「では、精算もお願いね。」
新郎の母の声が式場に響き、300人の招待客がその言葉に笑った。俺は一番後ろの席でその笑い声を聞いていた。司会者が親族代表の挨拶を読み上げた時、そこに俺の名前はなかった。代わりにマイクの前へ立ったのは新郎の母の弟だった。
4ヶ月かけて用意した式だった。娘を27年育ててたどり着いた1日だった。新郎の母がもう一度マイクを取り、上品な声で言った。
「大城さんには何もしていただいておりませんの。」
金屏風の前で娘の白い頬が下がる。ホテルのプランナーが手にした進行表から顔を上げた。新郎は眼鏡の縁に指をかけたまま動かない。俺は椅子を引いて立ち上がった。
300人の視線が集まる中で、俺は上着の内ポケットに手を入れた。
—
全ては4ヶ月前の暑い朝に始まった。
7月の朝、蝉の声に起こされて工場のシャッターを上げると、土間にはもう夏の匂いが満ちていた。大城製作所は創業から43年。2代目の俺が7人の従業員と共に精密部品を手掛けてきた小さな工場だ。俺の名前は大城誠一。今年で56になる。妻の貞子をなくしてからの8年、娘の千早とずっと2人でやってきた。
朝の点検を終えた俺は伝票の束に目を通した。調礼の前に若い工具員が曲げ加工の図面を持ってきたので、指でなぞって角度の狂いをすぐに見つけた。
「社長、こいつの寸法をちょっと見てやってくれ。ここだ。ここの寸法が3mm足りない。」
板金の厚みは触れば分かる。若い工具員が慌てて計算をやり直す横で、徳倉が短く笑い声をも漏らしながら口を挟んできた。徳倉三郎は俺の父の代から43年この工場で汗を流してきた職長だ。顔に白い髭を短く刈り、首には古びた手拭いを巻き、左手の小指は第1関節から欠けている。
「相変わらずだな。社長の目は物差しより正確だ。」
今日の単価がまた上がってるらしいと徳倉が言う。俺は資材屋から届いたばかりの鋼材を手に取り、数字を素早く目で追いながら顔をしかめた。
「この値段じゃない。来週の日野さんのところにも当たってみるか。」
真夏の日差しが窓の向こうで強くなり、工場の中はすでに汗ばむほどの暑さになっていった。プレス機の音が土間に響き始めた頃、作業着のポケットで携帯が震え、画面には千早の名前が出ている。俺は手を止めて工場の外に出た。
「父さん、今夜話したいことがあるの。」
「何かあったのか?」
電話の向こうで娘は少し言葉を選ぶように黙り、それから軽く息をついた。
「うん。悪いことじゃないの。夜は時間を作って欲しいだけ。」
俺は短く分かったとだけ答えて電話を切った。蝉の声が屋根の上で一際大きく鳴り始める。胸の奥に小さな引っかかりが残ったまま工場に戻ると、徳倉が俺の顔を見て何かを察したように何も言わず肩に手を置いてきた。
—
夜、卓を挟んで向かい合うと、千早は湯呑みを両手で包んだままためらいがちに口を開いた。
「父さん、私、結婚しようと思ってる人がいるの。」
俺は箸を持つ手を止めて娘の顔をまじまじと見てしまった。
「そうか。いい人なのか。」
「うん。優しい人だよ。市役所で働いてる人で、名前は高島友行さん、29歳。母親と2人で暮らしてきたんだって。」
「慣れ染めはどこで知り合ったんだ?」
「図書館の利用者で、返却の窓口によく来てた人だったの。本の趣味が似てて、それで話すようになって。」
「一度うちにも連れてきたらどうだ?」
「うん。そのうちね。まずは向こうのご両親と顔合わせしてからって話になってて。」
「高島さんのお母さん、1人らしいんだけど、しっかりした人だから安心してって。」
俺はその言葉を聞いても胸の奥のざわつきが収まらず、娘の説明にただ頷くだけだった。
「そうか。分かった。合わせてくれ。」
「うん。近いうちに。」
それだけ言うと千早は少し照れたように笑い、自分の部屋へ上がっていった。俺は1人でしばらく座り込んだまま、蛍光灯の下で仏壇のローソクの火だけが小さく揺れているのを眺めていた。
俺は仏壇の前に座り直し、貞子の写真に向かって手を合わせてから声に出した。
「聞いたか? 千早が結婚するんだと。」
報告する俺の声に、写真の中の貞子は変わらない笑顔のままで答えることはなかった。
「お前がいてくれたら、もっとうまい言葉をかけてやれたんだろうな。」
—
翌日、納品を終えてトラックを止めると、アスファルトの照り返しで景色が歪んで見える。いつもの付き合いの日野商事の日野が伝票を受け取りながら、日陰に俺を手招きした。缶コーヒーを差し出され、世間話のついでに俺は娘の結婚のことを切り出した。
「実はうちの娘が結婚することになってな。」
「そりゃめでたい。うちも去年娘をとがせたばかりだよ。今時の式は招待客1人当たり5万前後は見ておいた方がいい。」
「5万か。思ったより張るもんだな。」
「うちは100人呼んで、ざっと500万は飛んだ。笑うしかなかったよ。会場の飾りやら引き出物やら、向こうの親が張り切ると際限がなくなるんだ。」
「向こうの親か。」
「そう、そこの采配は誰が握るかで金額がまるで変わってくる。引き出物の飾りだの席次だの、細かいことばかりだ。金より気疲れする方が厄介だった。」
「まあ心配するな。あんたんとこの千早ちゃんならちゃんとやるさ。」
日野の声には経験したものだけが持つ実感がこもっていた。
「それより大城さん、そっちが出すのか向こうが出すのか、そこは最初に決めとけよ。」
「まあその辺はこれから話し合いだな。」
俺は曖昧に笑ってごまかした。
—
帰り道、俺は届け物のついでに市立図書館へ寄ってみることにした。館内に入ると、千早が展示台の前でパネルの位置を調整している最中だった。
「父さん、来るなら連絡してよ。」
娘は少し驚いた顔をしながらも、俺を展示コーナーへ手招きした。パネルには工具や折り物の写真が並び、娘が選んだらしい説明文が丁寧な字で添えられている。
「お前が全部考えたのか?」
「うん。館長に企画書を出して、予算も自分で組んだんだよ。」
俺はパネルの端から端まで目を通しながら、娘の仕事ぶりに素直に関心した。
「うちの工場の道具も、こういう展示に向いてるんじゃないか。今度写真だけでも撮らせてもらえるか?」
娘が目を輝かせて言うので、俺は少し照れくさくなりながらも頷いた。
「工場の道具って、使い込まれてるほどかっこいいのよね。」
「かっこいいかどうかは知らんが、長持ちはする。」
俺たちはしばらく笑い合い、久しぶりに肩の力が抜けた。
「高島さんのお母さんとはまだ会ってないんだけど、少し怖い人かもしれない。」
作業の手を止めた千早が声のトーンを落とし、俺の隣に立ってから続けた。
「高島さんは優しいんだけど、母親の前だと人が変わったみたいになるの。高島さんが、母には逆らえないって前に1度だけ言ってたから。」
俺はその一言を聞き流すこともできず、かといって深く尋ねることもできずに黙っていた。
「まあいいの。顔合わせから考える。」
千早はそう言って笑うと、展示台のパネルに向き直った。
—
両亭み乃亜の座敷に通されると、俺たちは神座を高島側に譲り、下座に並んで座った。高島太子は白髪を上品なショートに整え、首元には真珠のネックレスを揺らしながら座っている。俺が座布団に膝を折ると、太子はまず俺の靴先に目をやり、それから俺の手元へゆっくりと視線を移した。淡い光の下で、太子の視線は値踏みでもするように俺の全身を巡り、爪の際に落ち切らない油の跡でそこに止まった。
「本日はお日柄もよく、お会いできて何よりでございます。」
上品な声が座敷の空気を柔らかく支配した。
「こちらこそ、娘がお世話になります。」
「いいえ、こちらこそ。千早がお世話になりますわ。」
高島友行は母の隣で、背筋を縮めたまま黒縁の眼鏡を指先で何度も押し上げるばかりで、最後まで自分から言葉を発することはなかった。
「大城さんは町工場をなさっているとか。小さい会社ですが、まあ手に職があるというのは本当に立派なことですわ。」
口では褒めながらも、太子の口角は上がったままで、その目の奥だけはまるで笑っていないことに俺はうっすらと気づいていた。
「高島の父も生きていれば、同じように手に職をつけさせたかったと申しておりましたけれど。」
亡くなった人まで自分の物差しに並べてしまう言い方。友行が隣で肩を震わせるのが横目に見えた。
「会場はもう決めてございますの。華昇閣。私の顔で抑えましたのよ。」
「華昇閣というと、あの大きなホテルの。」
「ええ。分野やれば、この辺りで1番の格式でございますから。」
「費用のことも、おいおい相談させてください。」
「費用は折半ということでよろしいですわね。細かいことはこちらで整えますから。大城さんはご安心なさって。」
「それでも金額のおおよそくらいは見せていただきたいのですが。」
太子は扇子を持つ手を一瞬だけ止めたが、すぐにいつもの笑顔を取り戻すと、何事もなかったかのような口調で答えた。
「もちろんですとも。後日、きちんとした書面でお渡ししますわ。」
「千早さん、何か言いたいことがあるんじゃないのか。」
「うん、大丈夫。」
娘はそう言ったきり、箸の上の料理に視線を落としてしまった。太子は招待客の話へと移っている。
「人数は80名ほど見込んでおりますの。」
「あの、お料理のことで少し希望があるんですけど。」
「もちろん伺いますわ。若い方向けのものもちゃんと入れますから。」
千早が続けようとした言葉は、太子の柔らかな笑顔にやんわりと蓋をされ、それ以上は誰も何も言えないまま座が流れていった。
—
打ち合わせの日、ホテルのウェディングカウンターへ足を運んだ。ロビーには大きなシャンデリアが下がり、大理石の床が俺の作業着の音を硬く響かせている。カウンターの奥から出てきたのは、淡いグレーの制服に身を包んだ芦澤という女性だった。
「大城様でいらっしゃいますね。今、係の芦澤と申します。」
「娘がお世話になります。」
芦澤は書類を受け取りながら、俺の苗字にふと目を止めたようだった。
「大城様のお父様の代から、うちの館とはご縁がありまして。」
「先代の頃のお話ですか?」
「ええ。当時お世話になった分を、こういう形でお返しできればと。」
俺は思いがけない一言に手を止めた。太子が誇っていた「私の顔で抑えた」という会場は、元をたどれば父が残した縁だったらしい。
—
第1回の打ち合わせは、ダウンライトの冷たい白い光が落ちる会議室で行われることになった。芦澤が進行役として資料を配り終えると、太子が真っ先に招待客の一覧を広げた。
「人数なのですけれど、140名に増やそうと思いますの。」
「80名という話ではなかったですか。」
太子は扇子をパタリと閉じ、俺の問いには構わず自分の話を続けた。
