父の葬儀の朝、スマートフォンが震えた。画面には、あの上司の名前。出なければ、また面倒なことになる。仕方なく通話ボタンを押すと、ねっとりとした声が耳に流れ込んできた。
「おい、今何をやってるんだ」
「連絡した通り、今日は父の葬儀です」
「はあ? ジジイの葬儀ごときで仕事を休むな。首にするぞ」
その言葉を聞いた瞬間、長い間溜め込んできた何かが、はっきりと音を立てて切れた。
俺の名前は小野幸介。この春から、この大手企業でシステムエンジニアとして働き始めた。物づくりが好きでプログラミングの専門学校に進み、卒業後は地元のベンチャー企業に入社した。人数の少ない会社だったから、コードを書く傍ら、ディレクターのアシスタントや採用業務まで幅広くこなしてきた。その経験を買われて、今回の転職が決まったのだ。
転職先は大規模な事業を複数持つ企業で、これまで外注していたシステム業務を本格的に内製化することになり、中途採用で多くのエンジニアが集められていた。入社初日、デスクでパソコンをセットアップしていると、隣の社員がにこやかに話しかけてきた。
「小野さん、よろしくお願いします。僕は松原と言います。何か分からないことがあったら、ひとまずは僕に聞いてください」
「松原さんですね。よろしくお願いします」
「いやあ、ベンチャー出身ってすごいですよね。ポートフォリオも拝見しましたよ」
「そんな、全然まだまだです」
そうして気さくに話していると、背後から革靴の音が聞こえてきた。
「松原さん、さっきから何をこそこそ話しているんですか?」
振り返ると、開発チームのチーフである山田さんが立っていた。細い目をさらに細めて、こちらを睨んでいる。
「疑問があるなら、チャットツールで話せばいいでしょう。そんな時間があるなら、開発を進めてください」
「ああ、山田さん、すみません」
松原さんが慌てて頭を下げる。俺もそれに倣った。山田さんはチーム全体に怒号を飛ばしながら、奥の自分のデスクへ戻っていった。
チャットツールの設定が終わると、すぐに松原さんからダイレクトメッセージが届いた。
「さっきのことなら気にしなくていいですよ。山田さんはいつもあんな感じで、周りも知らんぷりしてるんです」
話を聞くと、山田さんは大企業の開発職を渡り歩いてきた人物らしい。数年前にこの会社の開発部門として採用されたが、事業部の関係で別部署に配属され、長らく開発業務ができなかった。そして最近ようやく開発部に戻ってきたかと思うと、これまでの苦労を盾に幅を利かせ始めたのだという。自分に従わない人間を蔑ろにしたり、若いエンジニアを捕まえては延々と昔話を聞かせたり。周りはすっかりうんざりしていた。
昼休み、トイレの場所を探していると、廊下で山田さんの井戸端会議が聞こえてきた。
「あの小野ってやつ、本当に大丈夫なのか? ベンチャーなんて、ただ年の近い仲良しグループの集まりだろ。学がないから、そこしか入れなかったんだよ」
腹が立った。だが、今ここで飛び出していけば、余計な角を立てるだけだ。どこにでもこういう人間はいる。そう自分に言い聞かせて、俺は心の中で決意した。
絶対に成功して、見返してやる。
それから俺は、以前より一層気を引き締めて働いた。入社から半年が過ぎ、取引先に常駐してシステム開発を進めるようになった。本社に戻ってきたのは数週間ぶりのことだ。
「山田さん、お疲れ様です。常駐先での交通費の申請は、どのように進めれば良いでしょうか?」
山田さんは不機嫌そうな顔で吐き捨てるように言った。
「私がエンジニアになった頃は、交通費なんてなくても仕事ができただけで有り難かったですがね」
「そうでしたか。ですが、面接の際に会社が負担すると社長から伺いました」
「はあ、そうですか。じゃあ、社長に確認しないといけませんね。内線繋ぐので、デスクに戻ってください」
え、社長に内線? 俺が驚いているうちに、山田さんはすぐに電話を繋いでしまった。慌てて受話器を受け取ると、社長の苛立った声が聞こえてくる。
