「じゃあ俺たちが面倒見てやるよ。」
息子のその言葉を聞いた時、私の胸の奥がひやりとした。夫の葬儀からわずか数日。まだ涙も乾かないうちに、42歳の息子・琢磨が静香の家の玄関に立っていた。隣にはいつもより丁寧に化粧を施した嫁の明子。
「お母さん、一人じゃ大変でしょう。私たちがいますから、安心してください。」
明子の笑顔はどこか作り物めいていた。今まで年に一度、正月にしか顔を見せなかった二人が、なぜ急に。
「ありがとう。でも、まだ一人で大丈夫よ。」
静香がそう答えた翌日、琢磨は断りもなく夫・義人の書斎に入り込んでいた。
「これ、生命保険の書類か。」
ガサガサと引き出しを漁る音。
「ねえ、この家の評価額っていくらくらいなの?」
明子の目は、メモにペンを走らせながら真剣そのもの。
「株とかやってなかったの?お父さん。」
二人の視線はもはや静香ではなく、書類と通帳にばかり向けられていた。書斎の壁に掛かった義人の遺影が、悲しそうに二人を見下ろしている。静香の胸の奥で、小さな怒りの炎がちらりと燃え始めた。
静香は義人との思い出が詰まったアルバムを開いた。45年前、地方銀行の支店長だった義人と出会い、結婚した。真面目で誠実な人柄に惹かれた。琢磨が生まれた時の写真。不妊治療の末、35歳でようやく授かった一人息子だった。この子のためなら何でもしてやろうと思った日々。私立中学の学費、年間120万円。高校、大学と、教育費だけで総額2000万円。マイホーム購入時には頭金300万円を援助した。
「母さん、本当にありがとう。」
あの頃の琢磨の言葉が今も耳に残っている。しかし、ここ数年は様子が変わっていた。明子と結婚してから、年に一度の正月の挨拶だけ。「忙しいから、今度必ず。」そんな言葉の繰り返し。義人は生前よく言っていた。
「琢磨も大人になったんだ。俺たちは静かに見守ろう。」
その義人が3週間前に高速道路で事故を起こし、急逝した。あまりにも突然の別れ。葬儀の席で、琢磨は涙を一つも見せなかった。それどころか、式の最中も明子と何やらこそこそ話をしていた。今思えば、あの時から二人の態度はおかしかった。悲しみよりも、別の感情が見え隠れしていた。
静香はアルバムを閉じ、仏壇の遺影を見つめた。
「あなた、私たちの息子はいつからこんな子になってしまったのかしら…」
「母さん、貯金通帳見せてよ。」
琢磨の要求は日に日にエスカレートしていった。
「どうして急に?」
「いや、ちゃんと管理できてるか心配でさ。」
静香が渋ると、明子が口を挟む。
「お母さん、私たちは家族でしょう。隠し事は良くないわ。」
仕方なく通帳を見せると、二人の目が輝いた。
「へえ、結構あるじゃん。」
「退職金と年金で毎月これだけ。」
「不動産の評価額も知りたいな。固定資産税の通知書どこ?」
書類を次々と要求する二人。まるで査定でもしているかのようだった。
数日後、突然の同居案が飛び出した。
「母さん、一人暮らしは危ないよ。俺たちと一緒に住もう。」
「そうですよ。お母さんの安全が第一ですから。」
明子の笑顔は、獲物を狙う猫のようだった。
「でも、この家には思い出が…」
「思い出じゃ食えないでしょう。」
琢磨の言葉に静香は息を飲んだ。
「じゃあ、俺たちがここに引っ越してくるよ。家賃も浮くし。」
「素晴らしいアイデアね。お母さんも寂しくないでしょう。」
反対する間もなく、話はどんどん進められた。
引っ越してきた翌日から、家の中の空気が変わった。
「お母さん、この部屋、私たちの寝室にしますね。」
静香が大切にしていた和室が勝手に模様替えされる。
「ちょっと、そこは義人さんの…」
「死んだ人の部屋なんて、不気味でしょう。」
明子の冷たい言葉に、静香は言葉を失った。食事の時間もまるで他人行儀。
「母さん、料理は明子に任せて。年寄りの味付けは薄くて物足りないから。」
「そうそう。塩分控えめなのは分かるけど、私たちにはちょっと…」
長年磨いてきた料理の腕をあっさりと否定された。
「あら、このお皿、随分古いのね。捨てましょうか?」
