インターホン越しに「警察呼びますよ」と嫁に言われたその日、私は八時間かけて孫の四歳の誕生日を祝いに来ていたのに、プレゼントごと追い返された。何とか紙袋を置いて帰ろうとしたのに、オートロックの前で呆然と立ち尽くすしかなかった。翌日、警察から電話で呼び出された。まさか、本当に通報されたのかと思った。しかし、刑事が見せてきたのは、私が書いた記憶もない「権利放棄証明書」だった。「三千万円の信託が、あ…

インターホン越しに「警察呼びますよ」と嫁に言われたその日、私は八時間かけて孫の四歳の誕生日を祝いに来ていたのに、プレゼントごと追い返された。何とか紙袋を置いて帰ろうとしたのに、オートロックの前で呆然と立ち尽くすしかなかった。翌日、警察から電話で呼び出された。まさか、本当に通報されたのかと思った。しかし、刑事が見せてきたのは、私が書いた記憶もない「権利放棄証明書」だった。「三千万円の信託が、あ...

家のインターホン越しに、嫁のはるかの冷たい声が響いた。私は耳を疑った。朝の五時に家を出て、新幹線、在来線、バス、タクシーを乗り継いで、ここに着くまで八時間。大切に抱えてきた大きな紙袋が、急に重く感じられた。今日は孫のユウくんの四歳の誕生日だ。一年ぶりに会える日を、本当に楽しみにしていた。

「お母さん、帰ってもらえますか?」

私は震える声で頼んだ。ユウくんに会わせてほしい、誕生日プレゼントを持ってきたのだと。しかし、玄関のドアは固く閉ざされたままだった。三十八年間、私立図書館で子供たちに本を読み聞かせてきた私にとって、孫は特別な存在だ。その子に会えないなんて。

「もう来ないでって言いました。ユウ君が混乱するんです」

その声には、一片の温かみもなかった。タクシーの運転手さんが心配そうに車内で待っている。私の足は疲労で震え、心は絶望で満たされていった。無機質なマンションの廊下に、私だけの存在が間違っているかのようだった。

なぜこんなことになってしまったのだろう。五年前の息子・コウタの結婚式では、はるかも私に優しくしてくれていた。「お母さん、これからよろしくお願いします」と深々と頭を下げる彼女を見て、私は心から良き嫁を得たと喜んだものだ。退職金一千二百万円のうち、七百万円を二人のマイホーム購入の頭金として援助した。息子が遠慮するのを、「親として当然のことよ」と笑って答えたのを覚えている。

そして四年前、待望の孫のユウ君が生まれた。初めて泣いた時の、あの小さな命のぬくもりは今でも忘れられない。最初の一年間は毎週末に都心まで通い、子育ての手伝いをさせてもらった。図書館で培った読み聞かせの技術を生かして、たくさんの絵本を読んであげた。あの頃は本当に幸せだった。

しかし、ユウ君が二歳を過ぎた頃から、はるかの態度が少しずつ変わり始めた。「お母さんの育児方針は古いんです。月に一回、二時間だけにしてください」と、会える時間がどんどん制限されていった。それでも私は孫に会えるだけで幸せだった。限られた時間を大切に、精一杯の愛情を注いできたつもりだ。

最初の変化は些細なことから始まった。「お母さん、その絵本は教育上良くないんです」。私が自慢した昔話の絵本を見た時のことだ。桃太郎や浦島太郎など、図書館で子供たちに愛されていた定番の物語。しかし、はるかは首を横に振るばかりだった。「今は英語の絵本とか論理的な本が主流なんです。時代遅れの価値観を押し付けないでください」。その言葉に私は深く傷ついた。三十八年間、子供たちの目を輝かせてきた絵本が無価値だと言われたような気がしたのだ。

次第に制限は厳しくなっていった。「お母さんにしてお菓子をあげないでください。アレルギーの検査もしていないのに」「その服、趣味が悪いです。うちの教育方針に合いません」「方言で話しかけるの、やめてもらえますか? 標準語で育てたいので」。一つ一つは小さなことかもしれない。でも、私の存在そのものが否定されているような気がして、訪問のたびに心が重くなっていった。

