診察室の窓からは東京の高層ビル群が見渡せる。床は磨き上げられた大理石。俺の目の前に座っているのは、大手建設会社の社長だ。
「先生、最近少し息切れがしましてね。まあ、忙しいのが原因でしょうが」
「念のため心電図と血液検査をやっておきましょう。ご予定に響かないよう30分で終わらせます」
俺の名前は佐藤正。このVIP専門クリニックで医師をしている。年収は大学病院にいた頃の5倍以上になった。政治家、経営者、テレビでよく見る顔ぶれ。そんな連中ばかりを見るようになって、もう8年になる。
診察を終えて社長を見送ると、事務の大森がノックもせずに入ってきた。常に眉間に薄いしわを寄せている男だ。
「佐藤先生、来週の予約リストです。神崎ホールディングスの神崎会長が初診でお見えになります」
「神崎会長…あの神崎か」
AI関連で100億円企業を築いた、あの神崎孝志会長だ。うちにとってはこれ以上ない上客になり得る。
「粗相のないようお願いしますよ」
俺は黙って頷いた。心の中では少しばかり気分が高揚していたのは事実だ。経済誌の表紙で何度も見た顔。そんな男が俺を指名してくる。
「先生の名声もいよいよ本物ですな。うちの経営にとっても大きいですよ」
「まだ会ってもいない。まずはしっかり診ることだ」
「もちろんです。しかしね、佐藤先生、ああいう方の一言でうちには新しい患者が10人も20人も流れてくるんですよ。分かっていただけますよね?」
分かっている。分かりすぎているほどだ。窓の外では雲一つない空が広がっている。この景色を眺めながら、俺はいつからか患者の顔ではなく名刺の肩書きばかりを見るようになっている。だが、それを口にすることはない。ここはそういう場所だ。
夕方、最後の患者を見送ると、白衣を脱ぎ、オーダーメイドのジャケットに袖を通した。駐車場に降りれば、俺の高級車が静かに待っている。
1週間後の午前10時、神崎孝志は秘書を伴わずに一人でやってきた。上質な紺のスーツ。
「佐藤先生、お忙しいところお時間をいただき感謝します」
「ようこそお越しくださいました。どうぞおかけください。今日はどのようなご相談でしょうか?」
「私自身は至って健康でしてね。今日はその件ではないのですよ。一人、見ていただきたい男がおります。心臓に病を抱えているようでして」
俺は少し身構えた。親族か、あるいは政財界の関係者か。そう思いながらカルテに手を伸ばした。
「62歳男性、藤原誠と申します」
聞いたことのない名前だった。俺はペンを止めた。
「失礼ですが、会長のご親戚でいらっしゃいますか?」
「いいえ、血の繋がりはありません。会社の関係者でも、それも違います」
神崎の目はまっすぐ俺を捉えていた。
「その男は河川敷の近くで一人で暮らしております。無料診療所を頼りながらね」
「無料診療所ですか?」
「はい。私はあの男に最高の医療を受けさせたいのです。費用は全て私が持ちます。いくらかかっても構いません」
俺は一瞬言葉を失った。このクリニックにはそんな依頼は一度も来たことがない。ここは金を持つ者が金を払ってくる場所だ。
「差し支えなければ、その方との関係を伺ってもいいですか?」
「40年前の知人です」
たった一言だが、その言葉には重みがあった。
「詳しくは今は申し上げられません。ただ、私は半年かけてようやくあの男の居場所を突き止めたのです。しかし、私自身が会いに行く勇気がまだ持てない」
「勇気、ですか?」
「ええ。私はあの男の人生を狂わせてしまったのです」
穏やかな言い方だったが、言葉の端々に隠しきれない痛みが滲んでいた。
「会長。私は患者を選ばず診るのが医師の務めだと建前では申し上げます。ですが、正直に言えば、私は長らくここでしか診療してこなかった」
「存じております」
「その私に、なぜ」
「腕のいい医師の名前はいくつも聞きました。しかしね、佐藤先生。私はあなたの目にまだ迷いがあると感じたのです。人選びで迷う医師の方が、私は信じられる」
不思議な言い方だった。褒められているのか、試されているのか判断がつかなかった。
「分かりました。まずはその藤原さんという方を一度診察させてください。判断はそれからにさせていただきます」
「ありがとうございます。お願いします」
神崎は深く頭を下げた。彼が帰った後、俺は事務室のドアを叩いた。大森はデスクの向こうで電卓を叩いていた手を止めた。