「なんだ、これから大事な会議があるというのに」
「すみません、緊急の内容ではございません。交通費の申請で」
「交通費? そんなの山田に聞いてくれればいいだろう。彼が緊急の報告があると言うから受けたのに、人の時間を何だと思ってるんだ?」
「いえ、申し訳ございません」
俺が電話の傍らでちらりと見ると、山田さんはもういない。俺は、山田さんのせいで思わぬ大目玉を食らってしまった。松原さんに愚痴を聞いてもらい、なんとか気持ちを収めたが、これをきっかけに山田さんの俺への当たりは強くなった。挨拶は無視され、仕事中も休憩に行くふりをしながら、何かと画面を監視されている気がする。ある日は、閉まっていた書類がデスクの上に散乱していたこともあった。
「うわ、汚いデスクだなあ。仕事ができないのが丸分かりだ。部屋も汚いんだろうなあ」
山田さんが鬼の首を取ったように騒ぐので、職場の雰囲気も悪くなっていった。俺の書いたコードをレビューしながら、また始まった。
「こんな読みにくいコード書いたの誰だよ。ベンチャーでバリバリやってたんじゃなかったのか?」
「ですが、これはこういう仕様で、山田さんも承認されたはずです」
「そんなこと聞いてないんだよ。ごちゃごちゃわけのわからないこと言って、自分の行動が説明できないくらいなら、書類の片付けでもやってろよ」
そんな調子で、案件は一向に進まなかった。そんな時、山田さんの案件でトラブルが発生した。オフィスは朝から騒がしく、現場は状況の確認に追われている。山田さんが汗を流しながら、チームのメンバーに告げた。
「この案件には小野君も携わっている。従って、彼も客先に謝罪に行かなければいけない」
「え、僕は最後の部分の修正をしただけですが」
「それが携わっていると言うんだ。つべこべ言わずについてこい」
仕方なく取引先に付いていくと、山田さんはクライアントの前で、自分のミスを俺に押し付けた。
「この度は、私の監督不行き届きのせいで誠に申し訳ありませんでした。小野君、謝りなさい」
俺は連日のことで疲れ果て、もう怒る気力も残っていなかった。
帰社後、スマートフォンを開くと、不在着信が溜まっている。宛先は妻からだった。
「あなた、今どこにいるの? すぐに病院に来て」
それから、何があったかはよく覚えていない。医者の見解を淡々と聞き、家に帰って機械的に連絡を繰り返した。そして今、俺は通夜を終えた父の家の棺の前で、ただ立ち尽くしていた。
「パパ」
娘が俺の手を引っ張っても、参列者が何か確認事項を持ってきても、俺は何もかも遠い出来事のように感じられた。
「この度は誠に痛み入ります。生前、お父様には本当にお世話になったんです」
「そうですか。来てくださって、父も喜んでいます。ありがとうございます」
通夜には多くの人間が駆けつけ、花を手向けてくれた。元々入退院を繰り返していた父は、昨晩、容態が急変したのだ。いつもなら定時後に病院へ向かうところだが、昨日だけは、その時間を葬儀の準備に追われていた。
翌朝、スマートフォンの着信音で目が覚めた。山田さんからだった。こんな時にも、この男の声を聞かなければならないのか。吐き気がしたが、出なければ出ないで面倒なことになるのは目に見えている。仕方なく通話ボタンを押した。
「おい、あの、お前、今何をやってんだ?」
山田さんは朝からねっとりとした声で続ける。
「ですから、連絡しました通り、今日は父の葬儀です」
「はあ? お前の休みのせいで、周りに迷惑をかけているのが分からないのか? ジジイの葬儀ごときで仕事なんか休むな。首にするぞ。それだから、ベンチャーで仲良しごっこをしていたやつはダメなんだ。本当に使えないやつだな」
「とにかく急いで会社に来い。今すぐだ」
その時、俺の中で何かが切れる音がした。
「山田さんの意見はよくわかりました。このことは、社長にも伝えます」
「んだと? それは一体どういう意味だ?」
「山田さんこそ大丈夫ですか? 会長の葬儀をすっぽかして。役員の方々は皆さん参列してくださっていますよ」
