葬儀の日、雨が降っていた。大沼正幸は六十五歳だった。母の棺が火葬場へ入っていくのを、彼は正面から見ていた。涙は出なかった。ただ、胸のあたりに重いものがあった。
控え室で親族が集まる中、正幸は部屋の隅に立っていた。声をかけられるたびに「ありがとうございます」と繰り返した。そこへ、妹の息子である正斗が入ってきた。三十五歳の正斗は、ブリティッシュグリーンの仕立てのいいスーツを着ていた。腕時計も、靴も、すべてが上質だった。顔には余裕があった。
「おじさん、今日は本当にお疲れ様でした」
「ああ」
正斗は少し間を置いて言った。
「さっき駐車場で、足を滑らせたように見えましたが、大丈夫でしたか?」
正幸の耳が熱くなった。石段の濡れた部分で、ほんの一瞬体が傾いた。周りの数人がこちらを見た。その記憶が、胸に刺さったままだった。六十五にもなって、足元を滑らせるとは。
その後の時間、正幸の頭は正斗の車のことでいっぱいだった。駐車場に停まっていた黒いアルファード。自分には持てない車だった。
斎場を移して、会食になった。和食の店だった。正幸が手配した、標準的な値段の店だ。席は自然に分かれた。年配の親族が一方に、若い世代がもう一方に。正幸の息子、啓介は壁際の席に一人で座っていた。黒いジャケットは、正斗のスーツと同じ黒でも、質感がまったく違った。啓介は今、埼玉の外れで一人暮らしをし、市立図書館で非正規の職員として働いていた。給料は安く、車もなく、結婚もしていなかった。
酒が回った。堀内が正斗の仕事の話を始めた。食品メーカーの海外向け営業で、出張が多いという話だった。
「若いのに立派だ。家も買ったとか」
「ええ、昨年、妻の実家の近くに一軒建てました」
正幸はそれを聞いていた。家を建てた。三十四歳で。自分が家を買ったのは三十九歳の時だった。ローンを抱えながら、やっと買った。それは誇らしかった。だが今のこの感覚は、誇らしさではなかった。
テーブルの向こう側で、啓介が箸を置いた。誰とも話していなかった。正幸の中で何かが傾いた。
「啓介」
啓介が顔を上げた。テーブルの声が少し下がった。
「お前はいい加減、自分の人生をちゃんと考えているのか」
「………」
「正斗を見ろ。同年だろう。家を建てて、奥さんもいて、仕事もちゃんとやっている。お前はどうだ? 図書館で非正規で、一人で狭い部屋に住んで、このまま何年過ごすつもりだ?」
「………」
「三十五にもなって、情けないと思わないのか? 親の顔を潰していると思わないのか? 今日みたいな席に来ても、あんな格好で、誰とも話さないで隅に座って」
「おじさん」
正斗だった。テーブルの空気が止まった。正斗の顔は、さっきまでの穏やかなものではなかった。
「お兄さんを責めないでください」
「………」
「おじさん、一つだけ聞いていいですか?」
「………」
「おじさんは、自分のことを、幸せだと思ってみていますか?」
静寂が落ちた。正幸はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。正斗は目を伏せた。表情が変わった。今まで気づかなかった疲れが、その一瞬に顔の表面に出てきたようだった。
会食はそれからも続いたが、誰も大きな声を出さなかった。正幸は何も言えなかった。正斗の問いは、胸の中に残ったままだった。幸せかどうか。誰のことを聞いているのか。答えがなかったのではなかった。答えを探しているうちに、何が問われているのかが分からなくなってきていた。
会食が終わった。雨はまだ降っていた。正幸は店の軒下で啓介を探した。啓介は少し離れたところに一人で立っていた。傘を持っていなかった。
「どうやって帰る」
「電車で」
それだけだった。正幸は傘を開いて、雨の中に歩き出した。振り返らなかった。駐車場で、正斗の黒いアルファードが静かに出口へ向かうのを見た。テールランプが雨の中で赤く光った。
駅まで歩く間、雨の音の中で、あの問いが響いていた。幸せだと思ってみていますか。
翌朝、正幸は区役所の前に立っていた。母の死亡届と相続関係の手続きのためだった。昨夜はほとんど眠れなかった。あの言葉が、何度も頭の中を流れた。
手続きは長くかかった。担当者の女性に、「お母様の預貯金や不動産はございますか?」と聞かれ、正幸は「ありません」と答えた。母が残したものは、小さなアパートの一室の家具と、数百円しか残っていない郵便貯金の通帳だけだった。
帰り道、スーパーに寄った。白菜が百八十九円になっていた。先週は百四十九円だったはずだ。正幸は白菜を棚に戻し、代わりに半玉の小さな袋を取った。豆腐を一丁、油揚げを一枚。レジに並びながら、合計金額を頭の中で計算した。
自宅に戻り、一人で昼食を食べた。食後、引き出しから光熱費の請求書を並べた。どれも去年よりわずかに上がっていた。電気代は二百円以上、ガス代は三百円近く。金額としては小さい。しかしそれが毎月続いていた。月の支出は、年金と夜間警備の収入を合わせて、ギリギリ賄える水準にある。何か一つ予定外のことが起きれば、その均衡はすぐに崩れる。
母の葬儀と手続きの費用は、すでに貯金から出した。残高は減っていた。
夜の警備は午後九時から始まる。七時半に家を出た。制服のズボンにアイロンをかけ、靴を磨いた。電車は混んでいなかった。正幸と同じくらいの年齢の人間は、ほとんど見当たらなかった。乗り換えを一回挟んで、目的地の駅に着いた。七階建ての商業テナントビルが、今夜の現場だった。
エントランスを巡回していると、二十代の男が三人、肩を組みながら入ってきた。酒の匂いがした。
「こちらは現在閉館中です。ご用件をお聞かせいただけますか?」
一人が振り返り、正幸を見下した。
「ああ、閉まってんの」
