「お前の設計図は0点だ。明日の正談は俺が担当する。あとは俺に任せろ」
2400億円規模の大型複合施設開発プロジェクト。その設計担当に抜擢された俺、岩崎は正談前日、設計部長の追川から突然こう宣告された。3ヶ月間、徹夜を重ねて作り上げてきた設計図とプレゼン資料。それを目の前で「0点」と切り捨てられ、担当を奪われたのだ。
きっかけは3ヶ月前。大手不動産デベロッパー「梅の社長」への提案プレゼンで、俺の設計思想が評価され、直接指名を受けた。環境性能と収益性を両立させるという俺の視点が、梅の社長の心を掴んだのだ。
工藤社長は俺を新人の頃から目にかけてくれた恩人。来月で引退する予定で、この大型案件を花道にしたいと常々語っていた。俺にとってこのプロジェクトは、恩返しの機会でもあった。
しかし追川は、創業者一族の中から唯一の実力で入社した男。設計の才能に恵まれず、劣等感から俺を目の敵にしてきた。過去にも俺が提案した省エネ構造の基本設計を、見もせずに机に叩きつけて却下し、その後に自分の名前で提出して実績を横取りしたことがある。
「具体的にどこが問題なのですか?」
俺が冷静に尋ねると、追川は答えに詰まり、視線をそらした。実務経験に乏しい追川には、最新の設計水準が理解できていないのだ。
「細かいことはいい。とにかくダメなものはダメだ。明日の正談は俺が担当する」
その言葉で、俺は全てを理解した。この男は俺の設計図が完成するのを待っていたのだ。正談前日というタイミングで担当を奪えば、準備万端の状態で正談に臨める。過去の省エネ設計を横取りした時と同じ手口だ。
「お前も知っているだろ。工藤社長は来月で引退する。そして俺は次期社長候補だ。この案件を成功させれば社長も喜んで引退できるだろう。だからあとは俺に任せろ」
「明日の午前中に荷物をまとめておけ。来月の社長引退と同時にお前は首だ」
追川は勝ち誇ったように腕を組んだ。俺は呆然と立ち尽くした。3ヶ月間の努力、明日の正談にかけてきた思い、工藤社長への恩返しの機会。その全てが奪われようとしている。
しかし、ある考えが頭に浮かんでいた。工藤社長も来月引退し、追川が次期社長になるなら、この会社で働く理由などない。むしろこのままでは工藤社長の花道すら台無しにされる。
「部長、そこまでおっしゃるなら明日の正談はお任せします。何があってもお幸せに」
追川は勝ち誇ったように笑った。「分かればいいんだよ。お前の資料は全部俺が引き継ぐからな」
俺は自分のデスクに戻ると、引き出しから弁当箱を取り出し、退職届を書き上げた。追川の前に差し出す。
「本日付けで退職させていただきます」
追川は退職届を受け取り、目を通すと顔色が変わった。
「お、お前本気か?」
「来月まで首を待つ理由はありません」
追川は一瞬動揺を見せたが、すぐに勝ち誇った表情を浮かべる。
「ふん。勝手にしろ。どうせお前みたいな使えない奴はいなくても困らん」
追川は退職承認通知書に署名し、俺に突き出した。
「今すぐ荷物をまとめて出ていけ。これは正式な退職承認だ」
エリート採用の権力を振りかざした強引な処理だったが、これで正式に退職が成立した。もうこの会社の人間ではない。
俺は机の上のプレゼン資料を手に取り、シュレッダーに向かった。
「おい、何をしてるんだ?」追川が慌てて声をかけてくる。
この資料を追川に渡すくらいなら、消してしまった方がいい。俺は無言で資料をシュレッダーに差し込んだ。機械音と共に紙が裁断されていく。
「おい、やめろ!」追川が駆け寄るが、俺はやめない。
「貴様、何てことを!」追川は顔を真っ赤にして激怒した。「ふざけるな。この資料がないとプレゼンができないだろうが」
俺は静かに反論する。
「部長は先ほど言いましたよね。私の設計図は0点だと。それでも使いたいというなら、サーバーには基本設計図が保存されています。部長ならそれで十分ではないですか?」
サーバーには基本設計図しか保存されていない。プレゼン資料は完成したばかりで、俺は私物のノートパソコンで作成していたため、まだサーバーにアップロードしていなかったのだ。
「お前、まさか」
追川が震える声で聞いてくる。俺は答えず、自分のノートパソコンを鞄に詰め込んだ。おそらくプレゼン資料がなければ、追川には何もできない。基本設計図だけでは明日の正談は乗り切れないだろう。
実は1ヶ月ほど前、梅の社長から突然連絡があったのだ。2週間前に改めて会って話を聞くと、梅の社長は真剣な表情でこう切り出した。
