息子の怒鳴り声が、雨に濡れた私の心臓を凍らせた。「二度とこの家に来るな!次来たら警察呼ぶぞ!」
玄関先で突き飛ばされた拍子に、手に抱えていた孫への誕生日プレゼントが落ち、雨に打たれた。今日は孫の誕生日。朝から心を込めて選んだ絵本とぬいぐるみを抱え、期待に胸を膨らませて息子の家を訪ねたのだ。
インターホンを押しても返事はない。ようやくドアが開くと、嫁の理沙が冷たい表情で立っていた。
「何のようですか?」
その声には明らかな拒絶の色があった。「今日は孫の誕生日だから、お祝いを」と言いかけた瞬間、奥から息子の涼介が飛び出してきた。
「もう言っただろう!うちに関わるな!」
息子の顔は、私が知っている優しい顔ではなかった。怒りに歪んだその表情に、私は言葉を失った。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。四千万円もの大金を送り、息子家族の幸せを願ってきた私が、なぜ警察を呼ばれるほど嫌われなければならないのか。
雨に濡れながら、私はただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
あの優しかった息子が、なぜこんなにも変わってしまったのか。二十八年前、夫の清志と二人で小さな定食屋を開いた時のことを思い出す。朝五時に起きて仕込みを始め、深夜まで働き続ける毎日。涼介を育てながら厨房に立ち、子育てと仕事を必死に両立させてきた。
「母さん、いつもありがとう」
高校生の頃、涼介はそう言ってくれた。大学進学の際も、学費のことで悩む息子に、「お金のことは心配しないで」と励まし続けたものだ。
そして三年前、涼介が理沙と結婚することになった時、私たち夫婦は迷うことなく決断した。二人が安心して暮らせるように、長年の貯金と退職金を合わせた四千万円で、息子夫婦のために新築の家を購入したのだ。
「お母さん、本当にいいんですか?こんな大金」
理沙は涙を浮かべながら何度も頭を下げていた。「一生この恩は忘れません」涼介もそう言って深々とお辞儀をしていた。あの時の二人の笑顔と感謝の言葉が、今でも鮮明に思い出される。孫が生まれたら、みんなで幸せに暮らせると信じていた。
それなのに、今では玄関先で突き飛ばされる始末だ。一体何が二人を変えてしまったのか。
息子夫婦の態度が変わり始めたのは、孫の澪が生まれて半年ほど経った頃だった。最初は些細なことからだった。澪を抱っこしていると、理沙が慌てたように駆け寄ってきた。
「お母さん、抱き方が違います。こうやって持たないと赤ちゃんの首に負担がかかるんです」
私は涼介を育てた経験があったが、時代が変わったのだと思い、素直に従った。しかし注意はどんどんエスカレートしていった。
「お母さん、その離乳食は早すぎます」「そのおもちゃは危険です」「お母さん、ちゃんと手を消毒しました?赤ちゃんは免疫力が弱いんですから」
ある日、澪が危ないものに手を伸ばしているのを止めていると、理沙が厳しい顔で言った。
「お母さん、孫の教育方針には口出ししないでください。余計なお世話です。私たち夫婦で決めたことですから」
その日から、息子の家を尋ねる頻度を減らした。それでも週に一度は顔を見せていたのだが、ある時、涼介が玄関で私を止めた。
「母さん、もう勝手に家に来ないでくれる?」
「え、でも今日は約束してたじゃない」
「澪が忙しいんだ。世話で疲れてるし」
そう言ってドアを閉められてしまった。それからというもの、会える機会はどんどん減っていった。澪の一歳の誕生日には「身内だけでやるから」と断られ、初節句も「写真で撮影するだけだから」と拒否された。
運動会の時期になり、私は期待を込めて尋ねた。「澪ちゃんの運動会、楽しみね。お弁当作っていくわ」
すると涼介が申し訳なさそうに、でもきっぱりと言った。「母さん、席がないんです。保護者席は限られてて」
「じゃあ、一般席から見るわ」
「それも、他の保護者の目もありますし」
クリスマスにはプレゼントを持っていこうとしたが、インターホン越しに断られた。「今年は理沙の実家でやることになったから」「じゃあ、プレゼントだけでも郵送してくれる?」「直接は迷惑だから」