決定的だったのは去年のクリスマスだ。絵本のプレゼントを持って訪ねた私を、はるかは玄関で止めた。「プレゼントだけ置いて行ってください。私の実家の両親も来るので、混乱させたくないんです」。「せめて顔だけでも見せて」と言っても、「お母さん、空気読んでください。私の両親は元大学教授なんです。教育レベルが違うんですよ」と見下すような表情をされた。その時の彼女の顔を、私は一生忘れることができない。

コウタも、いつの間にかはるかの味方になっていた。「母さん、はるかの言うことも一理あるよ。母さんの教育方法は確かに古いかもしれない」。「でも、あなたもその方法で立派に育ったじゃない」と言っても、「時代が違うんだ。今は競争社会だから、もっと効率的な教育が必要なんだよ」と返されるだけだった。息子の変わりように、私は言葉を失った。

今年に入ってからはもっとひどくなった。誕生日や祝日など特別な日でさえ、会わせてもらえない。プレゼントを送っても、開封されたかどうかも分からない。お礼の連絡すらない。「ユウの教育に良くないので、しばらく距離を置きたいんです」。はるかからのラインはいつも一方的で冷たいものだった。

それでも私は諦めなかった。孫への愛情は、どんな仕打ちを受けても変わることはない。手紙を書き、写真を送り、なんとか関係を取り戻そうと努力した。しかし、返事が来ることはなかった。

そして今日、ユウ君の四歳の誕生日。私は最後の望みをかけて、八時間の道のりを経てここまで来たのだ。足も膝も悲鳴をあげているが、孫に会えるならそんな苦労など何でもない。

「はるかさん、お願いです。今日だけでも合わせてください」

インターホンに向かって必死に訴えた。

「だからもう来ないでって言ったでしょう。いい加減にしてください」

「せめてコウタに変わってもらえませんか?」

「主人は仕事です。とにかく帰ってください」

「この紙袋、ユウ君の誕生日プレゼントなんです。せめて、これだけでも」

「いりません。本当に迷惑なんです。警察呼びますよ」

その言葉で、私の心は完全に打ち砕かれた。警察を呼ぶだと? まるで私が犯罪者のような扱いだ。三十八年間、地域の子供たちに慕われ、先生と呼ばれて尊敬されてきた私が、実の孫に会うことさえ犯罪扱いされるなんて。涙が込み上げてきた。

でも、ここで泣いてはいけない。タクシーの運転手さんも心配そうに見ている。私は震える手で紙袋を抱え直し、マンションのエントランスを後にした。せめて、物思いで玄関の前に紙袋を置いていこうかと思ったが、きっと捨てられてしまうだろう。こんなにも孫を想う気持ちが、なぜ理解されないのだろうか。

タクシーに戻ろうとした時、エントランスのドアが開く音がした。一瞬、心に希望の光が差した。もしかしたら、はるかが考え直してくれたのかもしれない。しかし、聞こえてきたのは息子の声だった。

