今夜、私は自宅の庭の桜の木に縛りつけられていた。69歳の誕生日に、我が子に。
「今夜はここで頭を冷やすんだな」
その声を聞いた瞬間、心臓が凍りつくようだった。手首に食い込む縄の痛みが、これが悪夢ではないことを残酷に突きつける。2月の風が薄着の私の体から容赦なく体温を奪っていく。
「たけし、あなたは本当に私の腹を痛めて産んだ子なの?お母さん大好きと笑ってくれたあの優しい男の子はどこへ消えたの?」
私の名前は田中洋子。今日で69歳になる。しかし祝われるどころか、私は不要な荷物のように荒縄で縛られていた。息子に殴られた頬はズキズキと痛み、口の中には血の味が広がる。このままでは凍え死ぬかもしれない。その恐怖が全身を包んでいた。
縛られたまま寒さに震える中、これまでの人生が走馬灯のように蘇ってくる。
27年前、夫が肺がんで亡くなった時、たけしはまだ14歳だった。葬儀の日、泣き崩れる私の手を強く握り「母さんは僕が守るから」と誓ってくれた。あれから私は私立病院の清掃員として必死に働いてきた。月収15万円。朝の5時に家を出て、夜の8時まで病院の床を磨き続ける毎日。膝を痛め、腰も曲がってしまった。それでも「洋子さん、今日も遅くまでお疲れ様です」という同僚の温かい言葉だけが心の支えだった。
「母さん、僕が立派になったら絶対に楽をさせてあげるからね」
高校時代のたけしは、アルバイトで稼いだお金を家計に入れてくれるような子だった。大学も奨学金とバイトで通い、就職してからは「これからは僕が母さんを支える番だ」と胸を張っていた。
しかし、3年前にエリカという女性と結婚してから、全てが狂い始めた。
「母さん、今月も10万円振り込んでくれないか」
最初は新婚生活は何かと物入りだという理由だった。しかし次第にそれが当たり前になり、今では私の月収15万円と年金8万円のうち、10万円以上が息子夫婦の生活費に消えている。貯金も底を突きかけていた。私は食費を極限まで削り、服も10年以上前のものを着続けている。それなのに、今の私の存在は彼らにとって、ただ金を絞り取るだけの道具でしかなかった。
「母さん、もっと稼げないんですか?バイトを増やせばいいじゃないですか」
たけしとエリカの要求はエスカレートする一方だった。68歳を過ぎた老体に鞭打って、これ以上どう働けというのか。
「母さん、月10万じゃ全然足りないんだよ」
たけしがリビングのソファーにふんぞり返りながら言った。隣ではエリカが高級ブランドのカタログをめくりながら冷ややかな薄笑いを浮かべている。
「でも私のお給料は15万円しかないのよ。年金と合わせても23万円、10万円も渡したら私の生活費は13万円しか残らないわ」
「だから何なんですか?母さんがもっと働けばいいだけの話じゃないですか?深夜の清掃バイトとか土日も働けるでしょう。68歳なんてまだまだ現役ですよ」
膝の痛み、腰の激痛を抱えながら、すでに週6日以上働いている私に、これ以上何を求めるというのか。
「そうだよ、母さん。俺たちにだって付き合いがあるんだ。エリカの友達はみんな良い暮らしをしてるのに、俺たちだけ惨めな生活なんてさせられないだろう」
その日から要求額は15万円に跳ね上がった。私の手元に残るのはわずか8万円。光熱費、食費、同計しても足りない。仕方なく、老後のために少しずつ貯めていた定期預金を取り崩し始めた。
しかしそれだけでは済まなかった。精神的虐待も始まったのだ。
「義母さんの仕事、本当に恥ずかしいのよね」
エリカが友人との電話で、わざとらしく大声で話している。明らかに私に聞かせるためだ。
「義母は病院の清掃員をしてるのよ。トイレ掃除とかしてるわけ。汚いでしょう。だから家の中をうろついて欲しくないのよね。変な菌とか持ち込まれたら困るし」
