「君は今日限りで首だ。退職金と特許使用料を支払わないとな」
そう言うと、社長はポケットから掴んだ小銭を私に向かって投げつけた。床に散らばる十円玉と百円玉。三十年以上、この工場に捧げてきた私の評価が、これだというのか。
私の名前は野田哲。町工場で働き始めて三十年が過ぎた。技術と知識を高めるため、日々勉強は欠かさなかった。気真面目な性格で、周囲からは「研究バカ」と言われることもあったが、そのおかげで様々な製品を開発できたのも事実だ。
しかし最近、その研究も進まなくなっていた。理由は単純で、研究費に回す金がないからだ。物価高や日本経済の変化。様々な要因が重なり、気づけばうちの工場は自転車操業になっていた。受注の数も減り、社長も毎日のように頭を抱えている。
そんなある朝、社長は社員全員を集めて調礼を行った。
「君たちも気づいているだろうが、うちの工場は正直もう限界だ。社員に給料を満足に与えることさえままならない。この工場はもう畳むしかない」
社長は震える声でそう話し、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。近いうちにこんな日が来るだろうとは予想していたが、こうも早く来るとは思っていなかった。
「社長、一ついいでしょうか?」
私は思わず手を挙げていた。
「今開発中の製品は必ず特許を取得できると確信しています。これで工場を盛り返すことだって可能だと思います。もう少し辛抱していただけないでしょうか?」
社長は最初こそ眉間にしわを寄せていたが、徐々に柔らかな表情へと変わっていった。
「野田君の熱意は分かったよ。どうせ畳むなら、最後くらい賭けてみるか」
そう決まれば、と私は本格的に動き始めた。残業代が出ないため定時で上がっていたこともあり、研究はあまり進んでいなかったが、今日から毎晩泊まり込みで作業すれば一か月ほどで完成する見込みだ。
「もちろん残業代は結構です。私がやりたいことを好きにやろうとしているだけですから」
そう言うと、社長は顔をゆっくりと上げ、震える声で「ありがとう」と呟いた。
それからというもの、私は工場の窮地を救うため、毎晩工場に泊まり込み、不眠不休で研究に打ち込んだ。予想通りにいかないこともあり、壁にぶつかることも多かった。しかし、この工場で三十年働かせてもらい、学ばせてもらった恩を返す時だと自分に言い聞かせた。
一か月後、私は一般家庭向けの画期的なアイデア商品を完成させた。すぐに特許申請を行ったが、特許が承認されるまでには一般的に一年から一年半かかる。それまでの間に工場が潰れてしまえば、今までの努力が無駄になる。
私は社長や社員たちと共に、今まで以上に必死に働いた。サービス残業は当たり前、休日も無休で出勤し、ガムシャラに働いた。
一年が経過し、ようやく特許が認められた。早速商品を大量生産して市場に売り込むと、商品はマスコミにも取り上げられるようになり、あれよあれよという間にヒット商品へと急成長した。工場の業績は飛躍的に改善され、経営は見事に回復。新工場の建設を発表するまでになった。
工場が軌道に乗ったのは嬉しかった。これも全て、工場のみんなが一丸となって踏ん張ったからこその結果だ。私はそう思いながら、今日も現場で汗を流していた。
そんなある日、いつものように作業に忙しくしていると、背後から肩を叩かれた。振り向くと、そこには社長の姿があった。
「ちょっといいか? 大事な話があるんだ。社長室に来てくれ」
社長のこんなに真剣な表情は、一年前の窮地以来だった。何か問題でもあったのだろうか。嫌な想像をしながら、私は社長室へと向かった。
社長室に入ると、社長は椅子に腰かけて軽く呼吸を整えた。
「単刀直入に言う。これ以上でかい顔をするな」
予想していなかった一言に、私は困惑した。
「正直君には感謝している。ただ、少し勘違いしていないか。自分が工場の窮地を救った救世主だなんて思っているんだろう。それが露骨に表情に現れていて、正直気分が悪い」
耳を疑う発言だった。私はそんなこと、一ミリも思っていない。今こうして工場が軌道に乗れたのは、全て社長や社員たちみんなのおかげだと思っている。それなのに、何をどうしたらそんな発想になるのか見当もつかなかった。
「今の工場があるのは私が頑張ったからだ。特許が承認されるまでの一年間、潰れかけの工場を私が懸命に支え続けたことを忘れるな」
社長はそう言って得意げに笑った。
