「母さん、もう二度とうちの式には来ないでください」
息子の口から放たれたその言葉に、私は自分の耳を疑った。夕食後の穏やかな時間、いつものようにお茶を飲みながら団らんしていたはずなのに、突然空気が凍りついた。
「え、あひ、今なんて」
震える声でようやく聞き返した私に、息子は冷たい視線を向けたまま繰り返した。
「聞こえなかったんですか? もううちには来ないでくださいって言ってるんです」
隣に座る嫁の千春も、まるで申し合わせたように口を開いた。
「お母さん、私たちはもう他人なんです。いい加減そのことを理解してください」
他人。私たち親子が。三十八年前、この子を産んだあの日から、私はずっと母親として生きてきたのに。医学部の学費も、結婚資金も、全て息子の幸せを願って工面してきたのに。
「私が、私が何かしましたか」
絞り出すように問いかけると、息子は嫌そうにため息をついた。その表情にはもう、私への愛情のかけらも見えなかった。
胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。これが私と息子の最後の家族としての時間になるとは、この時はまだ知るよしもなかった。
家に帰る道すがら、私は自分の人生を振り返らずにはいられなかった。三十六年間、保険士として地域の健康を守り続けてきた私。朝は五時に起きて家事を済ませ、夜遅くまで働いて、それでも息子のためなら何でもしてきた。
夫が亡くなってからの十年間は特に必死だった。大学の学費、四年間で五百万円。一人暮らしの仕送りに毎月八万円。就職活動の交通費、スーツ代。全て私の貯金から工面した。
結婚する時には、新生活のためにと三百万円を包んだ。
「母さん、いつもありがとう。恩返しするから」
あの時の息子の笑顔を信じていたのに。それなのに今の私は「他人」なのだそうだ。血のつながった親子が、どうして他人になれるというのだろうか。
思えばここ数年で、息子夫婦の態度は少しずつ変わっていった。孫の顔を見せに来る回数が減り、電話の声も素っ気なくなり、私の誕生日さえ忘れられるようになった。
「お母さんはもう役目を終えたんですよ」
千春の言葉が頭の中で繰り返される。役目。私は息子を育てるための道具だったということだろうか。必要な時だけ使って、用が済んだら捨てる。そんな扱いを受けるために、私は人生を捧げてきたのだろうか。
保険士としてこれまで何百人もの家族を見てきた。親子の絆の大切さを説いてきた私が、まさか自分の息子にこんな仕打ちを受けるなんて。
涙も出ない。ただ心が深い闇に沈んでいくような感覚だけが残った。
翌朝、息子から電話がかかってきた。昨夜のことを謝るのかと一瞬期待した私が、なんて愚かだったことだろう。
「母さん、昨日の話の続きなんだけど」
事務的な口調に胸が締め付けられる。
「定期預金の満期、来月だったよね。三千万円」
唐突な質問に戸惑った。なぜ私の貯金のことを知っているのだろうか。
「それがどうかしたの? 」
「いや、ちょうどいいタイミングだなと思って。俺たち新しい家を買うことにしたんだ。それでその三千万円を頭金に使わせてもらおうと思って」
耳を疑った。昨日「他人」だと放った息子が、今度は私の貯金を要求してきたのだ。
「あひ、あなた、何て言ったか覚えてる? 」
「何の話?

」
「とにかく満期になったら俺の口座に振り込んでくれればいいから。当然のことでしょう。親が子供を援助するのは」
他人扱いしておいて、お金だけは当然もらえると思っているのだろうか。
「それからもう一つお願いがあるんだけど」
まだあるのか。呆れを通り越して怒りが込み上げてきた。
「会社の業績が悪くてボーナスがカットされたんだ。毎月の生活費の援助、今まで五万円だったけど十五万円に増やしてもらえる? 子供の塾代もかかるし、千春もパートを辞めたから働きにならないから」
「待って。あひ、私はもう他人なんでしょう? 千春さんもそう言ったわよね」
電話の向こうで、息子が嫁と何か話している声が聞こえた。そして今度は千春の声に変わった。
「お母さん、誤解しないでくださいね。他人というのは精神的な距離の話です。経済的な援助はこれまで通り、いえ、むしろ増やしていただきたいんです」
「精神的な距離? どういう意味かしら?
