山田太郎は81歳だった。背中は曲がり、歩く時は右足を少し引きずる。40年間、廃棄物収集の仕事を続けてきた体は、もう悲鳴を上げていた。それでも彼は病院が苦手だった。正確には、病院の窓口で財布を出す瞬間が苦手だった。
彼の一日は朝6時に始まる。目覚ましが鳴る前に目が覚める。現役の頃からの習慣だった。起きると仏壇の前に座り、線香を1本立てて手を合わせる。妻の写真は随分色褪せて、表情の細部はもうわかりにくくなっていた。それでも毎朝、同じように手を合わせた。
朝食は前の晩に炊いたご飯に味噌汁をかけたものと、半額シールの貼られた漬け物だった。近所のスーパーは閉店1時間前になると値引きシールを貼る。彼はその時間に合わせて買い物に行くのを習慣にしていた。レシートは全て財布に畳んで入れ、家に帰ってからノートに金額を書き写す。先月の食費が3万2480円。その前の月が3万120円。数字を眺めながら、どこをもっと切り詰められるか考える。それが彼の夜の過ごし方だった。
なぜそこまで切り詰めるのか。答えは一つしかなかった。娘に迷惑をかけたくなかった。娘の千津は今年40歳になる。大型スーパーの食品売り場でレジをしている。離婚して、今は子供2人を1人で育てている。上の子が大学、下の子がまだ高校生だった。千津が毎日どれほどギリギリの生活をしているか、太郎には分かっていた。だから余計に、自分は何があっても娘に頼らないと決めていた。
太郎の口座には500万円があった。40年間給料から少しずつ積み立て、退職金の一部と合わせてなんとか積み上げた金だった。この金は手をつけないと決めていた。自分が1人で生活できなくなった時に有料老人ホームに入るための費用。もし施設に入らずに済んだなら、葬式代とそれ以外は千津に残す。そういう計画だった。500万円という数字が、太郎の老いた体を支える最後の柱だった。
あの日の午後3時過ぎ、千津が突然アパートを訪ねてきた。仕事が終わった後によったのだろう。まだスーパーの制服姿だった。千津は玄関先に立ったまま、なかなか部屋に上がろうとしなかった。太郎が座るよう促しても、彼女は上がり框の橋に腰を下ろしただけだった。靴も脱がなかった。長居するつもりはないという意思表示だったのかもしれない。
しばらく2人は黙っていた。太郎がお茶を入れようと立ち上がりかけると、千津は手を振って止めた。その声が少し硬かった。
「お父さん、50万円貸してもらえる?」
太郎は手に持っていた湯呑みをそっとテーブルに置いた。千津は続けた。
「賢介の高校の学費が来月までなんだ。奨学金の審査が間に合わなくて。来月には絶対に返す」
声は落ち着いていたが、その落ち着き方が不自然だった。何度も練習してきたような、そういう平坦さだった。太郎は娘の横顔を見た。頬が少しこけていた。若い頃は丸みのある顔立ちだったのに、今は顎のラインがはっきりしすぎていた。
太郎の中で何かがゆっくりと収縮した。50万円。娘が初めて金を借りに来た。今まで一度もなかった。千津はプライドが高い女だった。離婚した時も実家に頼ろうとしなかった。その千津が、こうして目を合わせずに金の話をしている。それがどれほどのことか、太郎には分かっていた。
だが分かっているからこそ、言えなかった。口座の中の500万円に指一本触れることができなかった。あの金は俺が死ぬための金だ。老人ホームに入るための金、もし入院が必要になった時の金、誰にも迷惑をかけずに静かにこの世から消えるための金。そのために40年かけて積み上げた金に手をつけたら、俺はもう自分の始末を自分でつけられなくなる。
太郎はゆっくりと言った。
「それはできない。あの金は動かせない。事情は分かるが、それだけは無理だ」
千津の手が止まった。彼女は俯いたまま何かを考えているような間があった。それから顔を上げた。その目が太郎をまっすぐに見た。言葉はなかった。だが、その目の中にあるものを太郎は正確に読んだ。怒りではなかった。失望でもなかった。もっと乾いた何か。言ってしまえば諦めに近いものだった。父親にもうここには何もないと判断したような、そういう目だった。
千津は立ち上がり、ショルダーバッグを肩にかけ直した。
「そうか」
それだけ言って、何も言わずに玄関を出た。ドアが静かに閉まった。閉まり方が静かすぎて、かえって太郎の胸に重くのしかかった。叩きつけるように閉められた方が、まだ楽だったかもしれない。
部屋の中にまた静寂が戻ってきた。太郎は座ったまま、湯呑みのお茶が覚めていくのをぼんやりと眺めた。正しいことをした。そう自分に言い聞かせた。あの金に手をつけたら終わりだ。頭ではそう整理できた。だが、千津の最後の目がずっと頭から離れなかった。
夜になった。太郎はいつも通り9時前には床に着こうとしていた。歯を磨いて、仏壇の前で手を合わせて、電気を消した。布団に入って目を閉じた。だが眠れなかった。千津の顔が浮かんだ。顎のこけた横顔。あの目。
布団の中で寝返りを打つ。眠れないまま1時間が過ぎた。その時、枕元に置いた携帯電話が振動した。画面が光った。太郎は老眼鏡なしでは細かい字が読みにくい。手探りで眼鏡を取りかけてから画面を見た。表示されていたのは通知のようなものだった。青い枠の中に銀行のロゴらしきものがあった。
