勝彦が愛人を連れて店に現れたのは、ランチ営業が終わって片付けをしている時だった。隣には義母と、あの旅行の写真に写っていた女性が立っている。
「ここにいる野原ゆきさんと結婚することになった。お前とは離婚だ」
勝彦は悪びれる様子もなく、記入済みの離婚届を私に突きつけた。義母は冷たい目で私を見下ろしながら言い放った。
「この店は勝彦とゆきさんに譲ることにしたの。ゆきさんは料理研究家だから、今後は2人で店を切り盛りしてもらうわ。だからあんたはもう邪魔者よ」
13年間、休む間もなく働いてきた。義父が残した定食屋を立て直すため、朝早くから仕込みをし、深夜まで立ち続けた。売上金を勝手に持ち出されても、いつか勝彦が改心してくれると信じていた。それなのに、この仕打ちか。
その瞬間、2人に対するすべての感情が消え去った。
「分かったわ」
私は何も言い返さず、その場で離婚届にサインした。自宅に戻り、最小限の荷物だけを持って家を出た。身勝手な2人と一刻も早く離れたかった。
中学生の頃、友達と大喧嘩して落ち込んでいた私に、義父が出してくれたオムライスがあった。あの味が私を料理の道へ導いた。そんな義父が守ってきた店を潰したくない一心で、私は店を立て直した。半年も経てば行列が絶えない繁盛店になった。それなのに勝彦は一度も厨房に立ったことがなく、毎日パチンコや競馬に明け暮れていた。
「俺がいなくても店が回ってるんだ。何も問題ないだろう」
勝彦はそう言って、店の売上金まで抜き取っていくようになった。問い詰めても「店は俺のものだ。その金を俺が何に使っても構わないだろう」と開き直るだけだ。義母も掃除も洗濯もすべて私に押し付け、「嫁の勤めだ」と高圧的に言ってくる。体は悲鳴を上げていたが、私はいつか報われる日が来ると信じて働き続けた。
転機が訪れたのは、勝彦と義母が「親族の法事」と言って5日間家を空けた時だ。帰ってきた2人は手に大量の土産物を持ち、海外旅行の写真を見せびらかした。その中に、知らない女性と勝彦が親密に寄り添う写真が何枚もあった。
「この女性は誰?」
「お前には関係ないだろう」
勝彦はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた。義母はその女性を褒めちぎる。
「彼女のセンスは抜群ね。スタイルもいいし、父親が社長ってところも気に入ったわ」
2人は私に嘘をついて海外旅行に行き、浮気相手まで同行させていたのだ。長年支えてきた恩も感じず、身勝手な行動に出た2人が許せなかった。私は密かに離婚を決意し、女性の素性を調べ始めた。
その結果が、あの日の店での離婚宣言だった。
家を出た私は、調理専門学校時代の同期である篠原優一を訪ねた。彼は都内で創作フレンチの店を経営しており、以前から料理人仲間として相談に乗ってもらっていた。私の話を聞いた優一は言った。
「それは大変だったね。ご主人に対してはきちんと法的措置を取るべきだ」
彼の助言に従い、私は勝彦に慰謝料を請求することにした。そして優一の店で働かせてもらえることになった。水を得た魚のように働くことができ、私の料理は次第に話題を集めるようになった。1ヶ月も経つとメディアに取り上げられるほどになった。
ある日、常連客から元の定食屋の近況を聞かされた。私が去った後、店は散々たる状況らしい。ゆきと名乗る自称料理研究家が低品質な輸入食材を導入し、前日の残り物まで使い回したという。当然、料理の質は落ち、常連客も見放し、店は閉店の危機に追い込まれていた。数年とはいえ自分が関わってきた店が潰れていくのは心苦しかったが、もう2度と関わることのない店だ。私はそう聞き流した。
1ヶ月後、朝のニュースで定食屋が映し出された。画面には「食中毒」の文字が表示されている。団体で店を利用した客が次々に体調不良を訴えたという。保健所の検査で、厨房に立つゆきと勝彦が手洗いもせず食材を素手で触り、使用していた器具の洗浄も不十分だったことが判明した。さらに、冷蔵設備も不十分で、グリストラップの掃除も行われていなかった。店は10日間の営業停止処分を受けた。食の安全を守れない人間は飲食店をやる資格もない。私はそう思った。
しかしその夜、勝彦と義母が私の働く店に怒鳴り込んできた。
「お前のせいで店が潰れそうだ。責任取れ」
「あんたが客を奪ったから、ゆきも精神的に追い詰められたのよ」
2人は店に入るなり私を指差し、大声で誹謗中傷を繰り返した。
「いい加減にしてください。自分の店の問題を私のせいにしないで」
すると優一が間に立ちふさがり、鋭い目で2人を睨んだ。
「これ以上騒ぎ立てるのであれば、名誉毀損と営業妨害で法的措置を取りますよ」