「神崎会長からの依頼は少し変わっていたよ。会長自身の診察ではない。会長が指定する無料診療所の患者を見てほしいという話だった」
「どういうことですか?」
俺はもう一度同じことを繰り返した。今度は大森の眉間のしわがはっきりと深くなった。
「先生、それは正気でおっしゃっているんですか?」
「神崎会長からの正式な依頼だ」
「無料診療所の患者をうちのクリニックで診るなど前例がありません。というより、そもそも想定にない話です」
大森は席を立ち、俺の目の前まで来た。明らかに苛立っていた。
「うちの医師の時間は1時間いくらの世界です。その時間をその患者一人に使うということがどういう意味か、佐藤先生はお分かりでしょう」
「費用は神崎会長が全て持つと言っている」
「そういう話ではないのですよ。うちのブランドの問題です。うちは価値ある方々のための場所だ。医師の技術はその価値に見合う患者に使うべきなんです」
俺は大森の言いに反論する言葉をすぐには見つけられなかった。ここに勤めて8年。俺自身もその理屈の内側で生きてきたからだ。
「一度診るだけだ。診てからうちで治療するかどうかを決める」
「先生、神崎会長のお顔を立てるにしても方法は他にあります。系列外の病院を紹介するとかね」
「それは俺が決める。診察の判断は医師の裁量だ」
大森は数秒俺の顔を見た。それから深く息を吐いた。
「いいでしょう。ただし、勤務時間外に先生ご自身の責任で。うちの看護師も、うちの設備も、まだ使わせません。それが条件です」
「分かった」
事務室を出ると、廊下は妙に静かだった。俺は神崎から渡された小さなメモを取り出した。そこには無料診療所の住所と「藤原誠」という名前だけが、几帳面な字で書かれていた。
翌週の土曜、俺は自分の車を路地の空きスペースに止め、古びた雑居ビルの2階にある無料診療所へ足を向けた。蛍光灯の一つはチラチラと点滅している。扉を開けると、狭い待合いスペースにはパイプ椅子が7つ。そこに男たちが静かに順番を待っていた。
受付の奥から白衣を着た若い女性が顔を出した。
「あの、どちら様でしょうか?」
「佐藤と申します。藤原誠さんの件で伺いました」
女性は一瞬、値踏みするような目で俺を見た。俺のジャケットの仕立てや腕時計を一瞬で見て取ったのだろう。
「ああ、神崎さんからお話が来ていた先生ですね。看護師の水島です」
「お忙しいところ恐縮です」
「正直に申し上げますね。私は裕福な専門のクリニックの先生と聞いて、あまりいい気持ちはしていないんです」
俺は反論せず、ただ小さく頷いた。
「藤原さんは私たちにとって家族みたいな方なんです。物珍しさで診察されるのは困ります」
「物珍しさでは来ていません。診るからには最後まで診ます」
水島は俺の目を数秒見つめた。それから小さく息を吐いて、奥の診察室のカーテンに手をかけた。
「藤原さん、先生がいらっしゃいましたよ」
カーテンの向こうに一人の男が座っていた。62歳と聞いていたが、もっと年上に見えた。頬はこけ、着ているシャツの襟は少し擦り切れていた。だが、背筋をピンと伸ばして座っている姿は、どこか職人のようだった。
「わざわざこんなところまで申し訳ありません」
「佐藤と申します。少しお話を伺わせてください」
俺は椅子を引き寄せ、まず脈を取った。弱く、乱れている。呼吸の度にわずかに肩が上下している。聴診器を当てると、明らかに雑音があった。
「藤原さん、階段を上がると息が切れますか?」
「ええ、まあこの年ですから。胸が重くなることは時々ね。夜寝ていると苦しくて起きることがあります」
淡々とした口ぶりだった。水島がじっとこちらを見ている。
「藤原さん、正直に申し上げます。あなたの心臓はかなり弱っています。放っておけば、いつ倒れてもおかしくない状態です」
「そうですか」
「驚かれないのですね」
「もう長いこと自分の体とは付き合っていますからね。大体分かります」
目の前の患者は確かに命の際に立っている。
「詳しい検査をさせてください。うちの設備でしっかり診たいんです」
「先生、お気持ちはありがたい。しかし、私にはそんなお金はありませんよ」
「費用のことは心配いりません。ある方が全て負担してくださいます」
藤原の手が一瞬止まった。
「その“ある方”というのは、どちら様ですか?」
「今はまだ申し上げられません。ただ、40年前の恩を忘れていない方だとだけ言っておきます」
藤原はしばらく黙っていた。それから少しだけ笑った。