正月になっても状況は変わらなかった。「あけましておめでとう。今年はこっちでゆっくりできる?」「母さん、今年は向こうの実家に帰省するから」「いつ戻ってくるの?」「しばらく帰らないよ。澪も向こうに懐いてるし」
夫の清志も心配そうに言った。「のり子、最近涼介たちの態度がおかしくないか?」「私も感じてるの。でも、きっと子育てで大変なだけよ」
そう自分に言い聞かせていたが、内心では深い悲しみと困惑を感じていた。
ある日、思い切って涼介に電話をした。「涼介さんよ。最近澪ちゃんに全然会えないけど」
電話の向こうで涼介はため息をついた。「母さん、はっきり言うよ。理沙が嫌がってるんだ」
「どうして?私、何か悪いことした?」
「いや、そうじゃなくて、価値観が違うっていうか」
「価値観の違い」という言葉が、私の胸に突き刺さった。二十八年間、朝から晩まで働いて涼介のために全てを捧げてきた私の価値観が、否定されたような気がした。
季節は巡り、澪の二歳の誕生日も「都合が悪い」と断られ、七五三も「写真だけ送るから」と拒絶された。孫の成長を見守ることさえ許されない祖母になってしまった。
「お母さん、申し訳ないんですけど」――理沙からの電話はいつもそんな言葉で始まった。「澪の保育園の行事なんですが、祖父母の参加は遠慮してもらってて」
「発表会くらい、見に行ってもいいでしょう」
「他のお母さんたちの目もありますし、お母さんが来ると澪も混乱するかもしれないので」
混乱する?私は澪の祖母なのに。孫が、祖母が来て混乱するというのだろうか。
そして、ついに決定的な出来事が起きた。澪の三歳の誕生日。私は諦めきれずにプレゼントを持って息子の家を訪ねた。すると庭で楽しそうに遊ぶ澪の姿が見えた。しかし、そこにいたのは理沙の母親だった。
「澪ちゃん、おばあちゃんとケーキ作ろうね」「うん!おばあちゃん大好き!」
澪は理沙の母親に満面の笑顔を向けていた。私の存在に気づいた理沙が慌てて出てきた。
「お母さん、今日は来ないでって言ったはずです」
「でも、孫の誕生日くらい」
「お願いですから帰ってください。澪が混乱します」
その時、涼介も出てきて、あの衝撃的な言葉を放った。「もう言っただろう!二度とこの家に来るな!次来たら警察呼ぶぞ!」
雨の中、私は突き飛ばされ、その場に立ち尽くすしかなかった。四千万円もの大金を送り、息子家族の幸せを願い続けた私が、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか。
澪の誕生日から数日後、私は偶然にも息子夫婦の本音を知ることになった。その日、私は息子の家の近くにある公園を散歩していた。すると公園のベンチで理沙が友人と話している姿が見えた。私は立ち去ろうとしたが、聞こえてきた会話に足が止まった。
「理沙ちゃんのお母さん、最近来ないの?」
友人の問いかけに、理沙は嘲笑したような声で答えた。「え、やっと来なくなってくれたの。本当に助かるわ」
「そんなに嫌だったの?」
「だって見て、澪の写真。うちの母」
理沙はスマートフォンを取り出し、友人に見せていた。「素敵ね。品があるお母様でしょう。元銀行員で、今も文化教室で書道をしてるの。澪にもいい影響を与えてくれるわ」
友人が遠慮がちに尋ねた。「旦那さんのお母さんは?」
理沙の声が急に低くなった。「飲食店経営、定食屋よ。正直、恥ずかしいのよね」
「でも、お店成功してるんでしょう?」
「成功って言っても、所詮は定食屋よ。私の実家とは格が違うもの」
私は息を飲んだ。二十八年間、汗水たらして働いてきた私たちの仕事を、理沙はそんな風に見ていたのか。「それにあの人の育児の考え方、本当に古いの。すぐに抱っこしたがるし、添加物と菓子にしないし。うちの母みたいに最新の育児知識を勉強してくれないのよ」
理沙の言葉はさらに残酷になっていった。「この前なんて、手作りの服を持ってきたのよ。ダサいし、安っぽいし。澪に着せるわけないじゃない」
「捨てたの?」
「当然よ。ゴミはゴミ箱に」
私の目から涙がこぼれた。澪のために、ローンと戦いながら縫い直した服が、ゴミ扱いされていたなんて。
「でも、旦那さんは何も言わないの?」
友人の質問に、理沙は得意げに答えた。「涼介?最初は母親の方を持ってたけど、今は完全に私の味方よ」
