ふすまが荒々しく開き、姑が部屋に踏み込んできた。鏡の前で晴れ着を整えていた佐恵は、驚いて振り返った。姑の顔は険しく歪み、その目は刃物のように鋭かった。
「なんという不届きな真似をしているのか」
その声が部屋中に響いた。佐恵は凍りついた。何が悪かったのか、さっぱりわからなかった。
「不作の折に絹の着物とは。近隣の妬みを買って石を投げられて死にたいのか」
姑は青筋を立てて詰め寄った。避ける間もなく、その手が着物の襟を掴んだ。ビリビリという鋭い音とともに、上等な絹が引き裂かれた。佐恵の口から悲鳴が漏れた。姑はそこで止まらなかった。袖を引きちぎり、裾を裂きながら、三年間大切にしまってあった紅萌葱色の着物を無惨に引き裂いていった。
「おやめください、姑様。どうかご勘弁を」
佐恵は畳に崩れ落ち、声を上げて泣いた。だが姑は何も語らず、ただ黙々と布を裂き続けた。なぜ、と理由も一言も語らなかった。その沈黙が佐恵にはかえって恐ろしかった。
しばらくして姑は何かを手にして戻ってきた。カビ臭いような匂いが鼻をついた。見れば、それはひどく古びたボロの着物だった。あちこちに穴が開き、汚れがこびりついた古着で、犬の寝床にでも使われていたのか、獣のような匂いまで漂っていた。
「さあ、これに着替えるのだ」
姑は言い聞かせるように命じ、ボロを佐恵の前に投げ捨てた。
「破れたところは適当に繕っておいた。実家に行っても達者に暮らしていると自慢話などせず、おとなしく戻ってくるのだぞ」
佐恵は信じられなかった。このような着物を着て実家の母に会えというのか。
「姑様、どうしてこのような仕打ちをなさるのですか。三年ぶりに会う母の前で、私にこのような見窄らしい姿をさせるおつもりですか」
だが、どれほど訴えても無駄だった。姑の顔は岩のように固く、その目にわずかな揺らぎもなかった。佐恵は歯を食いしばりながら、震える手でボロを拾い上げた。
ところが、不思議なことが起きた。古びてすり切れた布のはずなのに、肩に乗せた途端、まるで石を背負ったかのような重みが伝わってきたのだ。佐恵は驚いて襟元に手をやった。薄い布のはずなのに、なぜこれほど重いのか。何か硬くずっしりとしたものが着物のあちこちに隠されているようだった。
佐恵は首をかしげた。昨夜の記憶がよぎった。夜中に姑の部屋から聞こえてきた、あのチャリンという金属の音。まさか、あの音と関わりがあるのだろうか。だが、姑の顔を見ても何も言わず、そのまま部屋を出て行ってしまった。
すべては三年前、佐恵が隣村の海産問屋である大海家に嫁いできたことから始まっていた。大海家は代々米や荷物を船で諸国へ運び、店先には大八車が忙しく立ち働いていた。表向きは繁盛している商家だったが、その内情がどれほどのものか、若い嫁の身には詳しく知るよしもなかった。
姑の大海は、村でも指折りの無骨者の女丈夫でありながら、その気性は虎よりも恐ろしいと村中で噂されていた。姑が佐恵に向ける言葉はいつも短く冷たかった。
「無駄口を叩くな」「手を止めるな」「文を縫い終えなさい」
優しい言葉をかけられたことなど、三年の間に一度もなかった。夜なべの縫い物を仕上げても、感情を込めて丹念に合わせても、姑は黙って頷くだけで、褒めることは決してなかった。台所仕事一つにも水の使い方から薪の組み方まで姑の流儀が厳しく定められており、少しでも外れれば、無言のまま睨まれるだけで済むこともあれば、やり直しを命じられることもあった。
佐恵が一人で村外れの井戸端まで出かけようとすれば、必ず呼び止められた。
「待て。供も連れずにどこへ行く」
佐恵が慌てて事情を説明しても、姑は取り合わず、下女が支度を整えるまでその場に立って待たせた。理由を尋ねても、姑はただ「文を縫い終えなさい」と繰り返すばかりだった。
