あの日、会議室の空気が凍りついた。目の前で後輩の長嶋が、私の頭をバシバシと叩きながら高笑いしている。
「年だけ食ってる役立たずはお荷物なんですよね。この人、俺より年上なんですけど、使えないんで俺のパシリにしてます。コーヒー1杯まともに入れられないとはね。何の取り柄もないクズですよね」
大手菓子メーカーとの重要な商談の場だ。長嶋は私を貶めることで、自分を大きく見せようとしている。同席していた相手側の女性、神岡彩子さんは、氷のような視線で私たちを見つめていた。その切れ長の瞳には、怒りの炎が灯っているように見えた。
「あの、それ以上の侮辱はやめてくださる。あなたに何の権限があってされているのか分かりませんが、見ていて非常に不愉快です。なぜなら彼は私の……」
彼女の言葉に、会議室の全員が息を呑んだ。
「……夫ですよ」
私の名前は中勇樹。入酸金飲料の大手メーカー、自分の祖父が創業した会社の営業部に勤めている。入社して一通りのことを学んだ後、海外の事業所へ3年間転勤していた。そして先月、日本の営業部へ帰ってきたばかりだ。
出勤時間の1時間前、私は営業部の掃除を始めていた。清掃会社の人はいるが、この1ヶ月で察した「やらされていること」を少しでも減らしておきたかったのだ。個人のゴミ箱のゴミを集め、デスクの足の隅に落ちているクリップを拾う。机の上には「今月のノルマ未達の場合は即刻謝罪文提出」「売上目標必達」などと赤字で書かれた紙が並ぶ。3年前なら考えられない光景だ。ゴミ箱には、達成できなかった営業成績表や、諦めたように丸められた退職届の下書きまである。デスクの引き出しは、胃薬や頭痛薬の空箱でいっぱいだ。この会社は、随分変わってしまった。
「仲、コーヒー早くしてくれよ。眠いんだよ」
長嶋がデスクに足を投げ出しながら言う。私は何も言わずに立ち上がり、コーヒーを準備して彼の元へ持っていった。
「最近やっとパシリが身についてきたじゃん、おっさん。でもさ、俺眠いって言ってんだから、今日は濃いの入れてこいよな。あ、あと、俺腹減っててさ。今からコンビニでメロンパン買ってきてくれよ。ほらほら、さっさと」
彼は小銭を私に向かって投げ、顎で「行け」とジェスチャーした。周りの同僚たちは、視線をそらすか、何事もないかのように振る舞う。私は黙ってオフィスを後にした。
長嶋は、私が入社1年目の終わり頃に入社してきた後輩だ。高学歴エリートで、プライドが高い。自分より立場の弱い人間を見つけては、徹底的に支配したがる性格だった。海外から戻ってきた私を見つけ、格好のターゲットにしたのだ。初めは小さな頼み事からだったが、徐々にエスカレートし、今では完全なパシリ扱いだ。
なぜ私が反発しないのか。それは、私がここで彼を拒否すれば、長嶋は次の標的を探すだけだからだ。次の新入社員、中途採用者、派遣社員。誰かが犠牲になる。私は彼に、「上に立ちたい」という感情と、今の環境へのイライラを感じていた。それでも、彼がいつか役職的に上に立つようになる前に、変わってくれる糸口を探しておきたかった。この会社は、人との繋がり、人への安心感を大切にしてきた会社なのだ。その理念は、外へ向けてだけではなく、中で働く人たちにとってもそうでなければいけない。私はそう強く感じていた。
そんな中、上司から大手菓子メーカーへの営業を、私と長嶋が指名された。ほぼ確約に近い案件だったが、最後で失敗はできない。相手は大手お菓子メーカーで、うちとのコラボ商品を提案するという、会社として初の試みだった。成功すれば、大きな扉が開く。
商談当日、王設に通されると、何度も話をしてきた営業部長の横に、見たことのない女性が立っていた。片方だけ髪を耳にかけた、セミロングの黒髪。整った顔立ちで、仕事ができるオーラをまとっている。彼女が名乗った。