「確かに、特許取得までの間、工場を支えてくれた社長には感謝してもしきれません。しかし、全て社長の手柄というわけではないと思います。今の工場があるのは、地獄の中でも耐え支えてくれた他の従業員たちのおかげでもあると私は思っています」
私の反論に、社長はますます不機嫌な表情になった。
「君の考え方は時代遅れだ。これから必要なのは、君のような遅れた考え方をした老いぼれではなく、若い世代だ。今後は君よりもずっと若い、私の息子に工場を任せることにする。よって君は今日限りで首だ」
突然の解雇宣告に、私は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。倒産寸前の工場を立て直すために尽力してきたのに、なぜ自分が今、首を宣告されているのか。理解できず、様々な感情が頭の中を駆け巡った。
しかし、社長は私のことなどお構いなしに話を続けた。
「ああ、そうだ。君には退職金と特許使用料を支払わないとな」
社長はそう言うと、ポケットに手を入れ、何かを取り出したかと思うと、すぐさまそれを私目がけて投げつけてきた。
「うわっ……え?」
私の目の前にパラパラと落ちたのは、十円玉や百円玉といった数枚の小銭だった。
正直、この瞬間、怒りよりも悲しみの方が大きかった。私は無言のまま小銭を見つめる。私は今まで、社長に恩を感じ、それを返すために奮闘してきた。社長も私のことを信頼してくれ、重要な役割を任せてくれたことに感謝さえしていた。だというのに、今突きつけられたのは突然の解雇と、小銭だけの退職金。私が何をしたというのか。社長の気持ちが今は全く分からない。
そんな社長を信用することなど、もう無理だ。私はある決意を胸に、ゆっくりと口を開いた。
「分かりました。本当に私はこの工場をやめますが、それでもいいんですね」
「ああ、構わん。自主退職なら処理も簡単だ。年寄りは若者に席を譲りたまえ」
社長はそう言うと、得意げに目の前で腕を組んだ。
「それでは、私はこれで失礼します」
一礼してそう言い放ち、私は社長に背を向けた。
「おい、小銭を拾えよ。後から使用料を請求されても、支払わないぞ」
背後から社長の声が聞こえたが、私は振り向かずに言い放った。
「特許はくれてやる。それは手切れ金だ」
そう告げ、私は社長室を足早に出ると、そのまま工場を去った。
あれから一年の年月が過ぎた。やめた翌日はショックが大きく眠れぬ日々が続いたが、ここ最近はなんとか平常心を取り戻し、穏やかな日常を送っている。
今日は休日ということもあり、朝からゆっくりとコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、突然スマホの着信音が鳴り響いた。画面を確認すると、そこには喧嘩別れのように辞めてしまった社長の名前が表示されており、思わず身構えてしまう。
「お久しぶりです。野田です」
「おお、久しぶりだな。急だが、すぐに工場に来てくれ。緊急事態なんだ」
挨拶もそこそこに、社長はぶっきらぼうに言い放つ。その態度に若干腹が立ちつつも、軽く深呼吸をして私は答えた。
「分かりました。今からそちらにお伺いします」
三十年以上もお世話になっていた手前、簡単に頼みを断るわけにもいかず、私はすぐさま支度を済ませると、懐かしの工場へと向かった。
工場に到着し、かつての同僚に案内されながら中へと入ると、そこには異様な光景が広がっていた。私が辞める前は生産ラインは休む暇もなく稼働し、社員たちはあちこち動き回っていた。しかし今の工場は、生産ラインが一切稼働しておらず、社員たちも仕事をしている様子が見られない。
「一体これはどうなっているんだ?」
同僚にそう尋ねると、彼は深刻な表情で答えた。
「野田さんが辞めて、社長の息子が工場に来てから、全ての歯車が狂ったんです」
私が辞めてすぐは問題なく稼働し、特許製品の売上も上場だったという。しかしこの一年で売上は急激に落ち込み、製品をうまく派生させることもできなかった。その大きな原因は社長の息子だった。彼は入社後、次々と新たな商品のアイデアを企画会議で発表したが、そのどれもが的外れなものばかりだったらしい。周囲は製品化に反対したものの、社長が「息子の自由にやらせてくれ」と言ったことで強制的に製品化が決定してしまう。だが予想通り、息子のアイデア商品は全て外れ、挽回しようとさらに新たな製品を考え大量に製造したが、これもまたほとんど売れず、悪循環に陥ってしまったそうだ。
「今は大量の在庫を抱えてしまって、製造はほとんど停止状態なんです。俺たちの今の仕事は、返品の山の処理ばかりで。噂だと、親父も病んでるって言われていますよ」
