「お母さん、明日からは一人で暮らしてもらうことにしたから。」
夕食後の静まり返ったリビングで、息子の正治が淡々と告げた。私は手に持っていた湯のみを置くことさえ忘れてしまった。四十二年、旅館の清掃員として朝五時から働き続け、この息子を育ててきた私への通告が、まるで明日の天気を告げるような口調で伝えられるなんて。
「お母さん、申し訳ないんですけど、私の両親をこちらに呼ぶことになったんです。」
隣に座る嫁ののり子が申し訳なさそうな表情を作りながらも、その目は冷たく私を見つめていた。
「でも、この家は私が頭金の五百万円を出して……」
言いかけた私の言葉を正治が遮る。
「その話はもう終わったことだろ。母さんも分かってくれるよね。」
分かってくれる? 何を分かれというのだろう。息子夫婦の顔を交互に見つめながら、私の中で何かが静かに、しかし確実に変わっていくのを感じた。
「そうですか。わかりました。明日出ていきますね。」
私は静かに微笑んだ。二人が戸惑ったような表情を浮かべたのを見ながら、心の中で呟いた。――二十四時間後、あなたたちの世界がどうなるか、楽しみにしていなさい。
翌朝、荷物をまとめながら私は過去を振り返っていた。夫を早くに亡くし、女手一つで正治を育てた日々。旅館の清掃員として四十二年、朝五時から夜遅くまで働き続けた。制服の襟元がすり切れるまで使い、自分の服は買わずに息子の教育費を捻出した。大学までの教育費総額八百万円。それでも、息子の笑顔が私の生きがいだった。
「母さん、俺たち結婚するんだ。」
三年前、正治がのり子を連れてきた時の嬉しそうな顔を思い出す。頭金が足りなくて、その時も迷わず定期預金を解約した。五百万円。老後の蓄えは減ったけれど、息子の幸せが何より大切だと思った。
「お母さん、一緒に住みましょう。私たちがお世話しますから。」
のり子の言葉を信じて小さなアパートを引き払い、この家に移ってきた。最初の数ヶ月は幸せだった。孫の世話をし、家事を手伝い、家族団欒の時を過ごした。
でも、いつからだろう? 私の居場所が少しずつ奪われていった。
「お母さんは二階の物置き部屋で十分ですよね。」
屋上の狭い部屋に追いやられ、食事も別々になった。年金十五万円も全額家に入れるよう要求され、小遣いすらもらえなくなった。
「お荷物は早く片付けないと。」
のり子が私の荷物を指差しながら正治に言った言葉が耳に残る。お荷物。私は息子夫婦にとって、ただの荷物だったのか。
でも、知らないでしょうね。この四十二年、私が密かに準備してきたことを。
同居が始まって半年が過ぎた頃からのり子の態度は露骨に変わっていった。
「お母さん、明日から朝五時に起きて全員分の朝食を準備してください。」
私は仕事があるから、と週三日のパートを「仕事」と言いはるのり子に対し、私は四十二年間フルタイムで働いてきた。それでも、黙って従った。
「このお味噌汁、薄くない?」
のり子は一口飲んで顔をしかめた。
「お母さんって、料理下手なのね。」
私が心を込めて作った料理を、彼女は当然のように批判した。正治も同調するように頷いていた。
「母さん、もう少し味付け考えてよ。」
息子の言葉に胸が締めつけられた。
金銭的な要求も始まった。
「お母さん、年金は全額家計に入れてもらいます。振込先をうちの口座に変更してください。」
「でも、少しは手元に……」
「何に使うんですか? 住居費も食費も全部こちらで出してるのに。」
結局、月十五万円の年金は全て彼らの口座に振り込まれることになった。小遣いすら渡されず、必要なものがあれば「お願い」する屈辱的な生活が始まった。
「母さんも養ってもらってるんだから、当然だろ。」
正治の言葉に絶句した。私が五百万円を出して建てた家で、養ってもらっている。
のり子の両親が遊びに来ると、大歓迎された。
「お父様、お母様、どうぞこちらのソファーでおくつろぎください。」
豪華な食事でもてなされるのり子の両親。一方、私は台所の隅で立ったまま残り物を食べるよう指示された。
「お母さんは高齢者だから、立っている方が健康的でしょう。」
のり子の母親が私を見下ろしながら言った。
「そうですよね。うちのシュートなんて、ただの厄介者ですから。」
厄介者。自分の家なのに、厄介者扱いされる屈辱。
同居しているのに、接触まで制限されるようになった。
