「お前のせいだ。出ていけ、役立たず」
その言葉が心臓に突き刺さった瞬間、私はようやく悟った。何年も耐えてきた。家族のために、この子のために、自分を殺してきた。なのにこの人は、私の努力を一切見ようともしない。
義母が勝ち誇ったように肩をすくめる。ああ、もう終わりだ。この人たちのために生きるのは、今日で最後にしよう。
大学3年の春、友人に押されるようにして出た合コンで、私は高ふと出会った。工学部の女子なんて浮くだけだと分かっていたけど、隣に座ったスーツ姿の彼は、私のプログラミングの話を目を細めて聞いてくれた。
「いや、これからの時代はそういう人が社会を動かすんじゃないかな」
その言葉が嬉しくて、私は段々と彼に惹かれていった。季節が巡り、桜が咲く頃、彼は「結婚を前提に付き合って欲しい」と真っ直ぐな目で言ってくれた。その瞳に嘘はないと思った。
しかし、彼の実家を訪ねた日のことは今でもはっきり覚えている。玄関先に出てきた義母は、上から下まで私を値踏みするように見て言った。
「うちの高ふは完璧すぎなの。あなたもそれに見合うように頑張らないとね」
その声は穏やかに聞こえたが、目が笑っていなかった。義父は無口で、ただ黙って私たちを見ているだけだった。
結婚式の準備が進む中、義母は何度も口を出してきた。レスの色、式場の装飾、招待客の数。まるで自分の式のように指示を出す。高ふはその度に「母さんは世話だから」と言っていた。
その「世話」が、後に私の人生を押し潰すことになるとは思いもしなかった。
新婚生活は順調に思えた。だが、義母から毎日のように電話がかかってきて、夕食の献立や洗濯の仕方にまで口を出してきた。高ふは最初は「気にしなくていい」と言っていたが、次第に彼の口からも同じ言葉が漏れるようになる。
「普通の嫁なら、もう少しできるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中の何かがひび割れた気がした。
それでも私はあの頃を信じていた。努力すればきっと報われると。夫も家族も、きっといつか分かってくれると。
週末になると義母は当たり前のように訪ねてきて、台所に立ちながら私の作る料理を覗き込む。
「手際が悪いわね。それに味が薄いんじゃない?高ふは濃い味が好きなのよ」
「そうなんですね。次から気をつけます」
「次からじゃなくて今直せば。なんで後回しにするわけ?これだから今時の嫁はダメよね」
包丁を握る私の手がわずかに震えた。義母はまるで私の動きを全て採点しているかのようだった。義父が「まあまあ」と場を落ち着かせてくれることもあったが、義母は不満そうに唇を尖らせるばかりだった。
ある日、義母が突然言った。
「あなたの実家って、あまり裕福じゃないのね」
「ええ、普通の家庭ですけど」
「やっぱり。だからうちの家になれるのに時間がかかるのね」
高ふは笑ってごまかしたが、その笑いにはどこか義母に同意したような雰囲気があった。
1年後、私は妊娠した。報告した時、高ふは大いに喜んでくれた。けれど義母は違った。
「まさか、このタイミングで。高ふの仕事が一番大事な時に」
「でも、命を授かったんです」
「分かってるわよ。ただ、あなたは空気を読む力が足りないの」
高ふは黙っていた。否定もせず、ただ湯のみを見つめていた。
出産後、義母は病院に駆けつけたが、私の顔を見るなりこう言った。
「大変だったわね。でも、高ふに似てるといいけど。さやかさんに似ていたら、少しかわいそうになると思うから」
笑いながらそう言う義母の言葉が、夜中に耳に残った。それでも私の胸は踊った。産声をあげた小さな命。勇気。あの瞬間の幸福を、私は一生忘れない。
しかし、その穏やかな時間は長く続かない。退院して数日後、義母が家を訪ねてきて、赤ん坊を抱く私の手元を覗き込みながら言った。
「抱き方が下手ね。そんな持ち方じゃ首が危ないわ」
「看護師さんに教わったやり方なんですけど」
「あら、看護師なんて当てにならないわよ。私は高ふを育てあげたのよ。私の言うことを聞きなさい」
高ふはといえば、赤ん坊よりも自分の出世のことで頭がいっぱい。夜遅く帰宅し、ビールを飲みながら疲れた顔で言う。
「お前も大変だろうけど、俺だって頑張ってるんだ」
「分かってるわ。でも、少し手伝って欲しいの」
「そんな余裕ないよ。母さんに頼めばいいだろう」
勇気が生まれてからの日々は戦いだった。夜泣き、授乳、洗濯、掃除。ようやく一息つけるのは勇気が眠った後、ほんのわずかな時間だけ。その短い静寂の中で、私はパソコンを開き、在宅で請け負っているプログラム開発の仕事を続けていた。小さな案件でも、自分の力で稼げるという事実が私を支えてくれた。
けれど、その努力を義母や高ふは理解してくれなかった。
「また地味な服ね。高ふの奥さんなんだから、もう少し華やかにしなきゃ」
「汚れてもいいようにしているだけです」
「言い訳はいいの。見た目も家の中も、もう少し気を使いなさい」
義母の訪問はいつも突然で、インターホンが鳴るたびに心臓が跳ねた。玄関を開けると、義母はリビングに直行し、「相変わらず散らかってるわね」と言うのが常だった。義父はたまに、あまりに義母の言葉がきつくなると、静かに口を開いた。
「そうは言うなよ。さやかさんはよくやっているじゃないか」
その一言がどれほど救いだったことか。けれど義母はすぐに「あなたは昔から甘いのよ」と言い返した。
ある日、義母が勇気の顔を覗き込みながら言った。
「この子、あなたに似てるわね。ちょっと暗い顔してる」
「え?」
「母親がいつも眉間にしわを寄せてたら、子供までそうなるのよ。気をつけてちょうだい」
私は言葉を失った。どれほど疲れていても、勇気の前では笑うようにしていた。そんな小さな努力さえも否定されたようで、胸が締めつけられる。
