小雨が上がった午後、硴油グループ会長の鈴木誠一は、黒いベンツを降りて古びた雑居ビルを見上げていた。七十二歳とは思えない背筋の伸びた姿だったが、この日ばかりは肩が重そうに見えた。
秘書の吉田美紀が慎重に尋ねた。八ヶ月分、合わせて七十六万円の家賃滞納。入居者とは連絡も取れない。法的手続きを進めてはどうかと進言したが、誠一は首を振った。父の代から所有している建物だ。書類だけで片付けるわけにはいかなかった。
二階へ続くコンクリートの階段は、古い匂いと湿気に満ちていた。突き当たりの二〇三号室。ドアプレートには「佐藤ユナ」と古びたテープで貼り付けられている。ノックをすると、中から慎重な足音が聞こえ、ドアが少しだけ開いた。
十歳ほどの少女が、大きな瞳でこちらを伺っていた。
「どなたですか?」
警戒した声だったが、はっきりしていた。
誠一はできるだけ優しく尋ねた。「この家の大人の人はいるかな?」
「お母さんは病院に行きました。今日は遅くなるって」
少女はそう言った。誠一は表情を変えず、中に入れてほしいと伝えた。大家から大切な話があるのだと。
狭いワンルームに足を踏み入れた誠一は、一瞬言葉を失った。十五畳ほどの空間に、生活の全てが詰まっていた。部屋の隅には薬袋がきちんと整理され、食卓の上には水でふやかしたご飯のお茶碗。おかずの容器には、キムチと小魚の煮物が少しだけ入っていた。
「一人で大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。お母さんがご飯も作って行ってくれました」
少女はしっかりと答えた。十歳とは思えない落ち着きようだった。
その時、誠一の視線が少女の首に掛かった小さな貝殻のネックレスに釘付けになった。蛍光灯の光を受けて、それは淡く輝いていた。
「そのネックレスは、どこで手に入れたんだ?」
誠一の声が震えた。少女は無邪気に笑った。
「綺麗でしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前に貰ったんですって。お母さんの形見なんです」
誠一は一歩後ずさりした。心臓が激しく鼓動を打ち始めた。そのネックレスは、三十年前に自分が妻に送ったものだった。結婚十周年を記念して特別に作らせた、一つの貝殻を二つに分けたペアのネックレス。間違いなかった。
「お父さんの名前は、何と言うんだ?」
少女の顔がパッと明るくなった。
「鈴木正斗です。素敵な名前でしょう。お母さん、お父さんは本当に偉い人だったって言ってました」
誠一は足が縺れるのを感じた。自分の息子の名前だった。二十五年前、身分の違いを理由に家から追い出した、まさにその息子だ。家の体面を守るため、事業の邪魔になるからと、一方的に縁を切った決断だった。
「おじいさん、どこか具合でも悪いんですか? お水を持ってきますか?」
その一言が誠一の胸を突き刺した。この子は自分の孫娘だった。二十五年前、その存在さえ知らなかった血。この瞬間まで、存在を知らなかった家族。
「いつからここに住んでいるんだ?」
「えっと、私が五歳の時から。その前は違うところに住んでたけど、よく覚えてないんです」
五年前。その頃に息子の正斗が亡くなり、嫁がここへ引っ越してきたのだろう。こんなに苦しい生活をしてきたのか。食卓の上には、びっしりと薬の名前が書かれた紙が貼られていた。呼吸器系の薬がほとんどだった。かなり深刻な状態であることが窺えた。
その時、廊下から足音が聞こえた。階段を登ってくる音だ。少女は嬉しそうに叫んだ。
「お母さんだ!」
玄関のドアが開く音がした。足音が近づいてくる。誠一は無意識に拳を握った。二十五年前、向き合うことから逃げた嫁。どんな顔で会えばいいのか分からなかった。
現れたのは、四十六歳の佐藤ユナだった。かつては美しかったであろう顔に、疲労の痕跡が深く刻まれていた。痩せた体、青白い顔色。彼女がどれほど苦しい時間を過ごしてきたかが一目で分かった。