「太郎、おばあちゃんには近づかないで。」
五歳の孫が私に駆け寄ろうとすると、のり子が慌てて引き離した。
「お母さんと遊ぶと、変な癖がつくから。」
同じ家にいるのに、孫を抱くことも一緒に遊ぶことも禁じられた。
「おばあちゃんなんで一緒に食べないの?」
「おばあちゃんは汚いから、太郎と一緒に食べられないのよ。」
のり子がそう吹き込むと、純真な孫は信じてしまった。
「おばあちゃん、臭い。」
孫にそう言われた時、心がちぎれそうだった。
「子供は正直ね。」
のり子の高笑いが響く。
ある日、私が風邪で寝込んだ時のことだった。
「お母さん、熱があっても家事はやってもらわないと困ります。」
三十九度の熱でふらつきながら洗濯物を干していると、のり子はソファーでスマートフォンをいじりながら言った。
「あら、動作が遅いわね。認知症じゃないの?」
「のり子、それは言いすぎだよ。」
正治が口を挟んだが、その声に諦めが混じっていた。
「でも最近同じ話を繰り返すし、確かに母さん病院行った方がいいんじゃない?」
私は認知症なんかじゃない。ただ、家族と話したくて同じ話題を出すこともあっただけなのに。
洗濯物も別にされるようになった。
「お母さんの下着と一緒に洗うの、ちょっと汚いものは別にしないとね。」
正治も同調した。
食事の席でも屈辱は続いた。
「お母さん、箸の持ち方おかしくない? 食べ方が汚いのよね。」
「母さん、もう少し上品に食べてよ。」
四十二年間休む間もなく働いてきた手は確かに荒れていた。でも、それは息子を育てるために頑張った証だったのに。
私物の管理も制限された。
「お母さんの荷物、多すぎるから処分してください。」
大切な思い出の品々を「ゴミ」と呼ばれ、次々と捨てられそうになった。
「これからは私たち家族の明るい写真だけ飾りましょう。」
私は写真に映ることすら許されなかった。
夜、自室で一人食事をしていると、開けたドアからのり子の電話の声が聞こえてきた。
「うちのシュート。ああ、本当にお荷物よ。目障りだし邪魔なのよね。いつまでいるつもりなのかしら。早く施設にでも入ってくれればいいのに。認知症っぽいし。」
「もう限界でも、年金は全部もらってるからまだ利用価値はあるけど。」
「そうそう。貯金もあるはずなのよ。それもなんとか吐き出させないと。」
私は震える手で日記を開いた。全ての暴言、全ての屈辱を記録してきた。でも、もうすぐ終わる。
彼らは知らない。年金振込口座とは別に、私が四十二年間コツコツと貯めてきた秘密の口座があることを。そして、この土地の本当の価値と、私が持つ旅館の株の意味を。
明日の朝、全てが明らかになる。
追い出し宣言の三日前、のり子の両親が突然やってきた。
「お父様、お母様、ようこそいらっしゃいました。」
のり子が玄関で満面の笑みを浮かべて両親を迎えた。正治も仕事を早退してまで出迎えに加わっていた。
「いや、立派な家だね。」
のり子の父親が感心したように見回した。
「ええ、私たちが頑張って建てたんです。」
のり子が胸を張って答えた。私が出した五百万円のことは、まるでなかったことになっている。
「お母さん、荷物を二階に運んでください。」
のり子の両親の大量の荷物を、私は黙々と運んだ。腰が痛むのを我慢しながら、重いスーツケースを引きずって階段を登る。
「あら、遅いわね。もっとテキパキ動けないの?」
のり子の母親が呆れたように言った。
「すみません。」
謝りながら、私は最後の荷物を運び終えた。汗だくになっている私を見て、のり子の両親は顔を見合わせた。
「のり子、お手伝いさんにしては年を取りすぎじゃない。」
「ああ、これは正治の母親なんです。厄介者を置かせてあげてるんですよ。」
厄介者。またその言葉。自分の家で厄介者扱いされる屈辱に、手が震えた。
「へえ、優しいのね。普通なら施設に入れるところよ。」
のり子の母親の言葉に、のり子は意味ありげな微笑みを浮かべた。
夕食の準備になると、差別は露骨だった。
「お母さん、今日は特別な日なので最高の料理を作ってください。」
のり子が渡してきたメニューを見て、私は驚いた。高級和牛のステーキ、伊勢エビの刺身、フォアグラの素敵。これ、材料費だけでも三万円以上かかりますが。
「お母さんの年金から出してください。家族のためでしょう。」
