「あの日、7年ぶりに彼の背中を見つけた瞬間、俺の足は凍りついた。探し続けた男が、まさか事故現場の簡易ベッドの上で、たった一人の看護師と開胸手術をしていたなんて。『先生、話は後にしてください。まだ患者が来ます』——彼はそう言って、振り返らずに次の患者の元へ走っていった。7年間、俺は高木先生との約束を果たすため、全国を探し回ってきた。ようやく見つけた後輩は、医者のいない町で一人、住民のために身を…

「あの日、7年ぶりに彼の背中を見つけた瞬間、俺の足は凍りついた。探し続けた男が、まさか事故現場の簡易ベッドの上で、たった一人の看護師と開胸手術をしていたなんて。『先生、話は後にしてください。まだ患者が来ます』——彼はそう言って、振り返らずに次の患者の元へ走っていった。7年間、俺は高木先生との約束を果たすため、全国を探し回ってきた。ようやく見つけた後輩は、医者のいない町で一人、住民のために身を...

俺は右手のメスをそっと置いた。兵まで含めて5時間の手術だった。室の扉を開けると、準教授の山本が待っていた。
「またやりましたね、佐藤先生。」
「大したものじゃない。当たり前のことをやっただけだ。」
「その当たり前が、他の医者にはできないんですよ。」

俺は苦笑して、白いポケットから万年筆を取り出した。古い傷だらけの万年筆だった。恩師から譲り受けたものだ。指先で軽く撫でる。これが俺の癖になっていた。

俺の名前は佐藤浩。45歳。東都大学病院の外科教授だ。世間からは「神の手」などと呼ばれているらしい。テレビの取材も講演の依頼も山ほど来る。だが、俺の心の中には7年間ずっと消えないものがあった。一つの約束だ。

金曜の夜、俺は明けの体を引きずって新幹線に飛び乗る。向かう先は東北の小さな町。先月は九州、その前は北陸。全国の病院や診療所を回って、休日という休日を潰して、俺は一人の医師を探し続けている。

神崎優馬。俺の後輩で、医局始まって以来の天才と呼ばれた男だ。7年前、突然姿を消した。

新幹線の窓に、疲れた自分の顔が映っていた。車内販売のコーヒーを一口飲む。苦い。胸ポケットの万年筆をそっと抑えた。

「先生、まだ諦めないんですか?」

昨日、山本にそう言われたことを思い出す。みんな俺のことを変わり者だと思っている。教授の地位もある。名声もある。それなのに、なぜ一人の失踪した医者を追い続けるのか。理解されなくても構わなかった。これは俺とあの人との約束なのだ。

7年前の秋のことだった。高木先生の病室は夕日で染まっていた。先生は末期の病気だった。

「佐藤君、そこに座りなさい。」

俺は丸椅子を引き寄せて、ベッドの脇に腰を下ろした。穏やかで、静かで、深い目だった。

「私はもう長くない。分かっているだろう。」

「先生、そんなこと――」

「気休めはいい。私は医者だ。自分の体は自分が一番よく知っている。」

先生は枕元の引き出しから、一本の万年筆を取り出した。黒い軸に金のペン先。先生が40年間、手術記録から論文まで、全てを書き続けてきた万年筆だった。

「これを君に譲る。」

「先生、これは先生の一番大切なものじゃないですか?」

「だからこそ、君に渡すんだ。」

先生は震える手で万年筆を差し出した。俺は両手でそれを受け取った。

「佐藤君、一つだけ頼みがある。」

「何でしょうか? 何でもおっしゃってください。」

「神崎を見つけてくれ。」

俺は息を飲んだ。神崎が姿を消したのは、その半年前のことだった。

「あの子は必ずどこかで医者を続けている。私には分かる。そして、君と神崎、二人で日本の医療を変えてほしい。それが私の最後の願いだ。」

「先生、二人でですか?」

「そうだ。君一人でも、神崎一人でもない。二人でだ。約束してくれるか?」

「約束します。必ず神崎を見つけ出します。」

先生は満足そうに頷いた。そして俺の手を握った。細く、乾いた手だった。先生はその夜、静かに息を引き取った。万年筆だけが俺の手の中に残っていた。

神崎優馬という男を初めて意識したのは、彼が入局してきた春のことだった。背が高く、口数は少ない。だが手術になると別人のようになる。指先の動きが、まるで音楽を奏でるようだった。高木先生も「あの子は違う」と唸っていた。