」
「つまりお金は出していただきますが、私たちの生活には干渉しないでいただきたいということです。孫の教育方針にも口を出さないで、家にも来ないで。でもお金だけは毎月きちんと振り込んでください」
この瞬間、全てが見えた。息子夫婦にとって、私はただのATMだったのだ。
「それって都合が良すぎるんじゃないかしら」
「都合がいい? お母さん、よく考えてください。あひの会社、このご時世いつリストラされるか分からないんですよ。今は共働きでやっとローンを払ってる状態。お母さんは保険士で安定した退職金もあったでしょう。年金だって私たちより恵まれてるはずです」
まるで私の財産を当てにして生活設計をしているようだった。
「私の退職金も年金も、老後の生活のためのものよ」
「老後? お母さんもう六十八歳でしょう。これからどれだけお金を使うんですか? どうせ死んだら全部あひがもらうことになるんだから。今渡しても同じことです」
「千春さん、あなた本気で言ってるの?
」
「本気も何も、これが現実です。あ、それから言い忘れましたが、私たちの住宅ローンの連帯保証人もお願いしますね。前の保証人がいなくなったので更新が必要なんです」
連帯保証人。そんな重要なことを。
「親なら当たり前でしょう。あ、でも保証人になっても家には来ないでくださいよ。ご近所にあひの母親が一人暮らしの年寄りだって知られたら、体面が悪いので」
年寄り。私がまだ現役で働いていた頃から、ずっと息子家族を支えてきたのに。
「お母さん、返事は? 黙ってないではっきり『はい』って言ってください」
「私に考える時間をちょうだい」
「考える時間? 何を考えるんですか? 親なら当然でしょう。まさか断るつもりじゃないでしょうね」
電話の向こうでまた息子の声がした。
「母さん、千春の言う通りだよ。俺たちも生活があるんだ。会社員の給料じゃ、子供二人を育てるのは大変なんだよ。母さんが援助してくれないと、孫だって満足な教育を受けられない。それでいいの?
」
孫を人質に取るような言い方に、怒りで手が震えた。でもそれ以上に悲しかったのは、息子の声に一片の愛情も感じられなかったことだ。
「あひ、あなた本当にそれでいいの? 母親を他人扱いしてお金だけもらうなんて」
「何を今更。母さん、だって俺のこと自慢の息子だって言ってたじゃないか。自慢の息子が困ってるんだから、助けるのが親ってもんでしょ」
「でももう他人なんでしょう」
「だからそれとこれとは別だって言ってるじゃないか」
息子の苛立った声が響いた。昔は優しかった息子の声が、今はまるで借金取りのようだった。
「分かったわ。少し時間をちょうだい」
「時間って、満期は来月でしょ。早く手続きしないと」
「分かってる。じゃあ切るわね」
電話を切った後、私は崩れるように椅子に座り込んだ。三十八年間大切に育ててきた息子は、いつからこんな人間になってしまったのだろうか。それとも千春と結婚してから変わってしまったのだろうか。いずれにしても、もう昔の優しい息子は戻ってこないのだとはっきりと分かった。
その日、私は一日中ぼんやりとしていた。朝食も喉を通らず、ただソファに座って窓の外を眺めていた。
三千万円。これは夫と二人で必死に貯めた老後の資金だった。夫が亡くなる前、病床で私の手を握りながら言った言葉が蘇る。
「よし子、この金は絶対に手を付けるな。お前の老後のために残しておくんだ。あひにはあひの人生がある。親が全てを与える必要はない」
あの時は夫の言葉を素直に受け入れられなかった。息子のためなら何でもしてあげたいと思っていたから。でも今、夫の言葉の意味が痛いほど分かる。
夕方になって、親友の洋子から電話があった。同じ保険士として長年一緒に働いてきた彼女は、私の様子がおかしいことにすぐ気づいた。
「よし子、声が暗いわよ。何かあったの? 」
「洋子、実は昨日、息子夫婦から……」
話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れ出した。他人扱いされたこと。それなのに三千万円を要求されたこと。連帯保証人まで頼まれたこと。
「信じられない。あひ君がそんなことを。あんなに優しい子だったのに」
「私も信じられないの。でもこれが現実なのよ」
「よし子、はっきり言うわね。それは息子じゃない。ただの強欲な他人よ。あなた、まさか要求を飲むつもりじゃないでしょうね」
「でも孫のことを考えると……」
「孫? その孫に会わせてもらえるの?