ユナは自分の家に誠一がいるのを見て、動きを止めた。時間が止まったかのようだった。
「お母さん、このおじいさんが大家さんだって」
娘が無邪気にユナの手を握った。ユナは娘の頭を撫でながら、ゆっくりと顔を上げて誠一を見つめた。
「お義父様……」
声が震えていた。二十五年の月日が流れても、なお礼儀を忘れない姿。
「君だったのか。ここに住んでいたのは」
誠一の声も、普段とは違って力がなかった。ユナは静かに頷いた。
「息子さんが亡くなられて、もう五年になります」
その言葉を聞いた瞬間、誠一の手が震えた。息子が死んだという事実を、今になって確認することになったのだ。二十五年間、連絡を絶っていたため、息子の死さえ知らずにいた。
「じゃあ、あの子は……」
「はい。息子さんが残してくださった孫娘です。美代と言います」
ユナは娘を奥の部屋へやった。ドアが閉まると、重い沈黙が流れた。
「正斗は、いつ亡くなったんだ?」
「五年前の秋です。工事現場の事故でした」
誠一の胸は引き裂かれた。かつて有名大学を出て将来を嘱望されていた息子が、工事現場で働いていた。夢を追い、誇りを持って生きていた息子が。
「なぜ、連絡しなかったんだ?」
「連絡など、できたでしょうか? お義父様が私たちを家から追い出された時、何とおっしゃいましたか?」
ユナの声には、長年抑圧されてきた感情が滲んでいた。
「うちの家柄に、平凡な女を迎え入れるわけにはいかん。家の格が落ちる」
それが当時の自分の言葉だった。息子が泣きながら懇願しても、聞き入れなかった。結局、息子はユナと共に家を出て、その日以来連絡が途えた。
「二十五年、こうして生きてきたのか」
「最初は大変でした。正斗さんもなかなか仕事が見つからなくて。でも、幸せでした。子供が生まれてからは、もっと一生懸命に生きました。正斗さんが昼も夜も働いて、この家も手に入れて……」
ユナは言葉を止めた。夫を失った喪失感が、まだ癒えていないようだった。
誠一は胸が苦しくなった。自分の頑固さのせいで、息子がそんなに苦しい人生を送らなければならなかった。その代償を、今度は嫁と孫娘が払っている。
病院の件を尋ねると、ユナは「大したことではありません。風が長引いているだけです」と言った。しかし、部屋にあった薬袋を思い出すと、とてもそうとは思えなかった。
「正確には、何が問題なんだ?」
「お義父様にご心配いただくようなことではございません」
ユナの強張った返事に、誠一はそれ以上問い質せなかった。
美紀が口を開いた。「失礼ですが、家賃の件でお伺いいたしました」
ユナの顔が曇った。「承知しております。八ヶ月の滞納ですね。申し訳ございません。事情が終わり次第、近いうちにお支払いします。もう少しだけお時間をください」
ユナは頭を下げた。プライドの高い人間が頭を下げるというのは、本当に切迫した状況だということだった。
その時、奥の部屋から美代の声が聞こえた。「お母さん、お水ちょうだい」
「ちょっと待っててね、美代」
ユナが立ち上がろうとした時、突然せき込み始めた。激しいせきがしばらく止まらない。手で口を覆ったが、音を隠すことはできなかった。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
しかし、ユナの顔はさらに青白くなっていた。息を整えるのも苦しそうだ。
誠一は外に出て、しばらく無言だった。春の夜の空気が冷たかった。二十五年ぶりに会った嫁は病に倒れ、孫娘は貧困の中で育っていた。そして、全ての始まりは自分の頑固さにあった。
それから三日後、誠一は美紀に調査を命じた。「あの家について、もう少し調べてくれ」
二日後、美紀が調査結果を持ってきた。
「佐藤さんは三年前から肺線維症を患っています。現在、かなり進行した状態です。また、消費者金融などからの借入が三件以上確認されました。合計で約四百五十万から五百万円ほどになります。治療費が重み、複数の場所からお金を借りたようです」
誠一の顔が強張った。肺線維症は、命に関わる病気だ。