「これでも絞った方ですのよ。主人の関係だけでも相当な数がございまして。」
「では、人数の変更に合わせて会場のプランも見直しますね。」
芦澤が淡々と資料をめくりながら、料理と引き出物のグレードを1段階上のものに差し替えている。
「千早さんの希望も、先に聞いてやってもらえませんか?」
「もちろんですとも。千早さんのご希望も大事にいたしますわ。」
隣に座る千早が息を吸い込んで身構えるのが、俺の位置からでもはっきりと分かった。言葉では同意しながら、太子はそのまま自分の話を続け、俺の申し出は聞き流された形になってしまう。
「お花のことなんだけど、母が好きだった白い花を少し入れたくて。」
「まあ、素敵ですこと。でも、会場全体の色味もございますから、こちらで一度考えさせていただきますわね。」
千早の声はそこで萎み、それ以上を続けることができなかった。
「席次のことも、家柄を考えて私の方で組ませていただきますわね。」
足が太子の言葉を資料に丁寧な字で書き留めていくのを俺はただ眺めていた。千早と目が合うと、娘は微かに首を横に振って見せた。
「準備のことはこちらにお任せください。お仕事お忙しいでしょう。」
柔らかな物言いの奥に、俺を外へ追い出そうとする響きがはっきりと感じ取れた。
「いや、俺にも手伝えることがあれば。」
「ええ、お気持ちだけで十分でございますわ。」
太子は俺の申し出を柔らかく、しかし完全に断ち切ってしまった。芦澤が契約書の欄を確認しながら、抑えた声で契約額の数字を1つ1つ読み上げている。
「現在の内容で、契約額は412万円となります。」
「あら、思ったより抑えられておりますのね。」
太子が満足げに頷く。俺は資料を持つ手にわずかに力がこもるのを感じた。足はそこで1度だけ目だけを動かし、俺の表情を伺うようにこちらを見たが、その視線の意味を俺はその場ではうまく読み取れなかった。
「分かりました。進めてください。」
—
夜遅く、事務所に忘れ物を取りに戻ると、消し忘れた蛍光灯が1本だけ工場を照らしている。俺は機械の影が長く伸びる工場の真ん中に立ち、しばらく1人で数字と向き合っていた。設備更新の頭金にするつもりで積んできた個人の定期預金が、通帳の中で300万円という額を示している。
会社の金には手をつけない。これは俺の中で最初から決めていたことだった。工場の金と自分の金をきっちり分けておくことだけは、父の代から守ってきた一線だった。父も、銀行から借りた金と自分の金を混同したことは一度もなかったと俺は昔から聞かされて育った。
300万円あれば、式のことでどれだけ動いても娘に恥をかかせずに済むはずだと俺は踏んでいた。俺はその定期を解約する決意を固め、通帳をそのまま鞄の内ポケットへしまい込んだ。
翌朝、いつも通りに出勤してきた徳倉を捕まえて、俺は昨夜決めたことを短く告げることにした。
「設備の頭金は来年にする。」
徳倉は手にしていた軍手を片方だけ外し、不機嫌そうな顔で俺を見た。
「急にどうした? 何かあったのか?」
「いや、なんでもない。そう決めただけだ。」
徳倉もそれ切り深くは尋ねてこなかった。
「まあ、社長がそう決めたならそれでいい。」
その日1日、俺は普段と変わらない顔で図面と伝票の数字を追い続け、得意先からの電話にも普段通りに応じる。夜遅くの工場に1人でいると、俺は決まって8年前のあの日のことを思い出してしまう。
貞子と結婚した時は、写真屋に頼んだ1枚切りの記念写真だけの質素なものだった。白無垢の袖を通す貞子の手を支えた時、指先がひどく冷たかったのを今でも覚えている。控え室の窓から差し込む光の中で、貞子はずっと落ち着かない様子で裾を気にしていた。
「そんなに気にするな。お前は十分綺麗だ。」
俺がそう言うと、貞子は驚いた顔をしてから、それきり言葉もなく微笑んでいった。シャッターが切れる乾いた音の後、貞子は小さく笑って俺の腕に手を添えてきた。その日の体温と乾いた音は、今も手のひらのどこかに残っている気がしてならない。
俺は貞子にしてやれなかった分まで、千早にはきちんとしたものを用意してやりたかった。それは貞子への手向けなどではなく、ただ父親として当たり前にしてやりたいことだった。
—
2週間後、鈍い光が差し込む事務所に、高島友行が1人で青ざめた顔をして訪ねてきた。
「どうした? こんな時間に。」
友行はスーツの襟元を何度も引っ張りながら、事務所の入り口で立ち尽くしていた。カバンから1枚の紙を取り出して俺の前に置いた。
「これ、内金の請求書なんです。母が支払いを拒否していて。」
俺は紙を手に取り、当て名の欄に「高島太子様」とあるのを確かめた。隅には支払い期限を過ぎていることを示す赤い印がはっきりと押されている。
「母はまだ1円も払っていないみたいで。」
声を震わせながら、友行は眼鏡を何度も指で押し上げ、それでも目を伏せたまま先を続けた。
「母には言わないでください。」
そう言って友行が深く頭を下げたまま、しばらく顔を上げようとしなかった。
「分かった。頭を上げてくれ。」
俺はその背中を見ながら、この青年が母親の前でどれほど言葉を飲み込んで生きてきたのかを思う。
「立ったままじゃ話しにくい。そこに座れ。」
友行は言われるまま、大徳用の古い椅子に浅く腰を下ろした。俺はその手から契約書を受け取って広げた。申し込み人の欄に太鼓の名前があるのを確認すると、式場が請求を送る相手は契約者である太子だという構造がそこではっきりと見えてきた。
「友行君、お前はこのことをいつ知ったんだ?」
「先週、郵便受けに入ってるのを見て。初めて知りました。」
俺はスマートフォンを取り出すと、迷うことなく華昇閣の芦澤の番号を呼び出して電話をかけた。
「芦澤さん、内金の請求なんですが、これから私に回してもらえますか?」
「大城様がということでよろしいのですね。」
電話の向こうで一瞬だけ間が空き、芦澤は状況を飲み込もうとしているようだった。
「ああ、契約上の名義はそのままでいい。支払いの窓口だけ変えてもらえれば。」
「かしこまりました。そのように処理いたします。」
「それと、このことは誰にも言わないでください。」
電話の向こうで芦澤が一拍だけ黙り、それからゆっくりと口を開いた。
「……よろしいのですか?」
「何でもありません。」
俺がそれだけ言って電話を切ると、そばで俯いたままの友行の方に1度だけ手を置いた。
「友行さん、どうしていいから。今日のことは忘れて、仕事に戻れ。」
友行は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わずに事務所を出ていった。その背中が見えなくなるまで、俺は入口に立って見送っていた。後で思えば、この一言が俺の4ヶ月を決めた。
—
事務所の電話が鳴ったのはその翌日のことだった。受話器の向こうから太子の上品な声が聞こえてくる。
「明日、皆様にご挨拶をと思っておりますの。大城さんももちろんいらっしゃいますわよね。」
「ええ、伺います。」
太子はそれだけ確かめると、満足したように短いやり取りの後、あっさりと電話を切った。
—
高島マナー&ブライダルサロンの扉を押し開けると、天井から下がるシャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に反射して、部屋の隅々まで白く冷たく満ちていった。教室として使われているという奥の一室には、太子の生徒だという女性たちが10数人ずつ折りたたみ椅子を並べて腰かけていた。
太子は正面の1段高くなった場所にすでに立っていて、友行と千早の背中にそれぞれ手を添えながら両脇へ招き寄せた。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、心より御礼申し上げます。まずは息子の友行と、そちらの千早さんをご紹介させてくださいませ。」
太子の声に合わせるように、生徒たちの手のひらから控えめな拍手が起きた。
「まあ、素敵な方ですこと。本当にお似合いだこと。新婦さんも素敵な方ですこと。」
「準備は全て私が。」
扇子の影に半分隠れた口元から、言葉の最後だけが緩んで、意図しない笑いに崩れていった。場に湧いた笑い声がシャンデリアの下で部屋いっぱいにいつまでも広がり続けている。
「引き出物など、もうお決まりに生徒たちの笑い声がまだ収まらないうちに、最前列の生徒の声だけが一際大きく割って入るように部屋の中に響き渡った。
「もちろんです。皆様に恥ずかしくないものをきちんと選んでおりますから。」
「先生は本当にさすがですこと。本当に関心しますこと。」
「あ、では新婦のお家は何も。お仕事がお忙しくていらっしゃいますから、こちらでお引き受けしておりますの。うちは昔からこういうことは女が仕切るものでしてね。」
太子の弟である三ノ宮が姉の言葉にすかさず調子を合わせると、生徒たちの何人かが頷いた。
「まあ、女は家のことをしっかり守るのが1番ですから。」
近くに座っていた生徒の1人が、話の輪から外れがちな千早の方へ顔を向け直して尋ねた。
「図書館のお仕事は、ご結婚後も続けられるんですの?」
「はい、できるだけそのまま続けさせていただくつもりです。」
「まあ、本当に関心なこと。今時は本当に珍しいこと。」
「あの、父さま、いいのよ。気になさらないで。若い方に細かいことまで背負わせては、友行さんに叱られてしまいますもの。」
鼻の底に苦いものが少しずつ溜まっていくのを感じながら、俺は親指の腹で爪の際を擦り、それを顔に出さずに生徒たちの笑い声を聞き続けた。友行は母の隣で指先を鼻梁の辺りへ持ち上げ、ブリッジを押し上げる仕草を繰り返すばかりで、自分から口を開こうとはしなかった。
—
帰り道、通路にまだ室内に残る紅茶の香りが微かに漂い、2人分の足音だけが低く響いていた。
「お父さん、本当に何もしてないの?」
「ああ。」
そう答えると、俺は千早の返事を待たずに駐車場をへ向かって先に歩き出した。
翌日、保険会社の窓口で、俺は個人の年金保険の解約を申し出た。担当者は俺の書いた解約書に目を通し、途中でペンを止めた。
「本当によろしいですか? 満期まであと数年ですが。」
「ええ。」
担当者は少しの間だけ俺の顔を伺ってから、書類の束を揃え直し、判を押す位置を指先で示した。この年金は大城製作所の金ではなく、俺個人の名義で30年近くかけて積み立ててきた金だった。解約金は260万円。担当者は伝票にペンを走らせながら、次の確認事項の方へと話を進めていった。
—
次の打ち合わせで、芦澤がドレスのカタログを差し出しながら最初のページに載った1着について説明を始めた。