その夜、高ふに話をしてみた。
「お母さん、少し言いすぎじゃないかしら。私、さすがに心が持たないかもしれない」
「母さんは悪気ないよ。お前のこと心配して言ってるんだ」
「心配だからこそ、あんな言い方する?」
「お前がちゃんとしてれば、母さんも何も言わない」
私は何も言い返せなかった。自分自身では全力で頑張っているつもりだった。だが、いつしか自分が全て間違っているような気がしてくる。
勇気が小学4年生になった頃だった。夕食の後、皿を片付けている私の背中に、勇気が声をかけてきた。
「ママ、僕ね、大人になったらママを守るよ」
「どうしたの?急に」
「だって、パパもおばあちゃんも、ママのこと怒ってばっかりだもん」
私は手を止めた。涙がこぼれそうになった。どんなに隠していても、子供は全てを見抜いている。私は勇気を抱きしめ、耳元で囁いた。
「ありがとう。でもね、ママは大丈夫。頑張るからね」
この子だけは絶対に守らなければ。そう強く思った。
けれど、その夜、いつものようにパソコンを開いた時、視界がぐらりと揺れた。マウスを握る手が震え、息がうまく吸えない。すぐに良くなったけど、胸の奥に不安が残った。
勇気が小学校の高学年になる頃、家の中の空気はすっかり苦しいものになっていた。義母の口出しは相変わらずで、高ふは出世を目前にしてますます仕事中心の生活になっていた。
「取引先との外食が入った」
「最近、ずっと外食ばかりね。体に気をつけて」
「いちいち口うるさいな。俺の仕事にケチつけるなよ。今大事な時期なんだから、余計なことを言わないでくれ」
高ふの冷たい言葉で、胸の奥がチクチクと痛む。昔は私の作る料理を「うまい」と笑いながら食べてくれた人だったのに。
義母は相変わらず週末ごとに突然やってくる。
「高ふの健康が心配だから」と言いながら、生活の細部をあれこれと選考した。
「あなた、最近顔色が悪いわね。ちゃんと食べてるの?あなたが倒れたら高ふに迷惑がかかるってこと、よく胸に留めておきなさい。それに、なんだか掃除が雑ね」
「そうですか?」
「そうに決まってるわよ。怠けたら家を腐らせるって言うでしょ」
私は汗をかきながら「そうですね」とだけ答えた。
秋のある日、勇気の運動会があった。私はお弁当を全員分作り学校へ向かった。高ふは午前中だけ顔を出すと言っていたが、結局現れない。義母は昼過ぎに現れ、開口一番こう言った。
「あらまあ、地味なお弁当ね。高ふの知り合いにこんな粗末な弁当を見られたらと思うと、私が恥ずかしくなってくるわ」
「家にあるもので間に合わせただけですから」
「間に合わせね。あなたの人生そのものみたいだわ」
その時、勇気がこちらに駆け寄ってきて、「見てた?僕、かっこよかった?」と笑顔で叫んだ。その姿を見て、私は自然と笑顔を浮かべる。
「ええ、ちゃんと見てたわ。かっこよかった」
義母は「子供の前で母親が弱々しい顔をするんじゃないわよ」と言い残し、先に帰って行った。
夕方、片付けを終えた私は自宅のソファに座り込んだ。視界の端が白くかすむ。立ち上がろうとしても足に力が入らない。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動だけが妙に速く聞こえた。
少し休めば大丈夫。そう思って目を閉じたけど、胸の奥の痛みは静かに確実に広がっていった。
「ねえ、大丈夫?」
勇気の声が聞こえる。私はうっすらと目を開けた。息をするたびに喉の奥が熱い。声を出そうとしても音にならなかった。泣きそうな勇気の瞳だけが、闇夜に鮮明だった。
そして、私の記憶はそこで途切れた。
目を開けた瞬間、白い光が瞳を刺した。耳の奥で機械の電子音が規則的になっている。ここは病院だ。
視界の端に小さな人影があった。椅子にうずまるように眠っている勇気。手には私の指を握ったまま、涙の跡を残していた。
「ゆき」
私がかすれた声で呼ぶと、勇気はびくっと顔をあげた。
「よかった。やっと目が覚めた」
医師の説明では、過労による一時的な意識消失だった。「怖かったよ。お母さん、ずっと動かなくて」と震える勇気に、私は「ごめんね。もう大丈夫」と謝るしかなかった。
そこへ高ふが病室に現れた。高級なスーツを着たまま、何度も腕時計を見ている。
「驚いたよ。まさか倒れるなんてな。忙しかったから。ちゃんと自己管理しろよ。こっちは会議中に病院から電話が来て焦ったんだ」
その口調からは、心配ではなく迷惑だという感情が伝わってきた。数時間後には義母もやってきて、派手なコートのまま腕を組んで私を見下ろした。
「まあ、母親が倒れるなんてね、情けない話だわ」
「ご迷惑をかけてすみません」
「迷惑だなんて思ってないわよ。ただ、高ふの立場ってものがあるの。妻が倒れてるなんて知られたら恥ずかしいでしょ」
私はもう、この人たちに何も期待できない。
退院した後も、私の日常は何も変わらなかった。高ふは相変わらず仕事に没頭し、義母は週末になるとやってきて好き勝手なことを言う。ただ、私の内部では何かが静かに、はっきりと動き始めていた。
季節が巡り、勇気は中学生になる。私は体調を気遣いながらも、在宅での仕事を少しずつ増やしていった。画面の向こうで動く行数を数えることが、心の支えになった。自分だけの力で生きなければ。その思いが日に日に強くなっていく。
あの日から数年後、勇気が17歳を迎える頃、私は再び病院の白い天井を見ることになる。
また倒れたらしい。夕食の支度をしている最中、突然床に崩れ落ちたという。救急車を呼んでくれたのは、また勇気だった。医師は「慢性的な過労」と言ったそうだ。前回と同じである。
そして、またあの2人が現れた。
「またかよ」
高ふは腕を組んで立っていた。その隣には義母。冷たい表情を浮かべている。
