遠くで叩く音が響いた。雪まみれの女が腹を抱えたまま崩れ落ちた。その瞬間、物置きに泊まっていた行商人が声を張り上げた。「おばあさん、正気ですか?その女をかまえば、この茶屋は本当に潰れますぞ。」年老いた女将は震える手で戸を開けた。なぜ、死を覚悟してまでその女を招き入れたのか。その理由を知る者は、この村に誰一人いなかった。
昔々、山深い峠道に「峠の茶屋」と呼ばれる小さな家があった。守っているのは、お松という名の女、一人きり。年は七十。若い頃から水仕事に耐えた、荒れた手を持っていた。連れ合いは遠い昔に亡くなり、子は授からなかった。村の者たちは「卑しい種だ」とお松を粗末に扱ったが、それでもお松は、腹を空かせた旅人が訪ねてくれば、冷えた飯であっても一膳救って食べさせて送り出すのだった。
お松の心の奥には、誰にも語れない思い出があった。四十五年前、まだ二十五歳であった頃、江戸の大屋敷で、神楽家という、熱いことで知られる家柄に仕えていた。懐に抱いて幼い若様を育てたことがあった。ところがある年、連れ合いが山向こうの村で病に倒れたという知らせが届き、お松は暇を願い出た。「若様をお残しして去るのは心苦しゅうございます。されど、連れ合いを見捨てては人として道を外れましょう。」お松は奥方にそう告げて頭を下げた。若様はまだ二つであった。
あれから四十五年。お松は連れ合いを見取り、山深いこの地に流れ着いて、こうして茶屋を一軒構えた。あの屋敷を出た日を悔やんだことはなかったが、若様がどのような人生を歩まれたのか、一度で良いから見届けたい。あの御恩に少しでも報いたいという思いだけは、胸の奥でくすぶり続けていた。
そんなある晩のこと。日暮れ時に、旅の僧が一人、茶屋を訪れた。汁飯を一膳、綺麗に平らげると、僧はお松の荒れた手をじっと見つめた。「その手が、今まで多くの者を生かしてきたのです。」お松はその言葉の意味を、すぐには組み取れなかった。「尊い血筋であっても、施すことを知らねば卑しいもの。卑しい種であっても、人を生かせば尊いものなのです。」僧は夜が明ける前に姿を消していた。物置きには、古びた木魚が一つ、ぽつんと残されているだけであった。お松はそれを台所の棚に上げ、時折目にするたび、あの言葉を思い出すのだった。
秋が過ぎ、山里には早くも冬が訪れた。峠を越える風が木々を荒々しく揺らし、吹雪の激しさを増していた。そんな夜のことだった。遠くで叩く音が響いた。お松が、ちょうど行灯の油を継ぎ足していた時だった。戸を開けると、腹の大きな身重の女が、雪の中に崩れ落ちた。着物は上等なものであったが泥と雪にまみれ、草履は片方が抜けていた。顔は血の気一つなく青ざめていた。お松は慌てて女を抱え起こし、中へ運び入れた。「まあまあ、こんな寒い夜に、その身重の体で、一体どこから来られたのですか?」
ちょうど物置き部屋に泊まっていた行商人が、その光景を見て飛び上がった。「おばあさん、正気ですか?申し上げた通り、その女をかまえば、この茶屋は本当に潰れます。」「分かっております。それでも、目の前で斯様に死にそうな人を見捨てられましょうか。」お松はきっぱりと言い切り、女を奥の間に寝かせた。濡れた着物を着替えさせ、温かい粥を人さじずつ口に運んでやった。行商人は不服そうな顔で、夜明けと共に荷を背負って出て行ってしまった。
女は丸一日、床に伏せっていたが、翌日の夕方になってようやく意識を取り戻した。目を覚ますなり、両手で腹を抱えた。「子は無事でしょうか?」掠れた声で、最初に訊ねたのは、自分ではなく腹の子のことだった。「無事ですよ。心配せず、まずは気を確かにお持ちなさい。」女はそれを聞いて、ようやく安堵の息をつき、お松を見つめた。その時、女の袖の間から何か光るものが見えた。小さな飾り紐が一つ結ばれていた。お松の目がその飾り紐に留まった瞬間、老女の手がぴたりと止まった。
銀で細工された飾り紐には、梅の枝に鶯が一羽彫られていた。ただし、鶯の足元には小さな亀の刻印が一つ添えられている。それは、神楽の家において、当主の証として、家督を継ぐ者にのみ許された印であった。お松はその紋を決して忘れることができなかった。四十五年前、江戸のあの大きな屋敷で、日々目にしていた紋であった。「その飾り紐を、どこで手に入れたのですか?」お松の声が微かに震えた。女はぎょっとして、飾り紐を袖の中に隠した。「おばあ様は、この紋をご存知なのですか?」お松は答える代わりに、女の顔をじっと見つめた。気品の漂う柔らかな目元に、整った眉。ただの家柄の者ではないことは明らかであった。「もしや、神楽様のご一族の方ですか?」
女の目に見る間に涙が溢れた。声を出そうとして、一度は喉が詰まったようであった。「あの家は、半月前に取り潰されました。無実の罪を着せられて……。」「あの、篤い家柄が、一体何の罪で?」お松は信じられぬというように首を振った。「私は神楽の家の嫁で、幸野と申します。私の夫こそ、かつて若様と呼ばれた神楽の主でございます。」お松の両の目にも涙が溢れていた。「私が四十五年前、あの屋敷の乳母でありました。若様を、あの若様をこの胸に抱いて育てたのですよ。」お松は震える手で、幸野の手を握りしめた。幸野は驚いて目を見開いた。「その若様が、私の夫に当たるお方にございます。」二人はしばらく見つめ合い、手を離すことができなかった。四十五年の歳月を超えて、途切れた縁がこの深い山里で、再び繋がった。
「では、お腹のその子は……。」お松が恐る恐る訪ねた。「神楽の家に残された、たった一つの血筋です。」幸野の声には、悲壮なものが宿っていた。「無実などとんでもございません。夫は生涯、御上様に忠義を尽くしたお方です。誰かが家を丸ごと潰そうと、罠を仕掛けたのです。」「それは、一体誰だというのです。」幸野はしばらく口をつぐんだ。言うべきかどうか迷っているようであった。「奉行の、老黒田分の神様です。」震える声で、それだけを絞り出した。「あの方が夫とどのような遺恨があったのか、私にも分かりません。ただ、取り潰される数日前、夫が妙なことを申しておりました。何かを密かに持ち出し、旧宅の裏に深く埋めたと。『これは、いつか神楽の家を救う品だから、お前だけが知っておくように』と。」「それは一体何だというのです。」お松が息を殺して尋ねた。「私も、結局それが何かは聞けませんでした。ただ、埋めた場所だけを存じております。」幸野の瞳には、言い知れぬ慟哭が宿っていた。
