朝の9時。16時間の夜勤を終えて帰宅した私の前に置かれた朝ご飯は、ゆで卵が1つだけ。しかも殻もむいていない。食卓では姑と夫が、焼き魚と味噌汁を食べ終えたところだった。「夜遊びみたいな時間に帰ってきて、よく食べるものがあると思うわね。食べられるだけ感謝しろ」その一言で、8年間我慢してきた何かが音を立てて折れた。「では、今日で嫁やめます」そう言って家を出た私は、証拠を突きつけるために、あるものを…

朝の9時。16時間の夜勤を終えて帰宅した私の前に置かれた朝ご飯は、ゆで卵が1つだけ。しかも殻もむいていない。食卓では姑と夫が、焼き魚と味噌汁を食べ終えたところだった。「夜遊びみたいな時間に帰ってきて、よく食べるものがあると思うわね。食べられるだけ感謝しろ」その一言で、8年間我慢してきた何かが音を立てて折れた。「では、今日で嫁やめます」そう言って家を出た私は、証拠を突きつけるために、あるものを...

あの朝、冷蔵庫から出した皿が私の前に置かれた。乗っていたのはゆで卵が1つ。殻もむいていない。朝の9時、16時間の夜勤明けだった。

食卓には炊きたてのご飯。姑のミツと夫のサトルは食べかけていた。

「私の分はこれだけですか?」

「そうよ。何その顔?」ミツが湯呑みを持ち上げた。「夜遊びみたいな時間にフラフラ帰ってきて、よく食べるものがあると思うわね。食べられるだけ感謝しろって話よ」

私はサトルを見た。焼き魚の骨を避けていた。目を合わせない。

「高が朝飯だろ。いちいち揉めるなよ」

その一言で、8年分の何かが折れた。

「分かった。最初から素直にそう言えばいいのよ」

勝ち誇るミツの前で、私は椅子を引いて立ち上がった。

「では、今日で嫁やめます」

湯呑みが止まった。私は有村千明、45歳。市内の総合病院で内科病棟の看護師をしている。就職は22の春で、キャリアは23年になる。2交代制の夜勤は月に5回。夕方の4時半に入り、翌朝の8時半に上がる。16時間のうち休憩は2時間。病院を出るのが9時前で、家に着くのは9時ちょうどだ。

夫のサトルは47歳。住宅設備メーカーの営業。結婚したのは私が31の時で、14年になる。子供は望んだけれどできなかった。その話をこの家でする人はいない。

両親は結婚前に亡くなり、兄弟もいない。帰る家がないことは、初日に確かめた。

家は結婚した年に建てた。独身の間に貯めた600万円を頭金に入れ、ローンも名義もサトル。私の名前はどこにも残らなかった。

義母のミツが同居を始めたのは8年前だ。姑の夫が3月に亡くなり、49日が済んだ翌週に話が来た。

「1人であの家にいるのは怖いのよ。夜になると、あの人がいた場所ばかり目に入って」

そう言われて断れる嫁が、この国にどれだけいるだろう。私は頷いた。サトルは「助かるよ」と言って私の肩に手を置いた。その手の温度は今も覚えている。

同居が決まった夜、サトルは寝室でこう言った。

「母さんの年金だけじゃ足りない。当面は俺たちで見よう。ただ、支払いはお前のカードで頼む。俺の給料はローンで手いっぱいだから」

サトルは天井を見たまま続けた。

「それと、母さんには俺が出していることにしておいてくれ。嫁に払わせてると思ったら、母さんが気にする」

気にしてくれた方がいい。そうは言わなかった。カードは私の名義で、サトルの分を1枚足した。契約者は私。引き落としも私の口座からだ。サトルはその1枚をミツの財布に入れた。私は横から添えた。「日用品と病院の分だけにしてね」ミツは「分かってるわよ」と笑った。

この家の毎月の出費はこうだ。ミツが使う生活費が8万円、うちの食費が8万円。電気とガスと水道で3万円。私たち3人の携帯代が2万円。ここまでで21万円だ。ところが、私のカードから毎月引き落とされていたのは、何故か23万5000円だった。あとの2万5000円が何なのかを私が知るのは、8年後になる。毎年の固定資産税、つまり家を持っているだけでかかる税金の14万円も、4回に分かれた納付を私がまとめて払った。サトルが払っていたのは、月々14万円の住宅ローンだけだ。夜勤の手当てを入れれば私の年収は620万円。サトルより高かった。ただ、月々の支払いを引くと手元に残るのは6万円ほどだ。ボーナスは屋根の吹き替えと車の買い替えで消えた。

ミツはその6万円のことを知らないまま、私にこう言い続けた。「サトルに食べさせてもらってるんだから、そのくらいはね」

話はミツが入った年の6月から始まる。最初に消えたのは私の眠りだった。夜勤明けの9時に帰って洗濯機を回して、10時には布団に入る。10時半に掃除機の音がする。私の部屋のふすまのすぐ外だ。

「お母さん、明けの日は昼まで寝かせてください」

「昼まで寝てる人の方がおかしいでしょ?世間は働いてる時間よ。夜に働く方が悪いんじゃないの?」

それが週に2回か3回。耳栓を買い、半年で2つ潰した。

2つ目は仕事の呼び方だ。ミツは私の夜勤を最後まで夜勤と呼ばなかった。

「夜勤?夜勤って大げさなのよ。夜中の病院なんて、座って見てるだけでしょ」

夜中に3回、同じ人のベッドに戻る夜もあります。

「廊下を歩くだけでしょ。大した仕事ね」

親戚が来た日には「夜遊び」に変わった。笑い声の中で、私だけが台所に立っていた。

3つ目は金の話だ。食器を拭く私の背中に、ミツはあの一言を置いた。

「サトルに食べさせてもらってるんだから」

サトルは否定しない。私とミツの言い争いの後ろで、いつも黙っていた。

私は記録を書く仕事をしている。誰がいつ何をしたか。書かなければ、なかったことになる。家に届く紙も同じだ。カード会社から毎月届く明細は、表に日付を書いて押入れの箱に入れる。最初の1年は中も見ていた。開いたその足でサトルに見せたことが3度ある。その度に「母さんも年なんだから」で終わった。3度目でやめた。之後は日付だけ書いて、開けもせず箱に落とす。開いていた頃も見ていたのは、一番下の合計だけだ。23万5000円。月によって23000円は上下したが、桁が動くことはない。見積もりより2万5000円多いのは知っていた。ミツが月に1度行く店と病院の分だろうと思っていた。数字が動かないなら、中身も同じだと思っていた。

2年前の3月、義父の7回忌があった。座敷に親戚が10人ほど集まった。忌明けは出していた。義母に「あんたの休みなんてどうでもいいでしょう」と言われて、私は取り下げた。その朝は夜勤を終えて9時に帰り、9時半には喪服を着ていた。眠れたのは前の晩の休憩に詰め所で横になった15分だけだ。煮物も稲寿司も吸い物も私が作った。

ミツは喪服のまま座敷の上座に座り、湯呑みを持って笑っていた。

「おかげ様でね、サトルがよくしてくれるのよ。同居させてもらって、生活の心配は1つもないの。息子が全部やってくれるから」

義父の弟の笹本さんが「いい息子さんで」と言い、みんなが頷いた。サトルはその輪の真ん中にいた。麦茶を注ぎながら笑っていた。訂正はしなかった。笹本さんが私の方を向いた。「千明さんもいいご主人を貰ったわね」私は「はい」と答えた。他に言いようがない。座敷に運んだ煮物は、私が3時間かけて作ったものだ。

帰り際、ミツの妹の松江が私の腕を軽く叩いた。

「あなた、少しは座りなさいよ」

松江はミツの4つ下で、その時は66歳。姉と違って背が低く、声も低い。

「姉さんはね、昔からそういう人なの」

それだけ言って松江は帰っていった。

2つ目の違和感は冷蔵庫の中で起きた。私は休みの日に2週間分の食材をまとめて買う。買った肉には日付を書いたシールを張る。看護師の癖だ。ところが、月に1度か2度、冷蔵庫の棚が空になっている日があった。買ったばかりの牛肉も、手をつけていない刺身も消えている。最初はサトルが食べたのかと思った。違った。そういう日は決まって玄関に見慣れない靴が並んでいる。義妹の木下裕子だ。サトルの4つ下の妹で、隣の市に住んでいる43歳。

その日も台所のテーブルで、裕子は母親と向かい合って焼肉を食べていた。私が買った牛肉だった。

「あら、千明さん、夜勤お疲れ様」ミツは箸を止めない。「お母さんが冷蔵庫にあるから使いなさいって。腐らせるよりマシでしょ」

「明日の夕飯の分でした」

「じゃあまた買えばいいのよ。あなたは稼いでるんでしょ?」

裕子の口からは、1週間に何度も甥の名前が出た。部活の遠征がどうの、模擬試験がどうの。私の勤務表の話は8年で1度も出たことがない。ミツは裕子の話をする時、必ず一度私の顔を見る。

裕子が帰る時、私は廊下で見てしまった。ミツが玄関先で白い封筒を娘の鞄に押し込んでいる。

「いいから持っていきなさい」

「お母さん、悪いよ」

「悪くないの。あんたのところは大変なんだから」

私に気づくと、ミツは何事もなかったように背筋を伸ばした。「お小遣いよ。甥にね」封筒は、お小遣いにしては薄くない。

3つ目は、私が口を開いた時に起きた。2年前の11月、私はガス会社の検針表を見ながら1度だけ聞いてみた。冬場のガス代が1万2000円を超えていた。

「お母さん、年金はどうされてるんですか?」

ミツの手が止まった。ほんの1秒だった。

「全部この家に入れてるわよ。何が言いたいの?」

「それは、この家の口座に振り込まれているということでしょうか?」

ミツの目が鋭くなった。

「失礼なことを言うな。年寄りに金の話をするな」

サトルの目が飛んできた。「よせ」という目だ。

「あなた、母さんに失礼だろ?」

「失礼なことは言ってません」

「言ってるよ。金の話を年寄りにするな」

その夜、私は寝室で聞いた。

「この家の毎月の内訳を、お母さんに1度でも説明したことがあるの?」

サトルは背を向けたまま答えた。

「そんなこと言ったら、母さんが気にするだろ」

「気にしてもらった方がいいと思うけど」

「うまくやってくれよ。頼むから」

説明しない方がいい理由が、この人にはあるのだろうか。あるとしたら、それは何だろう。

同居が丸8年になる5月。私を先に見つけたのは家族ではなく職場だった。夜勤明けの申し送りが終わった後、看護師長の大森栄子に呼ばれた。56歳。この病棟で20年、勤務票を作り続けている人だ。