「母さん、なんで来たんだよ」

コウタは仕事だと言っていたはずなのに、家にいたのだ。スーツ姿ではなく、部屋着のままで。

「コウタ、お願い。ユウ君に会わせて。四歳の誕生日なのよ」

「もう僕たちに関わらないでくれ」

その表情は、私が知っている優しいコウタではなかった。

「はるかの実家の方がユウの教育にはいいんだ。向こうのお父さんは元大学教授で、お母さんは有名私立の元教師。レベルが違うんだよ」

「レベル? 私だって三十八年間、子供たちと向き合ってきたのよ」

「母さんを私立図書館の司書と一緒にしないでくれ。恥ずかしいんだ」

恥ずかしい。その言葉が鋭い刃となって、私の心を切り裂いた。

「それに母さんの教育方針は古臭い。昔話なんて読んで何の意味があるんだ。これからは英語とプログラミングの時代なんだよ」

「でも、情操教育も大切でしょう。優しい心を育てることも」

「優しさじゃ飯は食えない。母さんには分からないだろうけど、競争社会で生き残るにはもっと実践的な教育が必要なんだ」

コウタの言葉は、まるで暗記したかのように機械的だった。きっとはるかやその両親から聞かされた言葉を、そのまま繰り返しているのだろう。

「七百万円も援助してもらって、その言い方はないんじゃないの?」

つい口に出してしまった。言ってはいけない言葉だと分かっていたが、あまりの理不尽さに我慢できなかったのだ。

「それとこれとは別だろう。金を出したから孫に会える権利があるとでも? そういう考え方が古いんだよ」

「そんなつもりじゃ…」

「とにかくもう来ないでくれ。はるかもユウも、母さんのことなんて覚えていない方が幸せなんだ」

最後の言葉を言い終えると、コウタはドアを閉めようとした。

「待って。せめて、これだけでも」

私は必死に紙袋を差し出したが、コウタは振り返ることもなく、パタンとドアを閉めてしまった。その音が、私と家族との繋がりを断ち切る音のように聞こえた。

立ち尽くす私に、タクシーの運転手さんが声をかけてくださった。

「お客さん、大丈夫ですか?」

「はい。申し訳ありません。もう少しだけ待っていただけますか?」

せめてこのプレゼントだけでもと思ったが、オートロックで中に入ることもできない。仕方なく、私は重い足取りでタクシーに戻った。八時間かけてきた道を、また八時間かけて帰るのだ。手には渡すことのできなかった紙袋、心には言い表せない傷。

「駅までお願いします」

そう告げて、シートに深く身を沈めた。窓の外では小雨が降り始めていた。

その時だ。

「運転手さん、すみません!」

私は慌ててタクシーを降りた。プレゼントが入った紙袋を忘れてきたのだ。あまりのショックで、手に持っていたはずの紙袋をどこかに置いてしまったらしい。急いでエントランスまで戻ったが、そこに紙袋はなかった。オートロックのドアは固く閉ざされ、インターホンを押す勇気もない。ユウ君の最後のプレゼント。それさえも渡すことができないなんて。私は雨に濡れながら、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

タクシーで駅に向かう途中、私の心は深い絶望に沈んでいた。窓を打つ雨音が、まるで私の涙のように思える。運転手さんは気を使って、そっとしておいてくださった。

駅について、待合室で次の電車を待っていた時、スマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からの着信だった。

「もしもし。佐野千子さんでいらっしゃいますか?」

「はい、そうですが」

「こちら警察署のものです。先ほどお孫さんのご自宅を訪問されましたね」

警察? まさか、本当にはるかが通報したのだろうか。私の血の気が引いた。

「あの、私は何も悪いことは…」

「いえいえ、そうではありません。実は重要な発見がありまして、すぐに戻っていただけますか?」

警察官の声は、なぜか緊迫していた。

「発見? 何のことでしょうか?」

「詳しくは現場でご説明します。パトカーをそちらに向かわせますので」

電話は一方的に切れた。一体何が起きたのだろうか。不安と困惑を抱えながら、私は指定された場所で待つことにした。

三十分後、サイレンを鳴らしたパトカーが到着した。若い警察官が降りてきて、私を確認するとすぐに乗るよう促した。

「一体何があったんですか?」

「詳しくは現場で刑事から説明があります。とにかく急いでください」

パトカーは猛スピードで戻っていった。サイレンの音が不安をさらに煽る。まさかコウタやユウ君に何かあったのだろうか?

マンションに到着すると、そこは異様な光景だった。パトカーが三台、救急車も一台止まっている。野次馬も集まり始めていた。エントランスでは、はるかが半狂乱になって叫んでいた。