「こちらの1着は、レースの模様が背中まで続くデザインになっております。」
「本当に素敵ですね。本当によくお似合いになりそう。」
芦澤はページをめくっていた手を止めて、太子の言葉に控えめな笑みで応じてから、カタログをさらに何枚か先へとめくり続けていった。千早はそのうち1番手前にあった飾りの少ないシンプルなデザインのページでそっと指を止めた。
「これで十分です。」
「もう、遠慮なさらないで。せっかくのお席ですもの。こちらでしっかり整えますから。」
「でも、それでは高島さんに太子は千早の言葉にはあまり取り合わず、カタログのページを次々とめくりながら上位ランクのドレスを指で示し続けていく。
「千早さんは、綺麗なお衣装を選ぶことだけ考えていてくださればいいの。」
千早はそれ以上何も言葉を告げないまま、膝の上に置いた手をきつく握り直し、それでも顔だけは最後まで上げないまま俯き続けていた。
「分かりました。」
「ええ、それでいいのよ。ありがとうございます。」
太子は満足したように微笑むと、千早の返事など待たずにカタログを閉じて脇へ置き、そのまま芦澤の方へと体ごと静かに向き直った。
「かしこまりました。ではこちらのお決まりで進めさせていただきます。」
—
次の打ち合わせの時だった。三ノ宮が席次表の書かれた紙をテーブルの上に広げると、俺の座る位置を指先でトントンと叩きながら丁寧に示してみせた。
「お父様はこちらの席へどうぞ。工場の方と三ノ宮がついでのように口にしたその呼び方が、テーブルの上の空気にそのまま沈んでいく。
「こちらの父はそちらでなく、昔からこういう場ではこの並びと決まっておりますの。まあ、硬いことは言わずに。」
俺はそれ以上は何も言わずに、示されるまま大人しく下座の席へと腰を下ろし、出された茶にはとうとう最後まで口をつけなかった。
「こちらが追加分の見積もりになります。本日ご確認いただいた分は、後日改めて請求書にまとめてお送りいたします。」
署名欄にペンを走らせたのは、この場ではごく当然のことのように、千早ではなく太子の方だった。
「本当にこのままで大丈夫なんでしょうか?」
千早はそう小声で呟いたきり、それ以上は誰に向けるでもなくそっと口をつむってしまった。
—
数週間後、カウンターの上の請求書を見た太子が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「高島様、中間金のお支払い期限が近づいておりますので、ご確認をお願いいたします。」
「高島に行ってありますの?」
「恐れ入りますが、念のためご本人様にもご確認いただけますでしょうか?」
太子はほとんど間を置かずに笑顔を取り戻し、開きかけていた扇子をまた緩やかな仕草で動かし始めた。
「高島には私からもう一度きちんと申しておきますから。」
太子の口調は最後まで崩れることなく、それを持つ指先だけがほんの少し震えているように見えた。
「お支払いの方法は、これまでと同じお振り込みでよろしいでしょうか?」
「ええ、それで結構です。」
三ノ宮は隣で腕を組んだまま、期待したように1つ頷いていた。
—
夜、台所から戻ると、振り込みを終えたばかりの控えを手に、俺は仏壇の前へとそっと座り込んだ。引き出しをそっと引くと、線香の匂いに混じって紙の乾いた独特の匂いがふわりと立ちのぼってくる。1枚目の振り込み控えは、前回しまった時の折り目のまま引き出しの奥にひっそりと残っていた。2枚目の控えをその上に重ねて入れると、封筒の厚みが指先にわずかに増した感触があった。
俺は封筒の口を丁寧に折りたみ、引き出しの1番奥まで押し込んでからそっと蓋を閉めた。仏壇の上に飾られた古い写真の中で、貞子は8年前の葬儀の日と全く変わらない顔で笑っている。俺は両手を合わせて目を閉じてみたが、口からはとうとう言葉らしい言葉が出てこなかった。
—
雨の降る午後、芦澤から電話があり、ホテルに来て欲しいと言われた。わざわざ俺を呼び出すのは、いつものことではない。カウンター席で対面に座った芦澤は、少しの間だけ黙り込んでから、伏せていた目をそっと上げた。
「先日、高島様からお尋ねがございました。」
「何を尋ねられたんだ?」
芦澤は視線をこちらへ戻しながら、1つ1つ言葉を確かめるように選び、机の上に置いた書類の端を丁寧に揃え直してから続けた。
「支払いの状況についてでございます。」
「それで、高島さんは何と。」
「高様は契約者様ですので、お尋ねがあればお答えしないわけにはまいりません。」
「で、あなたは何と答えたのか。」
芦澤は一呼吸だけ間を置いてから、窓を打つ雨の音に負けないくらいのはっきりとした声で、俺の目をまっすぐに見つめながら答えた。
「ご入金は、大城様のお名前で確認できておりますと、お伝えしました。」
「いや、それでいい。あなたの仕事だ。」
芦澤はそれを聞くと1度だけ深く頷いてから、椅子から立ち上がり、書類を両手に持ったまま改めて深く腰を折って丁寧に礼を述べた。
「恐れ入ります。」
「いつから知っていたんだ?」
「私からは何とも申し上げられません。」
芦澤はそう言ったきり、目を伏せ、それ以上は何も語ろうとせず、ただ深く沈黙を守り続けた。太子は俺がその金をずっと払い続けているという事実を、初めから全て承知している。知っていながら、太子はこれまでただの1度もそれを俺の前で口にしようとはしなかった。その事実に気づいた瞬間、俺は親指の腹で爪の際を強く擦りながら、腹の底に冷たいものが1つ落ちていくのを感じた。
—
その週の夜、俺は仏壇の前に座り込んだまま、しばらく動けずにいた。明細の数字を2時間も目で追い続けた疲れが、未だになかなか抜けていかない。仏壇の脇に置かれた貞子の家計簿に、俺はふと目を止めた。貞子が生きていた頃からずっとそこに置かれていて、俺はこれまで手に取ることさえしてこなかった。
俺はそれを引き寄せ、つもった誇りを払うようにして開いてみた。ページには貞子の丁寧な字で、毎月の米や光熱費の数字が細かく書き込まれている。千早が生まれた頃の記録から始まり、幼稚園の月謝や修学旅行の積み立てまで、細々とした暮らしの記録が続いていた。俺はその1つ1つを目で追いながら、貞子がどれほど細かく家計をやりくりしてきたかを今更のように思い知る。ページをめくる指先が、ふと途中で止まった。最後の方に、それまでとは違う筆で新しく作られた欄がある。そこに何が書かれているのか、ローソクの頼りない明かりだけではうまく読み取ることができなかった。
俺はしばらくそのページに目を落としたが、明かりを立てることも目を凝らすこともせず、家計簿をそっと閉じた。今はまだ、その先を確かめる気になれない。
—
事務所の蛍光灯が白く照らす机の上には、書きかけの生命保険契約者貸付の申し込み書が広げられていた。生命保険を担保にして借りられる金額は、窓口の欄によれば200万円だと明記されている。この保険もまた俺個人の名義で加入してきたもので、大城製作所の口座にはこれまでと変わらず1円も手をつけていない。それでも俺は迷うことなく署名欄に名前を書き入れ、朱肉を含ませた判を強く押し付けた。
その時、きしむような音と共に引き戸が開くと、灰色の作業服に古びた手拭いを巻いた徳倉が、機械の点検棒を片手に入ってきた。
「まだ帰ってなかったんですか?」
「ああ、ちょっと書類仕事をな。」
徳倉は手にした点検棒を軽く持ち上げるようにして見せながら、いつもと変わらない口調でふと思い出したように尋ねてきた。
「3号機の調子はどうですか?」
「ああ、今のところ問題ない。」
徳倉は机の上に置かれたままだった低金の解約書類にふと目を止め、しばらくの間何も言わずに黙り込んでしまった。
「社長、金、大丈夫ですか?」
「何でもありません。」
徳倉はすぐには納得できないという顔のまま、机の上に広げられた書類の辺りへ探るような視線をちらりとやってから黙り込んだ。
「それは本当のことですか?」
「ああ、本当のことだ。」
「昔から社長はそうやって1人で抱え込む人ですから。」
「もう心配はいらない。」
俺は徳倉の目をまっすぐに見返しながら、それだけを短く、言葉を挟ませないくらいに強くはっきりとした声で言い切った。
「それでも、心配なものは心配です。」
「いい。それより、もう休め。」
徳倉は納得しない表情を崩さないまま、それでも何かを納めるように深く1つ息を吐き出してから、張っていた肩の力を抜いていく。
「そうですか。まあ、社長がそういうなら、それでいいですが。」
「ああ、悪いが頼む。」
徳倉はそれ以上は何も聞かずに、手にした点検表へと視線を戻すと、小さく首を振りながら工場の方へと足を向けて戻っていく。その足音が遠ざかるのを聞きながら、俺はホテルから届いたばかりの中間金の明細に目を通した。明細の1番下、招待客の人数を記した欄には「240名」という数字がはっきりと印刷されている。最初に太子から聞かされていた話では、招待客は確か80名だったはずだと記憶している。俺の知らないうちに、招待客の数はいつの間にか元の人数のちょうど3倍にまで膨らんでいった。
—
今の座敷に弁を広げると、仏壇に灯したローソクの炎が揺れて、壁に細い影を長く伸ばしていった。引き出しの奥にしまってあった貞子の万年筆を取り出すのは、随分久しぶりのことだった。貞子はこの万年筆で家計簿をつけていた。キャップを外してインクを軽く吸わせてから紙に一画引くと、思っていたよりもずっと柔らかく沈んだ。ペン先は年季が入っている割に引っかからず、むしろ滑るようにして文字を紙の上に運んでくれた。
「本日はお日柄もよく」と書き出したところで、俺は迷いを振り払うようにペンを持つ手を1度止めた。300人という数字がふと頭をよぎったが、それを書き込む場所は挨拶文のどこにも見当たらなかった。娘の名前を書くところまで来て、ペン先がわずかに引っかかり、インクが一滴だけ紙に滲んだ。俺はその滲みを炎の下でしばらく眺めてから、書き直さずにその先を続けることに決めた。千早が生まれた朝の光景を思い出しながら、俺はほんの一文だけそっと挨拶の中に書き加えた。
書けたところまでを読み返すと、貞子ならもっとうまく書けただろうという気がふとした。仏壇の写真の中で、貞子は昔と変わらない笑顔のままこちらをじっと見つめている。
「お前の字の方が、こういうのは向いてたな。」
俺は誰もいない部屋の中でそれだけ呟いて、書き上げた弁を封筒に入れずに丁寧に畳んだ。畳んだ弁を封筒には入れないまま、俺はそのまま仏壇の前の一段高くなった場所に置いた。線香を1本立てると、細い煙が天井へまっすぐ上がってから、やがて緩やかに揺れ始めた。
