血が滲む指先で、それでも彼女は便器を磨き続けた。66歳の草壁より子にとって、それが生きるということの意味になっていた。役所から届いた1枚の黄色い封筒が、彼女の人生を根底からひっくり返そうとしていた。
大阪の寂れた商店街の裏手にある、一泊3800円のビジネスホテル。より子は午前9時前にそこにいた。制服に着替え、業務用エレベーターで客室階へ上がる。冷房のない廊下は、夏の暑さでじっとりとしていた。
「1部屋15分。14部屋」。前の担当者が辞めてから、割り当てが2部屋増えていた。店長の田中に訴えても、「慣れたら行けますよ」と笑って流された。
307号室のドアを開けると、タバコと湿気の匂いが顔に被さった。シーツを剥がし、トイレの便器にスポンジを押し込んだ瞬間、左手の中指の付け根のひび割れから血が滲んだ。手の甲から指先にかけて、肌は常にひび割れていた。医者からは「失進」だと言われたが、処方された軟膏は1本1800円で、1週間でなくなる。仕事の休みの日だけ塗るようにしていたから、いつも中途半端な状態だった。
痛みには慣れていた。慣れるしか選択肢がなかった。
午後5時、勤務が終わると、より子はスーパーへ向かった。半額シールが貼られる瞬間を待つためだ。駅から1つ離れた店を選んでいるのは、近所の誰かに見られたくなかったからだ。
サバの塩焼き弁当が2つ残っていた。元値420円が半額の210円。それをエコバッグに入れた。他のものは見なかった。欲しくなっても買えないと分かっているなら、見ない方がいい。それが習慣になっていた。
自宅の団地は、昭和40年代に建てられた古い公営住宅だった。エレベーターはよく止まる。今日は動いていたが、より子は階段を選んだ。エレベーターの中で誰かと鉢合わせたくなかった。
玄関で音を立てないように靴を脱ぐ。これは毎日の習慣だった。廊下の突き当たりに、息子の深夜の部屋がある。ドアの隙間という隙間に黒いガムテープが貼られ、光と音が漏れないようにしていた。
深夜は今年で40歳になる。8年前、会社のリストラで職を失った。再就職活動もむなしく、「スキルの幅が狭すぎます」と20代の面接官に言われた日から、部屋に引きこもった。最初の1年はいつか出てくるだろうと思った。2年目はもう少し待てばと思った。8年が経った。
より子はキッチンで弁当を温め、お盆に湯呑みと割り箸を並べ、深夜の部屋の前に置いた。ドアを2回、指の関節でそっと叩く。3分待つ。ドアが5センチほど開き、日に当たらない白い手が伸びてきて、お盆を静かに引き込んだ。ドアが閉まる。
より子の夕食は、醤油を垂らした白米と薄い麦茶だけだった。サバは明日のために残しておく。テレビはつけない。音を立てると深夜が嫌がることがあった。
風呂に入り、ドライヤーで髪を乾かす。鏡に映った白髪が目に入る。美容院に行く金はない。自分で染めることも考えたが、市販の白髪染めも1000円以上する。
布団に入り、天井の染みを見ながら100円ショップで買った目薬をさす。乾燥した目に液体が染みる。廊下から微かな物音がした。深夜が動いている。より子は息を止めて天井を見続けた。音はやがて消えた。
翌朝、急いでいたより子は郵便受けを確認し忘れていた。翌々日、仕事に行く前に郵便受けを開けると、中に黄色い封筒が入っていた。差出人は大阪市淀川区役所。役所からの封筒は大抵いいことが書いてない。仕事に遅れるわけにはいかないので、封筒をエコバッグに入れて出勤した。
その日の清掃中、より子は2度、封筒のことを思い出した。でも考えないようにして手を動かし続けた。
帰宅後、部屋に戻るより先に封筒を開けた。中には書類が2枚入っていた。より子は廊下に立ったまま読み始めた。最初の数行で、胸の中に冷たいものが広がるのを感じた。
「お住まいの団地は建物の老朽化が著しく、来年2027年4月を持って取り壊しが決定しました。現在居住している全世帯はそれまでに退去する必要があります。住み替えを希望する方は、市営住宅への入居を申請できます。ただし、世帯全員の住民票、所得証明書、そして現在の居住実態を確認する書類の提出が条件となります」
世帯員全員。深夜のことだ。深夜はこの住所に住民票がある。収入はゼロ。仕事にも就いていない。外にも出ていない。それをどう説明するのか。40歳の男が8年間一切働かず、年老いた母親の稼ぎで生活している。その事実を役所の窓口で書類として提出する。
より子は右手の親指で左の手のひを擦り始めた。失進の皮膚が引っかかる感触がある。
深夜に見せなければならない。この話は2人に関わることだ。より子は封筒を持って廊下を歩き、深夜の部屋のドアの前に立った。ドアを2回叩いた。返事はなかった。もう1度、今度は少し強く3回叩いた。室内で微かな物音がした。より子は低い声で話しかけた。
「区役所から手紙が来た。引っ越しのことで、深夜にも関係があることだから、少し聞いてほしい」
声が少しかれた。室内が静かになった。それから、より子が思っていたより早くドアが内側から開いた。深夜が立っていた。8年で姿は随分変わっていた。頬がこけ、目の下に隈ができ、髪は肩まで伸びていた。Tシャツは首元が伸び、視線は定まらず、何かをひどく怖がっているようだった。
より子は封筒を差し出した。「区役所から来た。団地が壊されることになった。来年の4月までに出ていかないといけない。2人で役所に行って手続きをしないといけない」
深夜は封筒を受け取ったが、より子の顔を見なかった。書類を読み始め、ある部分で手が止まった。「世帯員全員の申告」の部分だった。深夜の呼吸が変わった。鼻から息を吸う音が急に速くなった。