「お客様の口座において不正なアクセスが検知されました。本日中にご確認いただけない場合、口座は永久に凍結される場合がございます」
太郎の手が止まった。永久に凍結。その四文字が太郎の胸の中でゆっくりと広がっていった。口座が凍結されたら来月の家賃はどうなる? 薬代は? 食費は? もし本当に口座が使えなくなったら、千津に頭を下げるしかなくなる。今日あの目で自分を見た千津に。
太郎はもう一度文を読んだ。銀行のロゴ、青い枠、丁寧な文面。おかしなところはどこにも見当たらなかった。太郎はニュースで振り込め詐欺というものがあると知っていた。だが、あれは貪欲な人間を騙すものだと思っていた。宝くじが当たったとか、投資で大儲けできるとか、そういう甘い話に乗った人間が騙される。自分は欲がない。守ろうとしているだけだ。
時計を見た。夜の10時を過ぎていた。本日中にご確認いただけない場合。今夜、今夜中に確認しなければならない。太郎の指が通知の中のリンクに触れた。画面が切り替わった。見慣れた青い配色だった。銀行のロゴ、ログイン画面の入力欄。太郎が長年使っているインターネットバンキングの画面とどこも違わなかった。太郎は老眼鏡を指で押し直し、もう一度ゆっくりと画面全体を眺めた。ロゴの位置、フォントの形、入力欄の配置。おかしなところは何もなかった。
太郎は少しの間、その画面を見つめたまま動かなかった。指先が空中に浮いたまま、待っていた。口座凍結。その言葉がまだ頭の中に残っていた。太郎は布団の上に座ったまま頭の中でゆっくりと計算を始めた。来月の家賃は6万2000円。薬代が毎月8000円ほど。胃の薬と膝の関節に効くという湿布が3万円前後。光熱費が1万円弱。合計すれば1ヶ月に10万円近い金が必要になる。年金だけでは足りない。だから口座の金を毎月少しずつ切り崩している。その口座が凍結されたら、来月の家賃が払えない。払えなければどうなる? 大家に頭を下げて待ってもらうか。それとも千津に連絡するか。だが千津は今日、あの目で自分を見て帰って行った。今更あの娘に電話して、口座が凍結されたから金を貸してくれとは言えない。言えるはずがなかった。
太郎は画面に視線を戻した。通知の文面をもう一度読み返した。永久に。その二字が画面の中で太郎の目に焼きついていた。太郎は指をログインIDの入力欄に向けた。7桁の数字を打ち込んだ。長年使い慣れた番号だったので、迷わず入力できた。次にパスワードの欄に触れた。6桁の数字。これも体が覚えていた。考えるより先に指が動いた。
送信ボタンを押した。画面がしばらく読み込みの表示になった。ぐるぐると回る小さなアイコンを太郎はじっと見つめていた。それから新しい画面に切り替わった。
「本人確認のため、ただいまご登録の携帯電話番号にワンタイムパスワードをお送りしました。パスワードをご入力ください」
太郎は画面から目を離してSMSの受信欄を確認した。確かに銀行の名前から番号が届いていた。見慣れた名前だった。太郎は少しの間それを見つめていた。何かを確かめるような目つきだった。だが、何を確かめればいいのか、太郎自身にもよくは分かっていなかった。その番号を入力欄に打ち込んだ。一文字ずつ丁寧に確認しながら入力した。確認ボタンを押した。
その瞬間、携帯電話が震えた。着信だった。画面を見ると、そこには銀行のカスタマーセンターの番号が表示されていた。太郎が手帳の裏に書き留めている番号と同じだった。太郎は思わず画面と手帳を見比べた。数字は一致していた。少し迷ってから、太郎は電話に出た。
「もしもし」
男の声が聞こえてきた。落ち着いた低い声だった。急いでいるような響きはどこにもなかった。
「夜分に突然のご連絡となり、大変失礼いたしました。私、セキュリティ管理部の宮と申します。山田太郎様のお電話でよろしいでしょうか?」
太郎は「そうです」と答えた。男はゆっくりとした口調で続けた。
「先ほどお客様の口座に対して第三者による不正なアクセスが試みられていることを当行のシステムが検知いたしました。現在、不正アクセスを行っている者がお客様の口座から全額引き出しを試みている可能性がございます」
全額引き出し。その言葉が太郎の喉の奥に重く突き刺さった。500万円。40年かけて積み上げた500万円が、今この瞬間誰かに抜き取られようとしている。妻が入院していた頃、それでも少しずつ貯めた金。千津が苦しい思いをしているのを知りながら、自分の老後のためだと言い聞かせて守ってきた金。太郎の手が無意識に携帯を強く握りしめた。指の関節が白くなっていた。
男の声は穏やかなままだった。丁寧で、どこか安心感のある声だった。
「現在、当行のセキュリティシステムが緊急の防御措置を発動しております。ただ、その措置を完了させるためにはお客様ご本人による最終確認が必要となります。お手数をおかけして誠に申し訳ございませんが、ご協力いただけますでしょうか?」
「何をすればいいんですか?」
太郎は聞いた。声がかすれていた。男は答えた。
「まず、先ほどお送りしたワンタイムパスワードの番号を今一度ご確認いただけますでしょうか?」
太郎はSMSの画面に戻り、番号を読み上げた。一つ一つ数字を口にした。電話の向こうで男が何かを打ち込んでいるような微かな音が聞こえた。