取り潰しの沙汰があった日、黒田の手の者が、槍を携えて屋敷に踏み込んできたのだという。犬の吠える声、慌ただしい足音が一斉に上がり、文書という文書は残らず探し出され、焼き払われた。夫は詮議による逼塞を申し付けられる直前、奥座敷に妻を呼び、この飾り紐を託した。「これは我が家の血筋の証。いずれ生まれる子に、必ず持たせるように。」と言い残して。「夫はどうしたのですか?」お松が恐る恐る訪ねた。幸野はしばらく目を伏せていたが、やがて震える声で答えた。「夫は私を裏の木戸まで逃してくれました。追手が迫る中、自ら前に立ち、彼らに時間を稼いでくれたのです。あの人の最後の声を、私は今も忘れられません。」幸野は袖で口元を覆った。「『行け。あとは頼んだ』と、それだけを叫んで。私が木戸を超えた時、背後で刃の音がいたしました。あの人がどうなったのか確かめる術もなく、ただ走り続けるしかありませんでした。」
「それで、あの遠い道のりを、その体で歩いてこられたのですか?」「半月も、間道ばかりを選んで、隠れながら歩きました。倒れてはまた立ち上がって。ただ、この子を生かさねばという思いだけでした。」舅は、その飾り紐を妻の手に握らせながら、裏の木戸へと押し出した。「子が育ったら、必ず持たせるように。」そう言い残したのが、舅の最後の言葉であった。お松は言葉もなく、幸野の背中をさすった。幼い若様を背負って寝かしつけた、あの手つきそのままであった。「よく来られましたね。本当に、よく来られました。もう、私が必ず守って差し上げます。」部屋の中には、二人の女の啜り泣く声が、静かに満ちていった。
「この子だけは、活かさねばなりません。」幸野は自分の腹をそっと撫でながら、誓うように言った。「いつかこの子が育ち、家の名を汚した罪を雪がねばなりませんから。」お松は、幸野の決然とした、それでいてどこか儚げな顔を見つめながら、静かに頷いた。「案ずるでない。この命をかけてでも、母御と子を守り抜いて見せましょう。」四十五年前、あの屋敷を去った時、若様に何も返せなかったことだけが、お松の胸に長く残っていた。それを、今こそ返せることになった。
翌日からお松は、幸野を奥座敷の奥深くに隠した。もし客が来れば、「病の親戚が来て寝ている」と言い繕った。「席一つ漏れぬよう、昼間は息遣いも殺していなさい。」「はい。おばあ様、ご迷惑をおかけいたしまして、心苦しゅうございます。」幸野は頭を下げた。お松は茶屋に客が来るたびに、それとなく里の噂に耳を済ませた。すると数日のうちに、物騒な噂が峠を越えて伝わってきた。見知らぬ男たちが村を回って、身重の女を探しているらしい。懸賞金までかかったと言うではないか。その言葉を聞いたお松の心臓が、ひやりと縮んだ。しかしお松は、それでも顔色一つ変えず、戸を二重にきつく締めるだけであった。「あの者どもに、この目に土が入るまでは、決して渡すものか。」お松は闇の中で低く呟いた。
数日後、来るべきものが来た。日暮れ時、馬の蹄の音が峠道を伝って、苛立たしげに近づいてきた。黒装束の男たちが四、五人、茶屋の庭に立った。先頭に立つ者は、腰に刀を差した目つきの鋭い男であった。「この家に、身重の女が入ったという知らせがある。どこにいる?」男はずかずかと縁側に上がり込み、大声で戸を叩いた。お松は胸が縮み上がったが、表向きは平然と、前掛けに手を拭った。「女とおっしゃっても、こんな山奥の茶屋に、どのような女が来るというのです。」「嘘をつけば、この年寄りの命が無事では済まぬぞ。家を隅々まで探せ。」下の者たちがどっと散らばり、部屋の戸を次々と荒々しく開け放った。その瞬間、お松の背筋を冷や汗が伝った。幸野は、まさにその夜明けに物置きへ移したばかりであった。しかしそこは狭く、少し探せばすぐに見つかりそうな場所であった。お松は落ち着き払って、男の前に立ち塞がった。「その物置きは、数日前から鼠が湧いておりまして、疫病鼠が大勢おります。近づかれては、ご無理が生じますぞ。」男は眉を潜めて、しばし躊躇した。ちょうど下の者が物置きの戸を開けかけて、思わず鼻をつまんで後ずさりした。お松があらかじめ腐った魚の頭を山ほど投げ込んでおいたおかげで、ひどい悪臭が鼻を突き、誰も進んで中に入ろうとしなかった。しばらく探し回ったが、女の痕跡はどこにも見当たらなかった。
「年寄りをよく聞け。もし隠していたことが露見すれば、お前はもちろん、この村ごと丸ごと焼き払うことになるぞ。」男はお松の胸元にまで刀を突きつけた。「この年寄りが、何のためにそのような真似をいたしましょう。死ぬ日を待つばかりの身でございますよ。」お松は震える心を必死に押さえながら、穏やかに男に酒を一杯勧めた。男は仕方なさそうな顔をしながらも盃を受け、下の者たちを引き連れて馬に乗った。男たちが去っていくと、お松はそこでようやく力が抜けて、座り込んだ。全身が冷や汗でびっしょり濡れていた。物置きに駆け込んでみると、幸野は藁の山の中で、口を固く抑えたまま震えていた。「無事ですか?怪我はありませんか?」「はい。おばあ様のおかげで。」その時、幸野の顔が急に苦痛に歪んだ。「おばあ様、どうやら子が生まれそうです。」よりによって、その危うい夜に生まれてきてしまった。お松は慌てて幸野を奥座敷に運び、湯を沸かした。「気をしっかり持ちなさい。私が取り上げた子は、一人や二人ではありませんよ。」お松は袖をまくり上げて、幸野の手をしっかりと握った。夜が明けるまで、幸野は歯を食いしばりながら長い陣痛に耐えた。外にはまた雪が舞い始めていた。そして夜明けの鶏が鳴く頃、赤子の産声が上がった。力強い男の子の鳴き声が、がらんとした茶屋を満たした。お松は生まれたばかりの子を受け取り、そのまま手を震わせた。四十五年前、神楽の若様を抱き上げたあの手で、今また新たな血筋を抱き上げた。
