母が用事で店を離れた時、ちょうど私が一人で店番をしていた。
常連のおじいさんが一人、食事を終えてレジに向かおうとしたその瞬間、店のドアが乱暴に開かれた。
サングラスをかけた柄の悪い男が立っていた。彼は無言で店内を見渡すと、私を見てニヤリと笑った。
「おい、ここの店のババアと従業員はいるか?」
私は苛立ちを飲み込みながら答えた。
「今、二人とも外出中です。何かご用でしょうか?」
「そうか、いねえのか。ちょうどいいや。俺は中田組のヤクザ、鈴木龍也だ。今日は未払いのみかじめ料を払ってもらおうか」
私は驚いた。母からそんな話は一度も聞いたことがなかった。
「私の一存では支払えません。母がいる時にまた来てください」
「何言ってんだ。わざと誰もいない時間を狙ってきたんだよ。お前の母ちゃんも従業員も支払いを拒んでるんだ」
「それなら余計に私が勝手に払うわけにはいきません」
私が断ると、鈴木は表情を歪め、レジ横のゴミ箱を蹴り飛ばした。
「冗談じゃねえぞ。こっちは三ヶ月も待ってやってんだ。今日こそ全額払ってもらうぜ」
「暴力はやめてください」
「俺に命令できる立場だと思ってんのか?」
鈴木は脅すように迫ってくる。
「いくらなんですか?」
「みかじめ料の未払い分、三ヶ月で一千万だ」
「高すぎます!」
私が叫ぶと、鈴木は食事中の客のテーブルを蹴り上げた。食器が床に割れ、客は恐怖で顔を真っ青にしている。
「それとも、このじいさんがどうなってもいいのか?」
彼は客の肩を強引に掴んだ。客は震えながら私を見つめる。
私は唇を噛みしめ、拳を握った。
「分かりました。でも、そんな金額はここにはないので、取りに行ってきます」
「いいぜ。だが、客が大事なら逃げんなよ」
私は店を飛び出し、母に電話をかけたが繋がらない。仕方なく、店の近くにある叔父の家へ走った。
叔父に事情を説明すると、彼は力強く頷き、一千万円を用意してくれた。
「ありがとうございます。必ず返します」
私は紙袋を受け取り、店へ戻った。
鈴木は椅子にふんぞり返り、客をそばに立たせていた。私は紙袋を渡す前に言った。
「お客さんから離れてください」
鈴木は小さく舌打ちし、客を解放した。私は客の手を握り、微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ」
客が去った後、鈴木は紙袋を受け取り、中身を確認し始めた。そして椅子に座り、札束を数え始めた。
その時、店のドアが開いた。
「なんだ、これ…」
入ってきたのは、同じく週末だけこの店で働いているシジだった。彼は店内の惨状を見て、鈴木を睨みつけた。
「大丈夫でしたか?」
「ええ、私は大丈夫」
「いくら支払ったんですか?」
「一千万。母と連絡が取れなくて、叔父に借りたの」
シジは息を吐き、はっきりとした声で言った。
「お嬢、二千万を回収します」
鈴木が金を数え終え、立ち上がったその瞬間、シジが入り口を塞いだ。
「待てよ。何帰ろうとしてんだ」
「用が済んだら帰るのは当たり前だろうが」
二人は睨み合い、今にも殴り合いを始めそうな雰囲気になった。私はその隙に客を店の外へ連れ出し、頭を下げた。
「怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。お代は大丈夫ですので、このままお帰りください」
客は心配そうにしながらも帰っていった。
振り返ると、母が立っていた。
「何があったの?」
私は説明した。母はうなずき、店に入っていった。
「なるほどね。全部明かしませんか?このままじゃこいつは諦めませんよ」
シジが母に問いかける。
「諦めるだと?払わない方が悪いんだろうが」
鈴木が吠えると、母は無表情で彼を見つめ、小さく息を吐いた。
「このバカにはそれが一番だろうね。いいだろう、教えてやんな」
「何を教えるってんだよ!」
鈴木が母に飛びかかろうとした瞬間、シジがその腕を掴んだ。
「ここで俺がお前を殴ろうとしたのを止めてやったことを、後で後悔することになるぞ」
「何なんだよ!」
「俺はただの従業員じゃなくて、虎屋組の組長なんだよ」
「は?」
鈴木は目を見開いた。
「虎屋組。お前の中田組よりもはるかにでかい組織だ」
シジは名刺を取り出し、鈴木の目の前に突きつけた。
「おら、名刺だ。受け取れよ」
震えた声で鈴木が読み上げた。
「虎屋組…組長…高橋シジ…」
