「お前みたいな会社の足でまといがいなくても、会社は変わらないんだから、さっさと辞めてしまえ。」
会社のセキュリティを管理する俺に、引き抜きで入社してきた課長がそう言い放った。その言葉で、俺の気持ちは完全に冷めてしまった。これ以上、こんな人間の下で頑張る必要はない。
「わかりました。課長がそうおっしゃるなら、俺は会社を辞めさせていただきます。」
課長は満足そうに笑った。しかし、そこに突然、社長が現れて俺に向かって話し始めた。
俺の名前は武田集。現在35歳。とある会社の情報システム部に所属している。会社のシステムを新しく作ったり、より効率のいいものに再構築したり、セキュリティシステムを更新して会社の情報を守ったりするのが俺の主な仕事だ。
俺は小さな頃からパソコンで遊ぶのが好きだった。小学生の頃からプログラミングでゲームを作って遊んでいたから、今の仕事もその延長でやっているような感覚で、正直仕事のストレスはあまりない。加えて、会社の空気もとても良かった。社長はとても温かい人柄で、社長であるにも関わらず最低限の礼儀は忘れない。俺は全く緊張せずに会話ができた。
「ああ、武田君、またセキュリティシステムを更新してくれたのか。」
「はい。また新しいウイルスが作られたって噂を聞いたので、すぐに対応しました。」
「さすがだなあ。セキュリティに関しては君の右に出る者はいないな。」
「そんなことないですよ。」
謙遜して見せたが、正直自分でもその自信はあった。ずっとこうしてシステム構築を学んできた。おかげで独身だし彼女もいないが、その腕には絶対の自信を持っていた。
「これからも頼むぞ。うちの守護神。」
「ちょっとからかってるでしょう。」
そう言って2人で笑う。社長ともこんな風に冗談を言い合えるこの会社の雰囲気が本当に大好きだった。
しかし、ある日、社内である噂が立ち始めた。ヘッドハンティング。どうやら同業種の他社から社員が1人、引き抜きでうちの会社に入社するらしい。
「へえ。ヘッドハンティングされるぐらいだから、優秀な人なんだろうな。」
営業の同僚にその人物を知っている人がいて話を聞いてみたが、やはり仕事はかなりできる優秀な人物らしい。
「でも人間的にね…」
同僚はそう呟いた。どうやら仕事はかなりできるが、あまり人としての温かさは持ち合わせておらず、数字と業績が全ての実績至上主義らしい。
「そういう人だからこそ結果が出せるんだろうけど。」
同僚はそう言ったが、俺は一抹の不安を覚えていた。そしてその不安は的中してしまう。その人物が課長としてこの会社に入社した日のことだった。
「今日からこの会社で課長を務めることになりました、中山秀夫と申します。どうぞよろしくお願いします。」
中山が入社して初めての挨拶で、いきなりこう言い放った。
「私は仕事をする上では結果を重視します。数字が全てです。業績が全てです。ですから、努力したけどダメだったとか、頑張ったけど失敗したなんていうのは、私は認めませんので。」
その言葉にオフィスが静まり返った。
「そして正直に申し上げて、この会社は雰囲気が甘いです。皆さん仲がいいのかもしれませんが、そんなのは仕事に必要ありません。というか、邪魔です。もっとしっかり働いてください。」
静まり返ったオフィスが、今度はざわつき始めた。
「きっと不満もあるでしょうが、会社は仕事をする場所です。友達と仲良く遊ぶ場所ではないんです。そこのところ理解しておいてください。」
「まあまあ、そうならないで。いい人間関係があってこそ、いい仕事ができるってこともあるからね。」
あまりにも空気が悪くなったのを見かねて、社長がフォローに入った。
「はい。」
中山課長は社長の言うことに頷いていたが、納得していないのが顔に出ていた。
しかし、やはりというか、課長の登場によって会社の雰囲気はガラッと変わってしまう。今まで社員同士で和気あいあいと仕事をしていたオフィスに、課長の怒鳴り声や若手社員を叱る声が響くようになり、空気が殺伐とし始めた。中でも、山下という課長と同じ時期に中途で入社してきた女性社員はよくターゲットにされていた。
山下さんは28歳とまだ若く、そしておっとりとした性格で、同僚や年下の社員からは優しくて可愛らしい人だととても好かれていた。しかし、テキパキと動き、より多くの結果を求める課長の目には、ただの鈍臭い社員にしか映っていないようだった。
「お前、資料をまとめるのにどんだけ時間かかってんだよ。さっさとしろよ。」
「すいません。今すぐ終わらせますから。」
毎日こんな調子で怒られていた。
「気にしなくていいよ。あの人、何やったって文句言う人だから。」
「いえ、私の仕事が遅いのがいけないんですから。」
俺もフォローはするのだが、山下さんはそう言って仕事を続けるのだった。しかし課長の山下さんへの集中はどんどんひどさを増していく。
「この見積もり、何分で出せる?」
「あ、10分でやります。」
「嘘つけよ。お前なら30分はかかるだろう。」
