診察室の扉が開くと、松葉杖をついた少年が母親に支えられて入ってきた。中学生だろうか。細い体に大きなユニフォームがまだ馴染んでいない。
「どうぞ、そこの椅子にゆっくりでいいよ。」
少年は緊張した顔で腰を下ろした。俺は椅子を彼の目線まで下げ、膝を付き合わせるようにして向き合った。レントゲン写真を一枚ずつ確認しながら、少年の話を丁寧に聞いていく。
俺の名前は相馬浩司。スポーツ整形外科医だ。この病院にはテレビで名前を聞くようなプロ野球選手やオリンピック代表もやってくる。一方で、今日のような地方の中学生や高校生も紹介状を握りしめて訪ねてくる。待合室では有名選手も無名の学生も、同じ椅子に並んで座っている。
診察を終えると、少年の母親が深々と頭を下げた。
「先生、こんな田舎の子にまで時間を使っていただいて、本当にすみません。」
「謝ることじゃないですよ。この子の肘はこの子だけのものです。同じ時間をかけて診るのが当たり前です。」
俺はカルテに次の予約を書き込みながら、廊下を歩いていく親子の背中を見送った。隣で書類を整えていた水沢里が口元を緩めた。
「先生、今日も予約詰めてますよ。午後はオリンピックの候補選手がお二人ですから。」
「分かってる。だが、あの子の肘はあの選手たちの肘と何も変わらない。」
「ええ、先生の口癖ですね。患者に肩書きは関係ないって。」
水沢は俺の病院で十年近く働いている理学療法士だ。リハビリ室では選手たちから慕われている。俺の考え方を、多分誰よりも理解してくれている女性でもあった。
窓の外では初夏の日差しが白く光っていた。テレビでは地方大会の予選が始まっていて、廊下のモニターにも高校球児の姿が映し出されている。
午後の予約表に見慣れない名前があった。鈴木蓮、十七歳。紹介状には地方の公立高校のエースと書かれている。甲子園予選の準決勝を来週に控えているらしい。
診察室に入ってきたのは、背の高い少年とその母親。そして日焼けした顔の中年男性だった。男は名刺を差し出し、深く頭を下げた。
「鈴木高校で野球部の監督をしております、大葉と申します。今日はどうしても先生に見ていただきたく、無理を言って予約を取らせていただきました。」
「分かりました。痛みの出方を教えてください。」
蓮は表情を変えず椅子に座った。目の奥に疲れが沈んでいる。肩の可動域を確認し、いくつかの動きを試してもらう。腕を上げるたびに蓮の眉が一瞬だけ動いた。本人は痛みを認めないが、体が正直に語っていた。MRI画像を映し出したモニターに、俺は静かに視線を向けた。
腱板の損傷は写真を見ただけでひどいことが分かった。関節にも炎症が広がっている。これで投げてきたのかと、驚いてしまった。
「監督さん、お母さん、率直にお話しします。この方はもう限界をとっくに超えています。」
「先生、なんとかなりませんか?夏だけでいいんです。予選から甲子園まであと一ヶ月半。その間だけ投げさせてやりたいんです。」
大葉監督は握った拳を膝の上に置いた。
「この子はうちの高校が甲子園に行くための最後の希望なんです。ブロック注射でもテーピングでも何でも構いません。夏が終われば、蓮は先生のおっしゃる通りに従います。」
母親は下を向いたまま、ハンカチを握りしめていた。蓮はまっすぐ俺の目を見ている。その視線が痛いほど熱かった。
俺はしばらくモニターを見つめた。一ヶ月半投げさせる方法がないわけじゃない。痛みを消すだけなら、できることはある。だが、その先に何が待っているか、俺は知っていた。
「監督さん、この夏を投げ切らせることはできません。この子が二十歳、三十歳、四十歳になった時に、自分の子供を抱き上げられる肩を残すのが私の仕事です。」
「先生、それは……」
「今無理に投げさせれば、蓮君の肩は一生上がらなくなる可能性があります。日常生活にも支障が出るレベルです。私は甲子園と引き換えにそれを差し出すことを、進められません。」
診察室が静かになった。蓮が初めて口を開いた。
「先生、俺、投げなきゃいけないんです。みんなが俺の球を待っているんです。監督もキャッチャーも母さんも、この日のためにずっと……」
「蓮君の気持ちは分かる。だが、俺が今ここで嘘をついて投げていいと言ったら、俺は医者じゃなくなる。君の夏を守るために君の人生を捨てさせる医者に、俺はなりたくないんだ。」
蓮の目から涙がこぼれ落ちた。大葉監督は天井を見上げ、大きく息を吐いた。母親は声を殺して泣いていた。
