朝、茂彦が台所で番茶を沸かしていると、玄関のチャイムが鳴った。午前10時を少し過ぎた頃だった。扉を開けると、2年ぶりに息子の洋介が立っていた。スーツ姿で、額に汗をかいていた。
「寒くないか」
洋介はそう言ったが、茂彦は答えなかった。台所に通し、湯飲みにもう一つ番茶を注いだ。洋介は持ってきた紙袋から3冊のパンフレットをテーブルに並べた。老人ホームのものだった。
「もう2026年だろう。1人暮らしの年寄りを狙った犯罪が増えてる。家を売っ払ってちゃんとしたところに入った方がいい。ここのホームは俺が見てきたんだ。いい施設だから。お金が余ったら俺が貯金しといてやるから」
茂彦は息子の顔を見た。目が落ち着かず、あちこちを彷徨っていた。茂彦は立ち上がり、背を向けたまま言った。
「考えてみる」
それだけだった。洋介は何か言いかけたが、パンフレットを残して帰って行った。
3日後、茂彦はパンフレットに書かれた施設の名前を、息子が置いていった古いタブレットで調べた。検索結果に最初に出てきたのは、施設の公式ページではなかった。ニュース記事だった。入居者への虐待、夜間の無人状態、無資格の職員による医療行為、不審な死亡例。内部告発で明らかになった問題が列挙されていた。処分は業務改善命令だけ。施設はまだ営業を続けていた。
茂彦は画面を見たまま動かなかった。息子がその施設を選んだ理由が分かった。行政に指摘されながら営業を続けるような場所は、入居費用が安い。入居者が何人死んでも、書類の上では自然死として処理される。洋介は金に困っている。この家を売ればまとまった金が入る。自分が施設に入ってしまえば、自由に動ける。
翌朝、茂彦は100円均一の店で人感センサー付きのLEDライトを4個買った。廊下の壁、便所の入り口の上、台所に続く曲がり角に貼り付けた。夜、初めて廊下を歩くと、足元がぱっと明るくなった。自分で決めて自分でやった。それで十分だと思った。
だが、区の高齢者支援センターに相談の電話をしたのは12月中旬のことだった。3日後、20代後半の女性職員が訪ねてきた。名札には「木田」とあった。茂彦は話した。月10万円の年金で暮らしていること、息子が問題のある施設への入居を進めてきたこと、息子が何かを企んでいるような気がすること。木田は黙って手帳に書き続けた。
「息子さんとの関係で、具体的なトラブルはありましたか」
茂彦は首を振った。木田はまた何かを書いた。
「現在、認知機能に問題を感じることはありますか」
「ない」
木田は頷き、状況を記録して担当部署に伝えますと言って帰って行った。
2日後、茂彦が買い物から戻ると、玄関の鍵が閉まっていなかった。かけたはずだった。毎日やっていることだ。中に入ると、廊下の奥のセンサーライトが消えかけの状態だった。誰かがそこを通ったのが少し前だということだ。台所から声がした。洋介の声と、もう一人見知らぬ男の声。
台所の入り口に立つと、洋介と50代くらいの男がいた。男はレーザー機器で壁から窓にかけて何かを測っていた。胸のバッジには不動産会社の名前があった。買い取りや任意売却を専門に扱う業者だった。茂彦は何も言わず、奥の部屋に入って襖を閉めた。洋介が「誤解しないでくれ。家の老朽化が進んでるし、ちゃんと評価しておいた方が都合いいだろう」と呼びかけたが、答えなかった。
4日後、陽介がボストンバッグを持って家に住み始めた。
「しばらく世話になる」
茂彦は湯飲みを見たまま返事をしなかった。陽介は冷蔵庫を開け、部屋を確認し、まるで自分の家のように動き回った。夜中に隣の部屋からスマートフォンの光が漏れることもあった。眠りが浅くなった。
ある夜、洋介が酒を飲んで泥のように眠った。茂彦は起き上がり、台所に置かれた洋介の鞄を開けた。中には消費者金融3社からの通知が入っていた。残高は大きかった。フランチャイズの弁当屋の契約書と解約書、違約金の条項もあった。そして最後の1枚。不動産の売買に関する委任状だった。委任者欄に茂彦の名前が印刷され、印鑑の跡があった。自分が押した覚えはなかった。両親の印鑑は仏壇の引き出しにしまってあった。だが、陽介が使ってから戻した可能性は十分にあった。