「はい、確認いたしました。続きまして、現在のキャッシュカードの暗証番号を確認させていただきます。これはお客様の本人確認のために必要な手続きとなっております」
太郎の動きが、そこでほんの一瞬止まった。暗証番号。以前、テレビのニュースで見たことがあった。銀行員が暗証番号を電話で聞くことはないというアナウンサーの言葉を。だが、その時頭に浮かんだのは、あの番組を見ていた情景だった。妻がまだ元気だった頃、隣で洗濯物を畳んでいた姿だった。言葉の内容そのものはもうはっきりとは思い出せなかった。
男の声が静かに続いた。
「もちろんご不安に思われるお気持ちはよく理解できます。通常であればこのような形でお聞きすることはございません。ただ、今回は緊急事態でございまして、通常の手続きでは間に合わない状況です。現在も不正アクセスが継続しておりますので、一秒でも早くご確認をいただく必要がございます」
緊急事態。一秒でも早く。太郎の頭の中で何かが急速に狭まっていった。思考がうまくまとまらなかった。眠れなかった一時間の後で、千津のことを考えながら寝返りを打っていた後で、突然の通知と電話が立て続けに来た。体の中に疲れが溜まっていた。そしてその疲れが、本来なら働くはずだった何かを少しずつ緩ませていた。500万円が今夜消えるか消えないか。それだけが太郎の頭の中に残っていた。他のことは何も考えられなかった。
太郎はゆっくりと口を開いた。
「4802」
声が震えていた。だが止まらなかった。一度言い始めた数字は最後まで言い切らなければならない。そんな感覚があった。
男の声が微かにトーンを落とした。
「ありがとうございます。確認いたしました。続きまして、お手元の通帳の欄に記載されている4桁の番号をご確認いただけますか?」
太郎は立ち上がった。引き出しの奥から通帳を取り出した。老眼鏡を外し、通帳を近づけてまた眼鏡をかけ直した。数字が見えた。それも読み上げた。一つずつ、間違えないように。
「はい、確認できました。現在、セキュリティシステムが防御処理を完了しつつあります。つきましては、もう30分ほどシステムの安定を待っていただいた後、明朝ご確認いただければ口座は通常通りご利用いただけます。本日は夜遅くにも関わらずご対応をいただき、誠にありがとうございました。どうぞご安心の上おやすみください」
電話が切れた。太郎は携帯を下ろした。しばらくその場に立ったままだった。部屋はまだ静かだった。仏壇の線香の残りが微かに香っていた。太郎はゆっくりと息を吐いた。長い息だった。体の奥に溜まっていた緊張が、その息と一緒に少しだけ抜けていくような感覚があった。終わった。銀行のシステムが守ってくれた。口座は明日の朝には通常通り使えると言っていた。
太郎は通帳を引き出しに戻した。戻す手はさっきよりも落ち着いていた。それから布団に戻った。今度は眠れた。深くはなかったが、千津の顔も数字のことももう頭に浮かばなかった。
翌朝7時過ぎだった。太郎はいつも通りに起き上がった。体は重かったが、習慣はそれを上回った。仏壇に線香を上げた。煙が細く立ちのぼるのを半分眠ったような目で眺めた。それから顔を洗った。昨日の残りの米を温めて食べた。何もかもがいつも通りの朝だった。ただ、朝食を終えてから確認しておかなければならないことがあった。口座が本当に安全かどうか。昨夜の宮という男が、明朝になれば通常通り使えると言っていた。それを確かめなければならない。
太郎は薄いジャンパーを羽織った。近所のコンビニエンスストアには銀行のATMが置いてある。歩いて5分ほどの距離だった。朝の空気は少し冷たくて、路面は昨夜降ったのかうっすらと濡れていた。歩きながら太郎は頭の中で確認の手順を組み立てていた。ATMにカードを差し込む。暗証番号を押す。残高照会のボタンを選ぶ。それだけのことだった。何度もやってきた、ごく普通の動作だった。
コンビニの自動ドアをくぐった。ATMコーナーは入口を入ってすぐ右手にあった。他に客はいなかった。太郎はキャッシュカードを機械に差し込んだ。暗証番号を押した。残高照会のボタンを選んだ。機械が少し間を置いた。その短い間が、太郎には長く感じられた。画面に数字が表示された。太郎は老眼鏡をかけたままその数字を読んだ。
ゼロ。残高が0だった。太郎はもう一度数字を確認した。画面の中央にはっきりと表示されていた。0円。頭の中が白くなった。機械が間違えている。そうに違いない。太郎はカードを抜いて、もう一度差し込んだ。手が少し震えていた。もう一度残高照会を選んだ。もう一度暗証番号を押した。画面が切り替わり、同じ数字が出てきた。0円。500万円がない。
太郎の手からキャッシュカードが落ちた。足元のタイルの上に落ちた。太郎はしばらくそれを拾えなかった。立ち尽くしたまま画面を見つめ続けていた。コンビニの店員が声をかけてきた。
「お客様、大丈夫ですか?」
若い女の子の声だった。太郎は答えなかった。答えようとしたが、声が出なかった。
40年間。その言葉だけが頭の中をゆっくりと流れた。重い冬の収集を担いで歩いた40年間。手袋をしていても指の感覚がなくなるような寒さの中で走った40年間。妻が入院した時も、残業代を貯めながら休まずに仕事に出た40年間。千津が高校を卒業した時、大学には行かせてやれなかった。あの時千津は何も言わずに就職した。文句一つ言わなかった。その代わりに、老後の自分の始末だけは自分でつけると決めて、少しずつ積み上げてきた40年間。その全部が、昨夜の一時間で消えた。
