笠原専務の言葉が重役会議室に響き渡った時、誰もが金髪の少女を嘲笑の対象としか見ていなかった。
「金髪ギャルが社長だと?経営なんて1日だって無理だ。遺言があろうと、実力ゼロのガキに会社は任せられない。帰れ。本当に社長なら、俺たち役員全員を今すぐ辞めさせてみろよ。」
テーブルの上座に立っていたのは、鮮やかなネイルとギャルメイクの18歳の少女、牧野ヒカルだった。緩いパーマのかかった金髪が、重厚なウォールナットのテーブルとスーツ姿の役員たちの間で異様に浮いていた。
笠原の言葉に役員たちの間にクスクスという笑いが広がった。しかしヒカルは静かに役員たちを見渡し、小さく一つ息をついた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
その静かな声が、会議室の空気を凍らせた。誰もが意味を測りかねて動きを止めた。この時、誰も知らなかった。その静かな一言が自分たちの運命を決めることを。父が35年かけて守り続けた会社が、今日ここで守られることを。
物語は数ヶ月前に遡る。
牧野正規株式会社は、精密機械の分野で業界内に確固たる地位を持つ中堅メーカーだった。創業者の牧野磯尾が28歳で小さな町から起こした会社だ。大学には出ず、現場一本で技術を磨いた叩き上げのエンジニアだった。競合他社の精密部品の品質に感銘を受け、自分でそれを超えようと起業した。それから35年で年商350億円、従業員280名の企業に育て上げた。
磯尾は社員一人ひとりの名前と家族構成を把握し、誕生日には必ず声をかけていた。「会社は社員と取引先のためにある。それを忘れたら終わりだ」が口癖だった。
そんな磯尾には一人娘がいた。牧野ヒカル。当時17歳。髪は金髪、ルーズソックスのギャルで、見た目はどこにでもいる女子高生だった。友達と放課後にショッピングモールを歩き、たこ焼きを食べながら笑う。それがヒカルの普通の日常だった。
ただし、家に帰ってからは話が違った。
「ヒカル、今月の第二工場の稼働率、覚えてるか?」
「78. 4%。部品調達が3日遅れたせいで目標を下回ってる。原因は川本製作所の納期遅延。」
「代替業者の目途はもうつけてある?」
「うん、二社ほど。」
磯尾は満足そうに笑い、手にしていた箸を置いた。
「お前は理解が早い。俺より向いているかもしれないな。」
「また始まった。私はギャルだって言ってるじゃん。」
「ギャルでもいい。人の二倍考える頭があれば、それでいい。」
ヒカルが8歳の頃から、毎晩決算書が食卓に広げられていた。押し付けるのではなく、世間話の延長として自然に語りかけ続けた。数字の読み方、取引先ごとの事業内容、競合他社の動向、社員の顔と名前、その家族のこと、得意なことと苦手なこと。10年間かけて、すべてがヒカルの頭の中に丁寧に刻み込まれていった。
磯尾は一度も「お前が後継者だ」とは言葉で言わなかった。しかし行動のすべてがそのメッセージだった。
「お父さん、私って結局何になりたいんだろう?」
「なりたいものより、できることを磨け。答えは後からついてくる。」
「それって答えになってないよ。」
「今は分からなくていい。ただ目の前のことを覚え続けろ。」
ヒカルはその言葉の意味を、当時はまだ半分しか理解していなかった。高校の友達には「うちのお父さんってちょっと変だよ」と話していた。
その年の終わり、磯尾の体を突然の病が襲った。ある朝の7時、秘書室長の長瀬美子が社長室に電話をかけたが、誰も出なかった。不審に思った長瀬が自宅を訪ねると、書斎で倒れている磯尾を発見した。急いで救急車を呼び、病院に搬送されたが、意識は戻らなかった。診断は重症の心筋梗塞だった。即座に手術が始まった。