家にも来るなって言われたんでしょう」
洋子の言葉は鋭く、でも的確だった。
「よし子、私の姉の話を聞いて。姉も息子に老後の資金を全部渡したの。家を買うからって。でもお金を渡した途端、連絡が途絶えたのよ。今は施設に入ってるけど、息子は見舞いにも来ない。そんなお金で繋がった関係は、お金がなくなれば終わるのよ。それに一度要求を飲んだら、次はもっと大きな要求が来る。際限がないわ」
洋子の言葉に背筋が寒くなった。確かに今回三千万円を渡したら、次は何を要求されるか分からない。
「よし子、あなたは三十六年間人のために尽くしてきた。もう自分のために生きてもいいんじゃない? 」
自分のために。
「そうよ。息子さんは立派に独立して家族も持った。もう親の役目は終わったのよ。これからはあなた自身の人生を大切にして」
電話を切った後、私は夫の遺影の前に座った。
「あなた、私はどうしたらいいの? 」
遺影の夫は、優しく微笑んでいるように見えた。その瞬間、夫が生前よく言っていた言葉を思い出した。
「よし子、人に優しくすることは大切だ。でも自分を大切にしない人間に優しくする必要はない。それは優しさじゃなくて、ただの自己犠牲だ」
涙が頬を伝った。でもそれは悲しみの涙ではなく、何かが吹っ切れた涙だった。
私は立ち上がると、整理箪笥の引き出しから通帳を取り出した。三千万円の定期預金の通帳。来月で満期になる。
そしてもう一つの書類も取り出した。息子の住宅ローンの連帯保証人の書類だ。
「他人なら、他人として行動するまでです」
私は静かにつぶやいた。
深夜、私は銀行のコールセンターに電話をした。二十四時間の窓口だ。
「定期預金の解約についてお伺いしたいことがあるのですが」
「承知いたしました。どのようなご要件でしょうか? 」
「来月満期の定期預金があるのですが、満期前に解約することは可能でしょうか?
」
「可能でございます。ただし満期前解約の場合は中途解約利率が適用されますが、よろしいでしょうか? 」
「構いません。明日、朝一番に手続きに伺いたいのですが」
「承知いたしました。では明日九時に窓口でお待ちしております。解約には通帳、お届け印、ご本人確認書類が必要となります」
「分かりました」
「もう一つ、連帯保証人の解除についても相談したいのですが」
「そちらはローン担当の窓口でご相談いただけます。明日合わせてご案内いたします」
電話を切った後、私は初めて心が軽くなったような気がした。息子は私を「他人」と言った。ならば、他人として正当な行動を取るだけだ。他人の借金の保証人になる必要はない。他人にお金を渡す義理もない。
窓の外では月が静かに輝いていた。明日から新しい人生が始まる。そんな予感がした。
翌朝、私は八時半に家を出た。銀行の開店時間に合わせて身支度を整え、必要な書類を全てバッグに入れた。九時ちょうどに銀行に到着すると、すでに担当者が待っていてくれた。
「松本様、お待ちしておりました。まずは定期預金の解約手続きからよろしいでしょうか? 」
「はい、お願いします」
個室に通されると、担当者は慎重に尋ねてきた。
「三千万円の定期預金、満期まであと一ヶ月ですが、本当に解約されますか? 利息が約十万円ほど減ってしまいますが」
「構いません。今日解約してください」
「失礼ですが、何か急な用途が?
」
「いいえ、別の銀行に移すだけです。息子には内緒にしておいてください」
担当者は少し驚いた顔をしたが、プロとして余計なことは言わなかった。
「承知いたしました。では解約後の振り込み先はどちらに? 」
「いえ、一旦現金で受け取って、この後すぐ別の銀行に預けます」
「三千万円を現金でですか? それは危険では? 」
「大丈夫です。すぐ近くの銀行ですから」
手続きは思いの外スムーズに進んだ。三千万円という大金だったが、銀行側も準備してくれていたようで、三十分ほどで全ての手続きが完了した。
続いて連帯保証人の件だ。私は住宅ローンの契約書を取り出した。
「息子の住宅ローンの連帯保証人になっているのですが、これを解除したいのです」
ローン担当者が呼ばれ、状況を確認してくれた。
「松本様、連帯保証人の解除には、債務者であるご子息の同意か、代わりの保証人が必要となりますが……」
「息子の同意は取れません。でも何か方法はないでしょうか?