「大丈夫だから、一緒に行けばいい。難しくないから」とより子が言おうとした、その時だった。深夜が書類を両手で掴み、丸めるようにして、そのままより子の方に向かって投げつけた。紙の塊が胸に当たって床に落ちた。同時に、深夜が声を上げた。言葉ではなかった。「うわあ」という、喉の奥から絞り出すような、動物が罠にかかった時のような声だった。
より子は後ずさった。ドアが閉まり、鍵がかかる音がした。廊下に一人残された。床に落ちた書類を拾い上げると、シワだらけになっていた。より子は壁に背中を預けながら、ゆっくりとその場に座り込んだ。涙が出た。音を立てずに出た。隣の部屋に聞こえないように、下の階に聞こえないように、泣き声を出さないようにすることは、いつの間にか身についていた。
封筒の中には申請の締め切り日が書かれていた。11月30日。4ヶ月あった。4ヶ月で何をどうすればいいのか。より子は暗がりの中で、しばらく動けなかった。
次の日から、より子は3日間眠れない夜を過ごした。書類には世帯全員の収入を申告せよとある。深夜を申告すれば、40歳で無収入の息子がいることが記録に残る。区の担当者にどこまで話すべきか、何を隠すべきか。どう話せば追い返されずに済むか。
4日目の朝、より子は職場の店長・田中に、役所に行くための1時間の早退を願い出た。「まあ、10時には戻ってきてくださいよ」と田中は言った。
区役所の窓口に担当として現れたのは、村瀬と名乗る30代前半の男だった。白いカッターシャツの袖をきっちりまくり、髪は短く整えていた。笑顔を作るのが習慣になりすぎていて、その笑顔は顔の表面に張り付いたまま、中身と切り離されているように見えた。
より子が書類を出すと、村瀬は「お連れの方はご一緒ですか?」と聞いた。「今日は1人で来ました」とより子が答えると、村瀬は書類の中ほどを指で示した。
「こちらに同居されているご家族のお名前がありますね。草壁深夜さん、40歳。この方についても確認が必要になります」
より子は咄嗟に「息子は今、仕事の都合で遠方に出ていまして」と言った。喉の奥で言葉が詰まる感じがした。嘘をつくのは初めてではなかったが、窓口という場所で紙の書類を前にすると、嘘の輪郭がいつもより鮮明になる気がした。
村瀬の笑顔は変わらなかった。「そうですか」と言いながら書類に何かメモした。それから、申請の際には本人に直接来てもらうか、難しい場合は医療機関の診断書などが必要だと説明した。
「病気やご事情のある方については、それを証明する書類があれば大抵として受け付けることができます。ただし、書類なしでの申請は受理できません。申し訳ございません」
「申し訳ございません」という言葉が流れるように出てきた。声のトーンは下がりもしなかった。より子は、書類なしではどうなるのかと聞いた。村瀬は丁寧に言い直した。
「同居のご家族が確認できない場合、世帯全体での申請として処理することができません。その場合、お1人でのお申し込みとなりますが、空き状況や優先度の関係で案内できるお部屋が変わってまいります。また、期日内に書類が揃わなければ、今回の斡旋対象から外れることになります。自力で民間の賃貸を探していただくことになりますね」
「次の方どうぞ」。村瀬はより子の後ろに向かって声をかけた。より子は書類を封筒に戻し、椅子から立ち上がった。
区役所を出て、外の光の中に立った。しばらく動けなかった。深夜の診断書。病院にも行っていない。精神科にも行っていない。より子が何度か受診を進めたが、深夜は首を縦に振らなかった。病院に行けないから引きこもっているのか、引きこもっているから病院に行けないのか。
コンビニのベンチに座り、120円の緑茶を買った。飲みながら目薬をさした。深夜を病院に連れていく。それが一番確実な方法だ。でも深夜は外に出ない。ドアを開けない。無理やり連れ出そうとした時、何が起きるか想像するだけで胸が締め付けられた。
その翌週、より子は職場で花瓶を床に落として割ってしまった。失進で皮膚が弱くなっている手が震えていたのだ。田中は床の破片を見てから、より子を見た。「まあまあ落ち着いて」と言ったが、声に苛立ちが混じっていた。
「最近ちょっと集中力が落ちてますよね。先週の忘れ物の件もあったし」
より子は何も言えなかった。田中は吐き出したように言った。「正直に言いますけど、うちも余裕がないんで。来月から週3にさせてください。体のこともあるだろうし」
体のこともあるだろうし。その言葉の中に、66歳という年齢が入っていた。より子は「分かりました。ありがとうございます」と言った。感謝する理由はなかったが、反射的にそう言った。
週3になれば、月収はおよそ4万5000円。家賃と光熱費を払えば、食費に当てられる金は1万円を切る。
帰り道、より子はコンビニで履歴書の用紙を1枚買った。210円。夕食は豆腐の味噌汁と白米だけだった。
食事を終えてから、より子は履歴書の用紙を広げた。深夜に書いて欲しいわけではなかった。何か手がかりになるものを渡したかった。形のあるものを渡すことで、現実として伝わることもあるかもしれない。深夜の部屋の前に行き、ドアの下の隙間から差し込もうとしたが、ガムテープに阻まれて入らなかった。より子は代わりにドアの前の床に置いた。
「深夜、仕事のことで相談したいことがある。役所の手続きのことで困っていることがある。お母さん1人ではどうにもならなくなってきた。お母さんのことは気にしなくていいから、ただ1度だけでいいから、お医者さんに行くだけでいい。それだけでいい」