太郎は震える手で足元のカードを拾い上げた。指先がうまく動かず、二度ほど取り落としそうになった。それでもようやく拾い上げると、カードを握りしめたまま立ち上がった。外に出た。どうすればいいのか分からなかった。銀行に行くべきか、警察に行くべきか、それとも千津に電話するべきか。だが千津に電話したら何と言えばいい。昨日金は貸せないと言って返した娘に、今日自分が500万円を騙し取られたとどうやって言えばいい。
太郎は少し先にあるブロック塀の前で足を止めた。壁に手をついた。手のひらに冷たいコンクリートの感触があった。その冷たさだけが、はっきりと現実のものとして感じられた。世界は何事もないように動いていた。ただ、太郎の手の中にある通帳の中身だけが、昨夜と今朝の間に音もなく消えていた。
銀行の窓口は午前9時に開く。太郎がブロック塀から手を離して歩き始めた時、時計はまだ8時10分だった。行くところが決まると足が動いた。ゆっくりとした足取りだったが、止まらなかった。何かをしなければならない。その一点だけが太郎を前に進ませていた。
銀行の前に着いた時、シャッターはまだ半分しか上がっていなかった。9時になるとドアが開いた。窓口の公員が近づいてきた。30代くらいの男だった。
「おはようございます。何かご要件でしょうか」
太郎はゆっくりと言った。
「口座のことで確認したいことがある」
案内されたブースの中で、太郎は迎えに座った女性に通帳とキャッシュカードを渡した。手がわずかに震えていた。女性は画面を見ながらいくつか確認事項を聞いてきた。名前、生年月日、登録の電話番号。太郎は一つずつゆっくりと答えた。それから彼女は画面を見たまま少しの間黙った。何かを確認しているような動きだった。その沈黙が太郎には長く感じられた。
女性公員は顔を上げた。眼鏡の奥の目が、どこか困ったような表情をしていた。その表情を見た瞬間、太郎の胸の奥がすくんだ。
「昨夜の日付で複数の振り込みが行われています。合計で500万円。複数の口座に分けて送金されています」
太郎はその言葉を聞きながら、頭の中でもう一度昨夜のことを順番に並べた。通知が届いた。リンクを押した。ログインした。電話がかかってきた。暗証番号を読み上げた。それだけだった。たったそれだけのことで500万円が消えた。その単純さが、かえって太郎の頭の中で受け入れ難いものになっていた。もっと複雑な何か、特別な仕掛けがあったはずだと頭のどこかが探していた。だが、探しても見つかるのは、ただ電話に出て数字を読み上げたという事実だけだった。
「現時点では、送金先の口座はすでに解約されているか、別の口座に転送されている可能性が高い状態です。当行でできることは被害届の受理と、警察への情報提供の協力になります。資金の回収については、正直なところ非常に難しいとお伝えしなければなりません」
太郎は聞いた。
「回収できないということか」
女性公員はすぐには答えなかった。少し間を置いてから言った。
「現状では可能性は低いです」
太郎はしばらく座ったまま動かなかった。被害届の用紙を受け取り、窓口を出た。警察署は銀行から歩いて8分ほどの場所にあった。太郎は受付で名前を告げた。声がうまく出なかったので、もう一度言い直した。
警察官は30代の男で、メモ帳を持っていた。太郎はゆっくりと話した。昨夜の10時頃携帯に通知が来たこと、銀行の画面に見えたこと、ログインしたこと、電話がかかってきたこと、暗証番号を教えたこと。一つ一つできるだけ正確に思い出しながら話した。警察官はメモを取りながら聞いていた。表情は変わらなかった。その淡々とした態度が太郎には少し意外だった。もっと驚かれるか、あるいは呆れられるかと思っていた。だが、警察官の態度は、こうした話を何度も聞いてきたことを示していた。
一通り話を終えると、警察官は言った。
「フィッシング詐欺ですね。最近増えています」
太郎は聞いた。
「犯人は捕まるか」
警察官は顔を上げた。その目が一瞬、何かを測るような動きをした。
「捜査は進めます。ただ、この種の犯罪は犯罪グループが海外に拠点を置いていることが多く、使われた口座も転売されたものを使用しています。特定に時間がかかるケースが多いです」
太郎は続けた。
「金は戻ってくるか」
警察官はすぐには答えなかった。メモ帳に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「戻ってこないということか」
警察官はメモ帳に目を落としたまま、率直に申し上げると、被害額が全額回収されたケースはこの種の詐欺では非常に少ないです、と言った。太郎は立ち上がった。膝が一瞬ぐらついた。手近にあった椅子の背もたれを無意識に掴んでいた。
「ありがとう」
頭を下げて、警察署を出た。
太郎は少し歩いてから、公園のそばのベンチを見つけて座った。公園には誰もいなかった。手の中にある通帳を眺めた。表紙が薄く黄ばんでいて、角が丸くなっていた。長く使った通帳だった。中を開くと、数字の並んだページが続いていた。少しずつ増えていく残高の記録が何ページにも渡って続いていた。最後のページだけが別の数字になっていた。太郎はそのページをしばらくじっと見つめていた。