診察室を出ていく三人の背中は、来た時とは別人のようだった。俺は思わず立ち上がり、廊下に出た。
「鈴木君、ちょっといいかな?」
蓮は振り返った。母親と監督は少し離れた場所で待っている。俺は机の上にあったメモ用紙を破り、そこに一行だけ書いた。
「これ、渡しておく。今読まなくていい。捨ててもらっても構わない。」
蓮は差し出された紙を両手で受け取った。折らずに、じっと見つめている。そこにはこう書かれていた。
『夢は終わることがある。でも、人は終わらない。』
蓮は何も言わなかった。唇を強く結んだまま、その紙を財布に丁寧にしまった。そして深く頭を下げ、母親と監督の元へ歩いていった。
俺はその姿が見えなくなるまで見送った。背後で足音がして、水沢が隣に来る気配がした。
「先生、大丈夫ですか?」
「分からん。私は今、正しいことをしたつもりだ。だが、あの子の顔を見ていると、私のしたことが正しかったのか自信がなくなってくる。」
「先生、あの子は今日たくさんのものを失いました。でも、たった一人だけ本当のことを言ってくれた大人がいたことは、いつか気づくと思います。」
窓の外では雲一つない空が広がっている。どこかの球場では、この時間もボールを追いかけている高校生がいるはずだ。
蓮の夏が終わったことを知ったのは、地方紙の小さな記事だった。『甲子園予選 エース登板せず敗退』。そう書かれた見出しの下に、蓮の名前が並んでいる。俺はその紙面をしばらく黙って見つめていた。
夏が過ぎ、秋が来て冬になった。蓮のカルテはあの日を最後に更新されないまま、棚の奥に眠っている。最新の予約は一度も入らなかった。
そのうち、噂だけが遠くから届くようになった。蓮は野球部を引退したらしい。大葉監督は責任を感じて指導を退いたという話も聞こえてきた。甲子園の常連校で監督交代は珍しくない。だが、あの日の大葉監督の目を思い出すと、俺は簡単に流せなかった。
もっと応えたのは、業界の中で流れ始めた別の噂の方だった。同業の集まりで若い医師が声を潜めていった。
「相馬先生、噂知ってます?地方の高校のエースを無理に潰したって話。未来ある高校生を潰したって。予選前に投げるなって言い渡したらしいですね。」
俺はその場では笑って受け流した。だが、家に帰る車の中で、ハンドルを握る手に力が入っているのが分かった。潰したのは俺じゃない。そう言い切れるはずなのに、言葉にすると自分でも嘘臭く聞こえた。
一年、二年と時が流れる。病院の待合室には相変わらず有名選手も無名の学生も並んでいた。俺は同じ椅子に座り、同じ時間をかけて診察を続けている。だが、蓮くらいの年頃の少年が入ってくるたびに、あの日の背中がよぎった。
ある夜、リハビリ室の片付けを終えた水沢が診察室のドアを開けた。
「先生、まだ残ってたんですね。もう十時ですよ。」
「ああ、少し考え事をしていた。」
「鈴木蓮君のことですか?」
俺は驚いて顔を上げた。水沢は静かに言葉を続けた。
「先生、この五年、何度もあの棚の前で立ち止まっていますよ。ご自分では気づいてないかもしれませんけど。」
「そうか。私はあの時の判断が本当に正しかったのか、未だに分からないんだ。あの子の人生を守ったつもりで、本当は夢を奪っただけだったんじゃないかと。」
「先生、先生は夢を奪ったんじゃありません。夢ではなく、人生の方を守ったんです。あの日、あの場所でそれを言える大人は、先生しかいませんでした。」
水沢の声は静かだった。励ますでもなく、慰めるでもなく。
「答えが出ないまま、先生は今日も百人以上の患者さんを見てるんですよ。それでいいと思います。答えが出ないから、次の患者さんにも同じだけの時間をかけられるんです。」
俺は小さく頷くことしかできなかった。
あの日から十年が経った。病院は改築され、リハビリの器具も新しいものに入れ替わった。俺の髪にも白いものが混じるようになっていた。
その日の午後、俺の診察室に一人の若者が入ってきた。水島優、三十歳。オリンピック陸上競技短距離の金メダリスト。半年前、練習中の転倒でアキレス腱を断裂し、選手生命が危ぶまれていた男だった。
「先生、ご無沙汰しております。おかげ様で、来月から本格的にトラックに戻れそうです。」
「あの怪我からここまで戻すとは、正直驚いてるよ。担当医からもらった経過報告書を見て、耳を疑ったよ。」
