担任の川上が時計を見た。出発予定を5分過ぎている。その時、村瀬マリが声をあげた。
「先生、もう行きましょうよ。時間になってます。遅れてきた人のことなんて知りません。親なしの貧乏人に気を使ってたら、みんなが迷惑です」
5月14日、午後4時30分。京都市嵐山の駐車場。修学旅行2日目、31名のうち1人だけ姿が見えなかった。霧島花、17歳。都立清隅高校2年A組。
川上は深く息をつき、運転手に頷いた。ドアが閉まり、バスが動き出した。その瞬間、駐車場の隅から小さな影が現れた。息を切らせて走ってくる少女。ネイビーのブレザーに、少し擦り切れた黒いローファー。肩にかけた黒いポーチだけを持ち、リュックはなかった。バスが曲がって見えなくなった角を、花はしばらく見つめていた。泣かなかった。叫ばなかった。「またか」とだけ思った。背筋だけがまっすぐ伸びていた。
遠くから低い轟音が聞こえてきた。花が空を見上げる。一機のヘリコプターが嵐山の上空に姿を現した。白い機体に、霧島グループの金の紋章。桂川沿いの河川敷にゆっくりと降りてくる。
先に出たバスの後部座席で、野口はるかが声をあげた。
「ヘリ…」
スマートフォンを構え、録画ボタンを押した。ヘリが着陸し、ローターが静まる。ドアが開き、スーツ姿の男が降り立った。神田洋介、40歳。霧島グループ総裁秘書。男は一直線に花の元へ歩き、3メートル手前で立ち止まって深く頭を下げた。
「お待たせいたしました。お嬢様」
バスの車内が静まり返った。マリの顔から笑みが消えた。
「お嬢様…」
口が動いたが、声は出なかった。花は神田に頷き、ヘリへ歩いていった。白いヘリが静かに空へ上がっていく。バスの中に沈黙が満ちた。誰も一言も話せなかった。
これは17歳の少女が半年余り耐え続け、1人でその孫娘を見守り続けた老人の物語。そして、踏みにじった者が必ずその重さを自分の足で受け取る物語でもある。しかし、この時バスの中の誰も知らなかった。あの少女が何者で、マリの家族と学校に何が起こるのかを。
—
時間は半年前に戻る。10月の第3月曜日。都立清隅高校。花が転入してきた朝だった。一度だけ深呼吸をして、2年A組の教室の扉をくぐった。
「今日から転入してくれた霧島花さんです。皆さん、仲良くしてあげてください」
花は静かに頭を下げた。
「花です。よろしくお願いします」
拍手がまばらに起きた。その中で、一つだけ温度を持った視線があった。村瀬マリ。ブランドのバッグ、艶やかなネイル、重ね付けのアクセサリー。彼女の目が花の全身をゆっくりと撫でた。ユニクロの服に、潔いくらい質素な見た目。マリは隣の子に耳打ちした。声は花の席まで届いた。
「ねえ、あの子ユニクロじゃない? お家、大丈夫なのかな?」
クスクスと笑い声が広がった。花は前を向いたまま、何も言わなかった。
昼休み、花が1人で弁当を広げていると、マリが近づいてきた。
「ねえ、霧島さんって親と住んでるの?」
「いいえ」
「え? なんで? もしかして親いないの?」
花は少し間を置いて、静かに言った。
「父は亡くなっています。母は入院中です」
マリが大げさに驚いた顔をした。
「え? 親なしじゃん。しかも貧乏そうだし。親なしの貧乏人じゃん」
笑い声が上がった。花は弁当箱の蓋をそっと閉めた。今は戦う時ではない。そう思った。腹の底で何かが静かに燃え始めていた。
その日を境に、「親なしの貧乏人」という呼び名が広まった。廊下を花が通るたび、マリが声をあげた。
「あ、貧乏人が来た。みんな財布隠しとけ」
笑い声が廊下に響いた。花は何も言わずに歩き続けた。
11月初め、体育の授業。ドッジボールの試合中、マリが花に強くボールをぶつけた。
「ごめん。力加減できなくて」
花の腕が赤くなっていった。野口はるかが口を開きかけた。