家族? でも、私は家族じゃないと言われたばかりなのに。
必死で料理を作っている間、リビングからは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「お母様、この十二畳の和室を使ってください。一番いい部屋なんです。」
「まあ、素敵。床の間もあるのね。」
その部屋は元々私が使っていた部屋だった。のり子の両親が来てから、私は六畳の物置き部屋に追いやられたのだ。
「お布団も最高級のウールの布団を用意しました。」
「お風呂もお父様たちから先にどうぞ。二十四時間いつでも入れますから。」
私は朝五時から六時までの一時間しか入浴を許されていないのに。
夕食の席では、さらなる屈辱が待っていた。
「お母さんは台所で食べてください。」
豪華な料理が並ぶダイニングテーブルに、私の席はなかった。
「でも、私が作った料理なのに。」
「作っただけでしょう。食材費も出してもらったし。これは私たち家族の食事です。」
家族。その言葉が何度も私を傷つける。
台所の隅で冷めた残り物を食べながら、私はリビングの会話を聞いていた。
「それにしても、よくあんな年寄りと同居してるわね。」
のり子の母親の声だった。
「もう少しの辛抱なんです。実は……後日追い出すことにしたんです。」
「あら、やっとなの?」
「ええ。お父様とお母様にここに住んでいただきたくて。」
私は箸を落としそうになった。やはり、最初から計画されていたことだったのだ。
「でも、追い出すって簡単にできるの?」
のり子の父親が心配そうに聞いた。
「大丈夫です。あの人、お金もないし行く場所もありません。施設に入るしかないでしょう。年金は全部こちらで管理してます。振込先も変更済みです。」
「賢いわね。でも、恨まれない?」
「恨む元気もないでしょう。最近認知症の症状も出てきてますし。」
認知症? 私は正常なのに、勝手に認知症扱いされている。
「そういえば、この家の名義は?」
のり子の父親が重要なことを聞いた。
「建物は私たちの名義です。土地はまだあの人の名義ですが、すぐに変更させます。」
「早くした方がいいわよ。後でトラブルになる前に。」
私は静かに立ち上がり、自室に戻った。
部屋で、私は古い書類入れを開けた。土地の権利書、旅館の株券、そして銀行の残高証明書。誰も知らない、私の切り札たち。
のり子の両親の話し声がまた聞こえてきた。
「あの老人、本当に惨めね。息子にも見捨てられて、自業自得よ。」
「息子の教育に失敗したんでしょう。」
「でも、五百万円も出させたんでしょう。」
「ああ、たったそれだけ? うちのり子はうまくやったわね。」
笑い声が響く。私をバカにする笑い声が。
次の日の朝、のり子の両親へのおもてなしはさらに豪華になった。
「お母様、朝食はフレンチトーストとフレッシュジュースを用意しました。」
一方、私にはコンビニのおにぎり一個が渡された。
「お母さんはこれで十分でしょう。でも、朝から家事をするのに文句を言うなら、何も食べなくていいですよ。」
のり子の冷たい視線に、私は黙っておにぎりを受け取った。
その日の午後、決定的な場面を目撃した。
「お母様、これお小遣いです。」
のり子が母親に封筒を渡していた。中身が少し見えた。五万円は入っているようだった。
「あら、悪いわね。」
「いいんです。お母様たちは本当の家族ですから。」
本当の家族。その言葉を聞いて、私の決意は固まった。
「お母さん。」
のり子が振り返って私を見た。
「明日の朝十時までに、この家を出て行ってください。荷物は最小限で。家具は置いて行ってもらいます。」
「わかりました。」
私は静かに答えた。
「あら、素直なのね。」
のり子の母親が驚いたように言った。
「もう観念したんでしょう。年寄りは諦めが早いから。」
三人の笑い声が響く中、私は静かに微笑んだ。
「ええ、明日の朝には出ていきます。でも、後悔しないでくださいね。」
その言葉に一瞬のり子の表情が曇った。でも、すぐに鼻で笑った。
「老いぼれに何ができるっていうの。年金も取られて、お金もない老人が。」
「母さん、変な期待はしない方がいいよ。」
正治も鼻で笑った。
何ができるか? それは二十四時間後に分かることになる。私は心の中でそう呟きながら、自室へと向かった。手には、古い鍵が握られていた。四十二年前から大切に保管してきた、旅館の金庫の鍵が。