「あの人ですか…まだ生きていましたか」
俺は答えなかった。答えなくても、この男はもう気づいているようだった。
診察を終え、藤原がゆっくりと立ち上がると、水島が湯呑みに茶を入れて持ってきた。俺の分もあった。
「先生、もう少しだけ藤原さんの話を聞いていってください」
「ええ、そのつもりです」
藤原はパイプ椅子に座り直し、両手で湯呑みを包んだ。指の節が太かった。長年何かを握り続けてきた手だと分かった。
「私はね、昔、小さな鉄工所をやっておりましてね。旋盤やね、20人ばかりでやってました」
「そうでしたか」
「40年前、まだ20代の若い男がうちに部品を頼みに来ましてね。鉄工所を回りながら資金集めに走っていました。銀行にはどこも相手にされない、そんな時期だったようです」
俺は黙って聞いていた。名前は聞くまでもなかった。
「その男の目がねえ、忘れられないんですよ。追い詰められているのに諦めていない目でした。私はね、その目を信じたんです。だからうちの工場と自宅を担保に保証人になりました」
「ご自宅もですか?」
「ええ。妻と娘には後で叱られましたよ。当然です」
藤原は少し笑った。
「幸い、あの男の事業は当たりましてね。ただ、その保証が引き金となって、私の工場の方の信用が傾き、立ち行かなくなりました。借金に入れていたものは全部なくなりました」
「そうだったんですか」
「妻は娘を連れて実家に帰りました。私はそれを止めませんでした」
水島は何度も聞いた話なのだろう。静かに窓の外を見ていた。
「後悔されたことはありませんでしたか?」
「一度もありません」
「一度も、ですか?」
「ええ。私はね、あの男の目を信じた自分を信じていますから。あの男が今どこかで元気にやっているなら、それでいいんです。私の40年は無駄じゃなかったということです」
藤原は胸ポケットからそっと一枚の紙を取り出した。黄ばんだ名刺だった。四つ角が擦り切れ、社名はほとんど消えかかっていた。
「これはね、あの男が会社を起こした日に、私に一番最初に渡してくれた名刺です。40年、ずっとここに入れています」
俺は言葉が出なかった。「神崎孝志」という名前がかろうじて読み取れた。それはまるで小さなお守りのように、この男の胸で40年温められ続けていた。
その夜、俺はクリニックに戻り、大森を捕まえた。俺は藤原の状態と必要な検査、そして手術の可能性を一気に説明した。
「つまり先生は、うちの検査室と手術室をその方のために使いたいと、そうおっしゃっているんですか?」
「そうだ。費用は神崎会長が全額負担する」
「ダメですよ」
大森は真正面から俺を見た。
「うちの手術室は上客の予定で3ヶ月先まで埋まっています。一人の無名の患者のためにその予定を動かすことは、絶対にできません」
「私は命の話をしているんだ」
「先生、命の話をされたら私たちは仕事になりません。世の中には救うべき命がいくらでもある。うちはその全てを引き受ける施設ではないんです」
反論の言葉が喉の奥で詰まった。だが、俺の頭にはあの古びた名刺が焼きついていた。
「大森さん、私は8年ここで名刺の肩書きばかり見て診察してきた。それを今更とは言わない。ただ、一人くらい肩書きのない患者を見させてくれ」
「先生…変わられましたね」
「変わったんじゃない。思い出しただけだ」
大森はしばらく俺を見て、それから深く長い息を吐いた。沈黙が答えの代わりだった。窓の外では東京の夜景が、いつもと同じように瞬いていた。
翌朝、俺は院長室の扉を叩いた。院長は温厚な男だが、経営面では大森を全面的に信頼している人だ。俺は藤原の症状、必要な手術、そして神崎会長からの依頼の経緯を包み隠さず話した。
「佐藤先生、大森君からも聞いています。難しい話ですね」
「難しいのは承知の上です。ですが、私はこの8年、このクリニックのために働いてきました。その私の一度だけのわがままだと思ってください」
「…わが、ですか?」
「はい。もしこの件で処分が必要なら、甘んじて受けます。ただ、手術室と機材だけは貸していただきたい」
院長は眼鏡を外し、しばらく机の一点を見つめていた。
「大森君を呼びましょう」
10分後、大森が院長室に入ってきた。昨夜と同じ眉間のしわ。院長はゆっくりと口を開いた。
「大森君、佐藤先生の話、私はやらせてみたいと思っています」
「院長…それは」
「私もこの年になってね、少し疲れたんですよ。肩書きばかり診る仕事に」