「明後日、持っていく。」
俺はそれだけ言うと、書き上げたばかりの原稿の脇でローソクの火に顔を近づけて、一息で吹き消した。
—
翌日、工場のシャッターを半分だけ開けていると、油の匂いの向こうから友行が1人で顔を覗かせた。秋の高い日差しが窓から斜めに差し込み、油の匂いに混じって枯れ葉の匂いが工場の中まで流れ込んでいる。
「今日はお1人ですか?」
「はい、少し早く着いたので、外を歩いていました。」
徳倉が奥のプレス機を止めると、フロア全体から音が消えて、思いの外急に静けさが広がった。
「さっきの音を止めてよかったんですか?」
「あれは、そろそろ油を変えろという音です。」
俺が答えると、友行はしばらく黙ったまま旋盤や研磨機の列を1台ずつ確かめるように眺めていて、なかなか次の言葉を継がなかった。
「音で分かるものなんですか?」
俺は友行をプレス機の脇に招き入れて、スイッチを1つ入れると機械の立てる音を実際に聞かせた。
「うちの機械は、壊れる前に音で言ってくる。」
友行は目を細めて機械にぐっと耳を寄せると、そのままの姿勢でしばらく動こうとしなかった。
「銀行では、数字が悪くなってから分かるんです。先に音で言ってくれたら、楽になりますか?」
俺の問いに、友行は今日疲れたような顔をして、しばらく機械の低い音にじっと耳を澄ませていた。
「楽でしょうね。多分。」
友行がそう言って声を立てて笑ったので、俺も釣られるように思わず口の端を上げていった。
「友行さんは、機械にお詳しいんですか?」
「詳しくはないんですが、父が機械いじりの好きな人だったと聞いていて。」
「お父さんも、こういう仕事や趣味みたいだったみたいです。写真でしか知りませんが。」
そこで友行は言葉を切り、眼鏡のフレームに指をかけたまま、しばらくの間だけ黙り込んだ。
「父を、7つの時に亡くしまして。顔ももうほとんど覚えていないんです。」
俺は相槌の代わりにプレス機の音量つまみに手を伸ばして、メモリを1段だけ落とした。
「そうでしたか。」
「覚えていなくても、育ててもらったことは残ります。」
友行はその言葉に頷いて、しばらくの間そこに立ったまま機械の並ぶ列をじっと眺め続けていた。
「大城さんは、この仕事を継いでどれくらいになるんですか?」
「先代から数えると、うちはもう43年になります。」
「40年、長いですね。」
「長いと言えば長いですが、毎日のことなので、気にしたことはないです。」
徳倉が通りかかりに声をかけると、友行は姿勢を正して、丁寧な調子で挨拶を返した。
「兄さん、油まみれの手で悪いね。」
「いえ、こちらこそお邪魔しています。」
徳倉が笑って奥へ戻っていくと、また機械の低い音だけがぽつりと残っていた。友行は出口の近くで足を止め、俺の方を振り返らずにそのまま低い声で口を開いた。
「母が、残りは俺たちの名義でと言い出していて。」
俺は工具を持つ手を止めて、油で汚れた指先に目を落としながら続きの言葉をそこで待った。
「いえ、何でもありません。」
友行はそのまま深く礼をして、逃げるように足早にシャッターの外へと駆け出ていく。俺はその背中が駐車場を横切って見えなくなるまで、油差しを手にしたまま見送っていた。
—
次の打ち合わせの時だった。足が花と引き出物のことを話し始める前に、三ノ宮が手を挙げた。
「花と引き出物のことなんですけれど、花松総花に一本化しようと思いましてね。」
「一本化と言うと、生花も引き出物も全部花松さんにお願いするということです。」
芦澤は太子と三ノ宮の顔を順に見てから、一拍置いて手元の資料のページを1枚めくり、内訳の欄を指で示す。
「他社様のお見積もりもお取りになりますか?」
「必要ございませんわ。花松さんは長いお付き合いですから。」
「金額の方は、後で確認させてもらえますか?」
俺がそう聞くと、三ノ宮は手元の書類をわざとらしく整えながら、視線を合わせないまま答えた。
「もちろん、後ほどお渡ししますよ。心配なさらず。」
三ノ宮はそう言うと資料を閉じて、話を切り上げるように片手を軽く振ってみせるだけだった。
「それより、これをお返ししますわ。」
太子がテーブルの上に置いてあった白い封筒を、こちらへすっと滑らせてよこした。封筒の中には、俺が仏壇に備えたはずの挨拶の原稿が、丁寧に折りたたまれて入っている。
「これは拝見して、少し赤を入れさせていただいたの。」
原稿を開くと、俺の書いた文字の上に赤いペンでいくつも線が引かれ、別の言葉が書き添えられていた。千早が横から原稿を覗き込み、そのまま表情を止めてしばらくの間動かなくなった。
「これ、文章そのものが変わってる。」
赤ペンの線は、俺が選んで書いた言葉のほとんど全てに、遠慮なく引かれてしまっていた。
「言い回しを整えただけですわ。意味は変わっておりません。」
千早が原稿を手に取り、赤い字の上を人差し指で確かめるようにゆっくりと何度もなぞった。
「それは父の言葉です。直さないでください。」
部屋の空気が一瞬止まり、三ノ宮が気まずそうに小さく咳払いをして、慌てて視線をそらした。誰も口を開かない数秒の間、壁にかかった時計の秒針の音だけが妙にはっきりと響いている。
太子は表情を変えないまま、椅子に座ったまま体ごとを千早の方へまっすぐに向き直った。
「千早さん、私はあなたのためを思って申し上げているのよ。」
「私のためですか?」
「300人の前で、お父様に恥をかかせたくないでしょ。」
千早はそれ以上の言葉を続けられず、ただ下唇を強く噛んで、その場にじっと立ち尽くした。
俺は千早の肩に軽く触れてから腕を下ろし、正面に座る太子の方をまっすぐ見返した。
「いいんだ。直してもらった方がいい。」
「お父さん、でも。」
「本番までにはまだ日がある。慣らしておく。」
千早は納得のいかない顔のまま、それでも唇を強く結んでそのままじっと口を閉じていた。
—
事務所の蛍光灯の下で、俺は花松総花から届いた見積もり書をデスクいっぱいに広げていった。窓の外はすでに真っ暗で、蛍光灯の安定器が低く唸る音だけが事務所の中に響いていた。花松総花の38席分という項目だけの金額が、どうにも板金屋としての相場感と噛み合わなかった。
徳倉が湯気の立つ茶を入れに来たついでに、通りすがりに俺の手元を興味深そうに覗き込んだ。
「社長、こんな時間まで何を睨んでるんです?」
「花の見積もりだ。卓上の分だけでこの金額なんだ。」
「花のことは分かりませんが、随分強気な数字ですね。」
「板金の見積もりなら、この場で電話して聞き返すところだ。」
俺は知り合いの花屋に頼んで、全く同じ内容でもう1つ見積もりを取ってもらっていた。その返事がちょうど夕方になって、事務所にいる俺のところまで届いたところだった。
「同じ内容でよそに頼んだら、こうなった。」
俺が2枚の見積もり書をデスクに並べて置くと、徳倉は眉を寄せて数字を交互に目で追った。デスクの上の蛍光灯の光が、2枚の紙に並んだ数字を隅々までくっきりと照らし出している。
「37万8000円と、68万4000円。」
徳倉が声に出して読み上げた2つの数字が、狭い事務所の中にやけに大きく響き渡った。
「これ、板金だったら怒鳴り込んでますよ。」
「そうだなあ。」
「社長らしいと言えば、社長らしいですけど。」
その夜遅く、事務所に1人残り、俺は仏壇の引き出しから持ち出した封筒の束を机の上に広げていった。振り込みの控えは月を追うごとに厚みを増し、今ではもう片手では持ちきれないほどになっている。定期預金を解約した控え、個人年金の解約返戻金の控え、契約者貸付の控えを、俺は1枚ずつ確かめた。どの控えも折り目が深くつき、幾度となく取り出してはまた引き出しにしまい込んだ後が残っている。積み上げた金額を電卓で足し合わせていくと、指先が止まり、画面に並んだ数字をもう1度見直した。
その夜、俺は最後まで残していた設備更新のための積み立て96万円も取り崩す決心をした。通帳に印された数字を眺めながら、当初の契約額412万円の倍以上に超えていることに気づく。856万円。紙に書き出した合計を、俺はしばらくの間ただじっと見つめ続けていた。これだけの金を、誰にも知られないまま動かしてきたのだと、今更のように実感する。
そこへ徳倉が事務所の戸を叩き、遅くまで残っていた俺を気遣うように顔を覗かせた。
「社長、こんな時間まで肩を詰めすぎだろう。」
「ちょっと確認したいことがあってな。」
「来週の納期の件、俺が相手方に出向いてくる。社長は式のことで手いっぱいだろう。」
「すまんな。任せてしまって。」
「それより社長、顔色が悪いぞ。ちゃんと飯は食ってるのか?」
「食ってる。心配するな。」
徳倉はそう言って、疑わしげに俺の顔をしばらく覗き込んでから、話を切り上げた。
「水臭いこと言うな。43年も一緒にやってきた仲だろうが。」
徳倉はそう言うと古びた手拭いで首筋の汗を拭い、トラックの鍵を手に取って出ていった。その背中を見送りながら、俺は自分がどれだけ工場のことを手薄にしているかを改めて思い知る。俺は封筒の束をもう一度きちんと揃え直し、引き出しの奥へとしまい込んでから、事務所の明かりを消した。
—
11月に入り、駅前の銀杏並木が色付き始めた朝、徳倉が大型機械の受注表を手に事務所へやってきた。
「社長、これを見てくれ。来月納品予定の大口案件が赤い付箋で大きく囲ってあった。例の旋盤、そろそろ更新しないと、この仕事は受けられませんよ。」
「分かってる。分かってはいるんだが。」
「金の積み立て、去年からずっと凍えたままじゃないか。何かあったのか?」
俺は受注表から目をそらさないまま、しばらく言葉を探して黙り込んだ。
「社長、隠し事をされるのは、43年で初めてだ。」
俺はようやく顔を上げ、徳倉の目をまっすぐに見て口を開いた。
「頭金は、娘の式に回した。すまん。」
徳倉はしばらく何も言わず、受注表を丁寧に折りたたんでから、俺の肩を1度だけ軽く叩いた。
「そうか。だったら仕方ない。機械のことは、俺が何とか工面する。」
「それは俺の責任だ。お前に区名させるわけには。」
「43年前、先代が俺を拾ってくれた恩を、少しは返させてくれ。」
「徳倉。」
「水臭いことはもう言うな。社長の懐事情くらい、とっくに察してたさ。」
「いつから気づいていたんだ?」
「随分前からだ。定期を解約した頃には、もう分かってた。」
俺はその一言にしばらく言葉が出なかった。
「黙っていてくれたのか。」
「社長が話す気になるまで待つのも、仕事のうちだ。」