「はあ? 会長? おい、さっきから何を言って……」
「それでは、忙しいので失礼します」
山田さんが返事をする前に、俺は電話を切った。娘が心配そうに声をかけてくる。
「パパ、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
娘の頭を撫でながら、俺は父の重約を果たすため、葬儀会場へ向かった。
翌日、俺は急遽、社長に呼び出された。社長室に向かうと、そこには顔を青くした山田さんが待っていた。
「幸介君、すまないね。急に呼び出して」
「いえ。それで、どのようなご用でしょうか?」
「昨日の葬儀についてだよ。君の父上、つまりはうちの会長の葬儀に、山田君の姿が見えなかった。どういうわけだと問い質したのだよ」
社長が難しい顔をして山田さんを見る。山田さんは俺をちらちらと見ながら、小さな声で言い訳を始めた。
「それはその、小野さんの連絡が原因で」
どうやら俺が連絡をしなかったせいで、会長の葬儀に行けなかったと、そう言っているらしい。さらに山田さんは俺を指さして続けた。
「それに、私は案件やシステムの構築で頭がいっぱいで、彼には再送するよう言ったのですが」
あまりの言い訳に、ため息が出そうになる。たまりかねて、俺は社長に事の次第を説明した。
「父、会長の葬儀については、社内ツールでも周知しましたし、他の方はその連絡を確認して出席しています。松原さんにも、複数回連絡を頼みました。聞いていないとおっしゃるなら、松原さんをお呼びしましょうか?」
山田さんの顔が歪んだ。俺は構わず続ける。
「それに、私が声をかければ、山田さんは『話す時間があるなら開発を進めろ』の一点張りで、話を少しも聞いてくれませんでした。だから、松原さんに連絡を頼んだんです。人の時間を取っているのは、山田さんの方ではないですか?」
「山田君、これは一体どういうことなんだね? この前の交通費の件だって、幸介君と意見が食い違ってばかりじゃないか」
「い、いや、違いますよ。私はただ、小野さんに大企業のやり方を教えていただけで、気に触った彼が私を落とし入れようとしているんです。彼は小さなベンチャーから来たもんですから、どうもやり方がなっていないというか」
「ほう。どういうことだね」
「だから、ベンチャー企業なんて、仲のいいメンバーでやっているところでしょ。この歴史あるうちのやり方には合わないから、私が育てないとという責任感で、案件の謝罪にも彼を同行させたんです」
「仲のいいメンバーでやっているところか」
社長が苦虫を噛みつぶしたような顔で呟いたが、言い訳に必死な山田さんは気づかない。山田さんはヒートアップして続ける。
「彼は、それがハラスメントに思えたんでしょうか。昨日、私に複数回嘘の日程を伝えてきたんですよ。私は本当にショックで、すぐ彼に連絡したんですが、その時は家族の葬儀がどうとかで、私の言葉に耳を貸さないんです。最後には無視まで始めて、私は彼の不適切さを指摘しました。すると彼は急に怒り出して、社長に私を告発するまで言って脅してきた。被害を受けたのは私の方ですよ」
「山田君。何か勘違いをしているようだが、ここは今でこそ大手と呼ばれているが、元々は私と幸介君のお父上が、あの会長と、二人で始めたベンチャー企業だよ」
山田さんが驚きで固まった。社長は大きなため息をついて、当時のことを語り始めた。
「この会社も、かつてはベンチャーと呼ばれていた。最初は、なんとか借りることのできたビルの一室で、会長と必死に働いたものだ」
そうして社長は、自身の若かりし頃と父のことを話し始めた。父は懸命な人だった。上に媚びず、しがらみを嫌い、何より物づくりを愛していた。社長とも何度も喧嘩したが、安酒を片手に何度も朝まで語り合ったのだそうだ。ベンチャー企業と馬鹿にされないよう、父は自分にも他人にも厳しかった。優秀な部下を何人も育て、今、そのうちの何人かは新しい会社を立ち上げたり、海外で活躍したりしている。当時は金もなく余裕もなかったが、夢だけはずっと持っていた。