「この子の名は、おばあ様がつけてくださいませ。尊いお血筋なのに、おばあ様が救ってくださった命です。おばあ様がおつけにならなければ。」お松はしばらく考えてから、口を開いた。「この子は、険しい道の途中で授かったと申すならば、道之助と呼びましょう。」幸野はその名を何度も口の中で繰り返しながら頷いた。穢れのなかった顔に、ようやく淡い笑みが浮かんだ。「良いお名前です。道之助。我が道之助。」幸野は眠る子の頬をそっと撫でた。お松もその傍らで一緒に子を見つめながら、指先で目元をそっと拭った。
数日後、行商人が再び茶屋に立ち寄った。「麓の里の吉兵衛のところが、無残者の骸を隠したとかで捕らえられたそうな。一家残らず牢に入れられたと聞きますよ。」それを聞いた幸野は、陽が良くなり次第、子を連れて立つと言い出した。しかしお松がその前に立ち塞がった。「この寒空に、生まれたばかりの子を連れて行くというのですか。年寄りの命一つが、赤子一つに及ばぬわけがありましょうか。」その夜、お松は行灯の前に一人座り、長らく思案に暮れた。震える自分の手をじっと見つめながら、若様に何も返せぬまま屋敷を去ったあの日のことを思い返した。あの時は、連れ合いを見捨てるわけにいかず、已むを得ぬ道であった。悔いはない。ただ、あの御恩に報いる機会をずっと待ち望んでいたのだと、お松は己れに言い聞かせた。今度もまた背を向けたなら、この機会を永遠に失うことになる。
翌朝、お松は幸野の前に静かに座った。「幸野、今日から、お前は私の嫁。道之助は、私の孫です。この茶屋に腰を据えて、私と一緒に暮らしなさい。」「おばあ様、それでもし、露見すれば……。」「もし露見すれば、私が一切を引き受けたということにすれば良い。もう揺らぐでない。」お松は幸野の手を握り、釘を刺すように言った。幸野はついにこらえていた涙をどっと流し、お松の膝に顔を伏せた。「この御恩を、どう返せば良いものか。」「返すというのは、お前たちが達者に暮らすこと。それこそが、私への恩返しです。」
その頃江戸では、黒田分の神が、なおも手の者から報告を受けていた。「神楽の家の始末をつけてより、一月近く。逃げた嫁の行方は、まだ知れぬか。」もし幸野が生きていれば、すでに子を産んでいる頃であろうと、黒田は苛立ちを募らせていた。「女一人の足では、遠くまでは行けまい。必ずどこかに潜んでおるはずだ。徹底して探せ。」手の者たちはなおも山道筋の宿場を、潰しに潰し探り続けた。さらに半年ほどが過ぎた頃、一人の手の者が知らせを携えて戻ってきた。「ある川の谷底で、女物の着物の切れ端と、産着とおぼしき布が見つかりました。」人骨は分からなかったが、道筋と時期からして、逃げた嫁であろうと手の者は判断した。黒田はその報告を頼りにするしかなかった。確かめる術もないまま、女も崖から転落して命を落としたのだろうと結論付け、探索の手を緩めた。それから十五年、黒田はその件を忘れたわけではなかったが、もはや過ぎ去った話として胸の奥底にしまい込んでいたのである。あの報告が、確かな証もないまま拾い集められた噂話に過ぎなかったとは、黒田自身知るよしもなかった。
道之助が三つになった春のこと。茶屋に一人の薬医者が訪れた。尊敬という名の、白髪の髭を蓄えた老人であった。「近頃、この峠の下に小さな薬草屋を構え、そこを仮の宿として、近隣の村を回りながら病人を見て歩いております。一晩泊めていただけませんかな?薬草代の代わりに、病いを見て差し上げましょう。」「病いでしたら、ちょうど良いところにいらっしゃいました。」お松は尊敬を奥座敷に通した。幸野は、産後なかなか元気を取り戻せずにいたのだ。尊敬は幸野の脈を見ると、静かに首を横に振った。「長らく無理をなさいましたな。心をひどく痛めておられる。」尊敬は、幸野の面差しにどこか見覚えがあるような気がしないでもなかった。しかし尊敬が神楽に出入りしていた頃、若様の嫁として奥向きに迎えられたばかりの幸野を、遠くから一度見かけた切りであった。しかも幸野はここでは身元を明かさぬまま、「雪」と名乗るのみで、神楽の家のことは決して口にしなかった。長い逃亡生活と過酷な出産でやつれた顔立ちは、あの日の華やかな花嫁姿とはまるで似ても似つかなかった。尊敬はそれと気づかぬまま、ただ哀れな母子を放っておけぬ性分ゆえ、その日から行き来に下駄を突っかけて峠を登り、薬草を取っては自らの手で薬を煎じた。「薬草代はよろしい。温かい汁飯一膳で足ります。」
それから四年ほど、尊敬は折に触れて峠を訪れては、幼い道之助をことのほか可愛がった。膝に乗せて、手習いの手本を読み聞かせながら、根気よく教えてやった。すると道之助は普通の子供ではなかった。一度聞いたことを、決して忘れることがなかった。ある日、道之助が尊敬に訪ねた。「お医者様、うちのおばあ様は、なぜいつも自分の手を『卑しい手』と言うのですか?」尊敬は道之助の小さな手を、自分の手の上にそっと乗せた。「道之助や、人の手には元より貴賤などないのだ。人を傷つける手が卑しい種で、人を生かす手が尊いのだよ。お前のおばあ様の手は、これまで大勢の人を食べさせ、生かしてきた手だ。」「では、うちのおばあ様の手が一番尊いですね。」「そうとも。世の中で一番尊いとも。」遠くでその言葉を聞いていたお松の目元が、じんわりとうるんだ。