「先生、あれは明らかに…」
マリの目がはるかに向いた。はるかは黙った。
「大丈夫です」
花はそう言って試合に戻った。
11月中旬、花の上履きが消えた。3日後、鞄の底から出てきた。中にゴミが詰められていた。花は担任の川上に相談した。
「それは確かに問題だね。一度、話し合いの場を設けようか」
しかし、翌日、川上が花を呼び出した。
「霧島さん、少し待ってほしいんだけど。まだ確認が取れていないから」
その夕方、村瀬じ子が学校に来た。PTA会長の村瀬じ子は、教頭の三島を廊下に連れ出して話していた。
「うちのマリがそんなことするわけないんですよ。証拠もないのに疑うって、どういうことですか?」
三島は「ご心配をおかけして」と頭を下げた。翌日、川上が花に言った。
「今回は証拠の確認が取れなかったので」
花は静かに頷いた。
「わかりました」
諦めたわけではなかった。いつか必ず分かる日が来る。そう信じていた。
12月、いじめは続いた。クラスの飾り付けから花だけが外され、昼の席は気づけばいつも1人になっていた。野口はるかだけが時々隣に来た。
「はなちゃん、一緒に食べていい?」
花は「うん」とだけ言い、少し笑った。はるかは何も言わず、ただ隣に座っていた。
年が明けて2月、修学旅行の班分けがあった。花はマリと同じ班になった。意図的だと花には分かっていた。発表の時、マリが笑っていたからだ。
修学旅行の前週、マリが花に近づいてきた。
「修学旅行、楽しみだね。貧乏人はヘリも新幹線も乗ったことないでしょ。一生乗れないよ、貧乏人は」
花は前を向いたまま静かに答えた。
「乗ったことあります」
「嘘つき」
マリが笑った。花は何も言い返さなかった。ただ、わずかに目を細めた。
—
ここで、霧島花という人物について話さなければならない。2009年、東京下町に生まれた。父・霧島優一、母・霧島なお。ごく普通の、しかし温かな家庭だった。父の優一は自動車部品の工場に勤め、毎朝6時に出発し、夜7時に帰ってきた。土曜日は必ず近くのデパートの屋上遊園地に連れて行ってくれた。
「花、好きなのどれ?」
「あれ!」
「じゃあ、乗ろう」
そういう父だった。
2018年、花が9歳の秋。優一が帰り道の交差点で事故にあった。花が「お父さん、いつ帰ってくるの?」と聞いた夜、電話が鳴った。母のなおが皿を落とした音を、花は今も覚えている。葬儀の日、花は泣かなかった。泣いたらお父さんが心配する。そう思ったから。
なおはそれからダブルワークを始めた。昼はジムの仕事、夜はコンビニのパート。花が「お母さん、無理しないで」と言うたびに、なおは笑った。
「大丈夫。お父さんの分、私ちゃんとやるから」
2022年、花が13歳の夏。なおが職場で倒れた。過労による心疾患。即日入院。病院の廊下で医師に言われた。
「しばらくは安静が必要です。数ヶ月かかります」
花は立ち尽くした。お金がなかった。このままでは家賃も払えない。その夜、なおのスマートフォンに着信があった。画面に「霧島現次郎」という名前が出た。花が電話に出た。低く穏やかな声だった。
「花か。おじいちゃんだ」
花はその声を聞いた瞬間、涙が出た。
「おじいちゃん」
その一言が何かを解き放った。翌朝、一台の黒い車が病院に来た。車から降りた老人を見て、花は息を飲んだ。赤いカーディガン。背は高くない。しかし、目に力があった。現次郎は花を見て言った。
「大きくなったな。……全部、おじいちゃんがやる」
花は「うん」とだけ頷いた。
東京・港区の屋敷に移ってから、花は気づいた。大きな屋敷に黒い車が何台も並んでいる。リビングに飾られた表彰状。経済産業大臣賞を受賞した記事。壁には新聞の切り抜きが貼ってあった。「霧島グループ売上3000億円突破」。花は翌朝、現次郎に聞いた。
