「もう出て行ってくれ。」…

「もう出て行ってくれ。」...

「もう出て行ってくれ。」

低い声が和室に響いた。かず明は気まずそうな顔をしていたが、そこに迷いはなかった。私は息を飲み、息子の目を見つめた。秋江は彼の横で、勝ち誇ったように小さく笑っている。

ややあって、彼女は薄い冊子を取り出した。

「お母さんにはこちらがいいと思います。これは老人ホームのパンフレットです。見学もできますよ」

「母さんもその方が安心だろう」

差し出されたパンフレットを受け取ることなく、私は部屋を見回した。柱の傷、古い棚、肖像が選んだ照明。この家のありとあらゆるものに、家族の思い出が詰まっている。

「分かったわ」

そう言うと、私は未練を断ち切るように立ち上がった。家を追われた私がどこへ向かうのか。目の前にいるかず明と秋江は、まだ知るよしもなかった。

私は金成彩子。68歳。約50年間、主婦としてこの家を守ってきた。

実家は地元でそれなりに知られた旧家だった。弟の秀夫と共に、幼い頃から礼儀作法と忍耐を教えられて育った。私は負けず嫌いな子供で、勉強も運動も常に一番を目指した。しかし、望んだ道を自由に選べたわけではない。大学へ行きたいと両親に伝えた時、父から返ってきたのは「女の子だからそこまでしなくていい」という一言だった。家庭内で父は絶対的な存在だったため、私は悔しさを飲み込むしかなかった。

18歳の時、両親が用意した見合いの席で夫の肖像と出会った。肖像は私より10歳年上で、小売業の会社を経営していた。物言いは穏やかで、落ち着きがあり、こちらの話をじっくり聞いてくれる人だった。そんな彼の温かさに惹かれ、私は結婚を決めた。

結婚の翌年、息子のかず明が誕生した。小さな手を握りながら、この子には可能な限り多くの選択肢を持たせたいと思った。

そのかず明も今では49歳。大学卒業後、肖像の会社に就職し、現在は役員として働いている。26歳の時、一つ年上の秋江と結婚し、息子が生まれてからは私たちが用意した2世帯住宅で一緒に暮らし始めた。肖像、私、かず明、秋江、そして孫。外から見れば、それは平和な同居生活だった。

私自身も、家族と過ごす日々に特に不満はなかった。しかし、この先もずっと続くと思っていた日常は、少しずつ終わりに近づいていたのだ。

約1年前、肖像が突然入院した。仕事中に倒れて意識を失い、緊急手術で命は取り留めたものの、かなりの長期入院になるという医者の見立てだった。

私たちは肖像のベッドを囲み、口々に彼を励ました。

「父さん、会社のことは俺に任せて、何も心配しなくていいからね」

「そうよ。30年も働き詰めだったんですもの。ゆっくり体を休めてちょうだい」

肖像の入院生活が始まった。すでに孫は家を出て独立しており、家には私とかず明夫婦の3人暮らしだ。我が家は2世帯住宅で、居住スペースも玄関も水回りも完全に分離している。家事もそれぞれの世帯で済ませていた。ところが、肖像が入院した直後から、私の生活は大きく変わり始めた。

「お母さん、これも一緒に洗っておいてもらえますか?」

ある朝、秋江が洗濯籠を抱えて私たちのリビングに入ってきた。

「これは、あなたたちの洗濯物かしら?」

「ええ、別々に回すのも面倒ですし、水がもったいないので」

「どうせお母さんは家にいるんですから、洗濯機を回すくらい手間じゃないでしょ」

言うが早いか、秋江は当然のように洗濯物を差し出した。申し訳なさそうな様子は微塵もない。戸惑いながらも私が洗濯物を受け取ると、彼女は一方的に次の予定まで決めた。

「助かります。じゃあ、これからもお願いしますね。お父さんが入院してるんですから、家族で助け合わないと。お母さんだけ何もしないわけにはいきませんよね」

その日をきっかけに、秋江の頼み事は増えていった。掃除、洗濯、かず明たちの部屋の掃除機かけ、洗面台を拭き、台所の床まで磨く。自然と、自分の家事が後回しになっていた。

夕方になると、秋江は食材の入った袋を持ってきた。

「今夜はこれで夕食を作ってください。かず明さん、最近外食続きで胃が疲れてるみたいなんで」

「食事は今まで通り別々でいいんじゃない? あなたたちと私みたいな年寄りじゃ、夕食の時間帯も好みも違うでしょうし」

「それくらい私たちに合わせてください。かず明さんは今、お父さんの代わりに家を支えてるんですよ。協力しようと思わないんですか?」

かず明の名前を出される度に、私は言葉を飲み込んだ。彼が肖像の後を継ぐために奮闘していることはよく知っていたからだ。肖像の入院中に家の中で波風を立てたくないという思いもあった。

こうして私は、かず明たちの分まで食事を作るようになった。朝は3人分の洗濯物を干し、午前中に家中の掃除を済ませ、昼前には買い物へ行き、夕方には彼らの食事を作る。一日の予定は、徐々に秋江の都合で埋まっていった。

そんなある日の夕方、台所に入ってくるなり、秋江は大げさに顔をしかめた。

「ちょっとお母さん、まだご飯できてないんですか? かず明さん、帰ってきたらすぐ食べたい人なんですけど」

「肖像の着替えを病院へ持っていく準備をしていたの。もう少し待ってちょうだい」

「本当に年寄りは段取りが悪いですね。先に済ませるべきことが何かくらい、考えれば分かるのに。病院のことばかりじゃ、こっちが困りますよ」

味噌汁を温めながら、私は反論の言葉を飲み込んだ。明らかに秋江は私の事情を聞くつもりがない。入院している肖像の荷物を用意することより、自分たちの夕食が優先らしい。

「分かってないみたいだから言っておきますけど、家事を頼んでるのはお母さんのためでもあるんですからね。家でじっとしてるばかりじゃ健康に悪いですからね。お父さんみたいに倒れないように、多少は体を動かさないと」

最もらしい主張だったが、そこに私を気遣う温かさはなかった。自分の行動を正当化するため、適当な理屈をこねているようにしか見えない。それでも私は秋江を責めなかった。かず明が結婚して20年以上続いた嫁姑関係がある。一時の感情で台無しにすることは、何としても避けたかった。

1ヶ月後、肖像がいない私の毎日はすっかり変わっていた。私とかず明の2人でこなしていたはずの2世帯分の家事は、いつの間にか私一人の役目になっていた。

「お母さん、ここまだ汚れていますよ。ちゃんと見て拭いてくださったんですか?」

「さっき拭いたところよ」

「床の拭き方が雑なんです。力を入れればいいというものじゃありません。隅々まで気を配らないと、掃除したことになりませんよ」

秋江はしゃがみ込み、棚の下を指でなぞって見せた。そこに目立つ汚れがあるとは思えなかったが、彼女は鬼の首を取ったような顔をしている。私は雑巾を洗い直し、同じ場所を拭いた。肖像の病院へ向かう時間が、少しずつ遅れていく。

「洗濯物も、畳み方を変えてください。このままだと仕舞う時にかさばるんです。畳み方って、こうするんです。お母さんの畳み方は古いんですよ」

「しまえれば同じだと思うけれど」

「同じじゃありません。見た目も効率も大事なんです」

秋江は大げさなため息をついた。まるで私を何も知らない子供のように扱っている。長年続けてきたやり方を鼻で笑われるのは、決して気持ちのいいものではなかった。

その日の夕方、私は煮魚と汁物を用意した。仕事から帰ってきたかず明は当然のように真っ先に食卓に座り、続いて秋江が席に着く。2人は私を待たずに食べ始めた。ようやく私が箸を持ち上げたその時、秋江が眉を寄せた。