手術室の前でヒカルは壁に背を当て、その場に崩れ落ちた。手術は8時間に及んだ。待合室でヒカルは一晩中、椅子から立ち上がれなかった。長瀬だけが横に付き添い、何も言わずにいてくれた。
「社長は諦めませんよ。磯尾社長は絶対に戻ってきます。」
翌朝、手術を終えた磯尾は意識を取り戻した。しかしその顔は、ヒカルが知る父の姿とは別人のように見えた。磯尾はヒカルの手を握り、掠れた声で言った。
「ヒカル、会社を頼む。社員を守ってくれ。」
「そんなこと言わないで。お父さんはまだ元気でくれなきゃ。」
「俺はお前のことだけが心配ない。それだけ言いたかった。」
磯尾の手は冷たく、しかし確かな力でヒカルの手を握っていた。
その3日後の早朝、牧野磯尾は静かに息を引き取った。享年55歳だった。告別式には社員280名の全員が涙ながらに参列した。取引先の代表も大勢が訪れ、遺影の前で深く頭を垂れた。第三工場の班長は式の間ずっと泣き続けていた。遺族はヒカルと母の二人きりだった。
葬儀から一週間後、顧問弁護士の柏木博幸が遺言書を読み上げた。場所は牧野正規の役員会議室で、役員7名全員が居並んでいた。
「牧野磯尾氏の遺言により、全株式の65%を長女ヒカル氏に遺贈します。代表取締役社長の地位はヒカル氏が引き継ぐものとします。」
その瞬間、役員室に重い沈黙が落ちた。笠原の顔がみるみる蒼ざめていった。
「65%だと?」
柏木は静かに続けた。
「取締役会の解任権を含む、法的に完全有効な遺言書です。ヒカルさん、磯尾さんから封筒もお預かりしています。後ほどお渡しします。」
ヒカルは遺言書の最後に書かれた一文を静かに読んだ。「会社は社員と取引先のものだ。奴らから守れ。」父の筆跡で書かれたその言葉が、ヒカルの胸の奥深くに刻まれた。
その夜、ヒカルは母と二人で食卓を囲んだ。母は目を赤くしながらヒカルの手をそっと握った。
「あなたには荷が重いかもしれない。でも、お父さんが選んだのよ。」
「うん。やれるかどうかじゃなくて、やるしかない気がする。」
母は何も言わず、ただヒカルの手を握り返した。
翌月、ヒカルは正式に代表取締役社長に就任した。就任初日、スーツに着替えて役員会議室のドアを開けようとした時、笠原が腕を組んで入口に立ち、ヒカルの行く手を遮った。
「役員会議は経営経験者のみです。お引き取りください。」
「株主総会で正式に就任しています。入室の権利は私にあります。」
「手続きがどうあれ、実務は我々が行います。ご安心を、社長。」
「社長」という言葉の中に、明確な嘲笑が込められていた。役員たちはヒカルに背を向けたまま議事を進め始めた。
牧野正規での屈辱の日々が、その日から幕を開けた。
就任から一週間が経っても、社長印はヒカルの手に渡らなかった。「書類確認が難しい」という理由が繰り返されるだけだった。就任から10日目、ヒカルは重要な取引先との契約書を確認しようとした。しかし契約書の保管庫の鍵は、笠原の机の中に入れられていた。
「社長印は会社の資産です。適切な管理が必要です。」
「社長が確認できない契約書が、適切な管理とは言えません。」
「ご不満でしたら役員会にかけましょうか。次回の日程を調整して。」
もちろん、その次回の日程が何週間後になるかは分からなかった。就任から10日目の夕方、大手取引先の担当者から電話がかかってきた。
「牧野様から突然ご連絡が来て驚きました。笠原専務からは、今後の窓口は引き続き笠原経由でとお聞きしていますが。」
笠原が取引先との連絡ルートを全て抑えていた。電話を切ったヒカルは、静かに受話器を置いた。取引先への挨拶の予定は「スケジュール調整中」と言われ続けて消えた。役員会議の日程はヒカルに知らされず、議事録だけが事後に届いた。
ヒカルは毎日、社長室と呼ばれる小さな部屋に一人で座っていた。社員たちもヒカルに声をかけることをためらっていた。笠原から「社長室には近づくな」という通達が出ていたからだった。