歳月は流れ、道之助は五つになった。しかし、幸野の病は日ごとに深まっていった。尊敬の薬でも、もはや食い止めることができなかった。ある晩のこと。幸野は道之助とお松を枕元に呼んだ。「おばあ様、私はどうやら、長い夜を越えられそうにありません。」「そんなことを言うでない。薬を尽くせば、まだ……。」「いいえ。もう、夫の元へ参ろうと思います。」幸野の声は、消えかかる灯の火のように細かった。震える手で、着物の飾り紐を解いた。梅の枝に鶯が一羽彫られ、亀の刻印が添えられた、あの銀の飾り紐であった。「道之助、これは我が家の証。ようく覚えておれ。」幸野は五つの道之助の手に、飾り紐を握らせた。「この文様の元となった庭がございます。神楽の裏には、古い松の木が三本並んで立つ場所です。日の登る方、東を向いて立つ木でした。いつかこの飾り紐が、お前を本来の場所へ連れて行ってくれることでしょう。」幸野は最後の力を振り絞って、道之助を胸に抱いた。それから、馴染み深い声で小歌を歌い始めた。道之助が赤子の頃から毎日聞かされてきた、あの小歌であった。「年月や我が子よ 山を越え 川を超え 月影に埋めた宝を 松の根が守るとや 旧宅の松林 東の方」そして、小歌の全てが道之助の幼い胸に、絵のように刻み込まれていった。小歌が終わりかけた頃、幸野の手から、すっと力が抜けた。「道之助、どうかおばあ様を大切に。」それが最後の言葉であった。幸野は目を閉じた。お松は冷たくなっていく幸野の手を握りしめ、肩を震わせた。五つの道之助は、母がただ眠っているものとばかり思っていた。「母様、母様、起きて、小歌をまた歌って。」哀れな叫び声に、尊敬もまた顔を伏せた。
お松は幸野を茶屋の裏手の、日当たりの良い丘に葬った。墓の前には小さな野花の束を備えた。「安らかに行きなさい。道之助は、私が命がけで育てます。」その日以来、お松は道之助を、孫であり我が子であるかのように抱きしめて育てた。道之助は物心つくに連れ、しばしば母の墓を訪ねるようになった。花を積んでは備え、母が歌ってくれた小歌を静かに口ずさんだ。意味は分からなかったが、その節回しだけは胸にしっかりと刻まれていた。「おばあ様、母様はどんな人だったのですか?」「実に清らかで、心の強い方でした。お前を生かすために、あの遠い道のりを歩いて来られたのですよ。」お松は道之助の頭を撫でながら答えた。母の小歌は、そうして道之助の心の中で生き続けていた。
道之助が七つになった時、尊敬は薬草屋を残したまま旅に出た。四年に渡り続けた峠の茶屋を離れ、諸国を巡る暮らしに戻るのだという。「あの子は、普通の子ではございません。いつかその才で、誰かの無実を晴らす日が来るやもしれません。その日のために、諸国を巡りながら、わしも学び直してまいりましょう。この小屋は、また戻ってくるまでそのままにしておきましょう。」そう言って、尊敬は道之助の頭を撫でた。「お医者様、必ずまた来てくださいね。」「ああ。もちろんとも。この老いぼれが、お前の立派になった姿を見に来よう。」尊敬は道之助の手に薬草を一つ握らせ、峠を越えていった。茶屋にはまた、お松と道之助の二人だけが残された。
道之助はすくすくと育っていった。しかし、「卑しい茶屋の子」と言われて、村ではいつも見下されていた。近所の子供たちは道之助を仲間に入れず、石を投げつけることさえあった。「卑しい子の分際で、何が学問だ?」そう言われるたびに、道之助は拳を握りしめた。しかしお松の顔を思い浮かべると、いつも心を落ち着けた。ある日、道之助が泥だらけで帰ってきた。お松は胸が痛んだが、努めて平静な顔をした。「また、喧嘩したのかい。」「いいえ。転びました。」道之助は、結局叩かれたことを口にしなかった。おばあ様が気を揉むだろうと思ったからである。「おばあ様、私大きくなったら、おばあ様を楽させてあげます。」「そうか。お前が健やかであれば、私はそれで十分だ。」お松は道之助を抱き寄せ、その背中を撫でた。四十五年前、若様をおぶって寝かしつけた、あの手つきそのままであった。
十歳を過ぎる頃には、道之助はすでに村の書き物や読み書きを頼まれるほどになっていた。十二の年の与兵衛が、証文を書き損じて困り果てていた。借りた金は五両であったのに、証文には五十両と記されていた。「ここをご覧なさい。五の字の上に、誰かが点を一つ足して、五十に書き換えたのです。墨の色が違います。」道之助は二つの文字の墨の色の違いを、はっきりと指し示した。与兵衛はその証文を持って役所に訴え、無実を晴らすことができた。村人たちの口に道之助の名が上るようになったが、お松はそれが手放しに喜ばしいことではなかった。「あまり、上に立つでないよ。」「おばあ様、困っている人を見過ごすことはできないでしょう。」道之助の賢明さは、一層広く行き渡るようになった。
ある日、江戸へ向かう旅の武家が一人、茶屋に立ち寄った。彼は物置き部屋で一晩明かし、夜明けと共に旅立っていった。ところがしばらくして、その従者が困惑した顔で戻ってきた。「妙なことだ。懐に入れていたはずの巾着が見当たらぬ。宿賃のあまりを入れておいたのだが。」道之助が落ち着いて部屋の隅を調べると、床の隙間に小さな引っかき跡が残っているのに気づいた。布の切れ端も、隙間の縁にわずかに落ちている。「これは鼠の仕業でしょう。巾着に入っていた物の匂いに誘われて、隙間から引きずり込んだのだと思います。」隙間の奥を探ってみると、果たしてそこに巾着が落ちていた。中の銭は、そっくりそのまま残っていた。「大した子だ。名は何と言う?」「道之助と申します。」「江戸に戻ったら、このことを語り継ぐとしよう。」武家はそう言い残し、去って行った。
道之助が十四になった年、秋のこと。七年ぶりに、尊敬が峠を越えて茶屋を訪れた。「お医者様!」道之助は素足で駆け出して、尊敬を迎えた。「はっはっ。あの糞垂れが、こんなに立派な若者になったものだ。学問は怠らなかったか?」「もちろんです。おじい様がくださった書物は、全て読み尽くしてしまいました。」尊敬はその冬、峠を降りずに薬草屋に泊まることにした。近隣の村で流行病が広がっており、冬の間、病人を見て回るつもりだという。道之助と夜遅くまで語り合う日々が、また戻ってきた。道之助の学識と人柄を見て、尊敬は内心大いに驚いていた。これほどの器量がこの山里に埋もれているとは、誠に惜しいことだと思ったが、その言葉はあえて口には出さなかった。「道之助や、いつかその学識で、無実の罪を晴らす日が来よう。その日のために、磨いておくのだぞ。」道之助は、その時はまだその言葉の意味を十分に組み取れなかった。しかし、なぜか胸の奥深くに刻まれる言葉であった。