徳倉はそう言うと受注表を小脇に抱え、いつもと変わらない足取りで工場の方へ戻っていった。徳倉に打ち明けたことで、これまで自分1人で抱えていた重さがいくらか軽くなった気がした。それでも、まだ誰にも言えていないことの方が、はるかに多く残っている。
—
その帰り道、銀杏並木の下で待ち合わせるように立っていた友行と出くわした。スーツ姿の友行は、仕事帰りにそのまま駆けつけたのか、ネクタイの結び目が心なしか歪んでいる。
「お父さん、少しだけ時間をいただけますか?」
「実は母が、残金のことで。母が、僕と千早さんの名義でローンを組ませようとしているんです。」
俺は一瞬言葉を失い、色づいた並木の先をぼんやりと見つめた。
「千早さんと、お前の名義で。」
「はい。母は、結婚後の生活費として組めば負担が軽く見えると言っていて。僕、ずっと残りは俺たちの名義でとしか聞かされていなくて、意味が分からずにいました。」
「それは、承知できる話じゃないな。」
「僕もそう思います。でも、母には逆らえなくて。」
「千早には、まだこの話をしていないんだな。」
「はい。言えば、きっと式の前に大変なことになると思って。」
「お父さんは、こんな時どうして来られたんですか?」
俺は少しの間答え、色づいた並木の先へと目をやった。
「黙って耐えるしかない時もある。それだけだ。」
「それだけですか?」
「ああ、それだけでなんとかなることもある。」
我ながら頼りない答えだと思いながらも、俺にはそれ以上のことが言えなかった。友行は落ち葉を踏みしめながら、途方に暮れたような顔で俺の隣を歩いた。
駅前の交差点で友行と別れると、俺はしばらくその場に立ち止まったまま動けずにいる。信号が何度も色を変え、行き交う人々が俺の脇をすり抜けていくのにも、しばらく気づかなかった。娘夫婦の名義でローンを組ませるなど、あってはならないことだった。これまで黙って払い続けてきた金のことも、そろそろ潮時なのかもしれないと、俺は思い始めていた。
—
翌日、俺は芦澤を尋ね、これまで支払ってきた金が契約上どういう扱いになるのかを尋ねた。
「私がこれまで払ってきた分は、契約の上ではどういう扱いになるんでしょうか?」
芦澤はカウンターの向こうで一拍を置いてから、いつもより慎重な口調で答えた。
「契約者様に代わってお支払いいただいている形ですので、代理弁済にあたります。」
「代理弁済と言うと?」
「支払われた分を、後から契約者様へ請求できる権利が発生する、ということです。」
俺はその説明を頭の中で何度も繰り返しながら、ゆっくりと飲み込んでいった。
「では、私がこれ以上代わりに払うのをやめたら、請求は契約者様である高島太子様へそのまま戻ることになりますか?」
「はい。」
「今すぐにでも、そうすることはできますか?」
芦澤は一瞬だけ手を止め、俺の顔を伺うように見てから、静かに口を開いた。
「差し支えなければ、何か理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「いえ、念のため伺っておきたかっただけです。お手続き自体は、いつでも可能です。」
俺はカウンターに置いた手を、少しの間握ったまま動かせずにいた。
「足さん、何かお考えのことがおありでしょうか?」
「いえ、今日のところは、確認できただけで十分です。」
芦澤はそれ以上は聞かず、カウンターの上に積まれたファイルをそっと整え直した。代理弁済を止めれば、請求は太子へ戻る。芦澤はそうはっきり言った。その一言だけで、これまで見えなかった道筋が、俺の中で少しずつ形を持ち始めている。
—
その書類を届けに再びサロンを訪ねると、レッスンを終えた後のフロアはすでに人気がなかった。事務室の扉の隙間から明かりが漏れ、太子の強い声が聞こえてきた。
「友行、この書類にサインをするだけでいいのよ。難しいことじゃないでしょう。」
「母さん、これ、僕と千早さんの名義で組むローンの契約書ですよね。」
「結婚したら2人の生活費として組むのが自然でしょう。世間ではよくあることよ。」
「でも、金額が僕が思っていたよりずっと大きくて。」
「細かいことは私に任せておけばいいの。あなたが心配することじゃないの。サインさえしてくれれば、あとは私が。」
「俺、そんな金ない。返せる当てもないのに、サインなんてできません。」
友行がはっきりと言い切ったのは、俺が知る限り初めてのことである。
「友行、母の言うことが聞けないの?」
「聞けません。これは僕と千早さんの問題です。」
太子はしばらく黙り込んだが、やがて小さな息を吐き、書類を乱暴にテーブルへ置いた。
「今日のところはもういいわ。下がっていなさい。」
友行が部屋を出て、暗い廊下で俯いたまま立ち尽くしている。俺は廊下の影から歩み出て、俯いたままの友行にそっと声をかけた。
「大丈夫か?」
友行は驚いたように顔を上げ、俺がそこにいたことに気づいて気まずそうに目を伏せた。
「情けないところを、見られてしまいましたね。」
「情けなくなんかない。よく言った。」
友行は何か言おうとして口を開きかけたが、結局は小さく頭を下げただけで、それ以上は続けなかった。
—
数日後、両家の親族が顔を揃える最後の顔合わせがサロンの広間で開かれた。広間には白いクロスがかけられた円卓が並び、それぞれに茶が丁寧に用意されている。俺の親族といえば遠方に住む従姉が一組来てくれただけだったが、高島側の親族は驚くほどの人数だった。
集まった親族を前に、太子が挨拶に立ち、いつもの上品な声で場を仕切り始めた。
「この度の式は、全て私どもの方で滞りなく整えさせていただきました。大城さんには、何もしていただいておりませんの。」
親族たちの間から、関心したような小さな戸惑いめきが上がる。
「姉の言う通りです。こちらで万端抜かりなく。」
俺は黙ったまま、その言葉を受け止めるしかなかった。千早が隣で小さく息を飲むのが、俺の耳にはっきりと聞こえた。友行が眼鏡の縁に指をかけたまま、母の言葉に困惑した表情を浮かべている。
「母さん、それは。」
「友行、余計なことは言わなくていいの。」
「でも、それでも。お父さんは、そういう人じゃありません。」
集まった親族が一斉に友行へ視線を向け、広間の空気がにわかに張り詰めた。
「友行、事情は詳しく知りません。でも、お父さんを悪く言われるのは、違うと思います。」
友行がそう言い切ったのは、母に初めて逆らった瞬間だった。千早が驚いたように顔を上げ、隣に座る友行の横顔をまじまじと見つめていた。広間に集まった親族の誰もが、次の言葉を待つように浸透黙り込んでいる。
太子は一瞬だけ顔色を変えたが、すぐにいつもの笑顔を取り戻し、話を切り上げにかかった。
「今日はもうお開きにいたしましょう。皆様、お疲れでしょうから。」
親族たちが席を立ち始める中、太子は三ノ宮を手招きして耳元で何かを短く指示した。
「親族控室の名簿ですが、大城さんの分は外させていただきます。」
「理由をお聞きしても?」
「席の都合ですので。」
三ノ宮は俺の目を見ないまま、手元の名簿を素早く閉じる。
「控室から、私を外すということですか?」
「姉の判断ですので。」
俺はそれ以上聞き返さず、ただ会場の隅へと下がった。千早がその一部始終を、少し離れた場所からじっと目で追っていた。千早はそれまで太子に向けていた遠慮がちな態度を、その日を境に少しずつ変えていく。これまでは太子の言葉に黙って頷くばかりだった千早が、その日は一度も愛想笑いを見せなかった。小さな変化ではあったが、俺の目にはそれがはっきりと違って見えた。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、平気だ。」
それでも千早はそれ以上を聞かず、腑に落ちない表情のまま俺の隣に並んで歩いた。
—
式を翌日に控えた夜、千早が仏壇の前に座る俺の隣に腰を下ろした。台所には明日の朝食の下ごしらえだけが残され、家の中はいつになく静まり返っている。仏壇のローソクの火が2人の影を畳の上にゆらゆらと揺らしている。
「お父さん、この前はひどいこと言ってごめんなさい。」
「もう気にしていない。」
「ずっと謝りたかった。」
「もう気にするな。それより、明日は大事な日だ。」
「うん。」
俺は仏壇に灯したローソクの火を見つめながら、貞子との昔話をぽつりぽつりと語り始めた。
「お前が生まれる前、俺は油まみれで人前に出られないような男だった。それでも母さんは、俺の手を見て、いい仕事をする人だと言ってくれた。」
千早はそれを黙って聞きながら、目に薄く涙を浮かべ、膝の上でそっと手を組み直す。
「お母さんも、お父さんの手を見て、そう思ったんだね。」
「ああ。この手のおかげで飯が食えている。それだけは今も変わらない。」
千早は俺の節くれだった指先にそっと自分の指を重ね、しばらくそのままでいた。
「小さい頃、この手に何度も抱っこしてもらったの、覚えてる。」
「そんな昔のことを、よく覚えているな。」
「忘れるわけないよ。お父さんはいつも私の後ろでいてくれたのに。私、何も知らないで、ひどいこと言った。」
「後ろか。そんな大層なものじゃない。」
千早は袖口で目元を拭いながら、小さくかぶりを振る。
「うん。そうだよ。明日、お父さんの挨拶、聞きたかった。」
「挨拶なんて、大したものは書けていない。」
「それでも、聞きたかったよ。」
俺はその一言にしばらく何も答えられず、ただ仏壇のローソクの火をじっと見ていた。明日、この子の晴れの日に、どんな顔をして立てばいいのか、まだ答えは出ていなかった。それでも、娘のためにできることだけは、もう十分にやったはずだ。
—
千早が眠りに着いたのを確かめてから、俺は一通の封筒を手に夜のホテルへと向かった。夜道を歩きながら、俺は上着の内ポケットに手を当て、封筒の感触を何度も確かめていった。深夜のロビーは明かりが半分ほど落とされ、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っている。芦澤はまだ窓口に残っており、明日の最終準備に追われている様子だった。
「夜分にすみません。これを預かっていただけますか?」
「これは?」
「中は開けないでください。式が終わるまでは。」
芦澤は封筒の表面に何も書かれていないことを指先で確かめるようになぞった。
「かしこまりました。何かご事情があるのですね。」
「ええ、少し。」
芦澤は封筒を両手で受け取ると、その重みを確かめるようにしばらく手の中で見定めていた。
「承知いたしました。責任を持ってお預かりいたします。」
そこへ、遅くまで会場を見回っていた太子がカウンターの方へと歩み寄ってくる。
「あら、大城さん。こんな時間まで。」