胸が締めつけられる思いだった。27年間、患者さんのために清潔な環境を保とうと誇りを持って続けてきた仕事を、こんな風に侮辱されるなんて。
ある日、エリカが恐ろしい話を持ちかけてきた。
「ねえ、義母さん、生命保険をもっと高い掛け金のものに入ってくれませんか?今の500万円じゃ少なすぎます。せめて2000万円くらいのものに」
「でも保険料が高くて払えないわ」
「大丈夫ですよ。私たちが半分出しますから。だって義母さんが早く死んでくれればすぐに元は取れるもの」
早く死んでほしい。身の息子の嫁から面と向かってそう言われた時、私の心の中で何かが音を立てて壊れた。しかし地獄はまだまだ続いた。
「金も出せない親なんて生きている意味がないんだよ」
初めてたけしに殴られたのは3ヶ月前のことだ。貯金も底を突きかけ、要求された10万円を用意できないと告げた時だった。バシッという鈍い音と共に頬に激痛が走った。あんなに優しかった息子が私に暴力を振ったのだ。
「痛い、たけし」
「うるさい。金も出せないくせに飯だけは一丁前に食うんだな。ただのお荷物じゃないか」
その日から度々暴力を受けるようになった。機嫌が悪ければ突き飛ばされ、要求を断れば平手打ち。ある時は階段から突き落とされ、腰を強く打った。
病院で聞かれたら、自分で転んだって言えよ。余計なことを言ったらどうなるか分かってるよな。
病院の同僚たちはいつも心配してくれた。「洋子さん、大丈夫ですか」と声をかけてくれる。でも息子がやったとは何があっても言えなかった。恥ずかしくて情けなくて、何より息子を警察に突き出す勇気がなかった。
「転んじゃって、最近足腰が弱くなってね」
嘘をつくたびに、心が死んでいくのを感じた。
そして息子夫婦は近所にも恐ろしい噂を広め始めた。
「うちの母が認知症でしてね、時々暴力的になるんです」
たけしが町内会長に頭を下げているのを見た。
「自分で転んだのに息子に殴られたって言いはるんです。被害妄想が酷くて私たちも本当に困っていまして」
「まあ、それは大変ですね。息子さんもご苦労されていますね」
それからというもの、近所の人たちの態度が明らかに変わった。
「息子さんも大変ね。認知症は早めに施設に入れた方がいいわよ。酷くなる前にちゃんと病院で見てもらったら」
誰も私の言葉を信じてくれない。息子夫婦の巧妙な嘘によって、私は認知症で暴力的な老人というレッテルを貼られてしまった。助けを求める場所もない。声をあげても誰も信じてくれない。完全に孤立無援だった。
2月14日。私の69回目の誕生日。朝5時にいつものように起床した。でも今日は特別な日。もしかしたらたけしも少しは思い出してくれるかもしれない。淡い期待を抱く。
小さなケーキと私の好きな花を買ってきて、亡き夫の写真に向かって「お誕生日おめでとう」と自分で自分を祝った。夫が生きていた頃は、必ず朝一番におめでとうと言ってくれたものだ。
病院へ向かうと、同僚の鈴木さんが「洋子さん、今日誕生日でしょ?おめでとう」と声をかけてくれた。涙が出そうになった。身の息子より、職場の同僚の方が私の誕生日を覚えていてくれるなんて。
昼休み、スマートフォンを確認した。もしかしたらたけしからお誕生日おめでとうのメッセージが来ているかもしれない。でも画面に表示されていたのは、たった一行の冷酷な文章だった。
「今日も10万円振り込め」
誕生日おめでとうの言葉は一つもない。ただお金の要求だけ。私の心にまた一つ深い傷が刻まれた。
それでも、震える指で返信する。
「たけし、今日は私の誕生日よ。それにもう貯金は5万円しか残っていないの」
既読はついたが、返信はなかった。