大森は一瞬言葉を失った。それから俺の方に向いた。
「…分かりました、先生。手術の日程は私が調整します。上客への説明は、私が全て責任を持ちます」
「大森さん、すまない」
「勘違いしないでください。私は納得したわけじゃない。ただ、院長のご判断です」
その日の午後、俺は再び無料診療所に向かった。水島が掃除をしている手を止めて俺を迎えた。
「先生、また来てくださったんですね」
「手術の準備が整いました。うちの手術室で、私が執刀します」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、まだ問題が一つあるんです。藤原さんご本人が受けてくださるかどうかです」
水島はすぐに奥のカーテンを開けた。藤原はいつものパイプ椅子に座り、古い本を読んでいた。俺の顔を見ても驚いた様子はなかった。
「藤原さん、率直に申し上げます。手術を受けてください。成功すれば、まだ10年、20年と生きられます」
「先生、私はね、もう十分に生きました」
「十分に、ですか?」
「ええ。妻と娘に、この体で会いに行くつもりもあります。今更、迷惑をかけるだけです。手術のお金は、あの人に返せる当てもない」
穏やかな口調だった。ただ、俺にはこの男が命を諦めているのではなく、遠慮しているのだと分かった。
「藤原さん。あなたが40年胸ポケットに大事に入れてきた、あの名刺の男は、今もあなたに会う勇気を持てずに苦しんでいます」
藤原の手がまた胸ポケットに触れた。40年間、無意識のうちに繰り返してきた仕草なのだろう。
「先生、一つだけお願いがあります」
「何なりと言ってください」
「手術の前にね、一度だけあの人に会わせてもらえませんか? もしダメならそれでも構いません。ただ、聞いてみるだけでもお願いします」
俺は深く頷いた。胸の奥に熱いものが込み上げていた。
「必ずお連れします」
水島がこらえきれずに、白衣の袖で目元を抑えた。
3日後、俺はクリニックの特別室に神崎会長を迎え入れた。専務の黒田も一緒だった。
「佐藤先生。会長がここまで一人の患者にこだわられる理由を、私は長年存じませんでした。今日初めて連れてきていただき、感謝しております」
「黒田専務。40年前の話は、会長ご本人から聞いてください」
神崎は俺に向かって深く頭を下げた。
「佐藤先生、連れてきてくださってありがとうございます」
「隣の部屋に藤原さんがいらっしゃいます。手術は明日の朝です」
俺は扉を開けた。車椅子に座った藤原が、水島に付き添われて部屋の中央にいた。シャツは新しいものに変えてあった。髪もきちんと整えられていた。
神崎は扉のところで足を止めた。
「…藤原さん」
「神崎さん。お久しぶりです」
たったそれだけの言葉だった。神崎は崩れるようにその場に膝をついた。藤原の車椅子の前で、両手を床について深く、深く頭を下げた。
「藤原さん。私はあなたに詫びなければならないことが山ほどあります。ご家族のこと、工場のこと、全部私のせいです」
「神崎さん。顔を上げてください」
「顔を上げる資格が私にはないんです」
「あります。私が“ある”と言っているんですから」
藤原は震える手で胸ポケットからあの古びた名刺を取り出した。
「これね、あなたが一番最初に私に渡してくれた名刺です。ずっとここに入れていました。私はね、あなたを信じた自分を一度も後悔したことはないんですよ」
神崎の肩が大きく震えた。黒田がその隣に静かに膝をついた。
「藤原さん。私は専務の黒田と申します。私たちの会社は、あなたのおかげで今日まで続いてきました。何も知らずに40年、申し訳ありませんでした」
黒田も深く頭を下げた。その光景を俺は一生忘れないだろうと思った。水島は声を殺して泣いていた。
翌朝、手術は俺の手で行われた。6時間の長い手術だった。藤原の心臓は力強く動き始めた。
手術室を出ると、廊下に神崎と黒田、そして水島が立っていた。俺は白衣の襟を正し、頷いた。
「無事に終わりました。目を覚ませば、話もできるはずです」
神崎はまた深く頭を下げた。大森が廊下の奥から歩いてきた。
「佐藤先生、お疲れ様でした」
「大森さん、今回はありがとう」
「礼はいりません。ただ、少しだけ考えることがありましてね。うちのクリニックにも、月に一人くらいなら、こういう患者さんがいてもいいのかもしれないと」
窓の外では、東京の朝が静かに始まっていた。



