その日、僕は面接会場で人生最悪の屈辱を味わった。汗だくで飛び込んだ会議室で、面接官の男は最初から僕を見下すような目をしていた。右手首が激しく痛む。電車で倒れた妊婦を助けた時にひねったらしい。ペンを握ることさえできない自分に気づいたとき、僕は震える声で言った。「すみません、できません。」副社長は鼻で笑い、吐き捨てた。「こんな無能は必要ない。帰れ。」不採用を悟り、重い足取りで廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。「ふさん、待ってください。」振り返ると、さっきまで面接官を制していた美人の女性が立っていた。彼女は信じられないことを口にした。「面接の結果、あなたは採用です。」
僕の名は不幸翔、32歳のグラフィックデザイナー。つい先日まで大手事務所で働いていたが、とある理由で独立した。だが、フリーランスになってから3ヶ月、まともな依頼はほとんどない。焦りと不安を抱える日々の中、SNSに一通のDMが届いた。「初めまして。株式会社クリエイトFのセラと申します。貴方のイラストを拝見し、ご連絡させていただきました。」会社を調べると、子供用品のそこそこ大きなメーカーだった。広告デザインの依頼。会社員に戻ることを意味するその話に、僕は悩んだ。だが、現状を変えるチャンスかもしれないと思い、話を聞くことにした。数回のやり取りの後、「形式だけですが、中途採用の面接を受けてください」と言われ、承諾した。
面接当日の朝。僕は久しぶりにスーツを着込み、人生を賭けた作品集、ポートフォリオをバッグに詰めた。電車は空いていた。二つ目の駅で、大きなお腹の女性が乗ってきた。歩くのもやっとの様子で、僕は思わず目で追ってしまう。彼女が席に座ろうとした、その瞬間だった。電車が大きく揺れた。「きゃっ!」彼女がバランスを崩して倒れていく。反射的に僕は体を投げ出し、彼女を受け止めた。「だ、大丈夫ですか?」「あ、はい。すみません、ありがとうございます。」安堵したのも束の間、彼女が突然お腹を押さえて苦しみだした。「お、お腹が痛い…」「救急車を呼んでください!」次の駅で降り、駅員に叫んだ。同乗した救急車の中で、彼女の手を握りながら「赤ちゃん、助けて…」と懇願する彼女に「大丈夫です、きっと大丈夫ですから」と繰り返すことしかできなかった。
病院に着いた時、僕ははっと気づいた。面接の時間まであと10分もない。大変だ!タクシーを捕まえ、会社へ向かう。ギリギリで間に合った。だが、面接官の部屋に入った瞬間、僕の気持ちは沈んだ。面接官は横柄な中年の男で、もう一人は後に知ることになる、この会社の社長、セラすみれさんだった。「とりあえず自己アピールでもしてくれ。まあ、お前みたいなボロ雑巾から何が出るかは知れてるがな。」僕は怒りを飲み込み、自己紹介を始めようとバッグに手を伸ばした。だが、そこにバッグがない。頭が真っ白になった。婦人を助けて救急車に乗った時、置き忘れたのだ。「すみません…ポートフォリオを、なくしてしまいました。」「はあ?」副社長は呆れたように笑った。「話にならないな。俺の管理もできないような人間を雇えるか。」そう言って立ち上がろうとする副社長を、今度はセラさんが制した。「それなら、この場で描いてもらいましょう。テーマは『未来への希望』で。この会社は子供用品メーカーですから。」彼女はペンと紙を差し出した。深呼吸をして、その紙に向き合おうとした、その瞬間だった。右手に鋭い痛みが走り、ペンが床に落ちた。「これは…」僕の額には冷や汗が浮かんでいた。「時間稼ぎの演技か。これ以上我々の時間を無駄にするな。不採用だ。帰れ!」副社長の怒鳴り声が響く中、僕は力なく頭を下げるしかなかった。
廊下をとぼとぼ歩いていると、さっきの美人面接官、セラさんが走って追いかけてきた。「ふさん、待って!どうして書かなかったんですか?あなたほどの実力があれば…」僕は正直に話した。電車で妊婦を助けたこと、その時に右手を痛めたこと、救急車にバッグを置き忘れたこと。それを聞いた彼女は、突然僕の左手を掴んだ。「行きますよ。病院まで!」その勢いに圧倒され、僕はなすがままにタクシーへ乗せられた。病院で無事にバッグを受け取り、ほっと一息ついた時、彼女が言った。「あなたには、やっぱり私の会社で働いてもらいます。」言葉を失う僕に、彼女は「私がセラです。ふさんをスカウトしたのは私です」と明かした。しかも、彼女はこの会社の社長だった。父が亡くなり、若くして社長を継いだセラさん。だが、会社はかつて父の右腕だった副社長、田中一郎に牛耳られていた。彼はセラさんから社長の座を奪い、会社を乗っ取ることしか考えていない。業績は悪化し、社内は二分されている。「こんな状況を変えられるのは、あなただと思ったんです。あなたのデザインが、この会社を救うと信じています。」そう言って、彼女は深々と頭を下げた。再び副社長と対峙し、僕は「デザイン勝負」をすることになった。もし副社長を納得させられなければ、セラさんが社長を辞めるという危険な賭けだった。