井戸端では近所の女房たちが、大海の姑についてひそひそと噂話をすることも珍しくなかった。
「あの家の嫁は苦労しているに違いない。あの女将さんは鬼のように厳しいと聞くからな」
佐恵はその度に何も言い返すことができなかった。噂は間違っていないと、自分自身も思っていたからだ。佐恵は幾度となく実家に帰りたいと思い、姑に尋ねたこともあった。
「なぜ帰らせてくださらないのですか」
姑は手にしていた帳面から目を上げることもなく、こうだけ答えた。
「今はまだ、その時ではない」
それ以上問い詰めることは許されなかった。
ある日の夕方、大海の店先に諸国を回る仲買の若い手代が立ち寄った。佐恵が縁側の掃除をしていると、手代が姑に向けてこう話しているのが耳に入った。
「このところ峠道で、立て続けに荷を奪われる商人がいるという噂でございます。先日も隣国から下ってきた田んぼの商人が、見事に奪われたとか」
姑は黙ってそろばんを引く手を止めなかったが、その眉がわずかに動いたのを佐恵は見た。
その夜、佐恵が水を汲みに裏へ出た帰り、蔵の前を通りかかった。すると、姑が手燭を片手に蔵の鍵を静かに外しているところだった。佐恵はとっさに物影に身を隠した。姑は蔵の中に入り、しばらくして小さな布袋を手にして出てきた。布袋はずしりと重そうで、持ち上げるたびに金属の音がした。姑はそれを懐に大切そうにしまい込むと、辺りを伺うようにしてから足早に家へと戻っていった。
佐恵の胸に言いようのない不安が広がった。
それからしばらくして、大海に出入りの薬売りが久しぶりに訪れた。姑は店の帳場から出てきて、自ら薬売りを迎えた。二人は帳場の奥でしばらく何やら話し込んでいた。佐恵が茶を運んでいくと、薬売りが峠向こうの村の様子を語っているのが聞こえた。
「今年の不作はどこも同じ。中でも峠向こうの村はことのほか厳しく、家を手放すものも少なくないとか」
姑は黙って耳を傾けていたが、その顔から何を思っているのか佐恵には読み取ることができなかった。
それから数日、姑の様子はどこかいつもと違っていた。夜なべのとばり付けもそこそこに切り上げ、代わりに一人で何かを縫い合わせては、それを丁寧に折りたたんで箪笥にしまい込んでいるのを佐恵は幾度か見かけた。また、ある日には旅の商人を呼び止め、峠向こうの村の米相場や暮らし向きについてそれとなく訪ねている様子もあった。
数日後、待ちに待った知らせが届いた。里帰りの日がついに定まったのである。佐恵は畳に手をついて頭を下げた。
「姑様、どうかこの度の里帰りには、実家の母に合わせてくださいませ。三年も顔を見ることが叶わず、恋しくてなりませぬ」
声をつまらせながら訴える嫁を見て、姑は煙管を火鉢に打ち消した。長い沈黙が流れた。だが、姑の口から意外な言葉が降りた。
「行きたければ行くが良い。ただし、一つ条件がある。道中、茶屋には決して寄るな。見知らぬ者から食べ物や水を受け取ってもならぬ。言いつけた通りにするのだぞ」
その声にはいつになく強い響きがあった。佐恵にはなぜそこまで念を押されるのか見当もつかなかったが、ただ許しをいただけただけでもありがたく涙を拭った。
その夜遅く、佐恵は川から戻った帰り、姑の部屋の前を通りかかった。中からかたかたと、何かを縫うような物音が聞こえてきた。夜ふけまで絶え間なく続く縫い物の音だった。日が暮れれば灯り一本すら惜しむ姑が、一体何をそれほど熱心に縫っているのか。時折、チャリンという小さな金属の音が混じるのにも気づいた。
佐恵がふと立ち止ると、部屋の中の物音がぴたりと止んだ。佐恵が息を飲んで立ち尽くしていると、ふすまが音もなく開き、姑が顔を出した。その目は暗がりの中でも鋭く光っていた。