翌朝、茂彦は書類をテーブルに置いた。
「鞄の中身を見た」
陽介の手が止まった。長い沈黙の後、彼は椅子を引き、床に膝をついた。土下座だった。
「助けてくれ。借金のことは分かってる。取り立てが来てる。逃げ場がない。弁当屋がうまくいくと思ってたんだ」
それから、声が変わった。
「お前も悪いんだぞ。俺がこうなったのは、お前が金もない親のままだったからだ。ちゃんとした親なら、もっと稼いでちゃんとした教育を受けさせてくれたはずだ。俺が失敗したのはお前のせいだ」
茂彦は床に額をつける息子の後頭部を見ていた。髪が薄くなっていた。
「出ていけ」
静かに短く、それだけ言った。
「俺が死ぬぞ」
陽介の声は懇願ではなくなっていた。彼はゆっくりと頭を上げた。目が赤かったが、涙はなかった。何かが変わっていた。ほんの数秒後、陽介が動いた。茂彦は椅子ごと後ろに押し倒された。83歳の体では抵抗できなかった。陽介の手がジャンパーの内ポケットに入り、鍵、印鑑、通帳を引き抜いた。茂彦は陽介の手首に噛みついた。皮膚の味がした。だが、手は離れなかった。
陽介はそのまま走り去った。台所が静かになった。茂彦は床に横になったまま、天井を見ていた。肋骨の辺りが痛かった。テーブルの上に委任状が残されていた。彼はそれを畳んでポケットに入れた。
翌朝、茂彦は警察署に行った。受付で「息子に通帳と印鑑を奪われた。暴力もあった」と告げた。別室で40代の警官が話を聞いた。茂彦は委任状をテーブルに置き、すべてを話した。警官はそれを見て、部屋を出た。30分後、年配の男を連れて戻ってきた。
「息子さんから、先週、福祉関係の書類が提出されていました。お父さんの認知機能についての医師の診断書と相談記録が添付されていました。成年後見の申し立てが家庭裁判所に提出されています。現在、審査中です」
茂彦は黙った。
「これは偽造だ。認知症ではない」
「それについては、家庭裁判所の手続きの中で確認されることになります。通帳や印鑑については、成年後見の申し立てが継続中である以上、現時点で被害届を受理することは難しい状況です」
茂彦は立ち上がり、委任状を取り戻し、署を出た。外の雪が顔に当たった。次に区役所に行き、相談記録の開示を申請した。手続きが必要で、後日になると言われた。
2日後、家の電気が変になった。蛍光灯が点滅し、やがて完全に消えた。翌朝、固定電話の回線が切れていた。その次の朝、水道の蛇口を開けると水が出なかった。偶然が三つ重なることはなかった。陽介が手続きを進めているのだ。茂彦は残りの現金を数え、ペットボトルの水を買いに行った。帰り道、公衆電話からホットラインに電話をかけた。弁護士相談の予約は最短でも来週以降になると言われた。
家に帰ると、玄関前に見知らぬ黒い軽トラックが停まっていた。茂彦は裏口に回った。鍵は洋介が持っていたが、ドアノブを回すと開いた。中から声がした。陽介と何人かの男たち。廊下に立つと、陽介が現れた。昨日の顔とは違っていた。謝罪も懇願もなかった。
「荷物をまとめてくれ。後見の申し立ては通る。時間の問題だ。どうせ出ていくことになる。今出ていけば、施設の費用は出してやる。抵抗しても意味がない」
男たちが3人、作業着を着て出てきた。一人はバールのようなものを持っていた。茂彦は自分の部屋に入り、襖を閉めて内側から抑えた。押入れの奥にあった古い出刃包丁を取り出し、膝の上に置いた。使うつもりはなかった。ただ持っていた。襖が外側から叩かれた。
「開けないと壊すぞ」
バールの音がした。木がきしむ音。茂彦は包丁を握ったまま、静かに息をしていた。怖くはなかった。ただ、この襖がいつまで持つかを考えていた。陽介の声が変わった。電話をしているようだった。しばらくすると、バールの音が止んだ。廊下が静かになった。センサーライトが消えた。誰も動いていないらしかった。