「有村さん、ちょっと座って。あなた、明けの日にちゃんと寝てる?顔色で分かるのよ。家で休めてないでしょう。20年見てきたから分かる」

師長は勤務票を指で叩いた。

「うちの病棟で夜勤を一番回してるのは有村さんよ。夜勤手当てだけで月に4万は超えているはず。それ、誰かに食べさせてもらっている人の働き方じゃないから」

その日から師長は私の夜勤を月4回に組み換えた。誰にも理由を言わずに、勤務表の上だけで直してくれた。

詰め所で後輩の神田楓が出が待っていた。29歳。夜勤で組むことの多い子だ。

「有村さん、明けの日に必ず1回、電話で誰かに謝ってるじゃないですか。『すみません、すぐ帰ります』って」

言われて初めて気づいた。ミツからの電話だ。夜勤明けの朝、詰め所で必ず1本かかってくる。何時に帰るのか、帰りに何を買ってくるのか。楓出は続けた。

「あれ、お姑さんですよね。うち、私の母がそういうのに耐えかねて3年で出たんです。だから分かります。有村さん、結構長いですよね」

「8年」

楓出が言葉に詰まった。私はロッカーを閉めて笑った。「大丈夫。慣れたから」

慣れるという言葉が自分の口から出た時、私は自分の声が気持ち悪いと思った。いつの間にか私は、我慢を特技だと思い込んだらしい。

帰り道、駅前の薬局の前で松江と会った。

「あなた、痩せたわね。うちの姉さん、まだ裕子にベッタリなの?」

「ベッタリと言うと、昔からそうなのよ。悟には厳しくて、裕子には甘くて。あの子が家を建てた時だって……」

そこで松江は口を閉じた。買い物袋の持ち手を握り直して、目を薬局の看板の方へ逃す。

「なんでもないの。年寄りの昔話」

「お母さんが、何かされたんですか?」

「悪いけど、これは姉さんの口から聞くべきことだから」

松江は私の腕を2度叩いて、歩いていった。小さな背中が角を曲がるまで、私は動けなかった。積もった違和感に、初めて手がかりらしいものが触れた気がした。

玄関を開けると、廊下にミツが立っていた。雑巾とバケツを持って。

「遅かったわね。2階の窓、拭いておいて。裕子が来るから」

「今、夜勤明けです」

「知ってるわよ。だから昼間は家にいるんでしょ」

バケツが私の足元に置かれた。水はもう張ってあって、冷たかった。私が帰る時間に合わせて用意していたということだ。

6月に入って最初の夜勤は、静かな夜にはならなかった。夕方の4時半に入り、その夜は受け持ちの22人のうち2人が続けて具合を崩した。休憩は30分しか取れなかった。8時半に勤務を上がり、詰め所を出たのが8時50分。車で10分の道を走って、玄関を開けたのが9時ちょうどだった。

味噌汁の匂いがした。台所の食卓には焼き魚の皿と卵焼きの皿と小鉢が2つ。炊飯器の蓋は開いていて、しゃもじが立てかけてある。ミツとサトルは食べ終わったところで、ミツは湯呑みを両手で包んでいた。

私は自分の席に座った。私の前だけ、何もなかった。

私の分が残っていない朝は、それまでにも何度かあった。ただ、その朝は違った。わざわざ用意されていたのだ。私の分は。

ミツは湯呑みを置いてゆっくり立ち上がった。冷蔵庫を開け、ラップのかかった小さな皿を取り出す。

「はい。あんたの朝ご飯」

皿の上にはゆで卵が1つ。殻もむいていない。冷蔵庫から出したばかりで、白い殻に水滴がついていた。

「これだけですか?」

「そうよ。何その顔?」ミツは座り直して笑った。「夜遊びみたいな時間にフラフラ帰ってきて、よく食べるものがあると思うわね。食べられるだけ感謝しろって話よ」

そういう言葉はこれまで何度も浴びてきた。それでも、その朝は耳の奥で音がした。

「夜勤です。遊んでいたわけではありません」

「夜勤って大げさなのよ。夜中に病院で座ってるだけでしょ」

「座っては、いません」

「じゃあ何してるの?大体ね、家事もしないで夜まで外にいるだけじゃない?」

家事もしないで。そう言われたのは初めてだった。洗濯機を回すのも、ゴミをまとめるのも、買い物に行くのも私だ。夜勤の日は出勤前に夕飯を作って冷蔵庫に入れていく。明けの日は昼まで寝た後、洗濯物を取り込んで、夕方には台所に立つ。8年、そうしてきた。

「お母さん、この家の洗濯物は誰が畳んでいると思っていますか?」

「あら、私が畳んだ日だってあるわよ」

「3年前に1度だけです」

ミツの眉が動いた。

「ほら、そういうところよ。数えてるんでしょ。いちいち数えるの、いやらしい」

「嫁っていうのはね、家のことを黙ってやるものなの。私の時代はそうだったの。それを恩着せがましく数えてみないこと」

「それを感謝しろと言うのは、おかしくないですか?」

私はサトルを見た。サトルはまだ新聞を持っていた。ページの真ん中あたりで、さっきから手が止まっている。

「あなた」

「んだよ」

「今の話、聞いていた?」

「母さんだって朝から用意してくれたんだから。それに卵があるだけいいじゃん」

その一言で、私の中の何かがゆっくり傾いた。

「あなた、本当にそう思ってるの?」

「はあ?本当に卵1つあれば十分だと思ってるのかって、聞いてるの」

サトルは面倒そうに息を吐いた。それから私の顔を見ずに言った。

「高が朝飯だろ。いちいち揉めるなよ」

ミツが援護するように鼻を鳴らした。

「そうよ。朝から騒ぐことじゃないでしょ」

サトルは何も言い返さない。母の言葉に乗ったまま、湯呑みに手を伸ばした。台所が静かになった。冷蔵庫のモーターの音だけがしていた。

8年だ。明けの朝にふすまの外で掃除機をかけられたのも、仕事を夜遊びと呼ばれたのも、買った肉が消えたのも、法事で嘘をつかれたのも、全部この人が黙って見ていた。相談するたびに「母さんも年なんだから」「うまくやってくれよ」と言われて、その度に私が引き下がった。そうやってこの家は回ってきた。誰の金で回ってきたか、誰も聞かなかった。

「分かった」

私がそう言うと、ミツが満足そうに湯呑みを持ち上げた。

「そうそう。最初から素直にそう言えばいいのよ。年寄りに口答えするから、朝から嫌な気分になるの」

私は椅子を引いて立ち上がった。

「では、今日で嫁やめます」

湯呑みが、中で止まった。

「はあ?」

声を出したのはサトルだった。ミツは目を丸くして、それから眉を寄せた。

「何言ってんの、あんた?嫁をやめるって、どういうこと?」

「私はこの家のお荷物なんでしょ。食べさせてもらって、感謝しろと言われるくらいなら。だったら、出ていきます」

私は寝室のクローゼットから旅行鞄を出した。パッキングもしていない体だった。それなのに迷いはなく、手が勝手に動いた。通帳と印鑑、保険証と免許証、給与明細のファイル、聴診器とペンライト、洗面道具。明けで頭は重かったのに、指先だけははっきりしていた。

最後に押入れを開けた。ダンボール箱が2つ。1つにはカード会社の明細を入れた封筒が詰まっている。もう1つには、固定資産税の納税通知書と家を建てた頃の古い通帳をまとめてある。なぜそれを持ち出そうと思ったのか、その時は考えなかった。ただ、この家に置いていくのだけは違うと思った。私は箱を大きな紙袋に入れて、玄関に運んだ。

「ちょ、落ち着けって」

サトルが廊下に立っていた。手は出さない。この人はいつもそうだ。止めたいふりをして、決して腕は掴まない。

台所から声が飛んできた。ミツは椅子から立ちもしない。

「23日したら戻ってくるわよ。ほっときなさい。行くところなんてないんだから。ホテルにでも止まって、お金がなくなったら泣いて帰ってくるわよ。看護師さんのお給料なんて、高が知れてるんだから」

私は靴を履いた。振り返らずに答えた。

「お母さん、私、その高が知れてるお給料で、この8年ここを回してきたんですけど」

「何を言ってるの?頭がおかしくなったのね」

玄関の鍵はテーブルの上に置いていくつもりだった。やめた。ここは私が14年住んだ家だ。

外に出ると、6月の朝の空気が湿っていた。私は車に乗り込んで、エンジンをかける前にスマホを出した。かけた先は1件だけ。通話は3分で終わった。それから、バックミラーを見ずに車を出した。

車を出してから、私はもう1本電話をかけた。今度は隠すことのない相手だった。

「大森です。有村さん、どうしたの?」

「師長、急なんですが、有給を3日いただけませんか?それと、しばらく職場の近くに部屋を借ります」

電話の向こうで師長は1秒だけ黙った。

「分かった。勤務表はこっちで直す。それと、うちの若い子が前に使ってたワンルームマンションがあるの。管理の岸本さんって人、いい人よ。番号送るわ」

「ありがとうございます」

「有村さん」

「はい」

「よく、出たわね」

私は路肩に車を止めて、ハンドルに額をつけた。私はやっと、他の人に「よく出た」と言ってもらえた。

昼過ぎには部屋が決まった。病院から歩いて7分のマンスリーマンション。家具も家電もついていて、家賃は月に12万円。光熱費とネット代込み。こちらから止められるのは、ミツに渡してあるあの1枚だけだ。電気もガスも水道も契約者はサトルだから、サトルが動くまで私のカードから落ち続ける。それでも12万円は、初めて自分のために使う金だった。

担当の岸本誠は48歳。やたらと説明の丁寧な人だ。

「身分証と前金だけで、今日から入れます。事情は伺いません。ここに来る方は、皆さん1度は帰ろうとします。帰ってもいいんです。ただ、帰る日は自分で決めてください」

私は玄関の鍵を受け取った。部屋は8畳と台所だけ。冷蔵庫も洗濯機も小さいが揃っている。

帰り道でスーパーにより、米と味噌と卵と湯呑みを1つ買った。カゴを下げてレジまで行ったところで、手が止まった。財布からいつものカードを出しかけて、戻したのだ。この1枚で買えば、また同じ紙が届く。積み上げてきた紙が、これ以上増えるのは嫌だった。現金で払って、レシートを鞄に入れた。

夕方までに、紙袋の中身を運び込んだ。ダンボール箱2つ分の封筒を、机の上に年ごとに積み上げる。一番古い山と、一番新しい山。並べてみると、8年というのは案外な高さになるものだった。

最初のメッセージは、その日の午後6時に来た。サトルからだ。

「母さんが怒ってる。どこにいるんだ?」

返事をしないでいると、10分おきに続いた。

「母さんのことは謝るから、帰ってこいよ。母さんも悪気があったわけじゃない」

「夕飯どうすればいい?」

「ゴミって何曜日だっけ?」

そこでようやく、笑ってしまった。この人は、私がいない家で最初に困ることが夕飯とゴミの日だと思っている。

少し遅れて裕子からも来た。

「千明さん、母から聞きました。兄さんに恥をかかせるようなことはやめてください。うちは兄さんたちの世話にはなっていませんが、母の面倒はきちんと見てもらわないと困ります」