仕事を終えて帰宅したのは夜7時過ぎ。たけしの車が止まっていて、帰ってきているのが分かった途端、心臓が早鐘を打ち始めた。また暴力を振われるかもしれない。でもまさか、誕生日に。
玄関のドアを開けると、たけしが仁王立ちで待っていた。その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「母さん、金はどうした?」
「お、お帰りなさい、たけし」
「金の話をしてるんだよ。10万円はどうした?」
たけしの怒鳴り声が家中に響き渡った。エリカもリビングから出てきて、腕を組みながら私を睨みつけている。
「LINEで言ったでしょう?もう貯金は5万円しかないのよ」
「嘘つくな」
たけしの平手が私の頬を打った。よろめいて壁にぶつかり、そのまま床に崩れ落ちる。
「隠してるんだろう。まだ金はあるはずだ」
「本当にないのよ。お願い、信じて」
たけしは私の髪を掴んで引きずり起こした。頭皮が引きちぎられそうな痛みに、思わず悲鳴をあげる。
「じゃあ通帳を見せろ」
震える手で通帳を差し出すと、たけしはページをめくり残高を確認した。本当に5万円しか残っていないのを見て、さらに激昂した。
「なんだこれは?300万あった貯金が全部なくなってるじゃないか」
「だって毎月あなたたちにお金を渡していたから」
「それは当たり前だろ。親なんだから」
「ほら言ったでしょ。こんなクズみたいな親、生きてる価値ないって」
その言葉が刃のように私の心を切り裂く。生きてる価値がない。69年間必死に生きてきた私の人生を、たった一言で全否定されてしまった。
「義母さん、保険金に1000万円の契約書にサインしてくれたら、今日のことは許してあげますよ」
エリカが書類を突きつけてきた。受け取り人の欄にはもちろんたけしの名前。
「でも保険料が5万円もするじゃない。私の給料じゃ払えないわ」
「だから早く死ねばいいんですよ。69歳でしょ。もう十分生きたんじゃないですか」
信じられなかった。人間がここまで残酷になれるなんて。たけしが再び拳を振り上げる。
「サインしないのか?」
「やめて、お願い。今日は私の誕生日なのよ」
涙ながらに訴えたが、たけしの表情に慈悲の色はない。むしろ不気味な笑みを浮かべ始めた。
「そうだ、誕生日か。じゃあ特別なプレゼントをやろう」
たけしとエリカが目配せをした。何か恐ろしいことを企んでいる。直感的にそう感じて逃げようとしたが、たけしに腕を力強く掴まれてしまった。
「母さん、外に出ようか」
「いや、何をする気なの?」
「誕生日プレゼントだよ。69歳の記念に、一生忘れられない思い出を作ってやる」
たけしは私の腕をねじり上げ、無理やり外へ引きずり出した。エリカが背中を押す。必死の抵抗も虚しく、庭へ連れ出された。2月の冷たい風が薄着の私を容赦なく襲う。
庭の中央には、亡き夫がたけしの誕生を祝って植えた大きな桜の木があった。まだ花は咲いていないが、春になると見事な花を咲かせる我が家の宝物だ。
「この木邪魔なんだよな。春になると花びらが散って掃除が面倒だし」
「あなたのお父さんがたけしのために植えた木よ」
「うるさい」
たけしは私を桜の木の前に立たせると、エリカが用意していた荒縄を取り出した。
「まさか」
「ちょうどいい。母さんをこの木に縛りつけて一晩反省してもらおう」
「そんな酷いことしちゃうわ」
「大丈夫、大丈夫。母さんは体が丈夫なんだろ。朝5時から働いてるくらいだからな」
二人が笑いながら縄を私の体に巻きつけ始めた。手首、腰、足首、まるで荷物のように桜の木にぐるぐると縛りつけられていく。
「たけし、お願い。私を殺す気なの?」