三人は笑い声をあげ、そのまま外に出ようとした。そのうちの一人が缶を開け、飲みながら歩き始めた。中身が少し床にこぼれた。正幸は清掃用具の棚から雑巾を取り出し、膝をついて床の染みを拭いた。誰も見ていなかった。防犯カメラだけが、その様子を記録していた。
その夜、上司からメッセージが届いた。来月から巡回の記録は専用アプリに入力する形に変わるとの連絡だった。操作説明は来週あるという。正幸はメッセージを閉じた。アプリを使いこなせる自信がなかった。聞くことも、弱みを見せることも、六十五年間生きてきた習慣として難しかった。
翌朝、勤務が終わり、ビルを出た。商店街の入り口のパン屋から、焼きたてのパンの匂いがしていた。通り過ぎた。
その日の午後、正幸の携帯電話に着信があった。正斗からだった。
「おじさん、今夜少し時間ありますか? 話したいことがあって。昨日のこと、ちゃんと続きを話せなかったから」
「分かった。どこにする?」
「電車の線路の近くにファミレスがある。そこでどうですか?」
その日の夕方五時半、正幸はファミリーレストランに立っていた。奥の席に、正斗が先に来ていた。窓の外には線路が見えた。
「昨夜はああいう形で終わってしまって。あの後、おじさんはどうされましたか?」
「別に」
正斗は少し間を置いた。窓の外を電車が通り過ぎた。
「おじさん。自分は、あの場で言い切れなかったことがある。車のことは話しました。あのアルファードのこと、それと家のことも。でも、言わなかったことがある」
「………」
「自分がどういう立場でその家に住んでいるか、よりも、毎日どういう気持ちで過ごしているか、ということです」
声が少し低くなった。
「義父は、自分の家に住ませてやっているという意識が常にある人間です。面と向かってそう言うわけじゃない。でも、行動や物言いの全てにそれが滲み出ている。例えば、子供たちの習い事を決める時、自分と妻で相談して決めようとすると、義父が別の案を出してくる。最初は提案という形を取っている。でもそれを断ると、翌日か翌々日に妻が来て『お父さんが会ってるんだけど』という話をする。それが何回か続くと、結局義父の意見の通りになっている。そういうことが何年も続いている。先月は、長男の中学進学について、義父が具体的な学校名を上げてきました。できれば自分たちで考えたかった。でもその学校に決めなければ、どういう雰囲気になるかがもう見えていました。義父が黙ります。食事の時も、家の中ですれ違う時も、妻は板みになる。子供たちが空気を読んで静かになる。それが数日続く。そういう沈黙の使い方を、義父はよく知っている」
正幸はその話を聞きながら、何かが胸の奥で動くのを感じた。啓介のことを思い出した。あの夜、自分が啓介に向かって浴びせた言葉の数々が、記憶の中で形を取り始めた。
「話を戻します。自分はおじさんに対して怒りたかったわけじゃない。昨夜、おじさんが兄さんのことを責めるのを聞いて、止めたかった。でもそれは、兄さんを守りたかったからじゃない。正確には、おじさんに早まって欲しくなかったんです」
「早まる?」
「おじさんが、今どれだけのことを知らないで言っているのかを、ちゃんと伝えたかった」
正幸は一口コーヒーを飲んだ。苦かった。
「一つ聞いてもいいか」
「はい」
「あの車と家のことを、今日まで誰かに話したことはあるのか?」
「ありません。妻にも」
「なぜ?」
「妻は義父の娘だから。妻を困らせたくない。それに、妻自身も状況を分かっていると思う。言葉にしないだけで」
正斗は続けた。
「正直に言います。おじさんから見て、自分の生活は立派に見えると思う。車もある、家もある。子供も二人いる。世間的な水準からすれば、文句のない生活に見える。でも、その水準というのが、そもそも何なのかという話なんです。おじさんが兄さんに求めていること。それは、今の日本で実際に手が届くものなんでしょうか?」
「昔は、ちゃんとやっていれば…」
「昔は、と正斗は静かに遮った。そこが問題なんです」
正斗はスマートフォンを取り出し、文部科学省と厚生労働省のデータをまとめたウェブページを表示した。
「令和八年度の大学進学率は五八・六パーセントです。これは過去最高水準に見えるけれど、逆に言えば、まだ四割以上の若者が大学に進んでいない。おじさんが、大学を出ていないことを失敗のように言う時、おじさんは日本の若者の半分近くをまとめて失敗者と呼んでいることになる」
正幸は画面を見た。
「それだけじゃない。大学を出たとしても、問題は続く。今、新卒で就職した若者の三人に一人が、三年以内に最初の会社をやめている。これは数字で出ている事実です」
「だからと言って…」
「おじさん。兄さんが以前務めていた会社で、何があったか、おじさんはどこまで知っていますか?」
正幸は答えなかった。
「残業が毎月百時間を超えていた。休日出勤が当たり前で、有給を取ると上司から嫌みを言われた。会議で怒鳴られることが日常だった。そういう環境に、兄さんは三年間いた。おじさんから『やめるな』と言われていたから」
正幸の手が、テーブルの上でわずかに動いた。
「ある時、兄さんから連絡がありました。声がおかしかった。自分は当時学生だったけれど、何か普通じゃないと思って話を聞いた。兄さんは『もう続けられない』と言っていました。声が震えていた。自分には、兄さんが言いたいことの意味が分かった。だからすぐに会いに行った」
正幸は正斗の顔を見た。
「あの時、兄さんは限界でした。おじさんがその頃、何と言っていたか覚えていますか? 『三年は我慢しろ。社会ってそういうものだ。弱い人間が使い物にならないのは当然だ』そう言っていました」
正幸の指が、グラスの水滴に触れた。冷たかった。