「まだあります。娘さんの美代さんも、昨年心臓の手術を受けました。先天性の疾患で、その時の手術費用のために、さらに大きな借金を追ったそうです」
誠一は椅子に寄りかかり、目を閉じた。孫娘まで病気だったとは。これまでこの家族がどれほど大変な時間を過ごしてきたのか、想像に難くなかった。
「今すぐ、あの家に行くぞ」
一時間後、誠一は再び二〇三号室の前に立っていた。ドアをノックすると、美代が出てきた。「おじいさん、また来てくれたんだね」
嬉しそうに笑ったが、顔は以前より痩せて見えた。
「お母さんはどこだ?」
「ベッドで休んでるの。すごく具合が悪そうで……」
誠一は胸が詰まった。美代の案内で奥の部屋に入ると、ユナがベッドに横たわっていた。息をするのも苦しそうだ。
「お義父様、なぜまた……」
「そのまま寝ていなさい。少し話がしたい」
誠一はベッドの横の椅子に腰掛けた。テーブルの上には病院の請求書と借金の督促状が混在していた。金額を見れば、状況がどれほど深刻か一目瞭然だった。
「いくら必要なんだ?」
「え?」
「金のことだ。正確にいくら必要なのかと聞いている」
ユナは戸惑った表情を浮かべた。「治療費が二百万円、借金が三百万円。合わせて五百万円ほどです」
誠一は頷いた。自分にとっては大金ではないが、この家族にとっては到底払えない金額だった。
「でも、美代だけは助けたいんです。何とか娘を……」
ユナは目を閉じた。母親としての最後の切なる願いがこもった言葉だった。
「あの時、お前が俺の息子を連れて行ったんじゃない。俺がお前たちを捨てたんだ」
誠一は深く頭を下げた。二十五年分の謝罪を、今、ようやく言葉にした。
「お義父様……すみません、本当にすみませんでした。二十五年間、こんなに苦労させて」
ユナの瞳から涙が溢れた。長い間抑え込んできた感情が、堰を切ったように流れ出した。
その夜、誠一は美紀に指示した。
「あの入居者の治療費を全額支援しろ。借金も全て整理してやれ」
「会長、五百万円を超える金額ですが……」
「構わん。私の名前は絶対に出すな。匿名で処理しろ」
金で全てを解決できるわけではない。しかし、少なくとも命は救えるはずだ。
しかし、問題はそれで終わらなかった。
二日後、二〇三号室の前で騒ぎが起きていた。誠一が現場に到着した時、借金取りの男二人がユナと言い合っていた。
「金がねえなら、うちの債務は別だぞ!」
「お願いします。もう少しだけ時間をください」
ユナは震える声で懇願していた。
「時間だ? もう三ヶ月も遅れてるんだぞ!」
「子供を巻き込まないでください。私に言ってください!」
「借金は家族全員で責任を負うもんだろ!」
男がユナを突き飛ばすと、彼女は壁にぶつかって倒れ込んだ。
「お母さん!」
美代が泣きながら駆け寄った。
その時、誠一が階段を上がってきた。
「ここで何をしている」
威圧感のある声だった。借金取りたちが振り返った。
「あんた誰だ? 首を突っ込むな」
「この建物の大家だ」
「大家? それなら、この女の借金も責任取るべきじゃねえのか?」
誠一はスマートフォンを取り出して見せた。「未成年者に対する脅迫発言を、全て録音した。直ちに百十番に通報する」
「玄関の防犯カメラの映像も、バックアップ済みです」
美紀が前に出た。借金取りたちの態度が急変した。
「いくらだ? 借金はいくらだと言っている」
「百五十万円だ。利子を入れたら……」
「分かった。今すぐ生産してやる。とっとと消えろ」
誠一は財布からカードを取り出した。その場で送金手続きを済ませると、借金取りたちは呆然とした表情で立ち去っていった。
「なぜ……なぜ、私たちを助けてくださるのですか?」
ユナの問いに、誠一は答えることができなかった。どう言えばいいのか分からなかった。ただ、身内を助けるのに理由は必要ないと思ったからだ。
美代が駆け寄ってきて、誠一の服の裾を掴んだ。
「おじいさん、ありがとう」
その言葉が、誠一の心を揺さぶった。