面倒を見てもらう、という言葉を義妹が使うことに、私は引っかかりを覚えた。この人は、母親の生活を誰が支えていると思っているのだろう。返事はしなかった。

8時に電話が鳴った。ミツだった。

「もしもし。千明さん、あんたいつまで子供みたいなことしてるの?」

「要件は何ですか?」

「要件も何も、帰ってきなさいって言ってるの。近所に知れたらどうするのよ?嫁が出ていったなんて、聞き苦しい」

「聞き苦しいのは、どちらでしょう?」

「口の聞き方に気をつけなさい。頭を冷やしたら、ちゃんと謝りに来るのよ。私は許してあげるつもりでいるんだから」

「許すというのは、何をですか?」

「年寄りに口答えして、朝の食卓をめちゃくちゃにして、家を放り出したことよ」

「朝の食卓に、私の分はありませんでした」

「まだそれを言うの?ゆで卵の1つや2つで、朝から騒いで。大体ね、私はこの家に来てから、あんたに1度だって迷惑をかけたことなんてないんだから。むしろ、食べさせてやってる方よ」

「お母さん」

「何?」

「お母さんが毎日使っているカード。あれがどこから引き落とされているか、聞いたことはありますか?」

「息子のカードに決まってるでしょう。何を言ってるの?」

「そうですか」

「そうですか?じゃないわよ。サトルが持たせてくれたものよ。息子が母親に持たせて、何が悪いの?」

食べさせてやっている。よその言葉を、メモ帳に書いた。日付と時刻を添えて。看護師の癖だ。

「今後のお話は、書面で記録の残る形でお願いします」

「はあ?何それ?脅してるつもり?」

「記録を残すだけです」

電話を切った。すぐにまた鳴ったが、出なかった。代わりにサトルからのメッセージが来た。

「母さんのカード、止めたりしてないよな」

「電気もガスも水道も、お前のカードから落ちてるんだよな」

「大丈夫なのか?」

私はそれを2度読んだ。知らないわけがない。8年前にそう頼んだのは、この人だ。それでも私は、忘れているのかもしれないと思っていた。忘れてはいなかった。忘れたことにして、法事の座敷で笑っていただけだ。

返事は1行にした。

「それは私が決めます」

住所は、郵便物の転送のためにサトルにだけ伝えてあった。

その夜、私はカーテンを閉めて机の上の封筒の山を見ていた。箱2つ分の明細。2年目から、開けてもいない紙。何が入っているかは分かっている。スーパーとドラッグストアと、ミツが月に1度行く呉服店。それだけのはずだ。それでも、ミツの「食べさせてやってる」が耳から離れなかった。

体は限界だった。夜勤に入る前から数えれば、もう2日近くまともに眠っていない。それなのに、目だけが冴えていた。夜勤で受け持ちが急変した時、私たちは必ず記録に戻る。何時に何をしたか、誰が何を言ったか。思い込みで動くと、人が死ぬからだ。うちのことも、同じにすればよかったのだ。その時、初めてそう思った。

私は一番上の封筒を取った。前の月の分だ。指を入れて開けた。中の紙を広げて、明かりの下に置く。上から順に読んでいく。スーパー、ドラッグストア、スーパー。そこまでは思った通りだった。

その先を読んだのは、日付が変わってからだった。スーパー、ドラッグストア、スーパー、ガソリンスタンド、電気、ガス、水道。ここまでは全部私が把握している支払いだ。その下に、通信会社の名前があった。2万円。うちの3人分の携帯代だ。

そして、その2行下に同じ通信会社の名前がもう1度あった。2万5000円。

明かりの角度を変えて、もう1度読んだ。同じ会社の名前が、同じ月の明細に2行。金額は2万円と2万5000円。うちの回線は3つしかない。サトルと私とミツ。それで2万円。では、2万5000円は何なのか。

そこで指が止まった。体は限界を超えていて、机に伏せたまま2時間ほど眠り込んだ。目が覚めたのは朝6時で、それからもう1度眠って、次に起きたのは昼だった。

スマホに、サトルからのメッセージが14件溜まっていた。初めの4件はこうだ。

「朝飯どうするんだよ」

「母さんが洗濯機の使い方が分からないって言ってる。洗剤ってどこ?」

「今日ゴミの日か?袋がない」

残りは、家の中で何が起きているかの報告だった。

「母さんが、洗濯機はお前が回してたって言うんだけど、俺、母さんがやってると思ってた」

「風呂も洗ってないだろって母さんに言われた。あれ誰がやってたんだ?」

同じ文句が3度4度。8年だ。この人は、洗濯機を誰が回しているのか分かっていなかった。分かろうとしなかった、という方が正しい。

その後に、こんな1件も来た。

「母さんに、『前は千明がうちのことを何もしないって言ってなかったか』って聞いたら、『家にいる嫁なら、それくらい当然でしょ』って言われた」

家にいる嫁。私は毎月5回、16時間の夜勤をこなしてきた。その合間に洗濯機を回し、買い物に行き、夕飯を作り、義父の7回忌には喪服を着て3時間台所に立った。それでも私は、「家にいる嫁」と呼ばれていた。

返事を書きかけて、やめた。その後に来た1件で、各気が完全に消えたからだ。

「母さんが、今月の生活費はどうなってるんだって。あと、買い物のカード、ちゃんと使えるよなって」

生活費。買い物のカード。私がいなくなった家で、2人が心配しているのはそれだった。

昼過ぎ、ミツからも電話が来た。

「千明さん、あんたまだそんなところにいるの?」

「要件をどうぞ」

「要件も何も、冷蔵庫が空になったらどうするの?サトルはご飯も炊けないのよ」

「47歳の男性です。炊けます」

「口ばっかり。あのね、あんたが出ていったせいで、この家がめちゃくちゃなの。分かってる?」

「お母さんは、洗濯機は使えますか?」

「なんでそんなことを私がしなきゃいけないの?私はもう72よ。それが嫁の仕事でしょう」

「めちゃくちゃになったのは、私が出ていったからではなく、私がやっていたことを誰もやっていないからです」

電話の向こうで電子音が鳴っていた。洗濯機の蓋が開いている時の音だ。

「お母さん、洗濯機の蓋が空いています」

「え」

「それと、1つだけ聞かせてください。この8年、お母さんはご自分の年金を何にお使いでしたか?」

沈黙が3秒あった。

「そんなこと、あんたに言われる筋合いはないでしょ」

電話は荒く切れた。切ったのはミツの方だった。

それから、机に戻って通信会社に電話をかけた。

「カードから引き落とされている2件のうち、2万5000円の方の契約内容を教えてください」

「申し訳ございません。ご契約者様以外にはお答えできかねます」

「支払っているのは私です」

「支払い方法とご契約は別になりますので」

丁寧に、しかし1歩も動かない声だった。カード会社は「ご利用先の加盟店にお問い合わせください」と言うだけだった。ミツは「まとめた方が安いから」と言った。何をまとめたのかは、1度も言わなかった。分かったのは、私が契約者ではない誰かの通信料を払い続けているという事実だけだ。

私は白い紙を1枚出して、自分が払ってきたものを書き出した。ミツの生活費が8万円、うちの食費が8万円。電気とガスと水道で3万円、うちの通信費が2万円。そして、正体の分からない2万5000円。合わせて23万5000円。書き終えて、しばらく紙を見ていた。頭で覚えているうちは大体でしかない。書いた瞬間、それは事実になる。

それから、私は机の上の山を崩し始めた。前の年の分、その前の年、さらに前。開けていない封筒が7年分ある。カッターで端を切って、中の紙を出していく。紙を1枚出すたびに、その月に何があったかを思い出した。義父の7回忌があった月。私が年金のことを聞きかけて、サトルに止められた月。2階の窓を拭いた月。どの月の明細にも、2万5000円は乗っていた。どの月にも、2万円と2万5000円。4年前も5年前も6年前も同じだ。多い月で2万7000円、少ない月で2万3000円。7年、その幅を1度も出ていない。

そこで手が止まった。箱の底には、最初の1年分が残っている。まだ開いて中も見ていた頃の封筒だ。私はそれを取り出しかけて、指を引いた。残りは、あの人たちの前で並べる。そう決めたのは、多分この時だ。

机の上を片付けながら、私は電卓を叩いた。2万5000円を96ヶ月分。240万円。軽自動車が新車で買える金額だ。それを、私は名前も分からない誰かの電話代として、8年間払い続けていたことになる。

そして、そのカードを財布に入れて歩いていた人は、私にこう言った。「食べられるだけ感謝しろ」と。

私は電卓を置いて、水を1杯飲んだ。手が震えていたのは、怒りのせいなのか、丸1日眠っていない体のせいなのか、自分でも分からなかった。

家を出て3日後、夕方の5時過ぎにサトルから電話がかかってきた。

「ち、ちょっと落ち着いて話がしたい」

「どうぞ」

「うちの支払いのことなんだけど。このアプリを見たんだ。俺の口座から出てるのは、住宅ローンの14万だけだった」

「そうです」

「知ってたつもりだった。でも、俺の口座から出てるのがローンだけだって、数字で見たのは初めてだ。残りは全部、千明だったんだな」

「知っていたはずです。8年前、そう頼んだのはあなたですから」

電話の向こうで、サトルが息を呑む音がした。

「全部か?」

「全部です。月に23万5000円。それと、年に1度固定資産税の14万円」

サトルは黙った。この人が黙るのは、言い訳を探している時だ。14年一緒にいれば、息の音で分かる。

「知ってた。知ってたけど、月にいくらかまでは見たことがなかった」

「では、いくらだと思っていましたか?」

「10万くらいかと。いや、その、うちは共働きだから、家計は1つだと思ってて」

「1つの家計なら、なぜお母さんには『息子が全部やってくれる』と言わせていたんですか?」

サトルは答えなかった。私は、明細の2行のことは言わなかった。まだ言う時ではない。

サトルがやっと口を開いた。

「母さんに聞いてみたんだ。前の日に、生活費のことを。そしたら母さん、何て言ったと思う?」

「多分、想像はつきます。『息子の給料で嫁を養ってやってるんでしょ』って」

「それが当たり前みたいな顔で言うんだよ。ずっとそう思ってたんだろうな」

「それだけじゃないんだ。母さん、こうも言った。『あの子は夜勤で家にいないんだから、せめて家のことぐらいはやってもらわないと、割に合わない』って」

割に合わない。私はこの家に月に23万5000円を入れて、その上で洗濯機を回していた。割が合わないのは、どちらだろう。

「そうだよな。俺、その場で言えなかった。『違うよ。払っているのは千明だよ』って」

「言えばよかったのに」

「言ったら、お母さんが……」

そこでサトルは言葉を切った。この人が自分で最後まで言うまで、私は8年待った。傷つくと思って、私はずっと傷ついていた。

沈黙が長かった。私は窓の外の街灯を見ていた。

「あともう1つ、聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「お母さんの年金は、どうなっているんですか?2ヶ月に1度、偶数月の15日に2ヶ月分が入るはずです。月に直せば12万か13万か。その分はどこに入っているんですか?」