通帳を閉じた。これから先どうするか。千津に知らせなければならない。それだけは分かっていた。だが、電話をする気力がまだ出てこなかった。昨夜あの目で見て帰った娘に今朝この話をする。頭では分かっていても、指がなかなか動かなかった。
携帯を取り出した。千津の番号を探した。指が画面の上をしばらく彷徨った。発信ボタンに触れるまで、何度かためらった。そして押した。
呼び出し音が3度なった後、千津の声が聞こえた。仕事中なのか、少し低く抑えた声だった。
「はい」
太郎は言った。
「ちょっと話があって」
「何」
太郎は少し間を置いた。それから言った。
「昨夜、口座から金が全部なくなった」
電話の向こうで息を飲む音がした。
「全部って…」
「500万円。全部だ」
また間があった。今度は少し長い間だった。千津の声のトーンが変わっていた。低く、硬い声になっていた。
「どういうこと?」
太郎は話した。昨夜銀行からの通知が来て、確認のためにログインして、電話がかかってきて、暗証番号を教えた。今朝ATMで確認したら0になっていた。銀行にも警察にも言った。どちらも取り戻せる可能性は低いと言っていた。話しながら、太郎は自分の声が次第に小さくなっていくのを感じていた。
千津は黙っていた。太郎が「もしもし」と言うと、千津の声が帰ってきた。
「分かった。今日の仕事が終わったら行く」
電話が切れた。太郎は携帯を下ろした。しばらくベンチに座ったまま動かなかった。千津の声がどこか変だった。怒っているわけでも泣いているわけでもなかった。ただ感情が見えなかった。感情を封じているような、そういう静けさだった。それが、怒鳴られるよりも太郎には重く感じられた。
夕方、千津が来た。仕事上がりのままスーパーの制服だった。部屋に入ってきた千津は、荷物を玄関に置いてまっすぐに奥に入ってきた。座りもせずに立ったまま太郎を見た。太郎は座布団に座っていた。テーブルの上には湯呑みが2つあった。千津に出そうと思って用意していたが、千津は見向きもしなかった。
「もう一度話して。最初から全部」
太郎は話した。昨夜の10時頃から今朝の警察を出るまで、順番にできるだけ正確に話した。途中で言葉に詰まる箇所もあった。宮という男の声を思い出そうとすると、なぜか喉が締めつけられるような感覚があった。千津は聞きながら一度も口を挟まなかった。太郎が話し終えると、千津はゆっくりと息を吐いた。長い息だった。
それから彼女は言った。
「お父さん、銀行は電話で暗証番号を聞かない。それは絶対にしない。テレビでもずっと言ってる」
太郎は何も言えなかった。千津は続けた。声は大きくはなかった。だが、その抑制した低さが言葉の一つ一つを鋭くしていた。
「ニュースでも言ってた。銀行員を名乗っても暗証番号は教えるな。それを知っていたのに、なぜ教えた?」
太郎は言った。
「知っていたが、その時頭になかった」
千津は少し黙った。
「なぜ知っていて頭になかったのか」
その言葉は責めているというよりも、本当に理解できないという響きを持っていた。だがそれが太郎には一番堪えた。責められるならまだ言い返せる。理解できないと言われると、何も言えない。
太郎は答えなかった。千津は立ったまま少しの間部屋を見回した。それから言った。
「昨日、私が50万円貸して欲しいと頼んだ時、お父さんは断った。その金は動かせないと言った」
太郎は黙っていた。千津は続けた。
「私には貸せないと言った500万円を、電話の向こうの知らない男には一晩で全部渡した」
言葉が終わった後、部屋の中に静寂が落ちた。太郎は何も言わなかった。言えなかった。千津の言葉は正確だった。反論できなかった。できる言葉を、太郎は一つも持っていなかった。
千津はゆっくりとバッグを取り上げた。肩にかける動作がいつもより乱暴だった。
「今夜は帰る。子供たちが待ってるから」
太郎は顔を上げた。千津の顔が玄関の薄暗い明かりの中に見えた。怒ってはいなかった。涙もなかった。ただどこか遠くを見ているような目をしていた。
「また連絡する」
千津はドアを開けた。ドアが閉まった。足音が廊下を遠ざかっていき、それから何も聞こえなくなった。太郎は一人になった。湯呑みが2つ、テーブルの上に残っていた。千津の分はまだ温かかった。湯気が細く立ちのぼっているのを、太郎はぼんやりと見ていた。湯気がなくなっても、太郎は動かなかった。やがて座ったまま目を閉じた。時計の音だけが部屋の中で規則正しく鳴り続けていた。
次の朝も太郎は6時に目が覚めた。体は習慣を覚えている。もう少し長く眠っていられれば、目が覚めてすぐに昨日のことを思い出さずに済む。だが体はそれを許さなかった。布団の中でしばらく天井を見つめていた。起き上がると、仏壇の前に座った。線香を取り出そうとして、手が止まった。いつもと同じ動作のはずなのに、今朝はなぜか手が動かなかった。線香を一本持ったまま、太郎はしばらくそのままでいた。妻の写真を見た。色褪せた写真の中で、妻は少し首を傾げて笑っていた。
