夫の内ポケットから出てきたのは、聞いたこともない投資会社の名刺。そして、押入れの奥から見つけたのは、自宅を担保にした借入契約書。連帯保証人の欄に書かれていたのは、3年前に私を会社から追い出した男の名前だった。「お久しぶりでございますね」と、黒木は私の目の前で、あの頃と変わらない薄ら笑いを浮かべた。そして言った。「ご家庭の価値も、そろそろ期限切れを迎えつつあるのです」それからというもの、夫は倒…

夫の内ポケットから出てきたのは、聞いたこともない投資会社の名刺。そして、押入れの奥から見つけたのは、自宅を担保にした借入契約書。連帯保証人の欄に書かれていたのは、3年前に私を会社から追い出した男の名前だった。「お久しぶりでございますね」と、黒木は私の目の前で、あの頃と変わらない薄ら笑いを浮かべた。そして言った。「ご家庭の価値も、そろそろ期限切れを迎えつつあるのです」それからというもの、夫は倒...

娘に「お母さんのせいよ」と叫ばれた瞬間、月代千鶴(61歳)はただ黙って俯くことしかできなかった。自分が会社を追われたから、夫が無理をしたのだと。言葉もなく娘の背中が玄関の外へ消えていくのを見送った。

その3年前、千鶴は地域の物流会社で中間管理職として長年人事を担当していた。58歳の時、会社から早期退職を強く迫られ、曖昧な理由のまま静かに肩を叩かれて職場を去った。あの時、彼女は何も言い返せなかった。

夫の総一(62歳)は、近所の小さなホテルで日勤のフロント係として働く穏やかな男だった。千鶴は、失職してからの3年間でようやく穏やかな心を取り戻しかけていた。もう肩書きなど必要ない。そう自分に言い聞かせていた矢先のことだった。

その夏、総一の帰宅時間が日に日に遅くなっていった。疲れきった顔で「同僚と少し飲んでいただけだ」と早口に答える夫。千鶴は、かつて仕事で培った鋭い観察眼で、夫の小さな嘘を見逃さなかった。ある日、夫の上着の内ポケットから、聞いたこともない投資関連会社の名刺を見つけた。そして、押入れの奥の衣装ケースの下から、見慣れない厚い封筒を見つけた。

そこには、自宅の土地と建物を担保にした借入契約書があった。連帯保証人の欄に、そして契約を仲介した担当者の欄に記された名前を見た瞬間、千鶴の心臓は凍りついた。黒木泰(45歳)。3年前、彼女の部署で発覚した不正資金の騒動の中心にいた男だった。黒木は巧妙に書類を改ざんし、すべての責任を課長だった千鶴に被せたのだ。その結果、千鶴は早期退職という名の追放を受け入れざるを得なかった。

千鶴は夫を問い詰めた。総一は涙ながらに告白した。退職後の生活に不安を抱える中高年を狙った黒木の資産運用の話に乗せられ、家族に相談もできず、自宅を担保に借金をし、その全額を黒木のファンドに振り込んでしまったのだと。契約はすでに成立し、担当者の電話はつながらなくなっていた。

千鶴は一人で黒木の会社へ乗り込んだ。黒木は千鶴の顔を見ても驚きもせず、「お久しぶりでございますね」と芝居がかった笑顔で応じた。「これは全て正式な契約でございますよ。私どもは何もしておりません」千鶴の疑問はすべて、用意されたかのような論理で塗り固められていった。最後に黒木は言い放った。「月代さんもお分かりでしょう。会社の評価表の上ではあなたの価値はとうに期限切れになった。そして、今ご家庭の価値もまた同じように期限切れを迎えつつあるのです」

家に帰ると、思いもよらぬ光景が待っていた。玄関前にスーツケースが置かれ、娘の美穂(32歳)がソファで泣いていた。夫の浮気と、自分自身のクレジットカードの借金を打ち明け、「この家を売ってお金を貸して欲しい」と訴えた。千鶴が「この家にはもう1円の余裕もない」と打ち明けると、美穂は豹変した。