「『君の言う通りだ。母さんは時代遅れだ』ってね」
私はもう聞いていられなかった。震える足でその場を離れようとした。しかし、運悪く理沙と目が合ってしまった。理沙の顔が青ざめたが、すぐに開き直ったような表情になった。
「お母さん、聞いてたんですか?」
「理沙さん、どうしてそんなことを」
「本当のことを言っただけです」
理沙は立ち上がり、私の前に立った。「はっきり言います。お母さんは私たちの生活に合わないんです」
「私は、孫に会いたいだけなのに」
「その会いたいが迷惑なんです。わかりませんか?」
友人が気まずそうに立ち去った後、理沙は続けた。「お母さん、四千万円の家をくれたことには感謝してます。でも、それとこれとは別です」
「別?あなたたち、あの時喜んでいたじゃない」
「演技ですよ。もらえるものはもらっておかないと」
私は呆然とした。あの涙も感謝の言葉も、全て演技だったというのか。
その夜、私は涼介に電話をした。公園での出来事を話すと、涼介は最初否定した。「母さん、何か勘違いしてるんじゃない?理沙がそんなこと言うわけない」
「本当よ。私、この耳で聞いたの」
涼介の沈黙が全てを物語っていた。「涼介、あなたも同じように思ってるの?」
長い沈黙の後、涼介が口を開いた。「俺も、理沙の言う通りだと思ってる。母さんの育児方法は古いし、定食屋っていうのも」
「定食屋の何が悪いの?あなたを大学まで行かせたのは、その定食屋のおかげよ」
「分かってる。でも、理沙の実家と比べると、恥ずかしいんだ」
恥ずかしい。息子の口から出た言葉に、私は打ちのめされた。「理沙の父親は大手商社の役員だし、母親も元銀行員。家柄が違いすぎるんだよ」
「家柄?あなたはいつからそんなことを気にするようになったの?」
「結婚してから色々と分かったんだ。世の中には、格の違いっていうものがあるって」
「それで、母親を捨てるの?」
「捨てるなんて大げさだよ。ただ、距離を置いた方がお互いのためだと思って」
私はもう言葉が出なかった。息子は続けた。「母さん、悪いけど、もう家には来ないでくれ。澪も理沙の母親に懐いてるし。二人のおばあちゃんがいたら混乱するから」
私は澪の本当のおばあちゃんなのに。「血の繋がりだけが全てじゃないよ。教養とか、品格とか、そういうものも大事なんだ」
電話を切った後、私は夫の清志に全てを話した。清志は激怒した。「なんて恩知らずな奴らだ。四千万円ももらっておいて、その言い草はなんだ?」
「でも、私たちにできることは何もないわ。もう家にも入れてもらえないし」
「のり子、本当にそれでいいのか?」
清志の言葉に、私は考え込んだ。このまま黙って引き下がっていいのだろうか。息子夫婦の理不尽な仕打ちを、ただ受け入れるしかないのだろうか。
その時、ふと頭に浮かんだことがあった。四千万円で購入した家。あの家の名義は、まだ変更していなかったはずだ。
その夜、私たちは深刻な話し合いをした。「清さん、実は確認したいことがあるの」
「なんだ」
「涼介たちの家の名義。まだ変更してないわよね」
清の目が鋭くなった。「ああ、そういえばそうだな。購入時はのり子の名義にして、後で変更するって話だったが、結局一度も手続きしてない」
私は引き出しから不動産の権利書を取り出した。そこには確かに私の名前が記載されていた。「あの時、涼介が『名義変更は落ち着いてからでいいよ』って言ってたわね」
「そうだったな。理沙の関係もあるからって」
「でも、もう三年も経ってるのに、一度も話が出ないの」
清は権利書を手に取り、じっと見つめた。「のり子、まさか」
「考えてることは同じよ」
「本当にいいのか?」
「もう我慢の限界よ。恩を仇で返すような人たちに、これ以上甘い顔をする必要はないわ」
私たちは顔を見合わせ、お互いの決意を確認した。長年二人三脚で歩んできた夫婦だ。言葉を交わさなくても、お互いの気持ちは分かっていた。
翌朝、私は行動を開始した。まず信頼できる不動産会社に連絡を取り、所有している一軒家を売却したいと伝えた。社長は事情を察したようで、詳しくは聞かなかった。
「わかりました。場所と築年数を教えていただけますか?」