「殺す?そんなことしないよ。ただ一晩外で過ごしてもらうだけさ。涼しくて気持ちいいだろ」
「助けて、誰か!」
「無駄ですよ。近所の人はみんな義母さんが認知症だと思ってるんだから、叫び声を聞いてもまた発作が起きたかとしか思わないですよ」
絶望が全身を包む。これが現実なのか。69歳の誕生日に、身の息子に殺されかけているなんて。
「じゃあおやすみ、母さん。ここで一晩過ごせ。69歳の記念だ。朝になったら解いてやるよ。生きてたらな」
最後の言葉が死刑宣告のように響いた。玄関のドアが閉まり、家の明りが消えていく。真っ暗闇に私一人が取り残された。
このまま本当に死んでしまうのだろうか。どれくらいの時間が経っただろう。体の感覚はとうに失われ、意識も朦朧としていた。時計も見えないが、おそらく深夜に差し掛かっているはずだ。2月の夜の気温は氷点下。薄着で縛られた私の体温は危険なレベルまで下がっていた。
「あなた、もうすぐそっちに行くわね」
亡き夫の顔が瞼に浮かぶ。走馬灯というのは本当にあるのだと、薄れゆく意識の中で思った。
その時だった。
ドゥルルル… ドゥルルル… 重低音のエンジン音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなっていく。一台や二台ではない。もっと、もっとたくさんの車の音が聞こえてくる。轟音が夜の静寂を切り裂き、地面が振動し、家の窓ガラスがビリビリと震え始めた。
一体何が起きているのか。朦朧とした意識を必死で保ちながら音のする方向を見ると、道路の向こうから信じられない光景が近づいてくる。黒塗りの高級車が、まるで大軍のように列をなして走ってくるのだ。無数のヘッドライトの光が夜の闇を切り裂き、まるで昼間のように辺りが明るくなっていく。
先頭の車が家の前で停車した。続いて次々と車が到着し、家を完全に囲む。その数、なんと50台。全て同じ黒塗りの高級車。整然と並んだその姿は、圧巻という他なかった。
エンジンが一斉に止まり、一瞬の静寂が訪れる。そして車のドアが一斉に開いた。黒いスーツに身を包んだ男たちが次々と降りてくる。ざっと100人以上はいるだろうか。全員が同じように背筋を伸ばし、張り詰めた緊張感をただよわせている。
先頭の車から一人の男が歩み出た。70代半ばくらいだろうか。他の男たちとは明らかに雰囲気が違う。威厳と品格を兼ね備えた、只者ではない風格。
その男が私の姿を見た瞬間、顔色が激変した。
「洋子!」
兄さん、私のことを… ?
男は駆け寄ってきて、縛られた私の姿を見て愕然とした。
「なんてことだ。洋子がこんな姿に…

」
震える声でつぶやくと、振り返って大声で叫ぶ。
「早く縄を切れ。今すぐだ!」
黒服の男たちが一斉に動き始めた。ある者はナイフで慎重に縄を切り、ある者は毛布を用意し、ある者は携帯電話で誰かに連絡を取っている。
「洋子、大丈夫か?私だ。健造だ」
健造。その名前に懐かしい記憶が蘇る。縄が切られ、私の体が前に崩れそうになるが、健造兄さんが優しく支えてくれた。
「冷たい。洋子の体が氷のようだ。一体誰がこんなことを」
毛布に包まれ、少しずつ体温が戻ってくる。同時に、激しい痛みが襲ってきた。縄で縛られていた部分が焼けるように痛い。
「会長、大変です。洋子様の体温が危険なレベルまで下がっています。すぐに病院へ」
「いや、待て。まず誰がこんなことをしたのか確認するぞ」
そう言って、兄は鋭い目で家を見据えた。その時だ。家の玄関のドアが勢いよく開き、たけしとエリカが飛び出してきた。50台の車と100人以上の黒服の男たちを見て、二人は凍りついたように立ち止まる。
「な、なんだお前たちは!?」
たけしが震え声で叫ぶ。エリカはたけしの後ろに隠れ、顔面蒼白になっている。