室内は静かだった。しばらく待つと、ドアの向こうで何かが動く気配があった。それから、何かが投げられる音。壁か床かに当たる鈍い音。次の瞬間、床に置いてあった履歴書用紙と求人情報誌が、ドアの下の隙間から外に押し出されてきた。返事はなかった。声もなかった。
より子はシワのついた用紙を手に取り、台所に戻った。シフトが週3になった。区役所の窓口に跳ね返された。深夜は応じない。この3つが頭の中で並んだ時、より子はしばらくテーブルの木目を眺めていた。
翌日、団地のエントランスで自治会の塚本に呼び止められた。72歳の塚本は、最近ゴミ捨てのルールが守られていないという。深夜に誰かがこっそり捨てに来ているようで、管理組合に苦情が入っているというのだ。それから、声を低くして言った。
「4階の奥の部屋じゃないかという話があってね。深夜に男の影が見えたという人もいてね。うちの棟はお年寄りだけだから、若い人が夜中に動いてたら目立つじゃないですか。気になってね」
より子の背中に冷たいものが走った。深夜だ。深夜が夜中にゴミを出している。より子は何度も謝った。「私の方でよく確認いたします。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした」
部屋に入って鍵をかけると、廊下の壁に背中を持たせかけた。外から見られているという感覚が肌に張りつくようだった。深夜がいることを知られてはいけない。でも深夜は夜中にゴミを出している。区役所では書類を要求された。シフトは減らされた。どこから手を付けていいのか分からなかった。
6月に入った。週3のシフトで最初の給与を受け取った。手取りは4万3200円。家賃が2万3000円。光熱費を合わせると、食費に使える金は6000円を切った。より子は給与明細を財布の内側に入れ、その日は半額の弁当を買って帰った。
夜、より子は役所からの封筒を出した。締め切りまでの日数を数える。120日を切っていた。封筒の裏に、家賃の見込み、貯金残高、引っ越しの概算を鉛筆で書き出した。数字が見たくなくなった。でも消さなかった。見ておかなければならないものだと思った。
考えていくうちに、1つのことが頭の中で固まり始めた。決して綺麗な考えではなかった。でも他に道がなかった。区役所に自分は独居だと申告する。深夜は別の場所に住んでいることにすれば、高齢者の独居世帯として市営住宅への入居を申請できる。入居が決まってから深夜を連れてきて一緒に住む。自分でもそれが正しくないことは分かっていた。でも、正しいかどうかを考えていたら、3月には路頭に迷う。
より子は実行に移すことにした。まず、深夜がここに住んでいるという証拠になりかねないものを部屋から排除する必要があった。男性の靴が玄関にある。男性の傘がドアの脇に立てかけてある。それだけで十分すぎるほどの痕跡だった。
深夜に声をかけた。「深夜、玄関の靴を片付けたい。少しだけいいか」。返事はなかった。でも大きな音もしなかった。より子は玄関に出て、深夜の靴と傘を手に取り、黒いゴミ袋に入れた。それを押し入れの中に入れた。捨てるのは、誰も見ていない時間帯にしよう。午前3時を回ったら、ゴミ捨て場に持っていこう。燃えないゴミの日ではなかったので、他のゴミ袋の後ろに押し込み、上から新聞紙を乗せた。翌々日、自分の袋が収集車に持って行かれるのを確認した。靴と傘がこの世界から消えた。
より子は昼食を抜くことが増えた。朝に白米を少し食べただけで、夕方まで水だけで過ごした。職場では参考書を読んでいるふりをした。食べていないと分かると、心配されるか面倒なことになるかのどちらかだった。
その週の金曜日、より子は再び区役所に行った。今日の担当は村瀬ではなく、小柄な女性で黒縁の眼鏡をかけた西岡だった。より子は、息子は数ヶ月前から別の市に仕事の都合で移っており、住民票はまだ移してもらっていないが、実態としては自分1人で暮らしているのだと話した。声が少し震えた。
西岡は「住民票は同居となっていますが」と言った。「実態と異なる場合は、住民票の移動手続きをしていただく必要があります。息子さん本人から転出届を出してもらうか、こちら側で職権移動の手続きを取ることもできますが、そのためにはいくつか確認が必要です」
職権移動という言葉が耳に刺さった。それはどういう手続きかと聞くと、西岡は淡々と説明した。
「住民票の実態を調査した上で、実際にその住所に居住していないと確認できた場合に、行政側から住民票を移す手続きです。調査が入ることになりますので、ご自宅に担当者が確認に来ることになります」
確認に来る。より子の胃が収縮するような感覚があった。「いえ、それは大丈夫です。息子は遠くにいるので、本人から手続きをするように言います」と言って頭を下げた。
区役所を出て、外の空気を吸った。蒸し暑かった。役所の玄関の外にあるベンチに腰を下ろし、目薬をさした。「確認に来る」という言葉がまだ頭の中に残っていた。深夜が部屋にいる。もし行政の人間が来た時、深夜の気配が伝わったら全てが終わる。住民票の虚偽申告として処理されれば、市営住宅の申請どころか問題がより複雑になる。でも申告しなければ申請が通らない。どこに出口があるのか見えなかった。
月曜日の朝、より子がベランダで洗濯物を干していると、1階の方から声が聞こえた。下を見ると、水色のジャンパーを着た人間がバインダーを持って、団地のエントランスの前に立っていた。隣には塚本がいた。何か話しながら、手でこの団地の建物を差し示している。水色のジャンパーには「福祉事務所」と小さく印刷されていた。塚本が上の方を指した。4階の方向だった。