「……そういえば、聞いたことないな」

「聞いてみてください」

サトルは「分かった」と言って、一旦電話を切った。30分ほどしてかけ直してきた。

「聞いた」

「何て?」

「『全部この家に入れてるわよ』って」

私は自分の顔が動くのを感じた。笑ってしまったのだ。

「入れてる?この家に」

「そう言ってた。それ以上は聞くなって顔だったけど」

「そうですか」

「千明、何か知ってるのか?」

「何も」

私は嘘をついた。2年前の11月、ミツも同じことを言った。あの時は、私が止められた。今度は、自分から聞きに行って、同じ答えをもらってきた。

「サトルさん、この家の口座にお母さんからの入金は、1度もありません。電気もガスも水道も通信費も食費も、私のカードと私の口座から出ています。8年間、お母さん名義の振り込みは1件もありません。通帳は毎月、私が記帳しています」

「じゃあ、母さんの年金は?」

「そこは、サトルさんが確かめてください」

「なんで俺が確かめないんだ?」

「私は嫁です。『通帳を見せてください』と言える立場ではありません。言えるのは、息子です」

「分かった」

「サトルさん、もう1つだけ」

「何だよ」

「私に、頼まないでください。今回は、あなたが自分で見て、自分で聞いてください。まとめて」

私は電話を切った。

その後、裕子からも電話が来た。出ると開口一番だった。

「千明さん、母を追い詰めるのはやめてもらえますか?」

「追い詰めてはいません」

「電話口で泣いてましたよ。年金がどうとか、通帳を見せろとか、年寄りにそんなこと言います?」

「聞いたのは、悟さんです」

「兄さんに言わせてるんでしょ?母がうちに何かしてるみたいな言い方、失礼だと思わないんですか?うちは母から、ちょっと助けてもらってるだけで」

ちょっと。私はその言葉を手元の紙に書いた。日付と時刻を添えて。

「裕子さん、『ちょっと』というのは、月にいくらのことですか?」

裕子は答えなかった。切れた電話を見ながら、私は自分の書いた字を指でなぞった。

それから机に向かって、箱の底から1通だけ引き出した。8年前の6月、同居が始まった翌月の分だ。開けなかった。表を見て、手が止まった。日付の下に、日付ではない字がある。8年前の私の走り書きだ。今ここで読めば、私は1人で泣いて終わる。私は読み返さずに付箋を張って、箱の底へ戻した。読むのは、あの人たちの前でいい。

その夜、私は市役所のホームページを開いた。無料法律相談、予約制で1回30分。私は翌週の枠を取った。書いた相談内容は「相続」だっ… ではなく「養育」ではなく…… 「その他」にした。

「同居している義母の生活費は、8年間嫁である私が負担してきた。義母は息子が払っていると思っている。今後どうすれば良いか」

送信ボタンを押して、私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。病院では患者の呼吸を数えるのが仕事だ。自分の呼吸を数えたのは、多分初めてだった。

翌日は夜勤だった。詰め所で楓出と会った。

「有村さん、なんか顔が違いますね」

「そう?うん」

「前は疲れてる顔だったけど、今日は怒ってる顔です」

「褒めてる?」

「めちゃくちゃ褒めてます」

ナースステーションに入ると、師長が勤務表の前に立っていた。

「有村さん、今日は日勤に人がいるから、休憩は2回取って」

「大丈夫です」

「大丈夫な人は、そんな顔をしないの」

師長は何も聞かなかった。理由も、家のことも、いつ戻るのかも。ただ、勤務表の私の欄を指で押さえて、赤いペンで休憩の時間を書き込んだだけだった。その手元を見ていたら、目の奥が熱くなった。

その夜勤が始まった。昼まで寝て起きた時には着信が溜まっていたが、折り返さないまま家を出てきた。スマホはマナーモードにしてロッカーに入れてある。夜勤中に自分の電話を見るのは、休憩の時だけと決めている。それがこの8年、私が守ってきた唯一の自分の時間だ。

最初の休憩は7時だった。ロッカーを開けて画面を見ると、着信が18件並んでいた。全部ミツからだった。留守電も7件入っている。

後でサトルに聞いた話では、私が家を出てからの2日間、あの家の台所はまだもっていた。冷凍しておいた煮物と、下味をつけた肉と、切って保存袋に入れた野菜が残っていたからだ。私が2週間分まとめて仕込む癖について、ミツは8年間「当たり前」の空気だと思っていたらしい。その作り置きが、その日の昼に尽きた。だからミツは8年ぶりに自分で献立を考えて、スーパーへ出た。何をどれだけ買えばいいかを決めるのは、ずっと私の役目だった。

1件目を再生した。

「千明さん、ちょっとカードが使えないんだけど」

背後にレジの音とアナウンスが入っていた。スーパーの中からかけている。

2件目。

「レジで止められたのよ。恥ずかしいったらないわ。前の人も後ろの人も見てるのに」

3件目で、声が高くなった。

「店の人が『このカードは使えません』って言うのよ。私が何かしたみたいな言い方して。あんたでしょう。あんたが止めたんでしょう」

4件目。

「サトルに行ったのよ。『千明さんに電話しなさい』って。そしたらあの子、『自分で電話すれば』って言ったの。自分の母親に向かって」

5件目。

「買い物に3000円分も入れてたのに、全部下げられたのよ。財布には1000円札が1枚しかないのに。裕子に送った後だから、手元には何も残ってないのよ。あんな恥をかかされたのは、生まれて初めてだわ」

6件目。

「あんたね、私を上等にさせるつもり?年寄りをいじめて楽しいの?世間に言いふらしてやるからね」

7件目は、泣き声と怒鳴り声が混ざっていた。

私は休憩室の椅子に座って、7件を2度ずつ聞いた。不思議と胸は痛まない。ただ、長い間喉に刺さっていた小骨のありかが、やっと分かった気がした。

あのカードの名義は、有村悟。既婚者である。8年、1度も求められなかった。ミツはそれを財布の一番前に入れて持ち歩いた。レジで出すたび、表の名前を見ていたはずだ。家族会員の請求は、本会員の口座に回る。表面の名前と金の出所は別なのだ。ミツは1度も考えなかったらしい。息子の名前が刻んであるのだから、金も息子から出ている。そう信じて疑わなかったのだろう。

そして、そのカードを止めたのは私だ。家を出たあの朝だ。玄関を出て車に乗り込み、エンジンをかける前に、私はカード会社に電話をかけた。バックミラーを見ずに車を出す前の、あの3分の電話だ。

「家族会員のカードを止めてください」

「ご本人様確認をさせていただきます。本会員は、私です」

それだけだった。手続きは3分で終わり、その場で使えなくなった。なぜ玄関を出る前ではなく、後にしたのか。私は玄関を出た瞬間まで、サトルが追いかけてくると思っていた。腕を掴んで「待ってくれ」と言うかもしれない。言わなかった。だから私は、車に乗ってから電話をかけた。

22時の休憩で見ると、着信は48件になっていた。サトルからのメッセージも入っている。

「母さんがカードが使えないって騒いでる。『千明に電話しろ』って言うから、『自分で電話すれば』って言った。初めて母さんに言い返した気がする。そしたら『あんたまで嫁の味方するのか』って泣かれた」

ここまでで4件。私は画面を下へ送った。

「あと、母さんが裕子に電話してる。裕子も来るかもしれない」

「千明、悪いけど、母さんのカード戻してくれないか?俺が金入れるから」

最後の1件で、私は初めて指を止めた。

「俺が金入れるから」

8年間、1度も入れなかった人が、3日で言った。私は返信しなかった。代わりに休憩室のテーブルの上でメモ帳を開いて、時刻と件数を書いた。19時18件、22時48件。記録だ。何が起きたかは、後で必ず必要になる。

その休憩の後、受け持ちの患者さんの点滴が漏れた。差し替えに2度失敗して、楓出に代わってもらった。処置を終えて記録を書き、ナースステーションに戻ったのが23時15分。「残りの休憩を取っておいで」と楓出に言われて、私がロッカーの前に立ったのは23時45分だった。画面には97件。数字は見ている間にも増えた。

23時52分、100に届いた。

100件。しばらくその数字を見ていた。私がこの家に入れてきた月々は23万5000円。その金でご飯を食べ、その金で電気をつけ、その金で電話をかけていた人が、私に100回電話をかけてきている。要件は、カードが使えないということだ。

留守電に残っていた要件をメモ帳に書き出した。カードのこと、生活費のこと、恥をかいたこと、近所に知れること、サトルが冷たいこと。1度も「大丈夫か」とは聞かれなかった。体は大丈夫か、眠れているか。あの朝のことは悪かった。そういう言葉は、残された伝言のどれにもなかった。

それでいいと思った。もし1件でもあったら、私はきっと迷った。8年迷ってきた人間は、たった一言で元の場所へ引き返してしまう。ミツはそれをしなかった。残した伝言は7件、全部自分の話だった。おかげで、私は迷わずに済んだ。

楓出が詰所から出てきて、私の手元を覗き込んだ。

「有村さん、それ、着信ですか?」

「うん。100件みたいね」

「怖」

楓出は本気で顔をしかめた。

「私、有村さんのお姑さんこと、ちょっと甘く見てました」

「私もよ」

私はスマホをロッカーに戻して、病棟へ出た。夜勤はまだ終わっていない。受け持ちは22人いる。

深夜2時、ナースステーションの電話が鳴った。受話器を取った楓出が、口を押さえたまま私を見た。

「有村さん、お母様だそうです」

私は手を出さなかった。

「代表番号から来たの?」

「はい。夜間受付を通して」

「切って。勤務中だから」

楓出は頷いて、受話器に向かっていった。

「申し訳ございません。職員個人へのお取次ぎは、いだしかねます」

向こうで大きな声がした。楓出の肩が上がる。それでも、教科書通りの口調は崩さなかった。

「そういったお取次ぎは、いだしかねます。業務に支障が出ますので、お電話はお控えください。失礼いたします」

受話器を置いた楓出の手が震えていた。

「有村さん、謝らないでくださいよ。私、腹が立ってるんです。私じゃないです。あの人にです」

楓出はナースコールの一覧を見た。

「今、この病棟に44人いるんですよ。それを夜勤2人と補助の人1人で見てるんです。夜中に息が苦しくなる人も、点滴が漏れる人もいる。その電話が『嫁を出せ』で塞がるんですよ。ありえない」