「まだ寝てるの?本当に情けないわね」
「おばあちゃん、今はそんなこと言わないで」
「うるさいのよ。病院に呼び出される私たちの気持ちになってくれない?」
義母の声は鋭く空気を切り裂いた。勇気が私の手を離さず前に立ちはだかる。
「勇気、外で待ってろ」
「嫌だ」
「いいから」
勇気が病室から出ていき、扉が閉まると、冷たい沈黙が訪れた。高ふがため息をつく。
「なあ、いい加減にしてくれよ。俺がどれだけ恥をかいたと思ってる?取引先の前で妻が倒れたと言わないといけないなんて、どう考えても情けないだろう。全く、自己管理くらいしろよ」
「そうよ。妻としても母親としても失格だわ」
私は視線を上げた。
「私、そんなに迷惑をかけたかしら」
「は?当たり前だろうが。そんなことも分からないのか。もうどうしようもないな。出ていけ、役立たず」
その言葉が心臓に突き刺さる。義母は勝ち誇ったように肩をすくめた。
「情けない嫁ね。高ふの足を引っ張る人間なんて、家にいる理由がある」
「私は家族のために全力で頑張ってきたつもりです」
「頼んだ覚えはない。好きでやってただけだろ。それに、全然頑張ってるとは思えないからな」
その瞬間、完全に何かが壊れた。愛情も信頼も、何もかもが音もなく消えていった。
「もう行くぞ、母さん。こんなやつの顔なんて見てても意味ない」
「そうね。帰りに少し買い物でもして気分を変えましょう」
扉が閉まる音が響き、2人の足音が遠ざかっていった。すぐに他の足音が近づいてきて、勇気が飛び込んできた。
「お母さん、ごめん。何もできなかった」
「謝らないで。あなたがいてくれるだけで十分よ」
勇気は肩を震わせながら私の手を握りしめた。その温かさに、ようやく生きている実感が戻ってくる。
「もう大丈夫だから」
その言葉は、自分に聞かせているようでもあった。
耐えることをやめたのは、この日からだ。勇気がいる限り、私は負けない。そして、私がこれまで隠してきたもう1つの顔を明かす日が、すぐそこまで迫っていた。
「お母さん、もう我慢しなくていい。俺はもう子供じゃない。あの人たちに何を言われても、俺も一緒に頑張るよ」
「ありがとう。ゆきがそう言ってくれることが、一番の支えよ」
「支えるだけじゃ足りない。俺、あの家にはもう戻りたくない」
その言葉に私は息を飲んだ。
「あの人たちは家族じゃない。お母さんを道具みたいに扱って、自分たちの見えのためにしか生きてない。そんな場所にもういたくない」
静かな決意のこもった声だった。17歳の少年とは思えないほどの力強さがあった。
「分かった。退院したらちゃんと考えよう。お母さんには、あなたにまだ話してないことがあるから」
「どういうこと?」
私は一度息を整えた。これまでは、家庭の中では無能な主婦として生きることが唯一の防御だった。だが、もう隠す必要はない。
「ずっと在宅で仕事をしてきたって言ったでしょ。あれね、ただの仕事じゃないの。私は自分の会社を持っているの」
勇気の目が見開かれた。
「会社?」
「ええ、個人事業じゃなくて法人ね。私が開発したソフトウェアを複数の企業に提供してるの。ずっと黙ってたのは、あの人たちに知られたくなかったから。すぐにお金をよこせって言うに決まってるから」
「……お母さん、すごいよ」
「すごくなんてないわ。ただ、あの人たちに潰されないように生きる術を探しただけ」
沈黙が落ちた。やがて勇気が小さく言った。
「じゃあさ、もう我慢する理由ないじゃないか」
「そうね。退院したら一度家に戻りましょう。でも、もうあの人たちの家にいるつもりはない」
「うん。俺も一緒に行くよ」
その日、私は心の中で静かに誓った。この子と一緒なら、もう何も怖くない。
退院から数週間後、私は体力を取り戻しながら密かに引っ越しの準備を進めていた。勇気は学校の合間を縫って必要な荷物をまとめ、不要なものをダンボールに詰めてくれた。義母は相変わらず私の行動に目を光らせていた。
「病気上がりのくせに、部屋を片付けてどうするの」と私を睨みつける。だが、私はもう怖くなかった。
そして数日後の夜、高ふが仕事から帰ってきた時、私は静かに切り出した。
「話があるの」
「なんだよ。今疲れてるんだけど」
「この家を出ることにしたわ」
高ふは一瞬、私の言葉を理解できないように眉をひそめた。
「は?何言ってるんだ?どこへ行くんだよ」
「ゆきと2人で暮らす場所を見つけたの。もうここにはいられない」
「勝手なこと言うな。俺の許しもなく、どこに行く気なんだ?」
義母が奥の部屋から現れた。どうやら物音で起きてきたところだったらしい。
「何を言ってるの?高ふに恥をかかせる気なの?出ていくですって?ありえないわ」
「恥をかかせる気はありません。ただ、あなたたちの価値観の中では、私の存在が恥だったのでしょう。それなら出ていくべきでは?」
「生意気なこと言って!」
義母はテーブルを叩いたが、私は一歩も引かなかった。
「どうせ行くところなんてないだろ。俺は金なんて出さないぞ。ろくな収入もないくせに、出ていけるはずがないだろう」
高ふは鼻で笑った。在宅の仕事で稼ぐ金なんて高が知れていると思っている。
「まあ、好きに思っておいて」
「この家にいた間、あんたは働いてなかったじゃない。俺が働いてる間、あんたは家で楽してただけだ」
「楽なんて、1度もない。お母さんのせいで毎日苦しかった。でも、もう終わり。私は自分の人生を取り戻します」
義母が何か言いかけた時、勇気が現れた。制服のまま部屋に入ってきて、そのまま立ち止まった。
「おばあちゃん、母さんをこれ以上傷つけないでくれる?」
「何よ、その口の聞き方」
「俺はもう子供じゃない。自分の思うことを言う」
義母の顔が一瞬固まった。高ふは苦しそうな表情で下を向いた。