」
担当者は少し考えてから、意外な提案をしてくれた。
「実はご子息のローンですが、先月から返済が滞っているんです」
「え、返済が? 」
「はい。二ヶ月分です。このまま三ヶ月滞納すると、期限の利益を喪失して一括返済を求めることになります。その場合、連帯保証人である松本様に請求が行くことになりますが……」
私は息を飲んだ。息子は私に金銭援助を求めながら、すでにローンの返済も滞っていたのだ。
「それなら今のうちに連帯保証人から外れることはできませんか? 」
「通常は難しいのですが、実は松本様が定期預金を解約されたことで担保価値が変わります。銀行としてもリスク管理の観点から契約内容の見直しが必要になりました」
「どういうことですか? 」
「連帯保証人の資産状況が大きく変わった場合、銀行から債務者に通知を送ることになっています。その際、新たな保証人を立てるか、別の担保を提供するよう求めます」
「もし応じられない場合はどうなるんですか?
」
「契約条件の見直し。最悪の場合は一括返済を求めることもあります」
私は深く息を吸い込んだ。これは予想以上の展開だった。
「つまり、息子には銀行から通知が行くということですね」
「はい。定期預金解約と連帯保証人の資産状況変更の通知が、明日には郵送されます」
私は静かに頷いた。これで良いのだ。息子が私を他人と言うなら、他人として当然の行動を取るまでだ。
銀行を出ると、私はすぐに道路を渡り、向かいの信用金庫に入った。ここで新しい口座を開設し、三千万円を預け入れた。
「普通預金と定期預金、どちらになさいますか? 」
「半分を普通預金に。半分を一年定期でお願いします」
「承知いたしました。ちなみに当金庫では資産運用のご相談も受け承っておりますが……」
「ありがとうございます。でも今は自分のペースで考えたいので」
全ての手続きが終わったのは昼過ぎだった。新しい通帳を手に、私は不思議な解放感を覚えていた。
帰り道、私は花屋に立ち寄った。
「いらっしゃいませ。今日は春の花が綺麗ですよ」
「そうね。明るい色の花を選んでもらえる? 自分へのご褒美なの」
「素敵ですね。新しい門出ですか? 」
「ええ、そんなところかしら」
花束を抱えて家に帰ると、留守番電話が点滅していた。再生すると息子の声だった。
「母さん、定期預金の件だけどさ。早く手続きしてよ。千春も待ってるから」
私は留守番電話を消去した。もう返事をする必要はない。明日、銀行からの通知が届けば、全てが分かるだろう。
翌朝十時過ぎ、予想通り息子から電話がかかってきた。着信音がなる度に心臓が高鳴る。私は三回目のコールで受話器を取った。
「母さん、今すぐ説明してよ。銀行から変な通知が来たんだけど」
息子の声は、今まで聞いたことがないほど荒立っていた。
「おはよう、あひ。通知って何のこと?
」
「とぼけないでよ。連帯保証人の資産状況変更だって。定期預金三千万円が解約されたって書いてある。どういうことなの? 」
「ああ、そのことね。昨日解約したのよ」
「解約した? なんで? 来月まで待てば満期だったのに」
「だって私たちは他人なんでしょう。他人のお金を当てにするのはおかしいと思って」
電話の向こうで息子が息を飲む音が聞こえた。
「何言ってるの?
他人とかそういう話じゃないでしょう」
「あら、でも千春さんもあひもはっきり言ったじゃない。私たちは他人だって。二度とうちの式をまたぐなって」
「それとこれとは話が違う」
今度は千春の声が聞こえてきた。電話を奪い取ったようだ。
「お母さん、今すぐそのお金をあひの口座に振り込んでください」
「千春さん、どうして私が他人にお金を振り込まなければならないの? 」
「他人じゃありません。家族です」
「あら、三日前は他人だって言ってたのに。都合によって他人になったり家族になったりするのね」
「そんな屁理屈はいいんです。とにかくお金を」
「お断りします」
「はあ? 」
「お断りしますと言ったんです。他人にお金を渡す義理はありません」
千春の声が震え始めた。怒りなのか焦りなのか判断がつかなかった。
「お母さん、分かってるんですか? 連帯保証人の件も書いてありますよ。保証人を立てないとローンの一括返済を求められるって」
「それは大変ね。でも私には関係ないことです」
「関係ない?