私は何も言えなかった。その人に、私は朝ご飯のことで言い続けてきたのだ。

その夜、病棟まで届いたのは3回。2時、2時40分、3時と、間隔が短くなった。3回目も楓出が出た。名前も名乗らずに「嫁を出しなさい」とだけ言われて、楓出は同じ文句を繰り返して切ったそうだ。4回目からは、夜間受付が止めてくれた。受付の記録には8回残っていたと、翌朝師長から聞いた。

朝の申し送りで日勤の看護師たちが集まった時、師長が全員の前で言った。

「前の晩、夜間受付に外部から8回の入電がありました。3回が病棟まで回ってきています。患者さんのご家族ではありません。個人的な内容です。対応したスタッフは正しく処理しています。今後も同じ電話があれば、『職員個人へのお取次ぎはできません』と伝えて切ってください。在籍しているかどうかも、答えなくていい」

師長はそこで1度言葉を置いた。

「誰が悪いという話ではありません。うちの病棟は、患者さんのために電話を開けておく必要がある。それだけです」

誰も私の名前を出さなかった。それが、返ってきた答えだった。

詰め所で着替えていると、師長が入ってきた。

「有村さん」

「師長、ご迷惑を」

「その言葉は、あなたが言う言葉じゃない」

師長はロッカーの前に立って、腕を組んだ。

「あなたの家のことに口は出さない。でもね、職場に電話をかけてくる人間は、あなたを1人の人間だと思ってないの。あなたの患者さんも、自分の用事より下だと思ってる。そういう人だと分かったなら、もう気を使う必要はないわ」

私は白衣を畳む手を止めた。

「私、8年間、お母さんに気を使ってきました」

「知ってる?8年です」

「知ってる。だから、今使うのをやめなさい」

その日は明けだった。マンスリーマンションに戻って、私はベッドに横になった。起こされたのは、廊下の怒鳴り声だった。ミツの声だ。

「千明さん、いるんでしょ?出てきなさい」

私は目を開けた。昼の2時10分。

「開けなさい。ここにいるのは分かってるのよ」

ドアが叩かれる音がした。手のひらではない、硬いもので叩いている。

「息子の金で暮らしてたくせに、何様のつもりなの?」

私はドアの内側に立った。開けなかった。開けなかったのは、怖かったからではない。開ければ、ミツはまた朝ご飯の話をする。「用意してやった。感謝しろ」。そういう言葉をもう1秒も浴びたくなかった。

「聞いてるんでしょ?返事しなさい。夜中まで外をフラフラしているような女に、うちの息子はもったいなかったのよ。近所にも言ってやるからね。『有村さんとこの嫁は、年寄りを上等にさせようとしました』って」

廊下の空気が動いた。他の部屋のドアが開く音がする。

「置いてやったのはこっちよ。あんたなんか、うちがいなかったら行くところもなかったでしょ。45にもなって、夜中に働く女なんて」

私はドアに手をついた。45にもなって、夜中に働く女。その女が入れてきた月々のお金で、ミツは食べてきた。今開ければ、廊下中に聞こえる声で言い返せる。開けなかった。言うなら、紙を全部並べて、あの人が逃げられない場所で言う。

そこで、別の声が入った。

「お客様、困ります」

岸本の声だった。

「入居者様のご家族の方ですか?ご要件はフロントで伺います。ここは共用の廊下です。大きなお声は、やめてください」

「関係ない人は黙ってて」

「関係あります。うちが管理している建物です」

「嫁が義母を追い出したのよ。あんた、それでも人の子」

「そのお話は、こちらでは伺えません。お帰りいただけないなら、警察に連絡いたします」

警察という言葉で、廊下の声が止んだ。足音が遠ざかっていく。エレベーターの扉が閉まる音がして、それきりだった。

しばらくして、ドアの外でノックがあった。

「岸本です。もう大丈夫ですよ」

私はドアを開けた。岸本はいつも通りの丁寧な顔で、ドアについた汚れをハンカチで拭いていた。ドアの下の方に、傘の先でついたらしい白い線が3本あった。

「すみません」

「謝るのは、あなたじゃなくてあの方ですよ」岸本がハンカチを畳む。「傷の後は写真に撮っておきます。防犯カメラの映像も保存します。念のためです。ここに来る方は、皆さん1度は追いかけられますから」

「岸本さん」

「はい」

「追いかけてくる人って、みんな同じことを言いますか?」

岸本は少し考えてから答えた。

「大抵2つです。『心配してるんだ』というのと、『こっちが被害者だ』というのと。どっちも、自分の話ですね」

私はその晩、その一言もメモ帳に書いた。

その夜、裕子から電話が来た。

「千明さん、母がそちらに行ったそうですね」

「来ました。廊下で10分ほど叫んで、管理の方に止められて帰りました」

「そこまでさせたのは、誰ですか?」

「裕子さん」

「うちの母は72です。年金だけで暮らしてる年寄りから、カードを取り上げて追い詰めて、そんなに楽しいですか?」

年金だけで暮らしている。そう思っていらっしゃるんですね。

「事実でしょ」

裕子はそこで、言わなくてもいいことを言った。

「言っておきますけど、あんたがいなくても、うちの母はやっていけますから。困るのは、あんたの方ですよ。兄さんに捨てられて、行くところがなくなるだけ」

私はメモ帳を開いて、その言葉を書き移した。日付と時刻を添えて。書き終えてから、静かに答えた。

「裕子さん、それ、来月もう1度おっしゃってください」

サトルがマンスリーマンションに来たのは、その週の終わりだった。インターホンの画面の顔は、痩せて腫れて見えた。髭を剃っていない。Yシャツの襟がよれている。部屋に入れると、サトルは座卓の前に正座して、いきなり頭を下げた。

「母さんも困ってるし、そろそろ帰ってこないか」

私は湯呑みをテーブルに置く手を止めた。

「やっぱり、お母さんが困ったから来たのね」

サトルは顔を上げた。

「そうでしょ。3日目まで、あなたが送ってきたメッセージは、夕飯とゴミの日の話だけだった。私の体のことは、一行も書かなかった」

サトルは口を開いて、閉じた。

「サトルさん、私が出ていってから、最初に困ったことは何?」

「朝飯」

「2番目は?」

「洗濯」

「3番目は?」

サトルは答えなかった。

「生活費だ。私は8年間、あなたの1番目と2番目と3番目でした。4番目から先には、1度も入れてもらえなかった」

私は畳に座った。

「サトルさん、この8年の話を、1度だけします。最後まで聞いて。明けの日に、ふすまの外で掃除機をかけられたこと。耳栓を2つ潰したこと。夜勤を『夜遊び』と呼ばれ、親戚の前で笑われたこと。買った牛肉が、裕子が来た日に消えたこと。父の7回忌に、眠らないで3時間台所に立ったこと。夜勤明けにバケツを置かれて、2階の窓を拭いたこと」

サトルは途中から下を向いていた。

「なんで、俺に言わなかったんだよ」

その一言が来るのは分かっていた。8年待って、やっと出てきたセリフがそれなのだ。

「言ったよ」

私はスマホを出して、画面をサトルに向けた。これまでのやり取りを遡り、私が送った分を順に見せた。

「お母さんに洗濯物のことで、こう言われた」
「今日も私の分だけ、ご飯がなかった」
「夜勤を遊びだと言われるのが、辛い」

どれにも返信がついている。サトルの返事だ。

「母さんも悪気ないから」
「年寄りだから、流して」
「うまくやってくれよ」
「俺、忙しいんだよ」
「その話は、今度な」

サトルは画面から目を離せなくなった。指が止まったのは、5年前の1件だ。私が「もう限界かもしれない」と送った日。帰ってきたのは、スタンプ1つだった。

「これ、覚えてる?」

「……覚えてない」

「そうだよね」

私は画面を消した。

「サトルさん、あなたはさっき『なんで言わなかったんだ』と言った。8年、私はずっと言ってきた。聞かなかったのは、そっちだ」

サトルは正座を崩さないまま、両手を膝の上で握っていた。

「サトルさん、もう1つ、見て欲しいものがあります」

私は封筒の山から1枚を抜いて、座卓に置いた。前の月の明細だ。

「ここ。通信会社が2行。上が2万円、うちの3人分。下が2万5000円。これが誰の分か、私は知りません」

サトルの顔から、色が引いた。私は続けた。

「8年前の6月から、毎月です。96ヶ月で240万円。私のカードから出ています。1度も止まらずに」

サトルは明細を持ったまま、動かなかった。

「これ、うちの3人分じゃないんだよな」

「違います。うちの分は、上の2万円です」

「じゃあ、明日……」

「その先は、あなたが確かめてきてください」

サトルはしばらく明細を見ていた。それから、スマホを出して立ち上がった。

「家に戻る。母さんの部屋を見てくる」

「勝手に見ていいの?」

「息子だからじゃない。俺の名前のカードで払われていることになっているものが、俺の家の中にあるんだ。確認しない方がおかしい」

私はそこで初めて、サトルの顔をまっすぐ見た。8年前、母親には本当のことを言わないでくれと頼んだのは、この人だ。その人が、自分の名前で払われているものを確認しに行くという。遅い。遅すぎる。それでも、動いたのはこの8年で初めてだった。

1時間半後、写真が送られてきた。通信会社の請求書だった。紙の請求書が、ミツの部屋の引き出しに束ねてあったという。契約者の欄に、有村悟。利用者の欄に4つ。1つ目が木下高幸。義妹の夫だ。2つ目が木下裕子。義妹本人。3つ目が木下琉生。高校3年の甥。そして4つ目は、裕子の家のインターネット回線だった。

私は写真を3度拡大した。名前も金額も間違いなかった。一番下に束ねてあった1枚の利用期間が、8年前の5月からになっている。ミツがこの家に入った月だ。

続けて、サトルからメッセージが来た。

「母さんに聞いた。8年前、裕子の家族の携帯を全部、自分の契約にまとめたって。その方が割引きが大きいからって。支払い方法は、俺のカードを登録したそうだ。母さんは、俺が払ってると思ってる。琉生の分は、高校に上がった時に利用者を裕子からに書き換えただけ。契約者はずっと母さんで、回線は最初から4つ。額も2万3000円から2万7000円の間で動いてない」

最後にもう1件。

「今、裕子に電話した。『携帯代は母さんが出してくれてる』って言ってた。何の疑いもない声で」

私は座卓の前に座ったまま、写真をもう一度開いた。私は義妹一家の通信費を払っていた。義妹はそれを、母親の善意だと思っていた。母親はそれを、息子の金だと思っていた。息子は、何も見ていなかった。

ミツが4回線をまとめた月は、この家に入った月と同じだった。引っ越しと同じ月に、娘の家の電話をまとめていたわけだ。4人が4人とも、違う話を信じていた。そして、実際に金を出していたのは、その4人の輪の外にいる私だった。