「じゃあ30分以内には仕上げます。」
「遅いよ。5分でやれ。」
「はい。」
こんな感じでいちいち意地の悪い言い方をする。
「ああ、誰かさんが鈍臭いせいで残業になっちまったなあ。」
退社時間が近づくと、ほとんど毎日オフィス全体に届くようにそう言ったりもする。
それはもはや仕事上の指導を逸脱した、ただの嫌がらせだった。そのせいで山下さんの顔は日に日に暗くなっていってしまった。
「山下さん、大丈夫?あんまり気にしなくていいよ。あの人、ああいう人だから。」
「いえ、いいんです。仕事の遅い私が悪いんですから。」
「でもあれはあまりにもひどいよ。」
「いえ、私がもっと仕事ができれば言われないことなので。」
山下さんはすっかり自信を失ってしまっている。あの朗らかに笑っていた山下さんから、笑顔がすっかり消えてしまった。
これまで課長を余計に刺激したら山下さんへの当たりがより厳しくなるのを懸念して、何も言ってこなかった。しかし今の状況はさすがにまずい。山下さんのこともそうだが、社内全体の雰囲気が悪く、こんな空気の中でいい仕事ができるはずがない。それにあの温かい雰囲気だった会社の空気をこんな殺伐としたものに変えた課長に、怒りが湧く。
そう思った俺は、課長に直接抗議することにした。
「あの、もういい加減にしてもらえませんか?」
「何?」
「上司だからって、部下にだったら何を言ってもいいわけでも、何をしてもいいわけでもないんですよ。」
「俺は仕事の指導をしているだけだが?」
「今の課長の振る舞いは明らかに指導の域を超えてます。あんなのはただの嫌がらせです。大人のすることではありません。」
「なんだと?」
課長は怒りを顔に浮かべた。
「会社というのは、社員一人一人がその役割を全うすることで成り立っているんです。課長の振る舞いは人が離れていきますよ。」
「できない人間がいくら離れていこうと、私は構わない。むしろ好都合だ。」
「周りに誰もいなくなって一人になったら、あなたは仕事ができなくなるんです。もっと個人を尊重した接し方をするべきです。」
「随分と偉そうなことを言ってくれるじゃないか。お前、誰に向かって何を言ったのか、よく覚えておけよ。」
課長はそう言うと、取引先との約束があるとかで会社から出ていった。
しかし、それ以降課長が山下さんにきつく当たることはなくなった。代わりに、ターゲットが俺に変わった。
「お前さ、毎日会社に来てるけど、一体何しに来てるんだ。」
そう、明らかに馬鹿にした態度で言ってくる。
「俺の仕事は社内のシステム管理と整理、それから新しいシステムの設計と構築です。」
「で、それって何の意味があるんだよ。」
「社内のみんなが仕事をする下地を作っています。それから、どこでどんなシステムが使われているかを把握することで、セキュリティを強化することもできます。」
「セキュリティ?簡単に言えば、快適に会社を守ってるってこと?」
「あ、課長は頷いているが、きっと理解はしていないだろう。」
「つまり、みんなが仕事をする上で無くてはならない仕事ってことね。」
課長がニヤニヤと笑って言った。
「そういう言い方はないんじゃないですか。」
「だって、新たに契約を結んだり、売上を上げたりしてるわけじゃないんだろう。」
「それはそうですけど…」
やはり、こいつには説明するだけ無駄だった。俺のしている仕事がどれだけ大事で重要な役割か、理解してもらえなかった。確かに俺は他社と取引をしたり、会社の売上に貢献したりというような目に見える結果は出せない。しかし俺の仕事によって、社員みんなの仕事が支えられているのだ。そのことを理解してもらえなかったのは悔しかった。
それから課長の俺に対する嫌がらせは、どんどんひどくなっていった。
「いやあ、会社から外に出て自分の足で歩いて契約を取ってくるのは大変だわ。」
取引先との打ち合わせから帰ってくると、いつもこうやって大きな声で嫌味を言う。
「いいよなあ。社内でパソコン叩いているだけのやつは。そしたら他のみんなが業績あげてくれるんだもん。楽だよなあ。」
そう、わざと俺に聞こえるように言うのだった。
気にせず受け流せばいいと無視していたのだが、その振る舞いは日に日にひどさを増していく。
「いやあ、今日も疲れたぜ。」
外回りから帰ってきた課長が、また大きな声で言う。
「ずっと口説き続けてきた会社がようやく契約を結んでくれたんだよ。これでまた会社の業績に貢献できるぜ。」
そして俺の近くに寄ってくる。
「おや、武田君はまた今日も社内でお仕事ですか?いいですね。簡単で。」
「簡単なわけないでしょう。」
いつものように受け流せばよかったのだが、つい反応してしまった。俺の仕事を理解できないのは知識がないのだから仕方がない。しかし俺の仕事は決して簡単ではない。常に新しい情報にアンテナを張り、学び、自分の技術をアップデートしていかなければ、会社のシステムを更新できず同業他社に遅れを取ってしまうし、会社を守ることすらできない。常に神経も使うし、気を張っているのだ。だから「簡単」と言われたのは我慢ができなかった。