しかし、この一連の出来事を、冷めた目で見つめている者がいた。天建設の常務、田中孝太だ。彼は会長の奇妙な行動を注意深く観察し始めていた。なぜ、あんな場所に頻繁に通うのか。
翌日、別の借金取りが現れた。より乱暴で暴力的な男たちだった。ドアを壊し、家中を荒らし回った。
「治療費のために、あちこちから借りたんだろう。うちの債務は別口だ!」
「やめてください! 昨日、全て整理してもらったはずです!」
「あのじいさんが払ったのは、別の業者の分だ。我々は別だ!」
鋭い目つきの男がテーブルを蹴り飛ばした。美代のノートと色鉛筆が床に散らばった。
「やめてください! 子供がいるのに!」
「金がねえなら、この家だけでも明け渡しな!」
誠一が玄関から入ってきた。「ここで何をしている」
「あんた、また来たのか。この女の借金、全部面倒見るつもりか?」
「いくらだ」
「百二十万円だ」
「分かった。私が払ってやる。二度とこの家に来るな。他の業者も来られないようにしろ」
その場で支払いを済ませ、男たちを追い払った。しかし、彼らは去り際に一言残していった。
「じいさん、こんな風に払い続けるつもりか? この女の借金は、一つや二つじゃねえぜ」
ユナは床に座り込み、涙を流していた。「申し訳ありません……本当に申し訳ありません」
「立ちなさい。床は冷える」
誠一はユナを立たせた。彼女の手は冷たく冷え切っていた。
「借金は、あとどれくらいあるんだ?」
「分かりません。病院で急にお金が必要になるたびに、あちこちから借りてしまって……」
「正確に把握する必要があるな。吉田君、専門業者に依頼して、彼女の借金を全て調査してくれ」
「かしこまりました」
美代が誠一に近づいてきた。「おじいさん、私たちのせいで大変だよね」
「いいや。全く大変じゃない」
誠一は美代の頭を撫でた。初めて孫娘に触れた瞬間だった。
その夜、誠一は重要な決断を下した。あのビルの再開発計画を全面白紙化するというものだ。役員会議で発表すると、全員が驚愕した。
「会長、あのビルは、この地域再開発の核となる土地です。予想利益は数十億円に上ります!」
「再開発をやめて、リフォームに方針転換する」
「リフォームですか? それでは利益が十分の一に減ってしまいます!」
「まず人を救うのが先だ。利益は後回しだ」
誠一の断固たる言葉に、会議室は騒然となった。
会議が終わった後、田中が誠一の執務室を訪ねてきた。
「会長、本当に再開発を断念されるのですか?」
「そう言ったはずだ」
「あのビルに、何か特別な意味が?」
「常務が気にすることではない。下がりなさい」
誠一の冷たい命令に、田中は仕方なく引き下がった。しかし、その疑念はさらに深まっていった。
深夜、田中の執務室の灯りは消えていた。しかし、彼はパソコンの前に座っていた。画面には、天グループの株価チャートと再開発プロジェクトの損失予想表が表示されていた。
「数十億円だぞ。数十億円を、簡単に不意にするとは」
田中は電話を取った。協力会社の社長だった。「あの女一人のせいで、プロジェクトが止まったんです。我々が損をするのは当然のこと。会長の判断力にも問題があるようです」
愛想のいい声が聞こえた。すでに投資を進めていた業者たちの怒りだった。田中は机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。中には報道機関の記者の名刺が入っていた。そろそろ使う時が来たようだ。
翌朝、インターネットのポータルサイトのトップに、衝撃的な記事が掲載された。
「天グループ鈴木誠一会長、不正資金で特定の入居者を支援か」
記事の内容は具体的だった。会長が個人的に入居者の借金を肩代わりしたこと。会社の資金を私的に流用した可能性。そして再開発プロジェクトを感情的に中止させたことへの批判まで書かれていた。
コメントは瞬く間に数千件に達した。誠一は朝のニュースを見て険しい表情を浮かべた。予想していたこととはいえ、これほど早く表沙汰になるとは思わなかった。
「会長、どのように対応されますか?」