「好きにしろ。出ていきたいなら出ていけ。どうせすぐ戻ってくるさ」
「戻りません。明日出ていきます」
私がそう言いきると、部屋の空気が重くなった。義母は顔を真っ赤にし、何か言いかけたが、高ふが「もういい」と手を挙げて制した。
翌朝、空気は冷たく澄んでいた。昨夜から降り続いた雪が、庭の木の上に白く積もっている。玄関の前に並んだダンボールを見つめながら、私は小さくため息をつく。これで本当に終わるのだ。
勇気は制服の上にジャンパーを羽織り、手際よく荷物をまとめている。
「お母さん、タクシー10時に来るって」
「ありがとう。もうすぐね」
業者が荷物を運び出すたびに、心が軽くなるような気がした。そこに不機嫌そうな義母が現れた。
「何なの?この騒ぎは」
義母は見下すような目で私を見る。隣には高ふも立っていた。
「昨日は冗談だと思ってたけど、本当に出ていくつもりなの?」
「はい」
「何を勝手に。高ふ、あんたもなんか言いなさい」
「お前、本気なのか?」
「そう言ったでしょ」
高ふは我慢ができないという感じで吐き捨てた。
「出ていってどうするつもりだ?生活できるわけないだろ」
「心配はいらない。自分の力で生きていくから」
義母が鼻で笑った。
「ふん。自分の力?何を言ってるのかしら?あんたみたいな女が、外の世界で通用すると思ってるの?」
私は何も答えなかった。その沈黙が義母の神経を逆撫でしたのか、義母は声を荒げた。
「あんたが倒れた時も思ったのよ。ああ、この女はもう終わりだって。高ふの足を引っ張って家をめちゃくちゃにしたのは、あんたじゃない」
勇気が一歩前に出た。その目はまっすぐ義母を見据えていた。
「おばあちゃん、もうやめろ」
「な、何ですって?」
「お母さんは誰よりも頑張ってきた。倒れるまで、家のことも俺のことも全部やってくれた。あんたたちがどれだけひどいことを言ってきたか、俺は全部覚えてる」
「生意気ね。誰に口を聞いてるの?」
勇気は義母と高ふを交互に見ながら、はっきりと言った。
「俺にとって親は、お母さんだけです」
一瞬、義母の顔が固まった。高ふが苛立って声を上げる。
「勇気、出ていけ。お前は母親に洗脳されてる」
「違うね。ずっと前からそう思ってたからさ」
高ふが私を睨みつけた。
「お前のせいだ。息子を奪う気か」
「いいえ。あなたが自分から手放したのよ。ずっと前にね」
高ふの肩がわずかに震えた。私は最後の一言を告げた。
「お母さん、高ふ。これまでお世話になりました。でも、これから先の人生にあなたたちは必要ありません」
「ふざけるな!」
彼らの怒鳴り声が交錯する中、私たちは玄関に向かって歩き出した。ドアのノブを握り、振り返る。
「さようなら」
外は白い光に包まれていた。雪が止み、雲の切れ間から日差しが差し込む。勇気がドアを閉めた。玄関の閉まる音が、長い年月の終わりを告げたようだった。
タクシーがすぐにやってきて、私たちは素早く乗り込む。後部座席の窓から見える家は、もう他人のものだった。
「お母さん」
「ん?」
「やっと自由になったね」
私は微笑んだ。あの家では決してできなかった、本当の笑顔だった。
「ええ、ようやくね」
窓の外には真っ新な雪道が伸びていた。その白さは、過去の全てを覆い隠してくれるように眩しかった。これからの道は決して平坦ではないだろう。でも、もう怖くない。隣には私を支える息子がいる。そして、私は役立たずではない。会社は私の実力を証明している。
家を出て3日後、高ふから離婚届が送られてきた。メッセージには「これで満足か。2度と連絡するな」とだけ書かれていた。私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。ただ、ようやく全て終わったのだと思えた。
新しい住まいにも慣れてきた頃、テレビの情報番組で私の特集が流れた。
「続いては、今話題の女性企業家特集です。主婦と仕事を両立しつつ、年商5億円を超えるIT企業を率いています。株式会社サイテック代表、丸谷さやかさんをご紹介します」
コーヒーを飲む手が止まった。画面にはスーツ姿の私が映っている。笑顔でインタビューに答える映像だ。3ヶ月前、経済誌の取材で撮影されたものだった。
「家庭を支えながら夜中に1人で開発を続けたという丸谷さん。その粘り強さが今の成功を支えています」
静かな部屋に自分の声が流れる。かつては誰にも認められなかった努力の断片が、全国で放送されていた。
そして、スマホが震えた。画面に浮かぶ名前を見た瞬間、思わず動きを止めてしまった。電話の主は、高ふ。彼はいつもこの番組を見ながら朝食を取っていたから、もしかしたらバレるかもしれないと思っていたが、予想通りになった。
着信は10件、20件、30件と増え続ける。40件を超えたところで、私は通話ボタンを押した。
「さやかか。テレビで見たぞ。あれは何なんだ?どうして名前が出てるんだ?どういうことなんだよ」
「法人を立ち上げた時に登録しただけよ」
「どうして、そんな俺に一言も言わずに会社なんか作ってたんだ?」
「言う必要があったかしら」
「年商5億って本当なのか?」
「数字はあくまで去年の決算よ。今期はもう少し増えるわ」
「お前がそんなことをしてたなんて、なんで黙ってたんだ」
「あなたが知る必要はなかったから。どうせ、お母さんに伝えてお金をむしり取ったでしょ。ならないために、私は何も言わなかったの」
次の瞬間、高ふの低い声が響いた。
「やり直せないか。俺たち、もう一度」
私は目を閉じ、しばらく何も言わなかった。心の奥にかつての痛みが一瞬よぎったが、すぐに通り過ぎていった。
「あなたが壊したのよ。今更そんなの遅いわ。覆水盆に返らずって言葉、知らないわけないわよね」