「今日の献立、年寄り臭くないですか? かず明さん、こういう味付けばかりだと飽きると思いますよ」

「薄かったかしら?」

「薄いというより、古いんです。こんな甘辛い味ばかりじゃ飽きますよ。もうちょっと現代の食卓に合うものを考えてください」

「確かに秋江の方が合理的だよ。栄養のことも考えてるし。母さんの料理は、昔ながらって感じだからな」

ぽつりと呟いたかず明に、私は心の奥が冷えるのを感じた。彼は私を責めるつもりはなかったのかもしれない。しかし、秋江の言葉を肯定したという事実だけで十分だった。家族のために作ってきた料理が、無遠慮に否定されたような気がしたからだ。

「それなら、秋江さんの好みに合わせてみるわ」

「私の好みじゃなくて、今時のやり方です。勘違いしないでください」

「母さんも柔軟になった方がいいよ。秋江は家のことをちゃんと考えてくれてるんだから」

それ以上、私は何も言わなかった。言い返せば「古い考えだ」と一蹴されるに決まっている。料理も洗濯も掃除も、全てが揚げ足を取る対象になっていく。家事のほとんどをこなしているのに、感謝されることはない。

それでも当時の私は、肖像の入院で2人とも精神的に不安定になっているのだから、多少自分への当たりが強いのは仕方がないと考えようとしていた。しかし、現実問題として、私が守ってきた穏やかな暮らしは、毎日着実に失われていった。

肖像の入院から3ヶ月が過ぎる頃、私は時間に追われるようになっていた。朝から洗濯、掃除、買い物、食事の支度を済ませ、その合間に肖像の着替えや必要なものをまとめる。病院へ行ける時間は以前よりずっと短くなっていた。にも関わらず、秋江は私が出かけるたびに苦い顔をする。

「お母さん、またお父さんの病院ですか? 昨日も行ってましたよね」

「ええ、今日は着替えを届けてくるわ」

「そんなに頻繁に行ってどうするんです? 毎日顔を出したところで、病状が変わるわけでもないでしょ」

「それはそうかもしれないけど、顔を見るだけでも少しは安心すると思うから」

「お母さんが行ったところで意味ないですよ。病院には専門のお医者さんや看護師さんがいるんですから」

「それでも、時間がある日は行きたいの」

「お母さんより家のことが先じゃないですか? こっちの生活だってあるんですよ。分かってますか?」

「分かってるわ。だから家事を済ませてから出かけるつもりよ。夕食の下ごしらえもしてあるから、後で確認してちょうだい」

そう答えたが、秋江の表情は曇ったままだった。どうやら彼女は、私が家を開けること自体が気に入らないようだ。議論しても拉致が開かないと判断した私は、秋江の返事を待たずに鞄を持った。玄関へ向かうと、背中から声をかけられる。

「かず明さんには言っておきますからね。お母さんがまた勝手に出かけたって」

「構わないけど、何もわざわざ報告するようなことではないでしょ」

「家族に関わる問題ですから。お母さんに勝手に外出されると困ります。何かあった時、誰が対応するんですか?」

「『勝手に』という言い方は違うと思うわ。私は肖像の見舞いに行くのよ」

その日の夜、かず明が私を呼んだ。不機嫌そうな表情を見れば、秋江が彼に何を吹き込んだのかは大体分かる。

「母さん、今日も病院に行ったんだって。秋江から聞いたよ」

「ええ、肖像の様子を見てきたわ」

「父さんのことが心配なのは分かるけどさ、母さんが病院に入り浸ると、家が回らないんだよ」

「別に入り浸ってはいないわよ。家事を済ませてから、ほんの短い間お見舞いに行っているの」

途端にかず明は箸を置き、面倒そうに息を吐いた。こちらの意見を聞く前から結論は決まっているようだった。秋江は黙っていたが、口元には満足そうな笑みが浮かんでいる。

「秋江の負担を増やさないで欲しいんだ」

「秋江さんの負担?」

「そうだよ。母さんがいない間、家の中のことを管理するのは秋江になるだろう」

「私だって、全部を見ていられるわけじゃありません。お母さんが出かける時は、こちらも予定を調整しないといけないんです」

思わず、私は絶句した。毎日秋江たちの分の家事まで引き受けているのは私だ。それなのに、かず明の中では秋江が私を支えていることになっているらしい。腹を痛めて産んだ息子のはずなのに、どうしてこんなにも分かり合えないのだろう。

「今まで家事は別々だったでしょ。お父さんが入院したんだから、生活スタイルが変わるのは当然じゃないですか? 言わせてもらいますけど、私だって大変なんですからね」

「俺にも会社の仕事があるし、みんなそれぞれ忙しいんだ。そういうわけで、母さんも少しは遠慮してくれ」

その日を境に、私は病院へ行く時間をさらに短くした。しかし、秋江は目ざとく私の外出に気づきを漏らす。

「今日もお見舞いですか? 昼過ぎ、少し姿が見えませんでしたけど」

「ほんの少しの間よ。家事は済ませてあるわ」

「そういう問題じゃありません。出かけるなら私に一言あってもいいでしょ」

秋江の監視に気が滅入った私は、家事の合間を縫って病院へ向かった。朝早く煮物を作り、洗濯物を取り込み、床を拭き、秋江に見つからないようにこっそりと外へ出る。病室のベッドに横たわる肖像の姿を見るたび、申し訳なさが込み上げた。もっとそばにいたいのに、それができない。

肖像の病室では、努めて明るく振る舞うようにしている。「家のことは心配しないで、焦らず体を治して」と何度も伝えた。しかし、本当は見舞いに行くことさえ攻められている現実がある。真実を肖像に言えないまま、私は毎日申し訳なさを抱えていた。

さらに3ヶ月後、肖像の入院から半年が過ぎる頃、私は家の中でも気を抜けなくなっていた。秋江が私たち夫婦の居住スペースに、断りもなく入ってくるようになったからだ。

「秋江さん、こっちに来るなら一言声をかけてちょうだい。勝手に入られると困るわ」

「同じ家で暮らす家族なんだから、気にしなくていいでしょ。それとも、何か隠すようなものでもあるんですか?」

「そういう問題じゃない。ここは私と肖像の生活の場所よ。家族だろうと、踏み込んでいい場所じゃないわ」

「ひどい言われようですね。私は片付けを手伝ってあげてるんですよ。お母さん一人では、なかなか進まないでしょ」

なりふり構わず、秋江は棚の扉を開け、箱や袋を勝手に取り出している。静止する間もなく中身を床へ並べていく。古いアルバム、写真、肖像が出張先で買ってきた置物、孫が小さい頃に書いた絵。他人には不要なものに見えるかもしれないが、私にとってはどれも思い出の詰まった大切な品だ。

「使ってないなら捨てますね。こういうものを残しておくから、部屋が片付かないんです」

「それは捨てないで。肖像が買ってきてくれたものなの」

「思い出があっても、ただ置いておくだけなら邪魔です。どうせ見返すこともないんでしょ」

「邪魔かどうかは私が決めることよ。あなたが勝手に決めることではないわ」

毅然とした態度で箱を取り戻し、棚の奥へ戻した。すると秋江は不満そうに唇を噛みしめる。珍しくきっぱりと拒絶した私の態度が気に入らないようだ。

それからというもの、私が外出している間に私物の位置が変わることが増えた。引き出しの中の手紙が机の上に散らばっていたり、食器棚の奥にしまっていた皿が勝手に処分袋へ入れられていたりしたこともある。抗議をすると、秋江は決まってこう言った。

「断捨離を手伝ってあげたんです。放っておいたら、いつまでもそのままでしょ」

「頼んでないわ。私のものには触らないでちょうだい」

強めに叱ったところで、秋江は全く反省しない。それどころか、題目として断捨離を続けた。かず明に話しても、案の定、期待した返事は返ってこなかった。いつも彼は秋江の主張のみに耳を傾け、私の不快感を軽く見ていたからだ。