「ひとまず弁護士を」
しかし、状況は急速に悪化した。午後には、四十八時間以内の臨時取締役会の通知が届いた。
臨時取締役会は殺伐とした雰囲気に包まれていた。
「会長、今朝の記事はご覧になりましたね」
「ああ。事実かどうかは、――個人的な感情で会社の資金を……?」
「会社の資金ではない。私の個人資産だ」
「では、再開発プロジェクトの中止はどう説明されるのですか?」
「事業上の判断だ」
「事業上の判断ですか? 数十億円の損失を出すことが?」
「金より重要なものがある」
誠一の答えに、取締役たちは顔を見合わせた。これまでの誠一とは全く違う姿だった。
「会長の個人的な感情が、企業経営に介入したとなれば、重大な問題です。株主や投資家たちに、どう説明なさるおつもりですか?」
誠一は黙って全ての非難を受け止めた。弁解するつもりもなかった。実際に自分が感情的に行動したのも事実だったからだ。
その瞬間、誠一のスマートフォンが鳴った。発信者は美代だった。
「もしもし……」
「おじいさん! お母さんが急に倒れたの! 救急車を呼んだけど、今病院に向かってて……」
「どこの病院だ?」
「大学病院です。おじいさん、お母さん、息が、息が苦しそうで……」
誠一は電話を切り、席から勢いよく立ち上がった。
「取締役会は後で続ける」
「会長!?」
しかし、誠一はすでに会議室を出ていた。二十五年ぶりに見つけた家族が危険に瀕しているのに、会社の仕事が重要であるはずがなかった。
病院の救急救命室に到着した時、美代が椅子に座って泣いていた。十歳の子供が一人で、この状況に耐えているのか。
「美代ちゃん」
「おじいさん!」
美代は駆け寄って、誠一にしがみついた。小さな体が震えていた。
一時間後、医師が出てきた。肺線維症が急性増悪を起こしたとのこと。当面は集中治療室で人工呼吸器と薬剤の投与が必要。長期的には肺移植リストへの登録を勧めると言われた。
誠一は美代の手を握り、集中治療室へと向かった。ユナは酸素マスクをつけ、ベッドに横たわっていた。顔は青白く、全く正気がなかった。
誠一はベッドのそばに立ち、ユナを見つめた。二十五年前、初めてあった時の姿が脳裏に浮かんだ。あの頃、彼女はどれほど美しく、明るかっただろう。
「ユナさん」
ユナのまぶたが、かすかに震えた。
「私は、まだ許されてはいない。だが、どうか生きてくれ」
誠一の声が震えていた。生涯強く生きてきた七十二歳の老人が、初めて誰かに懇願していた。
夜は更けていったが、誠一は病院を離れるつもりはなかった。美代は誠一の膝に寄りかかって眠り込んでいた。
午前二時頃、担当医の山田竹之進が現れた。患者さんの状態は深刻で、緊急処置と集中治療の一時費用として約七十二万円が必要だと伝えられた。
「最善を尽くしてください」
「もちろんです。ところで失礼ですが、患者さんとはどのようなご関係で?」
誠一は一瞬ためらった。そして、強張った声で答えた。
「彼女は私の家族です」
医師は意外そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も尋ねなかった。
支払いを済ませ、ロビーに戻ると、美紀が駆けつけていた。
「会長、会社で大変なことが起きました」
「なんだ」
「田中が逮捕されました。会社資金の横領容疑です。検察が今夜、緊急逮捕しました」
誠一は、予想していたことだというように頷いた。
「やはりそうか」
「会長は、予想しておられたのですか?」
「ある程度はな。あの男の動きは、あまりに露骨だった」
誠一は数日前から、田中の奇妙な行動に気づいていた。再開発プロジェクトに執着しすぎる様子。そして、マスコミに情報をリークしたのも田中の仕業だと確信していた。
「調査の結果、五年間で総額三億円を横領していたことが判明しました。協力会社と共犯し、架空の契約書を作成して資金を横領していました。再開発プロジェクトもその一部です」
誠一は鼻で笑った。田中が自分を攻撃した理由が明確になった。再開発プロジェクトが中止になれば、自分の不正が発覚する危険があったのだ。