返事の代わりに短い沈黙、そして小さなため息が聞こえた。そして、通話が切れた。
それからも高ふからは何度かメッセージが届いたが、どれも「やり直したい」「話を聞いて欲しい」という同じ内容だった。私は開かずに全て削除する。もう話すことなどない。
ある日、私は東京商事からの重要なメールを受け取った。物流システム全体を刷新する大規模プロジェクトの依頼。金額も規模もサイテックにとって過去最大の案件だ。そして、担当者の名前を見た時、私は思わず息を飲んだ。
香谷高ふ。元夫だった。
午後、秘書から連絡が来る。
「担当者の名前ですが……香谷高ふさんです」
「やはりね。そのままの日程で承諾しておいて」
「分かりました」
そして、オンライン打ち合わせ当日。画面にいくつかの小さな映像枠が並んだ。左側には私と技術の若手プランナーの中原。右側には東京商事の技術担当の三宅。そして、高ふ。
高ふと顔を合わせるのは半年ぶりくらいだろうか。まだそれほど時間は経っていないのに、彼の顔つきは驚くほど変わっていた。明らかに痩せており、どうも落ち着きがない。かつての自信過剰な姿は、そこにはなかった。
「お久しぶりです」
低く、どこか探るような声だった。私は淡々と返す。
「こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」
ビジネスとしての礼儀だ。それ以上でも以下でもない。
会議は滞りなく進み、プロジェクトの方向性が見えてきた。高ふだけがほとんど発言しなかった。腕を組んだまま、ただ私を見ている。その目の奥に、何か焦りのようなものが滲んでいた。
かつて私に命令する立場だった男が、今、私に依頼する側に変わっている。その力の逆転に、高ふは明らかに馴染めていなかった。
会議が終わり、映像枠が1つずつ消えていく。残ったのは私と高ふだけになった。
「さやか、本日の議題は以上です。失礼します」
「待ってくれ」
その声には、懇願のような響きがあった。
「お前、変わったな」
「変わらなきゃ生き残れませんから」
「そうか」
私はマイクを切り、通話を終了した。画面が暗転し、部屋に静けさが戻る。あの病院の匂いを思い出す。ベッドの上で感じた孤独も痛みも、今ではもう遠い出来事のようだった。
その後も、高ふからは頻繁にメッセージが届くようになった。業務連絡の体裁を取りながら、妙に私的な言葉が挟んでくる。
「今日は冷えますね。体調は大丈夫ですか?」
「会議ではいつも頼もしいですね」
「少し話せませんか?仕事以外のことでも」
私はその度にため息をついて短く返信した。
「業務に関係のある内容でお願いします」
ある夜、最終仕様の確認を終え、モニターを閉じようとした時、スマホが震えた。表示された名前を見て、私は一瞬だけためらった。迷った末に、通話ボタンを押す。
「出てくれたんだな。ありがとう」
「何のご要件ですか?」
「要件?そうだな。ただ、お前の声が聞きたくて」
「仕事上の連絡以外は控えていただけますか」
「そう言うなよ。お前、別の人みたいだ」
「そう見えるなら、成長したということじゃないですか」
「違う。そうじゃなくて、本当に遠くなった気がするんだ」
彼の声はどこか掠れていた。まるで過去を取り戻そうとするように、何かを必死に掴もうとしている感じがあった。
「なあ、さやか。俺たち、もう一度やり直せないか」
想定していた展開とはいえ、その熱心さには呆れを通り越して哀れみすら覚えた。
「あなたが私に何を言ったか、覚えてますか?『出ていけ、役立たず』って。あの言葉は一生忘れません」
「違う。あれは俺も追い詰められてて」
「その言い訳、まだ続けますか?」
一瞬の沈黙。電話口の向こうで、深く息を吸う音がした。
「さやか、頼む。今の俺にはお前しかいないんだ」
「それはあなたの問題です。私はもうあなたの人生には関わりません。仕事以外では絶対に」
「そうか」
その声には、崩れ落ちるような響きがあった。かつての自信家の姿は、完全に消え去っていた。
「これ以上のご連絡は、業務妨害と見なします」
「待ってくれ、さやか」
私は通話を切った。ゆっくりと息を整え、モニターの電源を落とす。窓の外は夜の気配に包まれ、街の明かりが遠くで揺れている。
それからもプロジェクトは順調に進んだ。そして、事件が起こった。プロジェクトの最終納品を終えた頃、取引先からの連絡で、東京商事のシステム部長が交代になったことを知る。高ふがシステム部長を外されたのだ。
数日後、義母から電話がかかってきた。
「さやかさん、あなた、高ふに何したの?」
「何もしていませんよ。お母さんたちが私にしたようなことは」
「またそうやって皮肉を。あの子、最近おかしいのよ。仕事もうまくいかないって言うし、お金のことで揉めてるし。変なこと吹き込んだんじゃないでしょうね」
「心当たりはありません。もう長い間会ってませんから」
「あんたのせいよ。あの子は、あんたがいなくなってからずっと落ちぶれてるの」
「それなら彼自身の問題です。私のせいではありません」
「あんたって人は、昔から自分のことばかり!」
「私の中では、あなたたちはもう他人です。そう言われましても」
義母は言葉を失ったように静まり返った。やがて息を荒げながら叫んだ。
「覚えてなさいよ!あんたなんか、必ず後悔するんだから!」
その言葉を最後に、通話が切れた。
そして数日後、別の取引先の担当者との会話の中で、思いがけない話を耳にする。
「そういえば、東京商事さん、かなり内部が揺れてるみたいですよ。あのシステム案件で好成績を出したサイテックの評価が高くて、車内でも『外注の方が有能だった』って噂になってるらしいです」
「なるほど」
「なんでも、前任部長さんが発注先の選定を巡って上層部と揉めたとか」