神崎は誰にでも同じ態度だった。教授にも、患者にも、掃除のおばさんにも、同じように頭を下げた。出世には興味がないと公言していた。

「僕は患者を見るために医者になったんです。」

それが口癖だった。医局のパーティーで、若い研修医たちが神崎を囲んで質問攻めにしていた光景を今でも覚えている。神崎はどんな質問にも丁寧に答えていた。自分の技術を隠さない男だった。教えることを惜しまない男だった。

その神崎が、7年前突然消えた。辞表一枚、教授室の机に置いて。理由は書かれていなかった。携帯電話は解約されていた。実家に連絡しても、家族は何も知らなかった。

病院内ではあっという間に噂が広がった。「出世争いに嫌気が差したらしい」「医療ミスを起こして逃げたんじゃないか」「もう医者をやめたんだろう」。俺はその噂を一つも信じなかった。神崎という男を、俺は知っている。あの男が患者を見捨てるはずがない。医者をやめるはずがない。必ずどこかでメスを握っている。そう信じていた。

先週、俺は山本と食堂で昼を食べていた。山本は消化器外科教授だ。実直者で、いつも俺のことを心配している。

「先生、また週末どこかに行くんですか?」

「ああ、今度は東北だ。」

「もう7年ですよ。いい加減諦めたらどうですか?」

「諦めるわけにはいかない。神崎は――」

「もういないんです。仮にどこかで生きていたとしても、戻ってこないでしょう。優秀な医師は大学病院に残るべきだ。逃げた人間を追いかけて、先生の時間を潰すのは間違っていますよ。」

山本の言葉には悪意はなかった。本当に俺のことを心配しているのだ。俺は箸を置いて、少し笑った。

「山本、お前の言うことも分かる。だがな、俺は高木先生と約束したんだ。神崎を見つけると。あの人が最後に俺に託した願いを、俺は放り出せない。」

「先生の立場は尊敬しますよ。だけど、無理ですって。」

「無理でも続ける。」

山本はため息をついて、味噌汁をすった。食堂の窓から桜の木が見えていた。神崎が消えたのも、桜の季節だった。あの男は今、どこで何をしているのだろうか。心の中でそう呟いた。

その知らせは、朝の会議の最中に飛び込んできた。北関東の在来線で大規模な脱線事故が発生したという。乗客は200名以上。負傷者の数はまだ判明していないが、重傷者が多数出ている模様だった。現地の病院だけでは手が足りない。災害派遣医療チームの出動要請が、大学病院にも入った。俺は迷わず手を挙げた。

山本が隣で顔をしかめた。

「先生が行くんですか? 教授が現場に出る必要はないでしょう。」

「人手が足りないんだ。行ける者が行くしかない。」

「先生の手は、大学病院で何百という手術に使うべきです。」

「どこにいようが、目の前の患者を救うのが医者の仕事だ。」

言い残して、俺は白衣を脱いだ。災害医療の緑のベストに袖を通す。胸ポケットの万年筆を、忘れずに移し替えた。

現場に着いたのは事故発生から4時間後だった。線路沿いに横倒しになった車両が、鉄の骨を剥き出しにしていた。救助隊が絶え間なく怒鳴り合い、サイレンが鳴り響く。臨時の救護所は、近くの小学校の体育館に設けられていた。床にブルーシートが敷かれ、そこに何十人もの負傷者が並べられている。俺はすぐに加わった。だが、設備がない。麻酔器は一台。輸血用の血液も限られている。手術用の器具は、簡易なセットが数組あるだけだった。

そんな中で、一人の医師が異様な動きを見せていた。体育館の一番奥の簡易ベッドの上で、その男は開胸手術をやっていた。助手は看護師一人だけ。モニターも古い。それなのに、男の手付きに一切の迷いがなかった。シリンジで胸腔に溜まった血液を抜き、破れた動脈の枝を縫合していく。糸を結ぶ指の速さ、視野の取り方、判断の順序。俺は思わず立ち止まった。