「なんだ、これっぽっちも業績を上げてないくせに反抗するのか。」
「課長が契約を取るのが簡単でないように、俺の仕事だって簡単じゃありません。」
「なんだと?会社にこもって機械を相手にしてるだけのくせに、人間を相手にしてる俺と同じとか、舐めたこと言うな。」
そう言われた時、俺は課長に怒るというより呆れてしまった。そして、なぜこんな奴の仕事を支えるために毎日神経をすり減らしているのか、バカバカしくなった。
「お前みたいな少しの結果も出せないやつ。会社にいてもいなくても変わらないんだから。文句があるならさっさと辞めちまえ。」
そう言われ、俺の気持ちは完全に冷めてしまった。これ以上、こんな奴の下で頑張る必要はない。
「わかりました。課長がそうおっしゃるなら、俺は会社を辞めさせていただきます。」
課長は満足そうに笑った。
「おお、辞めろ辞めろ。お前みたいな会社の足でまとい。いなくなる方が会社のためだ。」
「では失礼します。」
俺は荷物をまとめ始めた。
「武田さん。」
山下さんが駆け寄ってきた。その目には涙が浮かんでいる。
「ごめんなさい。私のせいで、こんなことになってしまって。」
「山下さんのせいじゃないよ。これは俺の問題だから、気にしないで。」
「でも、私のために課長に抗議してくれたことがきっかけですから。」
「いや、そのことがなくても、いずれはこうなってたと思うよ。」
「でも、武田さんが会社を辞めるのは違うと思います。」
その時、社長が現れた。突然の登場に、オフィスの全員が驚いていた。
「社長、どうされたんですか?」
しかし社長は課長を無視して、俺に話し始めた。
「武田君、申し訳なかった。会社をこんな雰囲気にしてしまったのは私の責任だ。」
そして頭を下げる。
「みんなもすまなかった。仕事をする上で、嫌な気持ちになることがたくさんあっただろう。」
そして全員に向かって頭を下げる。
「武田君、君がいてくれないと、会社のシステムはガタガタに崩れ、みんなが安心して仕事ができなくなってしまう。どうか、辞めるのは取り消してくれないだろうか。頼む。」
そしてまた俺に頭を下げるので、俺は慌ててしまった。
「そんな、社長。頭を上げてください。」
「実は山下君から聞いていたんだ。課長の態度で空気が悪くなり、みんなが仕事をしづらくなっていると。特に武田君はきつく当たられているとね。」
山下さんを見ると、小さく頷いた。
「しかし私は、実態を把握するまでは判断できないと、今まで何もできなかったんだ。申し訳ない。」
「いえ、そんな…」
「中山君。」
そこで初めて課長の名を呼んだ。あの温厚な社長が、珍しく鋭い目をしていて、その目に課長は怯えているようだった。
「君はかなり優秀だと聞いていたから、我が社にも貢献してくれるだろうと思って引き抜いたが、どうやら君はうちには合わなかったようだな。」
「私が社員に厳しく指導していたのは、会社のためを思ってのことで…」
「君がしていたのは指導じゃない。あんなやり方じゃ部下はついてこないし、下手をすれば君も会社も訴えられるんだ。そんなことも分からないのか。」
「ですが、私は会社に大きく貢献したじゃないですか。」
「それも武田君や山下君、社員みんなが頑張ってるからこその結果なんだよ。そんなことも分からないような人間は、うちにはいらない。出て行ってくれ。」
課長は顔を真っ赤にして俯き、小さな声で言い訳を続けていたが、言葉になっていなかった。
その後、社長と課長の話し合いの結果、社長にも彼を採用したという責任があったため、課長の自己都合の退職という形で会社を出ていった。
課長がいなくなり、また以前のような温かい雰囲気を取り戻した会社で、俺は仕事を続けられている。俺はあの課長を追い出すきっかけを作った人として、ちょっとしたヒーロー扱いを受けた。
「やっぱり武田君はうちの守護神だな。」
「やっぱりからかってるでしょう。」
俺たちのやり取りに、オフィスが笑い声に包まれる。やっぱりこういう雰囲気がいい。明るい空気の中でこそ、いい仕事ができるというものだ。
「会社のことだけじゃなく、山下君のこともしっかり守るんだぞ。守護神。」
「ちょっと、やめてください。」
山下さんは照れ臭そうに顔を赤くして俯いていた。
俺と山下さんは、このことをきっかけに距離が縮まって仲良くなり、付き合うことになった。雰囲気が良くなり会話が増えたオフィスで、噂はあっという間に広まり、すぐに社長の耳にも届いてしまったのだ。
「武田君が家庭の守護神になる日も近いだろうな。」
社長はそう言って笑う。
「だから、やめてくださいって。」
山下さんはさっきよりも真っ赤な顔で、恥ずかしそうに微笑んでいた。その笑顔にとてつもない幸せを感じる。社員みんなから冷やかされてしまったが、俺はみんなが仲良く楽しい空気の会社が大好きだ。
これからも、みんなで楽しみながら力を合わせて、会社を盛り上げていこうと思う。