高ふにとって、それは屈辱だったはずだ。自分が軽視してきた妻の会社が、自社の業績を支える立場になったのだから。
しばらくすると、不穏な影がちらつき始めた。ある朝、広報担当のミカがメッセージを送ってきた。
「社長、これ見ました?」
画面には匿名掲示板のURLが貼ってある。タイトルにはこう書かれている。
「サイテックって裏金で仕事取ってるらしいよ」
投稿の中身は事実無根のものばかりだった。卑劣な言葉が並んでいる。私はミカに電話をかけた。
「これは何?」
「分かりません。けど、複数のIPアドレスから似たような内容が投稿されています。しかも全部ここ2日で集中していて」
その文体には、どこか見覚えがあった。攻撃的で、根拠のない自信に満ち、他人を貶しめる言葉。まるで高ふの文体のようだった。確信はないけど、この書き込みの出所は、心の中ではもう分かっている。
数時間後、ネットニュース系のまとめサイトでも同じ話題が転載され始めた。そして、夕方になると取引先の担当者からも「大丈夫ですか?」と連絡が来る。
私は川に指示を出した。
「投稿のスクリーンショット全部保存して。念のため、法的に動けるようにしておきましょう」
翌朝、内部調査の速報というタイトルのメールが届いた。
「昨夜の投稿の発信を特定しました。車内ネットワークからのアクセスです。タイムスタンプは……」
読み進めるにつれ、胸に冷たいものが広がった。発信元は内部だった。遠くの悪意ではなく、もっと近いところに潜んでいる。
オンライン会議用のチャットルームを開くと、川がすぐに通話を開始した。
「さらに確認を進めたところ、車内チャットの下書きフォルダに同じ文が残ってました。作成者は、高ふさんのアカウントです」
「やはりね」
「発信者情報開示請求を進めて、証拠は全て保存しておいてね」
「了解です。弁護士にもすでに連絡済みです」
こちらは被害者として黙ってはいられない。今回ばかりは、きっちりと決着をつける。
高ふの不正が明るみに出た翌日、東京商事のコンプライアンス部から電話があった。そして、高ふは会社を解雇された。不正アクセス及び機密情報の持ち出しが認定されたとのことだった。
それから、高ふはSNSで愚痴をこぼし始めた。
「俺は悪くない。会社を辞めさせられたのは陰謀だ。あの女に裏切られた。俺は被害者だ」
そんな投稿が延々と続く。義母も同じように、電話で親戚中にデマを触れ回っているらしい。
「うちの息子は正義感が強いから狙われたのよ」
しかし、真実は違う。高ふのSNSはやがて炎上し、アカウントは凍結された。それでも彼は新しいアカウントを作り、ブログを立ち上げる。
「真実を隠す会社サイテック」
そんなブログ名だった。タイトルからしてすでに妄想の領域だ。
そして、予想できたことだが、高ふと義母は逮捕された。
「元会社員とその母親、ネット誹謗中傷で逮捕」
そんなタイトルが画面のトップで踊っていた。名誉毀損及び業務妨害の疑い。テレビにモザイク越しで映る2人の姿。かつて私を侮辱し、家庭を壊した夫とその母ではなく、全てを失った哀れな人間の姿だった。
判決は、高ふが懲役1年6ヶ月、義母が執行猶予なしの懲役1年。SNSでは「身から出た錆」「親子で地獄行き」という言葉が飛び交っていた。
その夜、勇気が言った。
「父さんもばあちゃんも、結局自分で自分を壊したんだね」
「そうね。誰かを傷つけようとすれば、結局自分を一番深く傷つけるのよ」
「でも、母さんはよく耐えたよね」
「耐えたというよりは、ただ前だけを見てたの。過去に捕まってたら、どうなってたか分からない」
「お母さん、強いよ」
「違うの。あなたがいたから強くいられたの。それは間違いないわ」
しばらく2人で黙っていた。窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。
「これからが始まりってことだね」
「ええ。一緒に頑張って生きていきましょう」
そして、年月は風のように過ぎていく。あの騒動からもう2年が経った。勇気は第一志望だった都内の大学に合格し、今では軽音部のギタリストとして毎日を駆け回っている。一方、私はサイテックの代表として新しい局面を迎えていた。分散型のオンライン企業として始めたこの会社は、今や何十人ものフルタイムスタッフを抱え、都心にオフィスを構えるまでに成長した。
週末には一緒に買い物に出かけ、勇気が夕食を作ってくれることも増えた。静かな日常が、何よりも幸せだった。
けれど、幸せというものは気づかぬうちに傾いていく。それはある雨の夜だった。オフィスの照明を落とし、帰り支度をしていた時、パソコンの画面に新着メールの通知が点滅した。件名にはこう書かれていた。
「取材依頼、サイテックの元関係者を名乗る人物について」
差出人は、見覚えのある週刊誌の記者だった。
「貴社に関して新たに証言を得ました。ご確認をお願いしたい件があります」
私は思わず椅子の背もたれに寄りかかった。あの事件から2年。ようやく過去を終わらせたと思っていたのに、また何かが起こってしまうのだろうか。
そして、午前中のミーティングを終え、ノートパソコンを閉じようとした時だった。川が私のデスクに駆け寄ってきて、声を潜めている。
「社長、少し気になることがありまして」
彼は私にタブレットを手渡してきた。そこには匿名掲示板のスクリーンショットが数枚映っている。「サイテックに不正の疑い」という文字が並んでいた。
書き込みの文体を見た瞬間、背筋が冷たくなった。どこかで見たことがある癖。
「まさか」
ついた声が、自分のものとは思えなかった。高ふと義母は服役していたはずだ。もう出所しているが、また刑務所に入るようなリスクを犯すだろうか。
「まだ確証はありません。ただ、言い回しが以前の投稿と似ていて」