「神岡彩子と申します。本日はよろしくお願いいたします」
長嶋が「神岡……」と呟く。彼女はうちの社長の一人娘だと聞かされ、長嶋の声のトーンが少し上がったように感じた。
商談中、私はミスを犯してしまった。営業部長に渡す資料を間違えてしまったのだ。
「申し訳ありません。お渡しする資料を間違えてしまったようで、すぐに最新のものを……」
すると、チャンスと思ったのか、長嶋が神岡さんの方を向いて言った。
「申し訳ありません。本当に年だけ食ってる役立たずは、パシリでもお荷物なんですよね」
場の空気を和ませようとしたのか、彼は私の後頭部を叩きながら笑った。しかし、彼女は微動だにしなかった。私は気にせず、海外勤務時代の経験を活かした提案を続けた。
「海外では、日本初の商品は『可愛い』『楽しい』というイメージで受け入れられる一方で、健康機能性という要素も同時に求められています。今回のコラボは、まさにその両方を兼ね備えた商品になり得ると考えています」
営業部長が「これは面白い!」と声をあげ、神岡さんも資料に見入りながら頷いた。長嶋は面白くなさそうな顔をしていたが、私は無視して話を進めた。
すると、また長嶋が私の頭を叩きながら嫌味を言おうとした。その時だった。
「あの、それ以上の侮辱はやめてくださる。彼は私の夫ですよ」
「え? 夫?」
私も長嶋も硬直してしまった。予想だにしない言葉だ。彼女は淡々と商談を進め、契約は成立した。そして、みんなが握手を交わした後、彼女は長嶋に向かって言った。
「長嶋さん。ところで、パシリってどういう意味なのですか?」
「え、いや、あ、コミュニケーションというかですね……」
「音社はコミュニケーションとして人の頭を叩くのですか? 年上から学ぶ姿勢自体は良いものだと思っています。では、あなたにとって私も役立たずですか?」
長嶋は言葉を失い、部長に促されるようにして退出していった。私だけが残され、神岡さんと2人きりになった。
「あの……夫って、どういうことですか?」
「婚約は親族同士が決めたことよ。しかも、あなたが日本にいない時に。でも、2回デートしたわ」
「もしかして、それって今日のことも入れてません? 1回顔合わせで会っただけでしょう?」
実は、私は1年前から彼女と婚約関係にあったのだ。元々親戚同士が決めた話で、社長令嬢が私なんかと結婚するはずがないと思い、全てを親任せにしていた。母と2人で暮らしてきた身としては、神岡物産という大企業の令嬢と釣り合うはずもないと思っていたからだ。彼女とはオンライン通話で一度会ったきりで、その後何の話も聞かなかったので、破談になったものだと思っていた。
「ゆきさん、今夜ディナーどうかしら?」
「あの、あなたからなら、こんな話、なかったことにできるでしょう。俺にかかってる時間なんて無駄なだけですよ」
「無駄? 無駄なわけないわ。私はまだあなたのことを知らないもの。知る時間は無駄じゃないでしょう。じゃあ決定ね。今夜楽しみにしているわ」
彼女は綺麗な笑顔を残して、出ていってしまった。亡くなっていたと思っていた結婚話が、実はまだ生きていた。しかも、相手はそれを良しとしている。混乱は最高潮に達していた。
会社に戻ると、課長や同僚たちが契約成立を喜んでくれた。「君の海外経験を活かした提案が向こうの心を掴んだって。さすがだな」「神岡さんが即断即決で採用するなんてすごいじゃない?」周りから次々と声がかかる。長嶋は不機嫌そうに席を立っていった。
夜、彩子さんと食事をした。最初は気まずかったが、彼女と話すうちに、仕事での彼女とは全く違う一面が見えてきた。好きな料理の話、毎朝見る猫の話、デザートはケーキかソルベか。そんな他愛のない話であっという間に時間は過ぎた。帰り際、友人からもらった映画の前売り券の話をすると、彼女は目を輝かせた。