そんなある日のこと。病院から帰ってくると、箪笥の引き出しが少し開いていた。嫌な予感がして、急いで中を見たところ、着物がごっそり消えている。

かず明たちの部屋へ駆け込むと、2人は珍しく夫婦揃ってソファにくつろいでいた。

「秋江さん、箪笥の着物を知らない? 見当たらないのだけど」

「あら、やっぱり気づきました?」

「『あら』じゃないわ。どこにやったの? 勝手に触らないでと言ったでしょ」

「売りました。着ないで置いておくなんてもったいないでしょ。無駄に場所も取りますし」

一瞬、私は返す言葉を失った。その中には、肖像が還暦の祝いに選んでくれた着物や、母から譲り受けたものもあった。値段ではなく、私の人生の一部として残していた品々だ。それを秋江は不要品として扱ったのだ。手の先が冷たくなり、私は箪笥の前に立ったまま動けなかった。

「勝手に売るなんて、どういうつもりなの? あれは私の着物よ」

「だから、片付けです。お金にもなったんだから、いいじゃないですか。その方が合理的でしょ」

「箪笥の中がすっきりして、良かったんじゃないか。秋江もお母さんのためを思ってやったんだよ」

かず明までも、そう言うのね。あれが私にとってどんなものか、考えもしないで。

その夜、私は残った着物や写真を別の箱へ移した。箪笥の鍵を確認し、外出前には必ず施錠する。家族を疑いながら暮らすことは情けなくて苦しかったが、大切な思い出の品を守るには、それしかなかったのだ。あの日から、私の安心できる場所は徐々に狭くなっていった気がする。

肖像の入院から1年が過ぎ、病院からの連絡が一気に増えた。肖像の容態が悪化したのだ。夜中に電話が鳴るたび、私は心臓が飛び出しそうになった。

そんなある日、秋江が奇妙な顔をして切り出した。

「お母さん、少し話しましょう。今のうちに確認しておきたいことがあるんです」

「今から病院へ行くところなの。肖像の容態が良くないと連絡があったのよ」

「だからこそです。この家や会社のことも考えないと。何も決めないままでは、後で困るのはこちらなんですから」

「どういう意味?」

秋江は台所の椅子に座り、すでに書類を広げていた。そこには家の間取りや肖像の会社に関するメモが並んでいる。私は鞄を持ったまま、その場に立ち尽くした。先ほど肖像の容態が悪いと聞いた直後だ。それなのに、秋江の関心は病室ではなく別の場所に向いている。私は強い不快感を覚えた。

「亡くなった後になって慌てても困るでしょ。今ならまだ落ち着いて話せます」

「肖像はまだ生きているわ。そんな言い方はしないで」

「でも、準備は必要です。現実的なことから目をそらしても、何も解決しません」

「今は夫のことを考えたいの。家や会社の話は後にしてちょうだい」

震える声でそう言うと、秋江は小さく息を吐いた。まるで私が聞き分けのない相手のような態度だ。書類から目をそらし、私は玄関へ向かった。すると俄かには後ろから追いかけてきて、かず明の名前を出した。

「この件はかず明さんとも話してあります」

「かず明も、今やることに賛成してるの?」

「当然です。長男なんですから。これからのことを考える責任があります」

「長男なら、父親の心配を先にして欲しいわ。それじゃ、私は行ってくるから」

その夜、かず明は帰宅したばかりの私を呼び止めた。苦しそうに息をしていた肖像の姿、かすかに握り返してくれた手の感触。病院でのことを思い出していた私は、かず明の最初の言葉を聞いて耳を疑った。

「母さん、秋江から聞いたよ。家族の話し合いを避けたんだって。正直困るんだよね。こういうことは早めに整理しておかないと、揉めるから」

「今する話ではないと言ったのよ。肖像はまだ病室で頑張っているの」

「現実を見ろよ。いつまでも感傷的で動かれても困るんだよ」

「現実なら見ているわ。肖像の病状のことも、ちゃんと受け止めているつもりよ」

「感情ばかりじゃ、家も会社も守れないだろう。父さんの会社のことだって、俺たちに関係してくるんだ。お母さんがしっかりしてくれないと困ります」

私は2人の顔を見た。どちらの口からも、肖像を案じる言葉は出てこない。家、会社、相続、手続き。その言葉ばかりが並び、私は話を続ける気をなくした。

「病院へ戻るわ。肖像のそばにいるの。今はそれ以上に大事なことはないの」

その夜から、私は病院に泊まり込むようになった。椅子に腰をかけ、肖像の呼吸を確かめながら夜を明かす。かず明たちに何を言われようと、私は妻として病院から離れなかった。私が守りたいのは肖像だ。50年近く一緒にいた彼の苦しみを、少しでも和らげたい。その一心で、私は夜通し肖像の手を握り、朝が来るまで静かに寄り添った。

泊まり込みを始めて1週間後、肖像は静かに息を引き取った。病室で付き添っていた私は、しばらく動けなかった。手の中に残った温度が、少しずつ遠ざかっていくのが分かる。50年近く隣にいた人が、もう目を開けない。その事実に、私は胸がいっぱいになった。

病院に駆けつけた孫は、私と同じく泣きはらした目をしていたが、かず明と秋江はそうではなかった。

「母さん、葬儀のことだけど」

「今は少し待って。まだ肖像の顔を見ていたいの」

「こういうことは早く動かないと、後々詰まりますよ」

「夫が亡くなったばかりなのよ。せめて今は、静かにしてちょうだい」

秋江は涙をぬぐう私の横で、すでに葬儀社の資料を広げていた。かず明もスマホを見ながら、日程や式場の話を進めている。私が肖像の顔を見つめている間に、2人は現実的な段取りを先に並べていく。必要なことだと頭では分かっていた。けれど、せめて今夜は、気持ちを整理する時間が欲しかった。

「いい年して、甘いこと言うなよ」

「そうですよ。1年も前から、心の準備はしてたはずでしょう」

秋江たちにせかされ、仕方なく葬儀の話に応じたものの、私の希望は次々と却下された。

「肖像は、昔から付き合いのあるお寺で送って欲しいと言っていたわ。あの人にとっては、ゆかりのある場所なの」

「そこ、古くないですか? 駐車場も狭いし、参列する方にも不便だと思いますけど」

「今時は、もっと便利な会場があるよ。設備も整ってるし、会社関係の人にも案内しやすい」

「便利さで決めるものではないでしょ。肖像本人の望みを大事にしたいの」

肖像が親しくしていた人たちへ直接連絡したいと伝えたが、秋江は説明を聞く前に名簿を取り上げた。喪主は私のはずだ。それなのに、いつの間にか私は家族の外に押し出されている。

「お母さんのやり方だと、地味すぎます。これでは、来てくださる方に失礼です」

「肖像は派手なことを好まなかったわ。静かに見送って欲しい人だったの」

「母さんは疲れてるんだよ。判断も鈍ってるだろうし、秋江に任せた方が早い」

耳障りのいいセリフを並べ、かず明たちは肖像の葬儀を主導した。祭壇の花も、返礼品も、挨拶の順番も、私の希望はほとんど通らない。肖像のために選びたいものが、次々と2人の都合で決められていく。私は悲しむ時間さえ奪われているように感じた。

そして、迎えた葬儀当日。

「おばあちゃん、無理しないでね。長い看病で疲れたでしょ」

「ありがとう。来てくれて嬉しいわ。肖像もきっと喜んでいると思う」

「こちらで受付を済ませてください。細かいことは私が聞きますので」

自ら来客対応を買って出た秋江。親族や取引先に深く頭を下げ、案内も挨拶も積極的に仕切っている。正直、それ自体は助かる場面もあった。しかし、秋江は明らかに、金成家における自分の存在をアピールしていた。当然のように、かず明も彼女に同調する。

「母は昔から家の中のことしか分からなくて、こういう外向きの仕事はあまり得意じゃないんです。だから秋江が動いた方が安心なんですよ。母には無理をさせたくありませんから」

「そうなんですよ。お母さんは長く看病もされていましたし、今は私たちが支えないと」

親族たちの視線が私に集まった。哀れみと戸惑いの入り混じった視線だ。かず明の一言は、私が何も判断できない人間だと示すには十分だった。しかし、私はその場では何も言い返さなかった。肖像を送る場を、争いの場にしたくなかったからだ。