私が詳細を伝えると、社長は驚きの声をあげた。「あの新興住宅地の物件ですか?あそこは今かなり人気が高いエリアですよ」
「駅も近いし、学校も充実してます。四千万円で購入されたんですよね。今なら四千五百万円でも売れますよ。むしろ、もっと高くても売れるかもしれません」
思わぬ展開に、私の心は少し軽くなった。「すぐに買い手は見つかりますか?」
「実は、ちょうどその地域で物件を探しているお客様がいるんです。現金一括で購入したいという方で」
「本当ですか?」
「ええ、すぐにでも内覧したいとおっしゃると思います。もちろん、居住中でも問題ありませんが」
「いえ、内覧は私が立ち合います。住んでいる人たちには、まだ内緒にしておいてください」
社長は了解してくれた。私は売却に必要な書類の準備を始めた。戸籍証明、固定資産税の納付書、建築確認書。一つ一つ確認しながら、複雑な気持ちになった。「本当にこれでいいのかしら?」
迷っている私に、清志が声をかけた。「のり子、迷ってるのか?」
「だって、涼介は私たちの息子よ」
「こんなことをしたら」
「向こうが先に割り込んだんだ。四千万円もの大金をもらっておいて、親を恥ずかしいだなんて」
清の言葉に、私は改めて怒りが込み上げてきた。そうだ。理不尽な扱いを受けているのは、私たちの方なのだ。
その日の午後、不動産会社から連絡が入った。「松本さん、吉報です。例のお客様、購入したいとおっしゃってます」
「そんなに早く」
「ええ、写真を見ただけで気に入られたようで。明日の午前中に内覧、問題なければ即日契約したいそうです」
「わかりました。明日の午前中なら大丈夫です」
私は涼介たちが仕事と幼稚園に行っている時間を選んで、内覧の予定を組んだ。翌日、約束の時間に買い主の方が現れた。若い夫婦で、奥様は妊娠中のようだった。
「素敵な家ですね。子育てにも最適な環境です」
「ありがとうございます。大切に使っていただければ幸いです」
内覧は順調に進み、その場で売却の意思が固まった。不動産会社の事務所で契約書にサインをする瞬間、私の手は少し震えていた。これで後戻りはできない。
帰り道、清が私の肩に手を置いた。「大丈夫だ。俺たちは間違ってない」
「そうね。そうよね」
契約が済んだその夜、私は涼介にメールを送った。「明日の朝、大事な話があります。家で待っていてください」
短い文だったが、これで十分だった。さあ、明日はいよいよ決戦の日だ。息子夫婦がどんな顔をするか、今から楽しみだった。恩を仇で返した報いを、たっぷりと味わってもらいましょう。
売却契約の翌朝、私は清と共に息子の家の前に立っていた。朝の七時、涼介が出勤前の時間を狙っての訪問だ。インターホンを押すと、理沙の苛立った声が響いた。「誰ですか?こんな朝早くに」
「のり子です。昨日メールした通り、大事な話があります」
「お母さん、もう来ないでって言ったじゃないですか」
「これは、あなたたちの今後に関わる重要な話です。聞かないと、後悔しますよ」
しばらくの沈黙の後、玄関のドアが開いた。寝巻き姿の涼介が、不機嫌そうな顔で立っていた。「母さん、一体何のようだよ。俺、これから出勤の準備があるんだけど」
「五分だけ時間をください。いえ、三分で済みます」
「はあ、分かったよ。で、何?」
私は深呼吸をしてから、用意していた封筒を差し出した。「これを見てください」
「何これ?」
涼介が封筒を開けると、顔色が変わった。理沙も横から覗き込んで、悲鳴に近い声をあげた。「売買契約書……」
「そうです。この家の売買契約書です。昨日、正式に契約が成立しました」
涼介の手から書類が落ちそうになった。「はあ?何を言ってるんだよ、母さん。この家は俺たちの」
「いいえ、違います。この家の名義は、私のままでした。確認してないんですか?」
「だって、後で変更するって」
「三年も放置していた、あなたたちの責任です」
理沙が金切り声をあげた。「そんなの、詐欺じゃないですか!」
「詐欺?」清が初めて口を開いた。「四千万円もらっておいて、義母を『恥ずかしい』『格が違う』と言い放つ方が、詐欺だろう」
涼介は慌てて弁解しようとした。「父さん、それは誤解で」
「誤解かどうか、のり子から全部聞いた。お前たち、よくも恩を仇で返したな」
「違うんだ。母さんの教育方針が古いから」