「お母さん! お母さんはどこ? 早く読んで!」

コウタも顔面蒼白で、警察官に何か説明している。「母が置いていったんです。まさか、こんなものが」

私が姿を現すと、はるかが駆け寄ってきた。今までの冷たい態度とは打って変わって、私の手を握りしめる。

「お母さん、これは一体…説明してください」

「落ち着いてください。私にも何が何だか…」

その時、刑事が近づいてきた。

「佐野千子さんですね。ちょっとこちらへ」

刑事に案内されて向かった先には、私が置き忘れた紙袋がビニールシートに覆われて置かれていた。

「これはあなたのものですね」

「はい。孫の誕生日プレゼントです。でも、なぜこんな大騒ぎに…」

「中身を確認させていただきました。大変重要な書類が入っていたもので」

刑事は手袋をはめた手で慎重に紙袋を開けた。中から出てきたのは、私が心を込めて作った手作りの絵本と、もう一つの封筒だった。

「この封筒の中身が問題でして」

「封筒? 私は絵本しか入れていないはずです」

刑事が封筒を開けると、中から数枚の書類が出てきた。

「権利放棄証明書? これはあなたが作成されたものですか?」

権利放棄証明書。私には全く心当たりがない。

「いえ、私はそんなもの…」

その時、書類の内容が目に入った。そして、私は凍りついた。そこには確かに私の名前と印鑑があった。でも、私が作った覚えはない。内容を読むと、さらに驚愕した。

「全財産三千万円をユウ君の教育資金信託として設定し、成人するまで第三者機関が管理する。両親である佐野コウタ、はるかは一切関与できないものとする」

三千万円? 私にそんな財産はない。退職金の残りと貯金を合わせても、五百万円程度だ。

「これは私が書いたものではありません」

「しかし、筆跡鑑定では一致しています」

刑事の言葉に、私は言葉を失った。確かに筆跡は私のものに似ている。でも、書いた記憶がないのだ。

はるかとコウタが青ざめた顔で近寄ってきた。

「お母さん、三千万円って? 知りません」

「私にはそんなお金…」

その時、刑事がもう一枚の書類を見せた。

「実は信託銀行に確認したところ、確かに佐野千子さん名義で三千万円の信託が設定されていました。五年前の日付です」

五年前。コウタが結婚した年だ。でも、そんな大金を…。

突然、記憶が蘇った。私の脳裏に五年前の光景が鮮明に蘇ってきた。コウタの結婚が決まった頃、私は私立図書館を定年退職したばかりだった。三十八年間の勤務に対して、退職金一千万円が支給された。そして同じ頃、もう一つの知らせが届いていたのだ。二十年前に亡くなった主人のおばから、思いがけない遺産相続の通知。子供のいなかったおばは生前私をとても可愛がってくれていた。まさか遺産を残してくれているとは思いもよらなかった。その額、二千五百万円。合わせて三千七百万円。突然の大金に戸惑った。

そして、コウタの結婚資金として七百万円を渡し、残りの三千万円をどうするか悩んでいた時期だった。

でも、なぜそれが信託になっているのか。そして、なぜ私はそのことを忘れていたのか。

刑事が続けた。

「実はもう一つ、重要な書類があります」

それは、診断書だった。日付は三年前。そこには信じられない文字が並んでいた。

「進行性膵臓がん、ステージ4。余命一年から二年」

私はその場に崩れ落ちそうになった。はるかが私を支えてくれたが、その手が震えているのが分かった。

「お母さん、これは…」

記憶の霧が、少しずつ晴れていった。そうだ。私は三年前、がんの宣告を受けていたのだ。そして、治療を拒否していた。なぜなら、そのお金をコウタの幸せのために使いたかったから。でも、孫が生まれてから私の中で何かが変わった。この子のために生きたい。せめて成長を見守りたい。その一心で、こっそりと治療を始めたのだ。治療費は貯金から出した。コウタには内緒にしていた。心配をかけたくなかったから。

そして、三千万円の行方も思い出した。弁護士に相談して、ユウ君のための教育信託を設定していたのだ。もし私に何かあっても、この子の教育だけは保証したかった。でも、なぜか信託設定後、そのことをすっかり忘れていた。

刑事が説明を続ける。

「信託の内容によると、受益者であるユウ君が四歳の誕生日を迎えた時点で、信託財産の存在を受託者である銀行が通知することになっています。そして、もしユウ君がそこにある祖母に会うことを両親が妨害した場合、信託財産は全額、児童養護施設に寄付されることになっています」

はるかが悲鳴のような声を上げた。

「そんな! 三千万円が!」

「ただし、救済措置があります。千子さん本人が『妨害はなかった』と証言すれば、信託は予定通りユウ君のために使われます」

刑事の視線が私に向けられた。はるかとコウタも、すがるような目で私を見ている。さっきまでの冷たい態度は、どこへ行ってしまったのだろうか。

「お母さん、お願いします。妨害なんてしていません。ちょっと行き違いがあっただけで…」

はるかが必死に弁解する。

「そうだよ、母さん。僕たちはただユウ君のことを思って…」

コウタも同調した。私はじっと二人を見つめた。インターホンで追い返され、存在を否定され、警察を呼ぶとまで言われた私の気持ちを、この二人は理解しているのだろうか。

三千万円か。私がつぶやくと、二人はさらに顔を青ざめさせた。でも、私が本当に悲しかったのはお金のことではない。孫に会えないこと、家族として扱われないこと、三十八年間の人生を否定されたこと。そして何より、息子が金銭と引き換えに母親を切り捨てたことだ。