「彩子さん、本当に大丈夫なの? 何かあれば言ってね」

「ええ、大丈夫よ。今は肖像を静かに送ってあげたいの。それさえできれば、私は満足だから」

それから、秋江を中心として式は進んだ。かず明はその横で、当然のように頷いている。唇を固く結んだ私は、肖像の遺影を見つめながら、ただ静かに別れを告げるしかなかった。

葬儀の翌日、まだ香の匂いが残る家の中で、私は現実を受け止めきれずにいた。肖像の遺影を見つめていると、彼との50年間が浮かんでは消えていく。そんな状態の私を、かず明たちは部屋に呼んだ。

「母さん、今後のことを話そうか?」

「今後って……いつまでも悲しんでばかりはいられませんから」

「肖像を送ったばかりなのよ」

「遺産の手続きが済んだら、この家を立て替えるつもりだ」

「立て替える?」

「古いし、使いにくいだろ。私たち夫婦で暮らすには、今のままだと不便なんです」

「この家には、肖像と積み重ねてきた日々が詰まっているの。孫が走り回った廊下も、肖像が好きだった縁側もある。不便だからと、簡単に切り捨てられる場所ではないわ」

「お母さん、いい加減に聞き分けてください。お父さんが亡くなった今、この家の名義はかず明さんですよ」

「明るく言うつもりはないけど、これからは俺たちの時代なんだ。俺が父さんの後を継いで、家も会社も盛り立てていこうと思う。だから、母さんは……」

そこで、かず明は一旦言葉を区切り、私に向かって言い放った。

「もう、出て行ってくれ」

私ははっと息を飲み、かず明の目を見つめた。秋江は彼の横で、勝ち誇ったように小さく笑っている。ややあって、彼女は薄い冊子を取り出した。

「お母さんには、こちらがいいと思います。これは老人ホームのパンフレットです。見学もできますよ」

「母さんも、その方が安心だろう」

差し出されたパンフレットを受け取ることなく、私は部屋を見回した。柱の傷、古い棚、肖像が選んだ照明。この家のありとあらゆるものに、家族の思い出が詰まっている。

「分かったわ」

そう言うと、私は未練を断ち切るように立ち上がった。必要最低限の荷物をまとめて戻ってきた私を見て、かず明はどこかほっとした表情を浮かべている。

「もう荷造りを済ませたのか」

「ええ、こういうのは早い方がいいでしょ。お互いに」

「ああ、まあ、そうだな。タクシー呼ぼうか」

「迎えはさっき呼んだから、大丈夫よ。じゃあ、私、行くわね」

キャリーバッグを持ち上げ、私は玄関へ向かった。かず明が慌てて立ち上がり、秋江もそれに続く。

「お母さんが理解してくれてよかったです。このまま怒られたらどうしようかと思いましたよ。まあ、せいぜいお好きな施設を選んでください」

「あまり悪く思わないでくれ。これは母さんのためでもあるんだからな。それじゃあ、元気で。今までありがとう。さようなら」

儀礼的に玄関まで見送りに出てきたかず明と秋江に返事をすると、私は肖像と暮らした家の扉をそっと閉めた。外に出た途端、冷たい空気が頬に触れた。石畳の上をキャリーバッグを転がしながら歩く。すると、門の外にはいつの間にか黒塗りの高級車が止まっていた。

「会長、お迎えに上がりました」

「早かったのね、美雪」

運転席から降りてきたのは、スーツ姿の中年女性だった。こちらに向かってうやうやしくお辞儀をしている彼女の名前は、友長美雪。私より12歳年下で、長年私の仕事を支えてくれている個人秘書だ。

「はい。ご連絡をいただいてから、すぐにこちらへ向かいましたので」

「悪いわね、急に呼び出して」

「いいえ。それよりも、お体は大丈夫ですか? お顔の色が優れません」

「大丈夫よ。少し疲れただけ。今は立ち止まっている方が辛いわ」

頭の回転が速く、感情に流されない。必要なことを主従選択して優先順位を決められる美雪。そんな彼女の顔を見た瞬間、私は自分の体に力が戻るのを感じた。

「お荷物はこれで全部ですか? 本当に必要なものは、お手元にありますね」

「ええ、すぐに必要なものは持ってきたわ」

自然な仕草でキャリーバッグを預かり、後部座席の扉を開ける美雪。私が車に乗り込んだのを確認すると、彼女は静かに扉を閉め、運転席へ戻った。発進する瞬間、私は門の向こうを一瞥した。肖像と一緒に長い時間を過ごした場所だが、今の私が守るべきものは、もうここにはない。

「今後のご予定ですが、すでに最上階を整えてあります。休める部屋も、執務室も使える状態です。会社側には、必要な役員には共有済みです。管理会社にも連絡を入れました。会長がご到着次第、すぐに動けるようにしております」

美雪の手際の良さに、私は自然と唇を緩めた。

「早いわね。私が何を言うか、分かっていたみたい」

「会長が戻られるなら、当然の準備です」

やがて車が止まったのは、都心一等地に立つ超高層ビルの前だった。地上50階建ての商業施設、オフィス、ホテル機能を備えた複合ビルで、評価額は100億を超える。表向きには管理会社が運営しているが、最終的な判断権は今も私にある。

「彩子会長、お帰りなさいませ。本日より警備体制も確認済みです」

「お待ちしておりました。最上階の準備は整っております」

「急ぎ関係部署を集めておりますので、ご指示があり次第、すぐに対応いたします」

「みんなありがとう。通常業務を乱さない範囲で進めてちょうだい。ここで働く人たちを不安にさせたくないの」

エントランスに入ると、受付や警備員が一斉に頭を下げた。奥からは管理会社の幹部たちまで飛び出してくる。彼らの丁寧な所作に、私は本来の自分の立場を思い出した。

「最上階へご案内します。フロアには最低限のもののみを待機させているので、ご安心を」

「そうね。まずは静かな場所で話したいわ」

「必要な資料は、会議室に整えております。資産管理、契約関係、役員名簿も、すぐに確認できますよ」

「最初に美雪と話すわ。詳しい報告はその後で聞くから、みんなにも忙しすぎないよう伝えて」

専用エレベーターは音もなく上へと進んだ。最上階には、私のためのプライベートオフィスがある。長い間使っていなかったが、机も棚も綺麗に整えられていた。美雪が定期的に掃除してくれていたのだろう。窓の外に広がるビル街を眺めながら、私は鞄を置き、深く息をついた。ここなら、感情に流されずに今後のことを考えられる。

「まず、金成家の件から整理いたしますか? それとも、肖像様の相続に関する確認を先にいたしますか?」

「あの家、肖像の会社、かず明たちの動き。全て確認して、私の主観ではなく客観的な事実を見たいの」

「承知しました。弁護士と税理士にも、同席を依頼します」

「それでいいわ。私は相手を潰したいわけではない。ただ、こんな風に軽く扱われたまま終わるのは避けなければ」

手帳を開き、淡々と要点を書き留める美雪。その様子に、私は何とも言えない気分になった。かず明たちは、私を家から出せば終わりだと思っているのだろう。だが、実際にはここからが本当の始まりだ。奪われたものを取り戻し、私自身の人生を誰にも軽く扱わせない。そう心に決めた私は、机の前に座り、美雪と今後の方針を一つずつ固めていった。

1週間後、私は超高層ビルの最上階にいた。窓の外には都心の街並みが広がっている。肖像を失くした胸の痛みは残っていたが、泣いている暇はない。美雪と資料を確認していたその時、机の上の内線電話が鳴った。

「受付からです。少々お待ちください。確認いたします。はい、こちら友長です。ええ、しかし今は業務中で……」

受話器を取った美雪の顔が、わずかに曇る。普段の彼女は感情を表に出さない。その美雪が眉を寄せたことで、只事ではないと分かった。書類から目を上げて待っていると、やがて美雪は内線を切り、受話器を置いた。