線香に火をつけた。マッチを擦る手がわずかに震えていた。手を合わせたが、何も言葉が出てこなかった。いつもなら「今日も一日よろしく頼む」と心の中で言う。今朝はその言葉が出てこなかった。代わりに、ただ手を合わせたまま座っていた。
朝食は食べなかった。米を炊く気が起きなかった。湯を沸かして、お茶だけ飲んだ。窓の外を見ると、今日も白く曇っていた。光のない朝だった。
太郎は手元の小さなノートを開いた。毎月の収支を記録しているノートだった。今月の年金振り込み額は8万6000円。家賃が6万2000円。残りが2万4000円。そこから食費と薬と光熱費を出すと、毎月数千円しか残らない。今まではそれでも口座の500万円があるから大丈夫だった。今月は少し赤字になっても来月取り戻せばいい。そういう余裕があった。その余裕が昨夜の時点でなくなった。
太郎はノートを閉じた。年金だけで生活するなら、まず家賃を下げなければならない。今の6万2000円は払えない。だが、今の物件より安い部屋に移るには引っ越し代がかかる。その費用もない。食費をさらに切り詰めるとしても限界がある。今でも一日1000円以下で食べている。薬は削れない。削ったら体が動かなくなる。どこを削っても数字が合わない。
その日は一日中何もする気が起きなかった。午後になっても同じ場所に座ったままだった。テレビをつける気力もなかった。ただテーブルの前に座って、時々ノートを開いては閉じることを繰り返していた。
三日後、千津から電話がかかってきた。夕方の6時過ぎだった。
「少し話したい。今時間ある?」
「ああ」
千津は少しの間、何かを整理するような間を置いた。それから言った。
「お父さん、今後の生活のこと、少し聞いてもいいか?」
「聞いてくれ」
「今の家賃は払えるか?」
「払えない。年金だけでは無理だ」
千津は「そうか」と言った。短い返答だった。だが、その短さの中に何かを飲み込むような響きがあった。それから彼女は言った。
「少し考えたんだけど、お父さんが今の部屋を出て、もっと安い部屋に引っ越すのが現実的かもしれない。市営住宅の申し込みをすれば、収入が低い場合は優先されることがある。手続きは私が手伝える。あと、生活保護の相談もできる。収入と資産がこの状態なら申請の資格があると思う。一人で窓口に行くのは大変だから、一緒に行ける日を作る」
千津の言葉は順番に並んでいた。感情のない言葉ではなかったが、感情を前に出してもいなかった。やるべきことを、やるべき順番で言っていた。それは事前に調べてきたことをそのまま伝えているような口調だった。
太郎は聞いた。
「お前に迷惑をかけることになる」
千津は少し間を置いた。
「もう、そういう話をしている場合じゃない。お父さんが生活できないなら動かないといけない。それだけのことだ」
太郎は何か言おうとした。だが声が出なかった。千津は言った。
「来週の土曜日、午前中に行ける。その日に市役所と社会福祉事務所の場所を調べておく」
「分かった」
電話が切れた後、太郎はしばらく携帯を持ったまま座っていた。長い時間をかけて避けようとしていたことが、現実になったという感覚だった。千津に頼らずに死ぬ。施設の費用も葬式代も自分で賄って、誰にも負担をかけずに終わる。それが太郎の計画だった。その計画が、昨夜の一本の電話で跡形もなく消えた。
来週の土曜日が来た。千津は約束通り午前9時半に来た。仕事の日ではないのか、私服だった。淡い色のパーカーに黒いズボン。手に小さなトートバッグを持っていた。太郎は玄関に出た。千津は入ってこなかった。
「すぐ行こう。時間が限られてるから」
二人で並んで歩いた。千津の歩幅に合わせると、太郎にはやや早かった。千津はそれに気づいて、少しだけ歩幅を緩めた。何も言わずに緩めた。その小さな変化に、太郎は少しだけ救われたような気がした。だが口には出さなかった。
市役所の福祉課の窓口は1階の奥にあった。番号札を取って待合の椅子に座った。受付で千津が状況を説明し始めた。太郎は隣で聞いていた。千津が話す内容は正確だった。年金の金額、家賃、口座の残高、詐欺被害の経緯。感情を入れずに、数字と事実だけを話した。職員は一通り聞いた後、言った。
「現在の収入と資産の状況であれば、生活保護の申請要件を満たしている可能性が高いです。ただ、正式な審査には数週間かかります。また、お住まいの市営住宅への申し込みも随時受け付けています」
それから職員は少し声の調子を変えた。
「一点確認させてください。詐欺被害については、警察に被害届は出されましたか?」
「出した」
太郎は答えた。職員は頷いた。
「その被害届の受理番号があれば、審査の際に状況の説明として添付できます。お手元にありますか?」
太郎は持ってきた書類の束の中から、警察署でもらった書類を探した。指先がうまく動かず、書類を何度も取り落としそうになった。千津が横から手を伸ばして、書類を一枚ずつ確認した。受理番号が書かれた紙を見つけ、職員に差し出した。太郎は隣でその様子を見ていた。千津の横顔を見た。集中している時の、眉が少し寄った表情だった。小さい頃から変わらない顔だと思った。高校生の頃、試験前に教科書を広げている時も、こういう顔をしていた。その記憶が不意に鮮やかに蘇った。
窓口での手続きが一段落した時、千津は職員に聞いた。