俺は水島の足に手を当て、可動域を確認していく。腱の走行、皮膚の状態、筋肉の反応。どれを取っても、半年前にあの映像を見た時からは想像できない仕上がりだった。
「リハビリのメニューはどこで組んだんだ?」
「はい。それが今日先生にお伝えしたかったことなんです。新しいリハビリ機器を使わせてもらったんですよ。腱にかかる負荷をミリ単位で調整できて、痛みを出さずに可動域を広げていく機械です。」
「その機械は聞いたことがないな。」
「まだ市場に出て一年ちょっとです。開発したメーカーの人たちが、僕のリハビリに毎週立ち会ってくれました。」
水島は少し前のめりになって話を続けた。
「先生、僕、正直金メダルを取った時よりも、あの機械の上で初めて全力で踏み込めた瞬間の方が泣きそうになりました。もう二度と走れないと思っていたんです。」
「そうか。走ることを諦めかけていたのか。」
「はい。夜、天井を見ながら次の人生を考えていました。でも、開発責任者の方が言ってくれたんです。『夢は形を変えても続けられますよ』って。」
俺は手を止めた。その言葉のどこかに、聞き覚えのある響きがあった。
「先生、僕を担当してくれたその開発責任者の方が、今日ここまで一緒に来てくれてるんです。ロビーで待たせています。わざわざ挨拶にと思って。」
「いや、逆なんです。その方がどうしても先生に会いたいと。十年も前からずっとお会いしたかったんだそうです。」
十年。その言葉に俺は顔を上げた。胸の奥で何かが動いた。
診察を終えると、水島は俺を伴ってロビーへ向かった。ソファの前に、スーツ姿の若い男が立っていた。背が高く、細身だがしっかりした肩幅がある。俺の姿を見つけると、深々と一礼した。
「先生、こちらが僕を担当してくれた開発責任者の方です。」
男が顔を上げた。その瞬間、俺は言葉を失った。時間が止まったような気がした。まっすぐこちらを見るその目は、十年前と何一つ変わっていなかった。
「鈴木君……。」
「はい。ご無沙汰しています。先生。」
隣で水島が驚いた顔をしている。
「先生と蓮さん、お知り合いだったんですか?」
「ああ、水島君。相馬先生は、俺が十七の夏に野球をやめることになった時に見てくださった先生なんだ。」
水島は言葉を失い、俺と蓮を交互に見た。ロビーの隅で水沢が立ち止まっているのが見えた。彼女もまた、蓮の顔を見て口元に手を当てている。
「大きくなったな。」
「はい。十年経ちましたから。」
あの日、俺は言葉が続かなかった。何を謝ればいいのか、何を伝えればいいのか。喉の奥で言葉が詰まった。
蓮は静かに首を横に振った。
「先生、今日はお礼を言いに来たんです。」
夕日が蓮の方を照らしていた。俺はその言葉の意味をまだ受け止めきれずに立ち尽くしていた。ロビーの端にある椅子に、俺と蓮と水島が座った。蓮はポケットから黒い革の財布を取り出した。使い込まれた財布だ。角がすり切れ、色がところどころ抜けている。
その財布の一番奥から、丁寧に折りたたまれた一枚の紙を取り出した。
「先生、これ、覚えていらっしゃいますか?」
紙は黄ばんでいた。それでも書かれた文字ははっきりと読めた。『夢は終わることがある。でも、人は終わらない。』俺の字だった。十年前、あの廊下で破ったあのメモだった。
「これをずっと持っていたのか。」
「はい。十年間、一度も手元から離したことはありません。」
蓮は紙をそっと机の上に置いた。
「あの日家に帰ってから、俺この紙を何度も読みました。読んでは破いて、破けなくて、また財布にしまうんです。夢が終わったなんて認めたくなかった。でも、なぜか捨てられなかったんです。」
「そうか。」
「野球部を辞めた日も、進路を決められなかった日も、大学で何のために勉強しているのか分からなくなった夜も、財布からこの紙を出して読み直しました。『人は終わらない』って書いてある。だったら俺はまだ終わっていないんだって、そう自分に言い聞かせていました。」
水島は隣でじっと蓮の横顔を見つめている。金メダリストとして世界の頂点に立った男が、まるで初めて先輩の話を聞く後輩のような目をしていた。
「就職活動の時に、天野社長に出会いました。医療機器メーカーの説明会だったんです。俺は正直に話しました。高校の時に肩を壊して野球ができなくなったって。そしたら社長がこう言ってくれたんです。」
蓮は話を静かに続けた。