「おじいちゃん、会社、大きいの?」
「人が働いてくれている、ありがたい会社だよ」
その言葉に誇りはなかった。
「あ、そっか」
花はそう言ってまた黙った。
「うちのことは誰にも言わなくていい。花は花として、自分の足で学校に行けばいい」
花は黙って頷いた。普通の女の子として学校に行く。それが花の選択だった。
—
そして、霧島現次郎について話さなければならない。1951年生まれ。鹿児島の離島の漁師の家の三男だった。19歳で上京し、鉄くずの仕分け作業から始めた。
「信用は汗一滴から積み上げるものだ」
その言葉が40年間の指針になった。1979年、28歳で霧島グループを設立した。鉄、不動産、ホテル、航空チャーター。バブル崩壊もリーマンショックも乗り越えた。一度も従業員をリストラしなかった男。
「人を切るくらいなら、俺が食わせる」
それが霧島現次郎の信条だった。
2022年、孫娘の花が屋敷にやってきた。普通の子として学校に行きたいと言われた時、現次郎は黙って頷いた。しかし、見守ることはやめなかった。神田に一つだけ指示していた。
「花の様子は常に把握しておいてくれ」
その指示が動いたのは、修学旅行の前日。神田が花の部屋を訪ねた。
「お嬢様、これをお持ちください」
小さな黒いカプセルだった。GPS。常に位置情報を弊社に送信しています。旅先で何かあれば、すぐに動けます。花は少し間を置いて受け取った。
「いつもありがとう、神田さん」
「もったいないお言葉です」
神田が部屋を出る前に、花が聞いた。
「おじいちゃんは…心配してる?」
「いつも。ただ、それは表に出さないお方ですので、お伝えするのを控えておりました」
花は「そっか」と言って窓の外を見た。おじいちゃんらしい。そう思った。少しだけ笑えた。
—
修学旅行1日目は何も起きなかった。夜、旅館でマリが仲間を廊下の隅に呼び寄せた。
「明日さ、はなちゃんのリュックを宿舎に隠しといて。班別自由行動の集合時間になっても気づかないようにね」
仲間の一人が「いいの?」と聞いた。
「いいの。先生もどうせ止めないから」
翌日、修学旅行2日目。班別自由行動の後、マリの仲間が花のリュックを宿舎の部屋に押し込んだ。花が気づいたのは、集合時間の10分前だった。リュックがない。花は宿舎に走って戻った。廊下を走り、階段を駆け上がった。部屋のドアを開けると、リュックはベッドの裏に隠されていた。それを見た瞬間、全てが分かった。また、だ。
リュックを手に取り、駐車場へ向かって走った。しかし、バスはもう動き出していた。
—
一方、霧島グループ総裁室。神田がタブレットを手に、現次郎の前に立った。
「お嬢様のGPS端末から現在地が届いています。お嬢様がお1人のようです。バスは出発済みです」
現次郎は窓の外を1秒見た。
「ヘリを出せ」
たった5文字だった。神田は一礼した。
「承知いたしました」
3分後、会社屋上のヘリポートから白い機体が飛び立った。桂川の河川敷に着陸するまで27分。花が駐車場に1人立っていた時間は32分だった。神田が降り立ち、花の前で深く頭を下げた。
「お待たせいたしました。お嬢様。おじい様が、すぐにヘリを手配するようにと」
「ありがとう、神田さん」
「いいえ。どうぞ、行ってらっしゃいませ」
花は小さく頷き、ヘリへ歩いていった。ドアが閉まる。ローターが回り出す。風が桂川の水面を大きく波立たせた。
後部座席の野口はるかが、スマートフォンの録画を止めた。画面には白いヘリが空へ上がっていく映像。5秒考えた。それから投稿ボタンを押した。
「あげた方がいい気がする」