「自分が兄さんを会社の近くのファミレスに連れ出して、二時間話した。その後、兄さんは会社をやめた。おじさんはものすごく怒った。自分にも電話してきた。『あんな弱い息子に育てた覚えはない。正斗前が余計なことをしたせいだ』って。でも、自分はあの時以外の選択肢はなかったと今でも思っている。あのままにしていたら、兄さんは今ここにいなかったかもしれない。そういう状況でした」
長い沈黙があった。窓の外をまた電車が通った。
「おじさんを攻めたいわけじゃない。おじさんはおじさんの時代の常識で、正しいことをしようとしていた。それは分かる。ただ、その常識と今の現実がずれていることを、誰かが言わないといけないと思った」
正幸は何も言えなかった。
「おじさんの世代が我慢して働いてきたことが、日本の経済を作ったことは事実だと思う。でも、その時代に通用した方法が、今の時代でも通用するとは限らない。時代が変わった。それは誰かの失敗じゃなくて、ただ変わったということだと思う」
しばらく二人とも黙っていた。
「一つ、確認したいことがある」
「はい」
「あの子は、今、どうしているんだ」
「図書館の仕事を続けています。給料は高くない。でも、職場の雰囲気は悪くないって言っていました。本を扱う仕事だから、性に合っているんだと思います」
「一人で住んでいるのか」
「はい。埼玉の外れの方に、小さい部屋を借りています」
正幸は黙った。胸の中で何かがゆっくりと動いた。形のはっきりしない何かが、長い間固まっていた場所から、少しだけ動いた。
会計を済ませ、店を出た。駅に向かって二人で少し歩いた。交差点で信号が変わるのを待つ間、正斗が言った。
「おじさん。昨夜のことは、誰も根に持っていません。おじさんが気にしているなら、それは言っておきたかった」
正幸は答えなかった。信号が青に変わり、二人は別々の方向に歩き始めた。
電車の中で、正幸は正斗の言葉を思い返していた。「限界だった」という言葉。「あのままにしていたら、兄さんは今ここにいなかったかもしれない」という言葉。自分はあの夜、何をしていたのだろう。正確には覚えていなかった。啓介が会社をやめたという連絡を受けたのは、確か月曜日の朝だった。電話で声を荒げた記憶はある。「使い物にならない」とか「情けない」とか、そういう言葉を言った記憶もある。しかし、その前の夜、あの夜、啓介がどういう状態でどこにいたのかを、自分は全く知らなかった。
その夜も、正幸は眠れなかった。
翌日の午後、正幸は正斗から再び連絡を受けた。「今日、もう少し話せませんか? 昨日言いかけたことで、まだ続きがある」。正幸は少し考えてから、「分かった」と返した。待ち合わせは、前と同じファミリーレストランだった。
正斗は先に来ていた。今日は仕事を午後から休んだらしく、カジュアルな格好だった。
「おじさん、昨日は申し訳なかった」
「謝らなくていい。聞かせてくれ。昨日、言いかけたことがあると書いてきた」
正斗は小さく息をついた。
「昨日、自分が言いかけて止めたことがある。兄さんの話ではなくて、数字の話です。おじさんは、『大学を出るのは当然』『まともな会社に長く務めるのが当然』『家を持って家族を養うのが当然』という考え方をされていた。自分は、その考え方の前提そのものが、今の現実と合っているのかを確かめたかった」
「合っていないと、言いたいのか」
「合っていないと感じているというだけでは弱いので、数字で確かめたかったんです。昨日スマートフォンを出したのは、そのためでした」
「大学進学率の話は、昨日少し出たな」
「はい。それは入り口です。問題はその先にある。大学を出たとして、その先が昔のように機能しているかどうか、ということです」
「機能していない」
言ってしまってから、自分がその言葉を選んだことに、正幸は少し驚いた。正斗は頷いた。
「おじさんの時代、昭和の高度成長期から安定成長期にかけて、会社に長く務めると何が起きたか。給料が上がった。それだけじゃなかった。住宅ローンが通った。会社が家族の生活の保証をした。年功序列の制度があって、役職が上がった。子供の教育費も、今より安かった。国立大学の学費は、今の三分の一以下だったんです。でも、今は違う」
正斗はスマートフォンを出し、文部科学省の資料を表示した。
「国立大学の標準的な授業料は、今や年間五十三万五千八百円です。四年間で二百万円を超える。これに入学金と生活費を加えたら、首都圏で一人暮らしをしながら国立大学に通う場合、四年間の総費用は平均で六百万円から八百万円に達する。私立に行けばさらに高い」
「六百万…」
「そこに奨学金が加わる。日本の奨学金制度の多くは給付型ではなく貸与型、つまり借金です。大卒者の五十三パーセントが奨学金を借りている。平均の借入総額は三百万円台後半です。つまり、今の大卒の半数以上は、社会に出る時点でいきなり数百万円の負債を背負ってスタートしている」
「………」
「そこから就職すると。初任給は上がってきているとはいえ、手取りで見ると月に十万円前後が中央値に近い水準です。そこから家賃、食費、通信費、奨学金の返済。東京や首都圏では、家賃だけで手取りの三割近くを占める場合も珍しくない」
「それでも、結婚して子供を持ち、家を買えというのが、今の社会の標準的な期待なのか」
「フラット35を運営する住宅金融支援機構のデータによると、首都圏で土地付きの一戸建てを購入する場合の平均取得額は、五千万円を超えています。マンションも大差ない。子供二人を大学まで育てると、教育費だけで二千万円以上かかる。車を維持すると、年間で四十万円から六十万円の出費がある。住宅、教育、車、それだけで七千万円から八千万円規模の話になる。これを、年収四百万円台の若者が、奨学金の返済をしながら、税金と社会保険料を差し引かれた手取りで賄えという。おじさんの時代は、物価と賃金が連動して上がっていった。家を買うことが資産形成を意味していた。我慢して働き続けることが、実際に生活水準の向上に直結していた。それは本当のことで、事実だったんだと思う。だが、今は違う」