「岩崎さん、あなたを我が社にスカウトしたい。あなたの設計思想、特に省エネと収益性を両立させる考え方に深く共感しました。年収は今の倍を保証します」
その時は工藤社長への恩義もあり返事を保留していた。だが、追川の行動で俺の迷いは完全に消えた。
ビルの外に出て、俺はスマートフォンを取り出した。梅の社長の番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
「梅の社長、岩崎です。先日のスカウトの件、お受けします」
梅の社長は驚いた様子で聞き返してきた。
「本当ですか?それにしても急ですね。音社で何かあったのですか?」
俺は事情を簡潔に説明した。追川に受けた嫌がらせの数々、正談前日の理不尽な担当交代、退職届の提出と受理。
梅の社長は話を聞き終えると、怒りを含んだ声で言った。
「これは許せませんね。しかし、明日の正談ですが、岩崎さん抜きでは進められません。我が社と業務委託契約を結び、本プロジェクトの技術顧問として正談に同席していただけませんか?」
「わかりました。喜んでお受けします」
「幸い、音社とは正式な契約も結んでいないとのことでしたね。では明日の正談、追川部長がどれだけ準備不足か確認させていただきましょう」
正談当日の朝。俺は梅の社長と打ち合わせを終え、会議室で待機していた。正談開始5分前、追川が硬い表情で会議室に入ってきた。俺を発見した瞬間、顔色が変わる。
「お、お前、なぜここにいる?」
すると、会議室に入ってきた梅の社長が説明した。
「岩崎さんは昨日、音社を正式に退職されました。本日から我が社と業務委託契約を結び、本プロジェクトの技術顧問として勤務していただきます」
追川は一瞬言葉を失うが、すぐに強がりを見せた。
「ふん。お前がどこにいようと関係ない。今日の正談は俺がまとめる」
追川は自作の資料を配る。やはり、基本設計図だけだ。追川の手が微かに震えているのが見える。
「それでは、追川部長、このプロジェクトの概要を説明していただけますか?」
梅の社長の問いかけに、追川は上ずった声で話し始めた。
「お配りした資料がプロジェクトの基本設計図です。構造的には問題ありませんし、建築基準法にも適合しています」
最初はなんとか体裁を繕っているようだった。しかし、梅の社長の質問は容赦なかった。
「基本設計は結構ですが、完成イメージの図はありますか?」
追川の顔が途端に強張った。
「それは、今回は基本設計図のみでして……」
「2400億円のプロジェクトで完成イメージがないのですか?」
追川の額にうっすらと汗が浮かび始める。
「では、このデザインのコンセプトを説明してください」
「コンセプトは、その、機能性を重視した設計でして……」
「投資対効果の試算はお持ちですか?」
「試算は、今回は基本設計図のみでして……」
追川は期待の汗を拭いながら、どの質問にも曖昧な回答を繰り返すばかりだった。
梅の社長は俺に視線を向けて言った。
「岩崎さん、あなたから追川部長に質問はありませんか?」
俺は追川に向き直る。
「追川部長。この設計の最大の特徴は省エネと収益性の両立です。具体的にどのような技術で実現するのか、説明していただけますか?」
追川は言葉に詰まる。
「それは、その……」
「具体的な点は、基本設計図には一切記載されていません。私が音社に席を置いている時に作成したプレゼン資料にのみ、詳細が書かれています」
俺の言葉に、追川は完全に言葉を失った。
梅の社長は一呼吸置いてから、厳しい口調で言った。
「追川部長、率直に伺いますが、このプロジェクトの設計思想を本当に理解されていますか?」
一言も口にすることすらできない追川に、梅の社長は断言する。
「追川部長、あなたの準備不足は明白です。大変申し訳ありませんが、本日の正談はここで終了とさせていただきます。音社に2400億ものプロジェクトを任せることなど、到底できません」
追川の顔から血の気が引いた。
「ま、待ってください。もう一度チャンスを。私が悪かったんです。岩崎、お前が戻ってくれれば……」
追川は俺にすがりつくように懇願する。だが、俺は冷静に答えた。
「私はもう音社の人間ではありません」
梅の社長は首を横に振る。
「このような不誠実な対応をされる会社とは、契約できません」
正談は完全に決裂した。追川は資料を掴むと、肩を落として会議室を出ていった。その背中は小さく、昨日までの傲慢さの欠片もない。