「そして、さっきからババアと呼んでいたこちらの方は、虎屋組の仙台組長だ」
「仙台…この定食屋の…」
「やっと分かったかい。誰に手を出そうとしていたのかを」
母が低い声で言うと、鈴木はその圧に驚き、腰を抜かして座り込んだ。
「ああ、俺はなんてことを…知らなかったんです」
「そうだろうね。さて、私たちはこれから片付けがある。さっさと出て行ってもらおうか」
母が冷たい目で見下ろすと、鈴木は驚くほど勢いよく立ち上がり、店を飛び出していった。
静まり返る店内。最初に口を開いたのはシジだった。
「どうして無事に帰らせたんですか?このままお嬢が怖い目にあったのに、一千万を持ち逃げされていいんですか?」
ママは片手を上げて言った。
「まあ、血の気が多いのは組長として褒められたもんじゃないよ」
「…すみません」
母は私に向き直った。
「さて、れ子。何があったか詳しく説明してくれるかい?」
私はうなずき、一からすべてを説明した。
「なるほどね。三ヶ月前からって言ってたけど、いつもはどうしてたの?」
「お客さんもいたし、普通にやり過ごして追い返してたね。時にはシジが拳で相手をしてやったりしてね」
「だから鈴木は喧嘩が強いと言っていたのか」
「それで仙台、これからどうするんですか?」
「もちろん、倍にして報復するに決まってるだろう」
「倍にするって…どうやって?」
「来週の週末に来れば分かるさ」
母は不敵に笑った。
一週間後、店に行くと、扉には「臨時休業中」と書かれた張り紙が貼られていた。
店内に入ると、母とシジが普段とは違い、黒いスーツを着ていた。
「二人とも、どうしたの?」
「これからヤクザとして仕事をするんだ。それらしくしないと格好がつかないだろう」
シジが電話をかけ、数分後、スーツを着た男たちが現れ、店の外には黒塗りの車が何台も停まっていた。
「それで、どこに行くの?」
「中田組の事務所だよ」
「事務所に乗り込むの?」
母は声を上げて笑った。
「円満に話し合いするだけさ。まあ、中田組の反応によっては分からないけどね」
「中田組より虎屋組の方が大きいの?」
「そうですね。組員の数も縄張りの大きさもうちの組が圧勝です」
中田組の事務所に到着すると、組員たちが慌てて出てきた。
「虎屋組の組長、高橋だ。組長に金の回収に来たと伝えろ」
組員たちはざわつき、すぐに事務所へ連絡を入れた。
「お待たせしました。どうぞ。組長がお待ちです」
私たち三人が事務所に入ると、組長らしき男がソファーに座っていた。
「お久しぶりです、高橋組長。まさか仙台までいらっしゃるとは」
母は組長を見て微笑んだ。
「あんたと最後に会った時はまだ若頭だったのに、今や組長とはね。時の流れというのは本当に早いもんだよ」
「それで、今日は金の回収で来たと言っていましたが、うちの組は身に覚えがないんですが…」
「いや、確かだ。一千万を貸して、今では利息と合わせて二千万になっている」
「二千万?何の話をしているんですか?」
組長は困惑した表情を浮かべた。
「鈴木龍也ってのが、あんたの組にはいるだろう。そいつに聞いてみな」
「ああ、鈴木龍也か…確かにうちの組員です。おい、鈴木を呼んでこい」
鈴木が部屋に入ってきた瞬間、シジと母の姿を見て顔を真っ青にし、土下座した。
「これは一体どういうことだ?」
「黙って土下座しただけじゃ分からないだろう。自分の口から組長に言いな」
母は鈴木のそばに歩み寄り、髪の毛を掴んで顔を上げさせた。
「あ、はい。その、俺はこの組に入ってから全然成果を上げられなくて…そしたら偶然みかじめ料を取ってない店があったので、徴収しに行ったんです」
組長は何かを察した様子で目を見開いた。
「その店が虎屋組の仙台がやってる定食屋だったんです」
「この野郎!あの店には手を出しちゃならねえってのは、俺たちだけでなく他の組も知ってる事実だっただろうが!」
組長が立ち上がり、鈴木を怒鳴りつけた。
「俺は知らなかったんです。ただ、腕っぷしの強い店員のせいでうまく回収できていないだけだと思ってたんです。だから、娘だけが店にいる時を狙って…」
組長は深いため息をつくと、鈴木の隣に土下座をした。
「うちの者が本当に申し訳ありませんでした」
母は腕を組み、土下座する二人を見下ろしていた。