想像以上に深刻な状況に、私は思わず言葉を失った。工場を立て直すことにあれだけ尽力したのに、こうも短期間で簡単に逆戻りしてしまうなんて。
「はあ……そんな状況だったのか。とにかく、社長と話をしてみないとな」
私はそう言って、足早に社長室へと向かった。
社長室に入ると、そこには社長と共に息子の姿もあった。しかし息子はけだるそうな表情でソファーに座り、背もたれにもたれかかりながらスマホをいじっている。
「遅くなりました。それで、何があったんですか?」
「単刀直入に言う。君には息子の右腕になって欲しいんだ」
社長はとんでもないことを言い放つ。
「右腕に? そもそも私はこの工場を辞めましたが」
「それはよく覚えている。だが、こんな事態を頼めるのはもう君しか思いつかなくてな」
人のことを「老いぼれ」「時代遅れ」と言ってきたのはどこのどいつだ、と突っ込みたくなったが、冷静さを忘れてはいけないと思い、私はグッとこらえた。
「他にもうちには優秀な社員たちはいるはずです。その人たちに任せてはダメなのですか?」
「息子の新一は大学で経営学を学んでいたほど、経営の才能があるんだ。ただ、若さゆえに失敗してしまうことも多々あってな。そんな息子を支えられるのは、君のような年長者だと思ったんだ」
「彼より年上の社員はいるはずです」
「彼らは君のように新たな製品を開発するほどの知恵がない。そんな人間が優秀な息子の右腕になるなんて、絶対に無理だ」
あまりに身勝手な物言いに、私は思わず頭を抱える。
「あなたが息子に工場を任せるからと言って、私を首にしたんですよ。それなのに、都合よく戻って来いというのは少々虫が良すぎるのでは?」
そう私が言うと、先ほどまでソファーでスマホに熱中していた息子が、大きな舌打ちをしてこちらを睨みつけてきた。
「一年も無職だった老いぼれを採用してやるって親父は言ってんのに、何が気に入らねえんだよ」
息子は吐き捨てるように言い、社長も「新一の言う通りだ」と同調した。そんな二人の態度に、さすがの私もカッとなってしまい、つい声を荒げてしまう。
「今更あんたのバカ息子を支えろなんて、ふざけたことを言わないでいただきたい!」
私の大声に一瞬だけ社長と息子は驚いていたが、すぐさまこちらを見下すような表情に戻った。
「こんな大声を出すほど腹を立てることかね。少しは冷静に話ができないのか?」
「私はずっと冷静ですよ。ただ、あなたたちがあまりにもふざけたことを言ってきたので、黙ったままではいられないと思っただけです」
淡々とそう答えると、その態度が気に入らなかったのか、社長は「鬱陶しいやつめ」と小声で呟いた。
「そもそも先ほど息子さんは私を無職と言いましたが、あの後すぐに再就職しましたので、無職ではありません。勘違いしないでください」
「何?」
「ここを辞める前から、私の技術を高く評価してくれていた大手家庭用品メーカーに声をかけていただいて、今はそこで商品開発の責任者として働いています。ありがたいことに再就職先でもヒット商品を開発し、この一年で利益向上に貢献でき、毎日充実した日々を送れていますので、この工場に戻るつもりは一切ありません」
私が近況報告を終えると、社長はプルプルと体を震わせ、怒りの表情を見せる。そして何を持ったか、デスクを拳でドンと殴りつけた。
「貴様! 長年お前の面倒を見た工場を裏切るつもりか? この恩知らずめ!」
大声でそう叫ぶと、社長は立ち上がり、ドカドカと足音を鳴らしながら私の元へ近づいてくる。
「こうなったのは全部お前のせいだ。早く工場を元に戻せ! 責任を取れ!」
今にも掴みかかりそうな勢いで社長は詰め寄るが、私は至って冷静なままだ。
「裏切り? それはそっちでしょう。会社のために残業代ももらわず不眠不休で製品開発に尽力し、そしてその製品で工場を立て直したというのに。周囲の支えを無視にし、私を身勝手な理由で首にしたのは、どこの誰ですか?」
痛いところを突かれる言葉を浴びせると、社長は言葉をつまらせた。
「そもそも私の提案がなければ、あの時この工場は確実に潰れていました。もちろん社長も工場を立て直すために尽力したのは分かります。ただ、社長一人の手柄にしてしまうのは、今でも納得がいっていません」
「確かに君の頑張りは認めるが……だからと言ってでかい顔をするのはどうかと思ったから、あの時はあんな風に言ったわけで……」
もごもごとした口調で社長はそう答える。
「そもそも、なんでそういう考えになったんですか? 私はあの後も以前と変わらず現場で謙虚に働いてきたつもりです」