その日の夜、帰宅した俺に工藤社長から着信が入った。
「岩崎君か。追川から正談が決裂したと報告があったが、詳細が全く分からないんだ。一体何があったのか、教えてくれないか?」
俺は正談前日に追川が突然担当を奪ったこと、正談で追川が何も答えられず決裂したこと、そして梅の社長の会社と業務委託契約を結んだことを、すべて詳しく報告した。
電話の向こうで、しばらく沈黙が続く。
「なんということだ……」
工藤社長の声が驚きで震えている。
「そんなことが起きていたとは。追川は正談が決裂したこと以外、何も報告していなかったということだな」
工藤社長は冷静さを取り戻した声で続けた。
「これは私の責任でもある。私は追川を次期社長候補と思っていたが、創業者一族への配慮を優先しすぎた。情が甘かったようだ」
工藤社長は一呼吸置き、決意したように言った。
「明日、私から梅の社長にアポイントを取り、追川を連れて謝罪に伺う。君にも同席してほしい」
「承知しました」
翌朝10時、俺は梅の社長と共に応接室で待機していた。ほどなくして、秘書が工藤社長と追川を案内してくる。工藤社長は入室するなり、深々と頭を下げた。
「梅の社長、この度は誠に申し訳ございませんでした」
工藤社長は真摯な表情で切り出した。
「昨日の正談について、岩崎君から詳しく聞きました。追川の杜撰なプレゼンテーションで音社に多大なご迷惑をかけ、誠に申し訳ございませんでした」
梅の社長は厳しい表情で頷く。
「工藤社長。率直に申し上げます。追川部長は昨日のプレゼンで、私の質問に何一つ答えられませんでした」
すると、追川が反論する。
「しかし、私は一級建築士として基本設計図を準備しました。それで十分だと思いまして」
俺は冷静に追川を遮る。
「追川部長、あなたは正談前日、私の設計図を0点だと評価されましたね」
「そ、それは……」
「では伺います。私の設計図の最大の特徴は何ですか?なぜ梅の社長が私を指名されたのか、理解していますか?」
追川は答えられずに視線をそらす。俺はさらに畳みかけた。
「省エネと収益性の両立です。具体的にはどの技術で実現するか、あなたは正談でそれを説明できましたか?」
追川は沈黙するしかなかった。
梅の社長が厳しい口調で言う。
「岩崎さんが担当のままであれば、このような事態にはなりませんでした。追川部長、あなたは理不尽に本来の担当者を排除し、2400億円の正談を台無しにしました」
工藤社長は顔を上げ、追川を睨みつけた。
「追川、私は君を次期社長候補として重用してきた。しかし、私の判断が間違っていたようだ」
工藤社長は俺に向き直った。
「岩崎君、本当に申し訳ない。君が我が社を辞めたのは、そうせざるを得ない状況に追川が追い込んだからだろう。君の能力を生かせる環境を用意する。是非、我が社に戻ってきてほしい」
俺は首を横に振った。
「お気持ちはありがたいのですが、私はすでに梅の社長の会社と業務委託契約を結んでおります」
梅の社長が言う。
「工藤社長、岩崎さんは我が社にとって必要な人材です。このプロジェクトも、岩崎さんを中心に進めさせていただきます」
工藤社長は肩を落とし、追川に向き直った。
「追川、お前の行為は重大だ。役員会に諮り、懲戒解雇も含めて厳正に対処する」
追川は顔面蒼白になり、その場に立ち尽くした。
工藤社長は梅の社長と俺に改めて深く頭を下げた。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
そう言うと、立つことすらままならない追川を連れ、二人は会議室を後にした。
梅の社長が俺に向き直る。
「岩崎さん、このプロジェクトは必ず成功させましょう」
俺は深く頷いた。こうして、2400億円のプロジェクトは、本来の担当者である俺を中心とした体制で再スタートを切ることになったのだった。
それから1ヶ月後、工藤社長から連絡があった。追川は懲戒解雇が決定し、損害賠償も請求されたという。今は地方の設計事務所で見習いをしているらしい。工藤社長は引退を撤回し、次期後継者を一から探すと言っていた。
俺は梅の社長の元で2400億円のプロジェクトに全力を注ぎ、正式に設計部長に就任した。年収も以前の3倍になり、新たに大型プロジェクトも任されている。
俺はこれからも、自分の技術と誠実さを武器に、建築設計の世界で生きていく決意を固めるのだった。