兄がゆっくりとたけしに近づいていく。その歩みには言いようのない威圧感があった。
「あんたが洋子の息子か」
「洋子って… 母さんのことか。お前たち、一体… 」
「質問しているのは俺だ」
兄の声が急に低く恐ろしいものに変わった。周囲の黒服たちもじりじりと二人を取り囲んでいく。
「よくも洋子を。よくもこんな仕打ちを」
兄の拳が震えている。今にもたけしに殴りかかりそうな勢いだ。
「待って、兄さん… でも、いいの?」
そう言ったところで、私の意識は限界だった。再び遠のいていく。
「洋子様!しっかりしてください!」
「車を出せ。病院だ」
「待て。勝手なことをするな!母さんは認知症なんだ!お前たちは騙されてる!」
その瞬間、黒服の男たち全員の雰囲気が変わった。さっきまでとは比べ物にならない、恐ろしい空気が辺りを包む。
「もう一度言ってみろ。洋子が認知症だと。騙されてるだと」
兄の声は地の底から響くような恐怖だった。たけしは言葉を失い、後ずさる。
「お前、本当に洋子の息子なのか?いや、人間なのか」
兄の問いかけに、たけしは答えることができない。ただ震えるばかりだった。
「後でゆっくり話を聞かせてもらう。逃げようとするなよ。この家は完全に囲んでいる」
兄は私を抱き上げると、車に向かう。薄れゆく意識の中で、私は思った。なぜ兄さんがここに。なぜこんなにも必死になって助けてくれるのか。
兄に抱き上げられ、車に乗せられた私は、後部座席で毛布にくるまれながら、黒塗りの高級車が猛スピードで走るのを感じていた。
「洋子、もう少しだ。病院まであと5分だ」
私の体は激しく震えていた。体温が危険なレベルまで下がっているのを、朦朧とした意識の中で感じる。誰かが私の手を握っている。
「洋子様の体が冷たすぎる。このままじゃ…
」
「大丈夫だ。洋子は強い女だ。絶対に助かる」
車が急ブレーキをかけて止まった。病院の救急入り口のようだ。
「緊急患者だ!低体温症の疑いがある!」
兄が叫ぶと、すぐに医師と看護師が駆けつけてきた。ストレッチャーに移され、処置室へと運ばれていく。
「体温32度。かなり危険な状態です。すぐに温めないと」
温かい点滴、毛布、カイロ、ヒーター。あらゆる方法で体を温められ、少しずつ意識がはっきりしてくる。2時間後、個室に移された頃には、体温も36度まで回復していた。
深夜3時過ぎ。病室には健造兄さんを始め、黒服の男たちが10名以上、まるで用心棒のように配置されている。
「洋子。よかった。本当に良かった」
「兄さん。どうしてここに?」
「洋子。実はな、毎年お前の誕生日には、遠くから様子を見に行っていたんだ。今年も同じように。ただ見守るだけのつもりだった」
「毎年?」
「ああ。お前が26歳で家を出て片付きになるって決めた時、俺も親父もひたすら見守ると約束したんだ。43年間、その約束を守ってきた。今夜も最初は遠くから見ていた。でも家に明りがついているのにお前の姿がどこにも見えない。嫌な予感がして、山本たちに家の周りを調べさせたんだ」
庭で私が木に縛られているのを発見した時、兄の顔色が変わった。すぐに助けろ、全員召集だと。それで50台もの車が集まったのだ。
私は思い出していた。私は元々、佐藤組の初代組長だった父の元で育ったこと。しかし3年前、私は組を離れ、一般人として生きることを選んだのだ。病院の清掃員として、静かに暮らすことを。
「兄さん。でも私は自分で選んだ道だから」
「確かにお前は片付きとして生きることを選んだ。病院の清掃員として誇りを持って働いてきた。それは尊重してきた。でも命に関わることは別だ」
「親父が生きていたら何と言うだろうな。『家族を大切にしない奴は人間じゃない』。それが親父の口癖だった」