明くる年の春。道之助は十五になった。村に慶事があった。新しく赴任した大官が、鎮守の社の春祭りに合わせて、自分の会を開くという触れを出したのである。寺子屋に通っていない道之助は、腕試しも兼ねた用事であったが、大官は兼ねてより道之助の評判を耳にしており、各別の計らいとして末席での参加を許した。「道之助、お前こそ、挑んで見るべきではないか。」「私のような茶屋の子が、まさか……。」「大官様が、特にお許しくださったと言うではないか。一つ、腕前を見せてみよう。」道之助はしばらく迷った末、お松に相談した。「おばあ様、私、その会に出てみても良いでしょうか?」お松はしばらくためらった。下手に目立てばどうなるかという不安があったからである。あの飾り紐のこと、幸野のこと。決して目立ってはならぬという、長年の戒めが胸の奥で騒いだ。しかし、孫の輝く眼差しを見ると、とても止める気にはなれなかった。「よし、一度出てみなさい。お前の才を世に示すのも、良いだろう。」
当日、道之助は綺麗に洗った木綿の着物を着て、社の前へと向かった。寺子屋の子弟たちが、道之助を見て嘲笑った。「茶屋の子が、ここまで来たぞ。字が書けるつもりか。」しかし道之助は気にせず、末席に座った。やがて大官が題を掲げた。「民を納める根本を論ぜよ。」道之助は目を閉じ、しばし思いに沈んだ。すると不思議な日の、尊敬の言葉が思い浮かんだ。「人を生かす手が尊いのだ」と。道之助は筆を取り、迷いなく書き進めた。「納めることの根本は、法に非ず、民を生かす人の心に在り。」と。筆を置いた道之助は、真っ先にそれを提出して、席を立った。数日後、村にまた触れが出された。「この度の会、参加者第一等に選ばれたのは、峠の茶屋の道之助である。」村中が大騒ぎになった。「あの茶屋の子が、寺子屋の子弟たちを差し置いて、一等だとは。」大官は道之助を自らに呼び、その才を大いに称えた。「文を見るに、年に似合わず見識が深い。どこで学んだのか。」「薬医者の尊敬先生に教わりました。」大官は道之助に、木綿一反と筆とを褒美として下賜した。道之助がそれを持って帰ってくると、お松は声をつまらせた。「うちの道之助が一等とは。私は死んでも思い残すことはないよ。」「おばあ様、皆、おばあ様が育ててくださったおかげです。」その夜、茶屋には祝いの宴が設けられ、村人たちが一人、二人と集まり、道之助を祝ってくれた。長い下積みの中で、ようやく日の目を見たかのような、この上なく嬉しい夜であった。
しかし、喜びの後には、必ず影がついて回るものである。その喜ばしい知らせは、風に乗って峠を越え、また越え、江戸にまで届いてしまった。峠の茶屋の子が、寺子屋の子弟たちを差し置いて、自分の会で一等になったという噂が、よりによって老黒田分の神の耳にまで流れ着いた。黒田はその知らせを聞いて、しばらく顎を撫でた。「峠の茶屋とな。どこかで聞いたことのある地名だな。十五年前に取り潰した神楽家の嫁が姿を消した方角が、まさにその方角であったな。」「いや、待て。あの嫁は谷底で命を落としたと聞いたはずだ。」黒田はふと引っかかりを覚えた。あの時の報告は、確かな証拠を確かめたわけではなく、着物の切れ端と噂話を寄せ集めただけのものであった。十五年もの間、それを頼りにしていた己の迂闊さに、今更ながら思い至った。「もしや、あの報告自体が、いい加減な出任せであったのではないか。まさか、あの時のあの血筋が……。」
黒田は手の者に密かに命じ、峠の茶屋を探らせた。送り込まれた者は、行商人を装って数日茶屋に泊まりながら、それとなく村の年寄りたちに水を向けた。「あの茶屋のお孫さん、どこから流れてきた血筋なのか、ご存知の方はおられますかな?」「さあ。あの頃、逃げてきた身重の女が一人いたという噂もあったが……。」密偵の目が、鋭く光った。ばらばらだった話が、一つに繋がっていくようであった。道之助の年齢、女がやってきた時期。その全てが符合していた。密偵は道之助の年齢と、生まれつきの顔立ちを細かに記憶しておいた。一定の報告を受けた黒田の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。「年を数えてみれば、ぴったり合うな。あの血筋に違いない。もしや、茶屋の子でございますか。」「放っておいても構わぬのでは。」「愚かなことを申すな。害になる種は、小さいうちに消すものだ。十五年前、危うく逃すところであったのだぞ。今度こそ、確かめねばならぬ。」
黒田は十五年前のあの日を思い出していた。神楽家の当主が握っていた不正の証を、いずれ暴かれるのではという恐れが、あの頃からずっと黒田の胸の底に澱んでいたのである。「手の者を放て。大官所にも手を回し、無残者の残党を隠した疑いありとして、あの茶屋を調べ上げよう。」こうして、黒田の陰謀が本格的に動き始めた。彼はまず峠の里に人を放ち、物騒な噂を流させた。「あの茶屋の子が、実は無残者の血筋らしい。」「同じ頃に、詮議の触れが出るそうだ。」噂を聞きつけたある日、道之助はいつものように与兵衛の店へ、頼まれていた証文の下書きを届けに行った。しかし、与兵衛は道之助の顔を見るなり、目をそらして奥へ引っ込んでしまった。「与兵衛さん。」道之助が声をかけても、返事はなかった。しばらくして店先に姿を現した与兵衛は、米を売ってくれとの頼みにも、首を横に振るばかりであった。「米は今日はもう仕入れが切れた。」店先には米俵が積まれているのが見えていた。道之助は何も言わず、頭を下げて店を出た。かつて証文の件で、何度も礼を言われた相手であった。噂は、炎のように広がっていった。つい先日まで、自分の会の栄誉を祝ってくれた村人たちが、一人、二人と道之助に背を向け始めた。黒田はまた、大官所に密かに圧力をかけた。「峠の茶屋の子の来歴が怪しい。神楽の残党を隠している疑いがある。直ちに召し取れ。」大官はその圧力に抗えず、取り方に出動を命じた。表向きは「取り潰しとなった無残者の一族の残党を探索」ということにされていた。