「会長、かず明さんと秋江さんが来ています」

「今?」

「はい。エントランスで『会長を出せ』と大きな声を出しているそうです。受付では対応しきれないということで、こちらに連絡がありました」

「あの2人らしいわね。相変わらず、自分たちのことしか考えていない」

私は呆れて息を吐いた。用件は大体見当がつく。肖像の相続のことで、何か不都合な事態が起こったのだろう。それでも、老人ホームのパンフレットを押し付け、自分たちが家から追い出した相手に堂々と会いに来る神経には驚かされる。だが、こちらに逃げる理由はない。むしろ、顔を合わせるにはちょうどいい時期だった。

「オフィスに通してよろしいのですか? お疲れなら、私の方でお引き取り願いますが」

「大丈夫よ。私が対応するわ。その代わり、警備員を付き添わせて。ここで騒がれても困るでしょ」

「承知しました。会長に無礼を許さないよう、警備にも伝えます」

短いやり取りの後、美雪はすぐに受付へ指示を出した。しばらくして専用フロアの扉が開き、警備員に付き添われたかず明と秋江が入ってくる。2人は広いオフィスを、落ち着きなく見回していた。

「母さん、ここは何なんだ? 弁護士に住所を聞いてきたけど、どうしてこんなところにいる? ここは関係者以外、入れないはずでしょう」

かず明の声には、驚きと不安が入り混じっている。彼の隣に佇む秋江からも、いつもの余裕は感じられない。高い天井、重厚な机、壁一面の資料棚。その全てが、2人の知っている私のイメージと結びつかないのだろう。まるで狐につままれたような顔で立っていた。私が美雪に視線を向けると、彼女は来客用の椅子を示した。

「こちらへどうぞ。会長がお話しになります」

「あなた、何者なんですか? どうしてお母さんにそんな態度を取っているんです?」

「友長とお呼びください。私は金成会長の秘書です。長年会長の業務を補佐させていただいております」

「会長?」

口をぽかんと開けたかず明は、呆然とその言葉を繰り返した。秋江も事態を飲み込めない様子で、忙しなく瞬きをしている。机の前に立ち、私はそんな2人を正面から見据えた。

「そうよ。私はこの会社の会長兼ね。他にも複数の会社を所有している」

「何を言ってるんだ? 母さんが会長? しかも、他にも会社を持ってるだって? そんな話、聞いたことありません」

「確かに、今まで話したことはなかったわね。でも、あなたたちだって、聞きもしなかったじゃない。私が今まで何をしてきたか」

途端に、かず明の顔色が変わった。私の発言が口から出任せではないことを悟ったのだろう。一方の秋江は、自分は騙されないとでも言いたげに、机の上で手を握りしめていた。

「じゃあ、このビルも母さんのものなのか?」

「ええ、私の管理にある不動産の一つよ。運営は管理会社に任せているけれど、所有権は私にあるわ」

「そ、そんなはずはありません。お母さんはずっと家にいたじゃないですか。会社の経営のことなんて、全く話していなかったでしょ」

「そうね。表向きは専業主婦だったわ。肖像とも話し合って、かず明たちのために母親としての役割を全うしようと決めたの。でもね、家庭を守ることと会長職は、両立できるのよ」

穏やかにそう語ると、秋江は言葉に詰まった。私の目をまっすぐに見られないのか、かず明は力なく顔を伏せている。2人の勢いが削がれたところで、美雪が声をかけた。

「会長、お飲み物をお出ししますか?」

「ええ、お願い。2人にも出してあげて」

「母さん、今日俺たちがここに来たのは、どうしても聞きたいことがあるからだ。父さんの相続手続きを邪魔してるのは、母さんなんだろう」

「そうですよ。家を追い出された仕返しですか? 会社の件といい、お母さん、一体何を隠してるんです?」

矢継ぎ早に質問された私は、机の上に置かれた資料へ目を落とした。そして、改めてかず明たちを見つめた。家族だからと許してきたことにも限度がある。肖像がいなくなった今、私は真実を黙っている理由を失った。

「全て、話す時が来たようね」

私が口を開くと、かず明と秋江は互いに顔を見合わせた。

「まず、私の実家のことから話すわ。そこを知らなければ、今の状況も分からないでしょうから」

「実家? 母さんの実家が、今の話と何の関係があるんだ」

「あなたも、片木県の名前くらいは知っているでしょ」

「そりゃ、母さんの実家が古くからの家柄だってことくらいは知ってるよ。地元では多少知られてるんだろう」

かず明が言ったことは事実だ。ただし、彼が知っている情報はどれも形式的なものばかり。どんな資産を持ち、何を受け継いできた家なのか。肖像も私も家庭ではあまりお金の話をしなかったこともあり、かず明は片木家の実態を知らなかった。

「何が言いたいんです? 今時、家柄が自慢になるとは思えませんけど」

「そうだよ。名家って言っても、詰まるところ古いだけで、金なんて持ってないだろう」

「かず明は、そんな風に思っていたのね。それに、家を継いだのは秀夫叔父さんだ。大昔に父さんに嫁いだ母さんに関係あるとは思えないけどな」

片木秀夫は私の弟で、両親の後を継いで今も実家を守っている。穏やかで、人の世話をすることを苦に思わないような人間だ。実家の管理は弟一家が担っているため、かず明の中では実家の財産も全て彼のものだと思っていたのだろう。しかし、その理解は間違っている。

私が美雪に視線を向けると、彼女は素早く手元の端末を操作した。

「承知しました。主要資産のみでよろしいですか?」

「ええ、細かいものは省いていいわ。今は全体が分かれば十分よ」

「おい、何を始める気だ? 勝手に話を進めないでください」

次の瞬間、壁の大型画面に、私が所有する資産をまとめたデータが映し出された。宿泊施設の一覧、不動産の所在、管理会社別の保有物件。そこには有名な会社や施設の名称がいくつも並んでいる。秋江は大きく目を見開き、かず明も画面を凝視した。

「これ、全部お母さんのものなんですか? こんなにあるなんて」

「私が所有、または実質的に管理しているものよ。全てではないけれど、主なものはここに出ているわ」

「こんな数、ありえないだろう。何かの間違いじゃないのか」

「こちらは正当な資料です。評価額の数字も、現時点で確認できる範囲のものを反映しております」

どこまでも冷静な美雪の声。彼女の口調が、データの信憑性を裏付けていた。私が所有する宿泊施設は、地方の温泉地や観光地にもある。都心の不動産のみではない。土地、建物、運営会社の株式。それらは、私が長い時間をかけて整理し、守ってきたものだ。

「母さんが、こんな財産を持ってるっていうのか」

「これ、全部実家から受け継いだってことですか?」

「全部ってわけじゃないわ。両親から譲り受けた不動産を活用して、地道に増やしてきたの」

「そんな……」

わなわなと唇を震わせる秋江。彼女は現実を信じたくないようだ。

「じゃあ、このビルも本当に……」

「さっきも言った通り、私の資産の一つよ」

「そんなの、父さんの会社より大きいじゃないか」

「比べるものではないわ。肖像と私、それぞれ自分が決めた道を歩んだ。それだけのことよ」

そう言って微笑むと、かず明の顔がみるみるうちに青ざめていった。秋江も、先ほどまでの強気な姿勢を失っている。私が持っていたものは、2人の想像をはるかに超えていたのだろう。けれど、私にとって大切なのは数字の大きさではない。何のために資産を使うのか。自分が気づいたものを、誰に任せるのか。その判断を、これから私自身の手で下すつもりだ。