より子の手から洗濯バサミが落ちた。ベランダの格子の隙間から下に落ちていった。音はほとんどしなかった。より子はすぐに洗濯物をそのままにして室内に入り、ベランダの戸を閉めた。どのくらいで上がってくるか分からない。早ければ5分もしないうちにチャイムが鳴る。
より子は廊下に出て、深夜の部屋のドアの前に立った。「深夜、役所の人が来るかもしれない。しばらく静かにしていてほしい。何があっても声を出さないで欲しい」。室内が少し動く気配があった。それだけでは足りなかった。より子はドアの取っ手に手を当てた。開いた。深夜は鍵をかけていなかった。部屋の中に入るのは8年ぶりに近かった。
カーテンが締め切られ、薄暗い6畳の和室は、段ボールと衣類と雑誌が山積みになっていた。押し入れの前に布団が敷きっぱなしになっていた。深夜は布団の端に座っていた。より子の顔を見た瞬間、大きく目を見開いた。驚きと怯えが入り混じった表情だった。
より子は両手を前に出し、「怒っていない。大丈夫だ」というように示した。「役所の人が来るかもしれない。それだけ。とにかく静かにしてほしい。お母さんが外で対応するから、中にいてくれるだけでいい」
深夜の目が泳ぎ、呼吸が少し荒くなった。より子はその変化を見ながら、これ以上何かを刺激しないことを祈った。深夜は何も言わなかった。でもまた座った。より子はドアを静かに閉め、廊下に出て背中をつけて立った。その時、玄関のチャイムが鳴った。
より子は数秒その場で息を止めた。チャイムがもう1度鳴った。ドアスコープから外を見ると、水色のジャンパーの人間が立っていた。より子はドア越しに声を出した。
「どちら様ですか」
「淀川区福祉事務所の者です。住宅移転に伴う居住実態の確認で伺いました」
より子は1拍置いて答えた。「申し訳ありません。今日は体調が優れなくて、服もちゃんと来ておりません。1人暮らしですので、ご心配をおかけして申し訳ないのですが、書類はご連絡いただければ郵便で送ることもできますでしょうか? 体が回復しましたら、必ず窓口に伺います」
外の人間がバインダーに何かを書く音がした。「では、ポストにご案内の書類を入れておきます。またご連絡ください」。足音が廊下を離れていき、エレベーターのドアが閉まる音がした。静かになった。
より子はドアを背に、ずるずると座り込んだ。肩が小刻みに揺れた。声は出さなかった。今日も声は出せなかった。右手の親指が左の手のひをこすっていた。失進の皮膚がヒリヒリした。それよりも強い感覚が今体の中にあって、手のひらの痛みは遠くに感じられた。
しばらくして、より子は立ち上がり、台所に行って水を飲んだ。郵便受けに書類が入っていることを思い出した。後で取りに行かなければならない。今日の夕食は何にするか考えた。冷蔵庫にキャベツの残りと卵が2個ある。キャベツを千切りにして、玉子と一緒に炒めた。深夜の分を先に取り分け、お盆に乗せて廊下に置いた。
今夜、深夜が部屋の中で静かにしていてくれたこと。より子はそれにどう感謝すればいいか分からなかった。言葉にすれば何かが崩れる気がした。だから何も言わなかった。
7月に入っても梅雨は開けなかった。より子は週3のシフトで働き続けた。体が重く、目が乾いた。手の失進も悪化していた。区役所への申請は宙ぶらりんのまま。深夜の診断書は取れていない。住民票は動いていない。締め切りだけが近づいていた。
7月の第2週、より子は仕事でミスを続けた。マスターキーを客室に置き忘れたのだ。フロントに連絡して開けてもらい、ベッドの上に落ちていたのを見つけた。田中が事務所に呼んだ。
「最近ミスが続いていますよね。花瓶のこと、忘れ物の対応のこと、今日の鍵のこと。1つ1つは小さいことだけど、積み重なると信頼の問題になる。特に鍵はお客様の安全に直結するものだから」
より子は「分かっています。気を付けます」と言った。田中は少し間を置いてから言った。「申し訳ないんですが、今月いっぱいで契約を終了させてほしい」
交渉の余地がないと分かる声だった。より子は何も言えなかった。事務所を出て、制服を脱ぎ、ロッカーの鍵を返した。ホテルの外に出て、商店街を歩いた。午後の光が斜めに差していた。より子は何も考えないようにした。考え始めると数字が頭の中に並ぶ。来月から収入が0になる。年金が6万5000円入る。家賃と光熱費を払うと残りが3万円を切る。食費と深夜の分とその他の出費を3万円以内に収める。収まらない。
コンビニの前を通った時、より子は立ち止まった。中に入って100円のコーヒーを買おうと思ったが、手が止まった。100円が惜しいのではなかった。ただ、何かを口に入れる気になれなかった。ベンチに腰を下ろし、目薬をさした。空を見上げると、灰色の雲が均一に広がっていて、どこに太陽があるか分からなかった。
団地に戻り、郵便受けを確認すると、電気代の請求書が入っていた。先月より高かった。深夜がエアコンをつけているのだろう。赤い「延滞予告」の印が押されていた。先月分の支払いが遅れていたらしい。
より子はコンビニに行き、電気代を払った。残金は1万円を切った。帰り道、メロンパンを1個買って半分だけ食べ、残りは深夜のために袋に包んで廊下に置いておいた。
翌朝、より子は5時半に目が覚めた。今日はシフトがない日だった。だが眠れなかった。求人誌を買いに行く。新しい仕事を探す。そのためには履歴書も必要だ。動かないといけない。