人は欲のせいで、人を陥れる。そして、結局は自分自身を滅ぼす。
午前八時、ついに集中治療室のドアが開いた。山田がマスクを外しながら出てきた。
「緊急処置は成功しました」
誠一は安堵のため息をついた。
「ただし、リハビリと経過観察が必要です。最低でも数ヶ月は入院治療を受けていただくことになります」
「承知いたしました」
誠一は医師に深く頭を下げた。生涯でほとんど泣いたことのない彼が、病院の廊下で声を上げて泣いていた。
「おじいさん、どうして泣いてるの?」
美代が目を覚まして尋ねた。
「嬉しくてな。お母さんが助かったんだ」
「本当? 本当に?」
「本当だ」
美代も涙を流した。しかし、今回は喜びの涙だった。
数日後、ユナが意識を取り戻した。酸素マスクの向こうから、誠一を見つめていた。
「お義父様……」
「目が覚めたか」
「美代はどこに?」
「学校に行ったよ。心配するな」
ユナの目から涙がこぼれ落ちた。
「なぜ、私たちを助けてくださるのですか?」
誠一はしばらく答えられなかった。二十五年間抑圧してきた感情が、喉を塞いでいた。
「すまなかった。本当にすまなかった。正斗を行かせてしまって済まなかった。お前たちを苦労させて、済まなかった。全てが、本当に済まなかった」
「今更、すまないと言っても許してくれとは言わない。そんな資格もない。ただ、残された時間で、お前たちを守りたいんだ」
ユナは静かに涙を流した。
数日後、美紀が病院を訪ねてきた。
「会長、会社の状況が整理されました。田中の件で、全ての疑惑が晴れました。むしろ、会長に対する世論は好転しています」
「そうか」
「会長が個人資産で困窮した入居者を助けたという事実が知れ渡り、企業の社会的責任として賞賛する記事が出ています」
誠一は無表情なままだった。世間がどう評価しようと、関係ない。
「そして、再開発プロジェクトの代わりに進めることになったリフォーム計画が、大きな反響を呼んでいます。環境配慮型で、既存の住民を追い出すことなく共存するモデルとして、政府からも関心が寄せられています」
誠一は意外そうな表情を浮かべた。感情的に下した決断が、かえって良い結果をもたらしたのだ。
「世の中、正しいことが利益をもたらすこともあるのですね」
誠一は少しだけ微笑んだ。
ユナが意識を取り戻してから四日が過ぎた。回復にはまだ時間が必要だったが、顔には徐々に正気が戻りつつあった。
「お義父様、会社の方はよろしいのですか?」
「会社より、ここが重要だ」
誠一の答えに、ユナは複雑な表情を浮かべた。二十五年前とは、全く違う姿だった。
その時、ユナがベッドの横の引き出しを開けた。
「お義父様、これを、お渡ししなければ」
彼女は小さなベルベットの箱を取り出した。指の大きさほどの古びた箱だった。誠一が箱を受け取って開けると、中には小さな貝殻のネックレスが入っていた。しかし、美代がつけていたものとは形が違う。まるで何かの片割れのようだった。
「これは、お義母様からいただきました」
誠一の手が震えた。
「亡くなる前に、私を尋ねてこられました」
誠一は箱を見つめながら、過去を思い出していた。三十年前、結婚十周年を記念して妻に送った特別なネックレス。一つの貝殻を二つに分けて作ったペアのネックレスだ。妻が片方をつけ、自分がもう片方を持っていた。
「正斗さんと私が家を出てから、半年ほど経った頃でした。お義母様が一人で、私たちの家を尋ねて来られたんです」
誠一は、妻がそんなことをしていたとは全く知らなかった。当時、妻は病と闘病中だった。体が辛い中、嫁に会いに行ったのだ。
「何と言っていた?」
「最初は何もおっしゃらず、しばらく泣いておられました。それから、このネックレスを私の手に握らせて。『誠一さんが本当の心に気づいたら、これを返してあげて』と」
誠一は息が詰まった。妻が自分の心を、そこまで深く理解していたとは。
「そして、もう一つ。何とおっしゃったかご存知ですか?」