「待って。それは結婚祝いに…」
「こんな古いもの置いてても仕方ないでしょ。断捨離よ、断捨離。」
思い出の品々が次々とゴミ袋に放り込まれる。義人との新婚時代に揃えた食器セット。琢磨の成長記録を綴ったアルバム。全てが不要品として扱われた。
「お母さん、この着物も処分しましょう。」
「それは私の母の形見なの。」
「かび臭いし、もう着ないでしょう。リサイクルショップに売れば、少しはお金になるわ。」
明子は容赦なく静香の大切なものを奪っていく。
「財産管理も俺たちに任せなよ。」
琢磨が切り出した。
「どうせ母さん、細かい計算とか苦手でしょ。」
「私、FPの資格持ってますから。お母さんより上手に運用できますよ。」
明子が自信満々に言う。
「でも、自分のお金くらい自分で…」
「何言ってるの?認知症になってからじゃ遅いのよ。」
「私はまだしっかりしてる。」
「今はね。でも、いつどうなるかわからないでしょう。」
二人の圧力に、静香は追い詰められていく。
「それに、お母さん、最近同じ話を繰り返すこと多くないですか?」
明子の指摘に、琢磨も同調する。
「そういえば、この前も同じ話を3回もしてたような…」
「やっぱり初期症状かもしれませんよ。」
違うと叫びたかった。でも、最近もの忘れが増えたのも事実。不安が静香の心をじわじわと蝕んでいく。
「じゃあ、とりあえず通帳と印鑑だけでも預からせて。キャッシュカードの暗証番号も教えてください。いざという時、私たちが動けないと困るでしょう。」
拒否すればするほど、認知症扱いが激しくなる。
「お母さん、私たちを信用してないんですか?家族なのに、悲しいです。」
明子の涙は明らかに演技だった。
夜になると、二人の本音が聞こえてくる。
「全く、頑固なばあさんだ。」
「でも、もう少しよ。弱ってきてるから、早く財産全部管理したいな。」
「焦らないの。じわじわ追い詰めればいいのよ。」
ある夜、偶然聞いてしまった会話が決定的だった。
「あのばあさん、いつまで生きるつもりかな?」
「医者が言うには、あと10年は大丈夫らしいわよ。」
「10年か。長いな。でも、財産はたんまりあるから、うまくやれば老後は安泰ね。」
「施設に入れるのは、もう少しボケてからでいいか。」
「そうね。今なら拒否されるし。もっとよぼよぼになってからよ。」
「年金と退職金合わせて3000万以上あるんだろ。土地と家を売ればもっとだ。」
「父さんが残した株券もあるはずだし。」
「へえ、株もやってたのか。」
「銀行員だったから、堅実な投資をしてたみたい。配当金だけでも結構貯まるわよ。」
静香は廊下で立ちすくんだ。自分は息子夫婦にとって、ただの金づるでしかなかった。愛情のかけらもない。冷たい計算だけがそこにあった。
静香が買い物から帰ると、琢磨が義人の書斎で何かを物色していた。
「琢磨、何してるの?」
「ああ、母さん。親父の遺品整理だよ。」
振り返った息子の手には、義人が大切にしていた金時計が握られていた。
「それ、お父さんが定年祝いに買った…」
「こんな古い時計使わないだろ。質に持っていけば、いい値段になるよ。」
静香の心臓がどくんと大きく鳴った。
「やめて。それはお父さんの…」
「死んだ人間のものに執着しても仕方ないだろ。」
琢磨の言葉は刃物のように冷たかった。そこへ明子がやってきた。手には義人のアルバムと日記。
「お母さん、これ見つけたんですけど…」
明子が開いたページには、義人が静香に宛てた手紙が挟まれていた。
「静香へ。君と過ごした45年間は、私の人生の宝物だ。」
「こんな恥ずかしいもの、捨てましょうね。」
「待って。」
静香が手を伸ばすと、明子はさっと日記を引っ込めた。
「お母さん、過去に囚われすぎです。前を向かないと。」
「そうだよ、母さん。親父だって、いつまでも悲しまれたくないはずだ。」
二人の言葉に静香は震えた。夫への愛情を否定され、思い出まで奪われようとしている。
「あ、これ見て。お父さん、結構たくさん株を持ってたのね。」