「刑事さん」

私は静かに口を開いた。

「本当のことを申し上げます」

はるかとコウタが息を飲んだ。

「私は確かに今日、八時間かけて孫の誕生日を祝いに来ました。しかし…」

間を置いて、私は続けた。

「エントランスの時点で追い返されました。『お母さん、帰ってください』と。孫にも会えず、プレゼントも受け取ってもらえませんでした」

「お母さん!」

はるかが叫んだが、私は構わず続けた。

「さらに息子からは、『もう関わらないでくれ』『母さんのことなんて覚えていない方が幸せ』とまで言われました。これが妨害でなくて、何なのでしょうか?」

刑事は頷きながら記録を取っている。

「わかりました。では、信託契約の条件に従い、三千万円は児童養護施設への寄付となります」

「待ってください!」

コウタが必死に食い下がる。

「母さん、考え直してくれ。ユウ君のためなんだろう。ユウ君に罪はないんだ」

「ええ、ユウ君に罪はありません」

私は静かに答えた。

「だからこそ、こんな親に育てられるより、きちんとした施設で多くの子供たちのために使われる方が有意義だと思います」

実は、この信託にはもう一つ条件があった。私が生存している間は、いつでも受取人を変更できるという条項だ。つまり、私が望めばユウ君の信託を復活させることもできるのだ。でも、それを二人に教えるつもりはない。

「お金と家族、どちらが大切だったのか、よく考えてみてください」

私は呆然と立ち尽くす二人を残して、その場を後にした。手作りの絵本だけは、警察官にお願いして返してもらった。これだけは、いつかユウ君に渡したい。

三千万円を失った二人が、これからどんな生活を送るのか。それは私の知るところではない。ただ一つ言えるのは、愛情を踏みにじった者へのこれが当然の報いだということだ。

あの騒動から三ヶ月が経った。私は今、親友のヨシコが経営する小さな温泉旅館で、穏やかな日々を送っている。窓から見える山々の緑が、心を癒してくれる。

「シズコ、今日も顔色がいいわね」

ヨシコが温かいお茶を運んできてくれた。彼女とは図書館時代からの三十年の友人だ。私の病気のことを知って、すぐに「うちに来なさい」と言ってくれた。

「ヨシコのおかげよ。本当の家族がここにいるみたい」

「何言ってるの? 私たちはとっくに家族でしょう」

彼女の優しさに、目頭が熱くなる。血の繋がりがなくても、こんなに温かい関係が築けるのだ。それなのに、実の息子は…。

実はあの日から、コウタとはるかから何度も連絡があった。最初は謝罪の電話だった。「母さん、本当にごめん。俺が間違っていた」「お母さん、どうか許してください」。でも、私の心は動かなかった。謝罪の言葉の端々に、三千万円への未練が透けて見えたからだ。

次に来たのは、ユウ君からの手紙だった。たどたどしい字で「おばあちゃん、会いたい」と書かれていた。胸が締めつけられた。罪のないユウ君には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でも、今のコウタとはるかに育てられるより、お金がなくても愛情を持って育ててもらった方が、きっと幸せになれるはずだ。手紙は大切に保管している。いつかユウ君が大人になったら、真実を伝えるつもりだ。おばあちゃんはあなたのことを片時も忘れたことがない、と。

最近聞いた話では、コウタとはるかの生活は一変したそうだ。仕事もうまくいかず、人生設計が崩れ、ローンの返済にも困っているとか。はるかの実家も、「金の切れ目が縁の切れ目」とばかりに急に冷たくなったらしい。元大学教授や有名私立の元教師のご両親も、所詮はその程度の人間だったということだろう。コウタは必死に働いているが、はるかとの関係も悪化しているようだ。お互いに相手のせいにして、喧嘩が絶えないとか。因果応報とは、まさにこのことだ。