「父が今の家賃を払えなくなるのが来月末になります。それまでに何か手を打てることはありますか?」
職員は少し考えてから言った。
「生活保護の申請が通れば、住宅扶助として家賃の一部が支給されます。ただ、審査期間中は支給が始まりません。緊急の場合は、社会福祉協議会の緊急小口資金という制度もあります。ご状況によっては申請できる可能性があります」
千津はメモ帳を取り出して、それを書き留めた。太郎は千津のメモを横から見た。綺麗な字ではなかった。急いで書いているので字が崩れていた。だが、必要なことは全部書いてあった。
市役所を出ると、外はいつの間にか晴れていた。二人は少し歩いた。コンビニの前で千津は立ち止まった。
「少し休もう」
中に入って千津はホットのお茶を2つ買った。一つを太郎に差し出した。太郎は受け取った。手のひらにすぐに温かさが伝わってきた。二人は外のベンチに座った。しばらく二人とも何も言わなかった。
千津が言った。
「お父さん、一個だけ聞いていいか?」
太郎は顔を向けた。千津は前を向いたまま。
「あの夜、私が帰った後、一人で怖くなかったか?」
太郎は少し間を置いた。路面をしばらく見つめていた。
「怖くはなかった。寂しくなかった」
千津は「そうか」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。太郎も何も言わなかった。ベンチの上に二人が並んで座っていた。カップから湯気が立っていた。
千津が言った。
「次、社会福祉協議会に行こう。場所は調べてある」
立ち上がると、千津はカップをゴミ箱に捨てた。太郎はまだお茶が残っていたが、同じようにゴミ箱に捨てた。二人は並んで歩き始めた。今度は千津が最初から太郎の歩幅に合わせていた。ゆっくりとした歩幅で隣を歩いた。太郎はその横顔を一度だけちらりと見た。千津は前を見て歩いていた。表情は読めなかった。ただ、隣にいた。歩幅を合わせて隣にいた。
途中の信号待ちで立ち止まった時、千津がふと口を開いた。
「賢介が最近バイトを始めた」
太郎は聞いた。
「何のバイトだ?」
「コンビニ」
太郎は「そうか」とだけ言った。それ以上の会話は続かなかった。だが、信号が青に変わって歩き出す時、太郎の中にほんのわずかだが何かが緩むような感覚があった。詐欺の話でも金の話でもない。ただの孫の話。それだけのことが、今の太郎には少しだけ救いだった。
生活保護の審査結果が届いたのは申請から3週間後のことだった。封筒は普通郵便で来た。太郎は玄関の郵便受けを開けた時、それが何の封筒かすぐには分かった。部屋に戻り、テーブルの上に置いた。すぐに開けなかった。しばらくその場に立ったまま封筒を見下ろしていた。お茶を一杯入れてから、椅子に座って封筒を手に取った。糊付けされた口を指で丁寧に開けた。中から折りたたまれた紙が出てきた。広げると縦書きの文章が並んでいた。難しい言葉が多かった。読み進めると、中ほどに申請を承認するという趣旨の言葉があった。太郎はその下りをもう一度読んだ。
承認。それが何を意味するか、頭では分かっていた。生活費の一部が毎月支給される。家賃の補助も出る。これで当面は繋げる。だが、その言葉を読んだ時、安堵よりも先に来たのは別の感覚だった。長い間、自分の金で自分の始末をつけると決めていた。誰にも頼らず、国にも娘にも手を出さず、静かに終わると決めていた。その決意が、今この一枚の紙の上で公式に終わった。
太郎は紙を折りたたんで封筒に戻した。封筒をテーブルの隅に置いて、お茶を飲んだ。冷めていた。それでも縁に含んで、飲み下した。
その日の夕方、千津に電話した。
「証書が来た」
「良かった」
声は短かったが、ほっとしていることが伝わった。事務的な確認が一通り終わると、二人ともしばらく黙った。
二ヶ月が過ぎた。生活保護の支給が始まり、家賃は住宅扶助から出るようになった。食費は生活扶助の範囲で何とかなった。薬の一部も免除された。数字の上では生活が成り立つようになった。だが、数字が整ったことと暮らしが戻ったことは別のことだった。
朝は相変わらず6時に目が覚めた。仏壇に線香を上げた。お茶を飲んだ。近所のスーパーに行った。半額シールの食材を探した。レシートを財布に入れた。夕方のニュースを見た。9時になったら電気を消した。それだけの日々だった。以前と変わらない日々だった。だが、何かが違った。
以前はこの切り詰めた暮らしの底に、500万円という数字があった。使わなかったが、そこにあった。節約した分だけあの金が守られる。そういう感覚があった。今はその底がない。生活は成り立っている。だが、何のために成り立っているのか、太郎には分からなかった。
千津は月に一度、顔を出すようになった。必ず来るわけではなかった。仕事の都合で来られない月もあった。だが来る時は大抵夕方に来て、一時間ほど話して帰った。買い物の途中に立ち寄ることもあった。夕食の残り物を持ってくることもあった。太郎はそれを黙って受け取った。
「ありがとう」
千津は「うん」とだけ言った。二人の間には詐欺の話は出なかった。あの500万円の話も、千津に貸せなかった話も、もう二人の間では出てこなかった。出さないことにしているような気配があった。その代わりに他愛のない話をした。千津の上の子がアルバイトを始めたという話。近所のスーパーの食材が最近値上がりしたという話。そういう話をしながら時間が過ぎた。会話の合間に長い沈黙が挟まることもあった。だが、その沈黙は以前のような張り詰めたものではなくなっていた。それはそれで、太郎には悪くないものに感じられた。