明日の朝、私が姿を消した後、この家で何が起こるか、彼らには想像もつかないだろう。土地の権利、隠された資産、そして旅館での私の本当の立場。全てが明らかになる時、彼らの顔を見てみたいものだ。
追い出し宣言を受けた夜、私は自室で静かに準備を始めた。
深夜二時、家中が寝静まったのを確認してから、私は携帯電話を取り出した。四十二年間勤めた旅館の番号を押す。
「はい、月光旅館です。夜分にすみません。片岡ですが。」
電話の向こうで相手の声が一変した。
「片岡様! お待ちしておりました。明日の件ですね。ええ、予定通り朝十時に伺います。例の書類の準備を承知いたしました。取締役の皆様にもお伝えしておきます。」
電話を切った後、私は古い金庫の鍵を手に取った。この鍵の存在を、誰も知らない。旅館の創業者である先代女将から、直接私に託されたものだ。
「静さん、あなたは四十二年間、誰よりも真面目に働いてくれた。この旅館の真の価値を知っているのは、あなただけ。」
亡くなる前、先代女将はそう言って株の五十一%を私に譲渡していた。表向きは清掃員として働いていたが、実は筆頭株主だったのだ。
机の引き出しから、分厚い封筒を取り出す。中には土地の権利書、旅館の株券、そして複数の銀行通帳。
一冊目の通帳を開く。三千八百万円。これは旅館の配当金と四十二年間の貯蓄の結果だ。
二冊目の通帳。三千万円。亡き夫の生命保険金を、そのまま残してある。
三冊目の通帳。五千万円。これは旅館の土地の一部を売却した時の代金。
合計一億六千万円。誰も知らない、私の財産だ。
「お母さんは貧乏。年金しかない。金のない老人。」
息子夫婦の言葉を思い出し、私は静かに微笑んだ。
次に、土地の権利書を確認する。この家の土地は、確かに私の名義のままだ。建物は息子名義でも、土地がなければただの箱。不動産に詳しい旅館の顧問弁護士から聞いた言葉だ。土地の所有者である私が売却を決めれば、建物の所有者は立ち退きを得る。
私は別の携帯電話を取り出した。これは誰も知らない、私専用の番号だ。
「山田不動産です。」
「片岡です。明日の件、準備はいかがですか?」
「はい、書類は決まっています。土地だけで三千五百万円での買い取りを希望されています。」
「わかりました。明日の午後に、正式に契約ということで承知いたしました。息子さんたちには知らせる必要はありません。法的に問題ないことは確認済みです。」
電話を切ると、私は日記帳を開いた。最後のページに今日の出来事を記録する。
「息子夫婦から追い出し宣言。のり子の両親を住ませるため。四十二年間の献身は『お荷物』の一言で片付けられた。明日、私は静かに復讐を実行する。」
窓の外を見ると、月が静かに輝いていた。
朝六時、私は最後の朝食の準備を始めた。いつものように、完璧に。でも、今日が最後だ。
「おはよう、母さん。」
正治が欠伸をしながら降りてきた。
「今日で最後だから、ちゃんと作ってよ。」
最後。息子の口から出たその言葉に、もう痛みは感じなかった。
「ええ、最後ですから特別なものを用意しました。」
テーブルに並べたのは、正治が子供の頃大好きだった卵焼き、味噌汁、焼き魚。
「へえ、首相じゃない。」
のり子が皮肉たっぷりに言った。
「これで思い残すことはないでしょう。」
思い残すことなど、あるわけがない。
朝食後、私は小さなバッグ一つだけを持って玄関に立った。
「もう行くの? まだ九時よ。」
のり子が不思議そうに聞いた。
「ええ、お迎えが来ますから。」
「お迎え? 誰の?」
その時、玄関の外でクラクションが鳴った。窓から見ると、黒塗りの高級車が止まっている。
「え、何の車?」
正治が驚いて窓に駆け寄った。
運転席から降りてきたのは、スーツ姿の初老の男性だった。
「片岡様、お迎えに上がりました。」
「ありがとうございます。」
私は振り返ることなく玄関を出た。
「ちょっと待って。母さん、どういうこと?」
正治が慌てて追いかけてきたが、私は立ち止まらなかった。
「二十四時間後、全てが分かります。」
それだけ言い残して、私は車に乗り込んだ。車が走り去る時、バックミラーに映る息子夫婦の呆然とした顔が見えた。でも、これは始まりに過ぎない。本当の崩壊は、これから始まるのだから。
次の日の朝十時、正治とのり子は優雅な朝食を楽しんでいた。