この手つきを、俺は知っている。何度も見た。何度も隣で見てきた手だ。心臓がゆっくりと重く打った。俺は床を横切って、その男の背中へ近づいた。男はマスクの上から目だけを覗かせていた。声をかけることはできなかった。今話しかけたら、患者が死ぬ。俺はただ、その手が動くのを見ていた。

やがて男は縫合を終え、看護師に短く指示を出した。

「輸液速度を落として。バイタル15分おきに頼む。」

「はい、先生。」

その声だった。7年間、俺が探し続けた声だった。男が振り向いた。マスクの上の目が俺を捉えた。一瞬、その目が大きく開いた。だが、それだけだった。

「神崎……」

声がかすれた。男はマスクを顎まで下げた。少し痩せていた。目の下に隈があった。髪には白いものが混じっていた。だが、間違いなく神崎優馬だった。

「先生……」

「探した。ずっと探していた。」

「先生……どうしてここに?」

その声には、喜びも驚きもなかった。ただ困惑だけがあった。俺は一歩前に踏み出した。

「神崎、話がある。お前に伝えなきゃならないことが山ほどある。」

「先生、僕はここを離れるわけにはいきません。まだ患者が来ます。今日だけで何人運ばれてくるか分からない。話は後にしてください。」

神崎はそう言うと、俺に背を向けた。次の患者の元へ走っていった。振り返らなかった。俺はその場に立ち尽くしていた。体育館の天井の蛍光灯が、夜目に白く見えた。7年だ。7年間、俺はこの男を探してきた。やっと会えたのだ。それなのに、あの男は俺を見て、逃げるように患者の元へ戻っていった。

だが不思議と、怒りは湧かなかった。あの目を見たからだ。神崎の目は、患者しか見ていなかった。俺との再会よりも、目の前で血を流している人間を優先した。それが神崎という男だった。7年前もそうだった。今も変わっていなかった。

俺は白衣の袖をまくり直した。胸ポケットの万年筆に指を触れる。

「先生。見つけました。神崎は生きています。まだメスを握っています。」

そう心の中で報告して、俺も次の患者の元へ走った。その日、俺と神崎は言葉を交わさなかった。だが同じ体育館の中で、それぞれの持ち場でメスを握り続けた。夜が明けるまで、二人とも一睡もしなかった。

夜明け近く、患者の流れがようやく落ち着いた。俺は救護所の外に出て、冷たい空気を吸い込んだ。線路の向こうで、まだライトが動いている。救助はまだ続いていた。

「先生、お疲れ様です。」

声をかけてきたのは、50代の女性看護師だった。腕のネームプレートには「相沢」とあった。神崎と一緒に働いている看護師のようだ。彼女は俺に紙コップの熱いお茶を差し出した。

「神崎先生から聞いています。佐藤先生ですよね。」

「神崎が、私のことを話していたんですか?」

「話すというほどではありません。ただ、大学時代の恩師と、大切な先輩がいると。それだけは時々。」

相沢は少し目を伏せた。それから静かに話し始めた。

「神崎先生は、7年前にうちの町に来ました。この町には、医者がいなかったんです。前の先生が高齢で引退されて、後任が見つからず、住民は片道2時間かけて隣町の病院まで通っていました。町の人にとって、それが命取りになるんです。」

「神崎が自分から志願したんですか?」

「はい。名前も肩書きも伏せて来られました。うちの院長も最初は驚いていました。『こんな若い腕のいい先生が、どうしてこんな田舎に』って。」

俺は紙コップを両手で握りしめた。

「神崎先生は、7年間一日も休んでいません。夜中でも呼ばれれば飛んでいく。おじいちゃんやおばあちゃんの家まで、車を運転して行くんです。台風の日も雪の日も。町の人はみんな、神崎先生を頼りにしています。あの先生がいなくなったら、うちの町は終わりだって。」

「なぜ、そこまで?」

「一度だけ聞いたことがあります。どうしてこんな暮らしを選んだんですかって。神崎先生はこう言いました。『恩師の高木先生が、生涯の夢としていたことがある。それは日本の医療格差をなくすことだ。僕は先生の理想を、僕なりに継ぎたい』と。」