9時になって、より子は深夜の部屋のドアに向かった。封筒を3通持っていた。電気代の領収書と今月の家賃の明細と区役所から届いた住宅申請の最終案内の書類だった。束ねてドアを2回ノックした。返事はなかった。
「今月、お母さんが仕事をやめることになった。来月からは年金しか入らない。電気代と家賃を払うと、ほとんど残らない。区役所の申請は期限が来月に迫っている。お母さんはどうしたらいいか分からない。深夜、お母さんに何かできることがあるなら、一緒に考えてほしい。1つだけでいい。病院に1回だけ行ってくれるだけでいい。それだけで申請が通るかもしれない」
声が途中でかれた。室内は静かだった。
「深夜が1人でできることが1つでもあれば、それでいい。買い物でも、ハローワークに行くだけでもいい。お母さんがそばにいる。1人じゃない。だからお願いしたい」
室内で何かが動く音がした。それから止まった。返事はなかった。より子は封筒をドアの前の床に置いて、台所に戻った。
3日が経った。より子は近くのスーパーやドラッグストアで求人チラシを確認した。清掃の仕事は2件あったが、どちらも週5のフルタイムで65歳以下が条件だった。他には調理師免許が必要だった。図書館で求人誌を見て、いくつか書き留めて帰宅した。
その夜、より子は深夜の部屋の前に座って、1時間声をかけ続けた。「ハローワークに行けば相談員がいる。何もできなくていい。行くだけでいい。お母さんが隣にいる。電車は1本で行ける。15分だ」。室内から何の反応もなかった。
より子は廊下の床に背をつけて座り、膝を抱えた。目薬をさしながら天井の染みを見た。もう残された選択肢が1つしか思いつかなかった。それが正しいかどうかは分からなかった。ただ、他に何もなかった。
翌朝、より子は早く起きた。コンビニで食パンを一袋と缶コーヒーを1本買った。食パンは深夜の分だった。缶コーヒーは自分のものだったが、飲む気になれず、少し公開した。130円があれば卵が買えた。
部屋に戻って、食パンと電気代の請求書の控えと区役所の申請書類を深夜の部屋の前に置いた。より子はドアの前に立って話し始めた。声は平らだった。
「お母さん、仕事なくなった。3日後に電気が止まる。お金もほとんどない。深夜が外に起きて、お母さんと一緒にハローワークに行ってくれるなら行く。それが無理なら、お母さんにはもう何もすることもできない」
最後の言葉は声にするつもりではなかった。でも出てきた。室内はしばらく静かだった。それから、布団の擦れる音がした。立ち上がる音がした。ドアが開いた。
深夜が立っていた。黒い古いスーツを着ていた。襟の辺りが少し白く粉を吹いていた。袖口が短く、手首が出ていた。10年前に買ったものが今の体に合っていなかった。全身から締め切った部屋の匂いがした。深夜の目はより子を見ていなかった。床の一点を見ていた。
より子は何も言わなかった。ただ靴を履いた。エコバッグを持った。ドアを開けた。深夜が後ろからついてきた。廊下に出た時、より子はちらりと横を向いた。深夜の顔が外気に触れている。それだけのことがより子の胸に何かを起こした。でも立ち止まらなかった。立ち止まると崩れる気がした。
階段を降りた。深夜がゆっくりついてくる。足音がより子の一歩後ろにある。8年ぶりに聞く深夜の靴音だった。
団地のエントランスを出ると、外の光と熱が体に当たった。梅雨はまだ開けていなかったが、その日は雲が薄く、白い光が広がっていた。深夜が外に出た瞬間、足が1度止まった。より子は振り返らなかった。先を歩いた。少しして、また足音が聞こえた。ついてきていた。
商店街を歩く時、人とすれ違うたびに深夜の足音が変わった。少し早くなったり、一瞬止まったりした。より子は歩き続けた。
駅の入り口が見えてきた。コンコースには人がいた。案内放送が流れていた。深夜の足音は、コンコースに入った瞬間からゆっくりになった。より子は自動改札の前に立ち、ICカードを出した。深夜名義のカードはより子が持っていた。振り返った時、深夜はコンコースの入り口から3mほどのところに立っていた。動いていなかった。
より子は深夜の方に戻った。「深夜」。小さく呼んだ。深夜の顔は、どこにも焦点が定まっていなかった。口が少し開き、額に汗が浮いていた。その時、制服姿の駅員が通り過ぎた。瞬間、深夜の体がびくっと動いた。
より子はそばに立ち、「大丈夫。ここにいるから」と言った。深夜の呼吸が速くなり、胸が上下している。手がスーツの裾を掴んでいた。「大丈夫。一緒にいる」。より子は繰り返した。
その時、後ろから来た男性が深夜の肩をかすった。通勤カバンが当たったのだ。男性はちらりと深夜を見て舌打ちして通り過ぎた。深夜が声を上げた。言葉ではなかった。「うわ」という音が喉の奥から押し出された。両手で頭を抱え、その場に座り込んだ。スーツの膝がコンコースの床についた。周囲の人が距離を置いた。
より子は深夜のそばに座り、背中に手を置いた。大きな背中だった。8年前より痩せていた。スーツの布越しに背骨の形が分かった。深夜の体が震えていた。より子は何も言わなかった。ただ手を置いたまま、その場にいた。
駅員が1人近づいてきて「大丈夫ですか?」と聞いた。より子は顔を上げて「息子が少し体調を崩してしまってすみません。すぐ落ち着きますので」と言った。