「やっと静かになったわね。」
のり子が満足そうにコーヒーを飲みながら言った。
「ああ、母さんがいないと本当に気楽だ。」
正治も同調した。のり子の両親も朝食の席についていた。
「これで私たちも安心して住めるわ。」
のり子の母親が嬉しそうに言った時、玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら、こんな朝早くに。」
のり子が玄関を開けると、スーツ姿の男性が立っていた。
「山田不動産のものです。土地の新所有者からの通知をお持ちしました。」
「土地の新所有者? 何の話ですか?」
「こちらの土地は、昨日片岡様から弊社を通じて売却されました。」
のり子の顔が曇った。
「売却? そんな……ちょっと待ってください。」
慌てて正治を呼んだ。
「何だって? 母さんが土地を売った?」
「はい。正式な手続きは全て完了しております。こちらが売買契約書の写しです。」
正治は震える手で書類を受け取った。確かに、母親の署名と実印が押されている。
「新所有者からの通知ですが、建物の立ち退きを一ヶ月以内にお願いしたいとのことです。」
「立ち退き? 冗談でしょう!」
「土地の所有権が移転した以上、建物だけでは意味がありません。新所有者は更地にして新しい建物を立てる予定です。」
のり子が泣きそうな顔で正治にすがりついた。
「どうするの? この家のローン、まだ二十五年も残ってるのよ。」
「法的には、建物の補償金として査定額の三割程度は支払われますが……ローンを完済するには足りないでしょう。」
不動産業者の冷静な説明に、正治は頭を抱えた。
「母さんに連絡しないと!」
慌てて電話をかけたが、繋がらない。
「申し訳ありませんが、一ヶ月以内の退去をお願いします。それでは、失礼します。」
不動産業者が去った後、リビングは地獄のような雰囲気になった。
「どういうこと? あの老人、土地を持っていたの?」
のり子の父親が怒鳴った。
「知らなかったんです。まさか、土地がまだ母さんの名義だったなんて。」
「バカじゃないの! そんな基本的なことも確認しないで!」
のり子の母親も責め立てた。
「私たちはどうすればいいの? もうここには住めないのよ。」
その時、正治の携帯が鳴った。見慣れない番号だった。
「はい、もしもし。」
「正治さんですね。月光旅館の田中と申します。」
「月光旅館? お母様の件でお伝えすることがあり、ご連絡しました。実は、お母様は本日付けで当旅館の女将に就任されました。」
「は? 何を言ってるんですか? 母は清掃員でしょう。」
電話の向こうで男性が驚いたような声を出した。
「ご存知なかったのですか? お母様は当旅館の筆頭株主です。四十二年前から。」
正治は言葉を失った。
「株式の五十一%を保有されており、本日の取締役会で正式に女将就任が決定しました。」
「そんな……嘘だ!」
「嘘ではありません。年収は三千万円からスタートです。また、女将専用の特別室にお移りになります。」
電話を切った後、正治は呆然と立ち尽くした。
「どうしたの?」
のり子が不安そうに聞いた。
「母さんが……旅館の女将になった。筆頭株主だったんだ。」
「は? 何それ?」
その時、また玄関のチャイムが鳴った。今度は宅配便だった。
「片岡正治様宛です。」
中を開けると、母親からの手紙が入っていた。
「正治へ
驚いているでしょうね。でも、これが現実です。私は四十二年間、ただの清掃員ではありませんでした。先代女将から託された旅館を、影から支えてきたのです。
年収は配当金だけで一千万円以上ありました。でも、あなたには言いませんでした。本当の愛情とは何か、分かって欲しかったから。
土地の件ですが、新所有者は一ヶ月の猶予をくれました。その間に新しい住まいを探してください。
年金しかないと思っていた私に、実は一億六千万円の資産があったことも教えておきます。
あなたが私に言った言葉を覚えていますか? 『お荷物』『厄介者』『金のない老人』。全て間違いでした。
のり子さんの両親も一緒でしょうから、伝えてください。『本当の家族』と住むのは、さぞお幸せでしょうと。
最後に一つ。私がいなくなって、本当に楽になりましたか? 毎朝五時の朝食は誰が作るのでしょう? 洗濯、掃除、全ての家事は? 『年金』という名の生活費は?