「明日のことで、少し。」
太子は疲れの色1つ見せず、いつもの上品な笑みを崩さなかった。
「ちょうど良かったですわ。明日のご挨拶は、弟に務めさせますので。」
「そうですか。」
「大城さんは控えめでいらっしゃるから、助かりますわ。」
俺はその言葉を驚きもせずに受け止める。
「分かりました。」
「聞き分けが良くて助かりますわ。それでは、また明日。」
太子はそう言い残すと、上品な足取りでその場を離れていった。俺は上着の内ポケットに、これまで書き続けてきた原稿をそっと戻し、破ることはしなかった。芦澤が預かった封筒を事務室の金庫へしまい込むのを、俺は最後まで見届けた。
ホテルの窓の外には、明日を待つ前庭の噴水だけが変わらぬ音を立て続けている。これで明日のための準備は全て整った。あとはこの封筒が開かれずに済むか、それとも開かれることになるか、それだけが残っていた。
—
11月23日、快晴の朝。俺は仕立て直したばかりのスーツに袖を通した。二階からは朝早くから支度をする千早の物音が、いつもより慌ただしく聞こえてくる。8年前、貞子と一緒に選んだこのスーツは、袖口の生地を変え、肩の線を今の体に合わせて仕直してある。仕立て直しを頼んだ時、仕立て屋は「よほど大事な日なんですね」と笑って針を通してくれた。その言葉の通り、今日という日のために、俺はこのスーツを新しく生まれ変わらせたのだった。
鏡の前で襟元を整えていると、徳倉が工場の作業着のまま玄関先まで顔を見せに来た。
「社長、今日は立派だ。」
徳倉はそれだけ言うと、照れ臭そうに鼻の頭を掻いて、それ以上は続けなかった。
「柄でもないことを言うな。」
「本当のことだ。工場の男も、たまにはそういう日があっていい。」
「機械のことを頼んだぞ。」
「任せとけ。今日くらいは、何も考えず、娘さんのことだけ考えてろ。」
徳倉はそう言うといつもの作業着の胸元を軽く叩いて見せ、愛想笑いを返して工場の方へ戻っていった。その背中を見送りながら、俺はこの男に何度助けられてきただろうかと改めて思う。
身支度を終えた千早が階段を降りてきて、俺の姿を見て少しだけ目を丸くした。
「お父さん、よく似合ってる。」
千早はそう言いながら、俺の襟元の乱れをそっと直してくれた。
「お前こそ、支度は済んだのか。」
「うん。あとは会場で最後の仕上げをするだけ。お母さんにも、行ってきますって言った。」
「ああ、さっき仏壇の前で伝えてきた。」
千早はそれを聞くと、少しだけ安心したように頬を緩め、玄関のたたきで靴を履き直す。
「今日、お母さんもきっと見ててくれるよね。」
「見ていないはずがない。」
俺は何も言わず、ただ一度頷いて、玄関の扉を開けた。外に出ると、駅前の銀杏はすっかり色づき、晩秋の済んだ日差しが並木の道に降り注いでいる。タクシーを待つ間、俺は内ポケットに手を当て、そこに畳んで入れた原稿の感触を確かめた。もう1つのポケットには、足に預けた封筒の控えの代わりに、何も入っていない。
—
会場に着くと、ホテルの入り口で太子が名簿を片手に出席者の案内を仕切っていた。車寄せには次々と招待客の車が横付けされ、着飾った男女がホテルの中へと吸い込まれていく。
「大城さんのお席は、こちらではございませんの。」
太子はそう言って、俺を親族控室から1番遠い末席の待合いへと案内させた。
「延列は何時からですか?」
「11時からの予定です。もうしばらくお待ちを。」
控室の奥からは、千早の支度を手伝う美容師たちの世話しない声が漏れ聞こえてきた。末席の待合いに置かれた椅子は固く、控室の温かさとは違う冷たさが背中から伝わってくる。待合いの壁には、これまでこの会場で式を上げた新郎新婦の写真が何枚も飾られていた。どの写真も晴れやかな笑顔で、俺はその1つ1つを順に目で追っていく。開演まであと30分ほどだった。末席がどこであろうと、今日という日を娘のために無事に終えられるなら、それで構わない。そう自分に言い聞かせながら、俺はただじっと開演の時を待ち続けていた。
—
やがて入場の時間になり、俺は入り口で衣装を整えた千早の手を取った。会場の扉が開かれると、シャンデリアの金色の光がまっすぐ伸びる絨毯の先まで満ちていった。髪を上げ、花嫁衣装に身を包んだ千早は、いつもの千早とは別人のように大人びて見える。
「お父さん、ごめんね。」
「何が、あった?」
千早は俺の手をいつもより強く握り返してきた。
「今日まで、色々、気づかないふりして。」
「今日はそんな話はよそう。前を向いていろ。」
俺は娘の手を強く握り返し、それ以上は何も言わずに歩き出した。シャンデリアの金色の光が、赤い絨毯の上を進む2人の影を長く伸ばしている。300人の招待客が一斉に振り返り、拍手と歓声が会場いっぱいに広がった。
俺は前だけを見て歩きながら、隣の千早の手のひらの温もりだけをしっかりと感じ取っていった。生まれたばかりの千早を抱いた時、この手はもっと小さく、頼りなかったはずだ。27年という歳月が、この手をこんなにも大きく変えたのだと改めて思う。バージンロードの両脇に並んだ招待客の顔は遠すぎて、ほとんど見分けがつかなかった。それでも、その中のどこかに友行が立ち、俺たちを待っているはずだった。
金屏風の前に立つ友行の姿がようやくはっきりと見えてくる。緊張した面持ちのまま、友行はまっすぐにこちらを見つめていた。その隣に立つ太子は、輝くばかりの笑顔を浮かべて、招待客たちの方へ小さく会釈を返している。俺は千早の手をそっと友行へ引き渡すと、静かに一歩だけ後ろへ下がった。金屏風の前で向かい合う2人の姿を、俺は少し離れた場所からただじっと見届けていった。
—
披露宴が始まると、主催者として太子がマイクの前に立ち、流暢な声で挨拶を始めた。
「本日は、皆様お忙しい中お集まりいただきまして。この度の式は、会場の手配から相席に至るまで、私どもで全て整えさせていただきました。」
会場からは関心したような小さな拍手が上がり、太子は満足げに一礼する。
「至らぬ点もございましたでしょうが、何卒ご容赦くださいませ。新婦のために、精一杯させていただきました。振り返れば、会場選びから、そうか、引き出物の1つ1つまで、心を尽くして整えてまいりました。至らぬ親として、できる限りのことはさせていただいたつもりでございます。」
その一言に、隣のテーブルから一際大きな拍手が湧き起こった。
「さすが先生ですこと。本当に頭が下がりますわ。」
「ええ、本当に。あんなに立派な母親、そういらっしゃいませんもの。」
俺は末席からその姿をただ見ていた。会場中の視線が太子1人に集まっているのが、末席からでもはっきりと分かった。俺の名は、これまでもこれからも、この場では一度も呼ばれないのかもしれない。
司会者が次の進行に移ろうとするのを、太子はまだ話し足りないというように、もう一度呼び止めた。
「本日は、どうぞ最後までごゆっくりお過ごしくださいませ。」
その言葉に会場から再び拍手が湧き起こる。主賓の挨拶が終わり、進行表を手にした司会者の元へ三ノ宮が足早に歩み寄っていくのが見えた。
「進行表を少し変更いたします。こちらでお願いします。」
「かしこまりました。確認いたします。」
三ノ宮は司会者に紙を1枚手渡すと、俺の方を1度だけ見て、何も言わずにその場を離れていった。司会者がその紙に目を通すと、少し困惑した表情を浮かべながらも小さく頷いた。親族代表の挨拶は、元々俺が務めるはずだったものだ。だが、今その順番が変えられようとしているのか、俺にはまだ知る術がなかった。
俺は上着の内ポケットに手を当て、そこに畳んで入れてある原稿の感触を確かめた。何度も書き直したこの原稿は、結局一度も声に出して読む機会がないまま、今日を迎えている。今日は何があっても、この原稿を読まずに、黙って式を終えるつもりだった。娘の晴れの日に波風を立てたくない。その一心だけで、ここまでやってきたのだ。
「続きまして、ご親族代表よりご挨拶をいただきます。三ノ宮みのる様。」
会場に俺の名が呼ばれることはなく、代わりにマイクの前へ進み出たのは三ノ宮だった。
「先越ながら、姉に変わりまして一言ご挨拶申し上げます。本日のこの良き日を迎えられましたのも、ひとえに姉、太子の尽力があってこそでございます。会場の手配から、そうか、引き出物に至るまで、姉が心を込めて整えてまいりました。」
三ノ宮は太子への感謝の言葉だけを並べ、俺の名前には最後まで一度も触れなかった。300人の招待客が、その挨拶に穏やかな拍手を送っている。三ノ宮は挨拶を終えると、自分の席へ戻る前にちらりと太子の方へ目をやった。太子はその視線に満足げに小さく頷き返している。
俺は末席で、拍手の音が波のように広がっていくのをただ聞いていた。太子がそこで再びマイクを手に取り、上品な声で付け加えるように言葉を継いだ。
「大城さんには、何もしていただいておりませんの。」
会場のあちこちから、関心したような小さな笑い声が起こった。俺は末席でその言葉をそのまま受け止めながら、隣のテーブルにいる千早の方へ目をやった。金屏風の前に座った千早の白い頬が、その一言を聞いた瞬間、目に見えて下がるのが分かった。隣に座る友行が心配そうに千早の顔を覗き込むのが、末席からでも見て取れる。
娘の顔が曇るのを見た瞬間、俺の中で何かが確かに決まった。黙って耐えることで守れると思っていたものが、今この瞬間、逆に娘を傷つけている。それに気づいた途端、これまでの迷いが嘘のように消えていった。4ヶ月の間黙って耐えてきた理由は、全て娘のためだった。その娘の顔が、今まさに曇ろうとしているのなら、もう黙っている理由はどこにもなかった。
俺は椅子を引いて、300人の視線が集まる中、ゆっくりと立ち上がった。料理を運んでいた仲居が、その気配に気づいて足を止める。会場の隅々まで届いていた太子の笑い声が、その瞬間ピタリと止まった。司会者がマイクを持て余したまま、進行表と俺の顔を交互に見比べている。俺は上着の内ポケットに手を入れ、そこに入っていた封筒をそのまま握りしめた。
「では、精算もお願いね。」
場が水を打ったように静まり返った。太子の口角が上がったままの形で、そこでぴたりと止まる。え、真珠のネックレスに指をかけたまま、太子はしばらく次の言葉を探せずにいた。司会者も招待客も、誰1人として身動き1つ取れないまま、俺の方を見つめている。
300人の視線を一斉に浴びながら、俺はこれまでにない静けさを自分の中に感じていた。もう迷うことは何もない。俺は握りしめていた封筒から、これまで貯めてきた振り込み控えの束を取り出し、テーブルの上に広げた。4ヶ月の間、仏壇の引き出しに1枚ずつ積み重ねてきた控えが、今会場の照明の下にさらされている。紙の束が重なる音だけが、水を打ったように静まった会場にはっきりと響いた。