「全てはお母さんのせいだわ。お母さんが首になったりするから、お父さんが無理をしたんでしょう!」

美穂は吐き捨てるように言い、家を出て行った。それきり連絡は途絶えた。

その夜、総一が食事中に突然倒れた。大人発症の非常に稀な自己免疫疾患。命は取り留めたが、内臓への負担が大きく、車椅子での生活を余儀なくされた。治療には保険が効かない特殊な薬剤が必要で、月々の費用は想像を絶する額だった。

銀行からの督促は日に日に厳しくなり、家は競売にかけられた。2人は古い木造アパートへ移り住んだ。生活費を稼ぐため、千鶴は年老いた体に鞭打ってチラシ配りの仕事を始めた。そんなある日、駅前の大型ビジョンに、黒木が「若手優秀経営者」として表彰される姿が映し出された。千鶴は、濡れたチラシの束を握りしめ、その画面を見つめ続けた。

そんな矢先、娘の美穂の「古い知人」と名乗る男が現れた。黒木のファンドについて独自に調査しており、訴訟を起こせば勝ち目があると持ちかけてきたのだ。費用は成功報酬制で、着手金さえ用意すればいいと言う。千鶴は、残っていた貯金のほとんどをはたいて、その男に支払った。だが、それきり連絡は途絶えた。名刺の事務所はもぬけの殻で、電話番号も使われていなかった。

すべては美穂の芝居だった。自分自身の借金を返済するために、知り合いの男に弁護士を演じさせ、母の残りの蓄えを騙し取っていたのだ。電話の向こうで、美穂は惡びれる様子もなく言った。「お母さんたちにはもう、これ以上頼れる先がなかっただけ」

自分を欺いたのが黒木ならまだ耐えられたかもしれない。しかし今、電話の向こうにいるのは、自分が生み育てた一人娘だった。

やがて、追い打ちがかかった。総一が自己判断で薬の量を減らしていたことが判明したのだ。妻に負担をかけまいとしてのことだった。千鶴は初めて夫に声を荒げた。「どうしてそんな危険なことをなさったのですか!」しかし、もう手遅れだった。数ヶ月にわたる不十分な投薬は、総一の内臓に静かな爪跡を残していた。ある深夜、千鶴の隣で、総一の心臓は止まった。千鶴は必死の心臓マッサージを続け、総一は息を吹き返した。しかし、脳に酸素が行き渡らなかった時間が長く、総一は深い昏睡状態に陥った。

人工呼吸器を維持するための費用が、明日にも必要だった。しかし、口座は凍結され、手元には一銭も残っていなかった。そこへ現れたのは、黒木だった。彼は人工呼吸器の維持費用とほぼ同額の小切手を差し出し、条件を突きつけた。3年前、千鶴が会社で不正の証拠を記録していた古い手帳を処分すること。そして、秘密保持契約書に署名すること。来月には社長への昇格が内定しており、過去の記録が弱点になることを恐れていたのだ。

「あなたも結局はお金の前には勝てない。ただの臆病な女ですね」と黒木は嘲笑した。千鶴は、黒木の目の前で、手帳のページを一枚一枚丁寧に破り捨てた。名誉と引き換えに得た資金も、結局は総一の命をつなぎ止めることはできなかった。一週間後、総一は静かに息を引き取った。

葬儀はごく質素な形で行われた。参列者はほとんどいなかった。千鶴が連絡を入れても、美穂が現れることは最後までなかった。葬儀を終えた翌朝、一晩のうちに降り積もった雪が一面を白く覆っていた。千鶴は古びたコートを羽織り、竹箒を手に取ると、アパートの前に積もった雪をゆっくりと掃き始めた。夫を失い、娘とは連絡が途絶え、家も財産もすべて失い、復讐の機会さえも自ら手放した。それでも、千鶴の顔には悔やむ色も、恨みの影も浮かんではいなかった。

すべてを失った先に残ったのは、冷たく恐ろしく、それでいて、この上なく美しい1つの自由だった。誰にも認められることのない果てしない悲劇の中で、千鶴は今、初めて自分自身の人生の永遠の主人となっていた。竹箒を握り直した千鶴は、再びゆっくりと雪の上に足跡を残しながら、朝の道を掃き続けた。

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