「何をしている。早く休め」
その声の底に、わずかな焦りのようなものが滲んでいるのを佐恵は感じ取った。佐恵は慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。
翌朝、里帰りの当日が明けた。佐恵は夜も明け切らぬうちに目を覚ました。胸が高鳴って、それ以上横になっていられなかった。箪笥を開けると、嫁入りの時に実家から持たされた紅萌葱色の着物が丁寧に畳まれてしまわれていた。三年の間、一度も袖を通したことのない着物だった。姑の目が怖くて、着る気になれなかったのだ。だが、今日ばかりは違った。実家の母に、達者に暮らしている様子を見せたかった。
佐恵はそっと絹の着物を身にまとった。帯を締め、鏡の前に立つと、久しぶりに晴れやかな顔が映った。母が見たらどれほど喜ぶだろうか。佐恵はそう思いながら微笑んでいた。その時はまだ気づいていなかった。この浮き立つ心が、もうすぐ粉々に砕け散ることを。
ふすまが開き、姑が部屋に踏み込んできた。佐恵の晴れ着を一目見るなり、姑の顔色が変わった。
「なんという不届きな真似をしているのか」
そして、あの凄まじい勢いで着物を引き裂いた。姑はズタズタになった布切れを抱きしめて泣く佐恵に、犬の匂いがする古着を投げつけた。
「さあ、これに着替えるのだ。破れたところは適当に繕っておいた。実家に行っても達者に暮らしていると自慢話などせず、おとなしく戻ってくるのだぞ」
佐恵は血の涙を流しながら、そのボロを身にまとった。だが、その重みに違和感を覚えた。何か硬くて重いものが、着物のあちこちに縫い込まれているようだった。だが、確かめている余裕はなかった。姑の言いつけ通り、佐恵は裏口からこっそりと大海家を出た。
道すがら、佐恵はかつて見たことのある活気が失われた村々を通り過ぎた。田畑には枯れた作物が放置されたままになっていた。道端には痩せた子供が力なく座り込み、通り過ぎる旅人を虚ろな目で見送っていた。ある家の裏庭では老人が屋根から剥がした藁を鍋で焚いているのが見えた。
佐恵の心は重かった。この劣悪な暮らしが、自分の実家にも及んでいるかもしれない。その不安が拭えなかった。
茶屋の前を通りかかった時、佐恵はふと旅姿の男が二人、腰を下ろして道行く者たちを値踏みするように見つめているのに気づいた。一人は着物の合わせから鈍く光る刀のようなものを覗かせていた。佐恵が通りかかると、男の視線が一瞬彼女に向いたが、すぐに彼女のまとうボロの着物を見て、興味を失ったように別の方へと逸れていった。まるで、見るに値しないと言わんばかりだった。
ちょうどその頃、茶屋の縁側の反対側には、上等な羽織をまとい大きな風呂敷包みを背負った田んぼの商人らしき男が茶を飲み干し、腰を上げるところだった。男は懐から取り出した財布を開き茶代を払った。財布の中には何枚もの銭が見えていた。その様子を、先の二人組が横目でじっと見ているのを佐恵は見逃さなかった。
佐恵が茶屋を通り過ぎてしばらく行った頃、後方の林の方からくぐもった叫び声が一度、風に乗って聞こえてきた。佐恵は思わず足を止め、振り返った。何かただならぬことが起きたのは確かだった。しばらく息を潜めて様子を伺っていると、道の先の林の脇に、見覚えのある大きな風呂敷包みが一つ、投げ出されたように転がっているのが目に入った。先ほど茶屋で見た、あの田んぼの商人のものに違いなかった。
佐恵は体の震えが止まらないまま、次の宿場まで急ぎ、そこで出会った土地の者に峠道の様子がおかしいと伝えた。その者は心得た様子で、すぐに近くの村役へ知らせに走っていった。