後悔しても遅いのです。さようなら。
なお、旅館の株は私の判断で処分します。あなたには一株も渡しません。」
手紙を読み終えた正治の手が震えていた。
「なんて書いてあるの?」
のり子が手紙を奪い取って読み始めた。読み進めるうちに、顔が真っ青になっていく。
「一億六千万円……嘘でしょう。あの貧乏臭い老いぼれが……。」
のり子の両親も手紙を覗き込んだ。
「これは完全にやられたわね。」
のり子の母親が吐き捨てるように言った。
「お前たち、なんて間抜けなの?」
のり子の父親も怒りを露わにした。
「金の卵を産む鳥を追い出すなんて!」
その時、正治の携帯にメールが届いた。銀行からだった。
「住宅ローンの件でお知らせ。土地の所有権が移転したため、担保価値が大幅に下落しました。追加担保の提供もしくは繰り上げ返済をお願いします。期限は二週間以内です。」
「どうしよう。ローンの一括返済なんて無理だ……まだ三千万円もある。」
「こんな失態を犯す愚か者に、お金は出しません。」
のり子の母親がきっぱりと言った。
「お母様、大体……シュートの資産も確認しないで追い出すなんて。」
のり子の父親も冷たく言い放った。
「私たちもこんな家には住めません。今すぐ引き上げます。」
「お父様、お母様、待ってください!」
のり子が必死に引き止めたが、両親は荷物をまとめ始めた。
夕方、のり子の両親は帰っていった。残されたリビングで、正治とのり子は呆然と座り込んでいた。
「どうするの? これから……。」
のり子が涙声で聞いた。
「アパートでも探すしかない。でも、家のローンは……自己破産するしかないかも。」
その時、朝食の準備がされていないことに気づいた。洗濯物も溜まっている。掃除もされていない。
「家事は誰がやるの?」
「君がやってよ。」
「私だって仕事があるのよ。」
「パートだろ。あなたこそもっと稼いでよ。」
初めての夫婦喧嘩が始まった。母親がいなくなってまだ二十四時間。でも、生活はすでに崩壊し始めていた。
月光旅館の女将室から見える景色は、素晴らしかった。温泉街を一望できる最上階の特別室。私は優雅にお茶を飲みながら、新しい生活を満喫していた。
「女将様、本日のスケジュールです。」
秘書の佐藤さんが恭しく予定表を差し出した。
「午後二時から料理長との打ち合わせ、三時には幹部候補の面接、夕方は常連のお客様のお出迎えです。」
「ありがとうございます。」
四十二年間、朝五時から廊下を磨いていた私が、今では五十人の従業員を束ねる立場になった。
「片岡さんは素晴らしい。四十二年間の下積みがあったからこそ、現場の気持ちが分かる。」
従業員たちは心から私を慕ってくれている。清掃員時代から知っている仲間たちは、特に喜んでくれた。
「静さんが女将になって、旅館の雰囲気が明るくなりました。お客様からの評判も上々です。」
月収二百五十万円、年収三千万円。でも、お金より嬉しいのは、人として尊重されることだった。
携帯が鳴った。正治からだ。この一ヶ月で五十回目の電話。
「母さん、お願いです。会ってください。」
「申し訳ありませんが、忙しいので。」
「土地だけでも……買い戻させてください。」
「もう新しい所有者のものです。」
「せめて、お金を貸してください。」
「お荷物にお金はありませんよ。」
私は静かに電話を切った。あの日、息子夫婦に言われた言葉を、そのまま返しただけ。
聞くところによると、正治とのり子は自己破産寸前らしい。家を失い、今は家賃四十年の古いアパートに住んでいるという。のり子の両親も、完全に縁を切ったそうだ。