明子が見つけた書類を琢磨が覗き込む。
「へえ。配当金だけで年間100万以上か。これ、俺たちが運用した方が…」
「ちょっと、勝手に見ないで。」
静香が書類を取り返そうとすると、琢磨が腕を掴んだ。
「母さん、隠し事は良くないって言ったよね。」
その目はもはや息子のものではなかった。金に目がくらんだ、別の生き物のようだった。
「痛い…」
「大げさだな。ちょっと確認してるだけじゃん。」
琢磨は母の腕を乱暴に振り払った。
夕食の席で、決定的な一言が飛び出した。
「なあ、母さん。遺言書って書いた?」
琢磨が何気ない口調で聞いてきた。
「どうしてそんなこと?」
「いや、ちゃんとしておいた方がいいかなって。」
明子が口を挟む。
「そうですよ。急に何かあったら、相続で揉めるかもしれないし…」
「私が死ぬのを待ってるの?」
静香の問いに、二人は慌てたように首を振った。
「そんなわけないじゃん。ただ、準備は大事だろう。」
「そうそう。お母さんの意思をきちんと残しておくべきです。私たち以外に相続人もいないし、手続きは簡単ですよ。」
「明日にでも、公証役場に行きましょうか。」
「そんなに急ぐ必要は…」
「お母さん、最近もの忘れも増えてるし、正常な判断ができるうちに…」
その夜、また聞いてしまった。
「遺言書、早く書かせないとな。全部俺たちに残すように仕向けないと。」
「でも、他に身寄りもないし、当然私たちよね。念のため、公正証書にした方がいいかしら。」
「そうね。後で文句言われたくないし。それより、生前贈与の方が税金安いんじゃない?」
「あ、それ今ね。少しずつ名義変更していけば…」
静香は布団の中で震えた。まだ生きているのに、死後の財産の分配を考えている。
翌朝、とどめの出来事が起きた。静香が仏壇に手を合わせていると、琢磨がやってきた。
「母さん、そろそろ仏壇も片付けようか。」
「何を言ってるの?」
「だって邪魔じゃん。リビング狭くなるし。」
明子も同調する。
「そうですよ。今時、仏壇なんて時代遅れです。」
「お父さんの遺骨があるのよ。」
「遺骨?ただの木の箱だろ。」
その言葉に、静香の中で何かがプツンと切れた。
「あの頑固親父、やっと死んでくれて正直ほっとしたよ。」
「財産だけ残して死ぬなんて、最後だけは役に立ったわね。」
明子の高笑いが静香の耳に突き刺さった。
「正直、葬式の時も悲しくなかったのよ。これでやっと遺産が手に入るって。」
「俺も同じだよ。親父との思い出なんてどうでもいい。遺産さえもらえれば、もう用はないのよ。」
「お母さんも早く…」
言いかけて、明子は口を噤んだ。でも、続きは明らかだった。静香は仏壇の前で立ち尽くした。愛する夫を侮辱され、自分の死まで望まれている。こんな仕打ちを受けるために、息子を育てたのか。義人の遺影が静かに見下ろしている。その瞳に、決意の光が宿った。
静香は震える手で仏壇の引き出しを開けた。そこには義人が生前に残した小さなメモがあった。
「静香へ。もし君に何かあったら、藤原弁護士に連絡を。全て彼に託してある。」
藤原新太郎。義人の幼馴染みで、信頼できる弁護士だった。静香はそっと携帯電話を取り出した。琢磨たちが買い物に出かけた隙を狙って、電話をかける。
「藤原先生、小寺静香です。」
「静香さん、お久しぶりです。義人君のこと、本当に残念でした。」
「実は、ご相談が…」
静香は息子夫婦の仕打ちを説明した。藤原は黙って聞いていたが、やがて重い口を開いた。
「実は義人君から聞いていました。もしもの時のためにと。詳しくは、直接お会いして話します。明日、事務所にいらっしゃれますか?」
「はい、必ず伺います。」
電話を切った後、静香は決意を新たにした。夫が何か準備していたなら、それに応えなければ。
翌日、静香は病院に行くと嘘をついて、藤原の事務所を訪れた。
「母さん、病院なら付き添うよ。」
琢磨が言ったが、静香は首を振った。
「大丈夫よ。ただの定期検診だから。」
「認知症の検査もした方がいいんじゃない?」