そして、ある夜明け前。提灯を掲げた取り方たちが、峠の茶屋を取り囲んだ。「無残者の残党を隠した罪人は、大人しくお縄につけい。」慌ただしい足音に、お松と道之助は眠りから覚めた。「早く、飾り紐を身につけなさい。それだけは、絶対に奪われてはならぬ。」お松は道之助の手を引き、裏の勝手口から外へと押し出した。「この道をまっすぐ下れば、尊敬様の薬草屋に出ます。決して振り返らず、走りなさい。」この道は、お松が来る前から、いざという時のためにと密かに踏み固めておいたものであった。尊敬がまだ小屋に留まっていることを、お松は数日前の見舞いで確かめていたのである。「おばあ様も、一緒に……。」「年寄りが逃げ出せば、すぐに手がかかる。ここで取り方の目を引きつけておかねば、お前まで見つかってしまう。行きなさい。」お松は道之助を突き離すように送り出すと、自ら表口へと歩み出て、取り方の前に立ち塞がった。わざと大きな声を出し、こちらに人の目を集めるためであった。「この老いた女将が、無残者の血筋を隠して育てたそうです。この年寄りが罪を犯したのです。孫は、元より私が拾って育てた子。この家のどこにもおりません。」取り方たちが道之助の姿を探して厳しく命じたが、すでに少年の姿はどこにもなかった。山道を駆ける道之助の背中を、誰一人見止める者はいなかった。お松は取り方に引き立てられながらも、道之助が去った方角とは逆を、じっと見やり続けた。「この老い耄れの地一つで、ことは済むはず。子は、どうか、どうか見逃してくださいませ。」取り方たちはお松を引き立てた後、茶屋に火を放った。神楽の血を引く者を隠していた証も、残された文書も、一切を灰にしておけとの黒田の命であった。ぱちぱちと炎が音を立て、瞬く間に屋根を飲み込んでいった。山道を駆けていた道之助は、峠を振り返り、燃え上がる茶屋を目に焼きつけた。母を葬った丘も、祖母と暮らした部屋も、全てが炎に包まれていった。手の中には、母の形見の飾り紐一つだけが握られていた。十五歳の少年が背負うには、あまりにも過酷な夜であった。
道之助は夜が明けきらぬうちに、峠下の尊敬の薬草屋に転がり込んだ。息を切らし、涙も枯れ果てた様子の道之助を見て、尊敬の顔が強張った。「おばあ様が、おばあ様が囚われました。無残者の血筋を隠したと言われて、茶屋も焼かれてしまいました。」「無残者の血筋とな。道之助、その飾り紐を、少し見せてくれるか?」道之助が懐から飾り紐を取り出すと、尊敬の手が震え始めた。「これは、神楽の家の証ではないか。この亀の刻印は、確か当主の証であったはず。」「おじい様は、この紋様をご存知なのですか?」尊敬はしばらく飾り紐を見つめていたが、やがて悔しさを滲ませた。「わしは若い頃、神楽の家に出入りしていた医者であった。十五年前、あの家が取り潰しになる直前まで、度々呼ばれて屋敷に上がったものだ。まさか、お前があの家の筋であったとは。」尊敬は道之助の手を握った。「思えば、お前の母御の面差しにも、どこか見覚えがある心地がしておった。しかし確かめる術もなく、口にすることもできなんだ。今になってみれば、もっと早くに気づき、お前たちを守る力を付けてやれなんだが、悔しくてならぬ。」道之助はしばらく声もなく、尊敬の胸に顔を埋めていた。焼け落ちた家、祖母、そして今明かされた己の血筋。あまりにも多くのことが一度に押し寄せ、道之助はただ震えるしかなかった。やがて顔を上げると、母の小歌を一言一言口ずさんだ。「月影に埋めた宝を、松の根が守るとや。」「母は亡くなる前、この歌と共に、神楽の旧宅の裏には松の木が三本並んで立つ場所、日の登る東の方角を、はっきりと教えてくれました。」「その場所なら、わしも知っておる。神楽の旧宅の裏庭に、確かに老松が三本並んで立つ場所があった。」尊敬は膝を打った。二人はその足で、神楽家の旧邸を訪ねることにした。しかし、旧宅の周辺にはすでに、黒田の息のかかった者たちの見張りが立っていた。二人は装いを改め、夜更けに人目を避けて忍び込んだ。崩れた塀を越えると、果たして松の木が三本並んで立っていた。満月の夜。二人は交代で土を掘り返した。石にぶつかっては手を止め、遠くの犬の遠吠えに息を潜めては、また掘り進めた。半時ほども掘り下げた頃、鍬の先が硬いものに触れた。慎重に土を払っていくと、固く焼き締められた壺が一つ現れた。壺の口は蝋でしっかりと封じられ、中には油紙に幾重にも包まれた漆塗りの小箱が納められていた。小箱を開けると、さらに油紙に包まれた一通の証文が、湿気一つ受けぬまま収められていた。
「見つかった。これが、まさにそれだったのか。」尊敬がその証文を開いてみると、思わず手が震えた。日付ごとに、納められた品目と数。脇に添えられた、入り用の記録。そして、書き写された奉行の沙汰の写しのようなものであった。「これは、お前の祖父に当たる神楽の当主が、黒田の不正を密かに書き止めておいたものらしい。しかし、これだけではまだ黒田を追及する証にはならぬ。この証文が示す先を、実際に辿らねばならぬ。」「示す先と申しますと?」「この証文に記された品が、いつ、どこへ運ばれたか。それを裏付ける、本物の証を探し当てねばならぬということだ。」十数年、埋もれていた真実の糸口が、月光の下でついに見つかった瞬間であった。「母様、必ず糸口を見つけましたよ。もう、ご無念を晴らして差し上げます。」道之助は証文を胸に抱きしめた。しかし、尊敬は慎重であった。「道之助、おばあ様のことも急がねばならぬ。詮議は待ってはくれぬ。そう長くは持たぬと聞く。裁きが終われば、そのまま罪が定められてしまうと聞く。」「急ぎましょう。あと二十日。いや、それより早く手を打たねば。」道之助は拳を握った。母の墓の前で誓った言葉が、耳の奥に蘇った。
一方、その頃江戸へと引き立てられたお松は、冷え切った牢に閉じ込められていた。筵一枚の上に座らされ、朝な夕なに冷えた粥が運ばれてくるだけの、光の乏しい日々であった。牢役人の話では、裁きは二十日を目途に打ち切られ、その後は島流しか、さらに重い目を受けることになるという。取り方たちは、日に何度もお松を引き出しては、厳しく詮議した。「その子はどこへ隠した?正直に申せ。」「知らぬ。あの子は、ただ私の孫だ。」「この年寄りが、まだ口を割らぬか。もう一度問いただせ。」老婆の体に、幾度も厳しい拷問が加えられた。しかし、お松は道之助の行方を決して口にしなかった。「この年寄りの命一つ、どうにでもするが良い。」血の滲む唇でも、お松は道之助の行方だけは決して漏らさなかった。床に倒れ伏したお松は、道之助を思い浮かべながらそっと目を閉じた。「道之助や、どうか生き延びておれ。この年寄りの心配はせずに。」