夜が来た。襖の外から、今度は拳で叩く音がした。
「開けてくれ。頼む」
陽介の声はすすり泣くようだった。
「父さん、俺もどうしようもないんだ。あいつらに首根っこ掴まれてる。お前が出てきて施設に入る紙にサインしてくれれば、それで全部終わるんだ」
茂彦は答えなかった。陽介の声がまた変わった。
「いい加減にしろよ。お前が意地張ってるからこうなってるんだぞ。さっさと諦めればよかったんだ。なんでお前みたいな貧乏人が、最後まで意地だけは捨てないんだ」
茂彦は暗い部屋の中で、膝の上の出刃包丁を見ていた。この包丁で誰かを傷つければ、自分は加害者になる。それは違う。別のやり方がある。彼は静かに立ち上がり、包丁を畳の上に置いた。
押入れの下の床板に目をやった。10年以上前、床がきしむので自分で直した時、1枚の板が外れることに気づいた。下に小さな空間があった。妻が亡くなった後、家の権利関係の書類をそこに移した。鉄の金庫は、洋介がいつでもアクセスできることに不安を覚えていたからだ。彼は板を持ち上げ、中からビニール袋に包まれた書類を取り出した。土地と建物の登記簿謄本の原本、権利書、数年前に書いた遺言書の控え。洋介に家を相続させると書いたものだった。
茂彦は古いアルミの鍋を引き寄せ、灯油を注いだ。そして、畳の上に並べた書類を一枚一枚、鍋の中に入れた。登記簿、権利書、遺言書の控え。火をつけるのはこの家ではない。燃やすのは書類だけだ。マッチを一本擦り、鍋の中に落とした。青白い炎が立ち上がった。書類がちじれ、黒くなり、燃えていった。登記簿の文字が、権利書の印影が、遺言書に書いた洋介の名前が、炎の中で消えていった。茂彦はその様子を最後まで見ていた。涙は出なかった。怒りもなかった。ただ、何かが終わったという感覚だけがあった。
炎が小さくなり、灰だけになった頃、鍋に水をかけた。茂彦は襖に近づき、ゆっくりと開けた。廊下に煙の匂いが流れていった。男たちが後ずさった。洋介が走ってきた。
「父さん、何やってんだ!」
茂彦は何も言わず、部屋の中を指した。アルミの鍋が畳の上に置かれ、中には灰だけが残っていた。洋介は畳に膝をつき、灰をかき分けた。指先が黒くなった。何かを探していた。文字の跡を探していた。だが、何も残っていなかった。
「ああ……」
洋介はその場に座り込んだ。言葉にならない声だった。拳を畳に打ちつけた。茂彦はその姿を見ていた。息子が泣いているのか怒っているのか、よくわからなかった。両方かもしれなかった。だが、それはもう茂彦の問題ではなかった。
茂彦は押入れの奥にあった古いボストンバッグを取り出し、着替えを詰めた。財布、テレホンカード、年金手帳。それだけだった。廊下に出ると、男たちが道を開けた。誰も彼を止めなかった。止める理由がなくなっていた。茂彦は玄関で靴を履いた。男の一人が何も言わずに扉を開けた。彼は外に出た。
40年以上住んだ家だった。妻と暮らし、洋介を育てた家だった。100円均一のセンサーライトを取り付けた家だった。茂彦は振り返らなかった。道路に出て左に折れ、駅の方向に向かった。今夜どこで眠るかは決まっていなかった。財布の中の現金がいくらあるか、およそ覚えていた。多くはなかった。それでも足は止まらなかった。
歩きながら自分の手を見た。指先に灰の匂いがまだ残っていた。その手で、自分の人生に関わる書類を自分の意思で燃やした。誰かに指示されたのではなく、自分で決めて自分でやった。それだけが今の茂彦に残っているものだった。家もない、金もない、証明書もない、家族もいない。それは紛れもない事実だった。だが、その全てを誰かに奪われたのではなく、自分の手で終わらせた。その違いが、今の茂彦には大きかった。
駅前の明かりが見えてきた。コンビニの看板が遠くに光っていた。風が強くなった。茂彦はジャンパーの襟を立て、その光に向かって歩き続けた。