10分ほどそうしていた。深夜がゆっくりと顔を上げた。目が赤かった。涙が出たわけではなく充血していた。より子は何も言わなかった。深夜も何も言わなかった。2人で立ち上がった。改札は通らなかった。出口に向かって歩いた。外に出ると、白い光の中に戻った。駅の前の日陰になったところで立ち止まった。深夜が隣に来て止まった。2人でしばらく黙って立っていた。
より子は思った。今日、深夜は外に出た。8年ぶりに。でも改札を通ることができなかった。人に触れられた瞬間に崩れた。それが今の深夜の状態だった。これはお母さんがどう頑張っても変えられないことだ。
帰り道、2人は並んで歩いた。団地に戻り、エントランスを入る時、深夜の足が速くなった。階段を上がり、4階の廊下を歩いて、深夜は自分の部屋のドアの前に立った。鍵を開けて中に入った。ドアが閉まった。
より子は廊下に1人残った。壁に手をついた。怒りではなかった。責める気持ちもなかった。ただ、より子の中に冷たくて静かなものが広がった。
その夜、より子は台所のテーブルに座っていた。テーブルの上には3枚の紙があった。区役所から届いた住宅申請の期限通知。電気代の最終督促。そして、今月の年金の振り込み通知書。6万5200円。それが今のより子の持っている全ての収入だった。
何度計算しても同じ数字が出た。家賃と光熱費を払えば食費がほぼなくなる。食費がなくなれば深夜に食事を出せない。深夜が食べなければどうなるか。そこまで考えた時、より子は計算をやめた。
代わりに、別のことを考え始めた。より子がここにいる限り、深夜は国から助けてもらえない。同居の家族に収入がある場合、その家族が扶養義務者となる。6万5000円の年金でも収入と見なされる。つまり、より子が隣にいて年金を受け取っている限り、深夜は生活保護の対象にならない。福祉事務所が介入する緊急性の判断も、家族がいれば優先度が下がる。より子がいることが深夜を守っているようで、実は深夜が制度の網にかかることを防いでいた。
より子がいなくなれば、深夜は独居の無収入の中年男性になる。食事もなく、電気も止まった部屋で動けなくなる。その時、ようやく行政が動く。残酷な話だと思った。でもそれが現実だった。
より子は台所の棚の奥から小さなメモ帳を取り出した。以前図書館で調べてメモしておいたものだった。支援団体の電話番号と福祉事務所の緊急連絡先が書いてあった。引きこもりの家族を持つ人のための電話相談窓口。かけようと思ってかけられないまま、何ヶ月も経っていた番号だった。
翌朝、より子は5時半に起きた。いつもより丁寧に顔を洗った。鏡に映った自分の目は充血していた。昨夜眠れなかった。でも涙は出なかった。台所で白米を炊き、冷蔵庫に残っていた卵を2個とも使って入り卵を作った。半分を深夜の分にして、白米と一緒にお盆に乗せて廊下に置いた。2回ノックした。待った。ドアが少し開いて、白い手が出てきて、お盆を引いた。ドアが閉まるのを見届けてから、より子は台所に戻った。
自分の分の白米に残りの入り卵を乗せ、醤油をかけて食べた。食べながら、今日することを頭の中で整理した。午前中に区役所に行く。今日は書類を出しに行くのではなく、別のことを頼みに行く。
食器を洗い、台所を拭いた。押し入れから布の手提げ袋を出した。夫が生きていた頃に買った厚手の布バッグだった。中に下着を3枚、靴下を2足、薄手の長袖を1枚、ポロシャツを1枚、財布と目薬と薬局で買っていた失進の軟膏を入れた。タオルを1枚。これで十分だった。
台所の引き出しを開け、メモ帳の他に、支援団体の名刺代わりの切り抜きを取り出した。以前図書館の掲示板で見つけてもらってきたものだった。「引きこもり状態にある方とそのご家族の支援」と書いてあった。その切り抜きと自分で書いたメモ、そして1枚の便箋を机に出した。
便箋には短い文を書いた。「お母さんはしばらく遠くに行く。冷蔵庫に何もない時はコンビニで買って食べてほしい。この紙に書いてある番号に電話すれば、助けてくれる人がいる」。それだけ書いた。それ以上書くと止まれなくなる気がした。便箋を折り、NPOの切り抜きと一緒にメモに包み、小さな封筒に入れた。
バッグを持って玄関に行った。靴を履いた。廊下に出た。深夜の部屋のドアの前に立ち、封筒をドアの前の床に置いた。ノックはしなかった。声もかけなかった。声をかければ何かが始まる。返事がなくても、ドアの向こうに深夜がいることが分かって、足が動かなくなる気がした。だから黙ったまま封筒だけを置いた。
廊下を歩き、階段を降りた。1階のエントランスで郵便受けを1度だけ振り返った。それから外に出た。朝の光の中だった。まだ7時前で、商店街はシャッターが下りていた。より子は区役所の方向に歩き始めた。
区役所の開庁は9時だった。より子は早く着きすぎて、建物の前のベンチで40分ほど待った。目薬をさし、時計を見た。カシオの黒いプラスチック。8時22分。9時になって入り口が開いた。住宅係の窓口に向かって番号札を引いた。今日は待つ人が少なかった。7分で呼ばれた。窓口に来たのは村瀬だった。
村瀬はより子の顔を見て、いつものように笑顔を作った。前回と同じ、何も宿っていない笑顔だった。より子は椅子に座ってバッグを膝に乗せた。
「今日は申請の書類を持ってきたわけではない」とより子は言った。村瀬が少し表情を変えた。より子は続けた。息子のこと。40歳で8年間外に出ていないこと。先週ようやく一緒に駅まで行ったが、コンコースに入った瞬間に動けなくなったこと。病院には行けていないこと。これは私がどう頑張っても変えられないことだと思ったこと。
