会議室の空気が凍りついた。
ドイツの世界的自動車メーカー、ミュラー氏が椅子から立ち上がり、冷たく言い放った。
「もう結構。これ以上、商談を続けても意味がありません」
200億円規模の契約が、目の前で消えようとしている。
原因は明白だった。新しく部長になった三島が、技術的な質問に一切答えられず、ドイツ語すら話せなかったのだ。
しかも三島は、その責任をすべて私に押し付けようとしている。
「前島、お前から説明しろ」
高卒の俺に説明させて失敗させ、すべての責任を俺に負わせるつもりだ。
俺は57歳になる。自動車製造向け産業ロボットメーカーの海外事業部で働いている。高校卒業直後、父の海外赴任が決まり、家族揃ってドイツのミュンヘンに移り住んだ。現地の語学学校に通いながら3年間を過ごし、ドイツ語と英語を習得した。つまり、最終学歴は高卒だ。
21歳で帰国し、今の会社に入社した。当時は学歴よりも能力を重視する方針で、語学に堪能なことから3年目で海外事業部に配属された。以来、何度も海外企業との商談を成功させてきた。
つい2ヶ月前、我が社に朗報が舞い込んだ。ドイツの世界的自動車メーカーから、電気自動車の生産ライン向けに総額200億円もの産業ロボットを導入するという大型商談の打診があったのだ。
前任の部長はすぐに俺を呼んだ。
「前島、この商談はお前に任せたい。ドイツ語ができるのはうちの会社じゃお前だけだからな」
俺はすぐに準備に取りかかった。ドイツ語と英語の技術資料を作り、電気自動車特有の要求仕様を徹底的に調べ上げた。
しかし商談の1週間前、状況が一変する。前任の部長が海外転勤のため急遽交代することになったのだ。
新しい部長として赴任してきたのは三島という男。名門大学卒の33歳で、俺より20歳以上年下だ。引き継ぎも不十分なまま、三島が案件を握ることになった。
着任初日、三島は俺を個別に呼び出した。
「前島さん、あなたは今、ドイツ企業との大型商談を担当しているそうですね」
「はい。2ヶ月前から準備を進めております」
俺がそう答えると、三島は人事ファイルを開き、眉をひそめた。
「最終学歴は高卒ですか? 」
三島は静かな口調で続ける。
「これほど重要な商談を、高卒の社員に担当させるつもりはありません。この商談は私が担当します」
俺は思わず反論した。
「しかし私はドイツ語が話せますし、過去に何度も海外企業との商談を成功させています」
三島は鼻で笑った。
「実績よりも学歴です。それが現代のビジネスの常識ですよ。前島さんがこれまでに作成した資料を、すべて私に渡しなさい」
俺が2ヶ月かけて準備してきた商談資料。長年この会社で積み重ねてきた実績までもが、たった一言「高卒」で奪われた。
30年かけて築いてきた信頼が、学歴の一言で否定されたのだ。
悔しさで拳を握りしめたが、俺にできるのは黙って頭を下げることだけだった。
商談の3日前、三島が俺のデスクにやってきた。手には俺が作成した資料の束がある。
「前島さん、この資料は使えません。ドイツ語で書かれた部分が多すぎる」
俺は驚いて反論する。
「しかし相手はドイツの企業です。専門的な内容はドイツ語の方が正確に伝わります」
三島は鼻で笑い、俺の資料をゴミ箱に投げ捨てた。
「時代遅れですね。国際ビジネスでは英語が標準です。大卒の部下に英語の資料を作らせますから。高卒の前島さんは、商談当日の雑用をお願いします。あなたは所詮、高校時代の英語の知識しかないでしょ。昭和の英語教育程度では、国際ビジネスでは通用しませんから」
三島は勝ち誇ったような表情を浮かべて去っていった。
だが俺は、三島に提出する前に、万一に備えて資料のコピーを取っていた。30年の経験が教えてくれたのだ。準備を怠るなと。
そして当日の朝、俺は三島に命じられた通り会議室の準備を進めていた。三島が用意した英語のパワーポイント資料を受け取り、コピー機に向かう。ふと資料に目を通すと、俺は違和感を覚えた。
電気自動車のバッテリー溶接の精度について、英語では「高精度溶接」とだけ書かれている。しかしドイツの技術者は、こうした曖昧な表現を嫌う。必ず具体的な数値での確認を求めてくるはずだ。この資料では、商談で必ず齟齬が生じる。
