夫のワンルームのベランダに隠れて、カーテンの隙間から室内を覗き込んだとき、私はまだ自分がこれから何をするのか、本当には分かっていなかった。
夫の渡るが単身赴任を始めて半年。帰ってこなくなってから二か月が経っていた。週末ごとに帰ってきていたのが、仕事が忙しいの一点張りで、私と五歳の娘を置いてこなくなった。在宅勤務の私には、夫の「忙しい」がどれほどのものなのか、計り知れなかった。
「娘と、赴任先に遊びに行こうか?」
そう提案した私に、夫は強い口調で返した。
「だから、忙しいって言ってるだろ。休日出勤もあるんだよ」
その刹那、頭をよぎったのは「浮気」の二文字だった。でも、浮気をしている男が、こんなに露骨に態度を変えるだろうか。ただ単に仕事が立て込んでいて、機嫌が悪いだけかもしれない。そう思いたかった。本当は、疑いたくなかっただけなのだ。
思い切って、私は夫の赴任先のアパートを訪ねた。車で三時間。契約しているはずの部屋には、人の気配がなかった。合鍵で中に入ると、そこは驚くほど綺麗に片付いていた。脱ぎっぱなしの服も、出しっぱなしの皿もない。ビデオ通話で背景に映る部屋の散らかり方を指摘すると「後でやるよ」と苦笑いしていた夫の部屋とは、思えないほどの清潔さだった。
バスルームの扉を開けると、そこにあったのはペアの歯ブラシと、見慣れない女物の化粧品。知らないシャンプーの香りが、胸を刺した。頭が真っ白になるとは、まさにこのことだ。
そのとき、外階段を上ってくる足音と、楽しげな男女の話し声が聞こえてきた。まさか。夫が帰ってきたのか。慌てて私はベランダに逃げ込み、カーテンの隙間から覗き見た。部屋に入ってきたのは、夫と、一人の若い女性。スーパーの袋を提げて、何も知らなければ、新婚夫婦のように見えたかもしれない。私は、背が高くて髪も短い。その女性は、髪が長くて、小柄で、私とは正反対のタイプだった。
「お昼ご飯、外食にしない?」
慣れた様子で食材を片付けながら、愛人が夫に抱きつく。夫は苦笑いしながら、
「外に行くなら、また遠出だぞ」
「え、バレてもいいじゃない?奥さんとは別れるんでしょ?」
「それはそうだけどさ、まだあいつには何も言ってないし。うまくやらないと、慰謝料とか、大変なんだぞ」
離婚を仄めかす夫の言葉に、私は最初、愕然とした。しかし、「慰謝料」という言葉を聞いた瞬間、冷静になった。これはもう、浮気の範囲じゃない。私は、離婚を迫られているのだ。バッグからスマホを取り出し、動画を撮り始めた。
「うまくやるって、そればっかり。こんな可愛い私より、奥さんの方がいいんでしょう?」
拗ねる愛人を、夫は抱き返した。
「バカなこと言うなよ。娘を産んだからか知らないけどさ、もう、女としては見られないっていうか。ああ、たまに会う友達みたいな」
「何それ?ひどい」
クスクス笑う愛人に、夫はたじたじだ。私はベランダで、怒りで全身が震えるのを感じた。悲しみよりも、呆れが勝っていた。ドラマで浮気現場を撮影する登場人物の気持ちが、今、よく分かる。
夫と愛人は、その後、予定通り昼食に出かけた。ベランダから室内に戻った私は、ふと夫の机に視線を向けた。パソコンと、データ保存用のディスク。何気なく確認すると、パソコンはスリープ状態で、ログインパスワードは誕生日。危機管理がぶっ飛んでいる男だ。ディスクの中身を見たとき、私はある「いたずら」を思いついた。
数日後、離婚への準備を進めるため、私は実家に荷物を運ぼうとしていた。すると、その真っ昼間に、夫が突然帰ってきた。リビングのソファにぐったりと沈み込んだ夫は、たっぷり一分ほど黙り込んだあと、ようやく口を開いた。
「会社、やめたんだ」
「え、どうして?」
「部下の失敗の、連帯責任でさ」
連帯責任。そんな言葉が、夫の口から出るとは思えなかった。詳しく聞くと、夫は頭を抱えて叫んだ。
「俺は、はめられたんだ!部下に!あいつが、俺がいつまで経っても約束を果たさないからって!撮ったのは自分じゃないって言い張ってるけど、あんな動画、あいつにしか撮れるはずがないんだよ!」
「あんな動画」という言葉に、私はピンと来た。もしかして、あれか。
「でも、部下の人も、辞めるはめになったんでしょ?自分の立場を危うくしてまで、あなたを嵌める意味あるの?」
「本当は、別の相手に送るつもりだったらしいんだ。それを、プレゼン用のファイルと間違えて、取引先の担当者の前で開いちまって…その場には、俺たちの上司もいたから…」