ユナの声に、温かみが滲んでいた。
「『正斗によろしくお願いしますね。あの子は表向きは強く見せているけれど、本当は弱い子だから』と。そして、『いつか誠一さんが自分の過ちに気づく時が来る』とおっしゃっていました」
誠一の目から、涙がこぼれた。妻は死ぬ間際まで、家族を心配していたのだ。
「お義母様は、ネックレスを二つくださったんです。一つは私に、もう一つは美代に」
「……三つ?」
「はい。おそらく、ペンダントの他に、いつか会える日のために、同じ貝殻で小さなペンダントをもう一つ注文して置かれたのだと思います」
誠一は胸が熱くなった。妻は死ぬ前に、すでに全てを計画していた。いつか家族が再会する日のために。
「お義母様が亡くなる直前、正斗さんにも手紙を送っておられました。正斗さんはその手紙を読んで、ひどく泣いていました。『お父さんに連絡したかったけれど、勇気が出なかった』と」
誠一は深い後悔の念に襲われた。息子は連絡したがっていたのに、自分が頑固すぎたのだ。
「その手紙の内容を、知っているか?」
「はい。正斗さんが私に読んでくれましたので」
ユナはしばらく目を閉じ、記憶を辿った。
「『息子へ。お父さんは今、怒っていますが、いつか必ず後悔するでしょう。その時まで、ユナさんと幸せに暮らしなさい。そして、子供が生まれたら、必ずお父さんに見せてあげなさい。お父さんは孫を見れば、きっと心が変わるはずだから』と書かれていました」
誠一は、しばらく言葉を発することができなかった。妻は、全てを予見していたのだ。
「息子さんも、最後まで私たちのことばかり心配していました。亡くなる前に、『父さんにすまなかったと伝えてほしい。自分のせいで家族がバラバラになった』と」
誠一は首を横に振った。
「違う。間違っていたのは、私だ」
その時、病室のドアが開き、美代が駆け込んできた。体操服のまま、ランドセルを背負っている。
「お母さん、おじいさん! 学校から、直接来たの!」
美代はランドセルから色紙で作られた手紙を取り出した。友達が心を込めて作ってくれたものだった。
「それとね、おじいさん。先生が、おじいさんの話を聞かせてって。『おじいさんはどんな人なのか、知りたいんだって』」
誠一に笑みがこぼれた。十歳の子供が、祖父を誇りに思ってくれている。これほど嬉しいことはなかった。
「美代、こっちにおいで」
誠一は美代を呼び寄せ、ネックレスの箱を見せた。
「これはな、おばあちゃんがくれたんだ。お前の首にあるのと、対になっているんだよ」
美代は自分のネックレスに触れ、不思議そうな顔をした。
「本当? じゃあ、おばあちゃんも私たちのこと、愛してくれてたの?」
「もちろんだとも。おばあちゃんは、お前たちを一番愛していたよ」
誠一はネックレスの二つのかけらを合わせてみた。完全な一つの形が出来上がった。
「これで、完全になったな」
「お義父様……これで、本当に、家族になれたのでしょうか?」
「もちろんだ。最初から家族だったんだ。私が気づかなかっただけで」
翌日、病院で三つのネックレスが揃った。誠一のもの、ユナのもの、そして美代のものだ。
「わあ、本当に一つになった!」
美代は不思議そうにネックレスたちを合わせてみた。誠一はその姿を見ながら悟った。家族とはこういうものなのだ。離れていても心は一つ。年月が流れても、愛は変わらない。
一ヶ月が過ぎ、秋が深まる東京。あの古いビルの前には、新しい看板が掲げられていた。白い背景に緑の文字で書かれた「希望の家 地域健康相談所」という文字が、温かい日差しを浴びて輝いていた。
美代は長いモップを手に、看板を丁寧に拭いていた。母と共に、相談所の仕事を手伝っているのだ。
「おじいさん、お母さんが、またお医者さんの仕事に戻ったよ!」
美代は明るく笑いながら、誠一の元へ駆け寄った。誠一はビル前のベンチに座り、孫娘の姿を満足そうに眺めていた。