「『君は選手を諦めた側の気持ちが分かる人間だ。うちにはそういう人間が必要なんだ』って。俺、その場で泣きそうになりました。野球で失った十年は無駄じゃなかったのかもしれないって、初めて思えたんです。」
「天野さんが。そうか。あの人らしいな。」
「はい。それから七年、リハビリ機器の開発に打ち込んできました。俺と同じように怪我でスポーツを諦めなきゃいけない人間を、一人でも減らしたくて。」
俺は机の上の紙を指先でそっとなぞった。十年前、廊下で書いたあの一行が、こんな形で戻ってくるとは思ってもみなかった。
水島が静かに口を開いた。
「先生、俺、蓮さんの機械がなかったら、今頃どこかで走ることを諦めていました。医者からはもうトラックには戻れないって言われていたんです。あの怪我からの復帰は、正直医学的には奇跡に近い。」
「その奇跡を蓮さんが作ってくれたんです。毎週開発チームごとリハビリに立ち会ってくれて、俺の足の状態に合わせて機械の設定を細かく変えてくれました。俺が嫌がると、蓮さんの方が先に汗をかいてるんですよ。」
水島は蓮の方を見て、少しだけ笑った。
「金メダルを取った夜、真っ先に蓮さんに電話しました。蓮さん、電話口で泣いていました。」
すると蓮が声を出した。
「泣いてない。あれは汗だ。」
「汗じゃないですよ。俺、聞きましたよ、ちゃんと。」
俺は思わず口元が緩んだ。蓮も少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
その時、診察室の扉が軽くノックされた。水沢が顔を出し、後ろに白髪の紳士がいた。天野春樹だった。学会で何度か顔を合わせている、あの天野社長だった。
「相馬先生、突然お邪魔します。水島君から今日こうして伺うと聞いたもので、私もどうしても同席させていただきたくて。」
「天野さん、蓮君を拾ってくれたのはあなただったんですね。」
「拾ったなんてとんでもない。彼が来てくれたおかげで、うちの開発は十年で道が変わるほど変わりました。」
天野はソファに腰を下ろし、蓮の肩に手を置いた。
「相馬先生、彼がここまで来られたのは私の力じゃありません。あの日先生が渡してくださった、あの一枚の紙の力です。彼は面接の時にその紙を私に見せてくれました。私はそれを見て、この男を採用しない理由はないと思ったんですよ。」
「天野さん……」
「先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私は昔、学会の懇親会で先生の話を聞いたことがあります。『患者に肩書きは関係ない』と。あの言葉がうちの会社の理念の一つになっているんです。だから彼が持ってきた紙の意味が、私にはすぐ分かった。」
蓮がまっすぐに俺の目を見た。
「先生、夢は終わりました。あの夏、俺は甲子園のマウンドに立てませんでした。プロにもなれませんでした。」
俺は黙って聞いていた。
「でも、終わりませんでした。先生が書いてくださった通りでした。」
蓮は微笑んだ。穏やかで、少しだけ照れ臭そうな笑顔だった。その笑顔を見た瞬間、俺は涙がこぼれ落ちた。
蓮たちを見送るために、俺は玄関まで一緒に歩いた。夕日が駐車場のアスファルトを赤く染めている。
「先生、また伺ってもいいですか?今度は新しい機械の話を聞いていただきたいんです。」
「ああ、いつでも来てくれ。私の患者にも、その機械が必要な子がたくさんいる。」
車が走り去った後、俺はしばらく玄関に立っていた。隣に水沢が来て、静かに空を見上げた。
「先生、良かったですね。」
「ああ、そうだな。」
「私、診察室の外で少し話が聞こえてしまって。あの紙、あの子十年間ずっと持っていたんですね。」
「捨てられなかったと言っていた。」
水沢は目元を指で押さえていた。
「先生、私、十年前から先生に言いたかったことが、やっと言えます。」
「何だ?」
「先生はあの日、間違ってませんでしたよ。」
俺は空を見上げた。夕焼けが少しずつ夜に変わっていく。
診察室に戻ると、机の上には次の患者のカルテが置かれていた。明日の予約表には有名選手の名前もあれば、聞いたこともない地方の中学生の名前も並んでいる。
俺は椅子に座り、そのカルテを一冊ずつ丁寧に手に取っていった。俺がこれまで残してきたものは何だろうと考える。難しい手術の成功例だろうか?学会での論文だろうか?「名医」と呼ばれる肩書きだろうか?
どれも違う気がした。