私は、広がる笑いを必死に抑えた。
「その部下の名前って、確か…カスミちゃん、だったっけ?」
夫が驚いたように目を見開く。私は、ソファの向かいに腰を下ろし、ゆっくりと話し始めた。
「ある日、カスミちゃんは、大好きな上司のデータディスクに、とんでもないものを見つけたんだってね。上司と自分が写っている、あんな動画を。奥さんと別れると約束したのに、曖昧な返事ばかりする上司に、カスミちゃんはあることを思いついた。その動画を編集して、上司の奥さんに送りつけようとしたんだ」
「でも、うっかり保存場所を間違えて、大事な取引先に公開してしまった。こんなところかな?上司の渡る君」
夫は青ざめていた。
「あ、お前…」
「私が撮ったのよ。愛人さんとあなたが楽しんでいた動画は、私がベランダから撮影して、未編集のディスクに入れて、あなたの机のディスクとすり替えたの。せいぜい、編集するときに驚けばいいと思ってたんだけど、まさか、その前に部下に晒されるとは思わなかったわ」
「ふざけるなよ!お前のせいで!」
顔を真っ赤にして立ち上がる夫に、私はため息を吐いた。
「全部、あなたの身から出た錆でしょ。愛人への対応を半端にした、あなたが彼女を追い詰めたのよ。慰謝料なり何なり、きちんと払って、私と離婚して、身辺を整理して彼女を迎えに行けば、会社を辞めずに済んだかもしれないのにね」
「じゃあ、このマンション、どうする?私は実家もあるし、要らないけど」
「え、どういう…」
「離婚して、って言ってるの」
ポカンとする夫は、やがてソファの脇で土下座をした。
「別れるのだけは、勘弁してくれ!」
「じゃあ聞くけど、別れる以外に、何ができるの?」
「こ、これからは、お前を大切にする!ちゃんとここに帰ってくるから!」
会社を辞めたくせに、どこから帰るつもりだろうか。
「帰ってこなくていいわよ。女として見られないなんて馬鹿にしておいて、今更よ。あなたとは、たまに会う友達にだってなりたくないわ」
私の剣幕に、夫は一瞬怯んだものの、土下座から勢いよく立ち上がった。
「下手に出てみたら、調子に乗りやがって!今まで働いて、お前ら家族を支えてきた夫が、こんなに頼んでいるのに!その言い草!そんな冷たい女、飽きられて当然だよな!」
逆切れした夫が大声でまくし立てた、そのとき。襖が開いた。
「そろそろ、近所迷惑だからやめとけよ」
ため息混じりにそう言ったのは、私の父だった。
「お父さん…」
夫は見る見るうちに青ざめ、振り上げていた拳を力なく下ろした。片付けを手伝ってもらうため、父は家に来ていたのだ。物は怖いが、普段は温厚な父。しかし、その大きな体をドアの影から現し、夫をじっと見下ろした。
「渡る君、だったか。随分ご無沙汰で、顔も忘れちまったが。恥ずかしい真似は、その辺にしておこうや」
夫は蛇に睨まれた蛙のように固まっている。
「俺の娘が何だって?調子に乗ってる?冷たい女だ?自分のこと棚に上げて、よく言えたもんだな」
「す、すみませんでした…」
「もうすぐ、可愛い孫が帰ってきちまうのに。俺がこれ以上、お前を叱らなきゃいけないのか?答えはノーだ。帰れ」
夫は絞り出すように「帰ります」と告げ、こちらを振り返りもせずにアパートを出ていった。
その後、私は「危機意識が足りない」と父に叱られ、今後の手続きは全て父に任せることになった。慰謝料や資産整理など、離婚の手続きは、父の主導で滞りなく完了した。
元夫は、結局、元部下の愛人に振られたらしい。楽しんでいる最中の動画を撮ったのが自分だと犯人扱いされ、否定しても信じてもらえなかったそうだ。会社も実質、首になり、同業者の間では面白おかしく噂が広がり、再就職も難しい状態。マンションの賃料も払えず、安アパートに住むことを余儀なくされたらしい。まあ、愛想が尽きて当然だ。
愛人の方は契約社員だったらしく、派遣会社の評価も落ちて、経済的にも社会的にも苦しい状況だということだが、私はきっちりと慰謝料を受け取った。
その後、私と娘は実家に戻ることにした。娘には離婚の詳しい話はしていない。ただ、「パパ、いなくてもいい?」と聞くと、娘はあっけらかんと言った。
「パパは、いつもいないよ」
その言葉に、私は笑ってしまった。ちょっとしたいたずらのつもりだった。まさか、元夫をここまで追い詰めるとは、予想外だった。世の中、何が起こるか分からないものだ。危機管理と、ファイルのチェックは、しっかりしようと思った。