気まずい沈黙が流れる中、大型画面に並んだ数字を睨んでいた秋江が、突然悲鳴をあげた。

「嘘よ。こんなの、何かの間違いに決まってる」

「どうした? 秋江、落ち着けよ」

「落ち着いていられるわけないでしょ。かず明さん、画面をよく見て。あそこって、お父さんの土地じゃないの? 家も周りの土地も、全部お父さんのものだと思っていたのに」

「え、まさか、これは……」

興奮のあまり椅子から半分立ち上がっている秋江の示す場所を見たかず明の顔が、少しずつ強張っていく。

「一体どういうことだ? 金成家の土地に、どうして母さんの名前が?」

「見ての通りよ。あなたたちは肖像の持ち物だと思っていたみたいだけど、実際は彼名義の土地はほとんどないの」

「家もですか? 私たちが住んでいる、あの家まで」

「もちろん。あの家と土地も、私個人の財産よ」

秋江は口を開けて沈黙し、かず明は資料を睨むように凝視していた。自分は長男なんだ。家も土地も、いずれ自由にできるとでも思い込んでいたのだろう。けれど実際には、2人が暮らしていた場所は私の所有物だった。

「どうして黙っていたんだ? 俺たちを騙していたのか?」

「別に騙していたわけじゃないわ。でも、家族なら普通、話しておくものだろう」

「俺は息子だぞ。誰の名義かなんて、知らなくても……」

「あなたが最低限の礼儀は守ると信じていたからよ」

冷たく返すとかず明の顔が引きつった。むやみに彼を追い詰めるつもりはない。ただ、かず明には自分の立場を正しく理解してもらう必要があった。

「あの家に住み続けるなら、私の許可が必要よ。これまでと同じようには考えないでちょうだい」

「自分の息子に向かって、そんな他人みたいな言い方をするのか」

「息子だから、何をしてもいいとはならないわ。親子でも、超えてはいけない一線はあるの」

「でも、家族ですし、そこまで厳しくしなくても。何年も一緒に暮らしてきた仲じゃないですか」

不意に、秋江の口調が柔らかくなった。つい先日、老人ホームのパンフレットを押し付けてきた人と同じとは思えない。かず明も、私の顔色を窺っている。立場が逆転したことに、ようやく気づいたのだろう。彼らの変化を見ても、私の心は少しも動かなかった。都合のいい時だけ家族のふりをしても、もう遅い。

「母さん、この前は言いすぎた。俺も葬儀の後で、気が立っていたんだ。許してくれ」

「何のことかしら?」

「『出ていけ』なんて、本気じゃなかった。少し距離を置いた方がいいと思っただけで」

「私も、お母さんのためを思って言ったんです。老人ホームだって、安心して暮らせる場所を探しただけで。本当に反省しています」

かず明も秋江も精一杯取り繕ってはいたが、発言の中身は自分たちを守るための言い訳だ。私を追い出し、家を立て替えようとしていたこと。その事実は消えない。2人の言い訳を聞き届けると、私はゆっくりと息を整えた。

「今後は、書面でやり取りをしましょう。口先だけの話では、もう済ませられないわ」

「親子なのに、そんな他人行儀なことをする必要があるのかよ」

「親子だからと甘やかす時期は、もう終わったの。話し合いを曖昧にした結果、あなたたちは私を追い出したんでしょ」

「その件は、謝ったじゃないですか。あの家で過ごした時間を思い出してくださいよ」

情に訴えかけてくる秋江を無視して、私は手で扉の方を示した。正直、腹は立っていたが、私は結論を急がなかった。必要なことは正しい手順で進める。感情的になったり、力で追い払ったりする必要はない。事実を整理し、記録を残し、判断すればいい。それが私のやり方だ。

「今日は帰りなさい。これ以上話しても、あなたたちは都合のいい言葉を並べるだけでしょう」

「待ってくれ。まだ話は終わってない」

「続きは、書面で受け取るわ。お帰りのエレベーターまで、警備がご案内します。こちらへどうぞ」

美雪の合図で、警備員が音もなく近づいた。かず明は何か言いたげに私を見たが、やがて諦めたように口を閉じた。秋江は唇を噛み、こちらを睨んでいる。2人が部屋を出ていくと、オフィスに静寂が戻った。

翌日、私はオフィスに近いタワーマンションの一室にいた。家を出て以来働き詰めだったため、休息を取ることにしたのだ。美雪が手配した部屋には必要な家具が整っており、窓からは都心のビル群が見えた。洗練された空間で、私は温かい茶を飲んでいた。

電話が鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。画面には、かず明の名前が表示されている。昨日の今日で、何を言うつもりなのか。私は少し間を置いてから、通話を繋いだ。

「母さん、どういうことだよ。どうしてこんな大事なことを黙ってたんだ」

「落ち着きなさい。何の話?」

「父さんの会社だよ。決算書を見たら、赤字ばかりだ。そんな状態だなんて、聞いてないぞ」

「そうね。最近は、特に厳しかったわ」

珍しく、かず明の声は上ずっている。彼が肖像の会社を継いでいたことは前から分かっていた。実情を知って慌てるのは、自然な反応だ。

「厳しかったって。そんな程度じゃないだろう。これじゃ立て直すどころか、今月の支払いだって危ない」

「あなたも、数字を見たなら分かるでしょう」

「ああ、取引銀行にも連絡したよ。追加融資は難しいって言われた。俺が役員だって言っても、まともに取り合ってくれなかった」

「当然でしょうね」

肖像の会社は、小売業を長く続けてきた。昔は地元でも信頼され、固定客も多かった。しかし、時代が変わり、売上は少しずつ落ちていった。肖像もそのことを理解していた。だからこそ、無理に続けるのではなく、自分の裁量で従業員や取引先に迷惑をかけない形で整理しようとしていたのだ。

「父さんの会社があるから、大丈夫だと思ってたのに」

「何が大丈夫なの?」

「家のことも、俺たちの生活もだよ。会社が継げば、どうにでもなると思ってた」

「肖像は、あなたに会社を継がせると言ったの?」

電話の向こうで、かず明が黙った。答えられないのだろう。病に伏せた肖像は、何度も会社の先行きについてかず明に話そうとしていた。しかし、かず明は面倒な話し合いを避け続けた。「社長の息子」「役員」という肩書きを都合よく使い、病床の肖像には見向きもしなかった。結果として、会社の本当の状態を見ないで今日まで来たのだ。

「父さんは、引退する準備をしてたって聞いた。会社を畳む準備まで進めてたって、本当なのか? 会社を俺に渡すつもりじゃなかったのかよ」

「会社を畳むつもりだったのは本当よ。無理に続ければ、周りに迷惑がかかるから」

そう説明すると、かず明の呼吸が乱れた。彼の心が折れる音が、電話越しに聞こえるようだった。父親の会社を足場にしようとしていた計画が、根元から消えたのだ。だが、それは私のせいではない。会社を知ろうとせず、肖像の話を聞かなかったかず明自身の問題だ。

「母さん、助けてくれ。このままじゃ困るんだ」

「助けるって、どうやって?」

「母さんなら、資金を出せるだろう。父さんの会社を残せるはずだ。あんなビルを持ってるんだから、そのくらいできるだろう」

「会社を残して、その後はあなたはどうやって会社を守るつもり?」

沈黙が流れた。かず明には、会社を立て直す計画があるわけではないらしい。ただ、自分の立場を失いたくないだけなのだと分かった。そのために私の資産を使うつもりなら、あまりにも考えが浅い。

「俺は長男なんだぞ。父さんの会社を潰すわけにはいかない。周りに何を言われるか」

「社長になりたいなら、自分で数字を見て判断しなさい。会社を守るというのは、ただ単に看板を残すことではないわ」

「だから、母さんが手を貸してくれればいいんだよ。資金さえあれば、まだなんとかなるかもしれないだろう」

「会社は、あなたの好きにしなさい。ただし、私のお金を当てにして続けるのは違うわ」

これだけ告げると、私は通話を切った。直後、かず明から着信が入ったが、無視を決め込む。窓の外に視線をやると、雲の影がビルの壁をゆっくり流れていた。

3日後、朝の光が差し込むリビングで、私は美雪から届いた報告書に目を通していた。現場復帰後の会長業務も粗方落ち着いたため、最近は自宅で作業する時間が増えている。そこへ、マンションのコンシェルジュから来客の連絡が入った。