「これ、私の大好きな映画! 映画館で見られるのね。行きたいわ」
「よかった。じゃあ、ネットチケットなんで送っておきますよ」
「これ、2枚になってるわ」
「え? あ、本当だ。そういえば、誰かと行けって言われたような……」
沈黙の中、迎えの車が止まった。彼女はしばらく私を見ていたが、意を決したように言った。
「今度、俺と一緒に行きませんか?」
「はい」
そうして彼女は最高の笑顔を残し、車に乗り込んだ。見えなくなるまで手を振ってくれていた。私は何とも言えない気持ちで駅へ向かった。夜で誰にも見えないと分かりながらも、少しにやけてしまっている口元を隠しながら。
それから、私たちは自然と時間を合わせて会うようになった。映画館で彼女が大泣きする姿を見て、公園でコーヒーを飲みながら手を繋いだ。彼女の存在は、婚約が決まった時とは全く違うものになっていた。会いたい、そばにいたい。その気持ちがはっきりと私の中に生まれていた。
ある日、私は彼女に今の気持ちを伝えるために、高級ホテルのレストランを予約した。しかし、緊張のせいか、料理の味がよくわからなかった。彼女の生きている世界は、本当はこういう場所なのだ。俺に合わせて、こういう場所はやめてくれていたのかもしれない。そんなことを考えていると、「身分違い」という言葉が頭の中に膨れ上がってきた。
「ゆきさん、あなたのことをもっと聞きたいなって」
自分のことを話すのは少し辛かった。私の祖父は会社を経営していた。父は私が小学生になる前に病気で亡くなった。祖父は父を会社を継ぐ後継者として見ており、父が母と結婚したことを許していなかった。父が亡くなった後、祖父は母に向かって何度も叫んだ。「お前のせいだ。疫病神が」。母と私は追い出されるように家を出て、市営住宅で質素な生活を送った。母はジムのパートと居酒屋のバイトを掛け持ちして、必死に私を育ててくれた。親戚付き合いは自然と途絶え、母方の親戚でさえ、祖父の影響力を恐れてか関わりを避けようとした。身分なんて、今の世の中関係ないと思う人が多いだろうけど、そんなことはない。それは決して本人だけの問題じゃない。家族や親戚まで巻き込んで、長い時間をかけて人の繋がりを壊していくんだ。
「あの……あの、あ子さんと違って、俺なんて普通の家だから。こんな料理も、あ子さんとじゃないと食べないし。やっぱり住む世界が違うんだなって」
「そんなの関係ないでしょ。私はゆきさんが好きなの」
その言葉に胸が高鳴った。でも、だからこそ余計に言わなければいけないと思った。
「関係ないなんて……あ子さんはそんな経験ないから簡単に言えるんだよ。身分が違えば、周りの目も親戚付き合いも全部変わってしまうんだ。そういうことを見てきた俺には……」
「だから何なの? 私たちの気持ちが本物なら、そんな周りなんて関係ないじゃない」
「そんな簡単な話じゃないんだ。君は何も知らないから」
俺の言葉に、あ子さんの表情が凍りついた。その瞳に、悲しみと何か悟ったような色が浮かんでいた。
「そう。結局あなたも他の人と同じなのね。私の立場を見て近づいてきただけ。私って本当にバカ」
彼女の声は震えていた。今まで見たことのない、深い失望と悲しみの色が彼女の表情を覆っていく。
「違う。そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、身分が違うっていう私に、どうして近づいてきたの? もういいわ」
彼女は涙を目に溜めながら、俺を睨んでいた。そして、バタバタと鞄を持ち、店を出ていってしまった。気持ちを伝える前に、全てが終わってしまった。それだけでなく、彼女を傷つけてしまった。もう何もかも最悪の状態で、俺は彼女を失うことになった。
あの日から3日後、珍しく祖父から連絡が来た。祖父の別荘に呼び出されたのだ。祖父は俺を睨みつけると、強い口調で話し出した。