僕は悩みに悩んだ。何を描けばいいのか、答えが見つからない。街を歩いていると、偶然、前に助けた妊婦のうず希さんに再会した。彼女の言葉で、僕は気づいた。「分からないなら、直接聞いてみればいいんだ。」セラさんとうず希さん、二人の妊婦と母親になる女性の話を聞くうちに、僕の頭の中に、はっきりとイメージが浮かんだ。それは、二本の大きな木が枝を絡め合い、その下で無邪気に笑う子供たちの姿。守られ、見守られながら、すくすくと育っていく姿。それはまさに、この会社が大切にしてきた「優しさと想いやり」そのものだった。そして迎えたプレゼン当日。全社員を前に、僕はデザインを発表した。社員たちの反応は上々だった。だが、副社長は「素晴らしい。認めざるを得ない。お前の勝ちだ」と言ったかと思うと、とんでもない爆弾を落とした。「だが、もう一つ重要な発表があるだろう。あなたが、あの伝説の天才デザイナー『気象』であることを、いつまで隠しているつもりですか?」会場は騒然となった。それは、僕が必死に隠してきた過去だ。僕は大手事務所で「気象」として名を馳せていたが、その名に苦しみ、全てを捨てて逃げ出したのだった。セラさんは動揺し、深く傷ついた。「私を、騙していたんですか?」「違う。騙すつもりなんてなかった。」僕は、真実を話そうとした。だが、副社長はその混乱に乗じて、社員たちに「こんなデタラメな男を雇うのか!」と熱弁を振るい始めた。セラさんがボロボロに追い詰められていく。もう僕が身を引くしかないのか。そう諦めかけた、その時だった。「もうやめて、お父さん!」場違いな叫び声とともに、なんと、あのうず希さんが現れた。彼女は、副社長の娘だったのだ。「お父さん、どうしてすみれちゃんを追い詰めるの?どうして、ふさんが嫌がっているのに、無理やり秘密を暴こうとするの?」副社長は動揺した。うず希さんの告白により、副社長が孫のために焦って借金を背負い、その返済のために権力を欲していたこと。それら全てが明らかになった。娘に泣きながら説得され、副社長はついに折れた。「すみませんでした…」彼はセラさんにも謝罪した。副社長は心を入れ替え、セラさんを支えることになった。
全てが落ち着き、僕はセラさんに謝った。「本当にごめんなさい。気象だと黁っていて」「理由がある、と言っていましたよね」「はい。有名になるほど、自分のデザインに自信が持てなくなって。手抜きで世間に出すのが恥ずかしいデザインなのに、周りは『さすが気象』と褒めちぎる。それが怖くなって、逃げ出したんです。もう一度、ゼロからデザイナーをやり直したくて」「じゃあ、ふさん。もう一度言います。私は、あなたが気象だろうと、ただの不幸翔さんでも、あなたのデザインが好きです。そして…あなたのことが好きです。」その言葉に、僕の心は震えた。ようやく、自分の本当の気持ちに気づいた。「俺の作品を、俺のデザインを見て、好きだと初めて言ってくれた人に、出会えた。」そう思った。そして、僕は彼女に告白した。「すみれさん。あなたが好きです。あなたの言葉で、自分のデザインを、もう一度信じることができると思えました。これからも、あなたのそばにいてもいいですか?」彼女は涙を浮かべながら、強く頷いてくれた。その後、僕たちが作り上げた広告デザインは大反響を呼び、会社の売上は前年度の倍以上を記録した。「見てください、ふさん。田中さんが持ってきてくれたんです。うず希さんの赤ちゃんです」すみれさんが差し出す写真には、元気な女の子が写っていた。人生には、思わぬ出会いや挫折がある。けれど、それらは全て、自分を成長させてくれる。大切なのは、一歩を踏み出そうとする勇気だと、僕はあの日、一歩を踏み出したからこそ、かけがえのない存在と、新しい自分に出会えたのだ。