「今は、何が違う?」
「賃金が実質的に上がっていない時期が三十年続いた。物価だけが上がり始めた。若い世代は、将来の年金に対しても不安を持っている。公的年金だけでは老後の生活を維持できないというのは、もう政府も認めている話です」
正幸の胸の奥で、何かが音もなく崩れるような感触があった。
「おじさんは、今どういう状況にあるか、聞いてもいいですか?」
「隠すことでもないな。年金は月に約十四万円出る。それだけでは足りないから、警備の仕事をしている。二つ合わせて、ギリギリだ」
「老後の蓄えは、ありますか?」
「少しある。正確に言えば、数年前まで持っていた貯金の一部は母の介護関連の費用に使い、葬儀でまた減った。残りはある。しかし、老後の備えと呼べる水準かと言われると、自信がない」
「以前、政府が老後に二千万円必要だと言って問題になったのを覚えていますか?」
「覚えている」
「あの試算は平成三十一年のものです。当時の物価水準で計算したもの。その後、物価は上昇した。同じ生活水準を維持するために必要な老後の備えは、今では二千万円では足りないという試算が複数出ている。三千万円以上必要だという声もある。それだけインフレが現実に進んでいる。おじさんも、今その現実の中にいる。年金だけでは足りない。働き続けなければならない。それは、おじさん個人の失敗ではなくて、今の日本社会の構造の問題なんです」
正幸は窓の外を見た。午後の光が傾いていた。
「だとすると…自分は、啓介に何を求めていたんだ?」
「………」
「自分が手に入れられなかったものを、あの子に求めていたのか」
「おじさんが啓介さんに怒っていたのは、啓介さんへの怒りだったんでしょうか?」
正幸はその言葉の意味を考えた。しばらく考えた。答えが出てきそうで、出てこなかった。
「分からない」
「自分も分かりません。でも、怒りというのは、何かへの恐怖や焦りが形を変えたものだと聞いたことがある。おじさんが啓介さんを責めていた時、おじさんの中に何があったのかは、おじさん自身しか分からない」
正幸は静かに息を吸った。昔のことを思い出した。定年を迎えた日のこと。同僚と酒を飲んで家に帰ってきた夜。なぜかひどく虚しい気持ちになったこと。翌朝目が覚めた時に、今日はどこへも行かなくていいと気づいた時の、奇妙な感覚。
「定年後の最初の半年が、一番辛かった」
話すつもりはなかったが、口から出てしまった。
「何者でもなくなった気がした。会社の名前が取れると、自分が何者かを証明するものがなくなる。名刺がなくなる。毎朝出かける理由がなくなる。そういう感覚だった」
「それは、本当のことだと思います」
「だから…あの子が、きちんとした会社に務めて欲しかったのかもしれない。自分がそこに価値を見い出せなかったから」
長い沈黙があった。
「おじさん。一つだけ確認していいですか?」
「なんだ」
「啓介さんのことを、今でも大切に思っていますか?」
正幸は即座に答えなかった。即座に答えられない自分に、また少し驚いた。答えることが怖いのではなかった。どう答えれば正確なのかが分からなかった。
「思っている。ただ、うまく言えない」
「言わなくていいと思います。言葉にするのが難しいことは、言葉にしなくていい」
正幸は正斗を見た。この子は、と思った。昨日から今日にかけて、この子はずっと自分に何かを渡そうとしている。何かを手渡そうとしている。その感触がうまく掴めなかった。しかし、確かに感じていた。
「話が変わりますが、おじさん、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「おじさん自身は、今の仕事をどう思っていますか? 夜間の警備の仕事」
「正直に言うと…情けないと思っている部分がある。三十年以上、管理職として働いてきた。人を動かす仕事をしていた。今は、一人で廊下を巡回してゴミを拾っている」
「おじさんは…」
「自分に言い聞かせているんだ。生活のためだ。仕方ないと。しかし、内側でどう感じているかと聞かれれば、正直なところ、そうだ。情けないと思っている」
「それを、情けないと感じる必要があるのかどうか。おじさんが情けないと感じているのはなぜですか? その仕事に問題があるからですか? それとも、その仕事をしているという事実が、おじさんの中の何かの基準を下回っているからですか?」
「後者だ」
「その基準は、誰が作ったものですか? 社会が作ったのか、自分が作ったのか、それとも親から受け継いだのか。自分でも同じことを考えたことがあります。自分が義父の家に住んで義父の金で生活していることを、人に言えないのはなぜか? それも、誰かが決めた基準を内側に飼っているからだと思う」
「………」
「その基準が現実に合っていないとしたら。その基準を守るために現実を攻めても、何も変わらない」
「おじさん。昨日から今日にかけて、だいぶ無理なことを言ってきたと思う。おじさんが長い時間をかけて積み上げてきたものを、一気に崩すようなことを言ってしまった。それが正しかったかどうか、自分にも分からない」
「正しかった。正しかった。聞きたくなかったけれど、正しかったと思う。正確にはまだ全部は受け入れられていない。だが、知る必要があった」
正斗は少し目を細めた。何かを言おうとして、止めた。
「お礼を言う」
「ええ」
「昨日と今日、時間を作ってくれた。お前が言わなければ、自分はずっと知らないままだった。それは、いいことではなかった」