俺は急いで三島の元へ向かった。
「三島部長。この資料ですが、精度の記述が曖昧すぎます。ドイツ側は必ず具体的な数値を求めてきます」
三島は苛立った様子で答える。
「細かいことはどうでもいい。プレゼンの見栄えが重要なんです」
午後2時、相手であるドイツ企業のミュラー氏が到着した。年齢は40代後半の男性で、厳しい表情をしている。お互いに挨拶と自己紹介を交わすと、早速三島はプロジェクターを使い英語でプレゼンを始めた。
しかしミュラー氏は何度も首をかしげ、困惑した顔を浮かべている。三島の英語は文法的には間違っていないようだが、発音が極めて悪いのだ。
「すみません。もう一度言ってください。あなたの発音が聞き取りにくい」
ミュラー氏は何度も聞き返す。三島は焦りながらも強引にプレゼンを続ける。
10分ほど経過したところで、ミュラー氏が手を上げた。
「質問があります。あなた方のロボットの溶接精度について、資料には『高精度』とだけ書かれていますが、具体的な数値を教えていただきたい」
三島は資料を見返すが、数値は書かれていない。
「高精度ですから、その分、十分な性能です」
ミュラー氏の表情が一気に険しくなる。
「それでは答えになっていません。我々が求めているのは0. 01mm以下の精度です。あなた方のロボットはこれを実現できるのですか? 」
三島は完全に固まった。技術的な数値など把握していないのだ。
「それは、その……」
ミュラー氏は呆れた表情で言い放つ。
「この点についても、もっと詳しく説明してください。できればドイツ語で。髪の毛より細い精度の話では、言語の壁で誤解が生じる恐れがあります」
三島の顔が一瞬、強張った。
俺はその表情で悟った。三島はドイツ語が話せないのだ。
商談は完全に停滞し、重苦しい沈黙が会議室を支配する。ミュラー氏の表情はますます険しくなった。
焦った三島は突然、俺を指さした。
「前島、お前から説明しろ」
その瞬間、俺は三島の意図を理解した。高卒の俺に説明させて失敗させ、すべての責任を俺に負わせるつもりなのだ。
しかし、200億円の契約が消えれば、同僚たちの仕事も消える。俺は会社の人間だ。個人的な感情で会社を危険にさらすわけにはいかない。
俺は意を決し、ミュラー氏にドイツ語で話しかけた。
「ミュラー様、私に技術的な説明をさせていただけないでしょうか?

」
ミュラー氏の動きが止まる。そしてゆっくりと振り返った。その表情には明らかな驚きが浮かんでいる。
「ドイツ語ができるのですか? 」
ミュラー氏はそう言いながら、再び椅子に腰を下ろした。
三島が慌てて立ち上がり、俺を静止しようとする。
「前島、待て。余計なことを……」
三島の声は明らかに動揺している。しかしミュラー氏は三島を冷たく一瞥し、言葉を遮った。
「この方の話を聞かせてください」
その視線の鋭さに、三島は押され口ごもる。
俺はミュラー氏に向き直り、自分の経歴を説明した。
「私は前島と申します。かつてミュンヘンに住んでいた経験があり、この会社に入社してからはドイツを始め海外企業との商談を担当してまいりました」
ミュラー氏は満足そうに頷く。
「なるほど。ドイツ語を話せる方がいらっしゃるなら話が早い。なぜ最初から前島さんに対応させなかったのですか? 」
三島は顔を真っ赤にして、俯くことしかできない。
俺は鞄から、密かに用意していた資料を取り出した。万一商談で必要になることを考え、鞄の奥底に忍ばせていたのだ。
「こちらが電気自動車向けに最適化した溶接ロボットの詳細仕様です。ドイツ語で記載しております」
俺はドイツ語で書かれた技術資料をミュラー氏に手渡した。ミュラー氏は貪るように資料に目を通し始めると、ページをめくるたびにその目に輝きが増していく。
「この精度なら、我々の要求を十分に満たしています」
俺の横で、三島は呆然と立ち尽くしていた。俺の目の前でゴミ箱に捨てた資料が、今や会社を救おうとしているのだ。
ミュラー氏は俺に向かって言った。
「それでは先ほどの質問に戻りましょう。溶接精度について具体的に確認させてください」
ミュラー氏はさらに質問を重ねてくる。
「溶接時の熱変形制御は? 」
俺は落ち着いてドイツ語で答える。
「何度繰り返しても0.