その夜、修学旅行で置き去りにされた女子高生をヘリが迎えに来たという動画が拡散した。翌朝50万再生、昼に300万、夜の10時には900万を超えた。コメント欄に書き込みが殺到した。
「わざと置き去りにしたいじめだろう」
「担任は何してたんだ?」
さらに、マリが花に「親なしの貧乏人」と言う場面など、別の動画も掘り起こされた。都立清隅高校、村瀬マリという名前が出回った。
—
翌朝、清隅高校に報道陣が来た。学校への問い合わせ電話は朝から100件を超え、教育委員会への苦情も殺到した。校長の坂田はパニック状態だった。
「どういうことだ、三島君? 説明してくれ」
教頭の三島は目を泳がせていた。
「……以前から相談は受けていたんですが」
「受けていたのに何もしなかったのか」
「村瀬PTA会長から証拠が…」
坂田の目が細くなった。
「会長の圧力で揉み消したということか」
三島は何も言えなかった。
同じ頃、霧島グループ本社。法務部長が資料を手に、現次郎の前に立った。
「総裁、村瀬不動産との取引一覧です」
現次郎が資料に目を落とした。村瀬不動産株式会社。スタンダード上場。年間売上100億円。霧島グループとの取引額は年間40億円。売上の40%を占める主要取引先だった。
「本日付けで全件凍結してくれ」
法務部長は一礼した。
「承知いたしました」
午前10時、村瀬不動産に一通のファックスが届いた。「霧島グループとのお取引について、本日付けを持ちまして全件を凍結いたします。理由は追ってご連絡差し上げます」。村瀬周一、47歳。村瀬不動産代表取締役。そのファックスを手に持ったまま、しばらく動けなかった。
「なんで…なんで霧島が…」
部下が差し出したスマートフォンの画面には、「PTA会長の娘がいじめ、被害者は霧島グループ孫娘」という見出しが並んでいた。周一の手からファックスが床に落ちた。
翌日、メガバンク3社から立て続けに連絡が入った。
「融資の見直しについてご相談したく」
合計25億円の融資引き上げが通告された。村瀬不動産の株価が急落。最高値から38%下落し、時価総額が2日間で18億円消えた。株主から怒りの電話が殺到した。
「何がどうなってるんだ? 説明しろ!」
取締役が緊急召集された。
「社長のご家族に問題があったとのことですが、経緯について説明いただけますか?」
周一は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
「娘が…娘が…私は知らなかった。知らなかったんです」
「知らなかったとおっしゃるが、PTA会長として娘のイジメを長期に渡り揉み消した事実が出ています。経営者の責任は免れません」
周一は何も言えなかった。3日後、臨時株主総会が開かれた。村瀬周一は代表取締役を解任された。賛成率89%だった。
—
学校でも動きが加速していた。教育委員会の調査官が清隅高校に入った。調査は3日間に及んだ。花の申告記録、川上の処理記録、保護者からの電話記録、三島の放置記録。全てが書類として残っていた。「証拠がない」と言われ続けた申告書が、今、机の上に並べられていた。
調査官が三島を呼んだ。
「申告を受けながら保留にした理由を教えてください」
「会長からのご意見もありまして…」
「村瀬会長の発言によって対応を止めたと」
三島は黙って頷いた。4件の書類の前で、三島はしばらく動かなかった。揉め事にしたくなかった。その一言で花を見捨てていた。
「被害生徒は半年間、誰にも助けてもらえなかった。その事実をどう受け止めますか?」
三島は何も言えなかった。俯いたまま、動かなかった。
川上も呼ばれた。
「担任として被害を認識しながら対応しなかった。その理由を教えてください」
「上から止められていたので…」
川上は小さな声で答えた。顔が真っ白だった。