「社長、お茶をどうぞ。今日も書類は回ってきませんでしたか?」
「うん。でも大丈夫。長瀬さん、少し聞いてもいいですか?」
「何でも聞いてください。私にできることなら何でも。」
「最近、外部の会社が何度も来てるって聞いたんですけど。」
「外資系のファンドが来ています。名前はグローバル・アセット・パートナーズという社名です。」
長瀬美子は創業時から20年間、磯尾の秘書を務め続けた女性だった。役員たちが暴走し始めてから、密かにヒカルを気にかけてきた。ヒカルはその名前をスマートフォンのメモに記録した。
ある日の昼前、笠原が外資系ファンドの担当者をVIPとして迎えていた。廊下で偶然すれ違ったヒカルに、笠原は目もくれなかった。
「こちらが弊社の会議室です。どうぞお入りください。」
5人の外国人を伴った笠原がヒカルの横をすり抜けていった。自分の会社なのに、まるで透明人間のように扱われていた。
三週間目に入ったある午後、ヒカルが笠原たちの会議室の前を通ると、分厚いドアの内側から笠原たちの声が漏れ聞こえてきた。
「グローバル・アセット側は来月末の最終合意を求めている。売却益は我々7名で分配だ。報酬名目で処理すれば税務リスクも低い。」
「18歳の小娘には気づかれないよう進めろよ。数字も読めんだろ。」
ヒカルは廊下に立ったまま、その言葉を全て聞いていた。会社を外資ファンドに秘密裏に売却し、売却益をリベートとして山分けする。父が35年かけて守り続けてきた会社が、売られようとしていた。280名の社員たちの仕事が、一部の人間の私欲で奪われようとしていた。
廊下で歯を食い縛りながら、ヒカルは拳を硬く握りしめた。絶対にさせない。しかし今はまだ動けない。証拠も、権限の行使方法も、まだ手元にない。
ヒカルはその夜、社長室に一人残り、自分で入手できる書類を整理した。財務諸表、取締役の議事録、契約書のコピー。父が経営していた頃と、笠原が実権を握ってからとを比較していった。不審な支出が複数、別の名目に付け替えられていることが見えてきた。しかし、正式な証拠として使えるかどうかは、専門家に確認する必要があった。
就任から一ヶ月が経った金曜日の役員会で、笠原はヒカルを試した。
「今月の経常利益、言ってみてくださいよ。社長なんだから。」
役員全員がニヤニヤとヒカルを見た。
「今月は前月比0. 8%減の12億3000万円。原材料費の高騰と第三工場の稼働率低下が主因です。設備投資の前倒しを提案します。」
一瞬、会議室が静まり返った。誰も想定していない回答だった。
「パパに数字を暗記させてもらったの。」
役員たちが一斉に笑い出した。
「冗談じゃありません。理解しています。」
ヒカルはそれ以上言葉を重ねなかった。怒りを口にしても何も変わらないことを知っていた。ヒカルの内側には怒りの熱があったが、口は静かだった。今は数字で答えることだけが唯一できる抵抗だった。
「設備投資の前倒し?経営判断は我々がします。もういいですよ。」
ヒカルは怒りを飲み込み、静かに部屋を出た。廊下を歩きながら、父の言葉が頭の中に響いた。「できることを磨け、答えは後からついてくる。」
しばらく歩くと、廊下で一人の社員がヒカルに近づいた。第三工場の班長で、勤続20年のベテランだった。
「社長。私たちはあなたのことを応援しています。」
それだけ言うと、男性はすぐに廊下の向こうに消えた。笠原の目があるため、それ以上は話せなかったのだろう。ヒカルは小さく頷き、前を向いた。その言葉がヒカルの背中を温かく押してくれた。
ヒカルはその夜も社長室に残って、一人で書類に向かった。電気が消えた会社の中で、社長室の明かりだけがついていた。財務諸表のページをめくり、数字の変化を追い続けた。父が経営していた5年前と、笠原が主導権を握った2年前とを比べた。役員報酬の欄に不自然な増加が見えた。業務委託費の項目に、具体的な裏付けがない支出があった。証明するにはまだ資料が足りない。しかし方向は分かった。