会計を済ませ、店を出た。今日は正幸が二人分払った。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前の家の話、今後どうするつもりだ」
「正直、まだ分かりません。すぐに何かを変えられる立場にない。子供がいるし、妻のことも考えると、急には動けない」
「そうか」
「ただ、こうしておじさんと話せたことで、少し楽になった気がします。誰かに話すということが、こういうことかと思いました」
「そうか」
交差点の信号が青に変わった。正斗は会釈して、別の方向へ歩き始めた。
歩きながら、正幸は今日聞いた話を頭の中で繰り返した。大学進学、奨学金、住宅価格、物価の上昇、老後の必要。数字は冷たく、感情が入る余地がなかった。だからこそ、言い訳ができなかった。自分が啓介に向かって言い続けてきた言葉の一つ一つが、今になって別の意味を持ち始めていた。「普通の人間になれ」「普通の生活をしろ」「なぜできないんだ?」。その「普通」が、今の時代には何を意味するのか。それを一度も考えたことがなかった。考える必要があると思っていなかった。自分が若い頃にそれができたのだから、できるはずだと思い込んでいた。しかし、自分が若かった頃の日本と、今の日本は、同じ日本ではない。
その考えが頭の中でまとまった瞬間、正幸は立ち止まった。商店街の中ほどにある自動販売機の前だった。温かい缶コーヒーを一本買った。百三十円だった。プルタブを開けて飲んだ。甘かった。しばらく自販機の前でコーヒーを飲みながら、正幸は夜の商店街を眺めていた。居酒屋の提灯がぶら下がっていた。帰宅する会社員たちが足早に通り過ぎた。みんな、それぞれの荷物を持って歩いている。
帰宅して、正幸は台所でお茶を入れ、食卓に座った。夕食を作る気力がなかった。引き出しから缶詰を取り出して食べた。食べながら、啓介のことを考えた。最後に顔を見たのは、一年以上前だった。葬儀の日に遠くから姿を見た。声はかけなかった。啓介の方からも近づいてこなかった。二人は同じ空間の中にいながら、別々にいた。電話番号は知っている。変わっていなければ、今でも繋がるはずだった。正幸はスマートフォンを手に取った。連絡先を開いた。啓介の名前があった。親指が画面の上で止まった。押せなかった。まだ押すべきではないという感覚があった。何を言うのか、何を言えるのか、それが決まっていなかった。
その夜も、正幸はなかなか眠れなかった。
翌朝、正幸はいつもより三十分遅く目が覚めた。体が重かった。新聞を広げると、物価上昇についての記事が出ていた。正幸は最初の数行だけ読み、それ以上読む気になれなかった。
午前中は近所を少し歩いた。目的のない散歩だった。商店街の入口まで行って、引き返した。帰りに百円均一の店に入った。台所用のスポンジが必要だったからだ。棚の前でスポンジを選びながら、隣の棚を見ると、小さな観葉植物が並んでいた。プラスチックの小さな鉢に入った、丈の短い植物だった。値段は百円だった。正幸はしばらくそれを見てから、スポンジだけを持ってレジに向かった。
昼食を終えてしばらくすると、正斗からメッセージが届いた。「おじさん、今日また話せますか? もう少しだけ続きがあります」。また来るのか、と思った。しかし、すぐに断る気にはなれなかった。「夕方四時」と返信した。
その日の夕方四時、正幸は同じファミリーレストランの前に立っていた。今日も正斗は先に来ていた。
「今日は、何の続きだ」
「昨日話した数字の続きです。住宅と教育費の話までしました。今日は、その先を話したかった」
「その先?」
「おじさんが啓介さんに求めていた生活像について、もう少し具体的に数字を当てはめてみたかったんです」
正斗はスマートフォンを取り出し、テーブルに置いた。
「おじさんが啓介さんに持っていたイメージを確認していいですか? 定職についていて、結婚して、子供がいて、家を持っている。それが普通の大人の姿だという考え方で、よかったでしょうか?」
「そうだ」
「その四つを、今の経済状況に当てはめてみます。まず住宅です。フラット35の調査によると、首都圏で土地付き一戸建てを購入する場合の平均取得額は、現在も五千万円を超えています。これを三十五年ローンで組むとすると、金利を含めた総返済額は六千万円から七千万円になることもある。次に教育費。子供を二人、幼稚園から高校を経て大学まで出すとした場合、一人当たりの教育費は約一千万円前後が目安と言われています。二人で二千万円。これは、習い事や受験対策の費用を加えれば、さらに増える。自動車の維持費はどうか。地方や郊外では、車なしの生活は難しい場合も多い。車両の購入費、保険、車検、ガソリン、駐車場料金を合計すると、年間で四十万円から七十万円はかかる。十年で五百万円を超えることもある。住宅の総返済額が六千万から七千万、教育費が二千万、車が生涯で数百万。これだけで、八千万円から一億円に近い支出になります。これを、年収四百万円台の若者が賄う。手取りにすると月に二十五万円前後です。そこから家賃、食費、光熱費、通信費、保険料を引くと、毎月手元に残るのはわずかになる。奨学金の返済がある人は、さらに少ない。おじさんの時代は、年功序列で給料が上がっていった。三十代には管理職に近づき、給与水準も上がった。住宅ローンを組んだとしても、将来的に収入が増えるという前提があった。今は違う」
「今は、何が違う?」
「賃金が上がるという保証がない。正規雇用も崩れている。非正規雇用の割合は、全労働者の三十七パーセントを超えている。社員であっても、給料が大きく上がらない企業は多い。将来に対する見通しが持てない中で、三十五年ローンを組むことの意味が、おじさんの時代とは根本的に違う。もう一つ。老後の問題です。これは、おじさん自身の問題でもある」