「先生に相談したあの日、霧島さんの表情を覚えていますか? 『わかりました』と言ったあの顔。あれは諦めではなく、耐えると決めた顔だった。一番辛かったのは霧島さんです」
川上は目を閉じた。
調査結果が発表された。いじめの認定と、組織的な隠蔽が確認された。三島は教頭を解任。担任の川上は担任解除。坂田校長は依願退職。その翌日、村瀬じ子がPTA役員に電話した。
「役員の皆さんにご迷惑をおかけするので、私はPTA会長を辞任いたします」
役員の誰も引き止めなかった。じ子は電話を切り、部屋の椅子に座り込んだ。5年間共に活動した仲間に電話した。しばらく沈黙があり、相手は言った。
「ごめん。今ちょっとバタバタしてて」
電話が切れた。翌日も、3人目も、誰も出なかった。守ってきたのではなく、甘やかしてきただけだと、じ子はその日初めて分かった。
ある日、スーパーのレジ前に並んでいると、後ろから聞き覚えのある声がした。PTAで共に活動した仲間の一人だった。
「あら、村瀬さん。お久しぶり」
相手は視線をそらし、「すみません、急いでいて」と言って別のレジに移っていった。じ子はしばらくカゴを持ったまま、立ち尽くした。PTA会長・村瀬じ子という肩書きが付き合いの全てだったことを、今さら知った。
紫の家庭にも亀裂が入っていた。周一が帰宅した夜のことだった。
「お前がマリを甘やかしてきたせいだ」
「あなたが何も言わなかったからでしょう」
マリは2人の声を自分の部屋で聞いていた。ドアを閉めた。私のせいで。その夜、マリは眠れなかった。
3ヶ月後、村瀬家は自宅を売却した。購入時より30%安い値段だった。それでも融資の返済には足りなかった。銀行の担当者が書類を持って尋ねてきた。
「残債1億2000万円について、担保設定の車両・有価証券を差し押さえさせていただきます」
周一は書類に目を落とし、無言のまま判を押した。2日後、アパートの駐車場に回収業者が来た。8年間乗り続けた黒いBMW。「社長のお車の準備ができております」と部下が言っていたあの車。それが音もなく運ばれていった。
「そうか」
周一は2階の窓から薄い影に見送った。声は出なかった。涙も出なかった。ただ「終わった」という感覚だけが静かに残った。
周一はかつての取引先に頭を下げた。
「顧問として採用してもらえないか」
1週間後、「今は難しい」という返事が来た。名刺入れを開けた。村瀬周一、代表取締役。誰にも渡せない名刺だった。周一は1枚ずつカードを通してシュレッダーに入れた。かつては毎朝秘書が先に出社して机を整えていた。今は誰も来ない。連絡先に電話しても、同じ言葉だった。
「今は少し立て込んでいて、また落ち着いたらご連絡します」
村瀬周一という名前の価値が、会社と一緒に消えていた。
2ヶ月後、周一は生まれて初めてハローワークの窓口に座っていた。
「現在のご職業は?」
「退職しております」
「以前はどのようなお仕事を?」
「会社を経営していました」
担当者は笑顔のままパソコンを見続けた。
「代表取締役のご経験ですね。顧問職なども……ただ、ご年齢的に……」
周一は「ありがとうございます」と言って席を立った。外に出ると、秋の風が冷たかった。社長と呼ばれていた頃が、遠かった。
じ子もまた働かなければならなかった。地元のスーパーのパート募集に応募した。面接で「以前のお仕事は?」と聞かれ、「主婦をしておりました」と答えた。PTA会長を5年間、という言葉は出てこなかった。それが価値を持つ場所は、もうどこにもなかった。3日後、「今回はご縁がなかった」という連絡が来た。じ子は受話器を置き、テーブルに両手をついた。会長、会長と呼ばれていた5年間。何ひとつ自分の力ではなかった。
弁護士との話し合いの末、周一とじ子は別居を決めた。
—