「お父さんが気づいてたのは、これだったんだ。」
そうつぶやきながら、ヒカルはノートにメモを書き続けた。午前1時を過ぎても、ヒカルはペンを置かなかった。やがて警備員が廊下を通り、社長室の明かりに驚いた。
「ああ、社長。まだいらっしゃったんですか?」
「うん。ちょっと調べたいことがあって。お疲れ様です。」
警備員は一瞬何か言いかけて止まり、そして小声で「頑張ってください」と言い、廊下に消えた。280名のうちの一人が、確かにヒカルのそばにいてくれた。
その翌週の重役会議で、笠原はついに言い放った。あの「金髪ギャルが社長とか正気か。辞めさせてみろよ」という言葉だった。
そしてヒカルは静かに答えた。「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
その夜、ヒカルは実家の父の書斎を初めて丁寧に整理し始めた。本棚の奥に、三冊の古びた革表紙の日記帳が並んでいた。
「お父さんの日記、あったんだ。」
一冊目は五年前から始まっていた。最初のページにこう書かれていた。「笠原が変わった。会社のためではなく、自分のことしか考えていない。」ページをめくるにつれ、笠原への疑惑が詳細に記されていた。役員報酬の水増し請求、架空の業務委託費の計上、そしてグローバル・アセット・パートナーズとの密約の詳細。役員7名が会社売却後に一人5億円ずつのリベートを受け取る計画だった。父は全てを知っていた。そして全てを記録していた。
三冊目の日記には、こんな一節もあった。「笠原は能力がある。だからこそ欲が深くなった。ヒカルには人を見る目と数字を読む力がある。その二つがあれば、会社は守れる。俺はそう信じている。」
「お父さん、私のことずっと信じてたんだね。」
ヒカルは日記を胸に抱きしめ、しばらく動けなかった。父が娘を信じて10年間準備し続けた事実が胸に刺さった。
日記の三冊目の最後のページに、一枚の封筒が挟まれていた。
「ヒカルへ。困った時は柏木弁護士に渡しなさい。愛している。」
ヒカルの目から一粒の涙が畳の上に落ちた。しかし泣く時間はなかった。ヒカルは立ち上がり、電話をかけた。
「柏木さん、夜分に失礼します。父の日記と封筒を見つけました。」
「ヒカルさん、良かった。磯尾さんから依頼を受けていました。」
「全部知っていたんですね。封筒の中身は何ですか?」
「役員全員分の横領と背任の証拠書類のコピーです。準備しましょう。」
柏木博幸は牧野正規の顧問弁護士で、磯尾とは学生時代からの友人だった。磯尾は亡くなる三週間前から、娘のために証拠を整理し始めていた。役員が暴走した時にヒカルが使えるようにという、父の準備だった。封筒の中には300枚を超える証拠書類のコピーが入っていた。経費伝票、役員会の非公式議事録、メールのプリントアウト。亡くなる三週間で整理したとは思えない完璧な証拠の束だった。柏木は封筒を静かに受け取り、「これで戦えます」と言った。
翌日、ヒカルは柏木の事務所で公認会計士も交えた検討会を開いた。
「書類を一通り確認しました。これは十分、証拠として成立します。」
「株式の65%を持つ筆頭株主として、臨時株主総会を招集できますか?」
「単独で過半数があれば、招集可能です。招集は二週間です。」
「横領の金額はどれくらいになりますか?」
「公認会計士の試算では、3億2000万円以上になります。業務上横領罪と特別背任罪の適用可能性が示されました。」
「分かりました。では手続きを進めてください。」
「ヒカルさん、あなた、この二ヶ月間よくここまで耐えました。」