「一億六千万円もあったのに。なぜ隠していたんだ?」
正治からの恨み言のメールが来ていた。
隠していたのではない。ただ、金の価値しか見ない人間に教える必要がなかっただけ。
窓の外を見ると、旅館の庭園で新入社員たちが研修を受けていた。
「お客様は家族のように大切に。でも、本当の家族以上に丁寧に。」
私が教えた言葉を、先輩が新人に伝えている。
本当の家族。その言葉の意味を、今なら分かる。血の繋がりだけが家族ではない。互いを尊重し、大切にし合う関係こそが家族なのだ。
「女将様、お客様がお見えです。」
「どちら様?」
「お孫様だと……。」
孫の太郎。まさか。
ロビーに降りると、そこには確かに太郎が立っていた。のり子も一緒だった。
「お母さん……女将様……。」
のり子は憔悴した顔でこちらを見ていた。高級ブランドの服の影も形もない。
「太郎に合わせてあげるから……お金を……。」
「太郎君。」
私は孫に優しく声をかけた。
「おばあちゃん!」
太郎が駆け寄ってきた。やはり、孫は私を覚えていてくれた。
「太郎、おばあちゃんは臭くないよ。」
「うん。いい匂い。」
のり子の顔が赤くなった。
「太郎君、お菓子を用意してあるから、あちらで待っていて。」
従業員が太郎を連れて行った後、私はのり子に向き直った。
「お金の話なら、お断りします。」
「でも……生活が……。」
「週三日のパートでは、確かに大変でしょうね。私はフルタイムで働いてましたから。でも、家事と仕事の両立がお辛いなら、四十二年間私がしてきたことを、今度はあなたが経験しているだけです。頑張ってください。」
それだけ言って、私は背を向けた。
「お母さん!」
「その呼び方は違うでしょう。あなたは私を家族と認めなかったのだから。」
女将室に戻ると、地元新聞の記者が取材に来ていた。
「四十二年間の清掃員から女将へ。まさにサクセスストーリーですね。」
「いいえ、これは復活の物語です。人間としての尊厳を取り戻した物語です。」
記事は翌日の一面を飾った。
「苦労人、かく生きる。六十八歳の再出発。息子に裏切られても、強く生きる。」
記事を読んだ多くの人から、励ましの手紙が届いた。
「私も姑にいじめられています。勇気をもらいました。」
「息子夫婦に追い出されそうです。でも、負けません。」
同じ境遇の女性たちからの手紙に、私は一通一通返事を書いた。
夕暮れ時、温泉に浸かりながら考える。もしあのまま息子夫婦の家にいたら、私は本当に認知症になっていたかもしれない。人格を否定され続けることは、人を壊してしまう。でも、私は逃げなかった。四十二年間準備して、最高のタイミングで反撃した。
「女将様、お夕食の準備ができました。」
「ありがとう。」
豪華な夕食を一人で食べる。でも、寂しくない。私を尊重してくれる従業員たち、慕ってくれるお客様たち。血は繋がっていなくても、彼らこそが私の本当の家族だ。
最後に、この物語を聞いてくださった皆様へ。理不尽な扱いを受けているなら、我慢する必要はありません。年齢は関係ない。六十歳でも七十歳でも、人生は変えられます。必要なのは、自分を大切にする勇気、そして準備と計画。四十二年は長すぎるかもしれません。でも、諦めなければ必ず道は開けます。私のように、静かに立ち去ることもできるのです。
物語の中に何か感じるものがあるなら、チャンネル登録と高評価でそっと応援していただけたら嬉しいです。あなたやご家族のこれからについての思いも、ぜひコメントで分かち合いましょう。