「その様子だと、本当に鈴木一人の独断だったようだね。虎屋組としても中田組と無駄な争いはしたくない。それなら、鈴木をこの場で破門にするなら、中田組へ金の請求はしないっていうのはどうだい?貸した二千万全額を鈴木に背負わせる。悪い話じゃないだろう」
「ありがとうございます!分かりました。鈴木を今この場で破門にします!」
組長は大きな声で宣言した。
「そんな、組長!俺が破門されたらどうしたらいいんですか?金を返す当てもありませんよ!」
「決まりだね。支払いなら気にする必要はないよ。私に考えがあるからね。さて、話もついたし、店に帰ろうか。行くよ、れ子。シジ、鈴木を連れてきな」
「はい、仙台」
シジは鈴木を軽々と担ぎ上げた。
「助けてください!」
鈴木は手足をばたつかせるが、シジの力には敵わない。そのまま連れて行かれてしまった。
店に到着すると、鈴木は店内の床に放り込まれた。
「さて、金の話をする前に、まずは荒らした店の掃除をしてもらおうかね」
「あ、はい!」
鈴木は機敏に動き出し、店内を掃除し始めた。意外にも手際がよく、あっという間に店は綺麗になった。
「あ、終わりました」
「おお、なかなかやるじゃないか」
「中田組でもよく掃除させられていたので、得意なんです」
「何自慢してんだ。ここを荒らしたのはてめえだろうが」
「すみません」
シジに怒鳴られ、鈴木は肩をすくめて黙り込む。
母は小さく息を吐いて腕を組んだ。
「さて、それじゃあ本題の金の話をしようじゃないか。あんたはこれからこの店で無給で働くんだ。食事ぐらいは出してやるから安心しな」
「こんなしょぼい店で俺が働くなんて…」
「てめえ、自分の立場分かってんのか?」
シジが怒鳴りながら鈴木の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた。
「シジ、やめな」
母の鋭い声で、シジの拳がぴたりと止まった。彼は乱暴に鈴木から手を離した。
「確かにしょぼい店かもしれない。実際、そこまでの儲けもないさ。赤字の日が続いたこともあった。でもね、この店は旦那が死んでヤクザから足を洗う時に、迷惑をかけてきた人たちに少しでも償いができないかと思って始めた店なんだよ」
母は鈴木に近づき、彼の顎を掴んで睨みつけた。
「そんな店であんたは客に怖い思いをさせた。もしもこれで客や娘に暴力を振ってたら、私はあんたを海に沈めるか山に埋めるかしてただろうね。そんなに働くのが嫌なら選ばせてやる。命を差し出すか、ここで働くか」
鈴木は震えた声で答えた。
「あ、働きます…働かせてください」
「そうかい」
「仙台、俺は反対です。こんなやつ、さっさと処分する方がためになりますよ」
シジは不服そうな表情で言った。母はシジを一瞥した後、私に視線を向けた。
「れ子はどうしたい?」
「私?」
「ああ、今回の一番の被害者の一人でもあるだろう。れ子が許せないなら、こいつはやっぱりすぐ処分する」
私は俯いて少し考えてから顔を上げた。
「それなら、あの時のお客さんにちゃんと謝って許してもらえたなら、働いて返すでも私はいいと思う」
母は一瞬驚いた顔をした後、にっこりと笑った。
「なるほど。それはいい案じゃないか。早速明日にでも行くよ。いいね」
「はい!」
翌日、鈴木は菓子折りを持って客の店へ赴き、土下座して謝罪し、客から許してもらえたそうだ。
騒動から二週間後、私は実家へ向かっていた。週末の手伝いは鈴木が働くからもう来なくても大丈夫だと母に言われていたので、店に行くのは久しぶりだった。
店の扉を開けて、私は驚いた。そこには別人のように柔らかい笑顔を浮かべて働く鈴木の姿があった。
「全然違う人みたい」
「驚いただろう。鈴木は今まで人に感謝されたことがなかったらしくてね。逆に毎日『ありがとう』って言われてたら、気持ちが変化していったみたいでね。だんだん表情も行動も変わっていったんだよ」
「俺もここまで変わるとは思いませんでした。今では借金を返済し終えたら調理師の資格を取りたいって意気込んでましたよ」
「いい拾い物をしたね」
母は優しい表情で目を細め、生き生きと働く鈴木の姿を見て微笑んだ。
「もしかしたら、あの人にとってはヤクザよりも転職なのかもしれないね」
私が冗談めかして言うと、母とシジは目を瞬かせた後、吹き出しておかしそうに笑った。
私はそんな穏やかで温かい空気に包まれる店内に、これからもこうやって平和な日々が続けばいいと心から願うのだった。