夜になって、サトルからもう一度電話が来た。声が変わっていた。

「今すぐ帰ってきてくれとは言わない」

「そう」

「俺が自分で確認する。母さんのことも、金のことも、全部」

「どうぞ」

「1つ聞いていいか?母さんの年金って、どこに入ってるんだと思う?」

「私が答えたら、あなたが確認したことにならない」

サトルは少し黙って、それから「そうだな」と言った。

その夜、サトルが最初に確認したのは、母親の年金が入る口座だった。写真が届いたのは、翌々日の朝だった。ミツの通帳の見開きが何枚も写っていた。サトルが撮ったにしては、指も影も入っていない。よほど落ち着いて撮ったのだろう。

年金は偶数月の15日に2ヶ月分。介護保険料などが引かれて、通帳に載るのは25万円だ。その翌日か翌々日に、出金が1つ。振り込み、木下裕子、20万円。次の偶数月も、同じだった。その次も。

画面を親指で送りながら、行の数を数えた。48回。1度も欠けていない。2ヶ月に1度、必ず20万円が、娘の口座に移っている。残るのは5万円。2ヶ月分の小遣いだ。

サトルからのメッセージは短かった。

「家には1円も入ってない。8年で960万円だ」

湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。ミツは毎月、私のカードで食べ、私のカードで買い物をしていた。生活に金を出す必要がない。だから、年金は丸ごと手つかずで残る。その金が、2ヶ月に1度、娘の家へ流れていた。養ってやってると言い続けた人が、実際にやっていたことは、これだ。

サトルがミツを問い詰めた時のやり取りも、そのまま送られてきた。

先に口を開いたのは、ミツだった。

「裕子は、家のローンが大変なのよ。悪いことをしたつもりはないわ」

「母さん、家には1円も入れてないよな」

「入れる必要がないでしょ。私は、家のことをやってるんだから」

「洗濯機も回せないのに」

そして、最後の1件。

「悟。あんたには男の子がいないんだから。琉生のことは、私が、見てやらないと誰が見るのよ」

そのメッセージを2度読んで、スマホを伏せた。8年前、私とサトルが子供を望んで、望んだ通りにはならなかったこと。その話を、ミツが知らないはずはない。知っていて、それを娘に金を回す理由に使っていた。

その日の午後、私は市役所の相談室にいた。無料法律相談。担当は伊藤邦彦という55歳の弁護士で、私のメモを上から順に指でなぞりながら読んだ。

「まず、一般論としてお話しします。事情によって結論は変わりますので、そこはご承知おきください」

「はい」

「義理のご両親、つまり配偶者の親御さんに対して、お嫁さんに扶養の義務があるかというと、原則としてありません。義務があるのは、実のお子さんの方です。この場合は、ご主人と妹さんですね」

「2人には、あるんですか?」

「実の親子ですから、生活を助ける義務は法律上あります。ただ、どこまでいくら、というのはそれぞれの生活の余裕によって決まります。無条件に月々いくら、という話ではありません」

「私が8年間払ってきた分は、返してもらえますか?」

「というご質問でしたら、慎重にお答えします。ご夫婦の間の家計は、後から清算しにくいものです。ただ、ご主人の妹さん、そのご家族の通信費、つまりご家庭の他の方の費用です。それをあなた名義のカードで払っていた分は、性質が違う。違うというのは事情によりますが、話し合いの土台にはなり得ます。まずは、いつから、いくら、誰の分か。それが分かる紙を、揃えてください」

「紙なら、ある。全部、あります」

「もう1つ、よろしいですか?」

「どうぞ」

「同居をやめてもらうことは、できますか?」

弁護士は、少し考えてから答えた。

「その家の所有者は、ご主人ですね。でしたら、それを決められるのはご主人です。あなたではありません。そして、無償で住んでいる義理の母に出て行ってもらう場合、いきなり通知1本で終わり、というやり方は、お勧めしません。先の見通し、費用の負担、いつまでに、という3つをこちらから示して、書面で伝える。応じていただけない時に、次を考える。順番を踏んだ方が、後で揉めずに済みます」

「時間は、かかりますか?」

「かかります。それでも、順番を踏んだ方が早く終わります」

私は礼を言って相談室を出た。30分の相談で、私が持ち帰ったのは2つだ。紙を揃えること。順番を踏むこと。どちらも、私が23年やってきた仕事のやり方と同じだった。

その日のうちに、聞いてきた話をそのままサトルに伝えた。嫁に扶養義務はないこと。義務があるのは実の子の2人だということ。サトルは、言い訳をしなかった。「書き移していいか」とだけ言った。

夕方には、裕子から電話が来た。

「携帯が止まるって通知が来たんですけど、何かしました?」

「私のカードを止めました。あなたのご家族の4回線の支払いに、それが登録されていたので」

「そんなはずない。あれは、お母さんが。お母さんが契約者です」

「お金を出していたのは、私です」

裕子は何も言わずに、電話を切った。

その夜、見覚えのない番号から電話が来た。

「千明さん、松江です。姉さんから聞いたわ。カードだの、年金だの、大騒ぎしてるって」

松江の声は、駅前であった時より低かった。

「前に、薬局の前で私、途中でやめたでしょ?あれ、姉さんの口から言わせるべきだと思ってたの。でも、もう待てない」

電話の向こうで、松江が1つ息を吸った。

「私が話すわ。あなたと、悟君と、裕子ちゃんの前で」

私はカレンダーを見た。次の休みは5日後だ。

「では、こちらで日を決めます。場所は、あの家でいいの?」

「あなたが行くの?」

「私が行きます。あそこは、私が払ってきた家ですから」

電話を切って、私はサトルに連絡した。日取りを伝え、裕子にも必ず来るように言ってほしいと頼んだ。理由は書かなかった。

5日後の休みの朝、私はダンボール箱を2つ、車の後部座席に積んだ。箱2つ分の封筒。そこには、同居が始まった最初の1年分がある。全部並べるのは、あの家の食卓の上でだ。

14年住んだ家の玄関で、私はチャイムを鳴らした。台所には3人いた。ミツが上座で腕を組み、裕子がその隣、サトルが向かい側に座っている。

「やっと戻ってきたの」

先に口を開いたのは、ミツだった。

「荷物を取りに来ただけです」

私はダンボール箱を2つ、食卓の上に置いて、封を切った。

「何よ、それ?」

「8年です」

1つ目の箱から、年ごとにまとめた封筒の束を出して、並べていく。ミツがこの家に入った翌月から、先月まで。8年前の分から順に右へ。96通ある。

「カード会社から毎月届く、利用明細です。全部、私名義のカードのもの。数字だけ、聞いてください」

1枚目を開いた。

「お母さんの生活費が8万円。この家の食費が8万円。電気とガスと水道で3万円。うちの携帯代が2万円。それに、通信会社からもう1件、2万5000円。合わせて、月23万5000円です」

裕子が眉を寄せた。

「それが、何なんですか?」

「8年分で、2256万円になります」

台所が静まった。私は2つ目の箱から、透明のファイルを出した。

「結婚した年に、家の頭金として私の口座から出した600万円。通帳の写しです。それと、固定資産税の納税通知書。こちらは、合計で112万円。生活費と税金で、この8年が2368万円。それに、14年前の頭金の600万円を足すと、およそ3000万円です。家が、もう1件立つ額だった」

サトルがテーブルの端を掴んだ。ミツが最初に口を開いた。

「夫婦のお金なんだから、サトルのお金と同じでしょう」

来ると思っていた。

「では、この96ヶ月のうち、サトルさんの給料からお母さんの生活費が出ていた月が、1つでもあれば挙げてください」

「そんなの、いちいち覚えてるわけないでしょ」

「私は覚えています。ゼロです」

私は明細の束を押さえた。

「サトルさんの口座から出ていたのは、月々14万円の住宅ローンだけ。それは、私も1度も文句を言っていません。あれはサトルさんの家の、サトルさんのローンです。私が数えているのは、それ以外の全部です」

「悟さん、ローンを引いた後の残りは、この8年どこにありましたか?」

サトルが目を伏せた。

「手をつけないまま、口座に置いてあった。使い道を考えたこともなかった」

裕子が助け舟を出した。

「でも、家に住ませてもらってるじゃないですか。家賃の代わりでしょ」

「私が600万円を入れた家に、住ませてもらっている。そう考えるなら、それでもいいです。そういう言い方をするから、私は……」

「8年前、この家に上がる時、お母さんはこう言いました。『家事は私に任せて。迷惑はかけないから』と」

「母は、年ですから」

「8年前は64歳でした。私は37でした」

裕子は口を噤んだ。そこで、私は2万5000円の1行を指した。

「裕子さん、この2万5000円のことは、先日お電話でお伝えしましたね」

「あれは、何かの間違いだと思っていました」

「間違いではありません。あなたのご家族の通信費です。4回線。ご主人と、あなたと、琉生君と、ご自宅のインターネットです」

裕子の顔が、母親そっくりに固まった。電話では信じずに切った人が、紙を前にして初めて黙った。私は続けた。

「契約者は、お母さん。支払い方法に登録されていたのは、サトルさんの名前が入った家族会員のカード。その本会員は、私で、引き落としは私の口座です。契約は8年前の5月。引き落としは翌月の6月から。96ヶ月で、240万円になります。お母さんは息子が払っていると思い、サトルさんは何も見ていなかった。実際に払っていたのは、この輪の外にいる、私です」

ミツが声を張った。

「あんた、そんな細かいこと、いちいち。細かくないわよ。240万円なんて、嫁が義家族のために出すのは当たり前でしょ」

「その240万円は、お母さんのためのお金ではありません。裕子さんのご家族のためのお金です」

「同じことよ」

「同じではありません。お母さんは、私にこう言い続けました。『サトルに食べさせてもらってるんだから』と。実際に食べさせていたのは誰か、この紙に全部書いてあります」

では、当たり前の話を、もう1つ。私はサトルが撮った写真をプリントしたものを出した。ミツの通帳の見開き。

「お母さんの年金は、偶数月の15日に2ヶ月分。引き落としの後で、通帳に残るのは25万円です。その翌日か翌々日に、木下裕子さん当てに20万円の振り込みがある。次の偶数月も、その次も」

ミツの組み組んだ腕の形のまま、わずかに震えた。

「お母さん、8年で48回。960万円です」

裕子が、母親を見た。

「お母さん、それ……」

「うるさいわね。私、お母さんが年金からやりくりして出してくれてると思って」

「その通りよ。私の年金でしょ」

「じゃあ、お母さんの生活費は、兄さんが出してくれてるに決まってるでしょ」

裕子が初めて、兄の顔を見た。サトルは、首を横に振った。それだけだった。裕子の顔から、色が落ちていった。

「私の年金なんだから、誰にあげようと私の勝手でしょ」

ミツが、やっとそう言った。

「はい。お母さんの年金です。ただ、お母さんが年金に1円も手をつけずに住めたのは、食費も光熱費も携帯代も、全部他の人が払っていたからです。生活費がいらないから、年金が丸ごと残る。それを、娘さんに回せた」