01mm以下の誤差しか生じません」
ミュラー氏の表情が一気に明るくなる。
「完璧です。まさに我々が求めていた仕様ですね」
俺はあえて三島を見据えながら、英語でも同じ説明を繰り返した。
ミュラー氏は目を見張った。
「これは驚いた。あなたは英語も完璧ですね。先ほどよりはるかに分かりやすい」
三島の顔が蒼白になる。苛立っていた雰囲気は完全に消え去り、ミュラー氏は前のめりになって次々と質問を投げかけてくる。商談の主導権は完全に俺に移った。
俺はこれまでの経験を総動員し、溶接技術から稼働率、保守点検まで、すべてドイツ語で的確に答えていく。
技術的な質問への回答をすべて得ると、ミュラー氏は深く息をついた。
「前島さん、あなたの説明は完璧です。我々が必要としていたすべての要件を満たしています。是非、契約を前提に話を進めたい。まずは基本合意書への署名を提案させていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、三島が勢いよく立ち上がった。
「ありがとうございます。基本合意書の確認は私が担当いたします」
その声には焦りが滲んでいる。このまま俺が商談を進めれば、自分の立場が完全になくなってしまうからだ。
しかしミュラー氏は三島を冷たく見据え、制止するように手を挙げた。
「申し訳ありませんが確認させてください。今後の窓口責任者は誰になりますか? 」
三島は胸を張って答える。
「もちろん私です。海外事業部の部長として、すべての連絡窓口を務めます」
ミュラー氏の表情が一気に険しくなった。
「それは困ります。技術を理解していない方が窓口では、必ず問題が起きます」
三島の顔が引きつる。
「しかし弊社としては、部長である私が……」
ミュラー氏は三島の言葉を遮った。
「あなたは今日の商談で、基本的な技術さえ把握していませんでした。ドイツ語も話せない。そのような方との長期契約は、我々の方針として認められません」
三島は言葉を失う。
ミュラー氏は俺の方を向いた。
「前島さん、あなたが窓口責任者になっていただけますか? 技術を理解し、ドイツ語も話せるあなたとなら、安心して長期的な関係を築けます」
俺は三島を見た。三島は上司だ。その三島を飛び越えて正式契約に向けての窓口になる。しかし、会社の200億円がかかっている。
三島が焦った表情で口を挟んできた。
「ミュラー様、組織の問題がありますので、やはり窓口は私が……」
ミュラー氏は冷たく遮る。
「では、この契約は見送らせていただきます。技術を理解していない方が窓口では、必ず齟齬が生じますから。前島さんが窓口でなければ、今日の商談は白紙に戻します」
会議室に重い沈黙が流れた。三島は唇を噛みしめている。
ミュラー氏は続ける。
「基本合意書の確認も、前島さんとドイツ語で行いたい。主要な条件について正確に理解を共有する必要があります」
三島は小さく頷いた。
「わかりました。前島、頼む」
それは絞り出すような声だった。
俺はミュラー氏に向き直り、ドイツ語で答える。
「承知いたしました。全力を尽くします」
ミュラー氏は満足そうに微笑む。
「ありがとうございます。それでは基本合意書の内容を確認しましょう」
俺は合意書を受け取り、ドイツ語で主要条件を確認する。ミュラー氏は真剣な表情で頷きながら聞いている。三島は横で黙って座っているしかない。ミュラー氏は俺だけを見ていて、三島の存在など眼中にない。
確認を終えた俺は、ミュラー氏に向かって言った。
「主要条件を確認しました。問題ございません」
ミュラー氏は深く頷いた。
「前島さん、あなたのような方がいる会社なら、長期的なパートナーとして信頼できます。今後のすべての連絡は、前島さんと直接行いたい」
三島は固く拳を握りしめた。
俺はミュラー氏に向かって言った。
「それでは署名に移らせていただきます」
ミュラー氏は満足そうに微笑んだ。双方が基本合意書への署名を終え、ミュラー氏は満足そうな表情で会議室を出ていく。
俺がミュラー氏を見送り会議室に戻ると、三島は俺を廊下へと引っ張り出した。
「前島、出過ぎた真似をしやがって。俺を無視してミュラーと勝手に話を進めるとは何事だ? 」
三島は低い声で怒りをぶつけてきた。
「しかし部長、会社の命運がかかっておりましたので」
「それは部長である私が判断することだ。これは組織の秩序を乱す行為だぞ」