私の問いかけを聞き、社長は居心地が悪そうな表情をしながら目をそらす。
「……社員たちが、みんな君ばかりを評価していたから」
ぽつりと社長はそう呟くと、すぐさま俯いた。確かに、工場の立て直しが成功して以降、周囲の社員たちは皆一様に「これも全部野田さんのおかげだ」と言ってくれるようになった。そして以前よりもみんなが慕ってくれるようになったとは感じていたが、社長の言葉を聞くに、それに嫉妬してこんなことをしたということなのだろう。
「はあ……そんなくだらない理由で私を首にしたんですか。もう怒る気力も湧きませんね」
「あの時は、息子さえ工場に来てくれたらなんとかなると思ったんだ。息子は大学を主席で卒業しているし、経営についてもかなり勉強していたから」
「その息子さんと社長のせいで、今こんなことになっているんですよね。それでもまだ、自分の子供可愛さにバカな真似を続けるつもりですか?」
私がそう言葉を返すと、社長は言葉を失った。
「とにかく私はこの工場には戻りません。そもそもあの日、手切れ金として特許を渡した事実もあります。これ以上関わるつもりもありませんので、これで失礼します」
自分の口からこんな冷たい言葉が出てくるなんて、私自身驚いている。ただ、この言葉は本心で、嘘偽りなど一切ない。
社長は、今までずっと誠心誠意を貫いてきた私からこんな冷酷な言葉が出てくるとは思っていなかったらしく、目を見開いたまま硬直している。
そんな社長を置いて社長室を後にしようと歩き始めるが、突然「待ってくれ!」と社長の叫び声が部屋中に響き渡った。
「特許商品の売上も先細りで、このままでは本当に倒産してしまう。戻ってきてくれ。頼む!」
先ほどまでの偉そうな態度から打って変わって、社長は今にも泣き出しそうな声で私に向かって懇願する。涙を浮かべながら「工場を畳む」と社員たちに宣言したあの日の社長と同じ表情だ。しかし、今は前のように同情し、どうにかしてあげようという気持ちは一切ない。
「何を言われても、私の気持ちはもう変わりませんから」
そう告げると、社長の目からわっと涙が溢れ出し、そのままその場に崩れ落ちる。
「頼む、頼むよ。戻ってきてくれ、野田君!」
そう涙声で叫ぶと、社長は自分の立場も考えず、そのまま私に向かって土下座した。
社長が工場のピンチを乗り越えるために身を削って土下座している中、その息子はこの状況でもまだソファーに座り、スマホに熱中している。
「こんな状況で焦ることなくスマホに熱中しているなんて、随分息子さんは大物ですね。こんな大物で有能な息子さんがいるのなら、私の出る幕はありませんね」
私は嫌みも含めてそう言い放つと、そのまま社長室のドアに手をかけた。そして、捨て台詞のようにそう吐き捨てると、足早に工場を後にした。
それからしばらくして、工場は完全に製造をストップしたまま、最終的に倒産したそうだ。そして、何人かの同僚が私の働く大手メーカーに中途採用として転職してきたことで、社長のその後を聞いた。何でも社長は財産を全て失い、奥さんからも逃げられてしまい、生活は困窮しているらしい。また、あれだけ可愛がっていた息子は、倒産した後も働こうとしなかったので、腹を立てた社長は家から追い出し、親子の縁まで切ってしまったのだそうだ。
今は孤独に耐えながら、生活のために日雇い稼ぎの仕事で食いつないでいるらしいが、まともな生活はできていないようで、時々近くの公園で行われる炊き出しに参加しているという噂も耳にした。
また、私をいきなり解雇したのは、周囲から私が慕われている状況に嫉妬したというだけでなく、特許商品で大儲けできたことで金に目がくらんだというのも大きな理由の一つだったらしい。その結果、特許の使用料を払いたくないという気持ちが生まれ、さらには解雇に踏み切ったというのが事の顛末だったと、元同僚から聞かされた。
正直呆れた理由の数々ではあったが、今となってはどうでもいい話だ。私は今、この会社で日々忙しく商品開発に明け暮れており、これまで以上に充実した日々を送れていることにとても感謝している。そして、開発者として今まで以上に多くの部下を持つ立場にもなったが、この立場に驕るつもりは一切ない。
町工場であれ、大企業であれ、この会社を支えているのは全て社員のおかげなのだ。だからこそ、社員を大切にしなければ組織は継続できないということを、今回の一件で再認識できた。これから先も、この考えを肝に銘じて、謙虚に仕事に励みたいと思う。