「お前、神岡との縁談はうまくいきそうなんだろうな」
「さあ。ああ、そういえば、先日破談にしてくれていいとはお伝えしましたよ」
「何をやってるんだ! 今すぐ謝罪してこい。土下座してでも何でもやってこい!」
「お断りします」
「なんだと?」
「俺はじいちゃんの作った商品が好きだったし、会社の理念も理解できた。じいちゃんに散々言われてきた母さんも背中を押してくれたから、今の会社へ就職したんだ。俺を利用するのはいい。でも、あ子さんを利用するのは許せない」
「神岡との縁は、息子の春樹が残した唯一の使えるものだったんだぞ! お前の父さんは、営業のエースとして、今の神岡の社長と2人で夢を語り合った仲だったんだ。それを死んでしまってな。お前はその大切な縁まで無駄にする気か!」
「底辺人間の血が入ると、我が孫でもここまで出来が悪くなるとは。あの女はやはり疫病神だ」
「なら、その疫病神に惚れた父さんは何なんだ? その親のあんたは何なんだよ!」
私はそう言い放つと、部屋を出た。
祖父は、私が今務めている会社の創業者であり、現社長だ。本来なら父が継ぐはずだった会社を、父の死後、祖父は私に継がせようとしている。今回は、あ子さんという令嬢を利用して、自社の安泰を図ろうとしているのだ。父が亡くなり、母を追い出し、今度は孫と令嬢を駒にして、自分の思い通りにしようとしている。これが、急に決まった私と彩子さんとの婚約関係の真相だった。
そして予想通り、祖父は勢いで行動に移していた。翌日出勤すると、私は注目の的となっていた。業界紙に、「創業者の孫が解雇」という、まるで見せしめのような記事が載っていたのだ。祖父は、自分の思い通りにならない孫への報復として、私の素性を暴露し、解雇したように見せかけた。私が祖父の孫だと知った同僚たちは、驚きと好奇の目で私を見ていた。
私は部長と課長へ挨拶をし、デスクを片付け始めた。すると、久々に長嶋君が声をかけてきた。
「中さんもバカだよね。まあ、社長になって首切られても困るんで、そろそろ潮時かなと思ってたけど。あんた、夜当たり下手すぎでしょう」
「夜当たり下手でも、言いたいことが言えたのでよしとします。お世話になりました、長嶋さん」
私は会社を後にした。それから転職活動が始まったが、解雇されたという事実は同業種に回っており、なかなかうまくいかなかった。諦めかけていた時、突然スマホが鳴った。画面を見ると、意外な人物からだった。
「もしもし。ゆきさん?」
電話の相手は、あの日以来の彩子さんだった。
「会社やめたって聞いて。新しい会社、決まったのかなって」
「心配してくれてありがとうございます」
「ごめんなさい。私、あの日のこと、ずっと謝らないとって思ってたのに、連絡できなくて怖くて。そしたら、ゆきさんが会社やめたって聞いて。私、勝手にひどいことを言ったわ。分かってたのに。あなたは肩書きじゃなくて、私を1人の女として接してくれてるんだって」
彼女は泣いていた。ずっと傷つけていたのかと思うと、申し訳なくて、今すぐ彼女の元へ行きたいとまで思ってしまった。
「泣かないでください。ずるいかもしれないけど、せっかくの機会だ。あの日伝えられなかったこと、今言っていいですか? 俺の中で、彩子さんは特別な存在です。勝手に決まった婚約話だったけど、あなたに出会えたことを感謝してます」
電話越しだと、相手の表情が見えない分、緊張が倍に感じる。しばらく沈黙が続いた後、彼女の声が聞こえてきた。
「あ、あやう、嬉しい。私も出会えてよかった。あんな形で終わりなんて嫌なの。ごめんなさい。私も焦ってしまって、思ってもいないこと言ってごめんなさい」
お互いに謝り、少し沈黙が流れたが、彼女の鼻をすする音が盛大に響いたことで、私たちは吹き出してしまった。少し話した後、彼女が意を決したように言った。