「古い?二十八年間朝から晩まで働いて、お前を大学まで行かせた親に向かって、よくもそんなことが言えたな」
私は冷静に続けた。「新しい所有者の方は、来週から入居したいそうです。なので、今週中に退去してください」
「そんな無茶な!」理沙が泣きそうな顔で訴えた。「子供がいるんですよ。澪はどうなるんですか?」
「知りません。他人のことですから」
私は以前、涼介が私に言った言葉をそのまま返した。涼介はその意図に気づいて、顔を歪めた。「母さん、酷だよ。考え直してくれ」
「考え直す?三年間、私を締め出しておいて、今更何を言うんですか?」
「謝るから。今までのことは、謝るから」
「謝罪なんていりません。私はもう、あなたたちの家族ではないんでしょう」
理沙が必死に食い下がった。「お母さん、澪のことを考えてください。孫が路頭に迷ってもいいんですか?」
「孫?私には孫なんていません。だって、合わせてもらえないんですから」
「これからは合わせます。好きなだけ会ってください」
「今更、遅いです。それに、あなたのお母様がいるじゃないですか。元銀行員で、品があって、教養もある素晴らしいお母様が」
私の言葉に、理沙は言葉を失った。その時、奥から澪の声が聞こえてきた。「ママ、どうしたの?」
理沙は慌てて奥に向かって叫んだ。「澪は部屋にいなさい!」
しかし、澪は玄関まで出てきてしまった。そして私を見ると、首をかしげた。「この人、誰?」
三歳の孫は、私の顔を覚えていなかった。当然だ。一年以上も会っていないのだから。「澪ちゃんは、私のことを知らないのね」
私は寂しく微笑んだ。「でも、それでいいんです。どうせ、私は必要ない存在ですから」
涼介が膝をついて懇願した。「お母さん、お願いだ。どんな条件でも飲むから、家だけは」
「条件?」
「家賃を払う。月十万でも二十万でも払うから」
「家賃?」清が鼻で笑った。「今まで三年間、ただで住んでおいて、今更家賃だ?」
私は首を横に振った。「もう売却は決定事項です。契約解除には違約金が発生します。それに、私はこのお金で新しい生活を始めるつもりです」
「新しい生活?」
「清と二人で、世界一周クルーズにでも行こうかと思って。老後は自由に生きることにしました」
理沙が最後の手段に出た。「訴えます!こんな一方的な売却、法的に問題があるはずです!」
「どうぞ、ご自由に。でも、名義は私ですし、売却は正当な手続きを踏んでいます」
私は理沙を見据えて言った。「それに、裁判になれば、あなたたちが三年間家賃も払わずにただで住んでいたことも明るみに出ますよ。四千万円の贈与だったことを、証明できますか?」
涼介も理沙も、もう反論できなかった。「では、私たちはこれで。退去の件、よろしくお願いします」
清と私が立ち去ろうとした時、涼介が最後に叫んだ。「母さん、俺たちは親子だろ?」
私は振り返った。「親子?親を『恥ずかしい』『格が違う』という息子が、どの口で『親子』だなんて言うんですか?親子の縁は、あなたたちが先に切ったんです。私はただ、それに従っただけです」
家に戻る車の中で、清志が言った。「のり子、よく頑張った」
「ありがとう。でも、少し寂しいわ」
「当然だ。でも、向こうが選んだ道だ」
「そうね。そうよね」
その日の夕方、涼介から何十件もの着信があったが、私は一切出なかった。メールも来ていたが、開かずに削除した。
三日後、不動産会社から連絡があった。「松本さん、息子さんご夫婦、無事に退去されましたよ」
「そうですか。良かったです」
「ただ、かなり取り乱していたようで」
「想像できます。でも、自業自得です」
一週間後、売却代金四千五百万円が私の口座に振り込まれた。三年前に支払った金額より、五百万円も増えていた。「さあ、新しい人生の始まりね」
私は清と乾杯した。恩知らずな息子夫婦に費やす時間は、もう一秒もない。これからは、自分たちのために生きていこうと決めた。
売却から三か月後、私と清は豪華客船のデッキで地中海の風を感じていた。
「のり子、見ろよ。サントリーニの塔だ」
「まあ、本当に青い屋根ね」
私たちは売却金の一部を使って、夢だった地中海クルーズを楽しんでいた。「思い切ってよかったわね」「ああ。二十八年間休みなく働いて、やっと自由を手に入れた気分だ」