マリは母方の祖母の家に引っ越した。都立清隅高校を退学した。
「マリ、ご飯できたよ」
「はい」
新しい学校に転入して、マリは気づいた。PTA会長の娘という肩書きが、もうない。「親なしの貧乏人」と言い続けた相手が何者だったかを知った。霧島グループの孫娘。3000億のお嬢様。
事実より先に、別のことが頭に浮かんだ。はなちゃんは、お父さんが亡くなっても、お母さんが入院しても、毎日学校に来てた。自分が貧乏人と呼んだ相手は、誰より強く生きていた。マリは1人静かに呟いた。
「私は…何がしたかったんだろう。お父さんが社長だから上。それって、全部自分じゃなかった」
お昼は1人で食べた。
「はなちゃんって、ずっとこうだったんだ」
祖母が作ってくれた弁当だった。
「…美味しい」
初めて、食事をちゃんと味わった気がした。
ある日、放課後に図書室へ行ってみた。棚の前で本を選んでいると、隣に誰かが座った。
「一緒に読んでいい?」
「いいよ」
1時間、2人は黙って本を読んだ。楽しかったとは思わなかった。ただ、「悪くなかった」とは思えた。変わることしかできない。ゆっくりと、そう思い始めていた。
ある日、新しい学校の先生に言われた。
「村瀬さん、最近表情が変わったね」
「そうですか」
「なんか前より柔らかい感じがする」
マリは「そうかな」と言って俯いた。
その夜、マリはベッドの中でスマートフォンを開いた。検索欄に「都立清隅高校 いじめ」と打った。出てきた動画の中に、自分の姿があった。
「あ、貧乏人が来た。みんな財布隠しとけ」
自分の声がスピーカーから流れてきた。画面の向こうで、花が何も言わずに歩き続けていた。マリは動画を止めた。しばらく画面を見つめていた。
「こんな顔してたんだ」
声が震えた。謝りたい。でも一言では謝れないとも分かっていた。だからマリは画面を閉じた。じっと暗くなった画面を見つめた。これからどう生きるか。それしか残っていなかった。
—
話は修学旅行の最終日に戻る。ヘリは2日目の夕方、ホテル屋上に静かに降りた。花はその日の夜、誰とも話さず、1人で夕食を取った。
最終日の朝、川上が廊下で深く頭を下げた。
「霧島さん。昨日は本当に申し訳ありませんでした」
花は「わかりました」とだけ言った。先生も怖かったんだと思う。でもそれは理由にならない。怒りを外に出さないまま、花は荷物を持って歩き出した。
午後、金閣寺の前で、野口はるかが花のそばに来た。
「はなちゃん、昨日の動画、私があげたんだけど…ごめん。勝手に」
花ははるかの顔を見た。少し間を置いて、言った。
「ありがとう」
はるかが目を見開いた。
「言ってくれる人がいてくれてよかった。私、もっと早く言えばよかった。ずっと怖くて…ごめん」
花は首を横に振った。
「はるかがくれたから、大丈夫だったよ」
はるかは目に涙を溜めた。何も言えなかった。2人はしばらく金閣寺を並んで見た。5月の光が金色の壁を照らしていた。
「綺麗だな」
あ、心の底からそう思えたのは、久しぶりだった。
—
修学旅行から帰った翌日、花は現次郎の書斎を訪ねた。ノックして入ると、現次郎が窓の前に立っていた。夕暮れの東京が窓の向こうにあった。
「おじいちゃん」
「来たか。座りなさい」
花はソファーに腰を下ろした。少し間が開いた。
「ヘリ、ありがとう」
「当然のことをしたまでだ」
「心配かけて、ごめんなさい」
「謝らなくていい。花が我慢してきたことの方が問題だ」
花は膝の上に手を置いた。
「普通の子として学校に行きたかったから。だから黙ってた。迷惑をかけたくなくて」
「知っている。花の気持ちを尊重したかった。しかし、結果としてお前を1人にしてしまった」
現次郎の目がわずかに揺れた。