父さん。涙が溢れてきた。厳しくも優しかった父。組長という立場にありながら、家族を何より大切にしていた人だった。
「洋子。お前は知らないだろうが、実はな。前の夫との結婚も、息子の誕生も、夫の死も、全部報告を受けていた。遠くだが、ずっと見守っていたんだ」
「はい。会長の命令で、洋子様の安全確認だけは続けていました。ただし決して介入しない。洋子様が選んだ片付きの人生を尊重する。それが鉄の掟でした」
山本さんが補足してくれた。この1年、息子夫婦の仕打ちは目に余った。金を取るだけ取られ、暴力まで。それでもお前が耐えている限り、俺たちは動けなかった。お前が選んだ家族だから。でも今夜は… ああ、限界を超えた。命の危険は見過ごせない。
その時、山本さんの部下が病室に入ってきた。
「会長、息子夫婦を連れてきました」
「入れろ」
ドアが開き、たけしとエリカが黒服の男たちに挟まれて入ってくる。強制的に連れてこられたようだ。二人とも顔面蒼白で震えている。たけしが兄を見た瞬間、混乱した表情を見せた。
「あ、あなたは… 」
「俺は佐藤健造。洋子の兄だ」
「母さんに兄がいたなんて聞いてない」
「そして、佐藤組の二代目組長でもある」
「佐藤組… 」
たけしとエリカの顔から完全に血の気が引いた。佐藤組といえば、誰もが知る関東最大の指定暴力団。まさか母さんが、そんな…
「そうだ。お前の母親は佐藤組の組長の娘だ」
「そ、そんな、清掃員だって… 」
「清掃員。それがどうした?洋子は43年間、組を離れて自分の力で生きてきた。病院で誇りを持って働き、お前を育ててきた。それなのにお前たちは、初代の娘を、俺の妹を、木に縛りつけて殺そうとした」
「ち、違います。殺すつもりなんて… 」
「黙れ」
兄の一喝に、病室の空気が震えた。その時、山本さんが書類の束を兄に渡した。
「会長。家の捜索結果です」
兄は書類を一枚一枚確認し、顔色がどんどん険しくなっていく。パチンコ、競馬、ギャンブルの借金が500万円。消費者金融からの借金の山。そして、生命保険の契約書。受け取り人は、息子。
病室が凍りついた。
「生命保険を契約させようとし、今夜母親を真冬の屋外に縛りつけた。これが偶然だと思っているのか?母親を殺して保険金を… 」
「それは、私たち生活が苦しくて…
」
兄の問いに、二人は何も答えられなかった。兄は別の書類、権利書を取り出す。
「もう一つ教えてやろう。あの家と土地の名義だ。全て洋子の名義だ。お前には何の権利もない」
「そんな… 」
「知らなかった」
「洋子、どうする?警察に突き出すか?」
「兄さんにお任せします」
「今から1時間以内に家を出ろ。持ち出していいのは着替えだけだ。約束しろ。二度と洋子に近づくな」
「お願いします。行く場所がないんです」
たけしが私にすがりつこうとしたが、私は静かに首を横に振った。
「もう無理よ。助けてあげられない」
69年間生きてきて、今まで一人で頑張ってきた。でも69歳の誕生日に、初めて私は守られた。
「ありがとう、兄さん」
「家族だ。当然のことをしただけだ。忘れるな。洋子は佐藤組が守る。お前ら、もし約束を破ったら、その時はどうなるか分かっているな」
たけしとエリカは恐怖に震えながら病室を出ていった。
私は天井を見上げる。父さん、あなた、見ていますか?私、やっと本当の家族の温もりを思い出しました。
一週間後、私は無事に退院した。病院の玄関には黒塗りのロールスロイスが止まっている。専務の山本さんが丁寧に頭を下げた。
「洋子様。お迎えに上がりました」
「山本さん。そんな大げさな」
「いえ、会長の命令です。これから洋子様には最高の生活をしていただきます」