ある土曜日の午後だった。千津が来て、二人でテレビのニュースを見ていた。詐欺被害のニュースだった。高齢者を狙ったフィッシング詐欺が増えているという内容で、アナウンサーが注意を呼びかけていた。太郎はそのニュースを黙って見ていた。千津も黙って見ていた。画面には銀行の名前を語った偽の通知の例が映し出されていた。太郎が見たものと似たような文面だった。
ニュースが終わって別のコーナーに変わると、千津は手元のお茶を一口飲んだ。それからぽつりと言った。
「あの時、もっと早く帰ってくればよかった」
太郎は千津の横顔を見た。千津は続けた。
「詐欺の話じゃなくて、その前の話。お父さんに50万円断られた夜。私、そのまま帰ったけど、なんかそのまま帰るべきじゃなかったと思ってる。もう少し話せばよかったとか、ちゃんと事情を説明すればよかったとか、今でもそう思うことがある」
太郎は黙っていた。千津は続けた。
「でも、その時はもう話しても無駄だと思って帰ったんだよ。疲れてたし、腹も立ってたし」
太郎はゆっくりと言った。
「お前が悪いわけじゃない」
千津は答えなかった。太郎は続けた。
「俺が断ったのは、お前を信用していなかったからじゃない。そこだけ分かっていてくれればいい」
千津はしばらく黙っていた。テレビの音だけが続いていた。それから千津は言った。
「分かってる」
短い言葉だった。だが、その短さの中に色々なものが入っているような気がした。太郎にはそれ以上聞けなかったし、千津もそれ以上言わなかった。二人はしばらく画面に映る天気図をぼんやりと見ていた。意味のある会話ではなかったが、その沈黙が以前のような重さを持たなくなっていることに、太郎は微かに気づいていた。
千津が帰り際、玄関で靴を履きながら言った。
「来月、賢介が帰省するって言ってた。会いたければ連れてくる」
太郎は「会いたい」と言った。声にいつもより少しだけ力が入っていた。
「じゃあ連絡する」
千津は出ていった。ドアが閉まった後、太郎は玄関に立ったまま少しの間、佇んでいた。来月、孫が来る。それだけのことだった。だが、その「それだけのこと」が、今の太郎にはずっしりとした重さを持っていた。
冬が来た。太郎の一日は変わらなかった。大きな出来事は何もなかった。あの夜の宮という男は今もどこかにいる。太郎の500万円を持ったまま、どこかで生きている。それは変わらない事実だった。だが、その事実も今の太郎には以前ほどの鋭さを持たなかった。怒りが消えたわけではなかった。ただ、怒りを持ち続けるための体力が、もう太郎には残っていなかった。
ある朝、起き上がった時、窓から薄い日差しが差し込んでいた。珍しく晴れた朝だった。太郎はいつも通り仏壇の前に座った。線香を一本立てた。煙が上がった。手を合わせた。
「今日も一日、よろしく頼む」
その言葉が久しぶりに自然に出てきた。太郎は少しの間、目を閉じたまま座っていた。窓から差し込む光が畳の上に細長い影を作っていた。
台所に行き、湯を沸かした。お茶が入ると湯呑みに注いだ。テーブルに持っていって座って、両手で持って一口飲んだ。温かかった。それだけだった。どこにも特別なことはなかった。81歳の老人が朝に一人でお茶を飲んでいた。それだけのことだった。だが太郎はその温かさを、少しの間だけ手のひらで感じていた。
今日の昼頃、千津から短いメッセージが届くかもしれない。来月の賢介の帰省の日程かもしれないし、ただの用事の連絡かもしれない。来るかどうかも分からない。分からないまま、今日一日が始まる。今日の夕方のニュースでまた誰かの詐欺被害が報じられるかもしれない。それを止める手段を太郎は持っていない。ただ、自分の今日を生きるしかなかった。
太郎は湯呑みをテーブルに置いた。窓の外を見た。空はまだ晴れていた。建物の向こうに遠く低い山の稜線が見えた。いつもそこにある稜線で、今まで気にしたことがなかった。今日は見えた。太郎はしばらくその稜線を見つめていた。特に意味のある眺めではなかった。ただ、空気が澄んでいる朝だけ、遠くの山がはっきり見える。それだけのことだった。だが太郎はその当たり前のことが、なぜか少しだけ目にとまった。
太郎は湯呑みをもう一度手に取った。中身はもう半分ほどになっていた。残りをゆっくりと飲み干した。立ち上がり、湯呑みを台所の流しに運んだ。水で軽く濯いで、布巾で拭いてから、いつもの場所に戻した。それから窓際に立った。外では自転車に乗った郵便配達員が向かいの通りを走っていくのが見えた。太郎はその様子をしばらく眺めていた。
太郎の物語は劇的な結末を持たない。失った金は戻らず、壊れかけた関係は完全には修復されず、老いはこれからも続いていく。それがこの話の現実だ。だがその現実の中で、今朝の太郎は湯呑みを両手で持って、お茶の温かさを感じていた。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのことが、今の彼にとって一日の始まりだった。