明子の嫌みに、静香は笑顔で答えた。
「そうね。考えておくわ。」
藤原の事務所は駅前のビルにあった。
「静香さん。実は義人君がこんなものを残していました。」
藤原が差し出したのは、封印された封筒だった。中には義人の遺言書と、もう一通の手紙が入っていた。
「もし琢磨が金目当てで静香に近づいたら、この手紙を読んでください。」
静香の目から涙がこぼれた。夫は全てを見通していたのだ。
手紙には驚くべき事実が書かれていた。
「実は私たちの本当の財産は、表に出ているものだけではありません。私は銀行員としての知識を生かし、株式投資で密かに資産を増やしていました。その額はなんと8000万円。この財産は静香名義の別口座に移してあります。琢磨はその存在を知りません。さらに、都心に小さな塔用マンションも所有しています。もし義人君が君を粗末に扱うようなら、遠慮なく使ってください。君の老後は、君自身で守るべきです。」
静香は手紙を何度も読み返した。
「君はきっと息子を信じたいと思うだろう。でも、金は人を変える。私も銀行員として、そんな親子を何組も見てきた。」
義人の言葉は、今の状況を完璧に言い当てていた。藤原が説明を続ける。
「この遺言書は正式な公正証書です。内容を変更することも可能ですが…」
「変更したいんです。」
静香の声はもう震えていなかった。
「どのように?」
「息子への相続を最小限にしたい。」
藤原は頷いた。
「法定相続分として最低限の遺留分は残す必要があります。それ以外は静香さんの自由です。」
「遺留分以外は、全て寄付したいと思います。」
「寄付ですか?」
「はい。夫が生前支援していた児童養護施設に。」
静香は新しい遺言書の作成を依頼した。
その帰り道、静香は銀行に立ち寄った。隠し口座の残高を確認すると、確かに8000万円が入っていた。さらに、投資用マンションの賃料も毎月30万円振り込まれている。
「義人さん、あなたは本当に…」
夫の深い愛情と先見の明に、静香は胸が熱くなった。銀行員に、ある手続きを依頼した。
「この口座からの出金は、本人確認を厳格にしてください。例え家族でも。」
「承知いたしました。」
家に帰ると、琢磨と明子が待ち構えていた。
「母さん、どこ行ってたの?病院じゃなかったでしょ?」
明子が静香のバッグを見ながら言った。
「病院の後、銀行に寄ったのよ。」
「銀行?何しに?」
「通帳の記帳よ。年金が振り込まれているか確認しないと。」
嘘ではない。ただ、確認したのは別の口座だったが。
「そう。で、遺言の件、考えてくれた?」
「ええ、考えたわ。」
静香は二人をまっすぐ見据えた。
「私もきちんと準備しようと思います。」
琢磨と明子の顔がパッと明るくなった。
「そうか、よかった。お母さん、正しい判断です。」
「来週、公証役場に予約を入れておきますね。」
明子が嬉しそうに言った。二人はまんまと罠にかかったことに気づいていない。
1週間後、静香は琢磨と明子を連れて公証役場へ。
「母さん、今日で全部すっきりするよ。」
琢磨の声は浮かれていた。
「そうね。本当にすっきりするわ。」
静香の言葉の意味を、二人は理解していなかった。
公証役場に着くと、藤原弁護士がすでに待っていた。
「あれ、弁護士なんて呼んでないけど。」
琢磨が怪訝な顔をした。
「私がお願いしたのよ。大事なことだから、専門家に立ち会ってもらおうと思って。」
「ま、それもそうか。」
会議室に入ると、公証人が書類を用意していた。
「では、遺言書の内容を確認させていただきます。」
公証人が読み上げ始めた。
「遺言者、小寺静香は、次の通り遺言する。」
琢磨と明子は期待に満ちた表情で聞いていた。
「第一項、預貯金について。銀行普通預金の全額を、社会福祉法人児童養護施設に遺贈する。」
「は?」
琢磨の顔色が変わった。
「第二項、不動産について。東京都新宿区の自宅は、息子の小寺琢磨に相続させる。」
二人の表情が少し柔らいだ。
「ただし、同不動産には金融機関の抵当権が設定されており、債務残高は2000万円である。」