佐恵は再び道を急ぎながら、ふと自嘲めいた思いを抱いた。物盗りでさえ、これほど見窄らしい女には目もくれぬのだ。あの商人は身なりを整え、金を持っていることを隠しもしなかったばかりに、あのような目にあった。哀れみとも悔しさともつかぬ思いが、胸の奥に重く沈んだ。
ついに実家の門が見えてきた。庭先の柿の木は覚えているままの姿で立っていたが、家そのものはひどく荒れ果てて見えた。屋根板は所々痛み、板塀も倒れかけていた。門の扉の向こうに見える庭は、かつて母が丹念に手入れしていたのに、今は雑草に覆われていた。
佐恵は戸口の前で足を止めた。肩がひどく痛んだ。この着物を脱ぎ捨てたい。佐恵は心の中で叫んだ。だが、姑の厳しい言いつけが恐ろしくて、そうすることはできなかった。
震える手で門を叩いた。
「母上、佐恵でございます」
中から何やら物音がして、戸がゆっくりと開いた。その瞬間、佐恵は息を飲んだ。戸の前に立っていたのは、記憶の中の母の姿ではなかった。三年前に娘を嫁がせた時のあの丸みを帯びた温かな姿はどこにもなかった。痩せ細り、骨ばかりの手で、腰が曲がり、柱にすがってようやく立っているその姿だった。
家の中に足を踏み入れると、囲炉裏は冷え切っており、灰さえも取り払われたままだった。米びつの蓋を開けると、そこにわずかなくごの米が残るばかりだった。棚の隅には食べ慣れぬ野菜の根や干し草のようなものだけが干してあった。壁際にあったはずの箪笥や行李も、いつの間にか姿を消していた。
「母上、これは一体……」
佐恵の声が震えた。母は力なく笑い、「暗くなるほどのことではない。しばらく続いた不作のせいだ」と呟いた。だが、その声には隠しきれぬ疲れが滲んでいた。
互いの痩せた顔を見つめ合った瞬間、親子は言葉一つ交わせぬまま、その場にくずおれて泣き崩れた。佐恵は息を切らして母を抱きしめた。三年前はふっくらと温かかった母の体は、今や骨と皮ばかりになっていた。
「ああ、我が子よ。達者に暮らしていると言っていたのに、これは一体どうしたことか」
母は娘の来ているボロを見て胸を叩いた。佐恵は何も言えなかった。姑にきつく当てられ、このようなボロを着せられてきたなど、とても言えるはずもなかった。
ところが、ちょうどその時だった。母が娘の背をさすっていると、妙な音が聞こえてきたのだ。
「ちりん、ちりん」
重みのある、それでいて軽やかな金属の音だった。母は泣くのをやめ、首をかしげた。佐恵は昨夜の記憶が蘇った。あの夜、姑の部屋から聞こえてきたのは、まさにこの音だった。
「この音は何であろうか」
母が娘の肩をそっと揺すってみると、再び「ちりん」という音がした。今度は一層明瞭に聞こえた。佐恵は驚いて自分の着物を見下ろした。
「この着物の中に、何かある」
佐恵は震える手でボロの裏地を探った。外から見れば古びてすり切れた布だが、裏を探ってみると、何か固くずっしりとしたものが縫い込まれていた。佐恵の指先が袷の縫い目を辿っていくと、小さな包みのようなものに触れた。
佐恵が縫い目を丁寧にほどいていくと、中から光るものが姿を現した。
「これは小判ではないか」
母の目が大きく見開かれた。佐恵の手のひらに、ずっしりとした小判が一枚転がり出たのである。日の光を受けて輝くそれを見た瞬間、二人は言葉を失った。佐恵は慌てて着物の他の部分も探ってみた。袖口、裾、腰紐。着物のあちこちから、同じ感触が伝わってきた。
「一両、二両、三両……」
母は畳の上に転がる小判を震える手で一枚一枚拾い集め、数えていった。片袖だけで五両、腰の部分に六両、袷にまた五両。数えるうちに、母の声は一層震えた。
「これほどの金を、一体どうやって」
