小野田が勝ち誇った顔で見下ろしながら言い放った。
「いつも俺の邪魔ばかりしやがって。そのストレスのせいで俺がミスしたんだろうが。だからお前は首だ」
俺はもう反論する気すら起きなかった。この男に何を言っても無駄だ。ただ静かに頷いた。
「わかりました。お世話になりました」
それが、建設会社で40年近く働いてきた俺、木下雪が味わった、あまりにも理不尽な最後だった。
斎藤さんとは若い頃からの付き合いだった。先輩後輩の関係で、一緒に馬鹿なことをやった時期もあった。今では一番信頼している尊敬すべき先輩だ。体格に恵まれた俺は現場の責任者として働いてきたが、初対面の人間にはいつも怖がられた。取引先も同僚も最初は近づいてこなかった。それでも真面目に仕事を続ければ、いつかは信頼してもらえる。そう思いながらやってきた。
斎藤さんが海外に転勤になった時は驚いた。社長からの評価で決まった栄転だったが、長年一緒にいた先輩と離れるのは寂しくて、つい飲みすぎてしまった。
「どうせ数年で帰ってくるんだからよ。2度と会えないってわけじゃないんだから」
斎藤さんは笑ってそう言った。
「斎藤さんが帰ってきた時に胸を張って会えるよう、俺もこっちで頑張ります」
「おう、お互い頑張ろうな」
そう言って斎藤さんは旅立っていった。
次の日から、新しい部長として小野田という男がやってきた。いわゆるエリートで、学歴も高く、建築の知識も豊富だった。期待したが、その期待は見事に裏切られた。知識はあるが現場を知らない。プライドが高く、部下に無理な仕事を押し付ける。注意しても聞く耳を持たない。そして、女性社員への嫌がらせがひどかった。特に最近入った江本ゆき子さんという女性社員が標的にされていた。
その度に俺が間に入った。
「ちょっとそういうのやめてくださいよ」
「仕事の話をしてただけだろ。何が問題あるんだよ」
江本さんの顔は明らかに引きつっていた。
「俺が見てて不愉快だって言ってるんです。やめてください」
小野田は高いところから見下すようにして言った。
「何だ? 何か言ったか? 」
俺は下を向いてため息を一つついた。
「わかったよ」と、その場を収めた。
江本さんが心配そうに言う。
「これで木下さんの方が目をつけられたりしたら…」
「いやいや、気にしないで。あんなのに目をつけられたぐらい、俺にとっては何の問題もない。怖いこともないよ」
「そうですか? 」
「ああ。前にいた斎藤さんっていう部長の方が、何倍も怖かったからね」
「そうなんですか」
俺は鬼の顔を作って見せた。江本さんはようやく笑顔を見せてくれた。
しかし、江本さんの予想通り、小野田は俺を目の敵にするようになった。
「おい木下、明日の取引先との打ち合わせ、お前行ってこいよ」
俺は面倒になってため息をついた。
「明日は他に打ち合わせが入ってるので無理です。それに、そこは小野田さんの担当でしょう」
「なんだお前、いちいち口ごえすんなよ」
俺は聞こえないように下を向いた。そしてデスクの上の分厚い資料を持って立ち上がり、小野田の元へ行く。近づくにつれ、小野田が怯え始めるのがわかる。
「明日の打ち合わせまでにこれだけの資料をまとめて見積もりも出さなきゃいけないんです。急に明日行ってこいって言われても無理ですよ」
「いや、でもよ…」
「分かっていただけますね」
少し視線を鋭くすると、小野田は折れた。
「わかったよ。本来は俺の担当だしな」
「分かっていただければそれでいいんです」
俺は自分のデスクに戻った。正直この体格を生かして威嚇すれば黙るので楽な相手だった。だが、こんなことぐらいで引き下がるなら、初めから無理に仕事なんか振らなければいいのにと思う。
そんな日々が続いた。江本さんへの嫌がらせ、俺への無理な仕事。その度に俺は間に入って防いできた。小野田の俺に対する苛立ちは、日々募っていった。
ある日、ついにそれが爆発した。その日も小野田は江本さんに絡んでいた。俺がトイレに行っている間に、食事に誘っていたようだ。
「食事に行くだけだよ。何をそんなに嫌がってるの?