「分かっている。二千万円の話だな」
「以前は二千万円でした。あれは令和元年に金融庁の審議会が出したレポートの数字です。その後、物価が上がった。エネルギーコスト、食料品、医療費、介護費用、全てが上がった。複数の試算では、今の物価水準を前提にすると、老後三十年間の不足額は三千万円以上になるという数字が出ています」
「三千万か」
「おじさん。自分はおじさんを批判したいわけじゃない。それははっきり言っておきたい。おじさんも、今の経済構造の中で働いて年金をかけて、それでも老後の備えが追いつかない立場にいる。それはおじさんの失敗ではない。おじさんが啓介さんを攻めてきたのは、啓介さんが弱かったからじゃない。啓介さんを責めることで、おじさん自身が感じている不安や焦りを、どこかに向けていたのかもしれない。そう思えてならない」
正幸の指が、テーブルの上でわずかに動いた。
「自分も、同じことをしている。義父に対して何かを言えない代わりに、別のところで同じことをやっていることがある。人間は、圧力を受けると、自分より弱い立場の誰かにそれを向けてしまうことがある。それを分かっていても、止められないことがある」
「お前もか」
「自分もそうです」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「おじさん。啓介さんの話を、もう少ししていいですか?」
「うん」
「兄さんは今、図書館で働いていますね。あの仕事に就いたのは、会社を辞めてから二年後のことでした。その間、バイトをしながら司書の資格を取った。おじさんは、そのことをご存知でしたか?」
「知らなかった」
正斗は小さく頷いた。
「あの二年間は、相当きつかったと思います。自分は時々連絡を取っていた。兄さんは多くを語らなかったけれど、声の調子で大体は分かった。ただ、前の会社にいた頃と比べると、少なくとも落ち着いていた」
「司書の資格というのは…」
「難しくはないけれど、きちんと勉強が必要なものです。通信講座で取れる。兄さんは働きながら、一年半かけて取った。それだけの意思があった、ということです」
正幸は、そのことを初めて知った。啓介が司書の資格を取ったという事実を、今この場で、息子ではなく甥から聞いた。なぜ自分に言わなかったのか、とは思わなかった。言えない関係に、自分がしてしまったからだ。それが今なら分かった。
「兄さんの給料は高くない。図書館の非正規職員の賃金は、地域によって差があるが、全国平均で見ると月に十五万円から二十万円程度が多い。ボーナスなし、あるいは少ない。昇給もほとんどない」
「十五万から二十万…」
「それで、おじさんの基準に照らすと、家は買えない。車も持てない。結婚も難しい、ということになる。そういう目で見れば、おじさんが啓介さんに感じてきたことは分かります。しかし…兄さんは、今、職場で必要とされている。利用者に顔を覚えてもらっていると聞いた。本の相談に乗ることが多いらしい。読書会の手伝いもしているらしい。それが、兄さんには合っている」
「合っている…」
「それだけで生きていけるかどうかは、人によって違うと思います。でも兄さんにとっては、今の仕事が自分に合っているという感覚があるらしい。それは、以前の会社では一度も感じられなかったことだ、と以前話してくれた」
正幸は水を一口飲んだ。
「おじさんは、警備の仕事を情けないと言っていた。兄さんも、司書を世間的な基準で見れば、大した仕事ではないと思っている部分があるかもしれない。でも続けている。合っているから続けている。それは、種のための静かな強さだと、自分は思っています」
「静かな強さ…」
「おじさんも、同じだと思う。六十五で警備の仕事をしながら、生活を立てている。それも、簡単なことじゃない」
正幸は正斗の顔を見た。お世辞を言っているのかと思った。しかし、正斗の目は真剣だった。お世辞を言う表情ではなかった。
「一つ聞いていいか?」
「はい」
「啓介は、今、どんな顔をしているんだ」
正斗は少し考えた。
「穏やかだと思います。あの頃と比べると。以前は、電話で声を聞くだけで、どこかしら緊張していた。今は、話すと落ち着いた声をしている」
「そうか。もう一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「お前は、なぜ、俺にそこまで話す気になったんだ。葬儀の日に止めようとしたのは分かる。でも、こうして何日も時間を作って話してくれているのは、それだけの理由があるはずだ」
「おじさんがひどい人間だとは思っていない。おじさんは、自分なりの正しさで動いてきた人だと思っています。その正しさが、時代とずれてしまっていた。でもそれは、おじさんだけの問題ではなくて、あの時代にあの価値観の中で育てば、誰でもそうなり得る」
「それだけか?」
「もう一つあります。兄さんが、本当はもう一度おじさんと話したいんじゃないかと、自分は思っている。そう感じることが、何度かあった。直接言いはしない。でも、時々ぽつりと、おじさんのことを口にすることがある」
「どんなことを言っていた?」
「『親父は元気か』と、聞いてきたことがありました。それだけです。ただ、それだけ。でも、聞いてきました」
正幸は視線をテーブルに落とした。「元気か」という言葉が、胸の辺りに当たって、そこに残った。
「おじさん。今夜、啓介さんに会いに行くつもりはありますか?」
「急だな」
「突然過ぎたら、それはそれでいいです。ただ、自分が思ったことを言いたかった」
正幸はしばらく何も言わなかった。
「住所は分かるか?」
「はい」