村瀬が何かを言いかけた。より子は少し手を上げて続けた。「私がそばにいる限り、息子は制度の対象にならないと聞いた。扶養義務があるから。だから私は今日、この場で、息子を自分の扶養から外す手続きを教えてほしい。私が別の住所に移ることで、息子が独居の無収入者として福祉の対象になる方法があるなら、その方法を知りたい」
村瀬の手が止まった。キーボードを打つ手が止まり、画面から目を上げ、より子を見た。今度は笑顔がなかった。村瀬は少し間を置いて「少々お待ちください」と言って席を立ち、奥に引っ込んだ。年配の女性職員と何かを話しているのが見えた。5分ほどして戻ってきた。今度は年配の女性職員も一緒だった。西田と名札に書いてあった。50代で眼鏡をかけ、村瀬より少しだけ目に表情があった。
西田はより子の向かいに座り、「詳しく聞かせていただけますか」と言った。より子は話した。8年間のことを順を追って話した。深夜がリストラされたこと。引きこもるようになったこと。病院に行けないこと。先月仕事を失ったこと。電気代の督促が来ていること。今月の家賃が払えるかどうか分からないこと。話しながら声が揺れた。揺れたが止まらなかった。西田は途中でメモを取り始めた。村瀬は隣でそれを見ていた。
話を終えた時、より子は右手の親指が左の手のひをこすっていることに気がついた。いつの間にか始まっていた。
西田はより子に向かって言った。「今すぐここで結論が出ることではないが、息子さんの状況は支援の対象になり得ると思います。ただ、お母さんが完全に住所を移す前に、福祉事務所と連携して息子さんの状態を確認する手順を踏む必要があります。それを飛ばしてしまうと、息子さんが1人になった時点で何も支援がない状態になってしまうので」
「分かりました」とより子は言った。西田は続けた。「お母さんが今日すぐにどこかに行ってしまうつもりなら、少し待ってほしい。連絡を取って、来週には福祉事務所の担当者を息子さんの元に向かわせる手配ができるかもしれません。それまでの間、息子さんのそばにいてあげられるか」
より子は少し黙った。今日行くつもりでいた。でも、この言葉は、より子が1人で8年間考え続けてきたことへの、初めての応答だった。「分かりました。来週まで待ちます」
西田は連絡先を聞いて書き留め、担当者の名前と福祉事務所の電話番号が書かれた紙をより子に渡した。「何かあれば、すぐに電話してください」
区役所を出た。外はもう暑くなっていた。より子は日陰を選んで歩いた。帰り道、商店街の入り口の前で立ち止まった。バッグを持ったまま、しばらくそこに立っていた。今日出ていくつもりだった。でも今夜はまだ帰る。もう1週間だけ。1週間後に本当に出られるかどうかは分からなかった。でも今日より、少しだけ手順が整った状態で出られるかもしれないとは思った。
スーパーの前を通った。回転したばかりで、特売の野菜が並んでいた。キュウリが3本100円。より子は立ち止まって手に取った。100円を出した。
帰宅すると、廊下は静かだった。深夜の部屋のドアの前を見た。朝に置いた封筒がまだそこにあった。より子は封筒を手に取り、置いたままより、ドアの下から入れる方がいいと思った。ガムテープの切れ目から紙を差し込んだ。少し押すと入った。ドアをノックした。2回。返事はなかった。より子は台所に戻り、キュウリを洗って塩を振ってしばらく置いた。
それから1週間が経った。表面上は、より子と深夜の生活は変わらなかった。弁当か自炊のものをお盆に乗せて廊下に置く。2回ノックする。白い手が出てきて引く。ドアが閉まる。変わったのは、より子が毎朝、西田から渡された紙を財布から出して確認するようになったことだった。番号が変わるわけではなかった。ただ確認した。
木曜日の午後、福祉事務所から電話がかかってきた。担当は中川という男性だった。声は落ち着いていて早口でもなかった。状況を確認したいこと。来週の月曜日に息子さんの様子を見に伺いたいこと。その際には事前に連絡を入れること。順番に説明した。より子は聞きながらメモ帳に内容を書いた。
「1つだけ聞いていいか」とより子は聞いた。「息子がドアを開けなかった場合はどうなるか」。中川は少し間を置いてから答えた。「すぐに何かが決まるわけではないが、それも状況の一部として記録に残ります。継続して関わっていくことができる」
「継続して関わっていく」。その言葉がより子の中で少しだけ引っかかった。8年間、より子1人で関わり続けてきたことを、他の誰かが引き継いでくれるかもしれない。そういう意味だった。
月曜日が来た。中川は午後2時に来た。紺色のジャケットを着た40代の男で、名刺をより子に渡した。より子はそれを財布に入れた。廊下に案内し、深夜の部屋のドアの前まで行って、より子はドアをノックした。
「深夜、今日役所の人が来ている。怖くない。顔を見るだけでいい。何も話さなくていい。ドアを少しだけ開けてくれるだけでいい」
室内が静かになった。中川は何も言わなかった。より子の隣に立ってドアを見ていた。3分ほど誰も動かなかった。それから、室内で音がした。布団が擦れる音、立ち上がる音。ドアの取っ手が内側から動いた。ドアが5cmほど開いた。隙間から深夜の目が見えた。充血した目だった。より子の顔を見てから、中川の顔を見た。中川を見た瞬間、目が少し細くなった。怯えていた。中川は動かなかった。声も出さなかった。ただ目を合わせて軽く頭を下げた。ドアがまた閉まった。それだけだった。