」
「いや、でも…」
「むしろ変なことを考えてるのは江本さんの方なんじゃない? だから嫌がるんでしょ」
そこに俺が戻ってきた。
「小野田さん」
胸を張って腕を組み、小野田の後ろに立って言う。振り返った小野田を鋭い視線で見下ろした。
「そういうのやめてくださいと何度も伝えてますよね。同じことを繰り返し言わせないでもらえますか? 」
この言い方が、小野田のプライドを傷つけたのかもしれない。小野田はついに爆発した。
「お前何なんだよ! いっつも俺の邪魔ばっかりしやがって!
」
「江本さんの仕事の邪魔をしてるのは小野田さんの方でしょ。小野田さんがこういうことをやめてくれれば、俺だってこんなことせずに済むんですから」
「うるさいうるさい! お前、いつか必ず痛い目見せてやるからな! 」
そう言って小野田はその場を去っていった。アニメでしか聞かないような捨て台詞に、思わず笑ってしまった。
江本さんが言う。
「いつもありがとうございます」
「うん。江本さんもいい加減うんざりでしょ」
「はい。でも最近は木下さんが助けてくれるって信じてるので、大丈夫です」
「そうならいいんだけど」
そう話す俺たちの横を通って、小野田は会社の外へと出ていった。
「どこ行くんだ、あいつ? 」
「取引先だと思います。今日打ち合わせがあるって言ってたので」
「打ち合わせ前にあんなことすんなよ」
江本さんも「本当ですね」と笑っていた。
しかし、その後、笑っていられないことが起こってしまう。しばらくして会社に電話がかかってきた。小野田がいないため、俺が代わりに電話を取る。小野田が打ち合わせに行った会社からだった。相手は電話口でいきなり怒鳴ってきた。
小野田が大きなミスを犯したのだ。打ち合わせに、別の会社に持っていくはずの見積もり書を持っていってしまった。しかもその見積もり書には、その会社に提出するものよりいい条件が書かれていたのだ。この取引先は何度も取引のある大事なお得意様だった。ここから契約を切られたら、会社は大損害を受ける。
俺は電話口で何度も謝罪した。何度も謝罪をしたことで、後日改めて謝罪に行き、打ち合わせをしてもらえることになった。まだ許されたわけではないが、チャンスは残っている。少し安心して電話を切る。江本さんが心配そうに聞いてきた。
「大丈夫ですか?
」
「なんとか…。しっかし、小野田がやってくれたな」
その後、小野田が帰ってきたら詳しく話を聞こうと思っていたが、その日、小野田は会社に帰ってくることはなかった。嫌な予感を抱えたまま、木に着いた。
そして次の日。出社して江本さんと挨拶をかわす。しかし、俺を見る顔が心配そうだった。
「何かあった? 」
「実は…」
その時、小野田が俺を呼んだ。
「おい、木下、今取り込み中です」
「…行った方がいいと思います」
江本さんにそう言われ、俺は不思議に思いながらも小野田の元へ向かった。
「何でしょうか? 」
小野田はなぜかニヤニヤと笑って、俺を見上げている。
「お前、やってくれたな」
「何のことですか? 」
「お前俺に、間違った見積もり書持たせただろう。そのせいで、お得意様の取引先を失うところだったんだぞ。お前には相当なペナルティが必要だな」
「ちょ、ちょっと待ってください。間違えた見積もりを持っていったのは、小野田さんですよね」
「でもお前、向こうに謝罪したんだろ。ってことは、自分のミスだって認めたってことだろうが」
「それは会社のために、小野田さんの代わりに謝罪をしただけです」
信じられなかった。この男は自分のミスを、代わりに謝罪した部下に謝るどころか、そのミスの責任をなすりつけようとしている。
「俺があの見積もり書を作成したわけでも、小野田さんに見積もり書を渡したわけでもないので、俺は関係ないでしょう」
「うるさい!