「ゆきさん、うちで働かないかしら?」
「え、神岡産業に?」
「別に私のでも何でもないわ。うちも海外進出はしているけど、少し弱いの。より力を入れるために、ゆきさんなら絶対に必要な人材だわ」
思っても見なかった誘いに、一瞬祖父の顔が浮かんでしまったが、これは俺という1人の男を見て、彼女がくれたチャンスだ。悩む必要などなかった。
「お世話になります」
こうして、私の新しい日々が始まった。神岡物産海外事業部。新しい職場に移ってから2ヶ月が経とうとしていた。私は解雇の理由を隠すのをやめようと決めていた。祖父のワンマンさは一部では有名だったらしく、人事部の反応も「ああ」といった感じだった。無事に入社することができ、私はこれまでの経験を生かして、各国の市場分析から始めた。現地スタッフの意見を積極的に取り入れ、各国の味覚に合わせた商品開発の提案も進めた。成果は少しずつ形になってきている。この会社に来て良かったと思う大きな理由の1つは、彩子さんの笑顔にいつでも出会えることかもしれない。
そんなある日、また祖父から呼び出しがあった。しかし、以前と違い、どうも機嫌が良さそうだった。
「ゆき、お前、やっとわしの考えを理解したようだな。まさか神岡に転職するとは。令嬢の娘を絶対に逃すなよ。しかし、これなら計画も早く進みそうだな」
「何の話ですか?」
「勝手に婚約を決めたのは、自分の会社の安泰のためでしょ」
「よくわかっているじゃないか。お前が神岡側にいれば、吸収合併もやりやすくなる。そうすれば、お前を社長にする。これで我が社は安泰だ」
「吸収合併? 何言ってんだよ、じいちゃん。神岡は全体的に見ればうちより規模がでかいんだぞ」
「規模が大きいからこそだ。神岡のお嬢様と結婚して両者のパイプを作る。それからお前が会社の立場を利用して株を集める。最後は経営統合という名目で、うちの商品開発力と神岡の販売力を組み合わせれば、どちらもいい話だと説得できる。そうすれば、実質的な支配権は我が家のものだ。これこそが経営者の考えることだ」
「俺は絶対にそんなことしないからな」
「なぜだろうか。じいちゃんを見ていると、腹立たしさを通り越して悲しさが溢れてきた。じいちゃん、現実を見てくれよ。もう噂で回るレベル2までなってるんだよ。あそこの会社はノルマもきつくなって、さらにひどくなって起きてもおかしくないって。毎朝営業部のデスクに『今月の必達ノルマ』って紙が置かれてて、達成できなかった社員は夜遅くまで謝罪文を書かされる。若手は次々とやめていくのに、誰も声を上げられない。自転車で売って歩いた頃のじいちゃんなら分かるはずだ。この会社は人との繋がり、人への安心感が1番大切だったんじゃなかったのか? 今は数字だけを追いかけて、社員の声は本当にじいちゃんの耳に届いてるのか?」
祖父の表情が一瞬揺らいだ。
「今回の無理な買収だってそうだ。じいちゃんの周りには、反対する人1人もいないのか?」
私は祖父に背を向けて、その場を去った。
それからまた1ヶ月が過ぎ、以前関わっていたコラボ商品がいよいよ商品化へ向けて動き出した。神岡物産の人気商品と、祖父の会社の入酸金飲料のコラボだ。販売前のイベントを開催することになり、私も手伝いとして参加することになった。しかし、イベントの1週間前、それは起こった。
「ちょ、ちょっと待ってください。今、中止だなんて困ります。すでに走り出してしまっているんですよ。うちだけではなく、そちらにも損害が……」
営業部のオフィスに彩子さんの声が響いた。相手側が、突然コラボを白紙にしたいと言ってきたのだ。嫌な予感がした。私たちはすぐに祖父の会社へ向かった。受付でアポを取ってくれた彩子さんの話では、祖父が直接対応するとのこと。私は彩子さんを引っ張り、社長室へ向かった。