涼介のことは、今は考えないようにしよう。せっかくの旅行だ。しかし正直なところ、息子のことが頭から離れることはなかった。親子の縁を切るというのは、想像以上に心が痛むものだ。
帰国後、私たちは新しい生活を始めた。売却金の残りは老後の資金として運用し、店の仕事も少しペースを落とした。週三日の営業に変更し、残りの日は趣味や旅行を楽しむことにした。
ある日、店に一人の女性客が訪れた。「いらっしゃいませ」
「あの、松本さんですか?」
見覚えのない女性だったが、どこか親しみを感じる雰囲気があった。「はい、そうですが」
「私、理沙の友人の弓です。公園でお会いしたことが」
ああ、あの時、理沙が私の悪口を言っていた時にいた友人だった。「覚えています。今日はどうされたんですか?」
「実は、理沙から聞いて……いえ、違うんです。あの日のこと、ずっと気になっていて」
弓さんは申し訳なさそうに続けた。「理沙の言い方、本当にひどかったと思います。私、止められなくて。もう終わったことです。でも、お店のことを調べさせてもらって、来てみたら、本当に素敵なお店で。温かい雰囲気で、お料理も美味しくて」
弓さんはそれから週に一度、常連客として通ってくれるようになった。「実は、私、理沙とはもう連絡を取っていないんです」
ある日、弓さんがぽつりと言った。「そうなんですか?」
「ええ、あの後、アパートに引っ越したって聞いて。口ばかりで会うのが辛くなって。でも、松本さんは正しかったと思います。人を見下すような人に、いいことは起こりませんから」
弓さんの言葉に、少し心が軽くなった。
半年後、予想もしていない出来事が起きた。店に一人の男性が入ってきた。髪はボサボサで、スーツもヨレヨレ。顔をあげた瞬間、私は息を飲んだ。
涼介。半年ぶりに見る息子は、見る影もなくやつれていた。
「久しぶりね」
「……母さん」
涼介はカウンター席に座った。「定食、一つもらえるか」
「分かったわ」
私は黙って、涼介の好物だったハンバーグ定食を作った。涼介は涙を流しながら食べていた。「美味しい。母さんの味だ」
「当たり前でしょ。二十八年、変わらない味を」
食事を終えた涼介が、ゆっくりと口を開いた。「母さん、俺、本当にバカだった」
「今更、何を言ってるの?」
「理沙と、離婚した。澪は、向こうが引き取った」
「……そう」
「仕事も、首になった。家を失ってから、何もかも上手くいかなくなって」
涼介の話によると、アパート暮らしのストレスで夫婦仲は悪化し、理沙は実家に帰ってしまったそうだ。仕事でもミスが続き、ついに解雇されたと。「母さん、俺、どうすればいいか分からないんだ」
「知らないわ。もう、他人でしょう」
私は冷たく言い放った。しかし、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。「分かってる。俺が全部悪いんだ。でも……」
涼介は泣き崩れた。もういい大人であるはずの息子が、子供のように泣いている姿を見るのは辛いものだった。しかし、私は毅然とした態度を崩さなかった。
「涼介、あなたは自分で選んだのよ。定食屋を『恥ずかしい』と言い、親を否定した。その結果が、今なのよ」
「分かってる。分かってるんだ」
「なら、自分の力で立ち直りなさい。それが、大人としての責任でしょう」
涼介は何も言わずに、店を出ていった。その夜、清と話し合った。
「のり子、本当に良かったのか?」
「あの子のためよ。甘やかしたら、また同じ過ちを繰り返すわ」
「そうだな。辛いが、それが正しいのかもしれない」
それから数か月後、涼介から手紙が届いた。小さな会社に再就職し、安いアパートだが自立して生活していること。そして改めて両親への感謝と謝罪の言葉が綴られていた。「いつか必ず恩返しをさせてください。もう二度と、親を軽んじるようなことはしません」
手紙を読み終えた私は、少しだけ微笑んだ。まだ時間はかかるでしょうけど、いつかまた――。清も優しく頷いてくれた。
親だからと言って、全てを我慢する必要はない。理不尽な扱いには、正当な方法で対抗する権利があるのだ。そして、自分の尊厳を大切にし、幸せな人生を歩む権利は、誰にでもある。