いつも俺にストレスを与えてるのは誰だ? いっつも俺の邪魔ばっかりしやがって。そのせいで俺のストレスが溜まって、見積もり書間違えたんだ。これはお前のせいなんだよ! 」
この男の言っていることの意味がわからず、言葉を失った。こいつは一体何を言っているのだろう。
「というわけでお前は、付きで首な」
小野田が当然のことのように言う。
「当たり前だろ。大事な取引先を失いかねなかったんだから。何らかのペナルティを与えないと示しがつかないからな。というわけで首だ。今までご苦労さん」
小野田は勝ち誇ったような顔で、そう言い捨てた。その顔を見ていたら、こいつに反論するのも馬鹿らしく思えた。俺は言い返すのをやめた。
「わかりました。今までお世話になりました」
頭を下げて自分のデスクに戻る。手早く退職届を書き、それを小野田に提出した。返事を待たずに、自分のデスクに戻って荷物をまとめ始めた。
江本さんが駆け寄ってきた。
「すみません。私のせいで…」
「江本さんは何も悪くないよ。気にしないで。それより、連絡先交換しておこう」
「え? 」
「俺がいなくなった後、もし小野田に何かされたら、すぐに連絡して。きっと少しは抑止力になると思うから」
「ありがとうございます」
「うん。じゃあね」
荷物をまとめて、会社を出た。
それから1週間が経ったある日、会社から電話がかかってきた。また小野田が江本さんに何かしたのかと思い、電話を取る。
「もしもし」
「もしもし。木下か」
電話をかけてきたのは、小野田だった。
「何だよ」
「なんだよ。上司に向かって」
「お前が俺を首にしたんだろうが。もう会社の人間じゃないんだから、上司も部下もないよ。何か用かよ」
「まあいいか。お前さ、会社戻ってこい」
こないだ首にしたと思ったら、今度は戻ってこいと言い出した。あまりにも自分勝手な振る舞いに、腹が立った。
「は?
何、都合のいいこと言ってんだよ」
「まあまあ聞けよ。お前を首にしたことを取引先に伝えたらよ、逆に怒らせちまったんだよな」
話を聞くと、小野田はあの後、取引先に俺を首にしたことを伝えたらしい。しかし、取引先は上司のミスを誠心誠意謝った俺をしっかりした社員だと評価してくれていたようで、その俺を首にした小野田に対し、契約の停止を言い渡したということだった。
「あのミスは不問にしてやるからよ。戻ってこいよな」
小野田は恩着せがましくそう言う。だが、あの取引先を失ったら、会社の存続が危うくなるほどの大損害を受ける。そうなったら小野田は首になるだろう。それを避けたいがためだけに、俺に戻ってこいと言っているのは明らかだった。どこまでも自分勝手なやつだ。
「お断りします」
俺はきっぱりと拒否した。
「まあまあ、ちょっと待てよ」
そう言うと、小野田は誰かに電話を変わったようだった。
「木下さんですか? お話聞きましたか? 」
電話に出たのは江本さんだった。
「大丈夫ですか? 何かされてませんか?