「かず明様と秋江様がお見えです」

「通してちょうだい。部屋の前まで案内をお願い。こちらで対応します」

数分後、インターホンが鳴った。扉を開けると、かず明と秋江が立っていた。2人とも、ひどく顔色が悪い。秋江は胸元で分厚い封筒を握りしめている。私の記憶が確かなら、その封筒には代理人を通じて送った通知が入っているはずだ。

話が長くなることを予見した私は、仕方なく2人をリビングへ通した。開口一番、かず明が言った。

「母さん、急にこんなものを送ってくるなんて、どういうことだ?」

「何のことかしら?」

「分かってるでしょ? この通知です。大げさな書類を送り付けてきて、脅しのつもりですか?」

「中身を読んだのなら、分かるでしょう」

秋江は封筒から書類を出し、テーブルに置いた。そこには、かつて無断で売却された着物の賠償請求が記されている。感情的な抗議ではない。品目、確認できる範囲の経緯、賠償を求める期限。全て、事実に基づいて整理してある。

「たかが着物でしょ。そんな昔のものを、今更持ち出さなくてもいいじゃないですか」

「『たかが』ではないわ。私が大切にしていたものよ」

「だからって、書類で請求する必要はないだろう。身内の話だし、普通に話せばいいじゃないか」

「普通に話しても、あなたたちは聞いてくれなかったじゃない。事実、私の許可なく着物を持ち出して売り払ったでしょ。身内の話で済ませられることではないわ」

そう告げると、秋江の肩が小さく揺れた。一緒に暮らしていた時の自分の言動を、思い出したのだろう。身内だから許されると高を括っていたのかもしれないが、人のものを勝手に処分するのは、決して軽い話ではない。

「それに、この額は何だ? 着物で、こんな金額になるわけないだろう」

「確認できる範囲での、評価額よ」

「こんな価値があるなんて、聞いてません。ただ古くて、場所を取るだけだと思ったのに」

「価値を知らなければ、他人の持ち物を売っていいの?」

正論をぶつけると、秋江は言葉に詰まった。売られた着物の中には、母から譲られたり、還暦の祝いで仕立てたりしたものも多い。実家に代々伝わる品で、今では同じものを用意できない品もあった。価値が跳ね上がるのは、当然だ。

「本当に、こんなにするのかよ。間違ってるんじゃないのか」

「専門家が出した評価よ。控えも残っているわ。疑うのなら、あなたたちで調べてみればいい」

「でも、さすがに桁が違うだろう。こんなの、すぐに用意できる額じゃない」

「だからこそ、実物の返却を求めているのよ。戻せるものは、戻してちょうだい」

ようやく目の前にある書類の金額が真実だと気づいたのだろう。かず明の顔が急速に青ざめていく。ずっとこちらを睨んでいた秋江も、私から視線をそらした。自分の過去の行いが、取り返しのつかない問題へと発展している。そのことを、初めて実感したのだと思う。

「あのお店に、まだあるか分かりません。もう売れてしまったかもしれませんし。そもそも、買った相手が分からなかったら、どうするんだ?」

「いずれにしろ、買い戻す努力をして。できることを全部した上で、話しましょう」

「無理だったら、どうするんですか? まさか、私たちに全部負担しろなんて言いませんよね」

この後に及んでも、秋江の声には被害者のような響きがあった。自分が勝手にしたことなのに、責められる側になった途端、困った顔をする。彼女の変わり身の速さに、私はもう驚かなかった。

「返せないのなら、弁償してね。通知に書いた通り、期日までに対応してちょうだい」

「本気で、俺たちを訴えるつもりなのか? 家族なのに、そこまでしますか? 少し片付けただけなのに」

「もちろんよ。必要なら、正式な手続きに進めます。そもそも、家族なら人のものを勝手に売らないわ。ましてや、売る前に言い訳を並べたりしない」

黙り込んだ2人を前に、私は立ち上がった。

「これ以上、話を続けるつもりはないわ」

コンシェルジュに連絡し、彼らを出口まで案内してもらうと、リビングに静けさが戻る。私は残された書類を片付け、次の確認事項に目を移した。

1ヶ月後、私は久しぶりに実家へ向かった。片木家の広い座敷には、秀夫が待っていた。穏やかな顔立ちは昔と変わらないが、その目には強い決意が宿っている。

「かず明と秋江。さらに、一人立ちした孫にも立ち会ってもらった」

本当は可愛い孫を巻き込みたくなかったが、彼も家族の中で何が起きたのかを知る必要がある。

「わざわざ実家まで呼び出して、何のつもりだ? 話なら、電話でもできただろう」

「もう十分でしょ。私たちだって、困っているんです。これ以上、家族のことを大げさにしないでください」

「そうね。だから、今日で終わりにするつもりよ」

「まずは俺から説明させてもらう。ここは片木家の座敷だからな」

秀夫が口を開くと、かず明は姿勢を正した。誰に対しても親切で礼儀正しいが、筋の通らないことは許さない秀夫。彼の性格を、かず明も知っているのだろう。私の隣に座った秀夫は、かず明たちをまっすぐ見据えた。

「彩子の資産について、勘違いしているようだから先に言っておく」

「勘違いって、何だよ。母さんの資産の話なら、もう聞いたって。実家から相続したんだろ」

「姉さんの資産が、実家から受け継いだ財産が元になっているのは事実だ」

「だ、だったら、やっぱり片木家の財産じゃないですか。たまたま実家が裕福だったからって」

すぐに秋江が口を挟む。しかし、秀夫は話を遮られても怒ることなく、首を横に振った。

「違う。一等地に近かった土地を開発したのは、姉さんだ」

「母さんが元々、一等地を持ってたんじゃないのか」

「両親が亡くなった時、姉さんは継ぐべき財産をほとんど俺に譲ってくれたんだ。扱いにくい土地を活用して宿泊業を形にし、不動産を育てたのは、姉さんの手腕だ」

「秀夫、言いすぎよ」

そう言ったものの、私は内心温かい気持ちになった。家庭では専業主婦として過ごしながら、外では土地の使い道を考え、事業の方向を決め、人を選ぶ。失敗しないよう、毎日数字と向き合い続けた日々。そんな私の努力を近くで支えてくれたのが美雪だとすれば、秀夫は最上の理解者だった。

「片木家が今も残っているのも、姉さんの力があってこそだ。俺一人で守れたものじゃない」

「母さんは、そんなこと言わなかった」

「お前が、聞こうとしなかっただけだろう。姉さんを『家のことしか知らない人間』だと決めつけていたんじゃないのか」

「でも、家のことはかず明さんにも権利が。家族なんですから、全部お母さんが決めるのは違うと思います」

案の定、反論してきたかず明たちに、私は用意していた記録を座敷の上に並べた。資料を見た途端、秋江の顔が強張る。

「権利の話をする前に、あなたたちがしたことを確認しましょうか」

書類の内容は、家事の押し付け、見舞いの妨害、着物の無断売却について。近寄ってきた孫が資料へ目を落とし、すぐに顔を上げた。

「おばあちゃん、こんなことされてたのかよ」

「大人の事情だ。お前には分からない」

「おばあちゃんを、家から追い出したの。おじいちゃんの葬儀の次の日に」

「『追い出した』なんて言い方はやめて。お母さんのこれからを考えて、環境を変えた方がいいと思ったのよ」

言い訳をする秋江の声は震えていた。息子の前では、さすがに強気ではいられないらしい。私は孫の目をじっと見た。驚きと戸惑いが入り混じり、傷ついた顔をしている。両親を信じていた子に、この話を聞かせるのは胸が痛んだ。それでも、かず明たちの好き勝手にさせるわけにはいかない。

「おばあちゃん、あなたを味方につけようとして呼んだのではないの。けれど、何があったのかを隠したままにはできなかったの。知るのは辛いだろう。だが、これは真実だ。事実と向き合わなくては、前には進めない」