佐恵は呆然としながら、いくつかの記憶を同時に思い返した。夜ふけに聞いたあのチャリンという金属の音。蔵の前で見た、姑が懐にしまい込んでいたあの布袋。そして茶屋で見た二人組の男たちが、自分には一瞥もくれずに視線をそらしたあの様子。三つの光景が頭の中で一本の糸のようにつながっていった。
あの夜の縫い物は、この小判を縫い込む音だったのだ。蔵から持ち出された布袋は、この小判の元だったのだ。そして、あのボロの姿だったからこそ、自分は物盗りの目に留まらなかったのだ。絹の着物を身にまとっていれば、今頃は自分があの林に引きずり込まれていたかもしれない。あれほど重かった理由、石を背負ったように肩に響いていた理由が、まさにこれだったのだ。
佐恵の手が着物の裏を探るうち、小さな紙きれに触れた。くしゃくしゃに折りたたまれた文だった。母はその小判の山を前に「これは姑様がこしらえたものならば、私が受け取るわけにはいかぬ」と首を横に振った。だが、佐恵はそれを押しとどめた。
「母上、どうか早まらないでくださいませ。まずはこの文をお読みください」
震える手で文を開くと、そこには姑の筆跡でびっしりと文字が綴られていた。
「佐恵よ。この文を読んでいるということは、お前が無事に実家へ着いたということであろう。まずはそのことを何より安堵している。お前にボロを着せたことを恨んではならぬ。全て理由あってのことなのだから。お前には黙っていたが、峠向こうのお前の実家がこの度の不作でひどく難渋していると、出入りの薬売りから聞き及んだ。そのままにしておくことなど私にはできなかった。だが、金銭を人手に託して届けさせるわけにはいかなかった。持ちの者が金を持っておれば、道中で奪われるは必定。誰も疑わぬ形で、誰にも気づかれぬままに届ける。その方法をずっと考えていた。行き着いた答えがこれだ。ボロの嫁に金銭を縫い込んで運ばせる。それだけのことだ。お前の母は気位の高いお方と聞いている。ただ小判を差し出しても、決してお受け取りにはなるまい。それ故、こう言うのだ。姑にきつく当てられ、ボロを着せられてきましたが、着物の中に小判が縫い込まれていましたと。姑が何卒、母上に差し上げるようにと申しましたと」
佐恵が文を読み進めると、もう一枚別の紙きれが挟まれていることに気づいた。町の米屋の名が記された一枚の書き付けだった。
「この店のおやじは古くから付き合いがある。この書き付けを見せれば、米を買い叩かれることはないはずだ」
文の終わりには、こう記されていた。
「佐恵よ。私にも若い頃、この土地が飢饉に見舞われたことがあった。あの年、私はまだ十四だった。弟は飢えのあまり声も出ずに泣き続け、母は自らの分の粥を私に与え、自分は水ばかりを口にしていた。近隣に助けを求めても、皆が同じように困窮しており、誰も余分な米など持ち合わせていなかった。あの時の無力さを、私は生涯忘れることはできない。これゆえ、お前の母が難渋していると耳にした時、あの苦しみだけはもう誰にも味わせたくないと思わずにはいられなかった。私がお前を愛していないと思っていたか。不器用ゆえにこのような形になっただけで、お前は私にとって掛け替えのない子である。道中くれぐれも気をつけて。そして母には、この姑が深く頭を下げていたと伝えておくれ」
佐恵は文を読み終えると、しばらく声も出せずにいた。これまで三年もの間、恐ろしいとしか思えなかった姑の一挙手一投足が、まるで違う意味を帯びて胸に迫ってきた。あの冷たい声も、あの厳しい眼差しも、全てはこの一枚の文に込められた思いの裏返しだったのだ。
佐恵は涙を拭い、母の手を取った。
「母上、お聞きください。姑にきつく当てられ、このようなボロを着せられてまいりましたが、着物の中に小判が縫い込まれていたのです。姑が何卒、母上に差し上げるようにと申しました」