俺の手が震えた。高木先生の夢。医療格差をなくすこと。先生は俺にも同じことを話していた。だが俺は大学病院の中で、難手術を積み重ねることでそれを果たそうとしていた。神崎は違った。神崎は医者のいない町へ、自分の身一つで飛び込んでいた。

「神崎先生は、大学病院を辞める時、随分悩まれたそうです。でも誰にも相談できなかった。相談すれば止められるから。特に佐藤先生には、絶対に会えないと。会ってしまえば、決心が揺らぐからと。」

「神崎が、そう言っていたんですか?」

「はい。『佐藤先生のことは本当に尊敬している。だからこそ、黙って消えるしかなかった』と。」

俺は空を見上げた。夜明けの空に、うっすらと星が残っていた。胸ポケットの万年筆が、ずしりと重かった。

朝の光が体育館の窓から差し込み始めた時、その声が響いた。

「先生、藤原さんの血圧が急に下がっています!」

俺と神崎は同時に走った。簡易ベッドの上で、男が唸っていた。藤原道夫。脱線した車両の下敷きになり、救出された男だった。腹部にも打撲があった。腹腔内出血が始まっている。そう判断するのに、3秒とかからなかった。

「腹部大動脈周辺の損傷だ。開けなきゃ助からない。」

「ここでですか?」

「する時間がない。ここでやるしかない。」

俺は迷わなかった。神崎も迷っていなかった。二人で顔を見合わせた。7年前と同じ、あの視線だった。言葉はいらなかった。

相沢が手術用の器具セットを走って運んできた。体育館の一角に簡易的なカーテンが貼られた。麻酔器の残りはわずか。輸血用の血液も、あと2パックしかなかった。

「神崎、お前が執刀しろ。ここでの勘はお前の方がある。」

「先生、僕の助手をお願いします。大学病院で先生がやってきた止血の技術が、今必要です。」

「分かった。お前の指示に従う。」

神崎がメスを入れた。腹壁が開かれ、血が溢れ出す。視野が真っ赤に染まった。藤原の腹腔は、想像以上に荒れていた。

相沢は離れた場所からその光景を見ていた。体育館の隅で他の患者の点滴を交換しながら、二人の背中を目で追っていた。7年間、神崎先生の背中を見てきた。神崎先生はいつも一人で戦っていた。一人で判断し、一人で決断し、一人でメスを握っていた。それが今は違った。隣にもう一人。佐藤先生が糸を通す前にピンセットで血管を挟んでいる。神崎先生が指示を出す前に、必要な器具が差し出されている。相沢の目に涙が溢れていた。神崎先生があんな顔で手術をするのを、初めて見たのだ。

「大動脈、50プロリンで縫合します。先生、シェアをお願いします。」

「開けてやる。行け。」

「横行結腸の枝あと3本。結紮したら止まるはずです。」

「任せろ。お前は大動脈に集中しろ。」

2時間の手術だった。最後の結紮を終えた時、モニターの電子音が安定したリズムを刻み始めた。藤原の血圧が、ゆっくりと戻っていく。神崎はマスクの下で、深く息を吐いた。手袋を外しながら、神崎が小さく呟いた。

「先生と、また手術をする日が来るとは思っていませんでした。」

「俺もだ。だが、お前の手は7年前より確かになっていた。」

「先生の手は、変わっていませんでした。あの日と同じでした。」

俺は神崎の肩を、一度だけ叩いた。

事故の収束から2週間が経った。俺は東京へ戻り、大学病院の日常に復帰していた。だが心の中は、あの体育館の光景で埋め尽くされていた。神崎とは連絡先を交換した。近いうちに、もう一度話す約束もした。だがその前に、俺にはやるべきことがあった。高木先生の書斎の整理だった。7年間、俺は先生の遺品に手をつけられずにいた。先生の奥様が数年前に亡くなられてから、家は空き家になっていた。先生の弟さんから、そろそろ片付けたいという連絡が来ていた。俺は休日に、その書斎へ足を運んだ。