道之助と尊敬は、証言してくれる者を探し始めた。手がかりは、あの茶屋に泊まり込んでいた密偵一人だけであった。道之助はその男の姿を鮮明に覚えていた。右の手首に古い火傷の跡があり、いつも独特の匂いのする膏薬を持ち歩いていたこと。「あの匂いは、確か伊吹山の艾を使った膏薬だ。」「あの手の傷を見た覚えがある。」尊敬が思い出した。道中で薬を売る者に、その膏薬の出処を尋ねて回ると、江戸の一角に、右手に火傷のある客が足しげく買い求めに来る店があるという話が拾えた。二人が早速その店を訪ねると、主人は顔を強張らせ、そのような客は存じませんと固く口を閉ざした。近頃、別の侍風の男たちも同じことを尋ねに来たという。おそらくは、黒田の手の者がすでに先回りしていたのであろう。店先で途方に暮れていると、店の小僧がそっと耳打ちしてくれた。「あの客なら、一月ほど前に住まいを変えたと聞いたことがあります。」手がかりを頼りに裏長屋を訪ねると、果たして目当ての部屋は、もぬけの殻であった。近所の女房に尋ねてみると、「夜逃げ同然に姿を消した」という。日々ばかりが過ぎていく。おばあ様の裁きの期限までもう幾ばくもない。道之助は焦りを募らせながらも、諦めなかった。さらに数日を費やして裏路地を辿り、ようやく古びた長屋の裏に隠れ潜んでいた男を見つけ出した。「もう長くはないな。黒田様は口封じのため、わしを切るおつもりだ。」生気のない顔で辺りを窺いながら、男は観念したように呟いた。ちょうどその時、路地の奥に、黒田の手先とおぼしき侍の姿が現れた。密偵の命を狙う刺客であった。道之助はとっさに表の行灯を蹴り倒し、大きな音を立てて注意を引きつけた。その隙に尊敬が密偵を裏道から連れ出し、三人は街外れの古寺へと逃げ込んだ。「なぜ、わしを助ける?わしは、お前たちを売る側の者であったのに。」「あなたが知る真実がなければ、祖母は救われません。どうか、力を貸してください。」道之助が手を差し伸べると、密偵はしばらくためらってから、その手を握った。「うむ。どうせ、黒田様に切り捨てられる命だ。ならば、真実だけでも明かして死のう。」密偵は懐から、油紙に包んだ一通の証文を取り出した。「これを、ずっと肌身離さず持っておりました。」それは、黒田が神楽家の探索を命じた折、密偵に手渡された密命書であった。「いつか殿に見捨てられる日が来るやもしれぬと思い、我が身を守る証として、決して手放さずに参りました。」命を懸けた密命書一枚が、己の命をつなぐ最後の綱であったのである。
心強い証人まで得た二人であったが、密偵はさらにもう一つ、思い出したように口を開いた。「証は、それだけではござらぬ。没収された品々は、皆舟で運ばれ、江戸の海産問屋を通って、黒田様のお屋敷へ納められておった。あの問屋なら、受け取りの控えを今も持っているはずだ。それこそが、証文に記された品の行き先を裏付ける、本物の証となろう。」その問屋を訪ねてみると、番頭は初めのうちこそ関わりを恐れて口を濁していた。しかし、密偵がことの次第を明かし、いずれ詮議の沙汰が下ることになると告げると、番頭の顔色が変わった。「正直に申せば、後ろめたいとは知りつつ、断れば何をされるか分からぬと思い、黙って引き受けておりました。控えは、今も蔵の帳面に残してございます。」番頭が差し出したのは、品の受け取りの日付と品目、数量、運び先を記した控えの写しであった。尊敬がそれを確かめると、道之助が神楽の旧宅から掘り出した証文の記載と、日付も品目も数量も、全て一致した。「これで、黒田様が申し開きできぬ証が、また一つ揃いました。神楽の当主は、この控えを白を暴くための道としたわけだ。」尊敬は控えを大切に懐にしまった。「あと一つ、上訴状を正しく取り継いでくれる者が居れば。」尊敬はふと、かつて茶屋に立ち寄ったあの旅の武家のことを思い出した。「道之助、覚えておるか?巾着の一件で助けた、あの武家のこと。名を尋ねられ、『いずれこの恩を忘れぬ』とおっしゃっておられた。」尋ね当ててみると、その武家は大目付配下の勝手掛を務める者であった。事情を聞いた勝手掛は、かつての恩を思い出し、目を見開いた。「あの時の茶屋の子か。持つべきは、義理であるな。日が少ないと申すなら、急ぎ、大目付様にお取り継ぎ申そう。」勝手掛は、証文と飾り紐、密偵の証言書、そして海産問屋の受け取り控えを携え、大目付の目通りを取り継いでくれた。
数日のうちに、お調べの沙汰が下り、道之助と尊敬、そして密偵は詮議所へと呼び出された。お松の裁きの期限を、わずかに残しての呼び出しであった。畳が敷かれた広間に座らされると、道之助の心臓は早鐘のように打った。上座には老中が並び、その中には、黒田分の神の姿もあった。「無礼者!分際をわきまえぬか。無残者の子が、何を申すか。」黒田が道之助を睨みつけながら怒鳴りつけた。「私は、卑しい者ではございません。神楽の家の当主、神楽道之助にございます。」道之助は少しも怯むことなく、はっきりと申し上げた。その名に、老中の眉が動いた。黒田の顔が、一瞬にして青ざめた。「戯けごとを申すな。神楽の家は、無残の罪でとっくに取り潰しになっておるわ。」「無残ではございません。取り潰しは、この黒田分の神が仕組んだ罠にございます。」道之助は懐から飾り紐を取り出し、高く掲げた。「これが、神楽の家の証にございます。鶯の足元の亀の刻印は、当主のみに許されたもの。私は、その家の最後の血筋にございます。」傍らにいた尊敬が進み出た。「私は、神楽の家に出入りしていた医者にございます。この飾り紐の紋様と、当主のみに許された刻印を、確かに存じております。この子の年頃も、幸野が姿を消された時期と、符合いたします。」老中が飾り紐を見分した。「まさしく、神楽家の家紋。それに、当主の刻印に違いないな。されど、飾り紐一つ、証言一つで、いかに取り潰しを覆すと申すのか。」