそこまで迫ったオープン日に向けて、仲間たちがバタバタと走り回っていて、けれどその顔からは、一様に充実しているのが見て取れた。
新しい会社を作ろうと、あの会社を辞めたデザイナー一人一人に連絡を取ったのは、私だ。そうして、彼らは二つ返事で「また一緒に働きたい」と返してくれた。
「お客様一人一人に寄り添える服作りを」――前社長の信念は、今も私の、そして仲間たちの胸に息づいている。こうして信じてついてきてくれた彼らにも最大級の感謝を捧げ、私は足が動く限り、この業界の第一線で働き続けようと、改めて心に誓ったのだった。