「債務?どういうこと?」
明子が声を上げた。
「第三項、その他の財産について。全て前記児童養護施設に遺贈する。」
「ちょっと待てよ。」
琢磨が立ち上がった。
「なんだよこれ。俺には借金付きの家だけ?」
静香は落ち着いて答えた。
「あら、家があるだけでもありがたいと思わない?」
「母さん、正気か。」
「とても正気よ。あなたたちの本性を見せてもらったから。」
藤原が口を開いた。
「なお、この遺言書は正式な手続きを経て作成されたもので、法的に有効です。」
「でも、母さんの財産は他にもあるはずだ。」
琢磨が詰め寄った。
「ああ、言い忘れていたわ。」
静香はにっこりと笑った。
「実は、お父さんが残してくれた財産が他にもあるのよ。」
琢磨と明子の目が輝いた。
「でも、それは全て私名義なの。お父さんが生前贈与してくれていたから。株式が8000万円、塔用マンションが一つ。合わせて資産価値は1億2000万円ほどかしら。」
二人は言葉を失った。
「嘘だ。そんな財産があるなんて聞いてない。」
「当たり前でしょう。あなたたちに教える必要なんてないもの。」
静香は続けた。
「これらは私の財産だから、私の好きに使わせてもらうわ。」
「ふざけるな。俺は息子だぞ。」
「息子?」
静香の声が冷たくなった。
「お父さんのことを頑固親父と呼び、死んでくれてほっとしたと言った息子。」
琢磨の顔が青ざめた。
「私を認知症扱いし、早く死ねと願った息子。」
「そ、そんなこと言ってない。」
「あら、言ったわよ。ちゃんと録音してあるもの。」
静香はスマートフォンを取り出した。
「あの頑固親父、やっと死んでくれて正直ほっとしたよ。」
「遺産さえもらえれば、もう用はないのよ。」
琢磨と明子の声が会議室に響いた。
「これはまだあるわよ。母さんの寿命なんてあと10年くらいだろ。早く施設に入れて。財産は俺たちが管理しよう。」
公証人も藤原も、厳しい表情で聞いていた。
「私は、あなたたちにとってただの金づるだったのね。」
「違う、母さん。」
「これは5回目よ。今回で。」
「じゃあ、お父さんの遺品を質に売ろうとしたのも、何かの間違いかしら。」
静香は、質屋の査定書を取り出した。
「お父さんの形見の時計。もう売っちゃったの?」
「それは…」
琢磨は言葉に詰まった。
「ご安心なさい。私が買い戻しておいたわ。」
静香は時計を取り出して見せた。
「この時計には、お父さんとの思い出が詰まっているの。お金なんかには変えられない。」
明子が口を挟んだ。
「で、でも、私たちはお母さんの面倒を見てきたんです。」
「面倒?」
静香は嗤った。
「たった2週間じゃない。その間、私の料理はまずい、私の大切な品はゴミ扱い。それに家賃も食費も払ってないでしょう。むしろ、私の家に居候してただけ。」
藤原が補足した。
「法的にも、2週間程度の同居では扶養の実績とは認められません。」
琢磨は最後の手段に出た。
「母さん、考え直してくれ。俺たちは家族だろ?」
「家族?」
静香の目に涙が浮かんだ。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
「家族なら、どうして年に一度しか会いに来なかったの?」
「家族なら、どうして父さんの葬式で涙一つ流さなかったの?」
「家族なら、どうして私の死を待ち望むの?」
琢磨は何も答えられなかった。
「私にもやっと分かったわ。あなたはもう私の息子じゃない。ただのお金に汚い他人よ。」
静香は立ち上がった。
「藤原先生、手続きをお願いします。」
「承知しました。」
「待て。遺留分ってものがあるだろ。」
琢磨が最後の抵抗を試みた。
「ええ、もちろん。藤原が説明した。」
「遺留分として、財産の4分の1は確保されています。ただし、それは債務も含めての計算です。つまり、家のローンも相続することになりますが、よろしいですね。」
琢磨と明子は完全に打ちのめされていた。静香は最後に一言付け加えた。
「ああ、そうそう。来週にはこの家を出て行ってもらえる?」