「父さんが全部用意してくれてたんです。私はそれを使うだけです。」
「磯尾さんは最後まであなたのことを考えていましたよ。」
「知ってます。だから、絶対に守らなきゃいけない。」
証拠が固まっていく中で、長瀬が訪ねてきた。
「社長、お渡ししておきたいものがあります。磯尾社長から預かっていたものです。」
「これは?議事録の写し?」
「笠原専務が秘密裏に進めた役員会の議事録です。全員の署名入りです。そこに、外資ファンドへの売却に全役員が同意したことが記されていました。」
全ての証拠が揃った。ヒカルはゆっくりと深く息を吐いた。
「柏木さん、招集通知を出してください。お願いします。」
「分かりました。二週間後に臨時株主総会を開催します。」
牧野正規の全役員に、臨時株主総会の招集通知が届いた。
「誰が招集した?こんな総会は認めないぞ。」
「筆頭株主である牧野ヒカル氏によるご招集です。出席は義務です。」
笠原の顔色が変わった。法に則った正式な手続きに、拒否する根拠はなかった。笠原はすぐに顧問弁護士に電話をかけたが、覆すのは困難との回答だった。今井専務は「ヒカルがどこまで調べているか」と繰り返し笠原に聞いた。しかし笠原には確認する術がなかった。
その夜、ヒカルは父の遺影の前に静かに座った。何も言わず、ただじっと遺影の中の父の顔を見続けた。
「お父さん、やってみるよ。あなたが守ってきたもの、私が守る。」
遺影の中の磯尾は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
臨時株主総会の前夜、ヒカルは社長室で最後の確認をしていた。証拠書類を順番に並べ、想定問答を声に出して練習した。笠原さんが強く反論してきたら、今井さんが手続き上の問題をついてきたら。どんな展開にも即座に答えられるよう、繰り返し繰り返し頭に入れた。
深夜0時を過ぎた頃、長瀬から短いメッセージが届いた。「明日、社長のことを信じています。おやすみなさい。」
「ありがとう、長瀬さん。」
スマートフォンを置いて、ヒカルは窓の外を見た。品川の夜景が広がり、無数の明かりが静かに輝いていた。あの明かりの一つ一つに、誰かの生活があった。誰かの仕事があった。
招集から二週間後の午前10時、臨時株主総会が開幕した。会場は牧野正規の大会議室で、機関投資家の代表と役員7名が呼ばれていた。廊下には社員たちが集まり、会場の外で固唾を飲んで待機していた。
「何があるんだ?」「社長を信じよう。」という声が廊下に漏れていった。長瀬が廊下の先頭に立ち、社員たちを静かに落ち着かせていた。
「大丈夫ですよ。社長を信じましょう。」
ヒカルはスーツ姿で上座に着いた。金髪はそのままだったが、その目の光は二週間前とは別物だった。机の上に並べた書類を一度確認し、静かに顔を上げた。
「株主確認。牧野ヒカル65%。機関投資家20%。以上を確認。」
「待て。この総会は手続き上の瑕疵がある。無効だ。」
「会社法に則った正式な手続きです。瑕疵の根拠はございません。」
「ヒカルさん、あなたはまだ18歳だ。経営の現実は理解できない。我々は20年この会社を支えてきた。これを分かってほしい。」
「分かっています。その20年で何をしてきたかも、全部。」
ヒカルは静かに、しかし確かな声で続けた。
「笠原さん、先日の役員会で仰いましたよね。『本当に社長なら、俺ら役員全員を辞めさせてみろよ』と。」
会議室が静寂に包まれた。役員の誰もがその言葉を覚えていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。役員全員の解任を提案します。」
柏木が決議書をテーブルの上に配布した。
「議案第1号。取締役全員の解任。賛成の方は挙手を。」