「秀夫叔父さんまで、母さんの肩を持つのか。俺たちばかりが悪いみたいに言うのは、おかしいだろう」

なおも悪びれないかず明に、秀夫は深く息を吐いた。その顔には、怒りよりも失望の色が浮かんでいる。

「お父さん、お母さん。本当に謝らないつもり? おばあちゃんに、まず言うことがあるんじゃないの?」

「今は、そういう段階じゃない。俺たちは今後のことを話しに来ているんだ」

「母さん、あまり意地になるなよ」

「そうですよ。私たちだって、よかれと思って」

「『よかれと思って』、人の大切なものは売らないわ。夫の見舞いに行くことを、責めたりもしない」

孫の顔が、さらに強張っていく。両親の言い訳を聞くほど、衝撃が大きくなっているのが分かった。沈黙の中、かず明たちが守ってきた体面が、音もなく崩れていった。

「それじゃあ、改めて私の請求を伝えるわね。まず、着物の件から確認しましょう」

「また、その話ですか。しつこいぞ。いつまで昔の着物にこだわるんだ」

腹立たしげに抗議する秋江とかず明。この後に及んで、まだ最後には私が折れるとでも思っているのだろうか。あえて私はかず明ではなく、秋江に向き直った。着物を売った本人に、逃げ道を与えるつもりはない。

「無断で持ち出したものは返却。そして、何らかの理由で返せないものは弁償してもらいます。これはお願いではなく、正式な請求よ」

「そりゃ、買い取ってくれたお店には確認してみますけど、正直すぐに見つかるかどうか……」

「時間的な猶予は、十分あったはずよ。いくらで、誰に売って、今どこにあるのか。書類に書いてある期日までに、きちんと示してちょうだい」

「親子なんだから、もう少し待ってくれてもいいだろう」

私はゆっくりと首を横に振った。これまでに、何度も自分の気持ちを飲み込んできた。家事を押し付けられたり、肖像の見舞いを攻められたりした時も、私は波風を立てない道を選んだつもりだ。その結果として、2人は私の大切なものを売り払った。もう、温情に済ませる段階はとっくに過ぎている。

「次に、あなたたちが住んでいる家のことです。家は、正式に退去してもらいます。あなたたちが住み続けることは、許しません」

「えっ、あそこは私たちの居場所なんですよ」

俄かに、秋江のトーンが上がる。かず明も身を乗り出し、座敷に手をついた。予想していた反応だ。あの家を自分たちのものだと思い込んでいた2人には、「退去」という言葉が受け入れられないのだろう。けれど、持ち主を追い出して住み続けるなど、認められるはずがない。

「俺たちは、何年もあそこで暮らしてるんだ。いきなり出ていけなんて、無茶だろう」

「急に言われても、困ります。こちらにも準備がありますし」

「世間体だって。私も、葬儀の翌日に『出ていけ』と言われて困ったわよ。荷物の準備をしたり、気持ちを整えたりする時間もなかったからね」

ちくりと嫌味を言うと、かず明が口を閉じた。秋江は唇を噛み、不自然に視線をそらしている。2人に向かって、私は静かに続けた。

「それから、私の財産はあなたたちには一分たりとも譲りません」

「ちょ、母さん、待ってくれ。それを今ここで決めるのは、おかしいだろう」

「弟の秀夫と、孫にのみ譲るつもり。必要な手続きも、生きている間に進めるわ」

「納得できません。かず明さんは長男なんですよ。普通は、息子に残すものでしょ」

興奮のままに、秋江が立ち上がった。かず明もそれに続き、私の方へ身を乗り出した。2人とも怒りで顔を赤く染め、こちらに掴みかかろうとしている。秀夫と孫が、私を守るように立ち上がりかけた。その時、私は隣の部屋に目を向けた。

「美雪」

「はい、会長」

障子が開き、美雪が姿を見せた。その後ろには、待機していたボディガードが2人立っている。黒いスーツの男たちは、余計なことを言わずに座敷へ入る。かず明と秋江は、驚いたように足を止めた。

「何のつもりだ? 俺たちに……」

「これ以上近づくのは、お控えください。会長への接近は、こちらで止めます」

「私たちは、家族ですよ。こんな人たちを呼ぶなんて、おかしいじゃないですか」

「その言葉を、都合よく使わないで。家族を理由にすれば、何でも許されるとでも思っているの?」

ボディガードは2人の前に立ち、出口の方を示した。乱暴に触れることはなかったが、力の差は歴然としている。かず明は悔しそうに私を睨んだ。秋江はまだ何か言いたげだったが、美雪の冷静な視線に口を閉じた。

「お帰りください。今後のご連絡は、代理人を通してお願いいたします」

「こんな形で終わらせる気か」

「お母さん、絶対後悔しますよ。いつか一人になって、私たちに泣きついてくる日が来ますから」

その言葉を聞いても、私の心は動かなかった。長い間、家族という名の縛りに囚われていたのは事実だ。だが、家族なら何をしても許されるわけではない。肖像の思い出も、私の人生も、2人に踏みにじられるためにあったのではない。

かず明と秋江が座敷を出る直前、私は背中に向けて言った。

「私は、もうあなたたちを家族とは思わないわ」

2人は振り返ったが、返す言葉を持たなかった。美雪とボディガードに促され、かず明たちは廊下の向こうへ消えていく。座敷には、私と秀夫と孫。それから、水を打ったような静寂のみが残った。

私が自分の人生を、自らの手に取り戻した瞬間だった。

1ヶ月後、かず明たちは着物の弁償を余儀なくされた。秋江が売り払った品のほとんどは、手元に戻らなかったからだ。それから2人は、長年住んでいた家を退去。弁償代で貯金は底をついていたため、新しく借りた部屋は郊外の外れにある古びたアパートだったという。

かず明は、それでも肖像の会社にしがみついた。会社さえ継げば、まだ立て直せると思ったのだろう。けれど、肖像が生前に確信していた通り、会社の経営はすでに厳しかった。取引先も銀行も、かず明の話に付き合ってはくれない。経営はたちまち行き詰まり、会社は倒産。かず明は多額の借金を背負うことになった。

さらに私への仕打ちが露見したことで、2人の立場は急激に悪化した。孫からは距離を置かれ、親族の集まりにも呼ばれなくなったと聞いている。私を悪者にし、被害者を演じても、以前のように同調してくれる人はいない。

そんな2人は、現在、借金返済のために働いている。かず明は日雇いに近い仕事を転々とし、秋江も慣れない接客のアルバイトを続けているらしい。華やかな暮らしを望んでいた2人には、受け入れがたい毎日だろう。だが、私はもう手を差し伸べるつもりはない。自分たちが軽々しく扱ったものの重さを、彼らはこれからの生活の中で思い知っていくはずだ。

肖像が亡くなって、早1年。現在、私は会社を含めた財産の整理に力を入れている。若い頃は資産を増やし、守ることに夢中だった。それが今では、誰にどう託すかに頭を悩ませているのだから、不思議なものだ。個人資産については、秀夫と孫の生前贈与を進めている。長年2世帯で住んでいた家は、孫の名義に変更済みだ。肖像と暮らした思い出のある家だから、手放す気にはなれなかったし、せっかくなら大切にしてくれる人に任せたいと思った。

孫は以前から経営に興味があったらしい。引き継いだ家をリフォームし、自宅兼オフィスとして使い始めた。友人たちと一緒に新しい事業を立ち上げ、毎日忙しく働いていると聞く。最初は心配もあったが、彼には思った以上に資質があるようだ。

最近では、秀夫と孫と3人で集まることも増えた。食事をしながら、会社や不動産のこと、これから伸ばしたい事業について話す。孫の考えには若さが溢れ、秀夫の言葉には先祖代々の土地を守ってきた人間の自負がある。私は2人の間で、つい肖像のことを考えてしまう。もしも今ここに彼がいたら、何と言うだろうかと。

失ったものは、確かにある。肖像は逝ってしまったし、かず明たちとの関係も元には戻らない。けれど、まだ私の人生は続いている。そう思うと、自然と明日を生きる気力が湧いてくるのだった。

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