葉巻の煙が充満した部屋に、祖父と副社長がいた。祖父は威圧的な声を出した。
「神岡さんね。そりゃあ、あんたの方のミスだからだよ。オタクのポテトチップスだったか。あれ回収になったんだろう? そこで新商品なんて、こちらとしては関わることに何の利益もないだろう。もちろん損害は全てそちらに持ってもらうことになる」
祖父は、SNSで拡散された些細なクレームを盾に、神岡物産の株を下げ、吸収しやすくするつもりなのだ。彩子さんは今にも倒れそうになっていた。私は彼女を支え、少し後ろに立たせた。
「こんなことしたくなかったんですよ」
「何がだ、ゆき。ちゃんと神岡がうちの傘下に入れば、お前を社長にすることは考えているからな。心配するな」
「はあ、残念です。逆にうちがもらってあげますよ。ここはもうすぐ社長不在の会社になりますからね」
俺の言葉の意味を理解できない祖父は笑い続けていたが、副社長の顔色が青くなっていることに気づいたようで、ようやく笑うのをやめ、俺に問いかけてきた。
「どういう意味だ?」
「株主総会で、代表取締役の解任を要求します」
「なんだと、株主総会だと?」
「父さんは生きていた時、念のために会社の株式の2/3を集めて、母さんと俺に分けていたんだよ。じいちゃんの沸点の低さは1番分かってたからね。今がその時だ。だから言っただろう。現実を見てくれって」
祖父は言葉を失い、副社長が慌てて駆け寄った。私は部屋の端で電話をかけた。少しすると、ノックの音が響いた。
「どうぞ。失礼します。わあ、社長室なんて初めてですよ。てか、予想以上に早かったな」
「中さん、事情は知ってるでしょう?」
「長嶋さん」
私が電話で呼び出したのは、あの長嶋君だった。彼は太いファイルを数冊、ドンと中央のテーブルへ置いた。
「これだけの量見るのは大変だと思いますので、簡単に説明しますね。ここ1年での地域販売員のノルマの上昇グラフと達成率グラフですね。そしてノルマ達成のために自腹を切った金額の平均。うわあ、自分で見ててもブラック企業とやばいですね。で、本社社員の意見という名の愚痴一覧です。こんな状況ってご存知でしたか、社長?」
実は、私が解雇された日、長嶋君は私にある取引を持ちかけていたのだ。
「この情報、中さん好きに使っていいよ。その代わり、パシリにしていた件は水に流すってことで」
彼はずっと、この会社の問題を独自に調査していたのだ。
「さて、俺は戻るよ。あ、神岡さん。やっぱり2歳は親父ですよ。俺にはまだここまで大胆に動く度胸はないですね」
そう言って、長嶋君は台風の後の風のように去っていった。祖父はソファーに力なく座っていた。
「じいちゃん、本当にわしを解任させるのか? お前の母、あの女も了承しているということは、復讐か?」
「俺は母さんから、じいちゃんの悪口なんて1回も聞いたことないよ。俺が悪口ばっかり聞いてたら、さすがに就職しようと思わないだろう。母さんは言ってたよ。あの会社は、母さんのためにおじいちゃんが必死になって頑張って作り上げたものなんだって。父さんを一人で育てながら、毎日自転車で商品を売って。だから父さんがいなくなって、今あの会社を大きくすることがおじいちゃんの夢なんだって」
祖父の声が震えていた。妻を早くに亡くし、必死で息子を育て上げた。その息子も若くして死に、残された嫁を疫病神と罵って追い出した。なのに、その母が自分の人生、自分の思いをここまで理解していたと知り、言葉を失ったのだ。
「じいちゃん、やり直そう。そして、もう1人で突っ走らないでくれよ。俺も母さんも、それに今はたくさんの仲間がいるだろう」
私の握り続けた拳に、彩子さんがそっと手を添えてくれた。それを見ていた祖父は、何を思い出したのだろうか。目頭を抑え、震える声で言った。