ヒカルが右手を静かに上げた。機関投資家の代表も迷わずに手を上げた。賛成比率85%。
解任が即座に可決された。
「今井は異議ありと言いかけて、柏木の視線に黙り込んだ。他の役員たちも顔を見合わせたが、誰も動かなかった。笠原が立ち上がり、テーブルに両手を叩きつけた。
「こんな決議は認めない。20年間この会社を支えたのは俺だぞ。」
ヒカルは動じなかった。
「では、こちらをご確認ください。」
ヒカルは封筒から書類を取り出し、テーブルの上に静かに並べた。報酬の水増し請求の証拠書類、架空委託費の伝票、グローバル・アセット・パートナーズとの密約書の写し。そして役員全員の署名入りの外資売却合意書が、テーブルに広がった。
「な、なぜその書類が……どこから?」
「お父さんが全部残してくれていました。ずっと見てたんですよ。」
笠原は震える手でその書類を取り上げ、目で確認した。それが全て本物であることを、笠原自身が一番よく知っていた。
「背任と業務上横領の証拠として、本日警察に提出します。」
笠原の顔から一瞬にして血の気が引いた。他の役員たちも次々と椅子に沈み込み、顔を俯かせた。
「ま、待ってくれ。話し合いで解決できるはずだ。」
「会社を売り払って一人5億円ずつ山分けするのが、話し合いですか?」
笠原は口をわずかに開きかけたが、言葉が出てこなかった。役員たちの誰一人として、反論の言葉を持っていなかった。父に10年間鍛えられた少女に、ごまかしは効かなかった。
しばらくして、会場の後方のドアが静かに開いた。警察官が二名、室内に入ってきた。
「笠原克彦さん。同行をお願いします。」
笠原は周囲を見回した。役員仲間の誰一人として、視線を合わせようとしなかった。肩を落としたまま立ち上がった笠原の背中は、初めて小さく見えた。続いて今井専務も同行を求められた。残る役員たちは一人ずつ無言で手帳を差し出し、静かに席を立っていった。牧野正規から、笠原ら7名全員の名前が消えた瞬間だった。
終わった。
会議室に残ったのは、ヒカルと柏木と長瀬の三人だった。窓の外には、いつもと変わらない品川の街並みが広がっていた。長い沈黙の後、長瀬が静かに口を開いた。
「社長、お疲れ様でした。磯尾社長が、見ていますよ。」
「うん。絶対見てる。」
ヒカルは笑顔のままそっと目元を拭い、立ち上がった。柏木がヒカルの隣に立ち、静かに言った。
「磯尾さんは、正しい人に会社を残しましたよ。」
「私じゃなくて、お父さんが正しかったんです。」
三人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
総会終了後、ヒカルは全社員を本社のエントランスに集めた。廊下にいた社員たちが、ぞろぞろとエントランスへ集まってくる。第三工場の班長がヒカルを見るなり、深く頭を下げた。他の社員たちも釣られるように頭を下げ始めた。
「皆さん、待たせました。今日を持って役員体制を刷新します。皆さんの仕事は守ります。これはお父さんとの約束です。」
下で聞いていた社員が目を赤くしながら、口を一文字に結んでいた。エントランスから大きな拍手が湧き上がった。
「社長!」という声が廊下に響き渡った。ヒカルは全員に向かって、深く深く頭を下げた。金髪を垂らしながら頭を下げる姿に、誰かがまたすすり泣いた。ヒカルが顔を上げると、社員たちが温かい目でこちらを見ていた。
「お父さんが言っていました。会社は社員と取引先のためにあると。私はその言葉通りに、この会社を経営します。よろしくお願いします。」
拍手は止まらなかった。エントランスに笑顔と涙が溢れていた。ヒカルの目にも、気づけば涙が浮かんでいた。金髪がさらりと揺れ、ヒカルの顔には父と同じ笑顔が浮かんでいた。
翌日、大手取引先の担当者からヒカルに直接電話がかかってきた。