正斗はスマートフォンを操作し、住所をメモ帳アプリで表示してテーブルに置いた。埼玉の外れの地名だった。正幸はそれを自分のスマートフォンのメモに書き写した。
「ありがとう」
「おじさん。無理に謝らなくていいと思います。謝ることが目的ではなくて、ただ顔を見に行くだけでも、十分だと思う」
帰宅して、正幸はスマートフォンのメモを開いた。住所が表示されていた。それをしばらく見ていた。今夜は遅い。明日にした方がいい。そう思った。しかし、それが本当の理由かどうか、自分でも分かりかねていた。正斗が言った言葉の中で、今夜一番心に残っているのは、「親父は元気か、と聞いてきた」という一言だった。啓介が自分のことを聞いた。それだけのことだった。しかし、その一言が正幸の胸の中で、今さっきから動いていた。
布団の中で天井を見た。明日、行ってみよう。何を言うかはまだ分からなかった。言えるかどうかも分からなかった。ただ、行くということだけが、今この瞬間に決まった。
翌朝、正幸は四時五十分に目が覚めた。目覚ましより先に目が開いた。起き上がり、顔を洗った。鏡の中に、自分の顔があった。六十五年分の顔だった。今日行くということは、昨夜決めた。決めたことは変えるつもりがなかった。
押入れを開け、普段着のジャケットを取り出した。黒に近い紺のジャケットだった。警備員の制服よりはましだった。これにした。ズボンはウールの灰色のものにした。靴は茶色の革靴を出して、布で軽く拭いた。それだけで、少し見栄えが変わった。
八時半に家を出た。電車は混んでいた。乗り換え駅で降り、別のホームへ移った。今度は空いていた。窓側の席に座った。電車が動き出してから、正幸は窓の外を見ながら、啓介に何を言うつもりかを考えた。昨夜も考えたが、まとまらなかった。今考えても、まとまらなかった。謝る、ということは決めていた。しかし、どう謝るかが、言葉として出てこなかった。長い年月をかけてこじれたものが、短い言葉で解けるとは思っていなかった。ただ、行かなければならない、ということだけは分かっていた。
目的の駅に着き、改札を出ると、小さな商店街があった。地図を見ながら住宅街の中を歩いた。道は細く、曲がり角が多かった。目的のアパートは、角を曲がったところにあった。二階建ての古いアパートで、外壁のクリーム色の塗装が一部剥がれていた。正幸は啓介の部屋番号を確認した。二〇三号室だった。外階段を登った。踏板がわずかにきしんだ。
二〇三号室のドアの前に立った。ドアは木製で、色が少し褪せていた。ドアの横に小さなプレートがあって、手書きで「大沼」と書かれていた。正幸はその文字を見た。大沼。自分と同じ苗字だった。当たり前のことだったが、その当たり前のことが、今は少し違って見えた。
インターホンのボタンを押した。しばらく何も起きなかった。もう一度押した。今度は奥から気配がした。足音が近づいてきた。ドアが開いた。
啓介が立っていた。部屋着のままだった。上は薄い灰色のスウェット。下は紺のジャージだった。髪が少し乱れていた。顔を見た瞬間、正幸の胸の中で何かが動いた。啓介は、父親の顔を見て二秒ほど固まった。
正幸は何も言わなかった。啓介も何も言わなかった。二人はしばらく、その場で向き合っていた。朝の冷たい空気が、二人の間にあった。
「上がっていいか」
声が思ったより小さかった。啓介は少し間を置いてから、言った。
「どうぞ」
声は落ち着いていた。感情の色が読めなかった。部屋は狭かった。六畳ほどの空間に、小さな机と本棚、折りたたみのローテーブルがあった。本棚には本がぎっしり並んでいた。机の上に、開いたままの本が一冊あった。窓の近くの小さな棚の上に、緑色の小さな植物が一鉢あった。土の色が新しかった。部屋はきれいに片付いていた。生活感はあるが、雑然としていない。使われているものが、それぞれの場所に収まっていた。
正幸はローテーブルの前に座った。啓介は台所に立って、やかんを火にかけた。しばらく何も言わなかった。お湯が沸いた。啓介がマグカップを二つ出し、インスタントコーヒーを入れた。ローテーブルに二つ置いた。自分もテーブルの向こうに座った。
正幸はマグカップを両手で持った。熱かった。
「急に来て、済まなかった」
啓介は首を小さく横に振った。何も言わなかった。
「正斗から、住所を聞いた」
「そうですか」
「お前が…」
声が詰まった。一度止まり、またゆっくりと続けた。
「お前が、元気かどうか、聞いていたと、正斗から聞いた」
啓介は視線をマグカップに落とした。
「そうですか」
今度は、少し低い声だった。正幸はマグカップを持ったまま、部屋の中をもう一度見た。本棚の本、机の上の開いた本、窓際の植物。一つ一つが、啓介がここで一人で過ごしてきた時間を示していた。長い年月を、と正幸は思った。この小さな部屋で、この男は一人で過ごしてきた。
「随分、本が多いな」
「仕事で読むものと、自分で読むものと、両方あります」
「司書の資格を取ったと聞いた」
啓介はわずかに顔を上げた。
「正斗から?」
「そうだ」
啓介は少し間を置いた。
「二年かかりました。通信で取れるんですが、レポートが多くて。夜に書いていました」
「夜に」
啓介は頷いた。
「アルバイトを昼にやって、夜にレポートを書いて、という生活でした。特別なことではないですが」
「特別なことだ」
啓介は黙った。
「お前が資格を取ったことを、俺は知らなかった」
「言っていなかったから」
「なぜ、言わなかった」
責める口調ではなかった。ただ、聞いた。啓介は少し考えてから、言った。
「言っても、何も変わらないと思っていた」
その言葉が、正幸の胸のどこかに刺さった。痛かったが、そのまま引き抜かずにいた。
「そうだったな」