私の病状は、奇跡的に安定している。医師も驚いているほどだ。

「佐野さん、まるで生きる目的を見つけたみたいですね」

医師の言葉通り、私には新しい生きがいができた。それは、この温泉旅館で子供たちに絵本を読み聞かせることだ。ヨシコの旅館には家族連れのお客様も多く、子供たちが退屈しないようにと小さな図書コーナーを作ってもらった。そこで毎日夕方、読み聞かせの時間を設けている。

「シズコおばあちゃん、今日はどんなお話?」

目をキラキラさせる子供たち。その中に、時々ユウ君の面影を見ることがある。でも、悲しくはない。ここにいる子供たちみんなが、私の孫のように思えるからだ。

先日、一組の家族連れがいらっしゃった。帰り際、その母親が言うのだ。

「実は息子が、おばあちゃんのお話を楽しみに毎月ここに来たがるんです」

「まあ、嬉しい」

「息子だけじゃありません。私も主人も、シズコさんのお話を聞いていると心が温かくなるんです。本当の家族みたいに感じて」

その言葉に、私は涙が止まらなかった。血の繋がりがなくても、家族のような絆は作れる。愛情は与える相手を選ばない。そんな当たり前のことを、今更ながら実感している。

コウタとはるかのことを恨んでいるわけではない。ただ、悲しいだけだ。お金よりも大切なものがある。そんな簡単なことに気づけなかった二人が、不憫でならない。でも、人生はまだ続く。もしかしたら、いつか二人も気づく日が来るかもしれない。その時は、そう、それはその時に考えることにしよう。

私の手元には、まだ信託の変更権が残っている。もしコウタとはるかが本当に心を入れ替えたなら、ユウ君のために使うこともできる。でも、それは金銭目当てではない。本当の愛情を見せてくれた時だけだ。今のところ、その気配は見えない。

ヨシコが言った。

「シズコ、あなたは強いわね。普通なら、息子にあんな仕打ちをされたら立ち直れないわ」

「強くなんかないわ。ただ気づいたの。本当に大切なものは何かって」

窓の外では、夕陽が山を赤く染めている。もうすぐ読み聞かせの時間だ。今日は何を読もうかしら。子供たちの笑顔を思い浮かべながら、絵本を選ぶ。これが私の選んだ生き方だ。血縁に縛られず、愛情を求める全ての子供たちに私の持っているものを分け与える。それが、図書館司書として三十八年間子供たちと向き合ってきた私の、最後の仕事だと思っている。

ユウ君のことは、片時も忘れない。でも、会えなくても私の愛情は変わらない。いつか大人になったユウ君が、祖母の愛情を理解してくれる日が来ることを信じている。その時まで、私は私の道を歩み続ける。

こうして振り返ってみると、私の選択は間違っていなかったと思う。愛情を軽んじた者への当然の報い。それは決して復讐ではない。ただ、自分の尊厳を守っただけだ。親の愛情は無償だと思い込み、それに甘え切ったコウタとはるか。彼らは、親も一人の人間であり、尊厳があるということを忘れていた。

お金と愛情を天秤にかけ、迷わずお金を選んだ二人。その代償が今の状況を招いたのだ。私は理不尽な扱いを受けても、自分の価値観を貫き通した。それは決して意地悪ではなく、自分を大切にすることだった。

もしこの話を聞いているあなたも、家族から理不尽な扱いを受けているなら、どうか勇気を持ってほしい。我慢することが美徳ではない。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことではないのだ。そして、覚えていてほしい。血の繋がりだけが家族ではないということを。ヨシコのような存在、温泉旅館で私を慕ってくれる子供たち。彼らこそが、私にとっての本当の家族なのかもしれない。

愛情を拒絶した人に、もう何も残さない。この言葉の重みを、コウタとはるかはこれから一生かけて理解することになるだろう。でも、私は前を向いて生きていく。新しい家族と共に、残された時間を大切に過ごしていく。あなたの周りにも、大切にすべき人がいるはずだ。その人たちへの感謝の気持ちを、今一度確認してみてほしい。手遅れになる前に。

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