「牧野社長、昨日のお話は世間でも広まっています。これからも牧野正規さんとのお付き合いをよろしくお願いします。」
ヒカルは電話を持つ手が少し震えていることに気づいた。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。」
そう答えて、ヒカルは笑った。
その日の午後、ヒカルは初めて第三工場の床を歩いた。機械の音が響く工場内で、班長が機械を止めて振り返った。20名の作業員が揃ってヒカルの方を向いた。
「社長、来てくれたんですか?」
「ずっと来たかったんです。皆さんのおかげで、会社が動いてる。」
誰も何も言わなかった。ただ静かに頷いていた。ヒカルは工場の隅々を歩き、機械の名前を一つ一つ確認した。班長がヒカルの隣を並んで歩きながら、機械の説明をしてくれた。
「これが3年前に導入した設備です。笠原専務に却下された改造案があって……」
班長は苦笑しながら話した。ヒカルはその横でメモを取っていった。
「その改造案、もう一度出してください。検討します。」
班長は一瞬立ち止まって、驚いたように聞き返した。
「本当ですか?」
「こんなに丁寧に聞いてくれた社長さんは初めてだ。」
臨時株主総会から三ヶ月が経った牧野正規株式会社は、新体制のもと着実に業績を回復させていた。柏木が新たな取締役会長に就任し、長瀬が執行役員に昇格した。笠原ら旧役員三名は一斉に起訴され、刑事裁判が始まろうとしていた。背任罪、業務上横領罪など、複数の罪名が笠原らに科せられた。外資への売却が成立していれば、社員280名全員の雇用が消えていた。ヒカルはその数字を改めて確認し、静かに目を閉じた。笠原らへの怒りはもうなかった。残ったのは、静かな安堵だけだった。
外資ファンドへの秘密売却計画は完全に頓挫し、取引先の信頼も戻り始めた。第三工場では班長中心に残業なしで売上目標を達成した。「社長を守ろう」という空気が社内に静かに広がっていった。笠原が怖くて言えなかった意見が、会議で次々と出るようになった。「改善提案」という言葉が社内のあちこちで聞こえ始めた。
ある朝のことだった。ヒカルが出社すると、玄関に花束が置いてあった。
「取引先の山崎電気さんから届きました。社長の就任祝いです。」
「遅いお祝いだね。」
「本物だと確かめてから送りたかったんでしょう。」
ヒカルは花束を抱え、社長室のデスクの横に飾った。あの小さな、誰も来なかった社長室が、少しずつ変わっていった。
一方で笠原は、知人の連絡先から家族に一切連絡を取らなかった。かつて「俺がこの会社を作った」と豪語していた男が、今は独居房で裁判の日を待っていた。18歳の小娘に何ができると笑った男が、その小娘に全てを暴かれた。皮肉な逆転だった。
「お母さん、経営学部ってやっぱり難しいのかな?」
「簿記が全部読めるんだから、絶対大丈夫よ。」
「大学行きながら社長やってる人っているのかな?」
「いるわよ。あなたがその一人になればいい。」
「うん。お父さんに恥ずかしくない経営者になる。」
ヒカルは柔らかく笑い、手元のコップのお茶を一口飲んだ。父がいつも食卓に広げてくれていた簿記の数字が脳裏に浮かんだ。あの頃は意味が分からなかった数字が、今は全部読めた。父が10年かけて教えてくれたものが、血肉になっていった。
ヒカルは出勤前に毎朝、父の遺影に手を合わせるようになっていった。
「お父さん、今日も行ってくるよ。」
返事はない。しかし、いつもそこにいてくれる気がした。
金髪ギャルのまま、ヒカルは今日も会社へ向かう。父の意思を胸に刻みながら、280名の仲間の未来を守るために。嘲笑した役員たちは、笑った相手が何者だったかを今頃知った。傲慢な嘲笑が自分たちを滅ぼす引き金になったことを。
これは、正しく生きた父の愛が、娘に確かに引き継がれた物語だった。