私は立ち上がり、深呼吸をした。冷静かつ確実に証拠を掴む必要がある。
夕方、オンライン会議で社員たちに共有する前に、私は川を呼び止めた。
「悪いけど、今回の件、社外にはまだ出さないで。本格的な調査を水面下で進めましょう」
「特定ルートからのアクセス記録をすぐ洗ってみます」
夕食の後、勇気が私をじっと見た。
「母さん、どうしたの?なんか暗い顔してるよ」
「ちょっとね。また仕事関係のことで妙なことが起きてるの」
「まさか、前みたいな」
「まさかと思いたいけどね」
私がそう言うと、それ以上勇気は何も言わなかった。
数日後、私は午後の打ち合わせを終えてオフィスに戻ったところだった。メールを確認しながら次のミーティング資料を開こうとした瞬間、スマホが鳴る。勇気のバンド仲間であるシンタからの電話だった。今まで1度も電話がかかってきたことはない。胸の奥に焦りが瞬時に広がっていく。
私は急いで電話に出た。
「もしもし。シンタ君?」
「は、今大学の前で、勇気のお父さんとおばあさんがいてですね。勇気を連れて、一緒に出かけたんです」
頭の中が一瞬真っ白になった。
「え、誰と?」
「勇気のお父さんとおばあさんです。ゆきは最初びっくりしてたけど『大丈夫だから』って言って、そのまま2人と歩いていっちゃって。でも、なんか変だったんですよ。あの人たち、すごく顔色が悪くて」
私は立ち上がった。椅子が倒れ、書類が床に散らばる。
「シンタ君、それ何時頃の話?」
「あの……少し前です。わざわざ電話するのもどうかと思ったんですけど、やっぱり心配になってきて」
私は時計を見た。午後5時を過ぎている。スマホを握る手が汗で滑りそうになる。鼓動が速くなり、息が詰まる。
2人は出所している。それは知っていた。けど、まさか私じゃなくて、勇気を狙うなんて。
私は震える指でスマホを操作し、勇気に電話をかけた。なのに、何度鳴らしても出ない。メッセージも送った。「どこにいるの?無事?返事をして」けど、既読すらつかない。
私はすぐに車内チャットを開き、川にメッセージを送った。
「川さん、緊急です。ゆきが元夫と義母に待ち伏せされて、一緒に出かけたらしい。まだ連絡がつかない。どこにいるか調べられない?」
数分後、川から返信が届いた。
「すぐに位置情報を確認してみます。念のため、警察にも相談を」
そのメッセージを読んだ瞬間、迷いが吹き飛んだ。そうだ、これはもう警察に連絡すべき事態だ。私はスマホを握りしめ、110番を押した。
「はい、警察です。事件ですか?」
声が震える。
「息子が……息子が行方不明なんです。元夫とその母親と一緒にいるのを見たという連絡がありました。2人は以前、中傷の件で服役していました。再犯の可能性があります」
警察官への電話を切った途端、スマホの着信音が響き渡る。表示された名前は、勇気。私は反射的にスマホを耳に当てた。
「勇気!どこにいるの?」
だが、返事がない。しばらくして、どういう状況か理解する。これはスピーカーモードだ。勇気は隙をついて私に電話をかけ、今の状況を知らせようとしている。
私は口を閉ざし、耳に全ての神経を集中させた。
「だからさあ、ゆき、お前から言ってくれよ。母さんにさ、少しでいいから金を出してくれって」
「そうよ。あの人社長なんでしょ?お金は山ほどあるでしょ」
2人の声は聞き慣れているはずなのに、まるで初めて聞いたような気がした。
「そんなこと、俺には言えないよ」
「なんでだよ。俺はお前の父親だぞ。助けるのが当たり前だ」
「助けるって?2人が母さんに何をしたか、忘れたわけじゃないよね」
「あの人はね、被害者ぶってるだけよ。私たちが悪者にされたの、全部あの女が仕組んだことよ。私たちが本当の被害者」
「そうだ。あいつが俺を落とし入れたんだ。仕事も家も人生も全部壊された。金ぐらい出せって話だ」
私は無意識のうちに拳を握りしめていた。まだ自分たちの罪を認めないつもりなのか?
「父さん、それは違う。母さんは何もしてない。自分の失敗を人のせいにするの、もうやめてよ」
「口応えすんな!誰に向かってそんな口聞いてるの?」
義母の甲高い耳障りな声が、ノイズ混じりに割れて聞こえた。
「いいか、あいつに伝えろ。金を出さないなら、あいつの会社に何をするか分からないってな。お前もそんなこと望んではいないだろ」
「そうよ。前みたいにちょっとネットに書けば、すぐ噂になるんだから。それよりお金を出した方が安くつくと思うけどね」
勇気は声を強めていった。
「そんなことをしても、何も変わらないよ。お金が欲しいなら働けばいいじゃないか」
「偉そうに言うな!あの女のせいで俺たちは不幸になったんだ。慰謝料をもらう権利がある」
「そうよ。そうよ」
「もうやめてくれ」
勇気の声は震えていた。電話越しの息子の声が胸を貫く。
「金が支払われなかったら、本当に会社に乗り込むぞ。全部ばらしてやるわ。何もかもね。あの女がどんな人間か、世間に教えてやらないと」
「もう好きにすればいいよ。誰もそんなの信じない。あんたらが恥をかくだけだ」
その直後に、通話がぶつりと切れた。
私はすぐに警察に、今起こったことを伝えた。通話の録音データは確かに残っている。警察への通報を終えた直後、再び電話が鳴った。警察署からの折り返しだった。
「先ほどの件、録音データがあると伺いました」
「はい。息子が脅されている会話が全て入っています。どうすればいいですか?」
「データを保全したいので、これから刑事を現場に向かわせます。到着まで、そのままの状態でお願いします」
通話を終えた私は、焦りをなんとか抑えようとした。勇気の無事を確認した。次は証拠を確実に守ることが大事だ。
刑事が2人、玄関前に立っていた。手袋をはめ、専用のケーブルで端末をノートパソコンにつなぐ。