ユナは、週に一度の医療ボランティアチームと共に、地域住民の健康相談を行えるようになっていた。緊急処置の後はリハビリを受けながら、慎重に医療活動を再開していた。相談所は、誠一が建物を改築し、一階を健康相談所、二階をユナと美代が暮らせる清潔な住居スペースにしたものだった。家賃の心配をすることなく、安心して暮らせる新たな居場所だ。
「おじいさん、今日もお年寄りの人がたくさん来てたよ」
美代が誇らしげに言った。開設から一ヶ月で、この界隈の人々の間で口コミが広がり始めていた。経験豊富な医療スタッフと温かい相談員が、無料で健康相談に乗ってくれるという噂だ。
その時、相談所のドアが開き、ユナが出てきた。清潔な白衣をまとった彼女の姿は、一ヶ月前とは全く違っていた。正気に満ち、自信に溢れていた。
「お父様、今日もお越しくださったのですね」
ユナは誠一に丁寧に頭を下げた。今では、自然に「お父様」と呼ぶようになっていた。
「私の仕事場だからな」
誠一は笑って答えた。彼はこの建物の一階の一角に小さなオフィスを設け、天グループの社会貢献事業を自ら管理していた。
その時、美紀がオフィスから出てきた。
「会長、本日の新聞はご覧になりましたか?」
美紀が新聞を手渡した。一面に、目を引く見出しがあった。
「“大家”の家賃七十六万円が、一人の財閥の人生を変えた」
誠一は記事を読んだ。自分の名前、そして家族の物語が詳細に書かれていた。もちろん、個人情報は全て匿名で処理されていたが、内容は正確だった。ある財閥の会長が、偶然出会った入居者家族を助ける中で、人生の真の意味に気づかされたという感動的なストーリーだった。
「良い記事ですね」
ユナが記事を読みながら言った。
「こういう話を読んで、人々が希望を持ってくれたら嬉しいです」
誠一は新聞を畳み、頷いた。重要なのは、他人がどう評価するかではない。自分が本当に意味のあることをしているかどうかだ。
「おじいさん、田中のおじさんは、どうなったの?」
美代が不思議そうに尋ねた。子供も、これまでの出来事をある程度理解していた。
「今、起訴されて裁判中だ。おそらく、長く刑務所に入ることになるだろう」
誠一は簡潔に答えた。田中は、三億円の横領と会社機密の漏洩などの容疑で裁判を受けていた。貪欲さが招いた結果だった。
「悪いことをしたら、バツが当たるんだね」
「そうだ。だから、いつも正しく生きなければならないんだ」
誠一は孫娘の頭を撫でた。
日が暮れようとしていた。西の空が赤く染まり、美しい夕焼けを作り出していた。誠一はネックレスを指先でなぞりながら呟いた。
「人は失っても、愛は残る」
ユナはその言葉を聞いて頷いた。
「正斗さんも、きっと喜んでくれているはずです」
「そうだろうな。息子が一番望んでいたのは、きっとこんな光景だっただろうから」
誠一は空を見上げた。どこかで、息子が見守ってくれているような気がした。
美代が二人の間に割って入り、言った。
「私たち、もう本当の家族だよね」
「当たり前じゃないか。最初から家族だったんだ」
誠一の答えに、美代はパッと明るく笑った。ユナも、嬉しそうに微笑んだ。
「お父様」
「うん」
「もう、本当に『お父様』と呼んでも、よろしいでしょうか?」
誠一は胸が熱くなった。二十五年ぶりに、再び「お父様」という呼び名を聞くことになったのだ。
「ああ、もちろんだ。そう呼んでくれ」
夕焼けの光が、三人の手の甲に広がっていく。温かいオレンジ色の光が、彼らを包み込んでいた。誠一はこの瞬間を、胸の奥深くに刻みつけておきたいと思った。七十二年の人生の中で、最も幸せな瞬間の一つだった。
「おじいさん、明日も来てくれるよね?」
美代が尋ねた。
「もちろんだとも。ここが、私の家だからな」
美代とユナは、声を上げて笑った。
家族は、こうして再び一つになった。失われた二十五年の歳月を取り戻すことはできない。しかし、これからの時間を、共に築いていくことはできる。
誠一は最後に建物を見上げた。「希望の家」という看板が、夕焼けに照らされて輝いていた。本当に、希望に満ちた家になった。本当の家族としての、新しい始まりだった。