「8月12日、300万円、大城誠一。9月3日、260万円、大城誠一。」
控えの角が俺の指先でめくれるたびに、乾いた紙の音が会場の隅々まで届いていく。誰1人として身じろぎせず、招待客たちはただ俺の手元だけを見つめていた。俺は控えを1枚ずつ手に取り、日付と金額と名義だけを淡々と読み上げていった。
「10月15日、200万円。10月29日、96万円。」
その1枚1枚が俺の手を離れるたびに、テーブルの上へ音もなく積み重なっていった。会場は静まり返ったまま、俺の声だけがマイクを通して隅々まで届いていく。
「合計、856万円。これが全て、私の名義から出た金です。1円たりとも、高島様のお名前で払われたものはございません。」
読み上げを終えた俺の声が、会場の高い天井にしばらく余韻を残していった。
「お父さん。」
千早が両手で口元を覆い、隣の友行が息を飲んで俺の方を見つめている。会場のあちこちで招待客たちが顔を見合わせ、扇子を持つ手や箸を止めたまま固まっていた。太子だけが驚いた様子も見せず、テーブルの上で指をきつく組んでいた。
「そんな入金は聞いていません。芦澤さん、確認してちょうだい。」
太子の声には、これまでの上品さが崩れたわずかな苛立ちがにじんでいた。会場の隅に控えていた芦澤が、緑の背表紙のファイルを片手に、落ち着いた足取りでマイクの前へ進み出る。
「ご入金は、全て大城誠一様のお名前で確認いたしております。契約者様である高島太子様からのご入金は、これまで一度もございません。なお、残金324万円につきましても、契約者様へのご請求となります。」
芦澤の声は震えることなく、マイクを通して会場の隅々にまではっきりと届いている。太子の顔から、初めて余裕の色が消えていった。真珠のネックレスに触れていた手が、今は所在なさげにテーブルの端を彷徨っている。
会場がざわめき、招待客たちが互いに顔を見合わせて言葉を交わし始めた。これまで太子が積み上げてきた見せかけの舞台が、たった数枚の紙切れで、音を立てて崩れ始めていった。俺はそのことに勝ち誇る気持ちよりも、むしろ静かな疲れを覚えていた。4ヶ月の間黙って抱えてきた重みが、この一瞬でようやく肩から降りていくのを感じた。
俺はテーブルに置かれた自分の分の席次表を手に取り、マイクに向かって言葉を続けた。
「お手元の席次表をご覧ください。300名のうち、210名の肩書きの欄に、高島マナー&ブライダルサロンの名が入っています。私の欄には、新婦父とだけ書かれています。」
会場のあちこちから、紙をめくる音とざわめきが同時に広がっていった。招待客の1人が隣の席の者と顔を寄せ合い、席次表の欄を何度も指でなぞって確かめている。この披露宴が誰のためのものだったのか。ここにいる皆様なら、もうお分かりでしょう。
太子は答えず、ただ唇を硬く結んだまま、テーブルの上の席次表に目を落としている。隣に座る三ノ宮が青ざめた顔で太子の袖をそっと引き、何かを耳打ちしようとしていた。さっきまで太子の話に合わせて頷いていた招待客たちも、今はただ黙って席次表に目を落としていった。
太子はしばらく黙り込んでいたが、やがて口元に笑みを取り戻し、落ち着いた声で切り返してきた。その笑みは、これまで俺が何度も見てきたあの上品な作り笑いそのものだった。
「あれは餞別ですわ。父親が娘のために出すのは、当然のことでしょう。」
「餞別ですか? それに、大城さんは37万8000円の見積もりをよそで取ってこられたそうですね。そこまでなさるなんて、随分細かい方でいらっしゃいますこと。」
会場に戸惑いを含んだざわめきが小さく広がっていく。俺はその数字を聞いた瞬間、頭の中で素早く記憶をたどり直した。あの金額を知っているのは、見積もりを取った俺自身と、それを知らせたはずの1人しかいない。
「その金額を、どなたからお聞きになりましたか?」
俺の問いに、太子は一瞬答えに詰まった。
「さあ、どこかで小耳に挟んだだけですわ。」
「小耳に、ですか?」
「ええ、その通りですわ。」
会場の後方で、花松の社長が青ざめた顔のまま椅子を鳴らして席を立とうとしていた。
「私はその、少し外の空気を。」
花松はそう言い残すと、招待客の視線を避けるように足早に会場を出ていった。会場の後方の扉が閉まる音が、それまでの静けさの中で一際は大きく響いている。花松が姿を消したことで、太子を支えていたもう1本の柱が、音もなく折れたのが分かった。三ノ宮もまた花松の後を追うように席を立ちかけたが、姉の視線に気づいて、力なく座り直した。残された太子の顔には、これまで見たことのない焦りの色が浮かんでいた。
「餞別の意思は、ありません。」
俺がそう言い切ると、芦澤が控えていた場所から進み出て、一通の封筒を手に取った。
「昨晩、大城様よりお預かりしていたものです。確認いただければと存じます。」
会場の招待客たちが身を乗り出すようにして、芦澤の手元に注目していった。芦澤が封筒を開くと、中から出てきたのは代理弁済の停止を通知する1枚の書面だった。その通知の日付は、明日の翌日になっている。
「式を壊すつもりは、初めからありませんでした。ただ、日付を今日にしてください。」
会場が浸透静まり返る。
「この請求は、高島太子さん個人へのものです。娘夫婦には、1円も回しません。」
俺がそう告げると、会場のあちこちから安堵したような息の漏れが聞こえてきた。司会者もようやく肩の力を抜いたように、進行表をそっと胸元に下ろしている。千早の隣で友行が拳をきつく握りしめたまま、まっすぐに俺の方を見つめている。その目には、これまで見たことのない強い光が宿っていた。
太子の口元から、これまで張り付いていた笑みが初めてすっかり消えていった。
「私は、ただ。」
太子は言葉を紡ごうとしたが、後が続かず、テーブルの上で指先だけが小さく震えている。会場のあちこちから、その様子を気の毒そうに見つめる視線がいくつも向けられていた。
友行が席を立ち、会場の視線が集まる中をまっすぐに俺の方へ歩いてきた。
「お父さん。今まで、本当にすみませんでした。」
友行は俺の前に立つと、両手で俺の右手を取り、頭を下げた。俺の爪の際に残った油の跡を、友行の指がそっとなぞるのを、俺は感じている。300人が見上げる中、俺の手を取る友行の姿は、かつて太子が俺の手を見下ろした日とは、まるで違っていた。会場のあちこちから、すすり泣くような声が漏れ聞こえてくる。
「もういい。顔を上げてくれ。」
友行は顔を上げると、これまで見たことのないまっすぐな目で俺を見つめ返してきた。
「僕も、いつかお父さんのような人になりたいです。」
芦澤が進み出て、会場全体に向けて落ち着いた声で言葉を添える。
「この日は、大城様のお父様が、この地に残されたご縁で、私どもがお取りしたものです。」
その一言に、会場の空気が金色の照明から、晩秋の済んだ光へと変わっていくのを感じた。千早が席を立ち、俺のそばまで来ると、震える声でこう言った。
「お父さん、挨拶、聞かせてください。」
俺は内ポケットから、これまで一度も読まれることのなかった原稿を取り出した。千早が俺の胸元に光る万年筆にふと気づき、は大きく目を見開いた。
「それ、お母さんの。」
「ああ、貞子の万年筆で書いた。」
千早の目に、また新しく涙が浮かんでくる。俺は原稿を広げ、300人の前で初めて自分の言葉を読み始めた。
「本日は、私どもの娘、千早のためにお集まりいただき、ありがとうございます。千早は幼い頃に母をなくしましたが、周りの多くの方に支えられてここまで育ちました。不器用な父親で、うまく言葉をかけてやれないまま、今日という日を迎えました。友行君、千早をこれからよろしく頼みます。」
友行が深く頷き、隣で千早が声を殺して涙をこぼしているのが見える。
「本日は、誠にありがとうございました。」
俺が原稿を畳んで頭を下げると、会場にこれまでとは違う温かな拍手が、波のように広がっていった。千早が駆け寄ってきて、俺の胸に顔をうずめるようにして、しばらく声を上げて泣いた。
「大丈夫だ。もう泣くな。今日はめでたい日だろう。」
友行も隣に並び、涙を拭う千早の背中にそっと手を添える。その隙に、太子は誰にも見送られないまま、会場を後にしていった。晩秋の済んだ光だけが、開いた太子の席にいつまでも静かに差し込んでいった。
—
式から7日目、請求期限の朝。俺は芦澤に呼ばれて、ホテルを訪れた。先週まで金色に輝いていたロビーは、次の予約客を迎える準備で、すでにいつもの落ち着きを取り戻していた。
「高島様は、残金324万円を、ご自宅の担保に、分割でお支払いになるとのことです。」
「そうですか。」
「この債務は、契約者様お1人で完結するもので、新郎新婦様に及ぶことはございません。」
俺はその言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
「娘夫婦には、迷惑がかからないということですね。」
「はい。契約上、間違いなくそのように取り扱われます。」
俺は深く頭を下げ、これまでの礼を改めて芦澤に伝えた。
「あなたには、最後まで世話になりました。」
「私は、契約者様と代理弁済者様の双方に、公平に対応しただけでございます。」
芦澤はそう言って表情を崩さなかったが、その声にはどこか安堵の色が滲んでいた。
「これで、ようやく肩の荷が降りた気がします。大城さんは、よくやり通されたと思います。」
「あなたがいなければ、あの日、あそこまで言い切れなかったと思います。」
「私は、ただ事実をお伝えしただけでございます。」
窓の外では、初冬の済んだ日差しが前庭の噴水を柔らかく照らしている。
—
その夜、俺は事務所の机に向かい、請求のための書面を1枚1枚丁寧に書き上げていった。弁護士事務所で渡された書面には、記入すべき欄が細かく区切られ、素人目には物々しく映る。それでも、1つ1つの欄を、俺は控えの束と照らし合わせながら丁寧に埋めていった。そこには、これまで立て替えてきた856万円の返還を求める旨と、請求先を太子に限る旨を明記した。娘夫婦を巻き込むつもりは、最初から俺にはない。
書き上げた書面を封筒に入れ、宛名に高島太子の名だけを記して、俺はそれを郵便ポストに投じた。弁護士からは、相手が支払いに応じない場合の手続きについても、あらかじめ説明を受けていた。だが、披露宴での芦澤の証言があれば、話がこじれることはまずないだろうという見立てだった。