連絡先を頂いたのを見て、そっちの方は大丈夫なんです。ただ…会社が今大変で、なんとか助けていただけませんか? 」
江本さんにそう言われたら、断りづらかった。小野田にうまくやられた感じは腹が立つが、とにかく会社に向かうことにした。
「わかりました。会社に戻るかどうかはともかく、とりあえずそっちに向かいます」
「本当ですか? ありがとうございます」
電話を切り、会社に向かった。
会社に着くと、思った以上に大変な状況になっていた。あの取引先から契約を切られたと噂になった会社には、他のいろんな会社から問い合わせやクレームがたくさん来ていて、社員たちはそれに追われて仕事どころではなかった。江本さんが話すそばから電話が鳴り、対応にあたる。
そこへ小野田が近づいてきた。
「おお、木下、来てくれたか? 見ての通りのこのあり様だ。お前が戻ってくれたら、みんなも俺も助かるからよ」
「まだ…」
小野田がみんなのためより、自分が助かりたい一心だろうことは見え見えだった。
「戻ってきたら、今までよりもいい役職にあげてやるからよ」
こんな風に、むしろ俺を助けてやるよというような上から目線のもの言い方をされ、俺は呆れてしまった。
「あんた、いつまでそんな上から目線のもの言いを…」
そう言った時、小野田の表情が変わり、顔が青ざめ始めた。視線は俺の肩越しに向いている。何かあったのかと振り返ると、そこには鬼のような顔をして仁王立ちする斎藤さんがいた。
「斎藤さん…」
「おい、なんだこのあり様は」
冷静なその声から、斎藤さんが怒っているのを肌で感じる。
「違うんです。これは…」
小野田が説明しようとするが、斎藤さんがそれを止めた。
「木下、お前が説明しろ」
「いや、俺はもうここの社員じゃないので」
「なんだ?
どういうことだ? 」
俺が首になったこと、あの取引先に契約の停止を告げられたこと、全て斎藤さんに説明した。
「お前、そんな理由で木下を首にしたのか? 」
「いや、それは木下に責任があって…」
「言い訳するな」
なおも言い訳を続けようとする小野田を、斎藤さんは一括した。
「仕方ない。俺がなんとかする。木下、手伝え」
「でも、俺はもう首に…」
「復帰だ。さっさと手伝え。それから小野田。お前は降格だ。木下のサポートに入れ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「うるさい。俺はもうここの社長だ。社長として、ここをまとめるために戻ってきたんだ。今からお前は木下の部下だ。さっさと手伝え」
そこにいた全員が、斎藤さんの口から出た「社長になった」という言葉に驚いた。しかし、そのことに触れている時間はなく、みんな元の作業にすぐ戻った。小野田は渋々俺のサポートに入った。
斎藤さんの采配もあり、その場はなんとか収まった。後日、取引先に俺が斎藤社長と共に謝罪に行き、なんとか許しを得た。契約を停止されることもなく、会社の経営の危機をなんとか乗り切ったのだった。
江本さんが言う。
「新しく社長になった人、すごいですね」
「うん。あの人、かなりやり手だから。今回社長になったのも、海外で相当な成果を上げたからなんだってさ」
「それもそうなんですけど…小野田さんよりも何倍も怖いです」
俺は思わず笑ってしまった。
「でしょ。でも卑怯なこととか、ぶれないことをしなければ、理不尽に怒る人じゃないから。江本さんは大丈夫だよ」
「はい」
「それと、木下さんが戻ってきてくれてよかったです」
「うん。これからもよろしくね」
「はい。こちらこそ」
そうして俺たちは、斎藤社長のもと、新体制で頑張ることになった。
小野田は降格し、平社員からの再スタートとなったが、一番下っ端というのがプライドを許さなかったようで、いつの間にか自主退職していた。噂で聞いたところによると、そのプライドが邪魔をして就職もうまくいかず、ようやく入れた会社でも問題を起こして、結局首になったとのこと。今は貯金を切り崩しながら、ギリギリまで節約する寂しい生活をしているらしい。結局、自分の都合ばかり考えて周りを振り回していると、周りから誰もいなくなってしまうのだ。
俺は、ずっと世話になっている社長にも、慕ってくれる江本さんたち部下にも、感謝を忘れずに頑張っていこうと思っている。