廊下に3人分の沈黙があった。中川は小さな声で言った。「確認できました」。それから今後の手順について話しますと言って、より子の部屋に移動した。テーブルを挟んで向かいに座った中川は資料を1枚出した。より子はそれを受け取って説明を聞いた。精神科の訪問診療を手配すること。定期的に担当者が状況確認に来ること。より子の分も息子さんへの支援は継続すること。住まいの件は、より子が動いた後の状況を見て判断すること。より子はメモ帳に書き留めた。
中川が帰ってから、より子は台所に座った。バッグがまだ押し入れに入っていた。あの朝から閉まったままだった。より子は立ち上がって押し入れを開け、バッグを出した。中身を確認した。下着と着替えと財布と目薬と軟膏。それだけ入っていた。1週間前と変わらない荷物だったが、今日のより子には少しだけ違って見えた。出ていくことが深夜を見捨てることではなく、深夜のための手順の1つだと、今日初めて誰かに言葉として確認してもらえた気がした。
バッグを押し入れに戻した。今夜はもう少しここにいる。台所でキュウリの残りを刻んで味噌汁を作った。深夜の分をお盆に乗せて廊下に置いた。2回ノックした。待った。ドアが開いた。白い手が出てきた。今日はいつもより少し長く手がそこにあった。お盆を引いてからドアが閉まった。より子は台所に戻り、自分の分の味噌汁を茶碗に注いで白米と共に食べた。
その夜遅く、より子は夜行バスの予約を確認した。愛媛県の農場から連絡が来ていた。果物の選別作業の季節労働で、食事と宿舎がついている。7月末から10月末まで。時給は低くないが、それより住む場所があるということが今のより子には意味があった。来週の土曜日の夜行バスに乗る。それが決まっていた。
土曜日の夜まであと6日ある。6日間、より子はいつもと同じことをした。弁当を置いた。味噌汁を作った。電気代の分割を確認した。中川から1度電話があって、訪問診療の日程が決まったと聞いた。
木曜日の夜、より子は押し入れのバッグを出してもう一度中身を確認した。着替えを1枚足した。それから、小さな写真を1枚財布の内側に入れた。深夜が小学生の時の写真だった。運動会で走っているところだった。一番早かった。笑っていた。
金曜日の夜、より子は最後の夕食を作った。冷蔵庫に残っていたものを全部使った。卵、豆腐、キュウリ、缶詰のサバ。全部出してそれぞれに火を通した。深夜の分を大きなお盆に乗せた。いつもより品数が多かった。廊下に置いて2回ノックした。待った。ドアが開いた。白い手が出てきて、お盆を一度見て、それから引いた。ドアが閉まる前に、より子は言った。
「明日、お母さんはしばらく遠くに行く。封筒に書いた番号に電話すれば、助けてくれる人が来る。深夜のことが心配じゃないわけじゃない。でも信じている」
最後の一言が声にならなかった。ドアが閉まった。廊下により子1人が残った。右手の親指が左の手のひをこすっていた。いつの間にかまた始まっていた。より子はその手を静かに止めた。
土曜日の朝、より子は4時に起きた。バッグを持って台所に立ち、お茶を淹れて1杯だけ飲んだ。深夜の分の食パンを廊下に置いた。ノックはしなかった。玄関で靴を履いた。鍵を持った。ドアを開けた。廊下に出た。朝の4時の廊下は暗かった。豆電球だけがついていた。より子は振り返らなかった。階段を降りた。1段ずつ音を立てないように。3階から4階の電球はまだ切れたままだった。壁に手を当てながら降りた。
1階のエントランスに出た。郵便受けが並んでいた。より子は自分の郵便受けの前で立ち止まった。鍵を出して開けた。中に1枚の紙が入っていた。薄暗い中でそれを引き出すと、中川からの書類だった。訪問診療の日程と福祉事務所の今後の連絡予定が書いてあった。より子はそれをバッグの外ポケットに入れた。エントランスの重い鉄の扉を開けた。外に出た。
7月の夜明け前の空気は、梅雨が開けてから乾いていた。遠くで電車の音がした。始発が動き始める時間だった。より子は団地を振り返らなかった。バス停まで徒歩で20分ほどある。より子は歩き始めた。商店街はまだ眠っていた。シャッターが下りていた。コンビニの明かりだけがついていた。
バス停に着いた時、すでに数人が並んでいた。リュックを背負った若い女性、大きなキャリーケースを持った男性、年配の夫婦。みんなそれぞれの理由でこの時間にここにいた。より子は列の後ろに並んだ。バッグを足元に置いた。時計を見た。4時42分。夜行バスは定刻に来た。乗り込んで窓側の席に座った。シートを起こして窓に額を近づけた。
バスが動き出した。町の明かりが流れ始めた。高速道路に乗ると、オレンジ色の照明が等間隔で続いた。より子は窓の外を見ていた。深夜のことを考えた。今頃、廊下の食パンに気づいているだろうか? それともまだ眠っているだろうか? 封筒の紙を読んだだろうか? 分からなかった。でも、中川の連絡先が書いてある。訪問診療の日程が決まっている。深夜の部屋に人間が来る日が、カレンダーの上では存在している。それだけが今のより子に確認できることだった。
目の奥が熱くなった。涙が出た。音を立てないように出た。これはいつも通りだった。より子の涙はいつも音がなかった。右手の親指がまた左の手のひに当たりそうになって、より子はそれを途中で止めた。手を重ねて膝の上に置いた。バスが高速道路を走り続けた。大阪の光が遠くなった。より子は目を閉じた。眠れるかどうか分からなかった。でも今夜は目を閉じることができた。オレンジ色の街灯がまぶたの向こうに残像として流れていった。バスは西へ、夜の高速を走り続けた。より子は静かに、一つの終わりと一つの始まりの間を、南へと向かっていた。