「この年で1からか。みんなに力を借りないといけないな」
「できるさ。じいちゃんはゼロからここまでやってきた、最高の人生の先輩なんだからさ」
2ヶ月後、コラボ商品の全国発売日。SNSは感想のつぶやきで溢れ、大成功だった。祖父は株主総会を待たずに、自ら社長の椅子を降りた。副社長も着服が明らかとなり退職した。長嶋君は海外赴任を自ら志願し、アメリカで頑張っている。
そして、私は今、彩子さんと一緒に、実家で母と祖父を前にして座っている。祖父と母が並んで座っていることにも、まだ慣れない。祖父は社長を辞任した後、相談役として現場を回っているうちに、たまたま母と再会したのだ。祖父はその場で泣き崩れてしまったらしい。何度も「すみません」と言いながら。そんな縁もあり、祖父と母の距離は少しずつ縮まっていた。
「あの、じいちゃん、母さん。改めて、こちらが神岡彩子さんです。結婚を前提にお付き合いさせていただいていて、結婚します」
「上岡彩子と申します。ゆきさんとは何とも不思議なご縁での出会いとなりましたが、彼と共にこれからの人生を歩んでいきたいと思っております。どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
流れるように話し、頭を下げる彩子さんに私が呆然としていると、母から視線が飛んできた。私も急いで頭を下げ、「お願いします」と叫んだ。
「2人とも、頭をあげなさい」
祖父は俺たちにそう言った。顔をあげると、祖父は今にも泣きそうな顔をしていた。母にティッシュを渡され、涙と鼻水を必死に拭いている。
「彩子さん。ゆきは本当に、父親の春樹にどんどん似てきておる。親の言うことは聞かん頑固者なのに、心配だけはしてくる。いい嫁さんを連れてくる。可愛い孫をわしに合わせてくれた。唯一アホなのは、ここにおらんことだ。父さん、すまん」
「ゆきの手を彩子さんが握ってた時、思い出したんだよ。春樹がお前さんの手を取って、家を出ていった時のことをな。だが、もう1つ思い出したんだ。春樹が小さかった頃、研究室へ向かうわしの手をいつも握っておったんだ」
祖父はほんの少し笑いながら、懐かしそうな顔をした。
「父ちゃん、今日も博士の服着るの? ああ、父ちゃんがみんなを健康にするんだぞ。すごいだろ。かっこいい! だったら、もう母ちゃんがいないって、寂しくなくなるかな。春樹、やっぱりか。うん。でも父ちゃんがいるから半分だけだ。父ちゃん、早く行こう。そんなこと言っとったのに、自分が病気になってよ。すまん」
祖父はもう一度鼻をすすると、俺たちを改めて見た。
「謝罪しなければいけないことは山ほどあるが、今はまず君たち2人の幸せを全力で応援する」
私たちは家を後にし、少し歩くことにした。ふと空を見上げた彩子さんがポツリと言った。
「私、ゆきさんのお父様に会いたいわ」
「そうだな。父さんにも報告しとかないと」
「私ね、全部お父様が縁を繋いでくれた気がしてるの。ゆきさんはもちろんだけど、おじい様とゆきさん、そしておじい様とお母様。考えすぎかもしれないけど、そう考えた方が、なんだかお父様とも出会えた気持ちになれるわ」
「それあるかもしれないな。父さんって、どうもお人好しだったみたいだからさ。だから、俺も心配かけないように……」
そう言って私は立ち止まり、彩子さんの手を取った。そして、右手の薬指にそっと指輪をはめた。
「一生かけて幸せにします。よろしく、彩子さん」
青空の下で、泣き笑いする彩子さんと、それを見つめる私。日の光で輝く指輪と彼女の涙が、静かに照らされていた。初心忘るべからず。人生の中で突然道が変わってしまうことなんて、いくらでもある。何もかも忘れて必死になることもある。それでも、大切なのは、どれだけ道が変わっても、必ず戻ることのできる初心を持ち続けることなのだろう。