「え?だって…」
「もう家族じゃないんでしょう。他人を家に置いておく理由はないわ。」
「じゃあ、俺たちが面倒見てやるよ。」
静香は琢磨の言葉をそのまま返した。
「私は自分の面倒は自分で見られるから。こうしてね。」
立場は完全に逆転した。見下していた息子夫婦は、何も得られずに終わった。
公証役場を出た後、琢磨と明子は必死に食い下がった。
「母さん、本気なの?考え直してよ。」
「お母さん、私たちが悪かったです。謝りますから。」
しかし、静香の決意は硬かった。
「謝る?何に対して?」
「えっと、その…」
明子は言葉に詰まった。
「お金がないと分かったから謝るの?それとも、本当に反省してるの?」
二人は顔を見合わせた。その表情が全てを物語っていた。
「母さん、俺たちを許してくれ。やり直そう。」
琢磨が必死に訴えた。
「やり直す?どうやって?これからは本当の親子として…」
「本当の親子?」
静香は悲しそうに首を振った。
「あなたはお父さんを頑固親父と言った。それが本当の息子の言葉?」
琢磨は俯いた。
「あれはつい…口が滑って…」
「口が滑る?本音が出ただけでしょう。」
1週間後、琢磨と明子は大きな荷物を抱えて家を出ていった。
「これからどうするんだよ。」
「実家に帰るしかないでしょう。」
「ローン、どうやって払うんだ?」
「知らないわよ。あなたが相続したんでしょう。」
「お前、遺産目当てで結婚したからだろ。」
「は?あなただって、お母さんの財産目当てだったじゃない。」
二人のみっともない争いを、静香は二階の窓から見下ろしていた。
「因果応報ね。」
呟いた言葉に、もう怒りはなかった。ただ、哀れみだけがあった。
その後、琢磨から何度も電話があった。
「母さん、ローンが払えない。助けてくれ。」
「あら、大変ね。でも、私には関係ないわ。」
「冷たい!実の息子を見捨てるのか?」
「見捨てる?あなたが私を見捨てたんでしょう。」
電話の向こうで、琢磨が黙り込んだ。
「父さんの遺産、計画通り使えばよかったのに。あ、でも、遺産なんて大してなかったのよね。」
静香の皮肉に、琢磨は何も言い返せなかった。
「母さん、せめて100万だけでも…」
「あら、私のお金は全部施設への寄付に回すの。子供たちの未来のために使う方が、よっぽど意味があるでしょう。」
電話が切れた。
3ヶ月後、二人は離婚した。金目当てで近づいた者同士、お金がなくなれば関係も終わり。当然の結末だった。
「あの女、俺を騙してたんだ。」
琢磨が珍しく実家を尋ねてきた時にこぼした。玄関先での立ち話だった。
「騙した?金があると思ってたから結婚したんだってさ。」
静香は冷たい目で息子を見た。
「あなたも同じじゃない。私にお金があると思って近づいてきた。」
「でも…」
「一つ違うところがあるわ。」
静香は琢磨の目を見つめた。
「私はあなたの母親だった。だから、裏切られた時の痛みは、比べ物にならないくらい深かった。」
琢磨は初めて、自分のしたことの重さを理解したようだった。
「母さん、俺、本当にすまなかった。」
「もういいのよ。過ぎたことだから。」
静香の声は穏やかだったが、もう息子を家に入れることはなかった。
「これからは自分の力で生きていきなさい。それがあなたのためよ。」
琢磨はとぼとぼと帰っていった。その後ろ姿は、かつての真面目だった息子の面影もなかった。
一方、静香の生活は劇的に変わった。投資用マンションの家賃収入と株の配当金、合わせて月50万円以上の不労所得があった。
「義人さん、あなたのおかげで、こんなに豊かな生活ができるなんて。」
仏壇に手を合わせながら、静香は亡き夫に感謝した。
「あなたは本当に全てを見通していたのね。」
週に2、3回、近所のカルチャーセンターで書道を習い始めた。
「静香さん、筆の運びが美しいですね。」
先生に褒められる度に、静香の心は満たされた。
「ありがとうございます。夫に書道を勧めてもらったのを思い出して…」