「優一が亡くなって8年になる。俺はずっと、あの子に何もしてやれなかったと思ってきた。しかし、お前を見ていると、優一がいる気がする」
花は膝の上に手を重ねた。下を向いた。泣きそうだった。泣かなかった。お父さん、見てるかな? 声に出さずにそう思った。書斎の時計が静かに時を刻んでいた。
「お母さんは元気にしているか?」
「はい。手術してから安定しています」
「そうか。よかった」
また沈黙があった。夕暮れの東京が窓を染めていた。花はゆっくりと立ち上がった。
「それでは、失礼します」
ドアに向かいかけて、足を止めた。振り返った。
「おじいちゃんがいてくれて、よかったです」
現次郎は窓の前で静かに頷いた。ドアが閉まった。現次郎は1人、夕暮れの東京を見ていた。心の中で、優一に呼びかけた。お前の娘は、強い子だ。
47年間、鉄くずを仕分けた手で3000億を作り、どんな危機でも崩れなかった。しかし、孫娘の「おじいちゃんがいてくれてよかった」という言葉の前で、現次郎は窓に背を向け、目を伏せた。俺の方だ、花。お前がいてくれて、よかった。
—
1週間後、花は母のなおの病院を訪ねた。
「花、ニュース見たよ」
「ごめん。心配させて」
「謝らないで。あなたが無事でよかった。おじいさんが来てくれたのね」
「うん。すぐに来てくれた」
なおは窓の外を見た。少し遠い目をしていた。
「花のお父さんは、ずっと見ててくれたんだね」
「うん。ずっと」
なおの目に涙が浮かんだ。
「花。ありがとう。1人でよく頑張ってくれた」
花は手を伸ばして、なおの手を握った。泣くのは母さんの分だけでいい。花は泣かなかった。ただ、母の手を握り続けた。
病院を出た後、花ははるかにLINEを送った。「今日お母さんに会ってきた。元気そうだった」。すぐに既読がついた。「よかった。本当に良かった」。花は少しだけ笑った。「ありがとう」と返信した。
翌週の月曜日、花は清隅高校に登校した。廊下を歩くと、違う目が向けられた。
「霧島さんって、あの霧島グループの…」
誰かが小声で言った。花は気にしなかった。図書室の前に、野口はるかがいた。
「おはよう、はなちゃん」
「おはよう」
2人は並んで教室へ歩いた。それだけで十分だった。
—
ある秋の休日。花は現次郎に連れられ、江の小さな墓地へ来ていた。白い墓石に「霧島優一」と刻まれていた。花は白いカーネーションを2本、墓前にそっと置いた。9歳の秋、父は突然いなくなった。それから8年間、花は父の前で一度も泣かなかった。泣いたら、また遠くへ行ってしまう気がして。心の奥で、ずっとそう思い続けていた。
「優一が帰ってきたよ」
現次郎が静かに言った。線香の煙が細く立ち上った。花は目を閉じた。どこか遠くで、父の声が聞こえた気がした。
「花、大好きだよ」
8歳の夏、父が抱き上げながら言った言葉だった。
「お父さん」
その瞬間、花の目から涙が一粒流れた。8年間ずっと我慢してきた涙だった。現次郎は何も言わなかった。ただ、花の隣に静かに立っていた。風が吹いた。線香の煙が空に溶けた。花は袖でそっと目を拭い、小さな声で言った。
「行こう、おじいちゃん」
「ああ、そうだな。行こうか」
2人は並んで墓地の小道を歩き始めた。現次郎は、息子の代わりに生きてきた8年間を思った。花はようやく、父にさよならが言えた気がした。秋の空は高く、青かった。
人の親や肩書きで見た瞬間、あなたは本物を見失う。踏みにじった言葉は、必ず足元に帰ってくる。17歳の花が半年余り耐え続けたのは、誰かに認めて欲しかったからではない。自分が自分であるために、必要だったからだ。
ヘリが運んだのは、花1人ではなかった。半年余り、1人で立ち続けた時間の全部が、あの白い機体に乗っていった。霧島花の物語は、まだ始まったばかりだった。