佐恵が文にあった通りの言葉を口にすると、母のこわばっていた顔がわずかに緩んだ。
「そういうことであれば」
母はようやく小判に手を伸ばした。それでもなお「この恩は必ずお返しせねば」と呟く母に、佐恵は静かに首を振った。
「母上、まずはご自分の体をお労りくださいませ。それが何よりの恩返しでございます。母上、早く町へ出ましょう。この金銭で米を買い、薬を求めねばなりません」
二人は書き付けを手に、町の米問屋へと向かった。店先には米を求める人々が列をなしており、店の者が金を吊り上げているのか、あちこちで怒号の声が聞こえた。佐恵が番頭に書き付けを差し出すと、番頭は文字を確かめ、わずかに目を見開いた。
「これは大海の女将さんの書き付けでございますね。お待ちください」
番頭は奥から主人らしき初老の男を連れて戻ってきた。主人は書き付けにじっと目を通すと、深く頷いた。
「姑殿には長年世話になっている。他の客とは別に、裏の蔵から良質の米をお分けいたしましょう」
そう言って、店の者に人目のつかぬよう裏口から米俵を運ばせた。佐恵は姑がこの店の主人といつからこのような繋がりを持っていたのか、驚きを禁じ得なかった。
佐恵は薬種屋にも立ち寄り、体力を補う薬草を求めた。その場しのぎの施しで終わらせるわけにはいかない。次の収穫までをどうにか凌げるだけの量を買い求めた。残った小判で冬を越すための糸と反物も買い求めた。買い物は思いのほか多く、佐恵一人では背負いきれなかったが、店の若い者が心得た様子で荷車を貸してくれた。
荷車を引きながら家路につく間、母は幾度も涙をこぼした。
「佐恵よ、これも皆、姑のおかげだ」
家に着くと、佐恵は母を支えながら部屋へと運び込んだ。囲炉裏に火を起こし、米を研いで飯を炊いた。炊きたての飯からは香ばしい匂いが漂った。母はその匂いをかいで、また涙をこぼした。
「この匂いをかぐのは、一体何ヶ月ぶりであろうか」
佐恵は飯を茶碗に盛り、母の前に置いた。そして薬種屋で求めた薬草を煎じた湯も添えた。母は娘がよそってくれた飯を一口すくうと、目を閉じてゆっくりと噛みしめた。その姿を見て、佐恵は胸が詰まる思いだった。
母は飯を食べ終えると、娘の手をしっかりと握った。
「佐恵よ、お前は福のある子だ。あのような姑様に恵まれたのだから。戻ったら姑様に孝行を尽くしなさい。決して恨んだり、寂しく思ったりしてはならぬ。表向きは恐ろしく冷たく見えても、その内にはお前を大切に思う心があるのだから」
佐恵はこれまで三年の間、姑にどれほど辛く当たられてきたかをぽつりぽつりと母に語った。理由も告げられぬまま里帰りを止められ続けたこと、些細なことで叱られたこと、優しい言葉一つかけられたことがなかったこと。母は黙って耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。
「佐恵よ。私も昔、姑様に仕えたことがある。あの頃はただ辛いとしか思えなかったが、今になって思えば、あれもまたこの家を守るためであったのかもしれぬと思うことがある。人にはそれぞれの事情があり、それぞれの不器用さがあるものだ」
日が西に傾く頃、佐恵は母に別れを告げねばならなかった。日が暮れる前に大海家へ戻らねばならなかったからだ。母は戸口まで出て、娘を見送った。
「道中気をつけて行きなさい。そして姑様には、この姑が深く頭を下げていたと伝えておくれ。佐恵よ、正直に申せば、あの小判など受け取れぬと思っていた。だが、姑様のご心を知った今は、素直に受け取ることこそがあの方への何よりの返礼だと思うようになった。人の情けを意地を張って断ることの方が、かえって相手の心を踏みにじることもあるのだと、この年になって初めて知った気がする」