古い本の匂いがした。机の上には、先生が最後に読んでいた医学書が、そのまま開かれていた。俺は棚を一つずつ丁寧に整理していった。論文の綴じ込み、学会誌のバックナンバー、若い頃の先生の写真。机の一番下の引き出しに、木箱があった。無骨な、飾り気のない箱だった。蓋を開けると、万年筆を納めていたであろう窪みがあった。今そこに万年筆はない。俺の胸ポケットにあるからだ。

その窪みの下に、封筒が一通敷かれていた。表には先生の字で、こう書かれていた。

「佐藤君、そして神崎君へ。」

俺の手が止まった。俺はその封筒を開けなかった。封筒を胸に抱えて、書斎を出た。一人で読むものではないと、直感していた。

翌日、俺は再び北関東の町へ向かった。神崎の診療所は、山の麓にあった。小さな平屋の建物で、待合室には患者が三人、静かに順番を待っていた。神崎は白衣の袖をまくって、往診鞄を持って出てきたところだった。

「神崎、これを一緒に読んでほしい。」

「先生、それは何ですか?」

「高木先生の書斎で見つけた。私一人で開けるものじゃない。」

診療所の裏に、小さな縁側があった。二人で並んで腰を下ろした。田んぼの向こうに、山が霞んでいた。俺は封を切った。先生の字が、縦線に並んでいた。

「佐藤君、神崎君。もし二人がこの手紙を一緒に読んでいるなら、私の願いは半分叶ったことになる。私は長い間、一つのことを考え続けてきた。本当の名医とは何か、ということだ。テレビに出る医者か。論文をたくさん書く医者か。難手術を成功させる医者か。どれも違うと、私は思う。本当の名医とは、一人でも多くの命を諦めずに救い続ける医者のことだ。そして、その道は一人では歩けない。都会の医療と地方の医療。最先端の技術と、住民に寄り添う医療。そのどちらが欠けても、日本の医療は成り立たない。だから、二人で歩んでほしい。これが、私の本当の願いだ。」

読み終えた時、神崎は俯いていた。肩がかすかに震えていた。俺は胸ポケットの万年筆をそっと取り出して、膝の上に置いた。

「先生は、僕が消えることも分かっていたんでしょうか?」

「分からん。だが、こう書き残していたということは、先生は俺たち二人を、最初から一組だと考えていたんだろう。」

「僕は7年間、一人で先生の理想を継いでいるつもりでした。でも、半分しか継いでいなかったんですね。」

「俺もだ。俺も、半分しか継いでいなかった。」

その日から、俺と神崎は新しい仕組みを作り始めた。大学病院と地方の診療所を結ぶ仕組みだった。地方で対応が難しい症例は、大学病院が受け入れる。必要ならば、俺が直接地方へ出向いて手術をする。大学病院の若手医師は、一定期間地方の診療所で研修を積む。地方で培われた診断力と、住民に寄り添う姿勢を、都市の医療へ持ち帰る。神崎はその地方拠点の中心となった。俺は大学病院側の窓口となった。

半年が経ち、1年が経った。若い医師たちが地方の診療所へ研修に行くようになった。最初は嫌がっていた者もいた。だが、半年経って戻ってきた若手の顔は、皆変わっていた。山本も今では、俺の取り組みを支えてくれている。

「山本、お前も一度あの町に行ってみないか?」

「先生、私は合理主義者ですよ。」

「合理主義者にこそ、見てほしい景色がある。」

「……考えておきます。」

そう答えた山本の顔は、以前より少し柔らかかった。

ある春の朝、俺は神崎の診療所を訪れていた。藤原道夫が退院後、この町に移住したという知らせが届いていた。藤原は縁側に座って、庭の梅を眺めていた。

「先生方には、命を二度救っていただきました。あの日。あれからの日々。」

俺と神崎は並んで、頭を下げた。診療所を出る時、桜が咲き始めていた。俺は胸ポケットにそっと手を当てた。万年筆がそこにあった。軸に指先を触れる。あの日、先生が俺に託したのは、この万年筆ではなかった。日本の医療の未来だった。そして、隣に立つ一人の男との、まだ続いていく約束だった。

「先生、次の往診、一緒に行きませんか?」

「ああ、行こう。お前の運転で頼む。」

軽トラックが、山道を登っていく。

Thumbnail