啓介は、正幸の顔を初めてまともに見た。コーヒーを飲んだ。苦かった。しかし、インスタントの苦さは、ファミリーレストランの苦さとは違った。この部屋の味だった。
「一つ、言わせてくれ」
啓介は黙って待った。正幸は手に持ったマグカップを見た。白いマグカップだった。縁が少しかけていた。それでも、使い続けているマグカップだった。
「俺が、間違っていた」
啓介は何も言わなかった。
「お前の会社をやめるなと言い続けたこと。お前の生き方を、全部間違いだと言い続けたこと。それは、俺が間違っていた。お前がどういう状態にあったか、俺は分かっていなかった。知ろうともしなかった。俺は自分の価値観だけで話していた。それがどれほど的外れだったか、正斗に話を聞いて初めて分かった。今更だということは分かっている。それでも、言わなければならないと思った」
啓介はテーブルに視線を落としたまま、動かなかった。正幸は待った。啓介が口を開くまで、しばらくかかった。
「怒っていない」
声は静かだった。
「怒っていた時期は、ありました。随分長い間、怒っていた。でも、今は怒っていない」
「なぜだ」
「疲れたから、ではないと思う。疲れたから諦めた、ということではなくて。ただ、時間が経った、ということかもしれない。それと…自分が、ある程度自分の生活を作れるようになったから、かもしれない。以前は、父親に何か言われるたびに、揺れていた。でも、今は揺れない」
「自分の生活があるから、揺れない…」
「はい」
「それは…」
正幸は言った。声が少し詰まった。
「お前が、強くなった、ということか」
「強いかどうかは、分からない。ただ、自分がどこに立っているかが、今は分かる。それが、以前は分からなかった」
正幸は啓介の顔を見た。
「『啓介の顔が穏やかになった』と、正斗が言っていた」
啓介は少し目を細めた。
「正斗は、よく見ています」
「そうだな」
外から自転車が通り過ぎる音がした。子供が何か言っている声がして、遠ざかった。
「仕事は…」
「続けています」
「合っているか」
「はい」
間を置かずに言った。正幸はその即座の返答を聞いた。あの会社にいた頃、啓介の声はどうだったか。電話で話した時の声を思い出そうとした。はっきりとは思い出せなかった。ただ、今の声と違った、ということだけは分かった。
「本が、好きだったのか」
「子供の頃から」
「知らなかった」
「母が、図書館によく連れて行ってくれました」
正幸は黙った。その話を聞いたことがなかった。あるいは、聞いていたのに、覚えていなかったのかもしれなかった。
「ここにある本は、自分で選んだものだけです。借り物じゃなくて、自分が欲しいと思って買ったか、もらったものだけ」
正幸は本棚を見た。小説や随筆が多かった。哲学の本も何冊かあった。ほとんど読んだことのない種類の本ばかりだった。
「一冊、読んでみるか」
啓介は顔を上げた。
「お前が進める本を。今更だが、読んでみたい」
啓介は少しの間本棚を見た。それから立ち上がり、棚から一冊取り出した。薄めの文庫本だった。表紙に何か書いてあったが、正幸には馴染みのない著者名だった。
「これは、難しくないです。短い話がいくつか入っています。日常のことが書いてある」
正幸はその本を受け取った。思ったより軽かった。
「ありがとう」
啓介は座り直した。しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。沈黙は、気まずくなかった。正幸は不思議にそう感じた。言葉がなくても、二人がこの狭い部屋の中にいるということ自体が、何かを言っていた。
「そろそろ行く」
「仕事は、ありますか?」
「昼からだ」
正幸は立ち上がった。借りた本を手に持った。玄関で靴を履きながら、啓介に背を向けた状態で言った。
「また、来てもいいか」
少し間が空いた。
「はい」
正幸は振り返った。啓介の顔を見た。啓介も、父親の顔を見ていた。どちらも何も言わなかった。それだけで、十分だった。
ドアを開けて、外に出た。外階段を降りると、朝の光が強くなっていた。空に雲があったが、その隙間から日が差していた。
正幸は来た道を歩いて、駅に向かった。住宅街を歩きながら、手の中の文庫本の重さを感じた。軽かった。しかし、確かに重さがあった。
電車を待つ間、ベンチに座った。手の中の文庫本を膝の上に置いた。表紙を見た。啓介が選んでくれた本だった。いつ読もうかと思った。今夜は勤務がある。休日の朝にでも読めばいい。急ぐ必要はなかった。
電車が来た。乗り込んで、窓側に座った。電車が動き始めた。景色が後ろに流れていった。住宅地、また住宅地。来る時と同じ景色だったが、見え方が少し違う気がした。そう感じているのが自分でも分かったが、どこがどう違うのかは、うまく言えなかった。
自宅に着いた。鍵を開けて、中に入った。玄関で靴を脱ぎ、コートを脱いでハンガーにかけた。台所でお茶を入れた。食卓に座った。手の中の文庫本を、テーブルの上に置いた。窓の外の空を見た。雲の隙間が広がっていて、青い部分が増えていた。正幸はお茶を一口飲んだ。今日の午後は、どうしようかと思った。特に予定はなかった。昼食を作って、少し休んで、夜の勤務に備えて早めに横になるのがいつものことだった。今日もそうすればいい。ただ、今日はそれが、昨日と同じ一日ではなかった。同じように見えるが、何かが違う。その違いがどこにあるのか、正幸はうまく言葉にできなかった。
テーブルの上の文庫本に目をやった。今夜の勤務が終わったら、読もうと思った。決めたことは少なかった。しかし、それでよかった。今日のところは、それだけで良かった。
窓の外で、遠くで電車の音がした。どこかへ向かう電車の音が、遠ざかりながら、やがて聞こえなくなった。正幸はお茶を飲み続けた。今日の空は、昨日より少しだけ明るかった。