佐恵は母をしっかりと抱きしめた。朝には悲しみで抱きしめたのに、今は感謝の思いで抱きしめていた。
帰り道、佐恵は先ほど通った茶屋の前を再び通りかかった。店はすでに空で、道端の藪の影に、先ほど見た田んぼの商人の忘れ物か、破れた絹の傘が一つ落ちているのに気がついた。佐恵は足を止め、しばらくそれを見つめた。あの二人組の男は今も峠のどこかに潜んでいるのかもしれない。だが、今の佐恵には恐れよりも静かな感慨の方が勝っていた。
物盗りでさえ目もくれなかった、この見窄らしい姿。それこそが、母を救う金銭を守り抜いた盾だったのだ。あの時、辱めだと思った言葉が、今では誇らしい響きを持って胸に蘇った。
ボロをまとったままではあったが、佐恵の心は日差しのように温かかった。足取りも軽やかだった。金は全て母に渡してしまったが、その重さよりもはるかに大切なものを手に入れたからだ。それは、姑の真心だった。
夜になって大海家に着いた時、案の定、姑は表門の外に立っていた。佐恵の姿を見るなり、姑はすぐに背を向けて奥へと入っていった。だが、佐恵は見逃さなかった。背を向けたその時、姑の目元がほんのりと赤く濡れていたことを。
佐恵は部屋に戻ると、しばらくためらった後、姑の部屋の前に膝をついた。
「姑様、ただ今戻りました。実家の母が、姑様に深く頭を下げていたと申しておりました」
ふすま越しに、姑の短い声が返ってきた。
「戻ったなら早く着替えなさい。その匂いが廊下にまで届いておる」
その棘のある言い方に、以前なら涙をこぼしていただろう。だが、今は違った。佐恵は静かに微笑むと、ボロを丁寧に脱ぎ、糸をほどいた部分をそのままにして、もう一度ふすまの前に膝をついた。
「姑様、この着物は、私が自らの手で繕わせていただきます」
しばし、ふすまの向こうから物音一つしなかった。佐恵が諦めて立ち上がろうとしたその時、ふすまがわずかに開いた。隙間から覗いた姑の顔はいつもと変わらぬ仏頂面を保っていたが、その目元は確かに赤く晴れていた。
「好きにするが良い」
姑はそれだけ言うと、着物を受け取ることもせず、ふすまを静かに閉じた。だが、その一言には、これまで聞いたことのないわずかな柔らかさが滲んでいるのを佐恵は聞き逃さなかった。
翌朝、佐恵が目を覚ますと、枕元にあのボロの着物が置かれていた。破れた部分には、すでに丁寧な縫い目が入れられていた。傍らには針と糸、そして一枚の清潔な布巾が添えられていた。佐恵はそれを見つめ、静かに頬を伝う涙を拭った。
誰も愛しているとは言わなかった。それでも、その一針一針が言葉よりも雄弁に語っていた。
それから幾つかの月日が流れた。二人の間で、あの朝のことが改めて語られることは一度もなかった。だが、姑の物言いは相変わらずそっけないままでも、時折り実家の様子をさりげなく訪ねるようになった。母の暮らし向きが落ち着いたと聞けば、姑は黙って頷き、それきり何も言わなかった。
翌年の秋、佐恵が誰に促されるでもなく自ら米俵を実家へ届けたいと申し出ると、姑は何も言わずにただ頷いた。以前であれば、今日の支度もつけずに一人で出かけることなど決して許されなかったはずだった。だが、その時は何も言わず、ただ佐恵の後ろ姿を見送っただけだった。その頷き一つ、その沈黙一つに、以前とは違う何かが宿っているのを佐恵は感じ取るようになっていた。
あのボロの着物は、大海家の奥の箪笥に、大切にしまわれ続けたという。見た目はこの世に二つとないほど見窄らしい古着でありながら、その内には、この世で最も深い真心が縫い込まれていたのである。