黒田は慌てて声を張り上げた。道之助は、油紙に包まれた証文を取り出した。「されば、これをご覧くださいませ。これは、神楽の当主が密かに書き残された記録にございます。この証文に記された品の行き先を、私どもはさらに確かめてまいりました。証文が示す先を追いましたところ、江戸の海産問屋に辿り着きましてございます。」番頭が進み出て、懐から受け取り控えを取り出した。「これは、黒田様のお屋敷に品を運び入れた、海産問屋の受け取り控えにございます。没収された穀物や品々が、いつ、どれほどの量、お屋敷の倉に運び込まれたか、日付と品目、数量がこちらの証文と一致しております。」「う、嘘だ。そのような控え、本家は存じ上げぬ。」黒田分の神は飛び上がって、白を切った。老中が控えを見分した。「何と、そのようなものを……。」黒田の顔から、血の気が引いていく。それでも黒田は、言い逃れを重ねた。「証人など、当てにはなるまい。」そうが静かに口を開いた。「ならば、勝手掛の役人にお確かめくださいませ。黒田様のお屋敷の倉には、この記録と符合する品々が納められているはずにございます。」老中が即座に、黒田の屋敷と倉を改めるよう命じた。密偵が進み出た。「私が、全て申し上げます。黒田様のご命令を受けて、神楽の一族を追っておりました。これなるは、どのような折にも、時々に賜わった密命書にございます。」密偵が懐から取り出した証文には、黒田の花押と共に、神楽家探索の命が記されていた。さらに、老中はあの夜、峠の茶屋を取り囲んだ取り方の頭も呼び出していた。頭はしばらく口をつぐんでいたが、老中が「正直に申せ。軽くすると告げると、ようやく重い口を開いた。「火を放てとの下知は、確かに黒田様より受けたものにございます。私は、ただ命に従ったまで。あの老女一人に罪を着せられては、溜まったものではございません。」日々の罪まで、一人で着せられては叶わぬという恐れが、頭の口を割らせたのであった。
黒田はもはや、言葉に詰まるばかりであった。頼みの手先までが背を向けると、黒田はどっと膝を折った。「な、何卒、一度だけ御助けを……。」老中の声が、詮議所に響き渡った。「これだけの証が揃った上は、捨て置けぬ。黒田分の神は、即日、老中職を取り上げ、屋敷にて謹慎を申し付ける。屋敷と倉は直ちに改め、これなる控え、密命書との符合を進める。峠の茶屋の女将についても、これ以上の詮議は無用、直ちに御上預かりとし、この一件の沙汰が下るまで、身柄を丁重に扱え。」黒田は、その場で連れ出された。沙汰は、まだ下されていなかった。
それから数日、詮議所では黒田の屋敷と倉の検分が続けられた。運び込まれた品々の数々、倉役人の証言、老中の検分。全てが、道之助たちの持ち込んだ証と符合した。拷問は幾度にも及んだが、覆しようのない証の前に、黒田はついに言葉を失った。この一件は、やがて御上様へと上申された。黒田分の神の老中職は正式に剥奪され、逼塞を申し付けられた。御上様は、神楽の家の名を晴らし、道之助の高潔な人柄と功績を、大いに褒め称えられた。老中は、その沙汰を道之助に伝えた。「御上様に存ぜられても、その若さでの賢明なる心掛けは、誠に感心であるとのお言葉である。褒賞として、当主に取り立て、お家を立て直すことをお許しになるとのことだ。」しかし、道之助は丁重に頭を下げて、押し止めた。「それよりも先に、一つお願いがございます。私を育てた祖母が、無残者の残党を隠した罪で、牢に囚われております。あの祖母こそ、卑しい種で、尊い血筋を生かした方にございます。どうか、お許しくださいませ。」老中はその心掛けに感じ入り、直ちにお松を解き放つよう取り計らった。
牢から解かれたお松は、痩せ細り、足元もおぼつかない様子であった。それでも、詮議所の門前に道之助の姿を見つけると、お松の目に見る間に光が戻った。道之助は一目散に駆け寄って、抱きしめた。「おばあ様。」「道之助。道之助や。」お松は、立派になった孫の姿を見つめながら、肩を震わせた。台所で冷えた飯を炊いていた、あの卑しいと蔑まれた手が、ついに尊い血筋を生かした。御上様は、お松にも大きな褒賞を授けようとなさった。しかし、道之助は当主への取り立ても、褒美も全て辞退した。「私は、ただ、名も無き人々の役に立ちたく存じます。」道之助の願いを聞いた老中は、峠の里を含む一帯の郷役として道之助を取り立てることを取り計らった。道之助はお松を連れて、再び峠へと戻った。焼け落ちた跡地には、以前よりも小さいながら、端正な作りの茶屋を新しく立て直した。槌を鳴らしていた時、道之助の手が、崩れた炉の石の下に埋もれていた小さな木切れに触れた。あの旅の僧が残していった木魚の、焼け残った一部であった。「これは……。」道之助はそれを拾い上げ、丁寧に埃を払った。半分ほどが焼け、原型を留めていない小さな欠片であったが、道之助にはそれが何であるか、すぐに分かった。お松がそれを見て、静かに目を細めた。「あの坊様が残して行かれたものだよ。あの時の言葉を、私はずっと忘れずにいた。」道之助はその欠片を、新しい茶屋の棚にそっと据えた。庭先の梅の木は、幸いに焼け残っていて、翌年の春にはまた花を咲かせた。尊敬も旅をやめ、茶屋の傍らに小さな薬屋を構えて、道之助の傍らに留まった。
穏やかな、ある春の日。お松は、孫の手をそっと撫でながら言った。「道之助や、あの昔、旅の僧が私に言った言葉があったね。『尊い血筋であっても、施すことを知らねば卑しいもの。卑しい種であっても、人を生かせば尊いもの』と。」道之助は、縁側の先に目をやった。あの晩、旅の僧がこの手を見つめて語った言葉が、今ならようやく分かる気がした。「尊いのは、血筋ではなく、人を生かす心だったのですね。」道之助も、祖母の手を握り返しながら、静かに頷いた。「おばあ様の手も、私の手も、これからも誰かのために使いましょう。」台所で汁飯を炊き、旅人の空腹を満たす、しわだらけの手。村人の悩みを読み解き、裁きを下す、道之助の手。二つの手は、それぞれの場所で、静かに人を生かし続けていた。梅の花びらが、その上のように舞い落ちていった。