「証人がしっかりしていますから、大城さんの分は心配いりません。」
電話越しに聞いた弁護士のその一言だけが、この夜の俺には何よりの支えだった。
—
半月ほどして、俺は書類の受け渡しでホテルを訪れた際、芦澤から思いがけない話を聞いた。
「ホテルとしては、花松総花様との今後の取引を、停止させていただきました。」
「停止ですか?」
「取引先を守るため、花松様ご自身が、紹介料の記録を提出されまして。」
芦澤によれば、その記録から、花松の単価が相場の1. 8倍で、上乗せの総額は186万円に上るという。
「花松さんご自身が、差し出したということですか?」
「保身のためだったのでしょう。ですが、結果として全てが明るみに出ました。」
俺はその話を聞きながら、花松が青ざめた顔で会場を出ていった日のことを思い出していた。花松もまた、太子という存在に長いこと振り回されてきたのかもしれない。それでも、自分の保身のために誰かを売った以上、同情する筋合いはないのだと、俺は思い直した。
—
12月に入り、千早と友行が2人揃って、実家に挨拶にやってきた。2人は玄関先で並んで一礼すると、少し緊張した面持ちのまま居間へ上がってきた。
「お父さん、僕たち、母の家を出て、新しいところに移ることにしました。」
「そうか。それがいい。」
「高島さんの職場に近いところに、小さいけど、いい部屋が見つかったの。」
「母とは、距離を置きます。それが僕にとっても、千早さんにとっても、必要なことだと思うので。」
「それでいいと思う。お前が決めたことなら。」
「お父さんのように、自分の足で立ちたいんです。」
「自分の足で、か。」
「はい。今までは、ずっと母に敷かれたレールの上を歩いていただけでした。これからは、自分で決めて、自分で歩いていきたいんです。」
俺は2人の顔を見て、ようやく肩の荷が降りたような気持ちになる。
「それでいい。2人でゆっくりやっていけ。」
千早が俺の隣に座り、仏壇に手を合わせてから、2人で決めた新居の話を続けて聞かせてくれた。
「近くに来たらいつでも寄っていけ。」
「うん。ありがとう、お父さん。」
2人が並んで笑う姿を、俺は目を細めながらしばらく眺めていた。あの披露宴の日からまだ1ヶ月も経っていないのに、2人はもう随分先を歩き出している。俺にできることは、もう多くを口にせず、ただ2人の背中を見送ることだけだった。
—
1月半ば、徳倉が事務所に顔を出し、机の上の見積もり書に目を止めた。
「社長、機械の話、本気ですか?」
「ああ。」
徳倉はその返事を聞くと、満足そうに頷いて、何も言わずに工場へ戻っていった。
「そういえば社長、来月、若いのを1人新しく雇おうと思うんだが。」
「若いのが増えりゃ、社長も少しは楽ができるだろう。」
「お前が1番働き者だから、楽になるとは思えんがな。」
徳倉は声を上げて笑うと、機嫌良さそうに肩をすくめて工場の方へ戻っていく。
—
その晩、千早が実家に立ち寄り、預けていた貞子の家計簿を俺の元へ返しに来た。
「お母さんの家計簿を、最後までちゃんと読んでみたの。」
千早が開いたページには、癖のある字で「千早の式のために」と記された積み立ての記録が残っていた。
「その金は、もう残っていない。母さんの最後の入院で使い切った。」
千早はしばらく言葉を失ったまま、その一行から目を離せずにいる。
「お母さん、私のために、ずっと少しずつ貯めてくれてたんだね。」
「ああ。最後まで、お前のことを気にかけていた。」
千早はしばらく黙り込んだまま、母のページをじっと見つめ続けていた。
「お父さんは、これから知ってたの?」
「いつからというわけじゃない。ただ、なんとなくそうだろうとは思っていた。」
「今まで、黙ってたんだね。」
「言ったところで、母さんが戻ってくるわけじゃない。」
千早は小さくため息をつくと、ページの上にそっと手のひらを重ねた。
「この家計簿、これからもお父さんが持っていて。」
「分かった。大事にしまっておく。」
俺は事務所の電話を取り、設備メーカーへ見積もりの依頼をかけた。
「先日お話しした旋盤の件、正式にお願いしたいんですが。」
電話を終えると、俺は家計簿を仏壇の前に持っていき、続きのページを開いた。俺はそこに、初めて自分の字で千早への一行を、時間をかけて書き足した。
「金のことは、もう黙っていない。父さんは、ちゃんと守り抜いた。」
俺はペンを置き、仏壇に灯したローソクの火の揺れを、しばらく黙って眺めていた。炎は隙間風にも揺らぐことなく、まっすぐに立ち続けている。
—
翌年5月、新緑の光が差し込む工場に、新しい旋盤が運び込まれた。窓から差す光は、去年の7月に見た夏の白さとは違う、柔らかな若緑色を帯びている。搬入業者のトラックが土間の奥まで乗り入れ、クレーンで吊り上げられた機械が、ゆっくりと所定の位置へ下ろされていく。若い工具員が慣れない手つきで固定ボルトを締める様子を、徳倉が腕を組んだまま横で見守っている。
「そこ、もう少し締めろ。緩んでたら話にならんぞ。」
搬入の立ち合いに来ていた友行が、機械の据え付けを見守りながら俺に声をかけてくる。
「この工事、僕が担当させてもらいました。」
友行は誇らしげな顔で、機械の据え付け状況を記した書類を俺に差し出した。
「新金に戻ってから、ずっとこの話を通したくて。」
「上に何か言われなかったか?」
「大城さんの決算は堅実だと、支店長も太鼓判を押してくれました。」
友行はそう言って、少し誇らしげに胸を張った。据え付けが終わり、徳倉が試運転のスイッチを入れると、機械は滑らかな音を立てて動き始めた。友行はしばらくその音に耳を澄ませてから、ふと思い出したように呟いた。
「音で言ってくるんですね、この機械。」
「よく覚えていたな。」
「お父さんに、工場で教えてもらったことです。」
徳倉が試運転を終えた機械の傍らで、満足げに油の光る歯車を見つめている。
「社長、いい機械だ。あと20年は持つな。」
「当たり前だ。この工場をやめる理由がどこにある? それに、若いのに教えることが、まだまだ山ほど残ってる。」
「頼りにしてるよ。」
徳倉は照れ臭そうに鼻の頭を擦ると、機械の脇にしゃがみ込んで油差しを手に取った。
—
数日後、友行が銀行の若手行員を連れて、再び工場を訪ねてきた。新緑の光を受けた工場の土間は、いつもより明るく、機械の匂いさえどこか清清しく感じられる。若手行員は入り口で名刺を差し出し、緊張した面持ちで深々とお辞儀をした。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます。」
「わざわざ遠いところをご苦労様です。大城さんは、うちが自信を持ってお勧めできる優良取引先です。」
友行は若手行員に機械の仕組みや工場の歴史を、自分のことのように説明して聞かせている。俺はその様子を少し離れた場所から眺めながら、この男を娘の連れ合いに持てたことを、密かに誇らしく思った。この工場を初めて訪れた頃の友行は、油の匂いに戸惑い、少しおどおどしていたものだった。その同じ男が、今はこうして胸を張り、自分の仕事を語っている。
若手行員は新しい旋盤の前で足を止め、身を乗り出すようにして機械の据え付け具合を確かめている。
「これだけ精密に据えつけてある工場は、そう多くありません。」
「うちの職長が、寸分の狂いも許さない人なんです。」
徳倉が離れた場所からその会話を聞きつけ、まんざらでもなさそうに口元を緩めた。
「据え付けの精度が、本当に見事ですね。社長さんの目は物差しより正確だそうで。」
「友行君に教わったんですか?」
若手行員が照れ臭そうに笑い、友行も一緒になって声を上げて笑った。工場の隅で機械の音を聞きながら笑い合う2人の姿を、俺はしばらく眺めていた。
—
その週末、千早と友行を連れて、俺は貞子の墓参りに出かけた。若緑に包まれた墓地には、初夏の風が心地よく吹き渡っている。墓地までの坂道を3人並んでゆっくりと登っていくと、途中で友行が水桶を持つと申し出た。
「僕が持ちます。お父さんは花を。」
千早が墓石に水をかけ、持ってきた花を備えると、しゃがみ込んで手を合わせる。
「お母さん、聞いてた? 高島さんと、幸せにやってるよ。」
「聞いてたさ、きっと。」
千早はそう言って、少しだけ照れ臭そうに笑った。友行が墓石の前で腰を折り、線香に火を灯しながら、独り言のように呟いた。
「お母さん、初めまして。友行です。」
千早が横でその様子を見て、目を細めながら小さく笑う。線香の煙がまっすぐに空へ立ち上っていくのを、3人でそのまま見送った。
「高島さんとの新しい家、来月には片付くと思う。」
「引っ越しが終わったら、お父さんも一度遊びに来てください。」
「ああ、楽しみにしてる。」
—
墓参りから戻った夕方、俺は仏壇の引き出しから、披露宴の日に読むことのなかった原稿を取り出した。2人を見送った後の家の中は、いつもよりも静かで、若緑の匂いだけが微かに漂っている。俺はそれをちらりと見てから、仏壇の前に座り直し、手にした原稿にもう1度目を落とす。一度も声に出すことのなかった言葉を、俺はもう1度だけ目でなぞってみる。それから原稿を丁寧に折りたたみ、貞子の万年筆と家計簿の隣にそっとしまい込んだ。
引き出しを閉じると、線香の匂いに混じって、紙の乾いた匂いがふわりと立ちのぼった。窓の外では、若緑の枝葉の間から差す夕方の光が、仏壇の写真を柔らかく照らしている。写真の中の貞子は、8年前と変わらない顔で、いつものように笑いかけていた。
俺はしばらくその光を眺めながら、ここまでの長い1年を振り返っていた。7月の蝉時雨から始まり、雨の日も、銀杏の散る日もあった、長い1年だった。工場の経営も、娘の暮らしも、披露宴の日を境に、ゆっくりと形を変えてきた。徳倉は相変わらず口うるさいし、千早は少しずつ自分の言葉で話すようになり、友行の笑い方も以前より柔らかくなった気がする。変わらずにいるのは、この仏壇の前に座る時間と、貞子の写真の笑顔だけだった。
だが、もう金のことを黙って背負い込むことはない。千早も友行も、それぞれの場所で、それぞれの足で立ち始めている。徳倉は工場を守り、新しい機械はこれから何十年も、油と鉄粉の匂いの中で回り続けるだろう。俺はその全てを、この1年で少しずつ取り戻してきたのだと、しみじみ思った。
来年のこの時期には、また違う1年がこの家に積み重なっているのだろう。それがどんな1年になるのか、今の俺にはまだ分からない。それでも、もう1人で抱え込むことだけはしないと、俺は貞子の写真に向かって静かに誓った。俺は仏壇に向かってもう一度だけ深く手を合わせてから、静かに腰を上げた。