車は都心の高級住宅街へと向かう。一際目立つ新築のタワーマンションの前で車が止まった。
「ここが… 」
エレベーターで最上階まで上がると、兄が待っていた。
「洋子、ようこそ。ここがお前の新しい家だ」
ドアを開けると、息を飲むような光景が広がっていた。100平米を超える広さ、窓から見える絶景、最高級の家具。全てが贅を極めていた。
「兄さん、こんな私には贅沢すぎるわ」
「何を言っている。長い間苦労してきたんだ。これからは思いっきり贅沢をしろ。それから、これは生活費だ。50万円。足りなければ言ってくれ」
「50万… そんなにいりません」
「洋子。お前は知らないだろうが、親父が亡くなった時、お前の取り分として10億円を残していたんだ。43年間、手をつけずに運用してきた。今では30億円になっている。それは全てお前のものだ。もう金の心配はするな」
涙が止まらなかった。27年間、15万円の給料でやりくりしてきた私が、こんな生活を…
。
その頃、たけしとエリカはどうなっていただろうか。後で山本さんから聞いた話では、家を追い出された二人は最初はエリカの実家に身を寄せようとしたそうだ。しかし佐藤組との関係を知ったエリカの両親は、関わりたくないと門前払い。買っていたマンションを売った二人はアパートを借りようとしたが、借金500万円の存在が障害となった。消費者金融からの取り立ては日に日に激しくなり、たけしは会社も首になった。その噂はまたたく間に広がり、どこも雇ってくれない。エリカも愛想を尽かし、1ヶ月後に離婚。たけしは今、ネットカフェ難民をしながら日雇いの仕事で食いついているとか。
一方、私の新生活は想像を超えて温かいものだった。毎朝組の若い衆が交代で様子を見に来てくれる。
「洋子さん、おはようございます」「こんにちは」「体調はいかがですか?」「何か買い物があれば俺たちが行ってきます」
最初は戸惑ったが、彼らの純粋な優しさに心が温かくなった。
「洋子さんは会長の大切な妹さんだ。俺たちにとっても家族同然です。それに27年間、清掃員として頑張ってきたって聞きました。すげえかっこいいです」
それからさらに1ヶ月後、69歳の誕生日を改めて開いてもらった。マンションのパーティールームには、組の幹部から若い衆まで50人以上が集まったのだ。テーブルには豪華な料理と大きなバースデーケーキ。
「洋子姉さん、改めまして69歳おめでとうございます」
全員が声を揃えて祝ってくれた。兄が立ち上がる。
「洋子。これからは毎年、みんなで盛大に祝おう」
「兄さん、みなさん… 」
涙が溢れて止まらなかった。69年間生きてきて初めて知った。本当の家族とは血の繋がりだけじゃない。心が通い合い、お互いを大切に思う。それこそが家族なのだと。
この数ヶ月で、私は多くのことを学んだ。血が繋がっていても心が通わなければ家族じゃない。逆に血の繋がりがなくても、心が通えば本当の家族になれる。我慢することが美徳だと思っていた。でも我慢にも限界がある。自分の尊厳を守ることは決して悪いことじゃない。どんな職業でも誇りを持って生きることが大切。そして最も大切なこと。不義理には必ず報いが来る。
息子は私を金ずるとしか見ていなかった。その報いを今、受けている。一方、43年間守ってくれた兄と組の人たちは、私の本当の家族となってくれた。
もし今これを見ているあなたが理不尽な扱いを受けているなら、覚えていてください。我慢にも限界があります。あなたの尊厳はあなた自身が守るべきものです。そして本当にあなたを大切に思う人は必ずいます。心が通い合う人こそが、本当の家族なのです。
人生は何歳からでもやり直せます。希望を捨てないでください。