あなたが連帯保証人なのに」
「でももうすぐ連帯保証人ではなくなりますから。銀行の方が手続きを進めてくださるそうです」
再び息子の声に変わった。
「母さん、ちょっと待ってよ。連帯保証人を外れるって、そんなことできるわけない」
「できるのよ。あひ、あなたがローンを二ヶ月も滞納してるから」
沈黙が流れた。息子が絶句しているのが電話越しにも分かった。
「な、なんで知ってるの? 」
「銀行の方が教えてくださったの。定期預金を解約したら私の資産状況が変わるから、連帯保証契約も見直しになるって」
「そんな……」
「母さん、お願いだから考え直して。俺たち本当に困るんだ」
「困る? どうして? 千春さんはパートで働いてるし、あひも会社員でしょう。二人で働けばなんとかなるんじゃない?
」
「そんな簡単じゃないんだよ。子供の教育費だってかかるし、生活費だって……」
「でも私は他人なんでしょう。他人の生活費まで面倒見る必要はないわ」
「母さん! 」
息子の叫び声が響いた。でも私の心は、不思議なほど落ち着いていた。
「あひ、あなたは自分で選んだのよ。私を他人扱いすることを。だから私も他人として行動しているだけ」
「違う。あれは千春が勝手に……」
「あら、千春さんのせいにするの? あなたも同じこと言ったじゃない。二度と式をまたぐなって」
「あれはその時は……」
息子の言葉が途切れ途切れになった。言い訳を探しているのでしょうが見つからないようだ。
「母さん、頼む。本当に頼むからお金を貸してくれ」
「貸す? さっきまでは『もらって当然』って言ってたのに、今度は貸して?
」
「いや、その、とにかく助けてくれ」
「あひ、一つ聞かせて。もし私がお金を渡したら、私はまた家族として迎えてもらえるの? 孫にも会わせてもらえる? 」
少し間があって、千春の声が聞こえた。
「それは、状況によります」
「状況による? つまりお金は欲しいけど、関係は変えたくないということね」
「そうじゃなくて、段階的に……」
「千春さん、もういいわ。あなたたちの本心はよく分かりました」
私は深く息を吸い込んでから、はっきりと告げた。
「あひ、千春さん、よく聞いて。私は三千万円を別の銀行に移しました。そのお金は私の老後のために使います。連帯保証人も銀行と相談して外れる手続きを進めています。あなたたちへの経済的援助は、今後一切しません」
「そんな!
母さん、血も涙もないの! 」
「血も涙もない? その言葉を聞いて、私は思わず笑ってしまったわ。血も涙もないのはどっちかしら? 親を他人扱いしてお金だけを吸い取ろうとしたのは誰?
」
「あれは言葉のあやで……」
「言葉のあや? 言葉には責任が伴うのよ。あなたは三十八歳、もう子供じゃない。自分の言った言葉の責任は自分で取りなさい」
「母さん! 公開するよ! 俺たちと縁を切ったら、孤独死するよ!
」
「孤独死? 心配してくれてありがとう。でも、お金目当てで近づいてくる家族より、一人の方がずっとましよ」
「そんな言い方……」
「事実でしょう。あなたたちは私のことを一人の人間として見ていない。ただの金ずるとしか思っていない。そんな関係を続けるくらいなら、一人で生きていく方がよっぽど尊厳があるわ」
千春が再び電話を奪い取った。
「お母さん、今すぐ家に来てください。直接話し合いましょう」
「お断りします。二度と式をまたぐなと言われましたから」
「そんな昔のこと……」
「昔? たった三日前よ。もう忘れたの? 」
「とにかく話し合いが必要です」
「話し合う必要はありません。あなたたちが決めたことです。私を他人扱いすると。だから私もその通りにしているだけ」
「お母さん!