俺は黙って頭を下げた。会社のためにやるべきことをやったのだ。上司の目に背いて商談を主導したことに、後悔はない。
商談からしばらくすると、三島が俺のデスクにやってきて、商談の報告書は自分がまとめると告げてきた。
俺は嫌な予感を覚えた。商談の詳細を最もよく知っているのは俺のはずだ。しかし三島は上司であり、担当者でもある。俺は承諾するしかなかった。
三島は満足そうな表情を浮かべ、戻っていった。
商談から2日後、突然社長から呼び出しがかかった。社長室に向かって廊下を歩いていると、三島と出会った。
三島は不機嫌そうな顔で俺に言った。
「前島、お前、余計なことを言うなよ」
その言葉で、社長からの呼び出しが商談に関わることだと察しがついた。
俺は何も答えずに社長室のドアを開けると、竹内社長が厳しい表情で座っている。
「2人とも座りなさい」
竹内社長の声は静かだが、有無を言わせぬ迫力がある。
社長は話し始めた。
「先日のドイツの自動車メーカーとの商談についてだが、三島君からすでに報告を受けている。三島君が主導して商談を成功させたと書いているが、」
三島は胸を張った。
「はい。若干のトラブルはありましたが、私の判断でなんとか契約にこぎつけました」
あの時感じた嫌な予感が的中した。三島は商談の成功を自分の成果として報告していたのだ。
竹内社長は静かに口を開く。
「商談が成功したのは喜ばしいことだ。ただ確認したいことがある」
竹内社長は俺に向き直った。
「前島君、君から商談の経緯を詳しく聞かせてくれ」
三島の顔が一瞬、強張った。
俺は事実を淡々と語り始めた。まず、三島の英語の発音が悪く、ミュラーに何度も聞き返されたという点。ミュラーがドイツ語で記述仕様に関する説明を要求したが、三島は対応できず、俺がドイツ語で対応したこと。そして最後に、ミュラーが俺を窓口責任者に指名した経緯を説明した。
三島の顔が徐々に青ざめていく。
竹内社長は静かに頷いた。
「なるほど。三島君の報告と随分違うな」
三島は必死に弁解する。
「しかし社長、それは前島の主観であって……」
竹内社長は手を上げて遮った。
「黙りなさい。実は昨日、ミュラー氏から私に直接電話があった」
三島は完全に動揺している様子だ。竹内社長の言葉が続く。
「ミュラー氏は商談について詳しく話してくれた。三島君は技術を理解せず、ドイツ語も話せず、完全に破綻させかけたそうだな」
三島は言葉を失う。
社長の声がさらに厳しくなる。
「前島君がいなければ、200億円の契約は完全に消えていた。それどころか、ミュラー氏は三島君を窓口から外すことを条件に、契約に応じたと聞いている。しかし三島君は自分の失態を隠し、私に虚偽の報告をした。これは会社に対する重大な背信行為だ」
三島は俯いた。
竹内社長は俺に向き直る。
「前島君、君から三島君に対し、言いたいことはないか?
」
俺は三島を見据えた。
「三島部長、今回の商談でミュラー氏が求めていたのは、学歴でも肩書きでもありません。弊社の持つ技術力の高さと、それをドイツ語で正確に伝える語学力です」
俯いたまま何も言えない三島に、俺は続ける。
「あなたは私を高卒だという理由だけで見下し、これまでの実績を無視した。その結果、商談は破綻寸前まで追い込まれました。しかし商談を救ったのは、あなたが見下した私の経験です。この意味を忘れないでください」
会議室に重い沈黙が流れる。三島は震える声で答えた。
「申し訳ありませんでした」
竹内社長は俺に向き直る。
「前島君、今後のドイツ企業との正式な窓口は、君に任せる」
俺は深く頭を下げた。そして竹内社長は三島に向かって厳しく告げた。
「三島君、君の処遇は役員会で正式に決定する。海外事業部長の職は解かれる覚悟でいなさい」
三島は顔を真っ青にして頷く。その瞬間、これまでの経験と実績が報われたという達成感が、俺を包むのだった。
1週間後、三島は海外事業部長を解任され、地方支社へ異動となった。一方、俺はミュラー氏と月に1度の会議を重ね、正式契約に向けた準備を順調に進めている。
そんなある日、竹内社長から再び呼び出しがあった。
「前島君、君を海外事業部長に任命することが、役員会で決まった」
社長の言葉に、俺は深く頭を下げた。
ようやく自分の価値が正当に評価される立場を手に入れることができたのだ。
実力と経験こそが人の価値を決める。俺はこの信念を胸に、これからも会社の発展に貢献していくつもりだ。