若い頃、忙しくて諦めた趣味を、今になって楽しめる喜び。月に一度は、友人たちと温泉旅行。
「静香さん、最近輝いてるわよ。」
「そう?肌つやがいいし、何か秘訣でもあるの?」
友人たちの言葉に、静香は微笑んだ。
「ストレスがなくなったからかしら。」
「あら、息子さんと同居始めたんじゃなかったの?」
「それが、もう出て行ってもらったのよ。」
「え?どうして?」
「価値観が合わなかったのよ。お互いのために、別々に暮らした方がいいって。」
事実、息子夫婦のいない生活は驚くほど平穏だった。朝は好きな時間に起き、好きなものを食べ、好きなことをする。誰にも気を使わず、自分のペースで生きられる幸せ。
ある日、児童養護施設から手紙が届いた。
「小寺様の温かいご支援のおかげで、子供たちの図書室を新設することができました。」
写真には、本を手に笑顔を見せる子供たちの姿があった。
「義人さん、見て。あなたの遺産が、こんなに役立っているのよ。」
施設長からの手紙にはこう書かれていた。
「子供たちは新しい本に夢中です。特に偉人伝が人気で、みんな将来の夢を語るようになりました。」
静香の目に涙が浮かんだ。これこそが、本当の意味での遺産の使い方だった。義人もきっと天国で喜んでいるだろう。
琢磨のことも、時々思い出す。幼い頃、熱を出した時に一晩中看病したこと。運動会で一等賞を取った時の誇らしげな顔。大学合格を報告してくれた時の涙。初めて就職が決まった時の晴れやかな顔。
あの優しかった息子は、どこで道を間違えたのだろう。きっと、金の魔力に取り憑かれてしまったのだ。でも、後悔はしていない。親としてできることは全てした。教育も愛情も惜しみなく与えた。それをああ返されたのなら、もう親子の縁は切れたも当然。
「情けは人のためならず、か。」
静香は呟いた。情けをかけるのは相手のためではなく、自分のためでもある。相手を見捨てれば、自分が傷つくだけ。
今回の件で、静香は大切なことを学んだ。愛情は無条件に与えるものではない。相手がその愛情に値するかを見極めることも必要だ。血の繋がりがあっても、心が通わなければ、それは他人と同じ。いや、むしろ期待が大きい分、裏切られた時の痛みは深い。
ある朝、静香は鏡を見て驚いた。そこには、10歳は若返ったような自分の顔があった。
「やっぱりストレスって怖いのね。」
化粧ののりも良く、髪にも艶が戻っていた。目の下のくまも消え、表情も明るくなっている。
行きつけの美容院で髪を切った。
「静香さん、何かいいことでもあったんですか?すごく輝いて見えます。」
美容師の問いに、静香は微笑んだ。
「ええ、自由を手に入れたの。」
「自由?」
「自分の人生を、自分で決められる自由よ。」
「素敵ですね。それが一番の幸せかもしれませんね。」
帰り道、静香は花屋に立ち寄った。
「今日はひまわりをください。一番元気なやつを。」
「お客様にぴったりですね。明るくて前向きな花ですから。」
「そうね。私も前を向いて生きていくわ。」
家に帰ると、ひまわりを仏壇に備えた。
「義人さん。私、幸せよ。あなたが残してくれたもののおかげで。」
遺影の中の夫が、優しく微笑んでいるように見えた。もう、誰にも振り回されない。自分の人生を、自分のために生きるわ。
夕方、散歩していると近所の人に声をかけられた。
「静香さん、最近お元気そうで。何か張りの秘訣でも?」
「おかげ様で。秘訣は、ストレスから解放されたことかしら。」
「息子さんは、それぞれの人生を歩んでいます。」
静香の答えに、相手は少し戸惑ったようだったが、それ以上は聞いてこなかった。
夜、静香は日記を書いた。
「今日も穏やかな一日でした。琢磨のことを恨む気持ちはもうありません。彼には彼の人生がある。私には私の人生がある。それぞれが自分の選んだ道を歩めばいい。ただ、親子の絆はお金では買えないということを、いつか理解してくれたら。でも、それも彼次第。私は義人が残してくれた財産と思い出を大切に、残りの人生を精一杯生きていきます。」
68歳。まだまだこれからです。