」
「千春さん、最後に一つだけ言わせて。あなたたちはお金と愛情を天秤にかけて、お金を選んだ。その選択の結果が今の状況なの。自分たちの選択の責任は、自分たちで取ってください」
「待っ……」
私は静かに受話器を置いた。すぐにまた電話が鳴ったが、私は出なかった。留守番電話に切り替わると、息子と千春の怒鳴り声が録音されていった。
「母さん、これは詐欺だ! 」
「お母さん、あなたには責任があるでしょう! 孫に会えなくなってもいいの! 」
脅迫じみた言葉が続いたが、私は全て消去した。もう振り回されることはない。
あの電話から三ヶ月が経った。私は今、穏やかな日々を送っている。
朝は六時に起きて近所の公園を散歩し、午前中は趣味の陶芸教室に通っている。午後は友人たちとお茶をしたり、図書館で本を読んだり、自分のペースで自分のための時間を過ごしている。
三千万円の一部は資産運用の専門家に相談して、安全な投資信託に振り分けた。毎月わずかだが配当金が入り、年金と合わせて十分な生活ができている。
先日、保険士の同僚だった洋子から電話があった。
「よし子、最近顔色がいいわね。何か良いことでもあった?
」
「そうかしら。ただ自分の人生を生きているだけよ」
「それが一番よ。ところで息子さんとは連絡は取ってないの? 」
「向こうからは何度か電話があったみたいだけど」
実際、息子夫婦からは何度も連絡があった。最初は怒りの電話、次は泣き落とし、そして最後は脅迫じみたものだった。でも私は一切応じなかった。
「後悔してないの? 」
「全くないわ。むしろもっと早く気づくべきだった。愛情とお金を混同してはいけないって」
その時、洋子が意外なことを教えてくれた。
「実はあひ君の会社の人から聞いたんだけど、彼、最近大変みたいよ」
「そう」
「住宅ローンの件でかなり追い込まれてるって。奥さんもフルタイムで働き始めたらしいわ」
千春がフルタイムで働く。あれほど専業主婦にこだわっていた彼女が。でも、それも自分たちの選択の結果だ。
「よし子、冷たいようだけど、それが現実よね。自分の発言には責任を持たないと」
「そうね。私も学んだわ。優しさと甘やかしは違うって」
数日後、意外な人から手紙が届いた。孫からだった。
小学三年生の孫の、下手で真っ直ぐな字が便箋いっぱいに書かれていた。
「おばあちゃんへ。最近会えなくて寂しいです。パパとママはいつも喧嘩しています。おばあちゃんのことで喧嘩しているみたいです。僕はおばあちゃんに会いたいです。でもパパがダメだって言います。おばあちゃん元気ですか?
僕は元気です。また会えるといいな」
涙が溢れた。罪のない孫まで巻き込んでしまったことに胸が痛んだ。でも私にできることは、返事を書くことだけだった。
「真君へ。お手紙ありがとう。おばあちゃんも真君に会いたいです。でも今は会えません。大人の事情というものがあるのです。でも覚えていて。おばあちゃんはいつも真君のことを思っています。勉強を頑張って、優しい大人になってください。いつか真君が大人になったら、また会えるかもしれません。その時を楽しみにしています」
手紙を出した後、私は決意を新たにした。孫のためにも、私は健康で長生きしなければ。真君が大人になって、自分の意思で会いに来てくれる日まで。
そんなある日、銀行から連絡があった。
「松本様、ご子息の件ですが、結局住宅ローンは別の金融機関で借り換えされたようです」
「そうですか」
「はい。ただ条件はかなり厳しくなったようですが。連帯保証人の件もこれで完全に解除となりました」
「ありがとうございます」
これで本当に全てが終わった。息子夫婦とは、法的にも「他人」となったのだ。
夕方、夫の墓参りに行った。
「あなた、私やっと自由になれたわ。息子のことは残念だけど、これも人生ね。あなたが言っていた通りだった。自分を大切にしない人に優しくする必要はないって」
墓前に花を供え、手を合わせた。風が吹いて桜の花びらが舞い散った。まるで夫が「よく頑張った」と言ってくれているようだった。
最近、私は地域のボランティア活動を始めた。一人暮らしの高齢者を訪問し、話し相手になる活動だ。
皮肉なことに、息子夫婦よりボランティア先の方々の方が私を大切にしてくれる。
「松本さん、いつもありがとう。あなたのおかげで生きる楽しみができました」
そんな言葉をもらうたびに、私は思う。血のつながりだけが家族ではない。心の繋がりこそが本当の絆なのだと。
私の選択は間違っていなかった。自分を他人扱いする息子夫婦に尽くすより、自分を必要としてくれる人のために生きる。その方がずっと意味のある人生だ。
これからも私は自分の足で立ち、自分の意思で生きていく。誰かに依存することも、誰かに利用されることもなく。それが六十八歳で手に入れた、本当の自由なのだ。