体が大きく鍛え上げられた優一の迫力に、2人は押され、悔しそうに「覚えてろよ」と捨て台詞を残して去っていった。
その後、営業を再開した定食屋だったが、客はほとんど来ず、常に貸切状態だった。近隣では、不気味な男たちが店を監視しているという噂も流れていた。勝彦がギャンブルで悪質な金融業者から借金でもしたのだろう。私はそう思っていた。
しばらくして、また2人が私の前に現れた。
「お前がゆきを拉致したんだろう。ゆきを返せ」
ゆきが数日前から姿を消したらしい。もちろん私は一切関与していない。
「嘘よ。あんたが雇った男に指示して店を監視して、かわいそうにゆきを監禁してるのよ」
義母は私が勝彦に捨てられた腹いせにゆきを監禁していると決めつけてきた。するとその時、店内に数人の男たちが姿を現した。店を監視していた男たちだ。勝彦は男の姿を見た途端、私に食ってかかった。
「やっぱり全てお前が仕組んだことだったんだ!」
しかし男の一人が言った。
「彼女は無関係だ」
男たちは呆れた様子で顔を見合わせ、胸ポケットから何かを取り出そうとした。その時、勝彦が何を思ったのか男の一人に殴りかかっていった。しかし男は軽く勝彦をねじ伏せた。別の男が近づき、警察手帳を提示した。
「ゆきさんのことでお話を伺いたい」
店を監視していたのは刑事たちだった。ゆきは以前から組織的犯罪の疑いでマークされていたらしい。彼女の正体は広域詐欺グループの構成員で、勝彦たちに近づいた真の目的は店の経営ではなく、土地と資産の強奪だったのだ。ゆきは意図的に店を破綻させ、磯部家を負債まみれにして、その返済のためと称して土地を格安で買い叩く計画だった。刑事が提示した書類には、店の所有権がゆきに移行したことが記されていた。
「店の権利書をゆきに渡したの?」
「俺の借金を返すために店を担保に金を借りてくれるって言うから…」
勝彦は言葉を濁した。ゆきは勝彦から権利書を奪い、所有権変更の書類にもサインさせていた。さらに刑事によると、ゆきは自宅の名義も自分のものに変え、義母の老後資金まで引き出して海外に逃亡していた。信じていたゆきにすべて奪われ、文字通り一文無しになった事実を突きつけられた2人は、正気を失ったように泣き崩れた。
翌日、再び私の前に現れた2人は土下座して復縁を求めてきた。
「悪かった。この通り謝るから、もう一度俺とやり直してくれ」
「全部ゆきが悪いのよ。あの女が私たちを騙しさえしなければ」
2人はゆきとの出会いから私を追い出すまでの経緯を話した。ある日、パチンコ屋でゆきに声をかけられたらしい。それから関係が始まり、ゆきにいい格好を見せたかった勝彦は私に嘘をついて海外旅行に出かけた。それでも当初は私と離婚するつもりはなかったという。しかしゆきが「邪魔な妻を追い出さなければ、店を乗っ取られる」と勝彦を焚きつけた。まんまと私を追い出したゆきは、計画通り2人から財産を奪い取って姿を消した。さらに警察の調べで、ゆきがすでに家や店の土地を第三者に売却していたことも分かった。善意の第三者に渡ってしまった土地を取り戻すことはできない。我が家を失った2人は、身を寄せる場所として私との復縁を求めてきたのだ。
どこまでも身勝手な2人に、私は呆れてため息が出た。
「私の人生にあなたたちは邪魔です。ゆきが詐欺師だったかどうかなんて私には関係ない。あなたたちは私よりゆきを選び、まるでゴミでも捨てるかのように私を追い出した。その事実は何も変わらない」
私は泣きすがる2人を冷たく追い返した。
その後、わずかに残った資金で安アパートに引っ越した2人の生活は困窮を極めているらしい。勝彦は食中毒の賠償金と借金の返済のため、早朝から深夜まで肉体労働に追われているという。義母は「お前が余計な女にうつつを抜かすからだ」と勝彦を責め、勝彦も「お前のせいでゆきに騙された」と義母を非難し、毎日怒鳴り声が絶えないそうだ。
数ヶ月後、ゆきが所属していた詐欺グループが逮捕されたというニュースが流れた。幹部が逮捕され、海外に潜伏していたゆきにも逮捕状が出たという。私はそのニュースを優一と一緒に見ていた。
「これでとりあえず一段落だな」
「そうね」
実は、ゆきが売りに出した元の定食屋を買い取ったのは、他でもない優一だった。不動産会社を経営し、新店舗となる物件を探していた彼の元に、この話が来たのだ。私は彼に頼んで買い取ってもらった。その土地に、新しく飲食店を立ち上げる予定だ。かつての常連客もオープンの日を心待ちにしてくれている。その期待に応えるため、私は日々奮闘している。そして、勝彦と離婚して以来ずっと私を支えてくれていた優一とは、近く再婚することになった。同じ料理人として、夫として、優しく頼もしく私を支えてくれる彼との未来に期待しながら、今日も私は笑顔で腕を振う。