ミツは何も言わなかった。私は、最後まで言った。

「お母さんは、私に食べさせてやっていたのではありません。私のお金で、娘さんの家を8年間支えていたんです」

私はもう1冊、薄いメモ帳を開いた。

「6月10日20時。お母さん、『むしろ、食べさせてやってる方よ』。6月12日19時。裕子さん、『うちは母から、ちょっと助けてもらってるだけ』。日付と時刻を入れて、書いてあります」

誰も、何も言わなかった。

最後に、私は箱の底から、付箋を張った1通を取り出した。一番古い1通だ。封筒の表を、みんなに見えるように上げた。表には、日付だけを書く決まりだった。それなのに、その1通にだけ、日付の下に走り書きがある。同居が始まった年の、私の字だ。付箋を張った夜から、この1行だけを取っておいた。

私はその走り書きを、声に出して読んだ。

「サトルの言葉。『母さんには、俺が出していることにしておいてくれ』」

サトルが、顔を上げた。血の気がなかった。

「サトルさん、これ、あなたが私に言った言葉です。同居が始まった翌月。最初の明細が届いた日に、私はそれをここに書きました」

「俺は……知らなかった」

サトルの唇が動いて、止まった。

「そんなことになってるとは、知らなかった」

8年待って、出てきたのがその一言だった。

「違うよ」私は言った。「知らなかったんじゃない。知らないふりをしたの。あなたは、最初から全部、知っていた」

サトルは椅子の上で、背中を丸めた。それから、母親の方を向いた。

「母さん、『夜勤って大げさなのよ』って言ってたよな」

「言ったわよ。だって、大げさじゃなかったの?」

「大げさじゃなかったんだよ、母さん」

その時、玄関が開く音がした。鍵は開けたままだ。廊下を歩いてくる足音は、小さくて早い。台所の入り口に、松江が立っていた。

「姉さん、私が話すわ」

松江は靴を脱ぐのも構わず台所へ入り、ミツの正面に立った。

「え、あんた、何しに来たの?」

「8年前の話を、しに来たの」

ミツが、椅子の上で体を引いた。松江は空いた椅子に座り、カバンから手帳を出した。表紙の擦り切れた、薄い手帳だ。

「悟君のお父さんが亡くなったのが、8年前の3月14日。それから49日までの間に、何があったか。私、全部この手帳に書いてあるの」

「そんなもの、あなたの思い込みでしょ」

「思い込みなら、日付は書けないわ」

松江は、姉から目を離さなかった。

「悟君、お父さんの預金のことを覚えてる?1000万円、あった」

「俺も、裕子も、『母さんの老後の分だから、全部持っててくれ』って言った」

「そう。元々、家のお金は全部、姉さんが握っていたの。悟君のお父さんは、お金のことは姉さん任せの人だったから。悟君、あなたたちが『母さんが全部持っててくれ』と言ったのは、49日の席よね?」

サトルが頷いた。

「その時には、もう口座は空だったの」

松江は手帳を開いた。

「5月に入ってすぐ、姉さんが電話してきたの。『手元にお金がないから、少し貸してくれ』って。私、聞いたわ。『悟君のお父さんが残したお金があるでしょう』って。そしたら、姉さん、何て言ったと思う?」

松江は、ミツを見た。ミツは目を伏せていた。

「『もう、裕子に渡したのよ』って」

裕子が、椅子から立ち上がりかけた。

「うちの頭金は、父が生前に……って、お母さんがそう言って渡してくれたのよ」

「違うわ。悟君のお父さんが亡くなった後。49日の前よ。日付も書いてあるの。4月24日。49日の前よ。5月に電話をくれた時、姉さんが自分で言ったの。『先月の24日に下ろして、渡した』って」

サトルが、両手で顔をこすった。

「じゃあ、母さん。あの時、俺たちに『老後の分だから』って言ったのは……」

「あんたたちは、若いんだから」

「1000万円、全部、裕子の家に入れたのか?」

「裕子は、大変だったのよ」

ミツが叫んだ。窓ガラスが震えるような声だ。

「あの子は家を建てたばかりで、琉生も小学生で。私が助けなくて、誰が助けるの?」

松江が、静かに継いだ。

「それで、自分が住む家のお金がなくなった。そうよね。姉さん。1000万円を渡して、あの古い家を売っても200万にしかならなくて、それも入院代と葬式代で消えて。年金だけで1人暮らしをして、なお裕子に回そうと思ったら、どうすればいいか。松江……」

「息子の家に入るしかないの。家賃も光熱費も食費もいらない家に。そうすれば、年金は丸ごと残る」

「そんな計算してないわよ」

「してなくても、そうなったでしょう。8年で960万円」

松江は手帳を閉じた。

「裕子ちゃんのところは、1000万円入れてもなお、高幸さんのお給料だけではギリギリだったの。琉生君の塾も、部活の遠征も、全部そこから出てたのよ。私ね、姉さんが悪い人だとは思ってないの。ただ、裕子ちゃんのことになると、他のことが見えなくなる人なの。昔からそう。悟君のお父さんも生きてる時言ってたわ。『ミツは裕子には甘い。悟には厳しい。あれは治らないだろう』って」

「余計なこと」

「余計じゃないわ。姉さんの甘さの請求書が、ずっと千明さんのところに行ってたのよ」

松江は、私の方へ体を向けた。

「姉さんが、泣きながら悟君に同居を頼んだのは、49日の翌日の日曜日、5月8日よ。私、その日の日付も書いたわ」

「あの日、玄関先で、泣き腫らした目をしていたのは、本当です」

私は言った。あの言葉が全部嘘だったとは思わない。夫を亡くして、心細かったのは本当だろう。ただ、その心細さの隣に、計算があった。それだけのことだ。

裕子が、震える指でスマホを操作していた。1時間ほどして、玄関のチャイムが鳴った。木下高幸さんが、作業着のまま入ってきた。45歳。同居が始まってから、私が玄関先でしか会ったことのない人だ。

「お邪魔します。すみません、仕事の途中で。電話で妻から聞いて、家に寄ってから来ました」

高幸さんは台所の様子を見て、事情を察したらしい。鞄から茶色の封筒を出す。

「うちの住宅ローンの書類です。それと、頭金にした金が入った時の、うちの通帳も」

そこへ、サトルがミツの古い通帳をテーブルに置いた。

「母さんの部屋から、これも持ってきた。8年前の4月24日、1000万円の出金」

「同じ日、高幸さんの通帳には、同額の入金がある」

裕子が、夫を見た。

「あなた……」

高幸さんは首を振った。

「俺は、お前がそう言うから、そう思ってただけだ。うちは財布を全部、お前が持ってた。俺は自分の給料の残りしか、見てなかった。それも、俺が悪い」

高幸さんは通帳を閉じて、私に向き直った。

「有村さん、うちの通信費の話も、さっき妻から聞きました。8年で240万だとか。そうです。すみません。俺、何も知りませんでした」

裕子が、頭を下げた高幸さんの背中を引っ張った。

「やめてよ。うちが悪いみたいじゃない」

「悪いだろう」

短い一言だった。それだけで、裕子は黙った。

台所が静まった。ミツがテーブルを叩いた。

「何よ、みんなして、私を悪者にして」

声が、小さかった。年寄りの声音だった。

「私は母親よ。娘が困ってたら、助けるのが母親でしょ。嫁が姑を養うのは、当然じゃないの」

その一言が出た時、サトルが立ち上がった。

「母さん、それは違う」

「何が違うのよ」

「養う義務があるのは、俺と裕子だ。実の子だから。法律の上で、嫁に親を養う義務はない。千明さんと母さんは、他人と同じなんだよ」

「死ぬの相談で、千明が弁護士に聞いてきた話だ。俺はそれを、書き移した」

「他人?8年一緒に住んでたのに、他人ですって」

「他人だ。だから、千明がやってきたことは、義務じゃない」

サトルの声が、震えていた。

「義務じゃないことを、8年やってたんだよ。母さんは、そのことに、1度も礼を言わなかった」

ミツは口を開けたまま、息子を見ていた。

「母さんさ」サトルが続けた。「千明には、『食べさせてやってる』って言ってたんだよな」

「言ったわよ。事実でしょ」

「でも、実際は、母さんが千明に食べさせてもらってたんじゃないか」

ミツは、何も言わなかった。裕子が、母親の袖を引いた。

「お母さん、私、返すから。返せばいいんでしょ?」

「あんたに、返せるわけないでしょ」

「だから、私が……」

ミツが、娘を睨んだ。裕子が、顔を上げる。

「じゃあ、どうすればいいのよ。私、聞いてないのよ」

「いらないふりをしてたんでしょ。あんた、1度でも私に、『そのお金、どこから出てるの』って聞いた?聞いたら、お母さんが機嫌悪くなるじゃない」

「機嫌が悪くなるのが分かってたなら、知ってたのと同じでしょ」

母と娘が、8年私が住んだ家の台所で、怒鳴り合っていた。それが、答えだった。

私は封筒の束をまとめて、箱に戻した。その日は、そこまでだった。

その夜、マンスリーマンションに戻った私に、サトルから電話が来た。

「千明」

「うん」

「母さんとの同居を、終わりにする」

その電話の後、私は一晩考えた。やり直すのか。終わりにするのか。翌朝、サトルに1つだけ伝えた。

「あなたと離婚するかどうかは、まだ決められない」

「当然だと思う」

サトルは即答した。

「今すぐ許してくれとは言わない。同居のことは、俺が全部やる。私も行きます。人に任せません」

1週間後、2人で家へ行った。台所には、ミツが座っていた。喪服の時と同じ、背筋だけ真っすぐな座り方だ。

ミツが、最初に言った。

「やっと戻ってきたの」

「荷物を取りに来ただけです。それと、お話を聞きに来ました。話すのは、悟さんです」

サトルが、椅子を引いて座った。テーブルに、封筒を2つ置く。中身は前の晩に、2人で確かめた。部屋探しの間取り図と、同居を終わりにすること、その時期と費用の負担を書いた書面だ。先の見通し、費用の負担、いつまでに。弁護士に言われたこの3つを書面にした。伊藤弁護士は「感情でやると、後で必ずこじれます」と言った。

サトルが、口を開いた。

「母さん、同居は終わりにする」

ミツの顔から、表情が抜けた。

「ここから歩いて10分のところに、部屋を見つけた。1階で、6畳一間台所。家賃は5万5000円。敷金礼金、引っ越し代は、俺が出す。保証人も、俺がなる。だけど、毎月の家賃は、母さんの年金から払ってもらう」