「今もそうだが、私は会長と働いていたあの時が、一番楽しかったんだ。君も、彼と同じ道を選んだんだね」
社長が俺を見て微笑む。社長の話を聞きながら、俺は昔の父をぼんやりと思い浮かべた。
「山田君。ベンチャーも、そう悪くないものだよ。君のように会社にぶら下がり、他人の足を引っ張るだけの人間がいないからね。私は本当は今すぐにでも君を解雇したいところだが、君にはまだやることが残っている。きちんと調査をした上で、処分は後日通達する。仕事に戻りなさい」
山田さんは何も言わないまま、背中を丸めて廊下へ出ていった。社長と部屋に二人きりになった時、社長は創業当時の写真を見せてくれた。
「彼は、仕事の合間に、よく君の話をしていたよ。いつもデスクに写真を飾っていてな。君が小さい頃の話を、何度も聞かされたものだ」
写真の中の父は、社長と肩を組んで笑っている。今の自分と比べてしまって、俺は思わず苦笑した。
「きっと、僕のことは、手のかかる息子だと話していたと思います。実際、父には何度も叱られましたから」
「何を言うんだ。『あいつは絶対にやれる』って、いつも嬉しそうに話してたよ。それに、あんなに素晴らしい葬儀をして、今も一人のエンジニアとして立派に働いている。息子を持つ父親として、これほど誇らしいことはない。彼もきっと喜んでいるよ」
気づけば、俺の目から涙が溢れていた。葬儀の時には、一滴も流れなかったのに。
「幸介君。彼のことは、私と君でずっと忘れないでいよう。そして、これからもこの会社のために、私と共に頑張ってくれ」
「はい。よろしくお願いします」
社長と俺は、硬く握手を交わした。その後、山田さんは本格的に調査された。調査の中で、俺以外のメンバーからの証言もあり、山田さんの行いは会社全体に知られることとなった。恥をかかされた山田さんは、ある日、会社から荷物を抱えて逃げ出してしまった。今は、どこで何をしているのかも分からない。
そして数ヶ月後、俺は常駐先から本社に戻り、開発チームのチーフとなった。
「小野さん、次期システムの案件、新人のコードレビューをお願いします」
「わかりました」
山田さんがいたデスクに座りながら、俺は社長と父のことを思い出していた。社長は「君も彼と同じ道を選んだんだね」と言ったが、俺は特別父と仲が良かったわけではない。むしろ、幼い頃、父は俺にとってとても怖い存在だった。
幼い頃に母を亡くし、毎日泣いていた俺を、ある日父は慰めるどころか叱りつけた。
「男がめそめそ泣くんじゃない」
家にいることも少なかったため、俺は叔母の家で育てられた。だが、小学生の時、クリスマスの夜のことだ。俺がベッドで寝ていると、部屋に誰かが侵入してきた。泥棒だ。俺はとっさにそう思い、ぎゅっと目を閉じた。叔母を呼ぼうかと思ったが、怖くて声が出ない。
翌朝、目を覚ますと、そこにはラッピングされた直方体の箱があった。ああ、サンタクロースだ。きっと前から欲しかったゲーム機を持ってきてくれたんだ。クリスマスを忘れていた俺は、慌てて包装紙をめくった。だが、中身はゲーム機ではなかった。直方体の正体は、辞書だった。それも国語辞典ではなく、プログラムコードと、それに対する説明が細かくびっしりと書かれた本。
父は褒めるより叱る方が多く、俺は父の笑顔をあまり見たことがない。しかし、考え方を変えれば、父は俺を子供扱いせず、小さいうちから一人の男として、エンジニアとして尊重してくれていたのだ。父がたくさんの部下を持ち、仕事や会社を愛して生きてきたと知り、俺は父を改めて誇らしく思った。
「小野さん、面接の時間になりました。お願いします」
「ああ、ありがとう。今行くよ」
履歴書とパソコンを持って、俺は会議室へ向かう準備を進める。
「松原さん、行ってくるよ」
俺のデスクには、娘の写真と、社長にもらったもう一枚の写真が置かれている。そこには、まだ会社を創業したばかりの、俺と同じ年齢の父が、笑っていた。