「このデータですね。通話の日時、長さも記録されています。念のため、同じデータを保存してください。こちらでも同じものをバックアップしておきます」
刑事が操作を終えると、書類を差し出した。
「領収書になります。証拠物件番号、日付、端末情報を明記しています」
これで証拠は守られた。刑事は言葉を選びながら続ける。
「録音内容から見て、脅迫と強要未遂の恐れがあります。すでに基地局の通信記録を照会中です。発信者の位置が特定され次第、身柄を確保します」
そして、夜が明けきらない午前5時。私は全く眠れなかった。そこでスマホが小刻みに震えた。画面には藤田刑事の文字。すぐに通話ボタンを押した。
「藤田さん、何か分かりましたか?」
「朗報です。対象の2人を、方市内で確保しました」
その言葉を聞いた瞬間、膝の力が抜けた。テーブルの端に手をつき、何とか体を支える。
「あなたの息子さんに金銭の要求を繰り返しているところを見た人が通報してくれたんです。それを受けてパトロール隊が接近した際、2人は逃走しました。その後、防犯カメラと基地局ログから位置を追跡し、方の逮捕に至りました」
「お2人には、脅迫及び強要未遂の容疑がかかっています。録音データが決定打になりましたよ」
その時、玄関のインターホンが鳴った。モニターを見ると、そこには警察官に付き添われた勇気の姿があった。
ドアを開けた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが一気に流れ出てしまう。
「お母さん」
私は勇気を強く抱きしめた。腕の中の勇気の温もりで、涙が止まらなかった。
「怪我はない?ひどいことされなかった?」
「俺は大丈夫だよ。父さんとおばあちゃんは、連れて行かれた」
勇気の声は、とても冷静に聞こえた。私は彼の髪を撫で、何度も頷いた。
義母と高ふが逮捕された当日、事件についてニュースサイトやテレビで一斉に報じられた。「服役していた親子、再び脅迫容疑で逮捕」彼らは勇気を利用して金銭を要求しようとした件で、強要未遂と脅迫の容疑で再逮捕された。決定的な証拠となったのは、勇気がスピーカーモードで私にかけた通話記録だった。
調べによると、高ふは出獄後、無職の状態で生活苦に陥り、義母と2人で古びたアパートで暮らしていたことが分かった。やがて家賃や光熱費も滞納し、最終的に大金を手に入れるために、勇気を人質にして私から金を取る計画を立てたらしい。その計画の浅はかさと執念深さに、私は首を横に振るしかなかった。
取り調べでは、2人は否認していたが、録音の存在を聞いて態度を変えたという。「悪気はなかった」と供述しているらしい。家族を脅してまで金を得ようとした人間が、自分自身をごまかして正当化しようとする。どこまで行っても、呆れるしかない。
結果、高ふには懲役2年6ヶ月、義母には懲役1年8ヶ月の実刑判決が下された。前回よりもかなり重い。2人がやったことを考えれば、当然だと言えるだろう。
判決を聞いた後も、不思議と怒りは湧かなかった。長い戦いの幕がやっと降りて、もうこれで終わったのだと、肩の荷が下りた気分になっただけ。
その夜、勇気が静かに私の隣にやってきた。テレビのニュースが、再びあの2人の顔を映していた。勇気は画面を見つめたまま、ぽつりと言う。
「父さん、もう別人みたいに思えたな。昔の面影がほとんどない」
「人はね、嘘を重ね続けると、それにふさわしい顔になるのよ。行きざるが出るっていうのかしらね」
少しの沈黙の後、勇気が続けた。
「でもさ、母さん。俺、分かったよ。俺たちは自分の目標を立てて前に進むしかないんだって。過去に囚われず、今を生きるしかないんだな。父さんたちみたいに過去に囚われたら、化け物みたいになってしまうんだ」
私は笑っていった。
「そうね。あなたのその言葉が、あなたなりの答えよ。それを忘れないで、ポジティブに生きていきましょう」
勇気は静かに頷き、ソファの背もたれに寄りかかった。窓の外では、風が木々を揺らしていた。
そして、それから1年が経過した。全てが終わり、穏やかな日々が戻ってきた。気持ちを切り替えてリビングに向かうと、勇気がギターを背負って大学へ行く準備をしている。
「母さん、今日の晩飯、何?」
「あなたの好きなハンバーグはどう?試験が終わったお祝いにね。まあ、他にもピザでも焼こうかな」
「やった!それじゃあ、行ってきます」
こんな何でもないやり取りができること。それが今の私には何よりの幸せだった。会社の方も軌道に乗っている。あの騒動の後、一時的に取引が減った時期もあったけど、誠実に仕事を続けていくうちに、新しい顧客が次々とやってきた。小さなスタートアップだったサイテックは、今や都内に2つのオフィスを構えるまでに成長した。川は今も私の右腕として働いてくれている。
帰宅すると、勇気がリビングでギターを弾いていた。私はその音色を聞きながら、ゆっくりと紅茶を入れる。ベランダに出ると、街の明かりが優しくまたたいていた。風は冷たいのに、不思議と心は温かい。私は星空を見上げながら言った。
「ありがとう。ここまで頑張ってきてよかった」
自分の部屋に戻ると、机の上に置いた1枚の写真が目に入る。まだ会社を立ち上げたばかりの頃、家の中で勇気と2人で安いケーキを食べた頃の写真だ。この時はまだ勇気に仕事のことは言ってなかったけど、なんとか自立しようと必死だった。私の笑顔は少しぎこちないけど、確かに未来を見ている。
過去はもう、過去のままでいい。私たちはこれからを生きていく。
「ゆき、明日の朝は早いんでしょ?もう寝なさいよ」
「分かってるって。おやすみ、母さん」
「おやすみ」
私はリビングの明かりを落とし、窓の外の星をもう一度見上げた。
もう大丈夫だ。私たちはちゃんと幸せになれたのだから。