「私の年金は、知ってる。引き落としの後で通帳に入るのは、2ヶ月で25万。月に直せば、12万5000円。家賃を引いても、手元に7万円残る」

ミツの唇が動いた。声にはならなかった。

サトルは続けた。

「それから、母さんの生活費は今月で終わりだ。カードが止まってるから、この3週間は俺が現金で渡してた。6月の年金が入っても、母さんはいつも通り、裕子に20万送った。来月からは、出さない。仕送りをやめれば、年金で足りる」

「裕子の家の4回線も、契約者を裕子に変える。母さんの印鑑と証明書がいる。本人が承知したという紙だ」

「いや……それは」

「裕子が払う」

私は、口を出した。

「お母さんがお持ちのカードは、家を出た日に止めました。来月付けで解約します」

「もう使えないのは、知ってるわよ。あの店で、どれだけ恥をかいたと思ってるの?」

サトルが言った。

「恥をかいたのは、そのカードが誰の口座から落ちてるか、母さんが8年知らなかったからだ」

サトルは封筒から、もう1枚を出した。

「これは、今言ったことを書いた紙だ。日付も入れてある。分からないところは、松江おばさんに聞いてくれ。口で言うと、後で言った言わないになる」

ミツは、紙に手を伸ばさない。サトルの声は、震えていなかった。8年前に肩に手を置いた時と、同じ声だった。

「あと、千明」サトルが、私の方を向いた。「家の頭金の600万円。ローンを引いた残りが丸ごと口座に置いてある。それで、今月中に全額戻す」

「受け取ります。元々、私のお金です」

「それともう1つ、ある」

サトルが、下を向いた。

「子供ができたら、学資にするつもりで結婚した年からかけてた保険がある。14年、解約できずに置いてあった」

「そんなもの、かけてたの?」

「言えなかったんだ。ずっと」

ミツが、急に立ち上がった。

「あんた、千明さんに吹き込まれたの?話を合わせてるんでしょ?」

「違う。俺が決めた」

「嘘おっしゃい。あんたは、そんなことを言う子じゃなかったわ。千明さんが入れ知恵したんでしょう」

「母さん」

サトルは、座ったまま母親を見上げた。

「俺は今まで、母さんに嫌われるのが怖かった。だから、千明に我慢させた。8年、ずっとだ」

「何を言ってるの?」

「もう、やめる」

ミツの目が、私へ動いた。見慣れた目つきだ。

「千明さん、あんた、随分お利口さんになったわね。私はあんたに、ご飯を食べさせてやってたのよ」

来た。私は鞄から、1枚だけ紙を出してテーブルに置いた。前の月の明細だ。

「お母さん、あの朝、ゆで卵を出しながら、『食べられるだけ感謝しろ』とおっしゃいましたね」

「言ったわよ。今でも、そう思ってるわ」

「では、聞かせてください。感謝しなければいけなかったのは、どちらでしたか?」

ミツは、答えなかった。テーブルの上の紙は1枚。96通のうちの1通で、この家の全てが説明できてしまう。

「私は、お母さんに『出ていけ』という立場ではありません。ここは、悟さんの家です。決めるのも、言うのも、サトルさんです」

「じゃあ、あんたは、何なの?」

「私は、8年分の支払いを止めた人間です。それだけです」

「支払いを止めたら、年寄りが困るとは思わなかったの?」

「思いました」

ミツが、口を開けた。私は続けた。

「思ったから、止めなかったんです。止めれば、困る人がいる。だから、私が朝ご飯を抜けばいいと思っていました。それを辞めたのが、あの朝です。私が我慢しても、この家の誰も、私の朝ご飯を用意する気はない。ゆで卵を見て、やっと分かりました」

ミツの体が、椅子の背に落ちた。それから、泣き出した。作り笑いではなかった。

「ひどいわ。親を追い出すなんて。私は、あんたを育てたのよ」

「育ててもらったことには、感謝してる」

サトルが、間取り図を母親の前に置いた。

「感謝してる。だからって、俺の妻を8年いじめていい理由にはならない」

「いじめてなんかいないわ」

「夜勤明けで寝てる人間の部屋の、ふすまのすぐ外で、掃除機をかけたよな」

ミツの、肩が止まった。

「部屋は、来週見に行こう。母さんが気に入らなければ、別のところを探す。決めるのは、母さんだ。時期は、来月の終わりまでにしたい」

「私の意見は、聞かないのね」

「聞いてる。来週も、その次の週も、付き合う。ただ、この家に戻る選択肢だけは、ない」

「私は、出ていかないよ」

ミツが、救いを求めるように言った。

「ここは、息子の家。母親が息子の家にいて、何が悪いの?」

その時、廊下から声がした。

「姉さん」

松江だった。サトルが呼んだらしい。松江は、姉の隣の椅子に座った。

「もう、やめなさい」

「松江、あんたまで」

「姉さん、部屋は、私が一緒に見に行くわ。私も1人暮らしよ。歩いて10分なら、うちからも近い。私は言うわ。姉さん、ここにいて、悟君と千明さんの顔を毎日見て、それで暮らせる?」

ミツは、口を閉じた。松江は、姉の手に自分の手を重ねた。

「私は、無理だと思う。姉さんも、無理だと思う」

台所が静かになった。ミツの背中が、ゆっくり丸くなっていった。

「……好きにしなさいよ」

それが、返事だった。

押入れのあの箱を置いていた場所には、もう何もなかった。私は寝室で、自分の服とアルバムを紙袋に詰めた。玄関を出る時、ミツが背中に言った。

「千明さん」

振り返った。

「裕子には、もう、お金を送れないのよ」

それが、この人が最後に口にした言葉だった。家でも、金でも、なかった。ミツが失ったのは、娘を助けられる立場だった。

サトルは、裕子を通信会社の店舗へ連れて行った。移行と解約の書類を先に取りに行き、3回線の契約者は裕子に変わった。自宅のインターネットだけは店舗で受けられず、切り替えに2週間かかったという。

帰り道、高幸さんから私に電話があった。

「有村さん、うちが払ってもらってた通信費のことなんですが。240万円、月々3万円ずつ返させてください。80ヶ月かかりますけど、逃げません」

「それは、あなたが決めたことですか?」

「俺が決めました」

「では、書面にしましょう。金額と回数と始める月を書いて、お互いに1枚ずつ持ちます」

「ありがとうございます」

礼を言われる筋合いはない。それでも、この一族の誰かと、まともな話ができたのは初めてだった。返済の書面に署名する時、私は名前を大きく書いた。有村千明。私の名前が、やっと紙の上で意味を持った。

サトルが区切った期限の月末には、間に合わなかった。ミツが、部屋を見に行くのを何度も断ったからだ。松江が3度付き合って、結局はサトルが最初に見つけた部屋に決まった。

5ヶ月後、ミツは歩いて10分のアパートに移った。1階の6畳一間台所。家賃は5万5000円。引っ越しの日、私は夜勤だった。家賃を引いた後に残る7万円で、ミツは食べていける。ただ、そこから娘へ回せる分は、残らない。

裕子は、引き取った4回線のうち1つを解約した。琉生君は、自分で契約したそうだ。その琉生君は、進学先が決まったら家を出るからと言って、アルバイトを始めたらしい。高幸さんからの3万円は、1度も遅れていない。あと、いくつかの回数が残っている。

ミツは、松江に週1度電話をかける。相談はいつも同じで、「裕子が来ない」「サトルが冷たい」「あの嫁のせいだ」と続く。

「あの人はね、多分、一生分からないのよ。分からない人に分からせるのは、あなたの仕事じゃないの。もう、十分やったわ」

松江の声は、怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。

裕子からは、1度だけ電話が来た。母の家賃の一部を、自分が持つという報告だけだった。私に向けた言葉は、最後まで1つもない。あの日の「来月、もう1度おっしゃってください」にも、触れなかった。触れられるはずがない。母がやっていけるかどうかを、今、毎月の負担で裕子自身が確かめている。

サトルの方は、変わった。ミツのカードを自分の名義で作り直し、光熱費も食費も通信費も、そちらへ移した。買い物も洗濯も、自分でやっている。頭金の600万円は、あの月のうちに全額が私の口座に戻ってきた。「8年分の残りから出した」とサトルは言った。

3000万円のうち、帰ってくるのは頭金の600万円と、高幸さんが返す240万円だけだ。残りを返せとは、私は言わなかった。取り返したかったのは、金ではない。私が払っていたという事実だ。それを、この一族の全員に認めさせたかった。

私は、家に戻らなかった。マンスリーマンションを出て、病院の近くのアパートを借りた。岸本さんが探してくれた部屋だ。職場は、変わらない。師長は勤務表の私の欄に、今でも赤いペンで休憩の時間を書き込む。夜勤は、月に5回に戻した。自分で希望を出した。明けの日に昼まで眠れる家があると、16時間はきちんと働ける。それを知るのに、8年かかった。

週に1度だけ、家に行く。サトルは毎回、台所を片付けて待っている。洗濯物は畳んであるし、風呂も洗ってある。それを見て「よくやってるね」という気には、まだならない。8年の遅れは、数ヶ月では埋まらない。サトルもそれを分かっているらしく、1度も「戻ってきてくれ」とは言わなくなった。

代わりに、この前こう言った。

「もう一度、千明に信用してもらえる夫になりたい」

私は湯呑みを両手で包んで、しばらく黙っていた。

「じゃあ、もう少しだけ、見てる」

それが、私の答えだった。学資にするつもりだった保険は、解約しないことにした。名義を私に移したいとサトルは言ったが、返事はしていない。あれは、2人で決めるものだ。

家を出てから8ヶ月後の朝。夜勤明けの9時、私は家の玄関を開けた。味噌汁の匂いがした。台所の食卓には、炊きたてのご飯と味噌汁と焼き魚が並んでいた。私の席の前にも、ちゃんと同じものがある。そして、皿の上にゆで卵が1つ、置いてあった。

テーブルの端に、家計のノートがあった。サトルが自分でつけている、日付と金額と何に使ったか。字は下手だが、抜けはない。私はその卵を見た。サトルが慌てた。

「いや、今回は卵だけじゃないからな。ほら、魚も味噌汁もあるだろ。卵は、おまけの気がしただけで」

私は、吹き出した。8年ぶりに、この家の台所で声を出して笑った。卵の殻は、ちゃんとむいてあった。むくのに手こったらしく、白身の表面はでこぼこしていた。

「むきにくかったでしょ。3つ、失敗した」

「茹でた後、すぐ冷やすといいよ」

「そうか。次は、そうする」

次は、そうする。サトルは言った。前のあの人なら、次がある前提で話すことはなかった。私は椅子に座って、味噌汁に口をつけた。塩加減は、ちょうど良かった。

あの日、ゆで卵1つを前にして、私は嫁をやめました。でも、本当にやめたかったのは、何をされても我慢する嫁の方だったのかもしれません。今では、夫も「母親の言うことを聞くだけの息子」をやめたようです。この家に戻るかどうかは、これから決めます。決めるのは、私です。

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